第八章 ノクターン書房地下書庫
ノクターン書房の前に、市警の規制テープが張られた。
黒い木枠の扉。
金文字の店名。
**Nocturne Books**
その上から、黄色いテープが斜めに走っている。
古書店と規制テープは、ひどく似合わなかった。
真昼は、少し離れた場所からそれを見ていた。
雨は止んでいる。
だが、店の周りだけ、まだ湿っていた。路地の石畳は黒く濡れ、排水溝には細い水が残り、店先の臨時休業の札だけが相変わらず乾いている。
その札も、今は証拠として撮影済みだった。
**臨時休業**
日付も理由もない白い紙。
その紙を見ていると、誰かが店を休んでいるのではなく、店そのものが名前から逃げるために閉じているように見えた。
霧生仁が、扉の前で令状を確認していた。
「アガルタ市警察局、刑事部特異殺人対策室。黒封筒による名前返却事件、および黒傘未遂事件に関連する現場として、ノクターン書房を捜索する」
わざわざ声に出したのは、誰かに聞かせるためかもしれない。
店の中にいるかもしれない誰か。
あるいは、店そのものに。
透子が横で頷く。
「記録します。捜索開始時刻、十六時四十二分。立会人、霧生主任、黒江透子、御堂圭吾、綾瀬直央。外部協力者、御影レイ、白瀬真昼。境界観測局記録保全部立会人、藍沢環」
藍沢環は、薄いグレーの防護コートを着ていた。
いつもの灰白色のスーツの上に、観測局支給の現場用コート。首元には職員証。手には携帯型記録端末。
彼女は、店の扉を見ている。
表情はほとんど変わらない。
だが、真昼には分かった。
緊張している。
ノクターン書房は、市警の現場であり、観測局の危険記録でもある。
ここで何かを壊せば、名前が壊れる。
ここで何も触れなければ、名前が逃げる。
その両方を理解している顔だった。
路地の奥には、観測局の車両が一台停まっていた。
観測応用部門の車だ。
まだ降りてこない。
だが、窓の向こうに人影がある。
久我瀬玲央が来ているのかどうかは分からない。
それでも、見られている気配があった。
霧生はそちらを一瞥し、吐き捨てるように言った。
「先に押さえた。ざまあみろ」
綾瀬が小声で言う。
「主任、記録に残るので」
「残せ」
「本当に残しますよ」
「いや、そこは消せ」
「どっちですか」
「報告書からは消せ。俺の気持ちには残せ」
御堂が端末を見ながら言う。
「記録形式上、主任の気持ちは添付欄がありません」
「作るなよ」
「作りません」
真昼は少しだけ笑いそうになった。
けれど、扉の奥から微かな音がして、笑いは消えた。
本が擦れる音。
ページが自分でめくれるような、かさり、という音。
レイが隣で顔を上げる。
「聞こえた?」
「はい」
「本棚」
「ですね」
「入る前から動いてる」
「やめてほしいです」
「同感」
霧生が鍵業者に合図した。
鍵は、簡単には開かなかった。
古い扉に見えるのに、錠だけはやけに新しく、しかも普通の鍵穴とは少し違う構造をしていた。鍵業者は二度ほど工具を入れ替え、三度目で顔をしかめた。
「これ、内側から何か引っかかってますね」
霧生が言う。
「誰かいるのか」
「いえ、人が押さえてる感じじゃなくて……紙が挟まってるみたいな」
「紙?」
鍵業者が慎重に工具を動かす。
扉の向こうで、薄い紙が裂けるような音がした。
真昼は、思わず身を固くした。
次の瞬間、鍵が開く。
カチリ。
小さな音だった。
だが、路地の空気が変わった。
藍沢が端末を確認する。
「境界反応、上昇。O-00関連タグ、微弱に反応しています」
霧生はドアノブに手をかけた。
「全員、勝手に動くな。白瀬、特にお前だ」
「はい」
「返事が素直すぎると不安だ」
「今日は本当に動きません」
「今の『今日は』が引っかかる」
「明日は分かりません」
「正直か」
レイが横から言う。
「僕が見張ります」
「頼む。御影も自分を見張れ」
「はい」
霧生が扉を開けた。
ノクターン書房の中から、古い紙の匂いが流れ出した。
*
店内は、閉まっているはずなのに生きていた。
灯りはついていない。
だが、暗闇ではない。
窓から入る曇った光が、本棚の背を淡く照らしている。壁際には天井まで届く棚が並び、中央には小さな丸テーブルがいくつか置かれていた。
カウンターの上には、誰もいない。
青年もいない。
コーヒーの香りもない。
それなのに、ついさっきまで誰かがそこに立っていた気配が濃く残っていた。
読みかけの本。
栞。
使いかけの万年筆。
磨かれたカップ。
カウンターの内側には、店番用の椅子がある。
椅子は少しだけ引かれていた。
真昼は、そこを見て胸が痛くなった。
あの青年が座っていた場所。
名前を聞かれると、笑って話を変えた人。
灯里が「名前を怖がっている」と書いた人。
篠宮凪かもしれない人。
そして、O-00と重なっているかもしれない人。
霧生が手を上げる。
「立ち位置を決める。綾瀬、入口。御堂、カメラと記録。黒江、中央。藍沢、境界反応。御影、白瀬の横。白瀬、御影の横から離れるな」
「私は御影くんの付属品ですか」
「今日だけ命綱だ」
「否定しにくい」
レイが小さく言う。
「僕も命綱にされると困るんですが」
「お互い命綱ということで」
「絡まると危ない」
「なら絡まないようにしましょう」
真昼は、意識して軽口を返した。
そうしないと、店の空気に飲まれそうだった。
棚の本が、微かに動いている。
風はない。
誰も触れていない。
それでも、背表紙がほんの数ミリずつずれ、戻り、またずれる。
本が呼吸しているようだった。
御堂がカメラを向ける。
「棚、動いています。映像に残るか確認」
画面を見た御堂の眉が動いた。
「……映像では動いていません」
霧生が言う。
「肉眼では動いてる」
「はい」
「またか」
藍沢が端末を見る。
「記録保持不全です。O-00関連現場では、映像媒体より肉眼証言の方が保持率が高い場合があります」
「普通は逆なんだがな」
「普通ではありませんので」
「嫌な納得だ」
透子が、棚の一冊に視線を止めた。
「人名が消えています」
全員がそこを見る。
背表紙。
タイトルは読める。
**雨の夜の航海記**
著者名の部分だけが白く抜けていた。
まるで最初から何も印刷されていなかったように。
しかし、よく見ると、そこだけ紙が薄く削られている。
隣の本も同じだった。
タイトルはある。
出版社名もある。
分類番号もある。
著者名だけがない。
さらに別の棚。
翻訳者名だけが消えた本。
編者名だけが消えた本。
献辞の相手の名前だけが抜けた本。
人名だけが、書物から削られている。
真昼は、胸の奥が苦しくなった。
「本から、人が消えてる」
藍沢が、低く言う。
「書誌情報欠落。ですが、タイトルや内容は残っています。人名優先欠落です」
「本の中身は残って、書いた人だけが消えるんですか」
真昼が聞く。
「現時点では、そう見えます」
「最悪です」
霧生が言う。
「俺でも分かる。最悪だな」
真昼は、ノートを開いた。
書く。
でも、棚の本に触れないよう、少し距離を取った。
**ノクターン書房店内。
本の背表紙から人名のみ欠落。
タイトル、出版社、分類は残る。
著者・訳者・編者・献辞名が消える。
文章は残る。
人だけが消える。**
書いた瞬間、棚の奥で本が一冊倒れた。
ばさり。
全員が振り向く。
倒れた本のページが開く。
ページの中には、文字がある。
だが、人名だけが白い穴になっている。
真昼のノートの文字に反応したのかもしれない。
レイが呼ぶ。
「白瀬真昼」
「御影レイ」
返事をして、真昼は深呼吸した。
自分の記録は強い。
ここでは、それが扉を開けることにもなる。
霧生が低く言う。
「白瀬、必要なことだけ書け。感想は後だ」
「はい」
「俺が同じこと言う日が来るとはな」
「感想を後にするの、難しいですね」
「俺もだ」
「霧生さんも?」
「報告書に『最悪』って書きたい」
「それは分かります」
「だろ」
透子が、カウンターの内側を確認していた。
「主任」
「何だ」
「地下への階段があります」
カウンター横の本棚。
一見すると、ただの棚だった。
しかし、下段の本がすべて少しだけ前へ出ている。
透子が手を触れずに確認すると、棚の奥に細い隙間があった。
御堂が照明を当てる。
暗い階段。
下へ続く。
扉は開いている。
藍沢の端末が、短く警告音を鳴らした。
**O-00関連反応上昇**
霧生が舌打ちする。
「地下書庫か」
真昼は、喉を鳴らした。
ノクターン書房の地下。
灯里の貸出票。
S.N.?
篠宮凪。
名前を持たない本。
そこへ続く階段が、今、開いている。
まるで入れと言っているように。
いや、入るなと言っているようにも見える。
レイが言う。
「呼ばれてる感じはしません」
「じゃあ何だ」
霧生が聞く。
「置いてある感じ」
「罠か」
「かもしれません」
「全部罠に見える」
藍沢が階段の前に立った。
「観測応用部門に先に入られるよりは、市警立会で確認する方が安全です。ただし、地下書庫では名称読み上げを制限してください」
霧生が頷く。
「点呼してから降りる。全員、返事」
彼はいつものように短く呼んだ。
「霧生仁」
「いる」
「黒江透子」
「います」
「藍沢環」
「います」
「御堂圭吾」
「います」
「綾瀬直央」
「入口待機、います」
「御影レイ」
「いる」
「白瀬真昼」
「います」
霧生は、最後にもう一度周囲を見た。
「よし。下りるぞ」
*
地下書庫への階段は、狭かった。
一人ずつしか下りられない。
壁はコンクリートではなく、古い煉瓦に近い。ところどころに、黒い水が染みたような跡がある。
照明はない。
御堂が持つライトの光だけが、足元を照らす。
階段を下りるたび、上の店内の紙の匂いが薄れ、湿った地下の匂いが強くなった。
古い本。
カビ。
地下水。
錆。
そして、雨の日に開いた傘の匂い。
真昼は、その匂いに胸を押さえた。
レイがすぐに呼ぶ。
「白瀬真昼」
「御影レイ」
「今のは?」
「傘の匂いがしました」
「僕も」
透子が前から言う。
「黒傘残響の一種かもしれません。深く吸い込まないでください」
「匂いも吸い込み制限ですか」
真昼が思わず言う。
霧生が返す。
「この現場では息も慎重にしろ」
「生きづらいです」
「生きて戻るためだ」
「それは、はい」
階段の下に、重い木の扉があった。
半分開いている。
扉の上部に、古い金属プレート。
文字はない。
いや、文字があった痕跡だけがある。
削られている。
霧生が扉を押す。
蝶番が低く鳴った。
地下書庫が開いた。
そこには、本が並んでいた。
ただし、上の店内とは違う。
棚の本は、すべて無地だった。
背表紙にタイトルがない。
著者名もない。
出版社名もない。
色だけがある。
黒。
灰色。
古い白。
雨に濡れた紙のような青。
何千冊もある。
名前を持たない本。
それが、地下の奥まで壁のように並んでいた。
真昼は、息を失った。
「これ、全部」
藍沢が静かに言う。
「名称欠落書籍。もしくは、名称を持たない記録媒体」
「本なんですか」
「形は本です」
「中身は」
「確認しないと分かりません。ただし、無作為に開くのは危険です」
霧生が言う。
「じゃあ、どう確認する」
その時、一冊の本が棚から少しだけ飛び出した。
誰も触れていない。
霧生は、すぐに手を出しかけた真昼を見た。
「白瀬」
「まだ何も」
「目が触った」
「目も禁止ですか」
「今はな」
透子が慎重に近づき、本を棚から抜かずに背の隙間を確認する。
本には、貸出票が一枚挟まっていた。
藍沢が資料ケースを差し出す。
透子がピンセットで抜き取る。
貸出票。
**Nocturne Books**
書名欄は空白。
利用者名欄に、薄い文字が浮かぶ。
**Emmy Grace H――**
真昼は、声を出さなかった。
エミー。
グレイス。
ハーパー。
名前は途中で止まっている。
透子が別の本から貸出票を見つける。
**天沢灯――**
次。
**古河千――**
次。
**K-117 / 真木――**
透子の手が止まった。
霧生が低く呼ぶ。
「黒江透子」
透子は、一拍遅れて答える。
「います」
「今は開くな」
「分かっています」
その声は、少しだけ硬かった。
真木彼方。
まだ呼ばない名前。
この地下書庫にも、その欠片がある。
さらに、別の貸出票。
**R-■■ / Mikage H――**
レイが息を止めた。
真昼が呼ぶ。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
レイは、拳を握った。
「父さんのもある」
藍沢が確認する。
「御影遥真氏のR系列関連記録と接続しています」
「ここは、何なんですか」
真昼は言った。
「ノクターン書房って、名前を集めてたんですか」
藍沢は、すぐには答えない。
「集めていたのか、預かっていたのか、隠していたのか、まだ判断できません」
霧生が別の貸出票を見た。
そこには、
**御影レ――**
とあった。
レイの名前。
途中で欠けている。
その隣に、別の貸出票。
**白瀬真――**
真昼の名前。
彼女の手が冷たくなる。
レイがすぐに呼ぶ。
「白瀬真昼」
真昼は、ほとんど反射で答えた。
「御影レイ」
霧生が言う。
「この棚、危険だ。自分の名前が出たら見すぎるな」
「見すぎないようにするの、難しいです」
「難しくてもやれ」
真昼は頷いた。
自分の名前が欠けているのを見るのは、思っていたより怖い。
しかも、それが地下書庫の貸出票にある。
自分は、いつ借りられたのか。
誰に。
何の本として。
その問いが、頭の奥で開きそうになる。
真昼はノートに書いた。
**地下書庫。
名前を持たない本。
本そのものには題名も人名もない。
貸出票だけが、人名の断片を保持。
エミー、灯里、千景、彼方、遥真、レイ、真昼。
貸出という形式で、名前が保管されている。
ただし、誰が借り、誰が返すのか不明。**
書いた直後、棚の奥で、かすかにページがめくれる音がした。
霧生がライトを向ける。
奥の通路。
そこに、小さな机があった。
書庫のいちばん奥。
周囲の棚に囲まれた、読書席のような場所。
机の上には、一冊の黒いノートが置かれていた。
真昼は、吸い寄せられそうになった。
でも、足を止めた。
自分で止まった。
霧生が横目で見る。
「今のは偉い」
「ありがとうございます」
「だが、目は行ってる」
「はい」
「黒江」
「確認します」
透子が机へ近づく。
ノートには、題名がない。
表紙は黒。
黒い封筒とは違う。
こちらは、紙ではなく布張りの古い日記帳に見える。
藍沢が端末をかざす。
「O-00反応。高いです。ただし、黒刃反応は微弱。表層記録に近い」
「表層名未固定」
真昼が呟く。
藍沢は頷いた。
「可能性があります」
透子がノートを開いた。
最初のページ。
文字がある。
きれいな筆跡。
だが、署名の部分だけが何度も上書きされていた。
**S.**
次のページ。
**Shino――**
次のページ。
**凪**
次。
**O-00**
次。
**Ω**
署名が安定していない。
人の名前になろうとして、記号へ崩れる。
記号になろうとして、名前の一部が戻る。
その繰り返し。
真昼は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
「名前を失ったんじゃない」
彼女は、ほとんど無意識に言った。
「捨てようとしてる」
誰もすぐには言わなかった。
真昼は、ノートのページを見つめる。
「でも、失敗してる」
S.
Shino――。
凪。
O-00。
Ω。
どれも、完全に定まらない。
消したいなら、O-00やΩだけでいい。
名前を捨てたいなら、篠宮も凪も出てこなくていい。
それでも出てくる。
何度も。
消そうとして、戻ってくる。
戻るたびに、また消している。
真昼は、胸が痛くなった。
それは同情ではなかった。
理解に近い。
危険な理解。
名前が怖い。
名前があると、人間に戻ってしまう。
人間に戻れば、殺した人たちの名前を覚えてしまう。
だから捨てようとする。
でも、捨てきれない。
灯里はそれを見たのかもしれない。
だから、今日は呼ばないと言った。
真昼は、ノートへ書いた。
**ノクターン書房の青年は、名前を失ったのではない。
名前を捨てようとして、失敗し続けている。
S.
Shino――
凪
O-00
Ω
名前と番号と記号の間で、固定できていない。**
レイが、黒い日記帳を見たまま言った。
「これ、苦しいですね」
「はい」
「でも、苦しいからって、他の人を切っていい理由にはならない」
真昼は、レイを見た。
その声は、以前より硬かった。
オメガを自分の未来として恐れるだけではない。
別の人間として、加害者として見ようとしている声だった。
透子が、さらに数ページめくる。
文章の一部は読める。
だが、多くは黒く滲んでいる。
読める断片だけが、浮き上がる。
**雨の日は、名前が遠い。**
**店番をしている間は、誰も私を呼ばない。**
**本の中の名前は静かだ。人間の声より痛くない。**
**灯里さんは、今日は呼ばないと言った。**
**優しい人だった。**
**優しい人の名前ほど、消す時に痛む。**
真昼の指が震えた。
透子がページを止める。
霧生が低く言う。
「そこまでだ」
真昼は、何も言えなかった。
灯里。
優しい人。
消す時に痛む。
やはり、青年は覚えている。
灯里を。
優しさを。
そして、その名前を消した痛みを。
レイが呼ぶ。
「白瀬真昼」
真昼は、少し遅れて答えた。
「御影レイ」
藍沢が端末を確認する。
「真昼さんの記録反応が上昇しています」
霧生がすぐに言う。
「白瀬、一歩下がれ」
「はい」
真昼は下がった。
今度は、自分で。
その時、地下書庫の壁際で、何かが揺れた。
黒いもの。
全員が振り向く。
壁に、黒い傘が立てかけられていた。
さっきまで、なかった。
あるいは、あったのに誰も見えていなかった。
古い傘立ての中。
一本だけ。
黒い傘。
濡れている。
地下なのに。
雨は降っていないのに。
霧生が拳銃に手をかけた。
「動くな。誰も触るな」
黒い傘は動かない。
ただ、傘の先から水滴が落ちる。
ぽたり。
地下書庫の床に、黒い円ができる。
藍沢が端末を見て、顔を強張らせる。
「O-00反応、急上昇」
透子が言う。
「残響媒体です。実体かどうか不明」
霧生は、少しだけ近づいた。
「触らずに確認する」
御堂がライトを当てる。
傘の布地は、光を吸う。
黒刃のような黒ではない。
だが、同じ方向を向いた黒だ。
真昼は、息を止める。
レイが呼ぶ。
「白瀬真昼」
「御影レイ」
返事をした瞬間、黒い傘がふっと揺れた。
誰も触れていない。
傘の柄が少しだけ傾く。
床へ倒れそうになる。
霧生が反射的に手を伸ばしかけた。
透子が叫ぶ。
「触らないで!」
霧生の手が止まる。
傘は、ゆっくり倒れた。
床に当たる直前、形を失った。
布が水に変わる。
骨が水に変わる。
柄が水に変わる。
黒い傘は、床の上で崩れ、ただの黒い水たまりになった。
その水面に、文字が浮かぶ。
真昼は、読まないようにした。
だが、見えてしまう。
**名前を探さないでください**
次の瞬間、水面が揺れ、別の文字に変わった。
**まだ、捨てられない**
それは、誰の声だったのか。
青年か。
O-00か。
篠宮凪か。
真昼には、分からなかった。
ただ、地下書庫の空気が、急に寒くなった。
霧生が低く言う。
「撤収準備。ここは長くいちゃ駄目だ」
藍沢も頷いた。
「同意します。必要資料を最小限保全し、残りは現場封鎖」
真昼は、黒い水たまりを見ていた。
名前を探さないでください。
まだ、捨てられない。
矛盾している。
逃げたい。
でも、捨てられない。
名前を怖がっている。
でも、名前から完全には離れられない。
真昼は、ノートを閉じた。
今はこれ以上、言葉を置くと危険だ。
レイが隣で言う。
「白瀬」
「はい」
「まだ呼ばない?」
「まだ呼びません」
「でも、探す?」
「探します」
レイは、黒い水たまりを見る。
「難しいですね」
「はい」
「でも、たぶん必要」
「はい」
地下書庫の奥で、本のページが一斉にめくれる音がした。
ばらばらと。
雨のように。
その音の中で、真昼は確信に近いものを抱いていた。
ノクターン書房の青年は、名前を失っただけではない。
名前を捨てようとして、失敗し続けている。
そして、その失敗のたびに、誰かの名前が傷ついている。
だから、いつか呼ばなければならない。
今ではない。
でも、遠くない。
地下書庫の黒い水たまりは、最後に小さな波紋を残して消えた。
傘はもう、どこにもなかった。




