終章 父の名前
《アガルタ観測録》の記事編集画面は、白かった。
白い画面。
黒いカーソル。
入力欄の上には、仮タイトルがある。
**家族の記録から消える名前について**
真昼は、しばらくその一行を見つめていた。
部室ではない。
今日は自室の机だった。
机の上には、ノートが三冊並んでいる。
一冊は、公開記事用。
一冊は、非公開記録用。
もう一冊は、まだ分類できない名前のためのもの。
部屋の外からは、夕食の支度をする音が聞こえている。誰かが食器棚を閉める音。換気扇の低い音。湯が沸く音。そういう普通の音が、今は少しだけ遠く感じられた。
真昼は、公開記事用のノートを開いた。
そこには、父親欄欠落事件についての聞き取りがまとめられている。
小学校の家庭調査票。
保護者情報更新フォーム。
父親名欄が空白になった家族。
父親本人が生きているのに、学校書類だけが父を受け取らない事例。
写真の一部が黒く滲んだ家庭。
父の名前を思い出せない子ども。
名前を思い出せないことに怯える母親。
名前を言えなくなった父親。
そこまでは書ける。
だが、R-■■は書かない。
境界観測局も書かない。
アガルタ核も書かない。
旧地下鉄の次発ホームも、R系列記録も、御影遥真の名前がその奥に沈んでいることも書かない。
書けば、たぶん多くの人が読む。
読むことで、確認しようとする。
自分の家族写真を。
保護者欄を。
母子手帳を。
父の名前を。
その確認が、さらに欠落を進めるかもしれない。
真昼は、それをもう知っている。
記録することと、公開することは同じではない。
その言葉を、何度も自分の中で繰り返す。
公開しないことは、隠蔽ではない。
少なくとも、今は。
誰かの名前を守るために、まだ置き場所を作る時間が必要だった。
真昼は、キーボードへ指を置いた。
カーソルが点滅する。
そして、書き始める。
**家族の記録から消える名前について**
最初の文は、何度も書き直した。
煽らない。
断定しない。
怖がらせすぎない。
それでも、何もなかったことにはしない。
真昼は、息を整えて、文章を打った。
最近、市内の複数の家庭で、学校書類や保護者情報の一部が空欄になる事例が確認されています。
そこにいるはずの家族の名前が、書類上だけ抜け落ちる。
本人の存在を否定するものではありません。
ただ、家族の名前がどこに残るのかを、私たちは少し慎重に考える必要があります。
真昼は一度手を止める。
画面の白さが目に刺さる。
彼女は目薬を差し、少しだけ上を向いた。
天井の照明が滲んだ。
思い出す。
御影家の食卓。
使われていない椅子。
紺色のアルバム。
黒く滲んだ父の顔。
佳乃の声。
レイ。
朝よ。
その声は、記事には書けない。
でも、その考え方は書ける。
真昼は続けた。
戸籍や書類は大切です。
学校の名簿も、病院の緊急連絡先も、行政の記録も、人が社会の中で確かに生きていることを支えるものです。
けれど、家族の名前は、それだけにあるわけではありません。
呼びかけた声。
食卓に残された席。
捨てられなかった写真。
言えなかった謝罪。
怒りながらも片づけられなかった荷物。
そうしたものの中にも、名前は残ります。
書いてから、真昼はしばらく動けなかった。
それは、ほとんど御影家のことだった。
でも、御影家だけのことではない。
父親欄が空白になった家族。
名前が出てこなくて泣いた子ども。
自分の名前を言えなくなった父親。
全員に向けて書いたつもりだった。
記事の最後に、真昼は一文を入れた。
**家族の名前は、戸籍だけにあるものではない。
呼ぶ声、残された椅子、捨てられなかった写真、言えなかった謝罪。
そういうものの中にも、名前は残る。**
画面の中で、その文章は静かに光っていた。
真昼は、公開ボタンの手前で止まる。
まだ迷う。
これでいいのか。
書きすぎていないか。
書かなさすぎていないか。
R-■■を書かないことは、誰かのためになるのか。
御影遥真の名前を書かないことは、彼をまた隠すことではないのか。
真昼は、机の右側に置いた非公開記録用ノートを見た。
そこに答えがあった。
公開記事には書かない。
でも、非公開記録には残す。
消さない。
彼女は公開ボタンを押した。
画面に表示が出る。
**投稿しました。**
真昼は椅子にもたれた。
息を吐く。
それで終わりではない。
本当に書かなければならないものは、ここからだった。
*
非公開記録用の端末は、ネットに接続していない。
真昼が自分で用意した、外部保存なしの記録領域。
記事でもない。
部誌でもない。
誰かに見せる前提の文章でもない。
それでも、彼女にとっては最も大切な記録の置き場所になっていた。
ファイル一覧には、すでにいくつかの名前がある。
**真木彼方/未呼称記録**
**零番線関連非公開記録**
**御影レイ/A-00呼称被害メモ**
**R-■■暫定整理**
真昼は、新しいファイルを作った。
ファイル名を入力する。
**御影遥真/R-■■関連記録**
その文字を見て、真昼は少しだけ指を止めた。
御影遥真。
観測局の古いカードにあった英字。
学院の名簿の隅に一瞬だけ見えた手書き。
佳乃が口にした名前。
レイが「まだ許さない」と言った父の名前。
そして、R-■■の奥に沈んだ名前。
真昼は、本文欄へ向かった。
まず、一行目を書く。
**御影遥真。**
消えない。
画面上の文字は、今のところ消えなかった。
真昼は、続ける。
**R-■■ではない。
ただし、R-■■の中に沈んだ名前。**
打鍵音が、部屋に小さく響く。
真昼の指は止まらない。
**父であり、研究者であり、逃げた人であり、守ろうとした人。
観測局の外部協力者。
R-Root予備記録に名前が残っていた人物。
A-00化から息子を守ろうとし、自分の名前と研究記録をR系列へ沈めた人物。
その結果、帰れなくなった人物。
佳乃さんを十年待たせた人物。
レイくんに説明しなかった人物。
正しくなかった人。
でも、レイくんを番号で呼ばせたくなかった人。**
真昼は、そこで一度手を止めた。
画面の文字が重い。
御影遥真という人間は、簡単に整理できない。
美化すれば、レイの怒りが消される。
断罪だけすれば、遥真が命を沈めて守ろうとした意志が消される。
被害者にすれば、佳乃の十年が消される。
加害者にすれば、彼が残した手紙の一文が消される。
お前はアルファではない。
私の息子だ。
その言葉も、消してはいけない。
真昼は、最後にまとめた。
**まだ帰っていない。
でも、完全には消えていない。**
保存。
ファイル名が一覧に加わる。
**御影遥真/R-■■関連記録**
真昼は画面を閉じなかった。
少しのあいだ、その名前を見ていた。
そして、小さく呟く。
「まだ、呼びすぎない」
名前は残す。
でも、無理に呼び戻さない。
置ける場所を作る。
その場所へ、いつか本人が戻ってこられるように。
*
境界観測局アガルタ支局、記録保全部。
藍沢環は、深夜の記録室に残っていた。
通常の勤務時間はとっくに過ぎている。
だが、記録保全部の照明は落ちない。
記録は人間の勤務時間に合わせて止まらないからだ。
藍沢は、個人端末ではなく、保全部の独立管理端末に向かっていた。
画面には、R-■■関連保全タグが表示されている。
旧表記。
**R-■■**
関連タグ。
R-Root。
A-00。
保護者記録。
父性記録。
旧地下鉄。
零番線。
未整理外部協力者。
そこに、藍沢は新しい注記を追加しようとしていた。
正式承認欄は空白のまま。
上席承認なし。
監査通過なし。
公的タグではない。
私的注記。
記録保全部の内部補助メモ。
それでも、残る。
藍沢は、少しだけ指を止めた。
久我瀬玲央の言葉が耳に残っている。
記録保全部は保存するだけでいい。
運用判断に口を出すな。
以前の自分なら、そうかもしれないと思った。
記録は保存する。
判断は別部署がする。
番号は揺らがない。
名前は揺らぐ。
だから、番号を残す。
その考え方は、まだ間違いではない。
だが、それだけでは、番号が名前を食う。
A-00。
K-117。
C-04。
O-00。
R-■■。
番号は、崩れかけた記録を止める杭になり得る。
しかし、杭は杭だ。
墓標にしてはいけない。
鎖にしてはいけない。
藍沢は、注記欄に入力した。
**Mikage Haruma / 要照合**
警告が出る。
**正式承認されていない個人名をR-■■関連タグへ付加しますか?**
藍沢は、その警告を数秒見つめた。
正式承認されていない。
たしかに、されていない。
観測局の正式記録では、御影遥真はまだ曖昧な外部協力者であり、R-■■本体ではなく、関連記録の一部にすぎない。
しかし、名前はあった。
学院の手書き訂正跡に一瞬。
古いカードに一枚。
レイの手紙に。
佳乃の声に。
そして、R-■■の中心記録に。
藍沢は、確認を押した。
**登録しました。**
注記欄に、文字が残る。
**Mikage Haruma / 要照合**
正式承認はされない。
おそらく、後で指摘される。
場合によっては削除される。
それでも、藍沢の記録には残った。
彼女は、内部メモをさらに一行追加した。
**R-■■は単独人物記録ではない。
ただし、Mikage Harumaの記録を含む可能性が高い。
番号保全と個人名保持を分離して扱うこと。**
送信せず、まず保存する。
藍沢は、椅子にもたれなかった。
画面を見たまま、静かに呟く。
「番号は、名前が戻るまでの杭です」
誰も聞いていない。
だが、記録室の白い壁が、その声を少しだけ受け止めたように見えた。
*
アガルタ市警察局、特異殺人対策室。
黒江透子は、報告書の最後のページに、御影遥真の名前を書いた。
紙ではなく端末入力だった。
だが、彼女はその文字を打つ時、紙にペンを押し当てるような慎重さで入力した。
**御影遥真**
変換候補に、なかなか出なかった。
最初は、御影、で止まる。
次に、遥、で別の候補が出る。
真、でまた誤変換される。
透子は一文字ずつ直した。
御影遥真。
確定。
その文字が、報告書の中に残る。
件名。
父親欄欠落事件およびR-■■関連保護者記録事案。
記述。
旧資料館地下共同研究区画において、御影遥真の研究記録および未送信書簡を確認。
R-■■中心記録内に、御影遥真の残響とみられる記録断片を確認。
対象者御影レイのA-00呼称使用は、自己名固定を阻害する危険がある。
観測応用部門による強制保護命令は、対象者氏名の欠落により形式不備。
霧生仁は、透子の背後からその報告書を覗き込んでいた。
片手には、ぬるくなった缶コーヒー。
もう片方の手には、自分の報告メモ。
彼は、御影遥真の名前が入った行を見て、低く言った。
「また揉めるぞ」
透子は、入力を止めなかった。
「揉めるために書きました」
霧生は少しだけ目を細めた。
それから、缶コーヒーを机に置く。
「成長したな」
透子が顔を上げる。
「皮肉ですか」
「半分」
「もう半分は」
「褒めてる」
「分かりにくいですね」
「俺の褒めはだいたい分かりにくい」
透子は、ほんの少しだけ笑った。
「報告書にも書きますか」
「やめろ。そこは書くな」
「残念です」
「お前も冗談が下手になったな」
「主任の影響です」
「最悪だ」
短いやり取りのあと、二人とも黙った。
特異殺人対策室には、まだ他の職員も残っている。
綾瀬は教育委員会からの追加報告を整理している。
御堂は旧地下鉄周辺の監視ログと観測局車両の移動記録を照合している。
父親欄欠落事件は、終わっていない。
R-■■も、閉じていない。
観測応用部門の強制回収命令は、一時撤回ではなく、形式不備による保留にすぎない。
霧生は、報告書の中の御影レイの名前を見る。
「黒江」
「はい」
「次にまたA-00で命令書が来たら」
「差し戻します」
「御影レイの名前が入ってきたら」
「保護者同意、本人同意、医療評価、市警立会、記録保全部評価、すべて求めます」
「面倒だな」
「面倒にするためです」
霧生は、少しだけ笑った。
「いい性格になった」
「主任の影響です」
「それは書くなよ」
「報告書には書きません」
透子は、報告書を保存した。
そして、御影遥真の名前が消えていないことを確認した。
その一行は、まだそこにあった。
*
御影家の朝は、いつも通りに始まった。
「レイ、朝よ」
佳乃の声が、扉の向こうから聞こえる。
レイは、布団の中で目を開けた。
天井。
自室。
机。
学生証。
父の手紙。
窓の外の曇り空。
全部が、少しずつ現実へ戻ってくる。
「起きてる」
レイは答えた。
「起きている声ではないわね」
「昨日よりは起きてる」
「比較対象が低すぎるわ」
佳乃の声は、いつも通りだった。
だからこそ、レイは少しだけ目を閉じた。
昨日、自分は言った。
明日も、朝、呼んで。
佳乃は答えた。
もちろん。レイ。
そして今、本当に呼んでいる。
それだけのことが、今は大きかった。
レイは起き上がる。
机の上の手紙を見る。
封筒には、遥真の文字。
**レイへ**
まだ読み返していない。
すべてを受け止めたわけではない。
許してもいない。
それでも、引き出しに隠さなかった。
机の上に置いている。
見えるところに。
逃げないために。
朝食の食卓には、味噌汁とご飯と卵焼きがあった。
そして、使われていない椅子もある。
父の椅子。
佳乃は、今日はその椅子を片づけなかった。
レイも、視線を逸らしすぎなかった。
ただ、そこにあると認めた。
食卓の上には、湯気が立っている。
佳乃が言う。
「学校、行けそう?」
「分からない」
「休む?」
「行く」
「無理はしないで」
「無理はするかもしれない」
「しないで」
「努力する」
「善処ではなく?」
「善処は信用が低い」
「よく分かってる」
レイは、味噌汁を飲んだ。
温かい。
塩気。
豆腐。
葱。
普通の味。
その普通さが、喉を通る時に少し痛かった。
「母さん」
「なに」
「父さんが帰ってきたら」
佳乃の手が、一瞬止まった。
それから、彼女はいつものように箸を置いた。
「ええ」
「最初に怒っていい?」
佳乃は、少しだけ驚いた顔をした。
そして、頷く。
「もちろん」
「母さんの次?」
「順番は相談ね」
「予約制?」
「揉めると思うから」
レイは、少しだけ笑った。
「そうだね」
佳乃も笑った。
泣きそうな笑いではなかった。
疲れてはいる。
痛みはある。
でも、昨日より少しだけ朝に近い笑いだった。
父の名前は戻っていない。
父は帰っていない。
R-■■は閉じていない。
それでも、食卓には朝がある。
佳乃の声がある。
レイの返事がある。
今は、それでいいのかもしれなかった。
*
放課後、真昼とレイはノクターン書房へ向かった。
学院の授業は、二人とも半分ほどしか頭に入らなかった。
レイは何度かぼんやりして、そのたびに真昼が小声で呼んだ。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
クラスメイトの何人かは不思議そうに見たが、もう深く突っ込んでこなかった。
アガルタ学院では、不思議なことを見ないふりにする技術が発達している。
それが良いことかどうかは別として、今は助かった。
ノクターン書房は、旧市街の細い路地にある。
古い雑居ビルの一階。
黒い木枠の扉。
夜を思わせる看板。
店名の金文字。
**Nocturne Books**
いつもなら、扉の向こうに柔らかい灯りが見える。
古書の匂い。
奥のカウンター。
そして、あの青年。
篠宮凪。
あるいは、まだそう呼んでいいのか分からない人。
黒い傘の気配。
零番線の奥で言った声。
名前は鎖です。
記録は檻です。
呼ぶことは、救いではありません。
真昼は、その言葉を思い出しながら歩いた。
レイは隣で黙っている。
父の事件が終わったばかりなのに、もう次の名前が近づいている。
そんな予感がしていた。
店の前に着いた時、真昼は足を止めた。
扉は閉まっていた。
いつもの営業中の札はない。
代わりに、白い紙が貼られている。
**臨時休業**
日付はない。
理由もない。
ただ、そう書かれている。
真昼は、息を呑んだ。
「閉まってる」
レイが言う。
「うん」
「昨日も?」
「分からない」
真昼は、扉に近づいた。
鍵はかかっている。
店内の照明は落ちている。
しかし、完全な暗闇ではなかった。
薄い外光が窓から入り、カウンターの上だけをぼんやり照らしている。
そこに、一枚の紙があった。
貸出票。
古書店で本を借りた時に使う、小さな紙。
真昼はガラス越しに目を凝らした。
レイも横に立つ。
紙には、文字がある。
すべては読めない。
雨に濡れたわけでも、インクが切れたわけでもない。
文字そのものが、途中から欠けている。
それでも、名前らしき部分が一部だけ見えた。
**篠宮――**
真昼の呼吸が止まった。
篠宮。
その先は読めない。
凪、なのか。
別の名なのか。
それとも、篠宮という姓だけが残され、名の方がすでに落ちているのか。
レイは、その紙を見つめていた。
しばらくして、静かに言った。
「次は、あの人の名前かもしれない」
真昼は何も答えられなかった。
答える代わりに、ノートを取り出した。
店の前で、立ったまま書く。
**ノクターン書房、臨時休業。
店内カウンター上に貸出票。
名前欄、一部のみ確認。
篠宮――。**
ペン先が震えた。
篠宮凪。
彼の名を、まだ書いていいのか。
呼んでいいのか。
真昼は迷った。
そして、書かなかった。
代わりに、こう書いた。
**まだ、呼ばない。
でも、忘れない。**
レイがそれを見る。
「真木彼方の時と似てる」
「はい」
「でも、違う」
「はい」
「今度は、向こうが逃げてる」
「たぶん」
「名前を呼ばれることから」
真昼は、閉じた扉を見た。
黒い木枠。
臨時休業の札。
中に残された貸出票。
いない店主。
いや、店主だったのかも分からない青年。
ノクターン書房は、いつも夜のような場所だった。
今は、本当に夜へ沈みかけているように見える。
その時、雨が降り始めた。
細い雨だった。
霧のように、音もなく路地を濡らす雨。
真昼は、傘を持っていなかった。
レイは、朝、佳乃に持たされた傘を鞄から出した。
「母さん、正しかった」
「佳乃さん、強い」
「傘指示はだいたい当たる」
レイは傘を開いた。
二人で入るには少し小さい。
真昼が肩をすぼめる。
「私、半分濡れてます」
「寄ればいい」
「御影くんが言うと珍しい」
「雨の中で記録者が濡れて倒れると面倒」
「理由がひどい」
「でも寄って」
「はい」
真昼は、少しだけレイの方へ寄った。
傘の外で、雨粒が細く落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
店のガラスに、水滴がついた。
その水滴越しに、貸出票の文字がさらに滲む。
篠宮――。
真昼は、ノートを胸に抱えた。
「御影くん」
「何」
「お父さんの名前、完全には戻ってないですね」
「うん」
「でも、消えてない」
「うん」
「篠宮さんの名前も、まだ完全には消えてない」
「うん」
「じゃあ、置く場所を作ります」
レイは彼女を見る。
「呼ぶためじゃなく?」
「呼ぶためだけじゃなく。呼べない間、なくさないために」
レイは、少しだけ頷いた。
「それが、白瀬の記録?」
「はい」
「じゃあ、僕も覚えておく」
「無理に?」
「無理にじゃなく」
レイは、閉じたノクターン書房を見た。
「次に会った時、知らないふりをしないために」
真昼は頷いた。
「はい」
雨が少し強くなる。
路地の奥で、古い排水溝に水が落ちた。
ぽたり。
その音は、地下へ続いているように聞こえた。
*
どこかの地下で、黒い傘が開いた。
そこが旧地下鉄なのか、零番線なのか、記録沈殿層なのかは分からない。
床は黒い水面のようで、天井は見えない。
遠くに、次発表示だけが浮いている。
行き先は読めない。
雨は降っていない。
それなのに、傘の布には水滴がついていた。
黒い傘の下に、人影が立っている。
顔は見えない。
足元には、一枚の貸出票が落ちている。
そこに書かれた名前は、途中から消えている。
**篠宮――**
人影は、それを拾わない。
ただ、傘の柄を握りしめる。
「名前は、まだ早い」
声は静かだった。
そして、どこかひどく疲れていた。
「呼ばれれば、終わる」
黒い水面に、雨粒のような波紋が広がる。
遠くで、別の表示が一瞬だけ浮かんだ。
**O-00**
すぐに消える。
人影は、ゆっくりと歩き出した。
黒い傘が、地下の闇の中を進む。
その足元で、水音がした。
ぽたり。
もう一度。
ぽたり。
その音は、アガルタの地下を伝い、閉じた古書店の床下を通り、御影家の使われていない椅子の下を過ぎ、真昼の非公開記録の奥へ届く。
まだ呼べない名前が、次の扉の向こうで待っている。
父の名前は、完全には戻らなかった。
けれど、消えなかった。
そして今、別の名前が消えようとしている。
雨の中、ノクターン書房の臨時休業の札が、風もないのに小さく揺れた。




