第七章 観測応用部門の再命令
特異殺人対策室の窓には、雨粒が細く残っていた。
夜明け前から降り続いた雨は、昼前になってようやく弱くなった。だが、空は晴れない。アガルタ市警察局の庁舎の窓ガラスには、乾ききらない水滴が何本も斜めに流れ、外の街を歪ませていた。
机の上には、黒い封筒がまた一通増えていた。
**O-00 / 表層名未固定**
その紙片は、透明な資料ケースに入れられ、さらに証拠袋に封入され、鑑識へ回す直前の状態で机の中央に置かれている。
霧生仁は、その証拠袋を睨んでいた。
紙に恨みはない。
だが、紙の向こう側にいるものへ向ける怒りの置き場所がないので、今は紙を見るしかなかった。
「表層名未固定、ね」
御堂圭吾が、端末画面を別モニターへ投影しながら言った。
「観測局用語としては、かなり露骨です。表層名という言い方は、少なくとも深層側の活動体が別にあることを前提にしています」
「つまり、ノクターン書房の青年と黒い傘のやつを分けて考えろってことか」
霧生が言う。
「あるいは、分けて考えさせたい、ですね」
「嫌な訂正だな」
「この手の相手は、残す情報にも意図があります」
御堂は眼鏡を押し上げた。
彼の顔にも疲労が出ている。夜通し周辺カメラを洗い、ミラー・ルージュ裏口の映像を解析していたからだ。
結果は、ほとんどなかった。
黒い傘の人物は、現場に現れている。
霧生たちも、真昼も、レイも、瀬尾杏奈も見た。
それなのに、防犯カメラには映っていない。
正確には、映っていたはずの時間帯だけ、雨の線が異常に濃くなり、画面全体が黒い傘の布地のように潰れていた。
御堂が言うには、「映像が壊れたのではなく、映像が見たものを保持できていない」のだという。
霧生は、その説明を聞いた時、缶コーヒーの空き缶を握り潰した。
壊れたなら直せる。
隠されたなら暴ける。
だが、記録できないものは面倒だ。
面倒というより、腹が立つ。
現場にいるのに、証拠に残らない。
人を傷つけたのに、犯人の顔だけが抜ける。
名前を奪い、記憶を切り、最後には「見なかったこと」にしようとする。
霧生が一番嫌う種類の事件だった。
黒江透子は、机の端で資料を整理していた。
彼女の前には、ミラー・ルージュの現場図、救急搬送された杏奈の聴取メモ、黒刃反応の暫定報告、観測局からの未承認資料が並んでいる。
真昼は、その少し後ろの椅子に座っていた。
今日は、いつもより大人しくしている。
大人しくしている、というより、無理やり自分を椅子に固定しているように見えた。
ノートは開いている。
ペンも持っている。
だが、書く速度が遅い。
前のめりになるたび、隣のレイが小さく呼ぶ。
「白瀬真昼」
そのたびに、真昼は答える。
「御影レイ」
そのやり取りを、霧生は三回見た。
三回目で、彼は言った。
「お前ら、それ部活の掛け声みたいになってきたな」
真昼が顔を上げる。
「部活ではありません」
「知ってる」
「現場安定手順です」
「それを部活みたいにやるなと言ってる」
レイが、真顔で言った。
「では、警察手順みたいにしますか」
「御影、お前までこっちに寄ってくるな」
「寄ってますか」
「最近、俺みたいな言い方をする」
真昼が小さく笑った。
「御影くん、成長ですね」
「それ、前も言われた」
「嫌な成長?」
「うん」
軽口は、そこで途切れた。
特殺室の入口に、綾瀬直央が現れたからだった。
彼女は、封筒よりも嫌なものを持っていた。
灰色の封筒。
観測局の正式文書に使われる、硬い紙。
青白い認証シールが貼られている。
綾瀬の表情は、完全に「面倒なものを持ってきました」という顔だった。
「主任」
「見たくない」
「まだ何も言ってません」
「封筒で分かる」
「境界観測局、観測応用部門からです」
室内の空気が、一段冷えた。
霧生は、机から離れて封筒を受け取った。
認証シールを見る。
差出部署。
**境界観測局アガルタ支局
観測応用部門**
差出責任者。
**主任研究官 久我瀬玲央**
霧生は封筒を開ける前から、すでに顔をしかめていた。
「黒江」
「はい」
「予想は」
「A-00関連の再命令か、ノクターン書房への共同介入要請です」
「両方だったら」
「最悪です」
「当たりそうで嫌だな」
霧生は封を切った。
中には、命令書が一通と、補足資料が数枚。
彼は最初の一枚を読んだ。
眉間の皺が、深くなる。
次の瞬間、紙を机に叩きつけた。
「名前を書けば連れていけると思ったのか」
その声で、真昼もレイも立ち上がりかけた。
透子が命令書を手に取る。
真昼は見ようとして、踏みとどまる。
霧生がこちらを見た。
「白瀬、読むなら声に出すな」
「はい」
透子が、命令書を机に置き直した。
全員が見える角度。
そこには、前回と違って、番号だけではなく名前があった。
**境界記録災害予防に伴う一時保護・観測協力命令**
**対象者:御影レイ**
**関連分類:A-00**
**理由:O-00活動再開、名前返却事件の拡大、黒刃反応再出現、A-00/O-00対存在関係に基づく都市規模記録災害予防**
**要請内容:対象者を境界観測局観測応用部門管理区画へ一時移送し、O-00制御実験およびA-00安定化観測に協力させること**
真昼の視界が熱くなった。
今度は、名前がある。
御影レイ。
それが余計に腹立たしかった。
前は、A-00だけだった。
名前がなかった。
だから、藍沢は「対象者本人を特定していない」と反論した。
利用派は、それを学んだのだ。
今回は、御影レイの名前を書いてきた。
名前を尊重するためではない。
連れていくために。
番号を鎖にするために、名前を鍵として使っている。
「最低です」
真昼は呟いた。
霧生が横目で見る。
「声に出すなとは言ったが、感想はまあ同意だ」
レイは、命令書を見つめていた。
顔色は変わらない。
でも、瞳の奥だけが揺れている。
御影レイ。
関連分類、A-00。
名前と番号が同じ紙に並んでいる。
それだけで、胸の奥が引かれるような感覚があった。
自分の名前が、観測局の書式に取り込まれている。
自分で言う「御影レイ」と、命令書に書かれた「御影レイ」が違うものに見える。
レイは、無意識に息を浅くした。
真昼がすぐに呼ぶ。
「御影レイ」
レイは、少し遅れて答えた。
「白瀬真昼」
霧生が命令書を指で叩く。
「黒江、藍沢に回せ」
「もう連絡しています」
透子は端末を手に取っていた。
「観測局内でも同じ文書が通っているはずです。記録保全部がどう扱うか確認します」
霧生は、低く吐き捨てた。
「久我瀬は来るな」
「来ると思います」
「最悪だ」
「はい」
その予想は、三十分後に当たった。
*
久我瀬玲央は、二人の観測応用部門職員を連れて特殺室へ来た。
市警の建物に入るには手続きが必要なはずだが、彼はその手続きをきちんと済ませていた。
だから余計に厄介だった。
前回のように、番号だけの命令書を持って強引に迫ってきたわけではない。
今回は、形式を整えている。
御影レイの名前を記載し、市警への協力要請という形を取り、災害予防の名目を掲げ、O-00活動再開という緊急性を示している。
久我瀬は、相変わらず落ち着いていた。
濃紺のコート。
整った髪。
感情の見えにくい目。
雨に濡れた様子はない。
彼は特殺室の入口で、まず霧生に一礼した。
「霧生主任。お忙しいところ失礼します」
「本当に忙しいんだがな」
「承知しています」
「じゃあ帰れ」
「必要な協議です」
「こっちは必要と思ってない」
久我瀬は、怒らない。
それが腹立たしい。
霧生の後ろに、透子が立つ。
真昼とレイは、少し離れた場所にいる。
しかし、久我瀬はまっすぐレイを見た。
「御影レイさん」
その呼び方に、真昼の背筋が強張る。
名前で呼んでいる。
だが、名前を呼ぶ声ではなかった。
対象者確認の音だった。
「現在、O-00活動再開に伴い、A-00関連反応が上昇しています。あなたの安全確保と、都市規模記録災害予防のため、観測応用部門管理下での一時保護を求めます」
霧生が割って入る。
「求めるだけなら却下だ」
「本人同意を得られるよう、説明に来ました」
「説明の前に、命令書って書いてあるんだが」
「緊急時に備えた行政上の手続きです」
「便利な言葉ばっかり使うな」
真昼は、レイの横顔を見る。
レイは黙っている。
久我瀬の言葉を聞いている。
聞きすぎている。
真昼は、心の中で警戒した。
この人の言葉は、レイに刺さる。
あなたが行けば、被害は抑えられる。
あなたが協力すれば、誰かが助かる。
あなたがA-00として制御されれば、O-00を止められる。
それは、レイが一番弱いところを正確に突いてくる。
特殺室の空気が、緊張を帯びた。
そこへ、もう一人が到着した。
藍沢環だった。
灰白色のスーツに、青灰色の手袋。
いつもより少し早足で入ってくる。
職員証が胸元で揺れていた。
「久我瀬主任」
藍沢は、特殺室に入るなり言った。
「この命令書は、記録保全部での最終確認を通過していません」
久我瀬は、ゆっくり振り返った。
「藍沢主任。これは観測応用部門から市警への協力要請です。記録保全部の承認は必須条件ではありません」
「対象者名と識別分類を併記している以上、記録保全部による呼称影響評価が必要です」
「前回、あなたが形式不備を指摘した。今回は御影レイさんの現在名を明記しています」
「形式上の不備は減りました」
藍沢は、冷静に言った。
「しかし、本人同意と保護者同意がありません」
久我瀬の表情は変わらない。
「緊急時には、災害予防権限が優先されます」
「現時点で、本人が自己名応答を失っている事実はありません。御影レイさんは、御影レイとして応答可能です。A-00分類を根拠とした強制移送には、本人の意思確認および保護者への説明が必要です」
「O-00が再活動しています」
「それは認めます」
「黒刃の反応が確認されました」
「それも認めます」
「名前返却事件は拡大傾向にあります」
「認めます」
「ならば、A-00を管理下に置く必要があります」
「そこは認めません」
藍沢の声は、ほとんど変わらない。
だが、言葉は強かった。
「危険性があることと、本人を管理下へ置くことは同義ではありません」
真昼は、藍沢を見た。
以前の彼女なら、ここまで言っただろうか。
番号で保全することを信じていた人。
名前は揺らぎ、番号だけは裏切らないと言っていた人。
その彼女が今、御影レイという名前の側に立っている。
完全に味方になったわけではない。
でも、番号だけで連れていかれることを止めている。
久我瀬は、藍沢を静かに見た。
「あなたは変わりましたね」
「記録が増えました」
「白瀬真昼さんの影響ですか」
「御影レイさん、御影佳乃さん、御影遥真氏、黒江先生、霧生主任、倉科悠斗さん。複数の記録による判断です」
藍沢は淡々と返した。
「白瀬真昼さんだけの影響として処理するのは、不正確です」
真昼は、思わず小さく呟いた。
「藍沢さん、強い」
レイが横で言う。
「記録で殴ってる」
「言い方」
「でも合ってる」
霧生が少しだけ口元を歪めた。
久我瀬は、話の向きを変えた。
「御影レイさん」
再び、レイへ。
真昼の心臓が強く打つ。
「アルファとオメガは対です。O-00を止めるには、A-00を制御する必要がある」
その言葉は、静かだった。
でも、鋭かった。
レイの表情がほんの少し変わる。
久我瀬は続ける。
「あなたは、O-00の活動に反応できる。黒い封筒、黒い傘、名前欠落、同魂者記憶断絶。これらの現象に対して、あなたは観測者として特異な位置にいます。あなたを適切に安定化し、O-00の反応源へ接続できれば、名前返却事件の拡大を止められる可能性があります」
霧生が言う。
「高校生を制御装置みたいに言うな」
「制御装置とは言っていません」
「言葉を飾ってるだけだ」
久我瀬は霧生を見ない。
レイだけを見る。
「あなたが協力すれば、被害者が増える前に止められるかもしれない」
その一文が、レイに入った。
真昼には分かった。
入ってしまった。
倉科悠斗の痛み。
杏奈の叫び。
エミー・グレイス・ハーパー。
古河千景。
天沢灯里。
黒い封筒が届くたび、誰かが名前と痛みを一緒に投げ返される。
自分が協力すれば、止められるかもしれない。
A-00として。
アルファとして。
利用されるとしても。
それで誰かが助かるなら。
レイの視線が、命令書へ落ちた。
**対象者:御影レイ**
**関連分類:A-00**
真昼は椅子から立ち上がった。
「また便利な制御装置の顔してる」
特殺室が静まった。
レイが顔を上げる。
「白瀬」
「今、思いましたよね」
「何を」
「自分が行けば、止められるかもしれないって」
レイは答えない。
その沈黙が、答えだった。
真昼は、一歩近づく。
霧生も、透子も止めなかった。
「倉科さんが痛がってました。杏奈さんも泣いてました。エミーさんも、古河さんも、灯里さんも、みんな名前を傷つけられた。だから御影くんが何とかしたいと思うのは分かります」
真昼の声は震えていた。
怒りだけではない。
怖いのだ。
レイが、また自分を差し出す顔をするのが。
「でも、それをA-00として制御される理由にしないでください」
レイは苦い顔をした。
「そんな顔してた?」
「してました」
「どんな顔」
「自分の名前が面倒になった顔」
霧生が小さく息を吐く。
「白瀬、その表現は刺さるな」
「刺すために言ってます」
レイは、少しだけ目を伏せた。
「僕が協力すれば、本当に止まるなら」
「その『本当に』を誰が保証するんですか」
真昼は久我瀬を見る。
「この人ですか」
久我瀬は表情を変えない。
「可能性の話です」
「可能性で御影くんを差し出すんですか」
「差し出すのではありません。協力を求めています」
「本人が罪悪感で頷いたら、それは同意ですか」
藍沢が、静かに真昼を見る。
真昼は続けた。
「御影くんは、昔からそういうところがあります。自分が行けばいい。自分が見ればいい。自分が傷つけばいい。自分がA-00になれば、誰かが助かるかもしれない。そういう顔をします」
「白瀬」
レイが小さく言う。
「事実でも、言われるときつい」
「きついように言ってます」
「知ってる」
「便利な犠牲者にならないでください」
真昼は、そこまで言って息を吸った。
「御影くんが御影レイとして協力するなら、一緒に考えます。でも、A-00として制御されるために行くなら止めます」
レイは、しばらく黙っていた。
それから、命令書を見た。
そして、久我瀬を見た。
「僕は、御影レイです」
久我瀬は頷く。
「はい。命令書にもそう記載しています」
「書いてあるだけです」
レイの声は低かった。
「あなたの言葉は、僕を御影レイとして見ていない」
久我瀬は、わずかに目を細めた。
「あなたがどう感じるかは尊重します」
「尊重するなら、A-00を制御するって言わないでください」
霧生が、少しだけ口元を上げた。
真昼は、胸の奥で息を吐いた。
レイは揺れた。
でも、戻ってきた。
藍沢が命令書を手に取る。
「この命令は、記録保全部として差し戻しを申請します。理由は、本人同意なし、保護者同意なし、呼称影響評価未完了、A-00分類呼称による対象者自己名固定阻害リスク」
久我瀬が言う。
「緊急性を理由に、観測応用部門判断で進めることもできます」
「その場合、記録保全部は正式に異議を記録します」
「また記録ですか」
「はい」
藍沢は、まっすぐ答えた。
「記録は、あなたが最も嫌がる手続きですので」
真昼は、思わず藍沢を見た。
霧生が低く笑った。
「成長したな、藍沢」
「市警の方に言われる筋合いはありません」
「いい返しだ」
久我瀬は、初めて少しだけ不快そうな表情を見せた。
だが、それも一瞬だった。
彼は命令書を回収しなかった。
机の上に置いたまま、静かに言った。
「御影レイさんの一時保護については、再協議とします」
「再協議じゃなく却下だ」
霧生が言う。
「市警としては現時点で移送を認めない。本人も同意していない。保護者同意もない。以上」
久我瀬は頷く。
「承知しました」
その素直さが、逆に不気味だった。
「では、別件です」
霧生が顔をしかめる。
「まだあるのか」
「ノクターン書房について、観測応用部門は強制捜索を計画しています」
真昼の体が強張った。
レイも顔を上げる。
透子がすぐに言う。
「市警の現場です。勝手な介入は認められません」
「ノクターン書房は、O-00関連記録の発生源である可能性が高い。黒い封筒の媒介形式、貸出票、S.N.未承認名、表層名未固定表示。すべてが同店に集中しています」
久我瀬は、淡々と続ける。
「O-00を封じるため、地下書庫を含む全記録媒体の押収が必要です」
真昼は、強く言った。
「押収って、本ごとですか」
「必要ならば」
「貸出票も、手帳も、名前が残っているかもしれないものも?」
「危険媒体であれば封鎖します」
「封鎖したら、名前が消えるかもしれない」
「拡散するよりはよい」
「よくない」
真昼の声が震える。
藍沢も、すぐに言った。
「記録保全部の同席なしに、O-00関連媒体へ強制介入することは推奨できません。誤った押収により、表層名候補が破損する恐れがあります」
久我瀬は言う。
「破損より、拡散の方が危険です」
「それは観測応用部門の判断です」
「都市防災上の判断です」
「名前を持つ個人記録を災害物扱いしないでください」
藍沢の声が、ほんの少しだけ強くなった。
久我瀬は、彼女を見た。
「あなたは、O-00にまで名前を認めるのですか」
「認めるのではありません。照合します」
「加害活動体に?」
「加害活動体だからこそです」
藍沢は言った。
「罪を記録するには、番号だけでは足りません」
真昼は、その言葉をノートに書いた。
**罪を記録するには、番号だけでは足りない。**
久我瀬は、もう一度レイを見た。
「御影レイさん。あなたが協力するなら、ノクターン書房への介入はより安全に進められます」
真昼がすぐに言う。
「またですか」
レイは、今度は揺れなかった。
少なくとも、さっきほどは。
「僕は協力を拒否していません」
レイは言った。
「でも、A-00として管理されることには同意しません。ノクターン書房へ行くなら、御影レイとして、市警と一緒に行きます」
霧生が頷く。
「それなら俺が判断する」
久我瀬は、静かに息を吐いた。
「分かりました。観測応用部門は、正式な手続きをもってノクターン書房の捜索許可を申請します」
「こっちは先に現場を押さえる」
霧生が即答する。
「市警が令状を取る。観測局の単独介入は認めん」
「間に合うとよいですね」
その言い方に、室内の空気が張り詰めた。
久我瀬は、言葉を置くように続けた。
「O-00は待ちません。名前はすでに返却され始めています。次に封筒が届く相手が、白瀬真昼さんではない保証もありません」
レイが一歩前に出た。
「脅しですか」
「警告です」
「同じように聞こえます」
久我瀬は、初めてレイの言葉に少しだけ反応した。
「あなたは以前より、自己名への反応が強くなりましたね」
「母と、白瀬と、いろんな人に呼ばれてますから」
「それがいつまで保つか」
霧生の声が低くなる。
「帰れ」
久我瀬は一礼した。
「失礼します」
観測応用部門の職員たちと共に、彼は特殺室を出ていった。
ドアが閉まる。
室内に、しばらく誰も声を出さなかった。
*
最初に動いたのは霧生だった。
「黒江、ノクターン書房の令状申請。急げ。御堂、登記と地下構造、消防、建築、全部洗い直せ。綾瀬、店主名義と近隣聴取。牧野に封筒の追加分析を催促。藍沢」
「はい」
「お前は記録保全部側で、観測応用部門の単独介入を止めろ」
「努力します」
「努力じゃ弱い」
「では、記録します」
「よし、それでいい」
真昼は、そのやり取りを聞きながら、命令書を見ていた。
御影レイ。
関連分類、A-00。
名前を書かれても、番号のために使われるなら、それは名前を守ることではない。
レイは、真昼の隣に立っていた。
「白瀬」
「はい」
「さっき、刺さりました」
「便利な制御装置の顔、ですか」
「うん」
「また言います」
「言われないようにします」
「本当に?」
「……九割くらい」
「残り一割を私が見張ります」
レイは苦い顔で笑った。
「お互い様ですね」
「はい」
藍沢が二人を見た。
「御影レイさん」
「はい」
「あなたの協力は、おそらく必要になります」
「分かってます」
「ですが、協力と管理は違います」
レイは、少しだけ驚いた顔をした。
藍沢は続ける。
「あなたをA-00として管理するのではなく、御影レイさんとして同行してもらう。その形でなければ、私は記録保全部として同意できません」
真昼は、静かにそれを書いた。
**協力と管理は違う。**
レイは頷いた。
「ありがとうございます」
藍沢は、一瞬だけ困ったような顔をした。
「礼を言われることではありません。記録上の区別です」
霧生が横から言う。
「そういう時は、どういたしましてでいいんだよ」
「不慣れです」
「慣れろ」
藍沢は返事をしなかった。
だが、ほんの少しだけ目を伏せた。
その時、御堂の端末に通知が入った。
「主任」
「今度は何だ」
「観測局内部回線の傍受ではありませんが、公開手続きシステムに申請準備ログが出ました」
「何の」
御堂は、画面を大きく表示する。
そこに、無機質な申請名が出ていた。
**境界記録災害予防措置申請
対象施設:ノクターン書房
目的:O-00関連媒体の封鎖・回収
申請部署:観測応用部門**
真昼の手が冷たくなった。
霧生が、低く言った。
「本当にやりやがる」
透子が画面を見る。
「地下書庫も対象に入っています」
藍沢の表情が硬くなる。
「危険です。ノクターン書房の地下書庫は、O-00表層名候補と接続している可能性があります。強制回収すれば、名前返却現象が拡大するかもしれません」
レイが、窓の外を見る。
雨がまた強くなっていた。
街が、水音に包まれていく。
ぽたり。
その音は、特殺室の中にも聞こえた気がした。
真昼はノートを閉じた。
まだ呼ばない名前がある。
でも、観測応用部門は、その名前が眠っている場所ごと押収しようとしている。
真昼は、深く息を吸った。
「行きましょう」
霧生が振り返る。
「誰が仕切ってるんだ」
「すみません」
「だが、行くのは合ってる」
霧生は、コートを手に取った。
「ノクターン書房を、市警の現場として押さえる。観測局に先を越されるな」
レイは、命令書の上の自分の名前を一度だけ見た。
そして、自分で言った。
「御影レイ」
真昼が返す。
「白瀬真昼」
その声を合図にするように、特殺室の全員が動き始めた。
ノクターン書房。
O-00。
篠宮――。
黒い傘。
封筒。
そして、まだ固定されていない表層名。
次に開くのは、古書店の扉だった。




