第六章 黒い傘の未遂事件
雨が降ると、クラブ《ミラー・ルージュ》の裏口は、古い傷口のような匂いがした。
濡れたコンクリート。
錆びた非常階段。
排水溝に詰まった落ち葉。
剥がれかけたポスターの糊。
劇場だった頃の名残を残す裏通路には、照明がひとつだけ点いている。赤い電球ではない。作業用の白い防犯灯だ。それなのに、雨に濡れた路面へ映ると、光はどこか赤紫に見えた。
瀬尾杏奈は、裏口の鍵を開けたまま、しばらく動けなかった。
入らなければならない。
ロッカーに置きっぱなしのバッグを取りに来ただけだ。
ステージ衣装ではない。
化粧道具でもない。
ただ、普段使いのバッグ。
警察からは、しばらく店に近づかない方がいいと言われていた。堂島にもそう言われた。けれど、財布も家の鍵も、予備のスマホ充電器も入っている。
何より、逃げたままなのが嫌だった。
あの黒い封筒を見た夜から、杏奈の中にエミー・グレイス・ハーパーの名前が戻った。
戻った、という言い方が正しいのかは分からない。
戻ったのは名前だけではなかった。
ステージ袖の笑い声。
赤いヒール。
星形のピアス。
靴擦れに貼ってもらった絆創膏。
そして、雨の裏口で名前を切られた痛み。
杏奈は、自分の胸元を押さえた。
そこに傷はない。
医者にも言われた。
外傷はありません。
でも、痛い。
名前を思い出すたび、痛い。
エミー・グレイス・ハーパー。
その名前は、美しい。
でも、声に出すと喉の奥が切れるように痛む。
杏奈は、震える指で裏口の扉を押した。
中は暗い。
昨日までの店とは違う。
照明の落ちたミラー・ルージュは、ただの古い建物だった。客席の赤い椅子も、ステージの金色の縁取りも、壁の鏡も、光がなければ埃をかぶった舞台装置でしかない。
それでも、杏奈には見えてしまう。
ステージライトが点く前のエミーの背中。
片足で立ち、赤いヒールのストラップを直している姿。
振り返って笑う。
名前を覚えてくれる?
杏奈は息を止めた。
「覚えてる」
小さく言う。
「エミー。エミー・グレイス・ハーパー」
誰も返事をしない。
そのはずだった。
だが、背後で傘を畳む音がした。
杏奈の体が凍った。
裏口の外だ。
雨音に紛れて、誰かが立っている。
水滴が落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
杏奈は、ゆっくり振り返った。
黒い傘があった。
非常階段の下。
裏口の外灯が届くぎりぎりの場所に、黒い傘を差した人影が立っている。
顔は見えない。
傘の縁が低い。
黒いコート。
黒い手袋。
雨の中にいるのに、周囲の水音だけが遠い。
杏奈は、喉がひゅっと鳴るのを感じた。
「……誰」
返事は、すぐにはなかった。
黒い傘の人物は、扉の中へ入ってこない。
ただ、そこに立っている。
待っているようにも見える。
見張っているようにも見える。
杏奈は後ずさろうとして、足が動かなかった。
床に貼りついたように、靴底が離れない。
黒い傘の下から、声がした。
「名前は、返しました」
穏やかな声だった。
丁寧で、静かで、聞き取りやすい。
だから、余計に怖かった。
「返したのに、なぜ苦しむ」
杏奈は、最初、その意味が分からなかった。
返した?
何を?
名前を?
エミーの名前を?
杏奈の喉の奥で、怒りと恐怖が一緒に震えた。
「あれを、返したって言うの」
声が掠れる。
それでも、言った。
「何を返したつもりなの」
「忘れていたのでしょう」
黒い傘の人物が言う。
「名前を」
「忘れさせたのは、そっちでしょ」
杏奈は、自分の声が震えているのを感じた。
でも、止まらなかった。
思い出した名前が、痛みの奥から彼女を押し上げていた。
「あの人の名前を切ったのは、あなたたちなんでしょ」
「名前は戻りました」
「戻ったから苦しいんだ!」
裏口の空気が震えた。
杏奈は胸を押さえたまま叫んだ。
「返されたから苦しいんだ! 名前だけじゃなかった。血の匂いも、怖かった声も、切られた痛みも、エミーさんが最後に何を言おうとしたのかも、全部戻ってきた。忘れてたんじゃない。忘れさせられてたのに。急に突き返されて、はい思い出せって、そんなの返したなんて言わない!」
黒い傘が、わずかに揺れた。
傘の縁の下で、人物の口元だけが見えた。
表情はない。
だが、止まった。
杏奈は、その一瞬の動揺を見逃さなかった。
「あなた、分かってないんだ」
自分でも驚くほど、低い声だった。
「名前が戻れば楽になると思ってたの? 忘れた人が思い出せば、全部きれいに戻ると思ってたの?」
黒い手袋の指が、わずかに動いた。
雨音が消える。
黒い傘の人物の右手に、何かが現れた。
刃。
黒い刃。
光を吸う、形だけが刃のもの。
杏奈は、悲鳴を上げられなかった。
体が、先に記憶した。
エミーの最期。
赤いヒール。
濡れた路地。
黒い手袋。
刃が近づく。
名前が切られる。
杏奈は後ずさろうとして、転んだ。
床に尻もちをつく。
扉の敷居に背中がぶつかる。
黒い傘の人物は、一歩だけ近づいた。
刃が上がる。
切られる。
そう思った。
しかし、刃は止まった。
杏奈の喉元から、指一本分の距離で。
黒い刃は、彼女の肌に触れていない。
それでも、杏奈は自分の名前が薄くなるような寒気を感じた。
黒い傘の人物は、刃を止めたまま、低く言った。
「苦しいなら」
声が、わずかに乱れていた。
「切れば、楽になる」
杏奈は、泣きながら首を振った。
「それを、救いみたいに言わないで」
「痛みは消えます」
「名前も消える」
「痛みと名前は、離れない」
「だったら、痛いままでいい」
自分で言って、杏奈は震えた。
痛いままでいい。
そんな強いことを、本当は言えるほど強くない。
でも、エミーの名前をまた失うことの方が怖かった。
「エミーさんの名前を、もう切らないで」
黒い傘の人物の手が、かすかに震えた。
その瞬間、遠くでサイレンが鳴った。
雨の向こうから、車のタイヤが水を跳ねる音。
複数の足音。
誰かが叫ぶ。
「市警だ! その場を動くな!」
黒い傘の人物が、ゆっくり顔を上げた。
*
霧生仁は、走りながら警察手帳を出していた。
濡れた路地の石畳で足を滑らせかけ、すぐに姿勢を戻す。
後ろから透子、レイ、真昼が続く。
通報は、堂島からだった。
クラブ裏口に黒い傘。
杏奈が一人で店に入った。
黒い封筒の時と同じ気配がする。
その短い通報だけで、霧生は全員を車に押し込んだ。
現場へ着いた時、黒い傘の人物は、まだ杏奈の前にいた。
黒刃。
それが見えた瞬間、透子の顔色が変わった。
「主任、刃です!」
「見えてる!」
霧生は怒鳴った。
「動くな! 刃を下ろせ!」
黒い傘の人物は、動かなかった。
傘の縁の下から、こちらを見ている。
真昼は、息を止めた。
顔が見えそうで、見えない。
いや、見えているのに、記憶が受け取らない。
黒い傘。
黒いコート。
黒い手袋。
そこまでは見える。
でも、顔だけが水に映った影のように揺れる。
レイが、真昼の隣で小さく呻いた。
「御影くん」
「いる」
「名前」
「御影レイ」
「白瀬真昼」
真昼は返してから、黒い傘を見る。
その人影が、わずかにこちらを向いた。
傘の下の顔が、一瞬だけ街灯に照らされる。
真昼の胸が止まりそうになった。
ノクターン書房の青年に似ていた。
雨の日の古書店。
カウンターの奥に立っていた、静かな青年。
黒いカーディガン。
名前を聞かれると困ったように笑っていた人。
その輪郭。
その口元。
だが、目が違う。
青年の目は、悲しそうだった。
この人物の目は、底が抜けている。
誰かを見ているようで、誰も見ていない。
それなのに、何かを確認している。
人間ではなく、記録の反応を見ている目。
真昼は、無意識に呟いた。
「……違う」
レイが、同じものを見ていた。
彼の声は、雨に沈みそうなほど低かった。
「あの人じゃない」
黒い傘の人物が、レイを見る。
レイは続けた。
「でも、あの人だ」
黒い傘の縁が、少しだけ揺れた。
透子が横で言う。
「表層と深層が分かれている……?」
霧生が怒鳴る。
「黒江、考察はあとだ! 被害者確保!」
透子が即座に動く。
杏奈のそばへ向かう。
黒い傘の人物が、刃を下げた。
霧生は一歩踏み出す。
「そのまま刃を地面に置け」
返事はない。
代わりに、黒い傘の人物は杏奈を見た。
「返されたから苦しい」
小さな声だった。
確認するような声。
杏奈は、泣きながら睨み返した。
「そうだよ」
「なら」
黒い傘の人物は、わずかに首を傾ける。
「なぜ、持っている」
「私のじゃない」
杏奈は震えながら言った。
「でも、持つって決めた。忘れたままにされたくないから。あなたに、もう勝手に切られたくないから」
黒い傘の人物の顔が、ほんの少し歪んだ。
怒りではない。
困惑。
理解できない、という表情だった。
真昼は、それを見て、寒気を覚えた。
本当に分かっていない。
オメガは、名前を返せば痛みが終わると思っているのかもしれない。
それとも、返してなお苦しむ人間を見て、名前そのものが間違いだと証明したいのか。
どちらにしても、その認識は決定的にずれている。
霧生が低く言う。
「最後通告だ。刃を捨てろ」
黒い傘の人物は、霧生を見た。
その目に、警察官という存在への関心はなさそうだった。
ただ、霧生の声が杏奈から自分を遠ざけることだけを認識したように見えた。
「邪魔をするなら」
黒刃が、わずかに上がる。
霧生は引かない。
「やってみろ。こっちは現行犯だ」
「主任!」
透子が叫ぶ。
次の瞬間、黒い傘の人物の足元に水たまりが広がった。
雨水ではない。
下から湧くような黒い水。
そこに、ノクターン書房の貸出票のような紙片が何枚も浮かぶ。
名前。
欠けた名前。
途中で黒くなった名前。
Emmy Grace Harper。
古河千景。
天沢灯――。
倉科悠斗。
御影遥真。
篠宮――。
真昼は、一歩前へ出かけた。
レイが腕を掴む。
「白瀬!」
「でも、今」
「見るな!」
レイの声が強かった。
真昼は足を止める。
黒い水たまりの中で、貸出票が回転する。
その一枚が、こちらへ流れてくる。
真昼の名前が書かれているように見えた。
**白瀬――**
真昼の息が止まる。
レイが叫ぶ。
「白瀬真昼!」
真昼は、はっとして返す。
「御影レイ!」
文字は消えた。
黒い水たまりが弾ける。
その瞬間、黒い傘の人物が後ろへ下がった。
逃げる。
霧生が走る。
「待て!」
黒い傘は、裏路地の奥へ滑るように動いた。
走っているのではない。
雨の線に沿って移動しているように見える。
透子が叫ぶ。
「追いすぎないでください! 境界化しています!」
「追わなきゃ逃げるだろうが!」
「主任!」
霧生は数歩追い、すぐに止まった。
路地の奥が、暗すぎる。
そこだけ、街灯が届いていない。
黒い傘の人物は、その暗がりの手前で一度だけ振り返った。
真昼は見た。
また、顔が見えた。
ノクターン書房の青年に似た顔。
でも、目が違う。
深いところから別のものが覗いている。
黒い傘の人物は、真昼を見た。
いや、真昼の名前を見た。
そんな気がした。
「また」
声が届いた。
雨の音に紛れるほど小さい。
「お前なのか」
真昼は、動けなかった。
誰と間違えているの。
そう聞き返したかった。
でも、声が出ない。
黒い傘は、暗がりへ沈むように消えた。
残ったのは、雨音だけだった。
*
杏奈は救急車の中で、ずっとエミーの名前を握りしめるように呟いていた。
エミー・グレイス・ハーパー。
エミー・グレイス・ハーパー。
真昼は、救急隊員に促されるまで、その声を聞いていた。
同じ名前を繰り返すたび、杏奈の顔は痛みに歪む。
それでも、やめない。
忘れないために。
切られないために。
透子は、現場に残された黒い水たまりの反応を調べていた。
水はほとんど消えている。
だが、路面には黒い丸い跡が残っていた。
傘の先でついたような跡。
霧生は、その前にしゃがんでいる。
「黒江」
「はい」
「あれは、ノクターン書房の青年か」
透子はすぐには答えなかった。
「断定できません」
「似てた」
「はい」
「だが、違った」
「はい」
レイが近くで言った。
「あの人じゃない。でも、あの人だ」
霧生が振り返る。
「どういう意味だ」
レイは、自分の言葉を探した。
「ノクターン書房の青年は、名前を怖がってる人でした。少なくとも、僕が感じたのはそうです。さっきの人は、名前を怖がってるというより、名前の扱い方が分かってない」
「扱い方?」
「名前を返せばいい。苦しむなら切ればいい。そういう……人の痛みを、手続きみたいに見てる」
真昼は、その言葉に藍沢を思い出しかけた。
だが、違う。
藍沢は、痛みを恐れて形式へ逃げた。
さっきの人物は、痛みの意味を知らないまま名前を動かしているように見えた。
透子が言う。
「表層人格と深層活動体が分裂している可能性があります」
霧生が顔をしかめる。
「分かる言葉で」
「ノクターン書房の青年は、まだ人間に近い表層。名前を怖がり、逃げている部分。さっき現れた黒い傘の人物は、O-00として活動している深層側かもしれません」
「同じ体か」
「分かりません。同じ記録から出ている可能性は高いです」
「つまり、捕まえる時にどっちが出るか分からん」
「はい」
「最悪だな」
「はい」
真昼は、路地の奥を見た。
黒い傘が消えた暗がり。
そこに、まだ声が残っている気がする。
また、お前なのか。
それは真昼へ向けられていた。
でも、真昼ではない誰かを見ていた。
天沢灯里。
そう思った瞬間、胸の奥がきしんだ。
灯里は、青年に「今日は呼ばない」と言った。
その優しさを、オメガはまだ覚えているのかもしれない。
覚えているから、真昼を見て「また」と言ったのかもしれない。
真昼は、ノートを開こうとして、手を止めた。
今書くと、感情で言葉が走りすぎる気がした。
レイが呼ぶ。
「白瀬真昼」
真昼は、目を閉じて答えた。
「御影レイ」
「今は、書かない?」
「後で書きます」
「珍しい」
「今書くと、たぶん怒りで名前を書きすぎます」
「それは危ない」
「はい」
霧生が立ち上がる。
「現場保存。黒江、残留反応を採れ。御堂に周辺カメラを洗わせる。綾瀬には杏奈の付き添いと堂島の聴取。白瀬」
「はい」
「お前は現場の中に入るな」
「もう入ってます」
「さらに入るな」
「はい」
霧生が少しだけ眉を上げる。
「素直だな」
「私も学びます」
「不気味だ」
「ひどい」
その時、透子が路地の端で何かを見つけた。
「主任」
全員がそちらを見る。
排水溝の近く。
雨水に流されず、黒い封筒が一通落ちていた。
封筒は開いている。
中には、紙片が一枚。
透子が慎重に拾い、資料ケースへ入れる。
霧生が覗き込む。
真昼も、レイも、少し離れて見る。
そこに浮かんでいた文字は、最初は薄かった。
雨粒が落ちるたび、少しずつ濃くなる。
**O-00 / 表層名未固定**
真昼の背筋に冷たいものが走った。
表層名。
未固定。
ノクターン書房の青年。
篠宮――。
篠宮凪。
そこへ近づいているのに、まだ固定されていない。
固定すると、壊れるかもしれない。
固定しないと、逃げるかもしれない。
透子が低く言った。
「やはり、分裂している可能性があります」
霧生は、紙片を見たまま言う。
「名前を持ってる部分と、名前から逃げてる部分か」
「あるいは」
透子は言葉を選ぶ。
「名前を欲しがっている部分と、名前を消したい部分」
レイが、雨の路地を見つめる。
「オメガは、一人じゃないのかもしれない」
真昼は、ノートを胸に抱いた。
まだ書かない。
でも、消さない。
雨は、ミラー・ルージュの裏口に降り続いている。
救急車のサイレンが遠ざかる。
路地の奥には、黒い傘の影はもうない。
ただ、黒い封筒の紙片だけが残っていた。
**O-00 / 表層名未固定**
名前は、まだ形を決められずにいる。
だが、もう動き始めていた。




