第十三章 父を許す前に
改札の向こうに、倉科悠斗が立っていた。
旧地下鉄の入口側へ戻るための、最後の境目。
その古い改札は、半分ほど黒い水に沈みかけていた。切符を通す細い溝から、紙ではなく暗い水が滲み出している。上部の表示は壊れかけ、文字が何度も切り替わっていた。
**保護者名を入力してください**
**R-■■**
**次発:R-■■**
**自己名固定確認**
どの表示も、完全には残らない。
明滅し、滲み、消え、また戻る。
倉科は改札の外側で工具ケースを床に置き、片手で古い点検盤を押さえていた。もう片方の手には、油で黒ずんだ工具が握られている。
「急げ!」
彼の声が、地下通路に響いた。
「こいつ、駅のくせに機械としてはほぼ死んでる! でも、死んでるくせに閉まろうとしてる!」
霧生仁がレイの背中を押した。
「御影、先に出ろ!」
「でも」
「でもじゃない。点呼の順番だ!」
レイは一瞬だけ振り返った。
次発ホームの奥では、まだ黒い水面が揺れている。
家族写真が舞っている。
御影遥真の残響は、もう見えない。
だが、声だけがレイの胸に残っていた。
お前は、私の記録じゃない。
帰り方を、忘れた。
父はそこにいた。
そして、まだ帰ってこない。
真昼が横から呼ぶ。
「御影レイ!」
レイは息を吸った。
「白瀬真昼!」
「返事できるなら走って!」
「命令が雑」
「霧生さん方式です!」
「俺を悪い見本にするな!」
霧生が怒鳴る。
その声に押されるように、レイは改札へ向かった。
足元が沈む。
黒い水が靴底を掴もうとする。
そのたびに、インカムから佳乃の声が届いた。
『レイ』
「いる」
『レイ』
「いる」
『帰ってきて』
「帰る」
そのやり取りを繰り返しながら、レイは改札を抜けた。
倉科が彼の腕を掴み、強く引き上げる。
「よし、御影レイ、確保!」
「物みたいに言わないでください」
「じゃあ、帰還確認!」
「それなら」
倉科はすぐに真昼へ手を伸ばした。
「白瀬!」
「はい!」
真昼はノートを抱えたまま改札を抜けようとして、足元の水に引かれた。
一瞬、体が後ろへ持っていかれる。
黒い水面の中に、写真が浮かんでいた。
御影家の写真ではない。
知らない家族。
知らない父。
知らない子ども。
父の顔だけが黒く抜けている。
その写真の裏に、薄く文字が出る。
**記録者不明**
真昼は、反射的に見てしまった。
記録したい。
この名前も残さなければ。
そう思った瞬間、足首に冷たいものが絡んだ。
「白瀬!」
レイの声。
真昼は顔を上げる。
御影レイが改札の外から手を伸ばしている。
彼は、もう黒い水の中にはいない。
でも、こちらへ戻ろうとしている。
「来ないで!」
真昼は叫んだ。
「そっちから呼んで!」
レイが歯を食いしばる。
「白瀬真昼!」
その名前で、真昼の足首から黒い水が少しだけ緩んだ。
倉科が腕を掴む。
霧生も背後から押し出す。
真昼は改札を越えた。
外側のコンクリートの床へ膝をつく。
ノートは濡れていない。
彼女は、最初にそれを確認してしまった。
倉科が呆れたように言う。
「自分の足よりノートかよ」
「どっちも大事です」
「否定しないんだな」
「しません」
霧生が改札を越えながら言った。
「白瀬、あとで説教だ」
「はい……」
「返事が素直だと逆に怖い」
その後に、透子が来た。
藍沢が続く。
最後に霧生が完全に改札の外へ出た瞬間、古い改札機が大きく軋んだ。
表示が一度だけ強く光る。
**次発:R-■■**
そして、黒い水が改札の向こう側へ引いていった。
通路は、ただの旧地下鉄に戻る。
湿ったコンクリート。
錆びた手すり。
壊れた蛍光灯。
それでも、全員がしばらく動けなかった。
誰も、ただ戻ったとは思えなかった。
霧生が、ようやく声を出す。
「点呼」
その一言で、全員が顔を上げた。
「倉科悠斗」
「いる」
「御影レイ」
「いる」
「白瀬真昼」
「います」
「黒江透子」
「います」
「藍沢環」
「います」
「霧生仁」
「いる」
インカムから、綾瀬の声が入る。
『地上指揮車、綾瀬直央、います。御堂さんもいます』
少し遅れて、佳乃の声。
『御影佳乃、います』
レイは、目を閉じた。
その声が聞こえた瞬間、体の力が抜けそうになった。
倉科がすぐに支える。
「おっと」
「すみません」
「謝るな。戻ったやつの体は、後から重くなる」
倉科は、冗談めかして言った。
だが、その言葉は本当だった。
戻ってきた。
だから、重い。
名前も、記憶も、父の真実も、全部持って戻ってきた。
軽いはずがなかった。
*
地上へ出ると、観測局の車両はまだ停まっていた。
だが、封鎖部隊は入口から離れていた。
霧生が地下へ入る前に指示していた市警の応援が到着している。特異殺人対策室の綾瀬と御堂に加え、数名の刑事が旧地下鉄入口の周囲に立っていた。観測局側と揉めているが、少なくとも一方的に突破される状況ではない。
久我瀬玲央は、車両の前に立っていた。
彼は、次発ホームで見た時とほとんど変わらない表情をしている。
ただ、少しだけ沈黙が長かった。
彼も見たのだろう。
御影遥真の中心記録。
自分の名前をR系列へ沈め、レイのA-00化を遮断した父。
それを、彼はどう解釈するのか。
真昼には、もう分かっていた。
久我瀬は、きっと「利用可能な手法」と見る。
遥真の苦しみも、佳乃の十年も、レイの怒りも、彼にとっては制御のためのデータになってしまう。
そのことが、真昼にはたまらなく嫌だった。
霧生が久我瀬の前に立つ。
「強制回収命令は不備。対象者本人は御影レイとして自己名応答を維持。こちらは市警として、観測応用部門による現場介入を記録する」
久我瀬は静かに答えた。
「命令の形式不備は確認しました。今回は一時撤退します」
「今回は、か」
「R-■■再起動とA-00接近反応の危険性は消えていません。適切な形式で、再度保護命令が出る可能性があります」
霧生の眉間に皺が寄る。
「出してみろ。今度は最初から弁護士と市警と保護者を並べて相手してやる」
「法的手続きで解決できる問題ではありません」
「人を連れていくなら、法的手続きの問題だ」
久我瀬は、霧生からレイへ視線を移した。
「御影レイさん」
レイは、反応しない。
真昼が小さく呼ぶ。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
返事をしてから、レイは久我瀬を見た。
「何ですか」
「あなたの父君は、非常に興味深い選択をしました。感情的には愚かでしたが、方法としては価値がある」
空気が凍った。
佳乃の声がインカムの向こうで息を呑む。
霧生が一歩前へ出ようとした。
だが、それより先にレイが言った。
「父を、材料みたいに言うな」
声は大きくない。
しかし、はっきりしていた。
「僕は父をまだ許していない。でも、あなたに利用価値として語らせるつもりはない」
久我瀬は、ほんのわずかに目を細めた。
「許す、許さない。それもまた、家族呼称に紐づく反応です」
霧生が低く言う。
「黙れ」
今度は、久我瀬もそれ以上は言わなかった。
彼は後ろの職員たちに撤収を命じる。
観測局の車両が動き始める。
完全に去る前、久我瀬は藍沢を見た。
「藍沢主任」
「はい」
「記録保全部の報告書を楽しみにしています」
「提出します」
「部署間調整が長引くな」
「必要な摩擦です」
藍沢の声は冷静だった。
だが、そこには決意があった。
久我瀬は、何も言わず車両へ乗り込んだ。
車両が去る。
雨上がりの道路に、濃いタイヤ跡だけが残った。
*
藍沢環は、その場で端末を開いた。
地上へ戻った直後だというのに、指先は迷わなかった。
記録保全部への緊急報告。
宛先。
記録保全部上席。
監査管理室。
境界災害手続審査室。
市警特異殺人対策室共有。
藍沢は、淡々と入力していく。
**件名:観測応用部門によるA-00強制保護命令の記録形式不備および記録事故誘発リスクについて**
真昼は横から見ていた。
藍沢は続ける。
**対象者欄に現在名の記載なし。
識別番号A-00のみで拘束対象を指定。
当該表記は対象者本人の自己名固定を阻害する危険がある。
次発ホーム内において、A-00呼称使用によりR-■■反応が上昇。
御影レイという自己名応答により一時安定を確認。
番号のみを本人代替名として運用することは、記録保全上重大な事故誘発行為である。**
真昼は、黙ってその文章を見ていた。
藍沢が番号を否定しているわけではない。
番号は使う。
保全のために。
だが、番号を名前の代わりにしてはならない。
その線を、藍沢は明確に引いていた。
「藍沢さん」
真昼が言った。
「はい」
「ありがとうございます」
藍沢は、端末から顔を上げない。
「礼を言われることではありません。記録形式の不備を報告しているだけです」
「でも、御影くんの名前を守ってくれました」
「名前を守ったのではありません」
藍沢は少しだけ間を置いた。
「番号が、名前を侵食するのを止めました」
「それは、名前を守ったって言うんだと思います」
藍沢は答えなかった。
ただ、最後の一行を入力した。
**番号は杭であり、本人名の代替ではない。**
送信。
画面に、報告受付の表示が出る。
その瞬間、藍沢はほんの少しだけ息を吐いた。
観測局内部で、これから対立が表面化する。
記録保全部と観測応用部門。
保存する者と、利用する者。
番号を杭として使う者と、番号を鎖として使う者。
それは、もう隠れた思想の違いでは済まなくなる。
霧生が言う。
「揉めるぞ、それ」
「承知しています」
「いい返事だ」
「あなたも報告書を書きます」
「思い出させるな」
「現場責任者です」
「黒江、お前も書け」
「もちろんです」
透子は静かに答えた。
「過去の自分が止められなかった制度を、今の自分が止めるために」
その言葉に、霧生は一瞬黙った。
それから、頭を掻いた。
「……そういう言い方をされると、俺も真面目に書くしかなくなるだろ」
「お願いします」
「分かったよ」
真昼は、そのやり取りを見ながら、ノートを握った。
自分も書く。
ただし、公開するためではない。
まだ。
これは、誰かを刺激する記事ではなく、誰かの名前を置くための記録になる。
*
御影家へ戻った時、空は夕方に傾いていた。
雨はもう止んでいる。
雲の切れ間から、薄い光が差していた。マンションの階段には、雨粒が残っている。手すりに触れると冷たい。
佳乃は、玄関でレイを迎えた。
地上指揮車から先に戻り、家で待っていた。
顔色は悪い。
だが、立っている。
扉が開いた瞬間、彼女はいつものように言った。
「おかえり」
レイは、少しだけ動きを止めた。
そして、答えた。
「ただいま」
その二語だけで、佳乃の目に涙が浮かんだ。
でも、彼女は泣かなかった。
泣く前に、レイの靴を見た。
「靴、濡れてる」
「地下で」
「新聞紙を入れておかないと」
「今、それ?」
「今、それ」
レイは、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「母さんらしい」
「母ですから」
真昼は玄関の外で、少しだけ立ち止まった。
霧生は彼女を見て言う。
「入るか?」
「いいんですか」
「ここまで来て外で待つのも変だろ。だが、邪魔だと思ったら出ろ」
「はい」
真昼は頭を下げ、御影家に入った。
リビングには、昨日と同じアルバムが置かれていた。
ただし、今日は閉じられている。
テーブルの上には、湯呑みが三つ。
佳乃はまたお茶を淹れていた。
真昼は、湯呑みの湯気を見て、胸の奥が少しだけ落ち着くのを感じた。
地下から戻るたび、温かいものが現実を作り直す。
霧生と透子は、玄関近くで短く状況確認をし、外へ出た。
市警側の処理が残っている。
藍沢も、観測局へ戻る必要がある。
倉科は、旧地下鉄入口の再封鎖に残った。
御影家のリビングには、レイと佳乃と真昼だけが残った。
静かだった。
静かすぎて、湯呑みを置く音が大きく聞こえる。
佳乃は、レイの前にお茶を置いた。
「飲める?」
「飲める」
レイは湯呑みを持つ。
手が少し震えている。
佳乃は、それを見ても何も言わなかった。
ただ、自分の湯呑みを持って、向かいに座った。
真昼は少し離れた席に座る。
ノートは開かない。
まだ、開けない。
レイは、お茶を一口飲んだ。
熱かったのか、少し顔をしかめる。
「熱い」
「冷ましてから飲みなさい」
「先に言って」
「見れば分かるでしょう」
「分からない時もある」
「そうね」
佳乃は、小さく微笑んだ。
その微笑みはすぐに消えた。
レイは湯呑みを置いた。
「見たよ」
佳乃の手が止まる。
「お父さんを?」
「うん」
レイは、正確に言い直すように少し間を置いた。
「父さんの残響を」
佳乃は頷いた。
「そう」
「十年前のことも、少し見た」
「……そう」
「観測局が僕をA-00として収容しようとしてたこと。父さんが抵抗したこと。僕の名前がA-00に置き換わりかけてたこと。父さんが自分の名前と研究記録をR系列に沈めたこと」
言葉にすると、余計に遠くなる。
家族の話ではなく、報告書のようになる。
それが嫌で、レイは顔を歪めた。
「父さんは、僕を守ろうとしてた」
佳乃は、目を伏せた。
「ええ」
「観測対象としてだけ見てたわけじゃなかった」
「ええ」
「でも」
レイの声が硬くなる。
「許せない」
佳乃は顔を上げた。
レイは、まっすぐ母を見ていた。
「僕も、母さんも置いていった。説明もなく消えた。守るためだったとしても、隠されたことは消えない。母さんが十年苦しんだことも、僕が何も知らなかったことも、消えない」
「ええ」
「父さんが正しくなかったって、自分で言った。だったら、僕が許せなくてもいいよね」
佳乃は、深く頷いた。
「許さなくていいの」
声は静かだった。
「でも、知らないまま憎まなくてもいい」
レイは、その言葉を受け止めた。
すぐには返せなかった。
許さなくていい。
その許可が、胸に痛かった。
知らないまま憎まなくてもいい。
その言葉も、痛かった。
父を憎むのは簡単ではない。
守ろうとしていたことを知ってしまったから。
でも、父を許すのも簡単ではない。
置いていかれた事実を、もう知っているから。
どちらにも行けない感情が、胸の中で揺れている。
レイは、しばらく湯呑みの中を見ていた。
お茶の表面に、薄く自分の顔が映っている。
そこに、父の顔は映らない。
A-00の番号も映らない。
ただ、疲れた自分の顔だけがある。
「僕は」
レイは言った。
「父を許す前に、父を知る」
真昼の指が、膝の上で動いた。
ノートを開きたい。
今の言葉を残したい。
でも、すぐには動かなかった。
その言葉が空気に置かれるのを待った。
佳乃は、泣きそうな顔で微笑んだ。
「ええ」
「許すかどうかは、まだ分からない」
「分からなくていい」
「父さんが帰ってくるかも、分からない」
「ええ」
「でも、R-■■の中にいるなら、探す」
「ええ」
「父さんが何をしたのかも、何を壊したのかも、知る」
佳乃は、少しだけ目を伏せた。
「私も、知るわ」
レイが顔を上げる。
「母さんも?」
「ええ。私は、遥真が何を見ていたのか全部は知らなかった。知らないまま、あなたを守っているつもりだった。でも、それでは駄目だった」
佳乃は、湯呑みを両手で包む。
「だから、私も知る。あの人が何をしたのか。あなたに何を残したのか。私に何を黙っていたのか。全部、受け取れるかは分からないけれど」
「怒る?」
「怒るわ」
即答だった。
レイは少しだけ目を丸くした。
佳乃は、静かに言った。
「帰ってきたら、まず怒る」
「……うん」
「謝らせる」
「うん」
「それから、お茶を出すか考える」
真昼が、思わず小さく笑ってしまった。
レイも、ほんの少しだけ笑った。
「出さないかもしれないんだ」
「最初は出さないかもしれないわ」
「父さん、かわいそう」
「十年待たせたのだから、それくらいは当然です」
「それはそう」
ほんの短い笑い。
それは、和解ではない。
救済でもない。
でも、御影家の空気が、少しだけ地上へ戻った瞬間だった。
真昼は、そこでようやくノートを開いた。
レイが気づく。
「書くの?」
「書きます」
「公開する?」
「しません」
「非公開?」
「はい」
真昼は、ペンを持った。
「でも、方針を決めました」
佳乃が見る。
「方針?」
「御影遥真さんを、美化しません」
真昼は言った。
「観測者だったことも書きます。外部協力者だったことも。レイくんを守ろうとしたことも。隠したことも。佳乃さんを十年待たせたことも。R系列を不安定にしたことも。父だったことも」
レイは、黙って聞いていた。
真昼は続ける。
「被害者だけにもしません。加害者だけにもしません。研究者だけにも、父だけにもしません。矛盾した人間として記録します」
ペン先が、紙に触れる。
**非公開記録方針:御影遥真。**
真昼はゆっくり書いた。
**御影遥真を、美化しない。
断罪だけもしない。
観測者。
外部協力者。
父。
逃げた人。
守ろうとした人。
傷つけた人。
R-■■へ沈んだ名前。
まだ帰っていない人。**
そこで、一度ペンを止める。
レイを見る。
「これでいいですか」
レイは、ノートを見た。
長く見た。
それから、少しだけ息を吐いた。
「いいと思う」
佳乃も頷いた。
「ええ」
真昼は、最後に一行を書き足した。
**父を許す前に、父を知る。**
書いた瞬間、胸の奥で何かが静かに沈んだ。
落ちたのではない。
場所を得た。
そんな感覚だった。
*
夜になって、真昼は帰ることになった。
霧生が迎えに来ると言ったが、御影家から大通りまでなら一緒に行くとレイが言った。佳乃は少し心配そうにしたが、マンションの入口までなら、と許した。
玄関で、佳乃がレイに声をかける。
「すぐ戻ってきなさい」
「分かってる」
「傘は?」
「雨、降ってない」
「持っていきなさい」
「大通りまでだよ」
「持っていきなさい」
レイは小さく息を吐いた。
「はい」
真昼は、そのやり取りを聞きながら笑った。
「御影くん、反抗期が傘に負けてます」
「母さんの傘指示は強い」
「家族呼称より強い?」
「場合による」
佳乃が言う。
「レイ」
レイは顔を上げる。
「何」
「行ってらっしゃい」
その言葉に、レイは少しだけ固まった。
それから、返した。
「行ってきます」
玄関の扉が閉まる。
廊下には、夜の空気があった。
雨は降っていない。
でも、湿った風が吹いていた。
真昼は、レイの横を歩きながら言う。
「怒ってます?」
「怒ってる」
「お父さんに?」
「父さんに。母さんに。観測局に。久我瀬に。自分にも」
「私には?」
「少し」
「えっ」
「便利な犠牲者の顔しないで、は刺さった」
「あれは怒りました」
「知ってる」
「まだ怒ってます」
「知ってる」
二人は階段を下りる。
手すりには、昨日の雨の水滴が少し残っていた。
レイは、それを見て言った。
「でも、ありがとう」
真昼は、少しだけ目を丸くした。
「珍しい」
「うるさい」
「すみません」
「白瀬が怒らなかったら、たぶん少し楽な方に行こうとしてた」
「楽?」
「A-00って呼ばれる方」
真昼は、何も言えなかった。
レイは続ける。
「名前を持ってると、怒らないといけない。悲しまないといけない。誰かを知らないといけない。面倒くさい」
「はい」
「でも、番号になったら、それをしなくていい気がした」
「でも」
「うん」
レイは、夜の街を見た。
「それは、僕じゃない」
真昼は頷いた。
「はい」
「僕は、御影レイ」
「白瀬真昼」
「まだ呼んでない」
「返事の先払いです」
「便利」
「便利だから」
二人は、大通りの手前で立ち止まった。
霧生の車が、少し離れた場所に停まっている。
運転席で霧生が手を上げた。
真昼は、レイへ向き直る。
「明日、学院に来られそうですか」
「分からない」
「観測局、動きますよね」
「たぶん」
「市警も」
「たぶん」
「真昼も動く」
「当然です」
「記事は?」
「公開記事は、まだ書きません。でも、非公開記録は進めます」
「うん」
レイは、少しだけ間を置いた。
「父さんを、悪い人だけにしないで」
「しません」
「いい人だけにもしないで」
「しません」
「僕の父だけにも、しないで」
真昼は、そこに少し驚いた。
レイは続ける。
「R-■■の中には、いろんな父がいた。父さんは、その中の一人。でも、僕にとっては父さん。両方、たぶん必要」
真昼は、静かに頷いた。
「書きます」
「公開しないで」
「はい」
「でも、消さないで」
「消しません」
レイは、大きく息を吐いた。
そして、少しだけ困ったように言った。
「またそればっかりだな」
「大事なので」
「うん」
真昼は、霧生の車へ向かう前に一度だけ振り返った。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
「また明日」
「また明日」
その返事を聞いて、真昼は車へ向かった。
レイは、マンションの階段を戻る。
玄関を開けると、佳乃がまだそこにいた。
「早かったわね」
「大通りまでだから」
「傘は使った?」
「使ってない」
「持っていった意味は?」
「母さんが安心する」
佳乃は、少しだけ目を丸くした。
それから、笑った。
「そうね」
レイは靴を脱ぎながら言った。
「明日も、朝、呼んで」
佳乃は、昨日と同じように頷いた。
「もちろん。レイ」
その声は、変わらなかった。
父の真実を知っても。
観測局が動いても。
R-■■の奥にまだ次発ホームが口を開けていても。
その声だけは、朝へつながっている。
レイは、静かに答えた。
「うん」
そして、自分の部屋へ戻った。
机の上には、父の手紙が置かれている。
まだ、読み返す勇気はない。
でも、しまい込むこともしなかった。
レイは、その手紙の横に、自分の学生証を置いた。
氏名欄。
御影レイ。
まだ、消えていない。
彼はその文字を見て、小さく呟いた。
「父を許す前に、父を知る」
窓の外で、水滴がひとつ、手すりから落ちた。
ぽたり。
その音は、もう彼を呼んでいるだけではなかった。
どこかで沈んでいる父の名前へ、ゆっくり届いていく音のように聞こえた。




