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序章 黒い封筒

 雨の日のアガルタは、音が近い。


 車のタイヤが濡れたアスファルトを擦る音も、古いビルの雨樋を水が流れる音も、ネオン看板の下で誰かが傘を畳む音も、いつもより少しだけ耳の内側へ入り込んでくる。


 クラブ《ミラー・ルージュ》の裏口にも、雨の音が落ちていた。


 表通りの看板はもう点いていない。


 かつて赤紫のライトで夜を染めていた古い劇場跡のクラブは、今は営業日を減らし、週末のショーだけで細々と続いている。正面入口の金色の飾り枠は剥げ、ポスターケースの中には、古い出演者写真が色褪せて貼られていた。


 その写真の一枚だけ、顔の輪郭が妙にぼやけている。


 金髪のダンサー。


 赤いヒール。


 星形のピアス。


 名前欄には、何もない。


 ただ、空白だけがある。


 瀬尾杏奈は、そのポスターケースの前で足を止めた。


 傘の縁から落ちた水滴が、肩に当たる。


「……誰だっけ」


 自分で呟いて、嫌な気分になった。


 誰だっけ、ではない。


 知っている。


 知っていたはずだ。


 この店に入ったばかりの頃、杏奈はそのダンサーに何度も助けられた。ステージ袖で震えていた時、背中を叩かれた。客席から見える笑い方を教わった。靴擦れした足首に絆創膏を貼ってもらった。


 その人は、よく言っていた。


 大丈夫。まだ踊れる。


 名前を覚えてくれる?


 そこまで思い出せる。


 でも、その先がない。


 名前がない。


 杏奈はポスターケースのガラスに手を伸ばした。


 濡れた指先が、ぼやけた顔の上をなぞる。


 雨水のせいで滲んでいるのではない。


 写真そのものが、その人を忘れようとしている。


「杏奈ちゃん」


 裏口の方から声がした。


 振り返ると、照明担当の堂島が傘も差さずに立っていた。白髪混じりの髪が雨で額に貼りつき、くたびれたジャンパーの肩が濡れている。


「まだ帰ってなかったの」


「忘れ物。堂島さんこそ」


「照明卓のブレーカー確認。古い箱だからな、雨の日はすぐ機嫌悪くなる」


 堂島はポスターケースを見て、目を細めた。


「ああ」


「この人、誰でしたっけ」


 杏奈は聞いた。


 聞いたあと、胸が痛んだ。


「私、知ってるはずなんです。なのに、名前が」


 堂島は、しばらく黙っていた。


 雨の音だけが、二人の間に降った。


「……エミー」


 やがて、堂島が言った。


 その発音は、古い照明スイッチを押すように慎重だった。


「みんな、そう呼んでた」


「エミー」


 杏奈は、その名前を口にした。


 軽い。


 短い。


 でも、それ以上が続かない。


「苗字は?」


「分からん」


「外国の人でしたよね」


「たぶん」


「たぶんって」


「覚えてたはずなんだよ」


 堂島は、苦い顔で笑った。


「俺が入店書類も照明割りも作ってた。出演者の名前なんて、何回も打ってる。なのに、今は出てこない。変だろ」


 変だ。


 でも、この街では、変だという言葉だけでは足りないことが起きる。


 杏奈は、ポスターの中の空白を見た。


 エミー。


 その名前だけでも戻った気がした。


 けれど、何か足りない。


 人を呼ぶ時に、靴だけを拾ったような感覚がある。


 裏口の金属扉の下に、何かが挟まっていた。


 杏奈は気づいて、眉をひそめた。


「堂島さん。これ」


「あ?」


 扉の下。


 雨水が流れ込まないぎりぎりの場所に、封筒が一通置かれていた。


 黒い封筒だった。


 街灯の光を吸うような黒。


 濡れているはずなのに、水を弾いている。紙ではなく、傘の裏地のような質感だった。


 宛名はない。


 差出人もない。


 消印もない。


「店宛てですかね」


「触るな」


 堂島の声が鋭くなった。


 杏奈は手を止めた。


 堂島は近づいて、封筒を見下ろした。


「……最近、こういうのは警察に言えって、通達が来てた」


「通達?」


「市警から。変な封筒だの、名前のない紙だの、見つけたら開けるなって」


「じゃあ、開けない方が」


 言い終わる前に、封筒の口がひとりでに開いた。


 杏奈は息を呑んだ。


 糊付けされていたはずの封が、雨粒が落ちるように静かに剥がれる。


 中から、白い紙片が一枚、滑り出した。


 手のひらより小さい。


 チケットの半券にも、メモ用紙にも見える。


 そこには、黒いインクで名前が書かれていた。


 **Emmy Grace Harper**


 瞬間、杏奈の喉が詰まった。


 エミー。


 グレイス。


 ハーパー。


 名前が、戻った。


 頭の中で、真っ暗だった舞台に照明が入る。


 赤紫の光。


 古いミラーボール。


 舞台袖の化粧品の匂い。


 スパンコールの衣装が擦れる音。


 英語混じりの笑い声。


 エミーが、ステージ袖で片足を上げて靴擦れを見せながら、困ったように笑っている。


「アンナ、名前を覚えて。エミー。エミー・グレイス・ハーパー」


 杏奈は、息を吸った。


 胸の奥に、温かいものが広がった。


 そうだ。


 この人だ。


 自分はこの人を知っている。


 笑い方も、声も、舞台に出る前に必ず左足のつま先を二回鳴らす癖も、最後の演目の前に「大丈夫。まだ踊れる」と言っていたことも、全部知っている。


「エミーさん」


 杏奈は呟いた。


 涙が出そうだった。


 忘れていたものが戻ってくる。


 それは、一瞬だけ救いのように思えた。


 次の瞬間、照明が落ちた。


 いや、現実の照明ではない。


 杏奈の中の舞台照明が、突然赤黒く変わった。


 鼻の奥に、鉄の匂いが広がる。


 血の匂い。


 濡れた路地。


 雨。


 裏口。


 息ができないほど冷たい夜。


 視界が低い。


 床に倒れている。


 自分の足ではない。


 赤いヒール。


 片方が脱げている。


 杏奈は、自分のものではない足首の痛みを感じた。


 違う。


 これは自分ではない。


 エミーだ。


 エミー・グレイス・ハーパーの記憶。


 雨の中に、黒い傘が立っている。


 傘の下の顔は見えない。


 けれど、手だけが見える。


 黒い手袋。


 光を吸う刃。


 刃というより、空間に開いた穴のような黒。


 それが近づいてくる。


 怖がらなくていい。


 声がした。


 穏やかで、丁寧で、記憶に残りにくい声。


 これは終わりではない。


 エミーの口が何かを言う。


 名前。


 自分の名前を言おうとしている。


 エミー。


 エミー・グレイス――


 刃が入る。


 痛みは、肉の痛みだけではなかった。


 名前を指先から引き抜かれるような痛み。


 自分の人生が、紙の束から一枚ずつ剥がされていくような痛み。


 舞台の照明。


 星形のピアス。


 母国の古い家。


 初めて踊った日。


 誰かに褒められた声。


 杏奈の靴擦れに貼った絆創膏。


 明日、ここを出るつもりだったという嘘みたいな本音。


 それらが、黒い刃の向こうへ吸い込まれていく。


 エミーが叫ぶ。


 声にならない。


 名前だけが、最後に残る。


 それも切られる。


「いや――!」


 杏奈は、裏口の前で膝をついた。


 自分の喉から出た声なのか、エミーの声なのか分からなかった。


 雨が顔に当たる。


 胃の中がひっくり返り、吐き気がこみ上げる。


 堂島が肩を掴む。


「杏奈ちゃん!」


「痛い、痛い、痛い……!」


「どこだ、どこが痛い!」


「名前が、名前が、痛い……!」


 自分で何を言っているのか分からなかった。


 でも、そうとしか言えなかった。


 名前が戻ってきた場所が痛い。


 忘れていたことが、傷口として開いている。


 エミー・グレイス・ハーパー。


 その名前を思い出せたことは、救いだった。


 同時に、それは刃だった。


 杏奈の胸の中で、誰かが泣いている。


 自分ではない。


 でも、自分が泣いている。


 彼女は地面に手をつき、雨水の中で呻いた。


 堂島が携帯を取り出して叫ぶ。


「救急! いや、市警もだ! 特異殺人対策室につないでくれ! 黒い封筒だ、開いた、名前が――」


 その言葉を聞いた瞬間、紙片の文字が一度だけ濡れたように光った。


 **Emmy Grace Harper**


 そして、端から少しずつ黒く滲み始めた。


 杏奈は震える手を伸ばした。


「だめ」


 声が出ない。


 それでも、指先で紙片を押さえようとした。


「消えないで」


 エミーの名前。


 痛い。


 苦しい。


 怖い。


 それでも、消えてほしくない。


 堂島が彼女を支えた。


「触るな、杏奈ちゃん!」


「でも、また忘れる」


「忘れない。今、俺も見た」


 堂島の声が震えていた。


「エミー・グレイス・ハーパー。俺も見た。忘れない」


 その時、路地の奥で、黒い傘が揺れた。


 杏奈は見た。


 堂島も見た。


 しかし、次の瞬間には誰もいなかった。


 雨の向こうに、人影があったような気がしただけ。


 ただ、濡れた路面に、傘の先でついたような小さな丸い跡が残っていた。


 ぽたり。


 上から落ちた水滴ではない。


 下から聞こえたような音だった。


     *


 同じ夜。


 旧地下鉄保守課の詰所でも、黒い封筒が見つかった。


 見つけたのは、夜勤明けの若い職員だった。


 机の上に置かれていた黒い封筒。


 宛名はない。


 しかし、封筒の下には、古い安全確認票が敷かれていた。


 その確認票の日付は、数年前のもの。


 担当者欄には、薄く消えかけた文字。


 **古河――**


 それだけが読めた。


 若い職員は、気味悪がって上司を呼んだ。


 封筒は、誰も触れていないのに開いた。


 中の紙片には、こう書かれていた。


 **古河千景**


 その名前を見た瞬間、詰所の蛍光灯が一斉に瞬いた。


 どこかで、古い懐中ライトが転がる音がした。


 誰も持っていないはずのライト。


 閉鎖区画の水音。


 作業用ヘルメット。


 反射ベスト。


 雨の匂い。


 そして、黒い傘。


 職員の一人が、胸を押さえて倒れた。


「誰かが……線路の奥で……」


 彼は、古河千景を知らない。


 会ったこともない。


 それなのに、見ていた。


 使われていないホーム。


 濡れた作業手袋。


 自分の名前を何度もメモ帳に書く青年。


 古河千景。


 古河千景。


 古河千景。


 書けば書くほど、自分以外の誰かに見られている気がする。


 そして、黒い刃。


 名前を切られる痛み。


 詰所の床に倒れた職員は、涙を流しながら何度も言った。


「返されたんじゃない」


 周囲の職員たちは意味が分からず、救急箱を探し、上司へ電話し、市警の通達ファイルを開く。


 倒れた職員だけが、震えながら続けた。


「投げ返されたんだ」


     *


 雨は、深夜になっても止まなかった。


 アガルタ旧市街。


 坂道の途中にある古書喫茶《ノクターン書房》は、明かりを落としていた。


 黒い木枠の扉。


 金文字の店名。


 窓際の席。


 古い本棚。


 閉じたカウンター。


 扉には、白い紙が貼られている。


 **臨時休業**


 紙は雨に濡れていない。


 店の軒下に入っているからではない。


 雨粒がその紙だけを避けているように見えた。


 路地には誰もいない。


 それなのに、扉の前に黒い封筒が一通置かれていた。


 いつ置かれたのかは分からない。


 足音はなかった。


 郵便受けは動いていない。


 監視カメラがあったとしても、きっと何も映していない。


 黒い封筒は、扉の前で静かに開いた。


 中には、紙片ではなく、一枚の貸出票が入っていた。


 ノクターン書房の古い貸出票。


 褪せたクリーム色の紙。


 上部には、店名。


 **Nocturne Books**


 貸出日欄は空白。


 返却期限欄も空白。


 書名欄には、かすれた文字。


 **名前のない――**


 その下に、利用者名欄。


 文字は途中までしか残っていない。


 **篠宮――**


 雨が強くなる。


 ガラス窓に水滴が走る。


 店内の暗闇の奥で、一瞬だけ灯りが点いた。


 カウンターの向こうに、人影が立っていたように見えた。


 白いシャツ。


 黒いカーディガン。


 濡れたような黒髪。


 けれど、まばたきの間に消える。


 貸出票の文字が、微かに震えた。


 **篠宮――**


 その名の先は、まだ読めない。


 読もうとすれば、紙ごと黒く滲みそうだった。


 どこか遠くで、水音がした。


 ぽたり。


 地下の方からだった。


 雨ではない。


 何かが、名前を返し始めている。


 それは救いの形をしていた。


 だが、その内側には、刃の痛みが入っていた。

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