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第五章 灯里の貸出票

 アガルタ学院の旧新聞部室は、雨の日になると紙の匂いが強くなる。


 湿った木材。


 古いインク。


 埃を吸ったカーテン。


 開けにくい引き出しの中に残った、錆びたクリップの金属臭。


 真昼は、扉を開けた瞬間、その匂いに包まれて立ち止まった。


 放課後の校舎は静かだった。


 廊下には部活動の声が遠く聞こえている。体育館の床を走る足音。吹奏楽部の音階練習。窓の外を走る車の音。


 けれど、この部屋だけは時間が違う。


 旧新聞部室。


 過去の新聞、未使用の原稿用紙、古い取材メモ、寄贈された地域資料の写し、誰かが残したまま卒業していったペン立て。


 そして、天沢灯里の気配。


 真昼は鞄を机に置いた。


 机の上には、すでに三つの資料箱が並んでいる。


 昨日、母に頼んで市立中央図書館の郷土資料室から借り出した複写資料。


 アガルタ学院旧新聞部の保管箱。


 ノクターン書房の貸出票写し。


 どれも正式な捜査資料ではない。


 だから市警の報告書には載らない。


 だが、真昼にとっては、いちばん深いところへ続く資料だった。


 後ろからレイが入ってくる。


「電気、点ける?」


「点けてください」


「暗い方が雰囲気出るかと思って」


「出さなくていい雰囲気です」


「それはそう」


 レイが壁のスイッチを押す。


 古い蛍光灯が、二回ほど瞬いてから点いた。


 白い光が部屋を満たす。


 真昼は、少しだけ安心した。


 この部屋で暗さに浸るのは、今日はよくない。


 灯里の記録へ近づく。


 それだけで、自分の中のどこかが、あちら側へ引かれる感覚がある。


 天沢灯里。


 同じアニマを持つ記録者。


 かつて、ノクターン書房の青年に近づいた少女。


 名前が怖いなら、今日は呼ばない。


 その一文が、真昼の胸の奥でずっと引っかかっている。


 優しい。


 間違いなく優しい言葉だった。


 だからこそ、痛い。


 レイが、向かいの椅子に座った。


「本当に僕もいていいの?」


「いてください」


「灯里さんの記録ですよ」


「だからです」


 真昼は、資料箱のひとつを開けた。


「私だけで読むと、近づきすぎます」


「それを自分で言えるようになったのは成長?」


「倉科さんの件で、かなり学びました」


「痛い学び」


「はい」


 倉科悠斗の封筒。


 完全な名前。


 黒刃で切られた痛み。


 古河千景の最後の残響。


 痛いけど、俺の名前だ。


 返されたんじゃない。元から俺のだ。


 その言葉は、真昼のノートの中で何度も読み返されている。


 名前を戻すことは、ただの救いではない。


 名前は、痛みも記憶も責任も連れてくる。


 では、名前を怖がっている相手にはどうすればいいのか。


 灯里は、呼ばなかった。


 今日だけは。


 真昼は、その選択の続きを知りたかった。


「御影くん」


「何」


「もし私が変な入り方をしたら、呼んでください」


「白瀬真昼って?」


「はい」


「了解」


「御影くんも、もし変だったら呼びます」


「御影レイって?」


「はい」


「じゃあ、先払い」


 レイは、少しだけ姿勢を正した。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


「今、逆です」


「予約」


「便利ですね、それ」


「最近使い慣れてきた」


 軽口は短く終わった。


 真昼は、最初の資料を開いた。


 天沢灯里の旧記事スクラップ。


 文字はところどころ薄くなっている。


 見出し。


 **雨の日だけ開く古書店について**


 日付は二年前。


 署名はない。


 しかし、筆跡は灯里のものだと、真昼には分かる。


 直接会ったことはない。


 それでも、同じアニマを持つ者の文字には、奇妙な既視感がある。


 丸く、丁寧で、感情を抑えようとしているのに、行間だけが熱い。


 記事には、都市伝説めいた調子でノクターン書房が紹介されていた。


 雨の日にだけ、奥の棚が一段増える。


 貸出票に書いた名前が、翌日少し薄くなる。


 古い本を借りた夢を見る。


 店番の青年は、いつも黒いカーディガンを着ている。


 ただし、名前を尋ねると笑って話を変える。


 真昼は、その一文に赤い付箋を貼った。


「ここ」


 レイが覗き込む。


「店番の青年」


「はい」


「名前を聞くと、笑って話を変える」


「今のノクターン書房の青年と同じです」


「同じ人?」


「まだ断定しません」


「藍沢さんみたい」


「影響されてますね」


「いいのか悪いのか」


「今はいい方で」


 真昼は次の資料を開いた。


 これは図書館資料だった。


 ノクターン書房から寄贈された古書の受入リスト。


 その中に、貸出票の写しが数枚挟まれている。


 日付はばらばら。


 貸出者名は、多くが黒く塗り潰されたように読めない。


 ただ、いくつかは読める。


 **天沢灯里**


 その文字を見た瞬間、真昼の胸が跳ねた。


 指先が冷える。


 レイがすぐに呼ぶ。


「白瀬真昼」


 真昼は息を吸う。


「御影レイ」


「大丈夫?」


「大丈夫です」


「今、少し遠かった」


「近づきました」


「それ、大丈夫じゃない人の言い方」


「でも戻りました」


「じゃあ続ける?」


「続けます」


 真昼は、灯里の名前が書かれた貸出票を丁寧にケースから出した。


 直接触らない。


 薄手の資料用手袋をはめる。


 灯里の貸出票は、ノクターン書房のものと同じ形式だった。


 **Nocturne Books**


 貸出日。


 返却期限。


 書名。


 利用者名。


 書名欄には、薄く滲んだ文字。


 **名前のない読書会**


 または、そう見える。


 利用者名欄には、灯里の名前。


 **天沢灯里**


 文字はまだ残っている。


 真昼は、そこを見すぎないように気をつけた。


 自分と同じ根から伸びた別の人生。


 記録者だった少女。


 呼ばずに守ろうとした人。


 その名前は、自分を引く。


 資料の裏に、手書きメモが貼られていた。


 古い付箋。


 インクが少し薄い。


 それでも読める。


 真昼は、声に出さず、目で追った。


 **雨の日だけ店番をする青年。

 名前を聞くと、笑って話を変える。

 名前がないのではない。

 名前を怖がっている。**


 真昼は、息を止めた。


 レイも、文字を見ていた。


「怖がっている」


 レイが呟く。


「灯里さんは、そう見たんですね」


「うん」


「名前がないのではない」


「怖がっている」


 真昼は、もう一度その一文を見た。


 名前がないのではない。


 名前を怖がっている。


 その違いは大きい。


 名前がないなら、探してあげればいいと思える。


 でも、名前が怖いなら。


 探すことは、相手を傷つけることになるのかもしれない。


 真昼は、机の上に置いた自分のノートを見た。


 今まで、自分は何度も名前を探してきた。


 エミー。


 天沢灯里。


 古河千景。


 真木彼方。


 御影遥真。


 名前が戻る場所を作りたいと思った。


 でも、相手が名前を怖がっている時、その手はどんな形になるのだろう。


 救いの手か。


 それとも、首を掴む手か。


 レイが言った。


「灯里さんは、優しい人だったんですね」


「はい」


「でも」


 レイは、その先を言いにくそうにした。


 真昼が続きを引き取る。


「でも、優しさだけでは止められなかった」


 部屋が静かになる。


 蛍光灯の小さな唸りだけが聞こえた。


 真昼は、付箋の下にもう一枚、小さな紙が挟まっていることに気づいた。


 灯里の手書き。


 今度は、記事ではない。


 自分だけのメモだ。


 紙の端に、雨染みのような跡がある。


 そこに、一文だけが書かれていた。


 **名前が怖いなら、今日は呼ばない。**


 真昼は、読んだ瞬間、胸が痛くなった。


 痛い。


 エミーの名前が戻った時の痛みとは違う。


 倉科の名前に貼りついた刃の痛みとも違う。


 これは、優しさの痛みだった。


 灯里は、青年を追い詰めたくなかった。


 名前を怖がる相手に、名前を突きつけなかった。


 たぶん、灯里はその場で勝とうとしなかった。


 今日は呼ばない。


 その「今日」は、青年を生かすための猶予だったのだ。


 真昼の指が震えた。


 レイが呼ぶ。


「白瀬真昼」


 真昼は、少し遅れて返す。


「御影レイ」


「かなり近かった」


「はい」


「読むの、やめる?」


「やめません」


「だと思った」


「でも、今のは覚えておきたいです」


「書く?」


「書きます」


 真昼はノートを開いた。


 灯里の一文を、そのまま写さないように少しだけ手を止めた。


 この言葉は、ただコピーするものではない。


 意味を受け取ってから、置くものだ。


 真昼は書いた。


 **灯里さんは、青年の名前を呼ばなかった。

 名前がないからではなく、名前を怖がっていると見たから。

 呼ばないことは、逃避ではなく、その日の優しさだった。**


 ペンを止める。


 そして、次の行を書くのに時間がかかった。


 **でも、呼ばないままにしたことで、青年は名前から逃げ続けたのではないか。**


 その一文を書いた瞬間、真昼は自分の中のどこかが冷えるのを感じた。


 嫌なことを書いた。


 灯里を責めているように見える。


 でも、責めたいわけではない。


 灯里が優しかったことは分かる。


 その優しさが必要だったことも分かる。


 だが、その優しさの後に、何が起きたのか。


 名前を呼ばれなかった青年は、そのまま名前から遠ざかった。


 オメガは名前を消し続けた。


 エミーが死んだ。


 古河千景が死んだ。


 灯里も死んだ。


 倉科は切られた。


 それらをすべて灯里のせいにするのは間違いだ。


 だが、「呼ばない」選択の先に、別の誰かが傷つくこともある。


 真昼は、その可能性から目を逸らしたくなかった。


「白瀬」


 レイが静かに言った。


「自分を責めてる?」


「私?」


「灯里さんのことを考えてる顔じゃなくて、自分がいつか間違えるかもしれない顔になってる」


 真昼は苦笑した。


「御影くん、本当に顔で分かるようになりましたね」


「嫌な成長」


「でも、合ってます」


「やっぱり」


 真昼は、ノートを見た。


「私は、名前を残すことが正しいと思ってます。でも、名前を呼ぶことで傷つく人がいる。呼ばないことで守れる日がある。灯里さんは、それを分かっていたんだと思います」


「うん」


「でも、オメガは」


 真昼は、そこで一度止まる。


「オメガが、本当に名前から逃げるために他の人の名前を奪っているなら。呼ばないことは、守ることじゃなく、逃がすことになるのかもしれない」


 レイは、窓の外を見た。


 空はまた暗くなっている。


 雨が近い。


「それ、怖いですね」


「はい」


「呼んだら壊れるかもしれない」


「はい」


「呼ばなかったら、誰かが壊されるかもしれない」


「はい」


「選びたくない」


「私もです」


 真昼は、自分の手を見た。


 この手でノートを書く。


 この手で名前を残す。


 この手が、いつか誰かの名前を呼ぶ。


 その時、手が震えないわけがない。


「灯里さんは、『今日は呼ばない』と言いました」


 真昼は言った。


「私は、いつか『今は呼ぶ』と言わなきゃいけないのかもしれません」


 レイは、少しだけ目を伏せた。


「その時、僕は止めるかもしれない」


「はい」


「呼んだら、あの人が壊れるって思ったら」


「はい」


「でも、止めきれないかもしれない」


「はい」


「面倒な記録者ですね」


「自覚はあります」


「でも、白瀬がそういう人だから、僕は助かったことがあります」


 真昼は、顔を上げた。


 レイは視線を逸らしている。


「それ、今言います?」


「今じゃないと言えない」


「ずるい」


「たまには」


 真昼は、少しだけ笑った。


 その笑いは、すぐに消えた。


 机の上の貸出票が、かすかに震えたからだった。


 窓は閉まっている。


 風はない。


 真昼とレイは同時に資料を見た。


 天沢灯里の貸出票。


 その裏側。


 さっきまで何もなかった面に、薄い文字が浮かび始めていた。


 真昼は息を止めた。


「御影くん」


「見えてる」


「読んでいいと思います?」


「読まない方がいい」


「でも、読めてしまう」


「途中まで」


 文字は、雨水が紙の内側から滲み出すように浮かぶ。


 最初に見えたのは、姓。


 **篠宮**


 真昼の心臓が強く打つ。


 次に、空白。


 そして、一文字。


 **凪**


 完全に見えた。


 一瞬だけ。


 **篠宮 凪**


 真昼の口が動きかけた。


 レイがすぐに呼ぶ。


「白瀬真昼」


 真昼は、ぎりぎりで声を止めた。


「御影レイ」


 その返事と同時に、貸出票の文字が黒く滲んだ。


 篠宮。


 凪。


 その二つの文字は、雨に濡れたインクのように崩れ、また見えなくなる。


 完全には消えない。


 だが、読めない。


 真昼は、震える息を吐いた。


「見えました」


「うん」


「今、見えました」


「うん」


「でも、まだ呼ばない」


「うん」


 レイの声も硬かった。


 彼にも見えた。


 篠宮凪。


 O-00。


 ノクターン書房。


 名前が怖い青年。


 オメガかもしれない存在。


 その名前が、灯里の貸出票の裏に浮かんだ。


 灯里が「今日は呼ばない」と書いた、その裏に。


 真昼は、ノートを開いた。


 手が震えている。


 それでも、書く。


 ただし、断定はしない。


 **灯里さんの貸出票裏面に、一瞬だけ名前らしき表示。

 篠宮 凪。

 すぐに滲む。

 現時点では断定しない。

 ただし、S.N.?との照合候補として非公開記録に保留。**


 書き終えてから、真昼はペンを置いた。


 灯里のメモをもう一度見る。


 **名前が怖いなら、今日は呼ばない。**


 真昼は、その一文の下に、自分のノートで小さく書いた。


 **今日は、まだ呼ばない。

 でも、いつか呼ぶかもしれない。

 その時まで、名前をなくさない。**


 窓の外で、雨が降り始めた。


 静かな雨だった。


 旧新聞部室の窓ガラスに、水滴が一つ、二つとつく。


 ぽたり。


 その音は、ノクターン書房の閉じた扉の向こうから聞こえてくるようでもあった。


 真昼は、貸出票を資料ケースへ戻した。


 篠宮凪。


 まだ呼ばない。


 でも、もう無かったことにはできない。


 灯里の優しさが残した空白の上に、真昼は新しい責任を見ていた。

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