↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
61/82

第八章 ノクターン書房地下書庫

 ノクターン書房の前に、市警の規制テープが張られた。


 黒い木枠の扉。


 金文字の店名。


 **Nocturne Books**


 その上から、黄色いテープが斜めに走っている。


 古書店と規制テープは、ひどく似合わなかった。


 真昼は、少し離れた場所からそれを見ていた。


 雨は止んでいる。


 だが、店の周りだけ、まだ湿っていた。路地の石畳は黒く濡れ、排水溝には細い水が残り、店先の臨時休業の札だけが相変わらず乾いている。


 その札も、今は証拠として撮影済みだった。


 **臨時休業**


 日付も理由もない白い紙。


 その紙を見ていると、誰かが店を休んでいるのではなく、店そのものが名前から逃げるために閉じているように見えた。


 霧生仁が、扉の前で令状を確認していた。


「アガルタ市警察局、刑事部特異殺人対策室。黒封筒による名前返却事件、および黒傘未遂事件に関連する現場として、ノクターン書房を捜索する」


 わざわざ声に出したのは、誰かに聞かせるためかもしれない。


 店の中にいるかもしれない誰か。


 あるいは、店そのものに。


 透子が横で頷く。


「記録します。捜索開始時刻、十六時四十二分。立会人、霧生主任、黒江透子、御堂圭吾、綾瀬直央。外部協力者、御影レイ、白瀬真昼。境界観測局記録保全部立会人、藍沢環」


 藍沢環は、薄いグレーの防護コートを着ていた。


 いつもの灰白色のスーツの上に、観測局支給の現場用コート。首元には職員証。手には携帯型記録端末。


 彼女は、店の扉を見ている。


 表情はほとんど変わらない。


 だが、真昼には分かった。


 緊張している。


 ノクターン書房は、市警の現場であり、観測局の危険記録でもある。


 ここで何かを壊せば、名前が壊れる。


 ここで何も触れなければ、名前が逃げる。


 その両方を理解している顔だった。


 路地の奥には、観測局の車両が一台停まっていた。


 観測応用部門の車だ。


 まだ降りてこない。


 だが、窓の向こうに人影がある。


 久我瀬玲央が来ているのかどうかは分からない。


 それでも、見られている気配があった。


 霧生はそちらを一瞥し、吐き捨てるように言った。


「先に押さえた。ざまあみろ」


 綾瀬が小声で言う。


「主任、記録に残るので」


「残せ」


「本当に残しますよ」


「いや、そこは消せ」


「どっちですか」


「報告書からは消せ。俺の気持ちには残せ」


 御堂が端末を見ながら言う。


「記録形式上、主任の気持ちは添付欄がありません」


「作るなよ」


「作りません」


 真昼は少しだけ笑いそうになった。


 けれど、扉の奥から微かな音がして、笑いは消えた。


 本が擦れる音。


 ページが自分でめくれるような、かさり、という音。


 レイが隣で顔を上げる。


「聞こえた?」


「はい」


「本棚」


「ですね」


「入る前から動いてる」


「やめてほしいです」


「同感」


 霧生が鍵業者に合図した。


 鍵は、簡単には開かなかった。


 古い扉に見えるのに、錠だけはやけに新しく、しかも普通の鍵穴とは少し違う構造をしていた。鍵業者は二度ほど工具を入れ替え、三度目で顔をしかめた。


「これ、内側から何か引っかかってますね」


 霧生が言う。


「誰かいるのか」


「いえ、人が押さえてる感じじゃなくて……紙が挟まってるみたいな」


「紙?」


 鍵業者が慎重に工具を動かす。


 扉の向こうで、薄い紙が裂けるような音がした。


 真昼は、思わず身を固くした。


 次の瞬間、鍵が開く。


 カチリ。


 小さな音だった。


 だが、路地の空気が変わった。


 藍沢が端末を確認する。


「境界反応、上昇。O-00関連タグ、微弱に反応しています」


 霧生はドアノブに手をかけた。


「全員、勝手に動くな。白瀬、特にお前だ」


「はい」


「返事が素直すぎると不安だ」


「今日は本当に動きません」


「今の『今日は』が引っかかる」


「明日は分かりません」


「正直か」


 レイが横から言う。


「僕が見張ります」


「頼む。御影も自分を見張れ」


「はい」


 霧生が扉を開けた。


 ノクターン書房の中から、古い紙の匂いが流れ出した。


     *


 店内は、閉まっているはずなのに生きていた。


 灯りはついていない。


 だが、暗闇ではない。


 窓から入る曇った光が、本棚の背を淡く照らしている。壁際には天井まで届く棚が並び、中央には小さな丸テーブルがいくつか置かれていた。


 カウンターの上には、誰もいない。


 青年もいない。


 コーヒーの香りもない。


 それなのに、ついさっきまで誰かがそこに立っていた気配が濃く残っていた。


 読みかけの本。


 栞。


 使いかけの万年筆。


 磨かれたカップ。


 カウンターの内側には、店番用の椅子がある。


 椅子は少しだけ引かれていた。


 真昼は、そこを見て胸が痛くなった。


 あの青年が座っていた場所。


 名前を聞かれると、笑って話を変えた人。


 灯里が「名前を怖がっている」と書いた人。


 篠宮凪かもしれない人。


 そして、O-00と重なっているかもしれない人。


 霧生が手を上げる。


「立ち位置を決める。綾瀬、入口。御堂、カメラと記録。黒江、中央。藍沢、境界反応。御影、白瀬の横。白瀬、御影の横から離れるな」


「私は御影くんの付属品ですか」


「今日だけ命綱だ」


「否定しにくい」


 レイが小さく言う。


「僕も命綱にされると困るんですが」


「お互い命綱ということで」


「絡まると危ない」


「なら絡まないようにしましょう」


 真昼は、意識して軽口を返した。


 そうしないと、店の空気に飲まれそうだった。


 棚の本が、微かに動いている。


 風はない。


 誰も触れていない。


 それでも、背表紙がほんの数ミリずつずれ、戻り、またずれる。


 本が呼吸しているようだった。


 御堂がカメラを向ける。


「棚、動いています。映像に残るか確認」


 画面を見た御堂の眉が動いた。


「……映像では動いていません」


 霧生が言う。


「肉眼では動いてる」


「はい」


「またか」


 藍沢が端末を見る。


「記録保持不全です。O-00関連現場では、映像媒体より肉眼証言の方が保持率が高い場合があります」


「普通は逆なんだがな」


「普通ではありませんので」


「嫌な納得だ」


 透子が、棚の一冊に視線を止めた。


「人名が消えています」


 全員がそこを見る。


 背表紙。


 タイトルは読める。


 **雨の夜の航海記**


 著者名の部分だけが白く抜けていた。


 まるで最初から何も印刷されていなかったように。


 しかし、よく見ると、そこだけ紙が薄く削られている。


 隣の本も同じだった。


 タイトルはある。


 出版社名もある。


 分類番号もある。


 著者名だけがない。


 さらに別の棚。


 翻訳者名だけが消えた本。


 編者名だけが消えた本。


 献辞の相手の名前だけが抜けた本。


 人名だけが、書物から削られている。


 真昼は、胸の奥が苦しくなった。


「本から、人が消えてる」


 藍沢が、低く言う。


「書誌情報欠落。ですが、タイトルや内容は残っています。人名優先欠落です」


「本の中身は残って、書いた人だけが消えるんですか」


 真昼が聞く。


「現時点では、そう見えます」


「最悪です」


 霧生が言う。


「俺でも分かる。最悪だな」


 真昼は、ノートを開いた。


 書く。


 でも、棚の本に触れないよう、少し距離を取った。


 **ノクターン書房店内。

 本の背表紙から人名のみ欠落。

 タイトル、出版社、分類は残る。

 著者・訳者・編者・献辞名が消える。

 文章は残る。

 人だけが消える。**


 書いた瞬間、棚の奥で本が一冊倒れた。


 ばさり。


 全員が振り向く。


 倒れた本のページが開く。


 ページの中には、文字がある。


 だが、人名だけが白い穴になっている。


 真昼のノートの文字に反応したのかもしれない。


 レイが呼ぶ。


「白瀬真昼」


「御影レイ」


 返事をして、真昼は深呼吸した。


 自分の記録は強い。


 ここでは、それが扉を開けることにもなる。


 霧生が低く言う。


「白瀬、必要なことだけ書け。感想は後だ」


「はい」


「俺が同じこと言う日が来るとはな」


「感想を後にするの、難しいですね」


「俺もだ」


「霧生さんも?」


「報告書に『最悪』って書きたい」


「それは分かります」


「だろ」


 透子が、カウンターの内側を確認していた。


「主任」


「何だ」


「地下への階段があります」


 カウンター横の本棚。


 一見すると、ただの棚だった。


 しかし、下段の本がすべて少しだけ前へ出ている。


 透子が手を触れずに確認すると、棚の奥に細い隙間があった。


 御堂が照明を当てる。


 暗い階段。


 下へ続く。


 扉は開いている。


 藍沢の端末が、短く警告音を鳴らした。


 **O-00関連反応上昇**


 霧生が舌打ちする。


「地下書庫か」


 真昼は、喉を鳴らした。


 ノクターン書房の地下。


 灯里の貸出票。


 S.N.?


 篠宮凪。


 名前を持たない本。


 そこへ続く階段が、今、開いている。


 まるで入れと言っているように。


 いや、入るなと言っているようにも見える。


 レイが言う。


「呼ばれてる感じはしません」


「じゃあ何だ」


 霧生が聞く。


「置いてある感じ」


「罠か」


「かもしれません」


「全部罠に見える」


 藍沢が階段の前に立った。


「観測応用部門に先に入られるよりは、市警立会で確認する方が安全です。ただし、地下書庫では名称読み上げを制限してください」


 霧生が頷く。


「点呼してから降りる。全員、返事」


 彼はいつものように短く呼んだ。


「霧生仁」


「いる」


「黒江透子」


「います」


「藍沢環」


「います」


「御堂圭吾」


「います」


「綾瀬直央」


「入口待機、います」


「御影レイ」


「いる」


「白瀬真昼」


「います」


 霧生は、最後にもう一度周囲を見た。


「よし。下りるぞ」


     *


 地下書庫への階段は、狭かった。


 一人ずつしか下りられない。


 壁はコンクリートではなく、古い煉瓦に近い。ところどころに、黒い水が染みたような跡がある。


 照明はない。


 御堂が持つライトの光だけが、足元を照らす。


 階段を下りるたび、上の店内の紙の匂いが薄れ、湿った地下の匂いが強くなった。


 古い本。


 カビ。


 地下水。


 錆。


 そして、雨の日に開いた傘の匂い。


 真昼は、その匂いに胸を押さえた。


 レイがすぐに呼ぶ。


「白瀬真昼」


「御影レイ」


「今のは?」


「傘の匂いがしました」


「僕も」


 透子が前から言う。


「黒傘残響の一種かもしれません。深く吸い込まないでください」


「匂いも吸い込み制限ですか」


 真昼が思わず言う。


 霧生が返す。


「この現場では息も慎重にしろ」


「生きづらいです」


「生きて戻るためだ」


「それは、はい」


 階段の下に、重い木の扉があった。


 半分開いている。


 扉の上部に、古い金属プレート。


 文字はない。


 いや、文字があった痕跡だけがある。


 削られている。


 霧生が扉を押す。


 蝶番が低く鳴った。


 地下書庫が開いた。


 そこには、本が並んでいた。


 ただし、上の店内とは違う。


 棚の本は、すべて無地だった。


 背表紙にタイトルがない。


 著者名もない。


 出版社名もない。


 色だけがある。


 黒。


 灰色。


 古い白。


 雨に濡れた紙のような青。


 何千冊もある。


 名前を持たない本。


 それが、地下の奥まで壁のように並んでいた。


 真昼は、息を失った。


「これ、全部」


 藍沢が静かに言う。


「名称欠落書籍。もしくは、名称を持たない記録媒体」


「本なんですか」


「形は本です」


「中身は」


「確認しないと分かりません。ただし、無作為に開くのは危険です」


 霧生が言う。


「じゃあ、どう確認する」


 その時、一冊の本が棚から少しだけ飛び出した。


 誰も触れていない。


 霧生は、すぐに手を出しかけた真昼を見た。


「白瀬」


「まだ何も」


「目が触った」


「目も禁止ですか」


「今はな」


 透子が慎重に近づき、本を棚から抜かずに背の隙間を確認する。


 本には、貸出票が一枚挟まっていた。


 藍沢が資料ケースを差し出す。


 透子がピンセットで抜き取る。


 貸出票。


 **Nocturne Books**


 書名欄は空白。


 利用者名欄に、薄い文字が浮かぶ。


 **Emmy Grace H――**


 真昼は、声を出さなかった。


 エミー。


 グレイス。


 ハーパー。


 名前は途中で止まっている。


 透子が別の本から貸出票を見つける。


 **天沢灯――**


 次。


 **古河千――**


 次。


 **K-117 / 真木――**


 透子の手が止まった。


 霧生が低く呼ぶ。


「黒江透子」


 透子は、一拍遅れて答える。


「います」


「今は開くな」


「分かっています」


 その声は、少しだけ硬かった。


 真木彼方。


 まだ呼ばない名前。


 この地下書庫にも、その欠片がある。


 さらに、別の貸出票。


 **R-■■ / Mikage H――**


 レイが息を止めた。


 真昼が呼ぶ。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


 レイは、拳を握った。


「父さんのもある」


 藍沢が確認する。


「御影遥真氏のR系列関連記録と接続しています」


「ここは、何なんですか」


 真昼は言った。


「ノクターン書房って、名前を集めてたんですか」


 藍沢は、すぐには答えない。


「集めていたのか、預かっていたのか、隠していたのか、まだ判断できません」


 霧生が別の貸出票を見た。


 そこには、


 **御影レ――**


 とあった。


 レイの名前。


 途中で欠けている。


 その隣に、別の貸出票。


 **白瀬真――**


 真昼の名前。


 彼女の手が冷たくなる。


 レイがすぐに呼ぶ。


「白瀬真昼」


 真昼は、ほとんど反射で答えた。


「御影レイ」


 霧生が言う。


「この棚、危険だ。自分の名前が出たら見すぎるな」


「見すぎないようにするの、難しいです」


「難しくてもやれ」


 真昼は頷いた。


 自分の名前が欠けているのを見るのは、思っていたより怖い。


 しかも、それが地下書庫の貸出票にある。


 自分は、いつ借りられたのか。


 誰に。


 何の本として。


 その問いが、頭の奥で開きそうになる。


 真昼はノートに書いた。


 **地下書庫。

 名前を持たない本。

 本そのものには題名も人名もない。

 貸出票だけが、人名の断片を保持。

 エミー、灯里、千景、彼方、遥真、レイ、真昼。

 貸出という形式で、名前が保管されている。

 ただし、誰が借り、誰が返すのか不明。**


 書いた直後、棚の奥で、かすかにページがめくれる音がした。


 霧生がライトを向ける。


 奥の通路。


 そこに、小さな机があった。


 書庫のいちばん奥。


 周囲の棚に囲まれた、読書席のような場所。


 机の上には、一冊の黒いノートが置かれていた。


 真昼は、吸い寄せられそうになった。


 でも、足を止めた。


 自分で止まった。


 霧生が横目で見る。


「今のは偉い」


「ありがとうございます」


「だが、目は行ってる」


「はい」


「黒江」


「確認します」


 透子が机へ近づく。


 ノートには、題名がない。


 表紙は黒。


 黒い封筒とは違う。


 こちらは、紙ではなく布張りの古い日記帳に見える。


 藍沢が端末をかざす。


「O-00反応。高いです。ただし、黒刃ヌル反応は微弱。表層記録に近い」


「表層名未固定」


 真昼が呟く。


 藍沢は頷いた。


「可能性があります」


 透子がノートを開いた。


 最初のページ。


 文字がある。


 きれいな筆跡。


 だが、署名の部分だけが何度も上書きされていた。


 **S.**


 次のページ。


 **Shino――**


 次のページ。


 **凪**


 次。


 **O-00**


 次。


 **Ω**


 署名が安定していない。


 人の名前になろうとして、記号へ崩れる。


 記号になろうとして、名前の一部が戻る。


 その繰り返し。


 真昼は、喉の奥が熱くなるのを感じた。


「名前を失ったんじゃない」


 彼女は、ほとんど無意識に言った。


「捨てようとしてる」


 誰もすぐには言わなかった。


 真昼は、ノートのページを見つめる。


「でも、失敗してる」


 S.


 Shino――。


 凪。


 O-00。


 Ω。


 どれも、完全に定まらない。


 消したいなら、O-00やΩだけでいい。


 名前を捨てたいなら、篠宮も凪も出てこなくていい。


 それでも出てくる。


 何度も。


 消そうとして、戻ってくる。


 戻るたびに、また消している。


 真昼は、胸が痛くなった。


 それは同情ではなかった。


 理解に近い。


 危険な理解。


 名前が怖い。


 名前があると、人間に戻ってしまう。


 人間に戻れば、殺した人たちの名前を覚えてしまう。


 だから捨てようとする。


 でも、捨てきれない。


 灯里はそれを見たのかもしれない。


 だから、今日は呼ばないと言った。


 真昼は、ノートへ書いた。


 **ノクターン書房の青年は、名前を失ったのではない。

 名前を捨てようとして、失敗し続けている。

 S.

 Shino――

 凪

 O-00

 Ω

 名前と番号と記号の間で、固定できていない。**


 レイが、黒い日記帳を見たまま言った。


「これ、苦しいですね」


「はい」


「でも、苦しいからって、他の人を切っていい理由にはならない」


 真昼は、レイを見た。


 その声は、以前より硬かった。


 オメガを自分の未来として恐れるだけではない。


 別の人間として、加害者として見ようとしている声だった。


 透子が、さらに数ページめくる。


 文章の一部は読める。


 だが、多くは黒く滲んでいる。


 読める断片だけが、浮き上がる。


 **雨の日は、名前が遠い。**


 **店番をしている間は、誰も私を呼ばない。**


 **本の中の名前は静かだ。人間の声より痛くない。**


 **灯里さんは、今日は呼ばないと言った。**


 **優しい人だった。**


 **優しい人の名前ほど、消す時に痛む。**


 真昼の指が震えた。


 透子がページを止める。


 霧生が低く言う。


「そこまでだ」


 真昼は、何も言えなかった。


 灯里。


 優しい人。


 消す時に痛む。


 やはり、青年は覚えている。


 灯里を。


 優しさを。


 そして、その名前を消した痛みを。


 レイが呼ぶ。


「白瀬真昼」


 真昼は、少し遅れて答えた。


「御影レイ」


 藍沢が端末を確認する。


「真昼さんの記録反応が上昇しています」


 霧生がすぐに言う。


「白瀬、一歩下がれ」


「はい」


 真昼は下がった。


 今度は、自分で。


 その時、地下書庫の壁際で、何かが揺れた。


 黒いもの。


 全員が振り向く。


 壁に、黒い傘が立てかけられていた。


 さっきまで、なかった。


 あるいは、あったのに誰も見えていなかった。


 古い傘立ての中。


 一本だけ。


 黒い傘。


 濡れている。


 地下なのに。


 雨は降っていないのに。


 霧生が拳銃に手をかけた。


「動くな。誰も触るな」


 黒い傘は動かない。


 ただ、傘の先から水滴が落ちる。


 ぽたり。


 地下書庫の床に、黒い円ができる。


 藍沢が端末を見て、顔を強張らせる。


「O-00反応、急上昇」


 透子が言う。


「残響媒体です。実体かどうか不明」


 霧生は、少しだけ近づいた。


「触らずに確認する」


 御堂がライトを当てる。


 傘の布地は、光を吸う。


 黒刃ヌルのような黒ではない。


 だが、同じ方向を向いた黒だ。


 真昼は、息を止める。


 レイが呼ぶ。


「白瀬真昼」


「御影レイ」


 返事をした瞬間、黒い傘がふっと揺れた。


 誰も触れていない。


 傘の柄が少しだけ傾く。


 床へ倒れそうになる。


 霧生が反射的に手を伸ばしかけた。


 透子が叫ぶ。


「触らないで!」


 霧生の手が止まる。


 傘は、ゆっくり倒れた。


 床に当たる直前、形を失った。


 布が水に変わる。


 骨が水に変わる。


 柄が水に変わる。


 黒い傘は、床の上で崩れ、ただの黒い水たまりになった。


 その水面に、文字が浮かぶ。


 真昼は、読まないようにした。


 だが、見えてしまう。


 **名前を探さないでください**


 次の瞬間、水面が揺れ、別の文字に変わった。


 **まだ、捨てられない**


 それは、誰の声だったのか。


 青年か。


 O-00か。


 篠宮凪か。


 真昼には、分からなかった。


 ただ、地下書庫の空気が、急に寒くなった。


 霧生が低く言う。


「撤収準備。ここは長くいちゃ駄目だ」


 藍沢も頷いた。


「同意します。必要資料を最小限保全し、残りは現場封鎖」


 真昼は、黒い水たまりを見ていた。


 名前を探さないでください。


 まだ、捨てられない。


 矛盾している。


 逃げたい。


 でも、捨てられない。


 名前を怖がっている。


 でも、名前から完全には離れられない。


 真昼は、ノートを閉じた。


 今はこれ以上、言葉を置くと危険だ。


 レイが隣で言う。


「白瀬」


「はい」


「まだ呼ばない?」


「まだ呼びません」


「でも、探す?」


「探します」


 レイは、黒い水たまりを見る。


「難しいですね」


「はい」


「でも、たぶん必要」


「はい」


 地下書庫の奥で、本のページが一斉にめくれる音がした。


 ばらばらと。


 雨のように。


 その音の中で、真昼は確信に近いものを抱いていた。


 ノクターン書房の青年は、名前を失っただけではない。


 名前を捨てようとして、失敗し続けている。


 そして、その失敗のたびに、誰かの名前が傷ついている。


 だから、いつか呼ばなければならない。


 今ではない。


 でも、遠くない。


 地下書庫の黒い水たまりは、最後に小さな波紋を残して消えた。


 傘はもう、どこにもなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。