第三章 O-00
境界観測局アガルタ支局は、雨上がりの街にあっても濡れていなかった。
それは、ただ屋根があるからではない。
建物そのものが、雨を記録として受け取っていないように見えた。
白灰色の外壁。
青白いガラス。
正面ゲートの識別端末。
職員証をかざす者だけが通れる回転扉。
地上から見ると、そこはただの行政研究施設に似ている。古びた市役所より清潔で、大学病院より静かで、警察署より人の出入りが少ない。
だが、一歩中へ入ると分かる。
ここは、人を人として迎えるための建物ではない。
人を記録として処理するための建物だ。
真昼は受付前で、手袋をはめた職員に臨時入構証を渡された。
そこには、彼女の名前が印字されている。
**白瀬真昼**
文字がある。
消えていない。
それだけで、少しだけ安心してしまう自分がいる。
同時に、その安心が危ういとも思う。
ここでは、名前があることも、番号があることも、どちらも安全ではない。
「白瀬」
隣でレイが低く呼んだ。
真昼は顔を上げる。
「はい」
「入構証、見すぎ」
「見ますよ。ここだと、あるか確認したくなります」
「分かる」
レイも、自分の臨時入構証を見ていた。
**御影レイ**
その名前の下に、小さく注意書きがある。
**観測補助対象/市警同行**
A-00とは書かれていない。
少なくとも、表面には。
真昼はそれを見て、ほんの少しだけ息を吐いた。
「A-00って書いてないですね」
「書いてあったら帰る」
「本当に?」
「……たぶん、怒る」
「帰る前に?」
「うん」
そう言えるようになったのだと、真昼は思った。
少し前なら、レイは自分が番号で呼ばれることに黙って耐えようとしたかもしれない。自分が危険なら、自分が引き渡されればいいと考えたかもしれない。
今も、その誘惑が消えたわけではない。
でも、レイは怒ると言った。
それは小さいようで、大きな変化だった。
受付前の待機スペースには、霧生仁と黒江透子もいた。
霧生は、古いコートのポケットに両手を突っ込んでいる。警察署では見慣れたくたびれた姿だが、観測局の無機質なロビーでは、妙に浮いていた。
本人もそれを自覚しているのか、周囲を見渡してぼやく。
「何回来ても落ち着かねえな、ここは」
透子が言う。
「慣れる必要はありません」
「元職員が言うと説得力があるんだかないんだか」
「私は慣れすぎていたので」
霧生は、少しだけ透子を見る。
からかうような表情ではなかった。
「今は?」
「落ち着きません」
「なら正常だ」
受付の奥から、藍沢環が現れた。
灰白色のスーツ。
青灰色の手袋。
首元の職員証。
姿勢はいつも通り真っ直ぐで、歩幅も乱れない。
だが、真昼はすぐに気づいた。
疲れている。
髪の一部が耳の後ろから落ちている。普段なら絶対に見逃さないような小さな乱れだ。目元にも、ほんのわずかに影がある。
たぶん、ほとんど眠っていない。
「お待たせしました」
藍沢は、全員に軽く頭を下げた。
「記録保全部閲覧室へ案内します。今回は、正式開示ではありません」
霧生が眉を上げる。
「最初からそれか」
「最初に言う必要があります」
「つまり、こっちが聞きたいことの大半は拒否される」
「正式には、そうなります」
「正式には」
霧生がその言葉を拾う。
藍沢は、わずかに間を置いた。
「はい。正式には」
真昼は、その小さな間を聞き逃さなかった。
前に藍沢は規則を破るようにして、御影遥真の痕跡を見せてくれた。番号を杭として使いながら、名前を墓標にしないために。
今の藍沢は、完全な味方ではない。
でも、完全な壁でもない。
その微妙な距離感が、今日の話し合いを難しくしている。
*
記録保全部閲覧室は、以前と同じく白く、静かだった。
四方の壁に資料棚はない。
紙の資料もほとんど見えない。
中央に、灰色の長机。
その上に、独立型の記録端末が一台。
窓はあるが、外の景色は映っていない。薄い曇りガラスの向こうに、雨雲の色だけが滲んでいる。
部屋の入口で、藍沢が注意を告げた。
「本日の閲覧範囲は、O-00関連記録の概要に限ります。未承認個人名候補、Null-03事故詳細、黒刃保管記録、ノクターン書房地下構造については、必要最小限の関連情報のみ提示します」
霧生が椅子を引く。
「最小限の基準は」
「私が判断します」
「便利な基準だ」
「危険な情報ですので」
「危険なのは分かってる。だが、隠されすぎるとこっちが事故る」
「その点は理解しています」
藍沢は、端末へ職員証をかざした。
画面が起動する。
青白い認証画面。
数列。
職員番号。
記録保全部の認証印。
次に、黒い画面へ文字が浮かぶ。
**O-00 関連記録 / 概要閲覧**
その表示が出た瞬間、レイの肩がわずかに強張った。
真昼はそれに気づき、すぐに呼ぶ。
「御影レイ」
レイは、画面から目を離さずに答えた。
「白瀬真昼」
藍沢が二人を見る。
記録するような目ではある。
だが、以前のようにただ観測しているだけではない。
「呼称確認を続けてください」
「言われなくても」
真昼が少しだけ硬い声で答える。
藍沢は、責める様子もなく頷いた。
「それで構いません」
画面に、最初の資料が表示される。
**O-00**
**分類:抹消活動体観測番号**
**初期観測:Null-03事故後**
**状態:個人名未確定/活動継続**
**関連現象:名前欠落、同魂者記憶断絶、観測記録破損、黒刃痕**
**残響特徴:黒い傘、雨、無記性反応**
真昼は、ノートを開こうとして、藍沢を見た。
「書いても?」
「手書き一次記録のみ可。端末入力、撮影、複写は禁止します。記録内容は帰還後に確認してください」
「はい」
霧生が横から言う。
「白瀬、強い記録を振り回すな」
「もう言われなくても分かっています」
「本当に?」
「九割くらい」
「残り一割を御影が見張れ」
「了解です」
「御影くんまで」
短いやり取りのあと、藍沢が説明を始めた。
「O-00は、正式には単独人物記録ではありません」
真昼は、最初の一文でペンを止めた。
R-■■の時にも聞いた言葉だ。
一人分ではない。
単独人物記録ではない。
番号は、いつも人間を遠ざけるように現れる。
藍沢は続ける。
「O-00とは、Null-03事故後に初めて観測された、抹消活動体の観測番号です。境界観測局内では、通称としてオメガ活動体と呼ばれます」
レイが低く言う。
「オメガ」
その言葉だけで、部屋の空気が少し沈む。
レイが名づけた対存在。
すべての同魂者を観測するアルファに対し、すべての同魂者を消去する者。
だが、ここでは、それは感情のある呼び名ではなく、記録分類として表示されている。
**抹消活動体**
真昼は、その言葉が嫌だった。
抹消。
活動体。
人間の温度がない。
「活動体って、何ですか」
真昼は聞いた。
「人ではないという意味ですか」
藍沢は、すぐには答えなかった。
そこに慎重さがあった。
「観測局の分類上、肉体的個人と直接同一視できない現象体を指します」
「分かりにくいです」
「簡単に言うなら」
藍沢は画面を見た。
「人間かどうか確認できないが、人間のように活動している記録異常です」
「それは、人間じゃないと決めているわけではない?」
「決めていません」
真昼はペンを動かした。
**O-00=単独人物ではなく、抹消活動体の観測番号。
人間でないと確定したわけではない。
人間であると確認できていない。**
霧生が腕を組む。
「警察としては面倒な分類だな」
「はい」
透子が答えた。
「人間なら被疑者。現象なら災害。記録異常なら観測局案件。O-00は、そのどれにも完全には入らない」
「だから、どこの責任にもならなかった?」
霧生の声が低くなる。
藍沢は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「その可能性はあります」
霧生は舌打ちした。
「最悪だな」
「否定しません」
藍沢は画面を切り替えた。
次の資料には、黒い線で大部分が伏せられている。
伏せ字の隙間から読めるのは、断片だけだった。
**Null-03事故後**
**初回抹消反応**
**名前記録欠落**
**アニマ接続断絶**
**黒刃痕一致**
透子の顔が硬くなる。
真昼は、その横顔を見た。
真木彼方。
K-117。
Null-03事故。
透子がまだ完全には呼べない名前。
この資料は、そこへ近い。
「O-00は、Null-03事故と関係しているんですね」
真昼が聞く。
藍沢は、公式の答えを選ぶように少し間を置いた。
「事故後に初めて観測されています」
「関係しているかではなく?」
「正式には、因果関係未確定です」
「非正式には?」
霧生が言う。
藍沢は霧生を見た。
「強い関連があります」
透子が目を伏せた。
その手が、机の下で少しだけ握られている。
霧生は、それに気づいている。
だが、今は止めなかった。
藍沢は説明を続ける。
「O-00の活動時には、共通する痕跡が確認されます。第一に、対象者または周辺記録から名前が欠落する。第二に、同魂者記憶の接続が断絶する。第三に、観測記録、映像、写真、音声のいずれかに破損が生じる。第四に、黒刃の使用痕と一致する記憶切断反応が検出される」
「黒刃を持っている」
レイが言った。
藍沢は頷く。
「少なくとも、O-00活動時には黒刃の反応が伴います」
「遠回し」
「持っていると断定する記録は、正式には開示できません」
霧生が眉をひそめる。
「じゃあ、こっちはどう報告すればいい。黒いナイフっぽいものを持ってるかもしれない不確定活動体が、名前っぽいものを切った可能性がある、とでも?」
「現場報告としては、被害者証言および記録反応に基づき、黒刃類似物の関与が強く疑われる、が妥当です」
「報告書文体としては優秀だが、聞いてると腹が立つな」
「承知しています」
「承知するな」
藍沢は画面をまた切り替えた。
今度は、画像ではなく波形に近い資料だった。
黒い傘のようなシルエット。
雨のノイズ。
その下に注記。
**黒傘残響**
真昼の手が止まる。
黒い傘。
エミーの最期。
古河千景の閉鎖ホーム。
灯里の古書店。
ノクターン書房。
すべての場所に、黒い傘があった。
「O-00活動時、黒い傘の残響が現れます」
藍沢は言った。
「物理的な傘が残るわけではありません。現場の映像、被害者の記憶、記録層の残響、水たまりの反射、夢などに共通して現れる象徴痕跡です」
「象徴痕跡」
真昼は繰り返す。
「傘そのものじゃなく、記録に残る形」
「はい」
「でも、ノクターン書房の前で見た黒い封筒も、傘の裏地みたいな質感でした」
「記録形式が近い可能性があります。黒い傘、黒い封筒、黒刃。いずれも、無記性反応を持つ黒い媒体として関連しています」
レイが低く言う。
「何も残したくないのに、黒だけは残る」
室内が静かになった。
藍沢がレイを見る。
「興味深い表現です」
レイは顔をしかめる。
「観測しないでください」
「失礼しました」
藍沢は、本当に少しだけ頭を下げた。
真昼は、その小さな変化を見た。
以前の藍沢なら、たぶん「表現も記録の一部です」と言った。
今は謝った。
その違いが、少し胸に残る。
「次に、ノクターン書房との関係です」
藍沢が画面を切り替える。
店の外観写真。
黒い木枠の扉。
臨時休業の札。
貸出票。
そして、文字。
**O-00 / 篠宮――**
レイの指が、机の上でわずかに動いた。
真昼は呼ぶ。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
藍沢は、その呼称確認を待ってから続けた。
「ノクターン書房の青年とO-00の照合は、公式には未承認です」
真昼がすぐに聞いた。
「未承認って、違うという意味ですか」
藍沢は、真昼を見た。
その目は冷たいのではなく、慎重だった。
「違うと確認されたわけではありません」
そして、少しだけ声を落とした。
「確認すると、壊れる可能性があるという意味です」
真昼は、ペンを止めた。
「壊れるって、誰が」
「複数の可能性があります。ノクターン書房の青年の残存記録。O-00関連記録。篠宮――と表示される個人名候補。白瀬真昼さん、あなたの記録反応。御影レイさんの同魂者記憶。あるいは、そのすべて」
「名前を確認するだけで?」
「名前を確認するだけで、です」
藍沢の声は硬かった。
「O-00は、名前を失っているのではありません。名前を消し続けている可能性が高い。そこへ外部から個人名を固定すれば、逃げ道を失った記録が反発する」
「逃げ道」
真昼は、その言葉に引っかかった。
「名前から逃げてるんですか」
「可能性です」
「でも、逃げるために他の人の名前を奪っているなら」
真昼の声が強くなりかけた。
レイが小さく呼ぶ。
「白瀬真昼」
真昼は息を吸う。
「御影レイ」
落ち着く。
ここで怒りだけで踏み込むと、たぶん危険だ。
藍沢は、静かに言った。
「あなたが怒る理由は分かります」
真昼は少しだけ目を見開いた。
藍沢がそう言うと、以前なら、続く言葉は「ですが、怒りは記録形式になりません」だった。
今も、そう言うのかと思った。
だが、藍沢は違う言葉を選んだ。
「だからこそ、急いで固定してはいけません。怒りで呼ぶ名前は、対象を裁く力にもなりますが、記録を壊す力にもなります」
真昼は、何も言えなかった。
怒りで呼ぶ名前。
それは、今後自分が向き合うことになる言葉だった。
レイは、O-00の文字を見ていた。
やがて、低く言う。
「嫌ですね」
藍沢が反応する。
「何がでしょうか」
「O-00」
レイは、表示から目を逸らさない。
「A-00って呼ばれた時と似てる。でも、少し違う」
「違いは?」
「A-00は、僕が連れていかれそうになる番号でした。O-00は、誰かが逃げるために使ってる番号に見える」
藍沢は、記録端末に指を置いたまま黙った。
レイは続ける。
「オメガって呼んだのは、僕です。アルファの反対だから。全部を見てしまう僕に対して、全部を消そうとする誰か。そう思った。でも、O-00って表示されると、その誰かがますます遠くなる」
「遠くなる?」
「責任が消える」
その言葉に、霧生がわずかに目を細めた。
レイは言った。
「O-00がやった。オメガ活動体がやった。そう言えば、誰がエミーを殺したのか、誰が古河千景を殺したのか、誰が灯里さんを殺したのか、誰が倉科さんを切ったのか、遠くなる」
真昼は、ペンを握りしめた。
まさに、それだと思った。
番号は便利だ。
でも、便利な言葉は、人間を遠ざける。
藍沢は、レイを見つめた。
以前なら、番号は必要です、と答えたかもしれない。
今の彼女は、少しだけ違った。
「O-00は危険分類です」
藍沢は言った。
声は静かだった。
「ですが、本人名の代替ではありません」
真昼は、息を止めた。
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ震える。
藍沢環が、番号を使う人が、本人名の代替ではないと言った。
R-■■の時にも、彼女は変わり始めていた。
でも、今の言葉はさらに踏み込んでいる。
O-00。
危険分類。
でも、本人名ではない。
「では、本人名があるんですか」
真昼は聞いた。
藍沢は、すぐには答えない。
「候補があります」
「篠宮――」
「現時点では、その先をこの場で口にしないでください」
「分かっています」
「分かっていても、確認します」
「……はい」
霧生が横から言う。
「白瀬は、分かっていても足が出るからな」
「名前ではなく足ですか」
「どっちも出る」
「否定しづらい」
藍沢は、そこで端末を操作した。
画面が一度暗くなる。
真昼は、彼女の手元を見た。
正式な閲覧画面ではない。
別の領域を開いている。
藍沢は一瞬、迷ったように見えた。
それから、机の上に置いていた透明な資料ケースを取り出した。
中には、古いメモが一枚入っていた。
紙は黄ばんでいる。
端が少し焦げているようにも見える。
タイプ印字ではなく、手書きのメモを後からスキャンしたものの複写らしい。
藍沢は言った。
「これは、正式開示資料ではありません」
霧生が低く言う。
「またそれか」
「はい」
「聞かなかったことにするか?」
「いいえ。聞いたことにしてください。ただし、出所は記録保全部未整理メモ群です。正式根拠としては使えません」
「じゃあ何に使える」
「問いの位置を決めるために」
藍沢は、資料ケースを真昼たちの方へ向けた。
そこには、短い文字列があった。
**O-00 / Nocturne Books / S.N.?**
真昼は、その文字を見た。
O-00。
Nocturne Books。
S.N.?
心臓が一度、強く打つ。
S.N.
篠宮――。
Nは、何なのか。
凪なのか。
それとも別の名なのか。
まだ確定できない。
でも、ノクターン書房とO-00と、S.N.という頭文字が同じメモの上に並んでいる。
レイは、手を机の上で握った。
「これを、いつから持ってたんですか」
藍沢は答える。
「未整理メモ群の中にありました。R-■■関連資料を洗い直した際、O-00周辺記録の不整合として再発見しました」
「どうして前に言わなかったんですか」
レイの声には、怒りが混じっていた。
藍沢は、逃げなかった。
「当時は、R-■■の処理が優先でした。また、S.N.を不用意に提示すれば、ノクターン書房の青年、O-00、篠宮――の三つが誤結合する可能性がありました」
「今はいいんですか」
「よくはありません」
藍沢は言った。
「ですが、黒い封筒が出現し、O-00関連記録が自発的にこの照合へ近づいています。こちらが黙っていても、現象側が接続を進めています」
真昼は、ノートへゆっくり書いた。
**O-00 / Nocturne Books / S.N.?
公式未承認。
でも、違うと確認されたわけではない。
確認すると壊れる可能性がある。
名前は、答えではなく、危険な接続点。**
書き終えた瞬間、胸の奥が少し熱くなった。
天沢灯里の言葉が、また浮かぶ。
名前が怖いなら、今日は呼ばない。
真昼は、資料ケースの中のS.N.?を見つめた。
今日は呼ばない。
まだ呼ばない。
でも、探さないわけではない。
霧生が立ち上がった。
「必要なことは聞いた。正式には何も出せないが、非正式にはかなり嫌な線が見えた。そういう理解でいいな」
「はい」
藍沢は答えた。
「O-00は危険分類。ノクターン書房との関連は強い。S.N.という未承認個人名候補が存在する。ただし、現時点では完全呼称禁止。これが私から言える最大です」
「十分じゃないが、ゼロよりはましだ」
霧生は資料ケースを見た。
「黒江」
「はい」
「市警側では、O-00を人間の可能性がある被疑対象として扱う。現象扱いで逃がさない」
「同意します」
「白瀬」
「はい」
「お前は、これを公開するな」
「しません」
「非公開で書くなとは言わん。ただし、篠宮の先はまだ書くな」
真昼は、少しだけ悩んだ。
書きたい。
書いて、置きたい。
でも、今はまだ置き場所が足りない。
「……はい」
レイが真昼を見る。
真昼は言う。
「今は、篠宮――までにします」
藍沢が静かに頷いた。
「適切です」
その時、閲覧室の照明が一瞬だけ暗くなった。
端末の画面に、ノイズが走る。
O-00の表示が、薄く揺れた。
誰も触れていないのに、画面の下端に黒い水滴のような滲みが広がる。
ぽたり。
音がした。
机の上ではない。
画面の中から。
藍沢がすぐに端末を遮断する。
表示が消える直前、画面に一行だけ浮かんだ。
**名前を探さないでください**
真昼の背筋が冷えた。
同じ言葉。
ノクターン書房の棚の奥で、レイが聞いた声。
藍沢は端末を閉じ、深く息を吐いた。
「O-00側も、こちらを見ています」
霧生が低く言う。
「向こうが見てるなら、こっちも捜査だ」
真昼は、閉じたノートを胸に抱えた。
名前を探さないでください。
その声は、震えているようにも聞こえた。
でも、真昼はもう知っている。
怖がっているからといって、奪った名前が返るわけではない。
呼ばないことで守れる名前もある。
でも、呼ばれずに逃げていい名前ではないかもしれない。
まだ、答えは出ない。
ただ、次に見るべき文字は分かった。
O-00。
Nocturne Books。
S.N.?
篠宮――。
名前は、まだ半分だけ扉の向こうにあった。




