第一章 臨時休業の古書店
雨は、翌朝には止んでいた。
けれど、アガルタの街には、雨が終わった気配がなかった。
路面はまだ濡れている。排水溝の縁には細い水が残り、古いビルの壁面には、夜のうちに吸い込んだ湿気が黒く滲んでいた。坂道の途中に立つ電柱から、水滴がひとつ落ちる。
ぽたり。
真昼は、その音に足を止めた。
ただの水音だ。
そう思おうとして、思えなかった。
雨の日に届いた黒い封筒。
クラブ《ミラー・ルージュ》の裏口。
エミー・グレイス・ハーパーの名前。
名前が戻った瞬間、忘れていた記憶と痛みがまとめて流れ込んだという通報。
旧地下鉄保守課の詰所でも、同じ夜に黒い封筒が見つかった。
古河千景。
その名前を見た職員が、閉鎖区画で殺されたはずの青年の記憶発作を起こした。
市警の発表はない。
《アガルタ観測録》にも書いていない。
それでも、真昼の非公開ノートには、すでに新しい見出しが書かれている。
**黒い封筒/名前返却事件**
返却。
その言葉には、まだ違和感がある。
返されたのなら、救いであってほしい。
でも、序章のように――いや、あの夜の通報のように、名前が戻ることは、傷口が開くことでもあった。
真昼は、鞄の中のノートを軽く押さえた。
「白瀬」
隣から声がした。
御影レイだった。
黒いブレザーの襟元に、少しだけ水の匂いが残っている。空は曇っているが、雨は降っていない。それでもレイは傘を持っていた。
佳乃に持たされたのだろう、と真昼は思った。
「はい」
「立ち止まると、また現場に吸われる顔してる」
「顔で分かるんですか」
「最近、分かる」
「成長ですね」
「嫌な成長」
「でも役に立ちます」
「役に立つから嫌なんだけど」
レイは、坂道の先を見た。
古書喫茶《ノクターン書房》。
黒い木枠の扉。
金文字の店名。
雨の日に似合う店。
いつもなら、薄い照明が窓の奥で灯っている。古い本の背表紙が並び、カウンターの奥で青年が静かに本を整理している。名前を聞かれると、少し困ったように笑って話題を変える人。
篠宮――。
真昼は、心の中で途中までの名前を置いた。
まだ、その先は書かない。
まだ、呼ばない。
でも、忘れない。
店の前に着くと、真昼は息を詰めた。
扉は閉まっていた。
札は昨日と同じだった。
**臨時休業**
白い紙。
黒い文字。
日付なし。
理由なし。
ただ、それだけ。
しかし、真昼が見たのは札ではなかった。
札が濡れていない。
軒下にあるからではない。
昨夜の雨は横殴りだった。路地の奥にまで吹き込み、向かいの壁のチラシも、電柱の広告も、扉の下の石段も濡れている。それなのに、臨時休業の紙だけが、まるで雨を拒んだように乾いていた。
「御影くん」
「見えてる」
「雨、当たってますよね」
「当たってるはず」
「でも乾いてる」
「うん」
「触ってもいいと思います?」
「だめ」
「まだ何も」
「聞いた時点で半分触ってる」
「厳しい」
真昼は指を引っ込めた。
レイは扉に近づきすぎないよう、少し距離を取って店内を覗き込んだ。
昨日、カウンターの上にあった貸出票は消えていた。
篠宮――。
あの文字が、もう見えない。
代わりに、別のものがあった。
扉の郵便受けから、黒い封筒が半分だけ出ている。
黒い紙。
雨を弾く質感。
宛名なし。
差出人なし。
見ただけで、昨日の通報内容と同じものだと分かった。
真昼は、反射的に鞄からスマホを出そうとした。
レイが手首を軽く掴む。
「撮る前に連絡」
「分かってます」
「本当に?」
「八割くらい」
「残り二割でやるから止めた」
「御影くん、最近ひどい」
「霧生さんの教育」
「あの人の影響、強すぎません?」
「必要」
真昼は、深呼吸した。
封筒を見ていると、手が動きそうになる。
開けたい。
見たい。
残したい。
けれど、名前が戻ることが痛みになると、もう知っている。
自分の好奇心だけで触れていいものではない。
真昼はスマホを操作し、霧生に連絡した。
呼び出し音は二回で切れた。
『白瀬』
「おはようございます」
『その言い方は現場だな』
「挨拶だけで分かるんですか」
『お前がおはようございますを丁寧に言う時は、だいたい何かやらかす前だ』
「まだやってません」
『まだ、か。場所』
「ノクターン書房です。臨時休業の札はそのまま。カウンターの貸出票は消えています。代わりに、扉の郵便受けから黒い封筒が半分出ています」
電話の向こうで、霧生が短く息を吐いた。
『触ったか』
「触ってません」
『撮ったか』
「撮ってません」
『入ったか』
「鍵がかかってます」
『聞き方を変える。入ろうとしたか』
「言う前に止められた」
レイが横で小さく言う。
「止めました」
『御影、偉い。白瀬はそのまま現場から三歩下がれ』
「私だけ扱いが」
『三歩』
「はい」
真昼は本当に三歩下がった。
レイも同じだけ下がる。
『黒江を連れて行く。二人とも動くな。封筒を見るなとは言わんが、読むな。開くな。名前が出ても口にするな』
「はい」
『白瀬』
「はい」
『返事が素直な時ほど危ない。御影、監視』
「了解です」
「御影くんまで」
通話が切れた。
真昼は、封筒から視線を外そうとして、外せなかった。
黒い封筒は、郵便受けから半分だけ出ている。
まるで、こちらに取れと言っているようだった。
いや。
取るなと言っているようにも見える。
名前を探すな。
その言葉が、まだ聞こえたわけではないのに、真昼の胸の奥で予感のように揺れた。
*
霧生仁と黒江透子が到着したのは、二十分ほど後だった。
その二十分は、異様に長かった。
真昼は三歩下がった位置から動かなかった。
レイはその隣に立っていた。
時々、真昼が封筒へ近づきそうになると、レイが黙って視線を向ける。真昼はそのたびに、足先を元へ戻した。
「そんなに見ないでください」
「見ないと行く」
「行きません」
「昨日なら行ってた」
「昨日より成長しました」
「二十分で?」
「人は成長します」
「封筒に対してだけは信用がない」
「ひどい」
そんな会話をしていないと、店の静けさが耳に入りすぎた。
ノクターン書房は、ただ閉まっているだけではなかった。
不在が濃い。
人がいないというより、人の名前が店ごと抜かれているような空気がある。
真昼は店の窓を見た。
ガラス越しに、本棚が見える。
背表紙の文字は暗くて読めない。
だが、一部の本の背が白く抜けているように見えた。タイトルが消えているのか、著者名が消えているのか分からない。
カウンターの上には何もない。
昨日の貸出票はない。
篠宮――。
その半分の名前だけが、真昼のノートの中に残っている。
レイが、ふと顔を上げた。
「白瀬」
「はい」
「今、奥で音がした」
「本棚?」
「たぶん」
「人?」
「分からない」
「青年ですか」
レイは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
ノクターン書房の青年。
黒い傘の人。
名前を聞かれると苦しそうな人。
O-00かもしれない人。
篠宮――かもしれない人。
レイは、ガラスの向こうを見つめた。
「いる気がする」
「中に?」
「うん」
「でも見えない」
「うん」
「それ、いるって言えるんですか」
「この街では、言える」
真昼は何も言えなかった。
その時、路地の角に市警車両が停まった。
霧生が先に降りてくる。
くたびれたコートに、傷の入った革靴。手には黄色い規制テープと、現場用の手袋。続いて透子が降りた。黒いスーツの上にロングコート。今日は透明な傘を持っているが、雨は降っていない。
霧生は、二人の前まで来るなり言った。
「動いてないな」
「動いてません」
真昼が答える。
「本当に?」
「本当に」
レイが横から言う。
「一回、前傾姿勢になりました」
「御影くん」
「報告は正確に」
霧生は真昼を見る。
「白瀬」
「はい」
「現場の前で前傾姿勢になるな」
「前傾姿勢まで禁止なんですか」
「お前の場合は禁止だ」
「現場ごとに私専用ルールが増えていく」
「実績だ」
透子が、封筒を見た。
その表情が変わる。
「昨夜のものと同じ形状ですね」
「クラブと保守課の?」
「ええ。黒い封筒。撥水性。郵送経路なし。差出人不明。開封時に名前記録を提示し、受取者へ記憶発作を誘発する」
真昼は、小さく言った。
「名前を返しているんでしょうか」
透子は、すぐには答えなかった。
「返している、というより」
「より?」
「押し戻している」
昨日、旧地下鉄保守課の職員が言った言葉が、真昼の胸に蘇る。
返されたんじゃない。
投げ返されたんだ。
霧生は、店の扉の前に規制テープを張りながら言った。
「古書店だろうが何だろうが、現場だ。勝手に入るな、白瀬」
「言う前に止められた」
「言われる前にやりかけるな」
「やりかけてません」
「前傾姿勢」
「それはもう許してください」
霧生は鼻で息を吐き、透子へ目配せした。
「黒江」
「はい」
透子は薄い手袋をはめた。
封筒には触れない。
まず、周囲の写真を撮る。
扉。
郵便受け。
臨時休業の札。
封筒の位置。
雨に濡れていない紙。
ガラス越しの店内。
真昼は、その一連の手順を見ていた。
何度見ても、自分には欠けているものだと思う。
現場に飛び込むことはできる。
名前に反応することもできる。
でも、触れる前に周囲を残すこと。
位置を残すこと。
開ける前の状態を残すこと。
そういう記録の仕方は、まだ自分には弱い。
透子は言った。
「白瀬さん」
「はい」
「あなたは今、何を見ていますか」
「封筒と、濡れていない札と、店の奥の棚です」
「それ以外は」
「それ以外?」
「自分が見たいものだけでなく、見えているのに見落としているものを探してください」
真昼は、少しだけ目を丸くした。
叱られたのではない。
教えられている。
彼女は、もう一度店を見た。
扉。
札。
郵便受け。
封筒。
窓。
カウンター。
棚。
床。
雨跡。
そして、扉の下。
「……足跡がありません」
真昼は言った。
霧生が振り返る。
「続けろ」
「昨日から雨でした。封筒が誰かに置かれたなら、店の前に足跡か、水の乱れがあるはずです。でも、石段の水滴が均一です。封筒の前だけ、水が避けているみたいに見えます」
透子が頷いた。
「よく見えています」
真昼は、少しだけ嬉しくなりかけて、すぐに引き締めた。
ここは現場だ。
褒められて浮かれる場所ではない。
霧生がぼそっと言う。
「教育に悪いな」
「なぜですか」
「白瀬が現場で役に立つことを覚える」
「もう覚えてます」
「だから困ってる」
レイは、まだ店内を見ていた。
透子が気づく。
「御影さん」
「はい」
「何か見えますか」
「見えるというより、静かすぎます」
「静か?」
「普通、同魂者の痕跡があると、記憶がうるさい。でも、この店は逆です。音が吸われる。思い出そうとすると、抜ける感じがする」
「O-00周辺の特徴と一致します」
透子の声が少し低くなる。
「見られたくない記録は、周囲の記憶を削る」
「オメガの仕業?」
真昼が聞く。
透子は答えない。
「まだ断定しません」
「ですよね」
霧生が鍵穴を確認した。
「鍵はかかってるな。こじ開けた跡なし」
「店主とは連絡が取れているんですか」
真昼が聞く。
「綾瀬が確認中だ。登記上の店主は別にいる。だが、常駐していたのは例の青年らしい」
「篠宮さん?」
口にしてから、真昼は自分で止まった。
まだ。
まだ、その先は言わない。
霧生が真昼を見る。
「今のは途中で止めたな」
「はい」
「その判断は正しい」
霧生に正しいと言われると、なぜか落ち着かない。
真昼は小さく頷いた。
その時だった。
店内の奥で、灯りが点いた。
一瞬だけ。
棚の奥。
地下書庫へ続く階段があるはずのあたり。
薄い、琥珀色の灯り。
真昼が息を呑む。
レイが一歩前へ出た。
「御影」
霧生が止める。
レイは止まった。
だが、目は店の奥を見ている。
灯りはもう消えていた。
しかし、その一瞬だけ、真昼にも見えた。
棚の間に、人影のようなものが立っていた。
白いシャツ。
黒いカーディガン。
細い体。
顔は見えない。
見ようとした瞬間、影が本棚の闇に吸われるように消えた。
「いた」
真昼が言った。
「誰か、いました」
霧生はガラスの向こうを睨む。
「黒江」
「店内に熱源反応はありません」
透子は携帯端末を確認しながら言う。
「少なくとも、この機材上は無人です」
「機材上は、か」
「はい」
レイは、ほとんど聞こえない声で言った。
「名前を探さないでください」
真昼はレイを見る。
「今、何て」
レイは唇を引き結んだ。
「聞こえた」
「店の中から?」
「棚の奥から」
「青年の声ですか」
「たぶん」
「何て」
レイは、ゆっくり繰り返した。
「名前を探さないでください」
真昼の胸が痛くなった。
それは、拒絶だった。
でも、助けを求める声にも聞こえた。
名前を探さないでください。
見つけないでください。
呼ばないでください。
でも、閉じた店の扉に黒い封筒を残している。
消えたいのか。
見つけてほしいのか。
それとも、誰か別のものが、青年の名前を引きずり出そうとしているのか。
霧生が低く言う。
「御影、返事はしたか」
「してません」
「するな」
「分かってます」
透子は、封筒へ視線を戻した。
「開封します。全員、名前が表示されても読み上げないでください」
「はい」
真昼は答えた。
レイも頷く。
霧生が周囲を確認し、真昼とレイを少し後ろへ下げた。
「白瀬、ノートは閉じとけ」
「記録しないんですか」
「開く瞬間は見るな。黒江が読み上げずに写真を撮る。お前は後で、見ていい範囲を確認してから書け」
「でも」
「お前の記録は強いんだろ」
霧生は、真昼をまっすぐ見た。
「なら、強いものを振り回すな」
真昼は、言い返せなかった。
藍沢に何度も言われたこと。
真昼の記録は強い。
だから危険だ。
今、霧生はそれを警察官の言葉で言っている。
「分かりました」
真昼はノートを閉じた。
透子が、細いピンセットで封筒を掴む。
黒い封筒は、抵抗しなかった。
郵便受けから引き出される。
封筒は濡れていない。
重さもほとんどないように見える。
透子が封を確認する前に、封筒の口が開いた。
昨夜の通報と同じように。
糊が剥がれる音もなく。
ただ、最初から開いていたものが、今思い出したように口を開けた。
中から、紙片が一枚滑り出る。
白ではない。
古い貸出票のような、褪せたクリーム色の紙。
真昼は見ないようにした。
だが、視界の端で、文字の黒さだけが見えた。
透子が写真を撮る。
霧生が横から確認し、眉をひそめた。
「……黒江」
「はい」
「これは」
「観測局コードが含まれています」
真昼は顔を上げそうになった。
霧生がすぐに言う。
「まだ見るな」
「はい」
レイは、じっと足元を見ていた。
顔色が少し悪い。
透子が紙片を透明な資料ケースに入れる。
その上から、真昼たちに見えるように傾けた。
「読み上げません。見るだけにしてください」
真昼は、息を止めた。
資料ケースの中。
小さな紙片。
そこに、黒い文字があった。
**O-00 / 篠宮――**
真昼の中で、何かが音を立てて落ちた。
O-00。
篠宮――。
二つが、同じ紙の上にある。
まだ名は欠けている。
だが、もう無関係ではない。
レイの唇がわずかに動いた。
真昼は、すぐに呼んだ。
「御影レイ」
レイは息を吸う。
「白瀬真昼」
霧生が続ける。
「御影、今の呼称に引かれるな」
「分かってます」
「分かってる顔じゃない」
「……分かろうとしてます」
「それでいい」
透子は、紙片を見つめたまま言った。
「O-00。観測局が記録したオメガ活動体の分類番号です。ただし、この紙片では、その番号に個人名の一部が接続されています」
「篠宮」
真昼は、そこまで言って止めた。
透子が頷く。
「まだ、その先は言わないでください」
「はい」
「ですが、調査対象は明確になりました」
霧生が資料ケースを見る。
「ノクターン書房の青年。O-00。篠宮――。黒い封筒。名前返却事件」
彼は短く息を吐いた。
「面倒な線が全部つながり始めたな」
真昼は、閉じた扉を見た。
店内は暗い。
灯りはもう点いていない。
棚の奥の声も聞こえない。
だが、さっきの声は確かに残っている。
名前を探さないでください。
真昼は、胸の内側で答えた。
まだ呼びません。
でも、探します。
救うためか。
止めるためか。
逃がさないためか。
それは、まだ分からない。
ただ、紙片にはすでに書かれている。
O-00 / 篠宮――。
名前は、半分だけ戻ってきた。
そして、その半分だけで、充分すぎるほど痛かった。




