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第四章 倉科悠斗の封筒

 境界観測局から出た直後、空はまた暗くなっていた。


 雨は降っていない。


 それなのに、アガルタの街は濡れる前から湿っていた。雲は低く、ビルの窓は鈍く曇り、道路の白線は昼間なのに夜の照明を待っているようにくすんで見えた。


 霧生仁の車に乗り込む前、真昼は一度だけ空を見上げた。


 雨が来る。


 そう思った。


 天気予報ではなく、もっと別の感覚だった。


 黒い封筒が届く夜の前に、街の方が先に水音を覚える。


 そんな感じがした。


 後部座席で、レイは無言だった。


 観測局の閲覧室で見た表示が、まだ彼の中に残っているのだろう。


 **O-00 / Nocturne Books / S.N.?**


 O-00。


 危険分類。


 本人名の代替ではない。


 藍沢環は、そう言った。


 真昼は、その言葉を思い出すたびに、胸の奥が少しだけ重くなる。


 番号は便利だ。


 けれど、便利なものは、人を遠ざける。


 A-00。


 R-■■。


 O-00。


 それぞれが、誰かの名前の上に置かれていた。


 そして今度は、篠宮――。


 まだ半分だけの名前。


 まだ呼べない名前。


「白瀬」


 レイが小さく呼んだ。


「はい」


「また、顔が行ってる」


「どこにですか」


「ノクターン書房」


「……行ってました?」


「かなり」


「自覚はあります」


「あるなら戻って」


「戻りました」


 レイは短く頷いた。


 その時、霧生の携帯が鳴った。


 運転席で霧生が片手で出る。


「霧生。……倉科?」


 真昼とレイが同時に顔を上げた。


 霧生の表情がすぐに変わる。


「どこだ。……自宅? 触ったか。……触るな。動くな。玄関の鍵だけ開けておけ。いや、無理なら開けなくていい。窓から入る。……冗談だ、馬鹿。そこにいろ」


 通話を切る前に、霧生は低く言った。


「倉科悠斗。自分の名前を言え」


 車内に、携帯越しの声が微かに漏れた。


『倉科悠斗。……言える。けど、机の上に、また来てる』


「分かった。切るぞ。俺たちが行くまで見るな」


『見えてる位置にあるんだよ』


「目を閉じろ」


『階段で転ぶ』


「座ってろ」


 霧生は通話を切り、ハンドルを切った。


 車が市警へ向かう道を外れ、住宅街の方へ入る。


 透子が助手席で言う。


「二通目ですか」


「らしい。今度は自宅の机の上だとよ」


「封筒の再出現」


「嫌な言い方だな」


「嫌な現象です」


 真昼は、胸が冷えるのを感じた。


「また、倉科さんの名前なんですか」


「そこまでは聞いてない」


 霧生は前を見たまま答えた。


「だが、本人が『また来てる』と言った。黒い封筒だろうな」


 レイは膝の上で手を握っていた。


「倉科さんは、もう自分の名前を取り戻しているのに」


 誰もすぐには答えなかった。


 名前が欠けた人へ、名前を投げ返す。


 それだけではない。


 名前を取り戻した人にも、封筒は届く。


 しかも、完全な名前として。


 倉科悠斗。


 欠けていない名前。


 それが、痛みになる。


 真昼はノートを開きかけて、閉じた。


 車内で書くと、文字が揺れる。


 それに、まだ書くべきではない気がした。


 まず見る。


 聞く。


 必要なら、呼ぶ。


 書くのはその後だ。


     *


 倉科悠斗のアパートは、旧地下鉄保守課の詰所から少し離れた、古い住宅街の中にあった。


 二階建ての木造アパート。


 外階段の塗装はところどころ剥がれ、郵便受けには錆が浮いている。駐輪場には、油の切れた自転車が数台並び、雨ざらしの植木鉢に雑草が伸びていた。


 生活の匂いがする場所だった。


 境界観測局の白い閲覧室とは違う。


 御影家の整った食卓とも違う。


 ここには、乾ききらない洗濯物と、コンビニ袋と、作業靴の泥と、誰かが毎日生きている気配があった。


 霧生が階段を上がる。


 透子が続く。


 真昼とレイは、その後ろを歩いた。


 二階の奥の部屋。


 表札はない。


 ただ、ドアの横に古いキーホルダーがぶら下がっていた。


 小さな女の子が描いたらしい、黄色い電車のプラスチック板。


 油性ペンで、丸い字が書かれている。


 **ゆう兄**


 真昼は、その文字を見て、少しだけ胸が詰まった。


 倉科悠斗。


 旧地下鉄保守課の整備士。


 同魂者。


 黒刃に切られた生存者。


 それだけではない。


 誰かの「ゆう兄」。


 霧生がドアをノックする。


「倉科」


 中から、少し遅れて声がした。


「開いてる」


「勝手に入るぞ」


「言ってから入るなら勝手じゃないだろ」


「元気そうだな」


「元気なら呼ばない」


 霧生がドアを開ける。


 部屋は広くなかった。


 六畳の居間と、小さな台所。


 隅には工具箱。


 壁には古い路線図。


 床には畳んでいない作業着。


 テーブルの上には、カップ麺の容器、未開封の栄養ドリンク、整備マニュアル、子どもの描いた絵が一枚。


 そして、その中央に、黒い封筒があった。


 まるで最初からそこに置かれていたように。


 周囲の生活感から浮き上がる、異物の黒。


 封筒は乾いていた。


 部屋の中は雨に濡れていない。


 それでも、封筒だけが、雨の夜を連れてきたように見えた。


 倉科は、壁際に座っていた。


 顔色が悪い。


 しかし、意識ははっきりしている。


 片膝を立て、片手に水の入ったペットボトルを持っていた。


「お邪魔します」


 真昼が言うと、倉科は片手を上げた。


「散らかってるけど、事件だから許せ」


「事件じゃなくても、たぶん許します」


「それはそれで悲しい」


 レイが言う。


「倉科さん、自分の名前」


 倉科は、苦笑した。


「さっき霧生さんにやられた」


「もう一回」


「厳しいな」


「必要なので」


 倉科は、少しだけ息を整えた。


「倉科悠斗」


 レイは返す。


「御影レイ」


 倉科は頷いた。


「よし。まだいける」


 霧生が封筒の前にしゃがみ込む。


「触ったか」


「触ってない」


「開けたか」


「開けてない」


「見たか」


「見えるんだよ」


「そうだったな」


 霧生は透子へ視線を向ける。


「黒江」


「はい」


 透子は手袋をはめ、封筒の周囲を確認する。


 机の上に水滴はない。


 足跡もない。


 窓は閉まっている。


 鍵もかかっていた。


 郵便受けから入った形跡もない。


 黒い封筒は、ただ机の上にある。


 倉科は言った。


「帰ってきたらあった。朝はなかった」


「誰か入った可能性は」


「鍵は俺と管理会社だけ。管理会社が黒い封筒置きに来るなら、家賃滞納より怖い」


「滞納してるのか」


「してない」


「ならいい」


 真昼は、机の上の絵を見た。


 子どもが描いた黄色い電車。


 横に、小さく「ゆう兄へ」とある。


 その絵のすぐそばに、黒い封筒。


 生活の中へ、異常が置かれている。


 それが何より怖かった。


 レイが封筒を見つめる。


「開きそう」


 透子がすぐに言う。


「全員、距離を」


 霧生が真昼を下げる。


「白瀬、見るな」


「でも」


「今は見るな。名前が出たら呼びたくなるだろ」


「……はい」


 真昼は、視線を少しだけ下げた。


 それでも、封筒の黒が視界の端に残る。


 倉科が、壁際から立ち上がろうとした。


 霧生が睨む。


「動くな」


「俺の封筒だろ」


「だから動くな」


「俺の名前だったら、俺が見ないでどうする」


「病院でどうするか考えろ」


「霧生さん」


 倉科の声が少し低くなった。


「逃げる方が怖い」


 霧生は黙った。


 倉科は続ける。


「前に切られた時、俺は自分の名前を見失いかけた。今度は机の上に置かれてる。逃げたら、あいつに俺の名前の扱い方を任せるみたいで嫌だ」


「……見るなら座ったままだ」


「分かった」


「倒れたら受け身を取れ」


「無茶言うな」


「警察の現場指示だ」


「便利だな、それ」


 封筒の口が、音もなく開いた。


 誰も触れていない。


 糊が剥がれる動きすら見えない。


 ただ、封筒が最初から開いていたことを思い出したように、黒い口を開ける。


 中から、紙片が滑り出た。


 古い貸出票のような紙。


 褪せたクリーム色。


 そこに、黒い文字。


 透子が読み上げない。


 だが、真昼には見えてしまった。


 **倉科悠斗**


 完全な名前だった。


 一文字も欠けていない。


 滲んでいない。


 揺れてもいない。


 その完璧さが、刃のようだった。


 倉科の呼吸が止まった。


 次の瞬間、彼は胸を押さえ、床へ膝をついた。


「倉科!」


 霧生が駆け寄る。


 倉科は、声にならない声を漏らした。


 真昼は反射的に前へ出ようとしたが、レイが手を伸ばして止めた。


「白瀬、待って」


「でも」


「名前」


 レイの目が揺れている。


 彼にも入ってきているのだ。


 倉科の痛み。


 同魂者の残響。


 黒刃で切られた記憶。


 真昼は、その場で足を止めた。


 倉科は床に片手をつき、もう片方の手で胸元を掴んでいる。


 汗が額に浮かぶ。


 呼吸が荒い。


「痛い……っ」


 透子がそばに膝をつく。


「倉科さん、現在地を言えますか」


「部屋……俺の、部屋……」


「名前」


「倉科、悠斗」


「今見えているものは?」


 倉科の目が焦点を失う。


 部屋を見ていない。


 別の場所を見ている。


「線路」


 彼は言った。


「古い線路。水。作業灯。黄色い……反射ベスト」


 レイが、低く呻いた。


 真昼が呼ぶ。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


 返事はあった。


 だが、声が遠い。


 倉科の記憶が、レイにも触れている。


 倉科は、床に爪を立てるようにして言った。


「俺じゃない。俺じゃないのに、俺の手が……いや、違う。古河……古河、千景」


 その名前が出た瞬間、部屋の蛍光灯が一度だけ瞬いた。


 真昼の胸が締めつけられる。


 古河千景。


 最初に殺されたレイ系同魂者。


 倉科は、その残響を見ている。


 そして、レイも。


     *


 閉鎖ホーム。


 雨の音はない。


 なのに、全身が濡れている。


 古い作業灯の黄色い光が、黒い水たまりに揺れている。


 ヘルメットの内側が蒸れている。


 手袋の中の指先が冷たい。


 古河千景は、一人で立っている。


 いや、一人ではない。


 誰かに見られている。


 それが分かる。


 ホームの端に立つ黒い傘。


 旧地下鉄の中に、傘など必要ない。


 雨は降っていない。


 それなのに、その傘には水滴がついている。


 ぽたり。


 傘の先から、水が落ちる。


 古河千景は、後ずさる。


 手にはメモ帳。


 そこに何度も書いた名前。


 **古河千景。

 古河千景。

 古河千景。**


 書けば書くほど、自分が誰かに見られている気がした。


 自分の名前を、遠くの誰かが読んでいる。


 自分の恐怖を、遠くの誰かが知っている。


 自分の死を、まだ死んでいない誰かが待っている。


 黒い傘の下から、声がする。


「怖がらなくていい」


 穏やかな声。


 丁寧な声。


 記憶に残りにくい声。


「これは終わりではない」


 古河千景は震える。


「誰だ」


 声は返らない。


 代わりに、黒い手袋の手が見える。


 光を吸う刃。


 黒刃ヌル


 刃は、金属のように光らない。


 そこだけ世界が記録を失っている。


 古河千景は、メモ帳を握りしめる。


「僕は」


 声が震える。


「古河千景だ」


 黒い傘の人物が、少しだけ首を傾ける。


「その名前も、見られている」


「違う」


「お前の痛みも、誰かに届く」


「違う」


「お前の死も、誰かの記憶になる」


「やめろ」


「なら、切ろう」


 刃が入る。


 胸ではない。


 腹でもない。


 名前の根に。


 古河千景という文字を、この世界へ結んでいた細い糸に。


 痛みが走る。


 叫びが出る。


 だが、声より先に、名前が裂ける。


 古河――


 千――


 景――


 ばらばらになる。


 その瞬間、別の痛みが重なる。


 倉科悠斗の痛み。


 旧地下鉄の別の場所。


 黒刃に切られた時の記憶。


 完全には死ななかった。


 でも、名前の縁を切られた。


 自分の工具箱。


 姪のキーホルダー。


 夜勤のシフト表。


 古い路線図。


 それらが一瞬、遠ざかる。


 倉科悠斗。


 倉科悠斗。


 倉科悠斗。


 名前だけが残り、それに痛みが巻きついてくる。


     *


 倉科は、現実の部屋で叫んだ。


 声は掠れていた。


 だが、痛みは確かだった。


「返すなら……」


 彼は床に膝をついたまま、歯を食いしばる。


 霧生が肩を支える。


 透子が脈を確認する。


 真昼は、動けないままその声を聞いた。


「返すなら、痛みまでまとめて投げ返してくるなよ」


 その言葉は、すでに特殺室でも聞いた。


 でも、今は違った。


 報告ではない。


 要約ではない。


 床に膝をつき、胸を掴み、息もできない人間の口から出た言葉だった。


 真昼の中で、何かが崩れた。


 名前を戻す。


 名前を残す。


 名前を呼ぶ。


 自分がずっと大切だと思ってきたこと。


 それは間違っていない。


 間違っていないはずだ。


 でも、名前が戻ることで、ここまで痛む人がいる。


 倉科悠斗という完全な名前が、彼の胸を切っている。


 真昼は、自分のノートを抱えた。


 書きたいのに、怖い。


 書くことで、この痛みをもう一度開くのではないか。


 レイも、顔色を失っていた。


「僕は」


 彼が呟く。


「僕は、名前を取り戻すことが、救いだと思ってた」


 真昼は、レイを見る。


 レイは倉科から目を離せない。


「エミーの名前を。古河さんの名前を。父さんの名前を。戻せば、少なくとも消えないって」


「御影くん」


「でも、戻るって、こういうことでもあるんだ」


 レイの声が震えた。


 それは、逃げの声ではなかった。


 知ってしまった声だった。


 名前を取り戻すことは、死者を静かに慰めることではない。


 傷も、痛みも、恐怖も、その名に結びついて戻ってくる。


 それを誰が受け止めるのか。


 それを考えずに「名前を戻そう」と言っていたのかもしれない。


 真昼は、胸の奥が苦しくなった。


 自分も同じだ。


 名前を残すことを信じてきた。


 今も信じている。


 でも、その名前を持つ人が痛みに耐えられるかどうかまで、いつも考えていただろうか。


 倉科が、荒い息の中で笑った。


「おい」


 霧生が言う。


「しゃべるな」


「しゃべらないと、変なところに行きそうなんだよ」


「なら短くしゃべれ」


「無茶ばっか言う」


 倉科は、顔を上げた。


 目は赤い。


 汗で髪が額に貼りついている。


 それでも、視線ははっきりしていた。


「御影」


「はい」


「今、変な顔してる」


「……すみません」


「謝るな。腹立つ」


「はい」


「名前を戻すのが全部救いかって言われたら、違うんだろうな」


 倉科は、息を整えながら言った。


「痛い。めちゃくちゃ痛い。黒い刃の痛みも、古河千景の最後も、勝手に入ってきた。俺は古河さんじゃないのに、死ぬ時の怖さまで来た」


 部屋の空気が重くなる。


 倉科は続けた。


「でも」


 声が少し強くなる。


「痛いけど、俺の名前だ」


 レイは、息を止めた。


 倉科は、床に手をついたまま、はっきりと言った。


「返されたんじゃない。元から俺のだ」


 その言葉は、部屋の中に置かれた。


 黒い封筒の黒よりも強く。


 紙片の文字よりも深く。


 真昼は、ゆっくりノートを開いた。


 手は震えていた。


 それでも、書いた。


 **倉科悠斗。

 完全な名前。

 返却ではない。

 元から彼のもの。

 痛みが戻っても、名前の所有者は封筒ではない。

 オメガでもない。

 倉科悠斗本人。**


 レイは、倉科を見つめていた。


「倉科さん」


「何」


「僕は、名前を戻すことを、まだ信じてもいいんですか」


 倉科は、少し困ったように顔を歪めた。


「俺に聞くなよ」


「すみません」


「でも」


 倉科は、壁に背を預ける。


「信じるなら、痛いこと込みで信じろ」


 レイは黙った。


「名前って、綺麗な札じゃないんだろ。仕事も、失敗も、怪我も、家賃の支払いも、姪に変な絵を描かれることも、全部くっついてる。痛い記憶だけ外して、名前だけきれいに戻すなんて、たぶんできない」


 真昼は、ペンを止めなかった。


 倉科の言葉を、ひとつも落としたくなかった。


「だから、痛い。でも、俺の名前だ」


 倉科は、もう一度言った。


「捨てない」


 その瞬間、机の上の紙片に書かれた**倉科悠斗**の文字が、わずかに揺れた。


 黒く滲むかと思った。


 しかし、滲まなかった。


 文字はそこに残った。


 ただ、紙片の裏側から、別の文字が薄く浮かんだ。


 透子が気づき、資料ケースをかざす。


 全員が見る。


 裏面には、ノクターン書房の貸出票と同じ形式の罫線があった。


 貸出日欄。


 返却期限欄。


 利用者名欄。


 そこに、黒い文字が一瞬だけ浮かぶ。


 **Nocturne Books**


 そして、すぐに消えた。


 霧生が低く言う。


「つながったな」


 透子は頷く。


「はい。封筒の中身は、やはりノクターン書房の貸出票形式を媒介にしています」


 レイが呟く。


「名前を貸し出してるみたいだ」


 真昼は、その言葉にぞっとした。


 貸出票。


 名前。


 返却。


 借りたもののように、名前を扱う形式。


 でも、倉科は言った。


 元から俺のだ。


 貸した覚えなどない。


 返されたわけでもない。


 真昼は、ノートの端に強く書いた。


 **名前は貸出物ではない。**


 倉科は、真昼の手元を見ていた。


「白瀬」


「はい」


「それ、公開するなよ」


「しません」


「でも、消すなよ」


「消しません」


「ならいい」


 霧生が呆れたように言う。


「お前ら、その会話好きだな」


「必要なので」


 真昼と倉科が同時に答えた。


 レイが少しだけ笑った。


 本当に少しだけ。


 だが、その笑いは暗い部屋の中で、確かに見えた。


 透子が倉科へ言う。


「病院へ行きましょう。発作の再燃があります」


「またか」


「またです」


「今度は車椅子?」


「階段があるので、担架も検討します」


「それはやめてくれ。近所で噂になる」


 霧生が立ち上がる。


「噂より命だ」


「刑事の台詞として正しいけど、生活者としては嫌だ」


「その生活を守るために病院だ」


 倉科は諦めたように息を吐いた。


「分かった。行く」


 レイが手を差し出した。


 倉科はそれを見て、少しだけ迷った。


 それから、掴んだ。


 レイが引き上げる。


 倉科の体は重かった。


 痛みが残っているのだ。


 それでも、彼は自分の足で立った。


 玄関へ向かう前に、倉科は机の上の紙片を見た。


 **倉科悠斗**


 完全な名前。


 痛みのついた名前。


 それでも、彼のもの。


「倉科悠斗」


 レイが呼んだ。


 倉科は、少し顔をしかめた。


 痛むのだろう。


 でも、返した。


「御影レイ」


 真昼も呼ぶ。


「倉科悠斗さん」


「白瀬真昼」


 霧生が最後に言う。


「倉科悠斗、病院行きだ」


「名前を呼ぶ時まで命令かよ」


「現場指示だ」


「便利すぎる」


 倉科はそう言って、玄関へ向かった。


 外では、とうとう雨が降り始めていた。


 細い雨。


 アパートの鉄階段に、ぽつぽつと水滴が落ちる。


 ぽたり。


 その音に、真昼は一瞬だけ身を固くした。


 だが、すぐにノートを抱え直した。


 雨は降る。


 封筒は届く。


 名前は痛む。


 それでも、名前は誰かのものだ。


 封筒のものではない。


 オメガのものでもない。


 倉科悠斗は、痛みに膝をついても、自分の名前を手放さなかった。


 真昼はその事実を、強く、濡れない場所へ書き残した。

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