第二章 名前返却事件
特異殺人対策室のホワイトボードは、名前で埋まり始めていた。
ただし、その名前はどれも不完全だった。
**Emmy Grace Harper**
これはまだ読める。
その下に、赤いマグネットで留められた現場写真。
クラブ《ミラー・ルージュ》裏口。
黒い封筒。
雨に濡れていない紙片。
膝をついている女性。
照明担当の堂島が通報した時刻。
続いて、
**古河千景**
旧地下鉄保守課詰所。
古い安全確認票。
黒い封筒。
記憶発作を起こした夜勤職員。
その横に、
**天沢灯――**
最後の一文字は、黒く滲んだ写真のように伏せられている。
アガルタ市立中央図書館分室。
寄贈資料整理室。
焼けたように浮かび上がった手帳の文字。
さらにその下。
**倉科悠斗**
これは、完全な名前だった。
完全であることが、かえって痛々しく見えた。
霧生仁は、ホワイトボードの前に立ち、腕を組んでいた。
朝からずっと不機嫌な顔をしている。
もっとも、彼が機嫌よさそうな顔をしている日など、真昼はほとんど見たことがない。
だが、今日は違う。
くたびれているのではない。
怒っている。
室内の机には、黒い封筒が四通、透明な証拠袋に入れられて並んでいた。
封筒はどれも同じ黒。
照明を吸うような紙質。
雨の現場で見つかっているのに、濡れた痕跡がない。
横には、中に入っていた紙片や貸出票が個別のケースに収められている。
真昼は、机から少し離れた場所に座っていた。
ノートは膝の上。
開いている。
だが、公開記事用ではない。
非公開記録用。
表紙の端に、自分で書いた小さな文字がある。
**公開しない。
でも、消さない。**
レイは、真昼の隣に座っていた。
顔色は悪くない。
だが、視線は何度もホワイトボードの「倉科悠斗」に向かう。
完全な名前。
それが、今は刃に見える。
御堂圭吾が、端末を大型モニターへ接続していた。
細い指がキーボードを叩くたび、画面上に事件概要が整理されていく。
御堂は眼鏡を押し上げ、淡々と説明を始めた。
「現時点で確認された類似案件は四件です。いずれも黒い封筒が出現。宛名、差出人、消印なし。郵送経路不明。封筒内部に人名または分類番号と人名の断片を記した紙片が入っていました」
霧生が言う。
「入っていました、じゃなくて勝手に出てきたんだろ」
「報告上は、封筒内に封入されていた紙片が開封時に露出、とします」
「書類が上品すぎる」
「主任の表現をそのまま書くと、監査で止まります」
「俺は何て言った」
「『勝手に口を開ける封筒』です」
「そっちの方が正確だ」
「正確ですが、報告書としては負けです」
綾瀬直央が、書類の束を抱えて入ってきた。
「救急搬送された三名の初期診断です。全員、身体的外傷はありません。ただし、急性ストレス反応、記憶錯乱、名前認識障害、一時的な幻覚症状が確認されています」
「幻覚、ねえ」
霧生は、缶コーヒーのプルタブを開けた。
「当人たちにとっちゃ、幻覚で済まねえだろうな」
真昼は、ノートへ書いた。
**身体的外傷なし。
記憶上の外傷あり。
名前が戻ることで、傷も戻る。**
ペン先が紙を強く押す。
黒江透子が、証拠袋の前に立った。
「まず、クラブ《ミラー・ルージュ》の件から」
モニターに、現場写真が表示される。
雨の裏口。
黒い封筒。
白い紙片。
**Emmy Grace Harper**
真昼は、その文字を見た瞬間、胸の奥が微かに熱くなるのを感じた。
エミー・グレイス・ハーパー。
最初に名前を取り戻した人。
レイが、同魂者を「自分の一部」ではなく、一人の人間として見るきっかけになった人。
彼女の名前は、もう戻ったはずだった。
真昼の記録にもある。
市警の報告書にもある。
《アガルタ観測録》の非公開版にも、公開記事にも、形を変えて残した。
それなのに、黒い封筒はその名前をもう一度投げ込んできた。
透子が説明を続ける。
「受取者は瀬尾杏奈。現在二十二歳。クラブ《ミラー・ルージュ》所属ダンサー。エミー・グレイス・ハーパーと生前に面識あり。ただし、事件後、彼女の名前を完全には想起できない状態が続いていたようです」
レイが低く言う。
「覚えてたのに、言えなかった?」
「はい。通称のエミーまでは思い出せても、フルネームに到達できない。写真の顔もぼやけて見える。これは、黒刃による名前欠落被害者の周辺者に見られる症状と一致します」
霧生が画面を見る。
「封筒の紙片を見た途端、フルネームを思い出した」
「同時に、エミーさんの死亡時残響と思われる記憶を追体験しています。舞台照明、血の匂い、黒い傘、黒い刃、名前を切られる感覚」
綾瀬が顔をしかめた。
「名前を切られる感覚って、どう報告すればいいんですか」
「そのまま」
霧生が言う。
「被害者証言に、本人の表現として残せ」
「はい」
「こっちが分かりやすく言い換えると、たぶん別物になる」
透子が頷いた。
「名前欠落現象において、比喩表現は症状そのものを示す場合があります。『名前が痛い』『名前を引き抜かれた』『名前が焼ける』。これらは、単なる文学的表現ではありません」
真昼は、無意識に自分の胸元を押さえた。
名前が痛い。
その言葉が、ひどく分かる気がした。
まだ自分の名前は欠けていない。
けれど、もし白瀬真昼という文字が、ある日突然、誰かの手で戻されたら。
それが、戻ると同時に、天沢灯里の最期の痛みまで連れてきたら。
自分は、それを救いと呼べるだろうか。
御堂が次の資料を出した。
「二件目。旧地下鉄保守課詰所。黒い封筒と、古い安全確認票。紙片には古河千景の名前」
モニターに、詰所の写真が出る。
作業机。
旧路線図。
ヘルメット。
古い安全確認票。
その担当者欄に、薄く消えかけた「古河――」の文字。
真昼は、レイの横顔を見る。
レイは画面を見ていた。
目を逸らさない。
古河千景。
オメガが最初に殺したレイ系同魂者。
普通に働き、普通に眠り、普通に生きようとしていた青年。
その名前が、封筒によって戻された。
だが、戻ったのは名前だけではなかった。
透子が言う。
「受取者は夜勤職員の一人。古河千景本人との面識はありません。ただし、旧地下鉄閉鎖区画の保守引き継ぎ記録に、古河千景の安全確認票が残っていた可能性があります。紙片を見た直後、職員は閉鎖ホーム、作業灯、黒い刃、古河千景が自分の名前をメモ帳へ繰り返し書く残響を見ています」
レイが目を伏せた。
「面識がなくても見るんだ」
「記録媒体を介した可能性があります」
藍沢なら、そう言うだろう。
真昼は心の中で思った。
記録は、誰かが探しに来る日まで残しておくもの。
母がよく言う言葉にも近い。
だが、残っていた記録が、封筒によって暴力的に開かれるなら。
記録を残すこと自体が危険になる。
真昼はペンを握り直した。
それでも、残す。
危険だから捨てる、という選択だけはしない。
御堂は、次の資料へ進んだ。
「三件目。アガルタ市立中央図書館分室。寄贈資料整理室。こちらは、白瀬さんのご家族が関係者です」
真昼の手が止まった。
「母ですか」
綾瀬が慎重に答える。
「白瀬史乃さんが第一発見者です。ただし、記憶発作を起こしたのは同僚の司書です。白瀬史乃さんは、封筒を開けていません」
真昼は、息を吐いた。
安堵した。
だが、同時に少し恥ずかしくなった。
他の被害者の時は記録者でいられたのに、母の名前が出た途端に娘へ戻る。
それは当然なのかもしれない。
でも、胸が揺れた。
霧生が真昼を見る。
「白瀬、顔が変わった。無理なら外で待て」
「待ちません」
「即答するな」
「母が関わっているなら、なおさら記録します」
「それが危ないっつってんだよ」
真昼は黙った。
レイが横から呼ぶ。
「白瀬真昼」
真昼は、少し驚いて彼を見る。
「はい」
「今、名前」
「あ」
「戻った?」
「戻りました」
霧生が眉を上げる。
「御影が白瀬を点呼した」
「必要だと思ったので」
「いい判断だ。腹立つくらいに」
「腹立つんですか」
「俺の仕事を取られた気がする」
その軽口で、真昼の肩から少し力が抜けた。
御堂が資料を表示する。
図書館分室の整理室。
古い木製の机。
寄贈資料の箱。
黒い封筒。
その横に、焦げたように端が黒ずんだ古い手帳。
真昼は、画面の手帳を見た瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
天沢灯里。
自分と同じアニマを持つ記録者。
静かに名前を残そうとし、オメガに近づきすぎて殺された少女。
透子が説明する。
「封筒の紙片には、完全な名前ではなく、途中までの文字が確認されています」
画面に拡大表示される。
**天沢灯――**
真昼の喉が乾いた。
灯里。
あと一文字。
だが、透子は読み上げない。
真昼も言わない。
まだ、そこは慎重に扱う場所だ。
「紙片を見た司書は、整理中だった寄贈手帳の文字が焼けるように浮かび上がるのを見ています。手帳には、もともと文字がなかったページがありました。しかし紙片の反応後、数行だけ浮上」
「内容は」
真昼が聞く。
透子は、わずかに迷った。
それでも答えた。
「白瀬さんには、後で段階的に確認してもらいます。今ここで全文は出しません」
「なぜですか」
「あなたに直接関係する残響だからです」
真昼は、言い返せなかった。
自分と灯里は同じアニマを持つ。
灯里の記録は、他の誰かの記録とは違う入り方をする。
真昼は、それを知っている。
透子は、言葉を選んで続けた。
「現時点で確認できた一文だけ読みます」
室内が静まる。
透子は、紙を見ずに言った。
「**名前が怖いなら、今日は呼ばない。**」
真昼の指先が冷たくなった。
灯里の言葉。
優しい言葉。
でも、その優しさは届かなかった。
オメガは止まらなかった。
青年は名前から逃げ続けた。
真昼は、ノートの上でペンを握る。
書きたい。
でも、今は書けない。
その言葉は、軽く写していいものではなかった。
霧生が低く言う。
「で、発作を起こした司書は何を見た」
透子が答える。
「雨の日の古書店。黒い傘。銀色のヘアピン。手帳のページが内側から焼ける感覚。そして、誰かが自分の名前を差し出す声」
真昼は、目を閉じた。
天沢灯里。
自分の名前を残した少女。
名前を聞かない優しさを選んだ少女。
その記録もまた、黒い封筒によって引きずり出されている。
救いではない。
やはり、これは返却ではない。
押し戻しだ。
御堂が、最後の資料を開いた。
「四件目。倉科悠斗さん」
レイの体が少し強張った。
真昼も顔を上げる。
倉科悠斗は、今この部屋にいない。
正確には、隣の休憩室で横になっている。
霧生が呼んだのではない。
本人が来た。
封筒を持って。
発作の直後に。
ふらつく足で特殺室へ来て、「これ、たぶんそっちの現場だろ」と言ったらしい。
霧生はその話を聞いた時、怒った。
病院へ行け、と。
倉科は、病院に行く前に証拠を渡したかった、と答えた。
今は灰原医師の簡易診察を受け、休憩室で休んでいる。
モニターに表示された紙片には、はっきりと名前が書かれていた。
**倉科悠斗**
欠けていない。
滲んでいない。
完全な名前。
その完全さが、異様だった。
透子が説明する。
「倉科さんの封筒は、旧地下鉄保守課の個人ロッカー内に出現しました。紙片には完全な氏名。本人が視認した直後、黒刃による襲撃時の痛みを再体験。同時に、古河千景および古いC-04残響と思われる断片も見ています」
レイが言う。
「自分の名前なのに?」
「はい」
「自分の名前を返されて、痛む?」
「倉科さんは、もともと自分の名前を取り戻しています。今回の紙片は返却ではなく、既存の自己名へ強制的に過去の損傷記録を結合した可能性があります」
霧生が舌打ちした。
「言い方が難しい」
透子が少し考える。
「名前に、刃の痛みを貼りつけられた」
「それなら分かる。最悪だが」
その時、休憩室の扉が開いた。
倉科悠斗が、壁に手をつきながら出てきた。
顔色は悪い。
いつもの作業着ではなく、保守課のジャケットを羽織っている。首元には、灰原が貼ったらしい簡易センサーのシールが見えた。
「本人のいないところで、最悪とか言うなよ」
声は弱い。
だが、いつものぶっきらぼうな調子が残っている。
霧生が眉を寄せる。
「寝てろ」
「寝てると、名前が頭の中で反響する」
「余計寝てろ」
「無茶言うな」
倉科は椅子に座り、片手で額を押さえた。
レイが立ち上がる。
「倉科さん」
「御影レイ」
倉科は、先に呼んだ。
レイは返す。
「倉科悠斗」
「よし」
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃない」
倉科は、苦笑した。
「自分の名前を見て、こんなに痛いとは思わなかった」
真昼は、静かに聞く。
「何を見たんですか」
霧生が目だけで止めようとした。
だが、倉科が手を上げる。
「いい。話した方が楽だ」
彼は、少しずつ言葉を選んだ。
「ロッカー開けたら、黒い封筒があった。嫌な予感はした。でも、俺の名前だったから」
「開けたんですか」
「封筒が勝手に開いた」
倉科は、苦い顔をする。
「中に、倉科悠斗って書いてあった。ちゃんと。苗字も名前も、一文字も欠けてなかった。変な話だけど、最初は安心したんだ」
「安心?」
「自分の名前がちゃんとあるって、確認できた気がした」
レイは黙って聞いていた。
倉科は続ける。
「でも、次の瞬間、刺された」
室内が静まる。
「実際には刺されてない。でも、あの時の痛みが戻った。黒い刃が入ってきた時の。肉じゃなくて、もっと奥を切られる感じ。自分の仕事、部屋、姪のキーホルダー、地下の匂い、全部が一瞬ばらばらになる。倉科悠斗って名前だけが残って、それに痛みが巻きついてくる」
倉科は、拳を握った。
「返すなら、痛みまでまとめて投げ返してくるなよ」
その言葉は、休憩室から出てきた時の弱い調子ではなかった。
本気の怒りがあった。
「俺の名前だ。勝手に奪われかけた時点で腹立ってるのに、今度は勝手に返してきて、ほら思い出せって。ふざけるな」
真昼は、ノートに書いた。
**返されたのではない。
投げ返された。
倉科悠斗。
完全な名前ほど、痛みが正確に戻る。**
レイが低く言う。
「名前を戻すことは、救いじゃないのかな」
倉科がレイを見る。
「救いじゃない時もあるんだろ」
「……」
「でもな、御影」
倉科は、少しだけ背筋を伸ばした。
「痛いけど、俺の名前だ。返されたんじゃない。元から俺のだ」
レイは、目を見開いた。
「元から」
「そう。あいつが奪おうが、封筒が投げ返そうが、俺が痛がろうが、倉科悠斗は俺の名前だ。誰かの荷物みたいに受け取るもんじゃない」
真昼は、その言葉を強く書いた。
**名前は返されるものではない。
元からその人のもの。**
霧生が、缶コーヒーを持ったまま言った。
「いいこと言ったところ悪いが、病院行け」
「今の流れで?」
「今の流れで」
「余韻」
「医療優先」
倉科は肩を落とした。
「霧生さん、ほんと情緒ないな」
「情緒で痛みは引かん」
「それはそう」
綾瀬が車椅子を用意しに出ていく。
倉科は抵抗しようとしたが、霧生に睨まれてやめた。
その様子を見て、レイが小さく言う。
「倉科さん」
「何」
「また、名前を呼びます」
「おう」
「痛くなったら」
「たぶん痛い。でも呼べ」
倉科は、疲れた顔で笑った。
「俺が自分で返事するから」
レイは頷いた。
「倉科悠斗」
倉科は、少しだけ苦しそうに目を閉じた。
それでも、返した。
「御影レイ」
名前が部屋の中に置かれた。
痛みがないわけではない。
でも、置かれた。
*
事件名をめぐる揉め事は、そのあと始まった。
御堂がモニターに整理用の仮名称を表示した。
**名前返却現象**
霧生が即座に言った。
「却下」
御堂が振り返る。
「まだ説明していません」
「見れば分かる。却下」
「仮称です」
「仮でも嫌だ」
「では、黒封筒名称返還事案」
「役所の会議か」
「主任の好みに合わせると、黒い封筒が名前と痛みを投げつけてくる事件、になります」
「それでいいだろ」
「報告書の件名に入りません」
「入れろ」
「長すぎます」
「略せ」
「黒封筒投擲事案?」
「封筒を投げてるわけじゃない」
「主任が投げつけてると言いました」
「比喩だ」
「比喩を事件名にするのは危険です」
綾瀬が戻ってきて、困ったように言う。
「あの、上に報告するなら短い名前が必要です」
霧生は缶コーヒーを机に置いた。
「返却って言うと親切みたいだろ。これは投げつけてるんだ」
室内が静かになった。
その言葉は、ただの事件名への文句ではなかった。
霧生は、ホワイトボードを見る。
エミー・グレイス・ハーパー。
古河千景。
天沢灯――。
倉科悠斗。
「名前を返してやったんだから感謝しろ、みたいな顔をしてる。だが、受け取ったやつは全員倒れてる。泣いてる。吐いてる。眠れなくなってる。親切じゃない。返却でもない」
真昼は、ノートに書いた。
**返却という言葉は、加害性を隠す。**
御堂は、少し考えたあと、表示を修正した。
**黒封筒による名前返却事件**
霧生は眉をひそめる。
「まだ返却が残ってる」
「捜査名称としては、現場報告との照合のため残します。ただし、本文では『強制的な記憶・名前の押し戻し』と明記します」
霧生は不満そうだったが、そこで引いた。
「……まあいい。仮だぞ」
「仮です」
「白瀬、記事にするなよ」
真昼は顔を上げた。
「しません」
「即答だな」
「公開しません。でも、記録はします」
「その言い方にも慣れてきた自分が嫌だ」
「私も、言いながら慣れてきました」
霧生は、少しだけ口元を歪めた。
「なら、公開しない記録として、何を残す」
真昼は、ノートを見た。
そこには、今日書いた言葉が並んでいる。
名前が痛い。
投げ返された。
完全な名前ほど、痛みが正確に戻る。
名前は返されるものではない。元からその人のもの。
彼女は、ゆっくり答えた。
「名前が戻った時、その人が何を失っていたか。何が一緒に戻ってきたか。誰が見たか。誰が覚えると言ったか。それを残します」
「加害者は」
「まだ、篠宮――とは書きません」
レイが少しだけ反応した。
霧生も見る。
真昼は続けた。
「O-00とも、まだ書きすぎません。現時点では、ノクターン書房の紙片にあった関連記号として残します」
「慎重だな」
「慎重にしないと、名前が壊れるので」
霧生は、少しだけ頷いた。
「いい。今のところは、それでいけ」
その時、透子が顕微鏡写真のプリントを持って戻ってきた。
彼女は、鑑識の牧野佐和から受け取ったらしい分析メモを机に置いた。
「封筒と紙片の初期分析が出ました」
全員の視線が集まる。
「早いな」
霧生が言う。
「牧野さんが優先してくれました。黒い封筒自体は通常紙ではありません。成分の一部が不明。ただし、内側の紙片については、共通する繊維が確認されています」
「何の繊維だ」
透子は、ノクターン書房の紙片を見た。
「ノクターン書房の貸出票に使われている紙と、極めて近い」
真昼の背筋が冷えた。
「つまり、黒い封筒の中身は、ノクターン書房の貸出票と同じ紙?」
「完全一致ではありません。古い貸出票の紙を基に、境界反応で再構成された可能性があります」
「分かりやすく」
霧生が言う。
透子は少し考えた。
「誰かが、ノクターン書房の貸出票という形式を使って、名前の断片を配っている」
真昼は、閉じた古書店を思い出した。
臨時休業の札。
郵便受けから出ていた黒い封筒。
店の奥の一瞬の灯り。
棚の奥の声。
名前を探さないでください。
レイが低く言う。
「青年が配ってる?」
透子はすぐには答えない。
「可能性はあります。ただし、青年本人が意図しているのか、O-00活動体がノクターン書房の記録形式を利用しているのかは不明です」
御堂が端末を見る。
「封筒の出現地点を地図に落とします。クラブ《ミラー・ルージュ》、旧地下鉄保守課、中央図書館分室、保守課個人ロッカー、ノクターン書房」
画面に地図が出る。
点が打たれる。
旧市街、歓楽街、旧地下鉄周辺、図書館分室。
それらを線で結ぶと、ゆるい弧を描いていた。
中心に近い位置に、ノクターン書房がある。
霧生が言う。
「嫌な中心だな」
御堂が頷く。
「地下構造と重ねます」
地図に旧地下鉄の閉鎖路線が重なる。
水路。
旧連絡通路。
ノクターン書房の地下。
それらが、細い線でつながる。
「ノクターン書房の地下が、旧地下鉄封鎖区画と近接しています」
「近接って」
「ほぼ接しています」
「先に言え」
「今分かりました」
その時、特殺室の内線が鳴った。
綾瀬が取る。
「特異殺人対策室、綾瀬です。……はい。境界観測局、記録保全部?」
室内の空気が変わった。
綾瀬が霧生を見る。
「藍沢環さんからです」
霧生は顎でスピーカーを示した。
「つなげ」
通話が室内に響く。
『藍沢環です』
いつもの淡々とした声。
しかし、今日は少しだけ硬かった。
霧生が言う。
「ちょうど嫌な話をしてたところだ。そっちもか」
『はい。O-00関連記録が動いています』
真昼の指が止まる。
レイの顔が硬くなる。
透子は端末を握り直した。
霧生が低く聞く。
「どの程度だ」
『記録保全部内のO-00封鎖タグに、外部照合反応が発生しました。ノクターン書房、黒い封筒、名前返却事件と思われる事案群と接続しています』
「名前返却って言葉、そっちでも使うのか」
『観測局内の暫定表記です。適切とは限りません』
「その通りだ」
藍沢は続けた。
『さらに、O-00タグの周辺に、個人名候補が浮上しています』
真昼は息を止めた。
藍沢は、すぐにはその名前を言わなかった。
慎重に言葉を選んでいるのが分かる。
『現時点では、完全呼称を避けます。表示は一部欠落。
O-00 / 篠宮――。
あなた方が確認した紙片と、おそらく同一系列です』
室内の誰も、すぐには言葉を発しなかった。
O-00。
篠宮――。
ノクターン書房。
黒い封筒。
名前を探さないでください。
それらが、一本の線に近づいていく。
藍沢の声が、さらに低くなる。
『お願いがあります』
霧生が眉をひそめる。
「観測局の人間が市警にお願いとは珍しいな」
『O-00関連記録の閲覧には、慎重な段階設定が必要です。白瀬真昼さんを、まだ単独でノクターン書房関連記録へ近づけないでください』
真昼が顔を上げる。
「私?」
藍沢は、通信越しに言った。
『あなたの記録反応は、O-00にとって強すぎます。
そして、O-00はおそらく、あなたを見ています』
真昼の背中に、冷たいものが走った。
レイが、静かに呼ぶ。
「白瀬真昼」
真昼は、少し遅れて答えた。
「御影レイ」
藍沢の声は、まだ続いている。
『O-00関連記録が動いています。
次に動くのは、記録を返された人ではなく、記録する人かもしれません』
特殺室の照明が、ほんの一瞬だけ瞬いた。
机の上の黒い封筒が、証拠袋の中で音もなく沈黙している。
真昼は、自分のノートを見た。
白瀬真昼。
その名前は、まだ表紙の内側に残っている。
だが、なぜか今、その文字が少しだけ遠く見えた。
水音がした。
ぽたり。
この部屋には、水など落ちていないはずだった。




