表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第四巻:御影遥真とR-■■
51/82

第十三章 父を許す前に

 改札の向こうに、倉科悠斗が立っていた。


 旧地下鉄の入口側へ戻るための、最後の境目。


 その古い改札は、半分ほど黒い水に沈みかけていた。切符を通す細い溝から、紙ではなく暗い水が滲み出している。上部の表示は壊れかけ、文字が何度も切り替わっていた。


 **保護者名を入力してください**


 **R-■■**


 **次発:R-■■**


 **自己名固定確認**


 どの表示も、完全には残らない。


 明滅し、滲み、消え、また戻る。


 倉科は改札の外側で工具ケースを床に置き、片手で古い点検盤を押さえていた。もう片方の手には、油で黒ずんだ工具が握られている。


「急げ!」


 彼の声が、地下通路に響いた。


「こいつ、駅のくせに機械としてはほぼ死んでる! でも、死んでるくせに閉まろうとしてる!」


 霧生仁がレイの背中を押した。


「御影、先に出ろ!」


「でも」


「でもじゃない。点呼の順番だ!」


 レイは一瞬だけ振り返った。


 次発ホームの奥では、まだ黒い水面が揺れている。


 家族写真が舞っている。


 御影遥真の残響は、もう見えない。


 だが、声だけがレイの胸に残っていた。


 お前は、私の記録じゃない。


 帰り方を、忘れた。


 父はそこにいた。


 そして、まだ帰ってこない。


 真昼が横から呼ぶ。


「御影レイ!」


 レイは息を吸った。


「白瀬真昼!」


「返事できるなら走って!」


「命令が雑」


「霧生さん方式です!」


「俺を悪い見本にするな!」


 霧生が怒鳴る。


 その声に押されるように、レイは改札へ向かった。


 足元が沈む。


 黒い水が靴底を掴もうとする。


 そのたびに、インカムから佳乃の声が届いた。


『レイ』


「いる」


『レイ』


「いる」


『帰ってきて』


「帰る」


 そのやり取りを繰り返しながら、レイは改札を抜けた。


 倉科が彼の腕を掴み、強く引き上げる。


「よし、御影レイ、確保!」


「物みたいに言わないでください」


「じゃあ、帰還確認!」


「それなら」


 倉科はすぐに真昼へ手を伸ばした。


「白瀬!」


「はい!」


 真昼はノートを抱えたまま改札を抜けようとして、足元の水に引かれた。


 一瞬、体が後ろへ持っていかれる。


 黒い水面の中に、写真が浮かんでいた。


 御影家の写真ではない。


 知らない家族。


 知らない父。


 知らない子ども。


 父の顔だけが黒く抜けている。


 その写真の裏に、薄く文字が出る。


 **記録者不明**


 真昼は、反射的に見てしまった。


 記録したい。


 この名前も残さなければ。


 そう思った瞬間、足首に冷たいものが絡んだ。


「白瀬!」


 レイの声。


 真昼は顔を上げる。


 御影レイが改札の外から手を伸ばしている。


 彼は、もう黒い水の中にはいない。


 でも、こちらへ戻ろうとしている。


「来ないで!」


 真昼は叫んだ。


「そっちから呼んで!」


 レイが歯を食いしばる。


「白瀬真昼!」


 その名前で、真昼の足首から黒い水が少しだけ緩んだ。


 倉科が腕を掴む。


 霧生も背後から押し出す。


 真昼は改札を越えた。


 外側のコンクリートの床へ膝をつく。


 ノートは濡れていない。


 彼女は、最初にそれを確認してしまった。


 倉科が呆れたように言う。


「自分の足よりノートかよ」


「どっちも大事です」


「否定しないんだな」


「しません」


 霧生が改札を越えながら言った。


「白瀬、あとで説教だ」


「はい……」


「返事が素直だと逆に怖い」


 その後に、透子が来た。


 藍沢が続く。


 最後に霧生が完全に改札の外へ出た瞬間、古い改札機が大きく軋んだ。


 表示が一度だけ強く光る。


 **次発:R-■■**


 そして、黒い水が改札の向こう側へ引いていった。


 通路は、ただの旧地下鉄に戻る。


 湿ったコンクリート。


 錆びた手すり。


 壊れた蛍光灯。


 それでも、全員がしばらく動けなかった。


 誰も、ただ戻ったとは思えなかった。


 霧生が、ようやく声を出す。


「点呼」


 その一言で、全員が顔を上げた。


「倉科悠斗」


「いる」


「御影レイ」


「いる」


「白瀬真昼」


「います」


「黒江透子」


「います」


「藍沢環」


「います」


「霧生仁」


「いる」


 インカムから、綾瀬の声が入る。


『地上指揮車、綾瀬直央、います。御堂さんもいます』


 少し遅れて、佳乃の声。


『御影佳乃、います』


 レイは、目を閉じた。


 その声が聞こえた瞬間、体の力が抜けそうになった。


 倉科がすぐに支える。


「おっと」


「すみません」


「謝るな。戻ったやつの体は、後から重くなる」


 倉科は、冗談めかして言った。


 だが、その言葉は本当だった。


 戻ってきた。


 だから、重い。


 名前も、記憶も、父の真実も、全部持って戻ってきた。


 軽いはずがなかった。


     *


 地上へ出ると、観測局の車両はまだ停まっていた。


 だが、封鎖部隊は入口から離れていた。


 霧生が地下へ入る前に指示していた市警の応援が到着している。特異殺人対策室の綾瀬と御堂に加え、数名の刑事が旧地下鉄入口の周囲に立っていた。観測局側と揉めているが、少なくとも一方的に突破される状況ではない。


 久我瀬玲央は、車両の前に立っていた。


 彼は、次発ホームで見た時とほとんど変わらない表情をしている。


 ただ、少しだけ沈黙が長かった。


 彼も見たのだろう。


 御影遥真の中心記録。


 自分の名前をR系列へ沈め、レイのA-00化を遮断した父。


 それを、彼はどう解釈するのか。


 真昼には、もう分かっていた。


 久我瀬は、きっと「利用可能な手法」と見る。


 遥真の苦しみも、佳乃の十年も、レイの怒りも、彼にとっては制御のためのデータになってしまう。


 そのことが、真昼にはたまらなく嫌だった。


 霧生が久我瀬の前に立つ。


「強制回収命令は不備。対象者本人は御影レイとして自己名応答を維持。こちらは市警として、観測応用部門による現場介入を記録する」


 久我瀬は静かに答えた。


「命令の形式不備は確認しました。今回は一時撤退します」


「今回は、か」


「R-■■再起動とA-00接近反応の危険性は消えていません。適切な形式で、再度保護命令が出る可能性があります」


 霧生の眉間に皺が寄る。


「出してみろ。今度は最初から弁護士と市警と保護者を並べて相手してやる」


「法的手続きで解決できる問題ではありません」


「人を連れていくなら、法的手続きの問題だ」


 久我瀬は、霧生からレイへ視線を移した。


「御影レイさん」


 レイは、反応しない。


 真昼が小さく呼ぶ。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


 返事をしてから、レイは久我瀬を見た。


「何ですか」


「あなたの父君は、非常に興味深い選択をしました。感情的には愚かでしたが、方法としては価値がある」


 空気が凍った。


 佳乃の声がインカムの向こうで息を呑む。


 霧生が一歩前へ出ようとした。


 だが、それより先にレイが言った。


「父を、材料みたいに言うな」


 声は大きくない。


 しかし、はっきりしていた。


「僕は父をまだ許していない。でも、あなたに利用価値として語らせるつもりはない」


 久我瀬は、ほんのわずかに目を細めた。


「許す、許さない。それもまた、家族呼称に紐づく反応です」


 霧生が低く言う。


「黙れ」


 今度は、久我瀬もそれ以上は言わなかった。


 彼は後ろの職員たちに撤収を命じる。


 観測局の車両が動き始める。


 完全に去る前、久我瀬は藍沢を見た。


「藍沢主任」


「はい」


「記録保全部の報告書を楽しみにしています」


「提出します」


「部署間調整が長引くな」


「必要な摩擦です」


 藍沢の声は冷静だった。


 だが、そこには決意があった。


 久我瀬は、何も言わず車両へ乗り込んだ。


 車両が去る。


 雨上がりの道路に、濃いタイヤ跡だけが残った。


     *


 藍沢環は、その場で端末を開いた。


 地上へ戻った直後だというのに、指先は迷わなかった。


 記録保全部への緊急報告。


 宛先。


 記録保全部上席。


 監査管理室。


 境界災害手続審査室。


 市警特異殺人対策室共有。


 藍沢は、淡々と入力していく。


 **件名:観測応用部門によるA-00強制保護命令の記録形式不備および記録事故誘発リスクについて**


 真昼は横から見ていた。


 藍沢は続ける。


 **対象者欄に現在名の記載なし。

 識別番号A-00のみで拘束対象を指定。

 当該表記は対象者本人の自己名固定を阻害する危険がある。

 次発ホーム内において、A-00呼称使用によりR-■■反応が上昇。

 御影レイという自己名応答により一時安定を確認。

 番号のみを本人代替名として運用することは、記録保全上重大な事故誘発行為である。**


 真昼は、黙ってその文章を見ていた。


 藍沢が番号を否定しているわけではない。


 番号は使う。


 保全のために。


 だが、番号を名前の代わりにしてはならない。


 その線を、藍沢は明確に引いていた。


「藍沢さん」


 真昼が言った。


「はい」


「ありがとうございます」


 藍沢は、端末から顔を上げない。


「礼を言われることではありません。記録形式の不備を報告しているだけです」


「でも、御影くんの名前を守ってくれました」


「名前を守ったのではありません」


 藍沢は少しだけ間を置いた。


「番号が、名前を侵食するのを止めました」


「それは、名前を守ったって言うんだと思います」


 藍沢は答えなかった。


 ただ、最後の一行を入力した。


 **番号は杭であり、本人名の代替ではない。**


 送信。


 画面に、報告受付の表示が出る。


 その瞬間、藍沢はほんの少しだけ息を吐いた。


 観測局内部で、これから対立が表面化する。


 記録保全部と観測応用部門。


 保存する者と、利用する者。


 番号を杭として使う者と、番号を鎖として使う者。


 それは、もう隠れた思想の違いでは済まなくなる。


 霧生が言う。


「揉めるぞ、それ」


「承知しています」


「いい返事だ」


「あなたも報告書を書きます」


「思い出させるな」


「現場責任者です」


「黒江、お前も書け」


「もちろんです」


 透子は静かに答えた。


「過去の自分が止められなかった制度を、今の自分が止めるために」


 その言葉に、霧生は一瞬黙った。


 それから、頭を掻いた。


「……そういう言い方をされると、俺も真面目に書くしかなくなるだろ」


「お願いします」


「分かったよ」


 真昼は、そのやり取りを見ながら、ノートを握った。


 自分も書く。


 ただし、公開するためではない。


 まだ。


 これは、誰かを刺激する記事ではなく、誰かの名前を置くための記録になる。


     *


 御影家へ戻った時、空は夕方に傾いていた。


 雨はもう止んでいる。


 雲の切れ間から、薄い光が差していた。マンションの階段には、雨粒が残っている。手すりに触れると冷たい。


 佳乃は、玄関でレイを迎えた。


 地上指揮車から先に戻り、家で待っていた。


 顔色は悪い。


 だが、立っている。


 扉が開いた瞬間、彼女はいつものように言った。


「おかえり」


 レイは、少しだけ動きを止めた。


 そして、答えた。


「ただいま」


 その二語だけで、佳乃の目に涙が浮かんだ。


 でも、彼女は泣かなかった。


 泣く前に、レイの靴を見た。


「靴、濡れてる」


「地下で」


「新聞紙を入れておかないと」


「今、それ?」


「今、それ」


 レイは、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「母さんらしい」


「母ですから」


 真昼は玄関の外で、少しだけ立ち止まった。


 霧生は彼女を見て言う。


「入るか?」


「いいんですか」


「ここまで来て外で待つのも変だろ。だが、邪魔だと思ったら出ろ」


「はい」


 真昼は頭を下げ、御影家に入った。


 リビングには、昨日と同じアルバムが置かれていた。


 ただし、今日は閉じられている。


 テーブルの上には、湯呑みが三つ。


 佳乃はまたお茶を淹れていた。


 真昼は、湯呑みの湯気を見て、胸の奥が少しだけ落ち着くのを感じた。


 地下から戻るたび、温かいものが現実を作り直す。


 霧生と透子は、玄関近くで短く状況確認をし、外へ出た。


 市警側の処理が残っている。


 藍沢も、観測局へ戻る必要がある。


 倉科は、旧地下鉄入口の再封鎖に残った。


 御影家のリビングには、レイと佳乃と真昼だけが残った。


 静かだった。


 静かすぎて、湯呑みを置く音が大きく聞こえる。


 佳乃は、レイの前にお茶を置いた。


「飲める?」


「飲める」


 レイは湯呑みを持つ。


 手が少し震えている。


 佳乃は、それを見ても何も言わなかった。


 ただ、自分の湯呑みを持って、向かいに座った。


 真昼は少し離れた席に座る。


 ノートは開かない。


 まだ、開けない。


 レイは、お茶を一口飲んだ。


 熱かったのか、少し顔をしかめる。


「熱い」


「冷ましてから飲みなさい」


「先に言って」


「見れば分かるでしょう」


「分からない時もある」


「そうね」


 佳乃は、小さく微笑んだ。


 その微笑みはすぐに消えた。


 レイは湯呑みを置いた。


「見たよ」


 佳乃の手が止まる。


「お父さんを?」


「うん」


 レイは、正確に言い直すように少し間を置いた。


「父さんの残響を」


 佳乃は頷いた。


「そう」


「十年前のことも、少し見た」


「……そう」


「観測局が僕をA-00として収容しようとしてたこと。父さんが抵抗したこと。僕の名前がA-00に置き換わりかけてたこと。父さんが自分の名前と研究記録をR系列に沈めたこと」


 言葉にすると、余計に遠くなる。


 家族の話ではなく、報告書のようになる。


 それが嫌で、レイは顔を歪めた。


「父さんは、僕を守ろうとしてた」


 佳乃は、目を伏せた。


「ええ」


「観測対象としてだけ見てたわけじゃなかった」


「ええ」


「でも」


 レイの声が硬くなる。


「許せない」


 佳乃は顔を上げた。


 レイは、まっすぐ母を見ていた。


「僕も、母さんも置いていった。説明もなく消えた。守るためだったとしても、隠されたことは消えない。母さんが十年苦しんだことも、僕が何も知らなかったことも、消えない」


「ええ」


「父さんが正しくなかったって、自分で言った。だったら、僕が許せなくてもいいよね」


 佳乃は、深く頷いた。


「許さなくていいの」


 声は静かだった。


「でも、知らないまま憎まなくてもいい」


 レイは、その言葉を受け止めた。


 すぐには返せなかった。


 許さなくていい。


 その許可が、胸に痛かった。


 知らないまま憎まなくてもいい。


 その言葉も、痛かった。


 父を憎むのは簡単ではない。


 守ろうとしていたことを知ってしまったから。


 でも、父を許すのも簡単ではない。


 置いていかれた事実を、もう知っているから。


 どちらにも行けない感情が、胸の中で揺れている。


 レイは、しばらく湯呑みの中を見ていた。


 お茶の表面に、薄く自分の顔が映っている。


 そこに、父の顔は映らない。


 A-00の番号も映らない。


 ただ、疲れた自分の顔だけがある。


「僕は」


 レイは言った。


「父を許す前に、父を知る」


 真昼の指が、膝の上で動いた。


 ノートを開きたい。


 今の言葉を残したい。


 でも、すぐには動かなかった。


 その言葉が空気に置かれるのを待った。


 佳乃は、泣きそうな顔で微笑んだ。


「ええ」


「許すかどうかは、まだ分からない」


「分からなくていい」


「父さんが帰ってくるかも、分からない」


「ええ」


「でも、R-■■の中にいるなら、探す」


「ええ」


「父さんが何をしたのかも、何を壊したのかも、知る」


 佳乃は、少しだけ目を伏せた。


「私も、知るわ」


 レイが顔を上げる。


「母さんも?」


「ええ。私は、遥真が何を見ていたのか全部は知らなかった。知らないまま、あなたを守っているつもりだった。でも、それでは駄目だった」


 佳乃は、湯呑みを両手で包む。


「だから、私も知る。あの人が何をしたのか。あなたに何を残したのか。私に何を黙っていたのか。全部、受け取れるかは分からないけれど」


「怒る?」


「怒るわ」


 即答だった。


 レイは少しだけ目を丸くした。


 佳乃は、静かに言った。


「帰ってきたら、まず怒る」


「……うん」


「謝らせる」


「うん」


「それから、お茶を出すか考える」


 真昼が、思わず小さく笑ってしまった。


 レイも、ほんの少しだけ笑った。


「出さないかもしれないんだ」


「最初は出さないかもしれないわ」


「父さん、かわいそう」


「十年待たせたのだから、それくらいは当然です」


「それはそう」


 ほんの短い笑い。


 それは、和解ではない。


 救済でもない。


 でも、御影家の空気が、少しだけ地上へ戻った瞬間だった。


 真昼は、そこでようやくノートを開いた。


 レイが気づく。


「書くの?」


「書きます」


「公開する?」


「しません」


「非公開?」


「はい」


 真昼は、ペンを持った。


「でも、方針を決めました」


 佳乃が見る。


「方針?」


「御影遥真さんを、美化しません」


 真昼は言った。


「観測者だったことも書きます。外部協力者だったことも。レイくんを守ろうとしたことも。隠したことも。佳乃さんを十年待たせたことも。R系列を不安定にしたことも。父だったことも」


 レイは、黙って聞いていた。


 真昼は続ける。


「被害者だけにもしません。加害者だけにもしません。研究者だけにも、父だけにもしません。矛盾した人間として記録します」


 ペン先が、紙に触れる。


 **非公開記録方針:御影遥真。**


 真昼はゆっくり書いた。


 **御影遥真を、美化しない。

 断罪だけもしない。

 観測者。

 外部協力者。

 父。

 逃げた人。

 守ろうとした人。

 傷つけた人。

 R-■■へ沈んだ名前。

 まだ帰っていない人。**


 そこで、一度ペンを止める。


 レイを見る。


「これでいいですか」


 レイは、ノートを見た。


 長く見た。


 それから、少しだけ息を吐いた。


「いいと思う」


 佳乃も頷いた。


「ええ」


 真昼は、最後に一行を書き足した。


 **父を許す前に、父を知る。**


 書いた瞬間、胸の奥で何かが静かに沈んだ。


 落ちたのではない。


 場所を得た。


 そんな感覚だった。


     *


 夜になって、真昼は帰ることになった。


 霧生が迎えに来ると言ったが、御影家から大通りまでなら一緒に行くとレイが言った。佳乃は少し心配そうにしたが、マンションの入口までなら、と許した。


 玄関で、佳乃がレイに声をかける。


「すぐ戻ってきなさい」


「分かってる」


「傘は?」


「雨、降ってない」


「持っていきなさい」


「大通りまでだよ」


「持っていきなさい」


 レイは小さく息を吐いた。


「はい」


 真昼は、そのやり取りを聞きながら笑った。


「御影くん、反抗期が傘に負けてます」


「母さんの傘指示は強い」


「家族呼称より強い?」


「場合による」


 佳乃が言う。


「レイ」


 レイは顔を上げる。


「何」


「行ってらっしゃい」


 その言葉に、レイは少しだけ固まった。


 それから、返した。


「行ってきます」


 玄関の扉が閉まる。


 廊下には、夜の空気があった。


 雨は降っていない。


 でも、湿った風が吹いていた。


 真昼は、レイの横を歩きながら言う。


「怒ってます?」


「怒ってる」


「お父さんに?」


「父さんに。母さんに。観測局に。久我瀬に。自分にも」


「私には?」


「少し」


「えっ」


「便利な犠牲者の顔しないで、は刺さった」


「あれは怒りました」


「知ってる」


「まだ怒ってます」


「知ってる」


 二人は階段を下りる。


 手すりには、昨日の雨の水滴が少し残っていた。


 レイは、それを見て言った。


「でも、ありがとう」


 真昼は、少しだけ目を丸くした。


「珍しい」


「うるさい」


「すみません」


「白瀬が怒らなかったら、たぶん少し楽な方に行こうとしてた」


「楽?」


「A-00って呼ばれる方」


 真昼は、何も言えなかった。


 レイは続ける。


「名前を持ってると、怒らないといけない。悲しまないといけない。誰かを知らないといけない。面倒くさい」


「はい」


「でも、番号になったら、それをしなくていい気がした」


「でも」


「うん」


 レイは、夜の街を見た。


「それは、僕じゃない」


 真昼は頷いた。


「はい」


「僕は、御影レイ」


「白瀬真昼」


「まだ呼んでない」


「返事の先払いです」


「便利」


「便利だから」


 二人は、大通りの手前で立ち止まった。


 霧生の車が、少し離れた場所に停まっている。


 運転席で霧生が手を上げた。


 真昼は、レイへ向き直る。


「明日、学院に来られそうですか」


「分からない」


「観測局、動きますよね」


「たぶん」


「市警も」


「たぶん」


「真昼も動く」


「当然です」


「記事は?」


「公開記事は、まだ書きません。でも、非公開記録は進めます」


「うん」


 レイは、少しだけ間を置いた。


「父さんを、悪い人だけにしないで」


「しません」


「いい人だけにもしないで」


「しません」


「僕の父だけにも、しないで」


 真昼は、そこに少し驚いた。


 レイは続ける。


「R-■■の中には、いろんな父がいた。父さんは、その中の一人。でも、僕にとっては父さん。両方、たぶん必要」


 真昼は、静かに頷いた。


「書きます」


「公開しないで」


「はい」


「でも、消さないで」


「消しません」


 レイは、大きく息を吐いた。


 そして、少しだけ困ったように言った。


「またそればっかりだな」


「大事なので」


「うん」


 真昼は、霧生の車へ向かう前に一度だけ振り返った。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


「また明日」


「また明日」


 その返事を聞いて、真昼は車へ向かった。


 レイは、マンションの階段を戻る。


 玄関を開けると、佳乃がまだそこにいた。


「早かったわね」


「大通りまでだから」


「傘は使った?」


「使ってない」


「持っていった意味は?」


「母さんが安心する」


 佳乃は、少しだけ目を丸くした。


 それから、笑った。


「そうね」


 レイは靴を脱ぎながら言った。


「明日も、朝、呼んで」


 佳乃は、昨日と同じように頷いた。


「もちろん。レイ」


 その声は、変わらなかった。


 父の真実を知っても。


 観測局が動いても。


 R-■■の奥にまだ次発ホームが口を開けていても。


 その声だけは、朝へつながっている。


 レイは、静かに答えた。


「うん」


 そして、自分の部屋へ戻った。


 机の上には、父の手紙が置かれている。


 まだ、読み返す勇気はない。


 でも、しまい込むこともしなかった。


 レイは、その手紙の横に、自分の学生証を置いた。


 氏名欄。


 御影レイ。


 まだ、消えていない。


 彼はその文字を見て、小さく呟いた。


「父を許す前に、父を知る」


 窓の外で、水滴がひとつ、手すりから落ちた。


 ぽたり。


 その音は、もう彼を呼んでいるだけではなかった。


 どこかで沈んでいる父の名前へ、ゆっくり届いていく音のように聞こえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ