第十三章 オメガの名前
その夜、ノクターン書房は明かりを灯していた。
雨は、まっすぐに降っている。
風に流されることもなく、霧になることもなく、ただ細く、無数の糸のように街へ降りていた。アガルタの古い路地は黒く濡れ、石畳の目地には水が溜まり、街灯の光がその一つ一つに砕けている。
ノクターン書房の窓だけが、そこに温かい色を浮かべていた。
営業中のようだった。
入口の札も変わっている。
昨日まで乾いたまま扉に掛かっていた臨時休業の札は、消えていた。
代わりに、古い木製の小さな札が揺れている。
**OPEN**
霧生仁は、それを見て短く息を吐いた。
「ふざけた店だな」
黒江透子が、雨除けのフードを下ろしながら答える。
「営業状態の残響、あるいは誘導です」
「どっちにしても、ふざけてる」
「否定しません」
ノクターン書房の前には、市警車両が二台停まっている。
少し離れた交差点には、観測局記録保全部の車両。
さらに路地の出口側には、倉科悠斗がいた。
まだ本来なら安静にしていなければならないはずなのに、旧地下鉄保守課のジャケットを羽織り、腕に簡易通信端末を巻いている。足元には、持ち込んだ携帯ライトと工具箱。マンホール、地下通路、古い排水路、どこかへ境界が抜けた場合の退路を確認するためだ。
霧生は、通信端末越しに言った。
「倉科、無理するな。現場突入じゃない。地上退路の確認だけだ」
『分かってるって。俺だってまた床に膝つきたくない』
「分かってる奴は現場に来ない」
『それ、霧生さんが言う?』
「俺は仕事だ」
『俺も半分仕事みたいなもんだろ。旧地下鉄に抜けるなら、俺の方が詳しい』
「だから半分で止めろ。残り半分は病人だ」
『言い方』
通信に、少しだけノイズが混じる。
雨のせいか。
それとも、店のせいか。
藍沢環が端末を確認する。
「O-00反応、上昇しています。ノクターン書房全体が境界化しています。ただし、完全には閉じていません」
「閉じたら?」
霧生が聞く。
「中の人間の名前が外部記録から切断される可能性があります」
「最悪だな」
「はい」
レイは、店の窓を見つめていた。
窓の奥には、本棚が見える。
カウンターのランプ。
磨かれたカップ。
貸出票の束。
それらが、雨越しに揺れている。
だが、青年の姿は見えない。
真昼は、鞄の中の非公開記録端末を確認した。
保存された表題。
**篠宮凪/O-00関連記録**
まだ公開しない。
まだ声にはしない。
だが、すでに名前として置いた。
今夜、それを声にするかもしれない。
その覚悟は、冷たく喉の奥に貼りついていた。
レイが隣で小さく言う。
「白瀬」
「はい」
「今のうちに」
「はい」
真昼は、レイを見る。
「白瀬真昼」
レイが返す。
「御影レイ」
霧生が短く点呼する。
「霧生仁」
「いる」
「黒江透子」
「います」
「藍沢環」
「います」
「御影レイ」
「いる」
「白瀬真昼」
「います」
通信の向こうから、倉科が言う。
『倉科悠斗。地上退路、いる』
藍沢の端末に、別回線が開く。
御影佳乃だった。
『レイ』
通信音声が、雨の中で少しだけ温かく響いた。
レイは、端末に向かって答える。
「母さん」
『聞こえているわ』
「うん」
『呼ぶから』
その一言だけで、レイの肩がわずかに下がった。
佳乃は続けた。
『レイ、あなたは御影レイ。戻る場所がある。食卓も、部屋も、私の小言も残っているわ』
「小言も?」
『大事でしょう』
「……大事かも」
『でしょう。だから帰ってきなさい』
「帰る」
真昼は、その声を聞きながら、胸の奥の緊張が少しだけ形を変えるのを感じた。
名前は鎖かもしれない。
でも、帰る場所にもなる。
青年はそれを知らないのかもしれない。
あるいは、知っていて捨てようとしているのかもしれない。
霧生が扉の前に立った。
「市警が先に入る。観測局応用部門が来ても入れるな」
藍沢が頷く。
「記録保全部としても、単独介入は阻止します」
「頼むぞ。今日はお前を信じる」
「記録しておきます」
「今のはするな」
「失礼しました」
霧生は扉に手をかけた。
鍵はかかっていなかった。
扉が開く。
古い鈴が、ちりん、と鳴った。
*
店内に入った瞬間、貸出票が舞った。
最初は、紙吹雪のように見えた。
白く、薄く、無数に。
だが、すぐに分かる。
それは全部、名前を乗せた紙だった。
ノクターン書房の貸出票。
床から、棚の隙間から、カウンターの裏から、天井の暗がりから、次々と浮き上がってくる。
紙片は、雨に濡れていない。
それなのに、端が水を含んだように波打っている。
真昼の目の前を、一枚の貸出票が横切った。
**Emmy Grace Harper**
完全な名前。
けれど、次の瞬間、Hの文字が黒く滲み、名前の一部が剥がれるように宙へ浮いた。
黒い粒になった文字片が、店の奥へ流れていく。
別の貸出票。
**天沢灯里**
灯の字が震える。
里の字が紙から浮く。
真昼の胸が痛んだ。
「灯里さん……」
レイが即座に呼ぶ。
「白瀬真昼」
真昼は返す。
「御影レイ」
さらに、紙が舞う。
**古河千景**
千の字が黒い雨に打たれたように潰れる。
**倉科悠斗**
悠の字が刃で擦られたように裂ける。
通信の向こうで、倉科が呻いた。
『……来た。こっちにも響く』
霧生が通信に怒鳴る。
「倉科、名前!」
『倉科悠斗! まだいる!』
藍沢が端末を確認する。
「名前断片が、店内奥へ吸引されています。黒傘反応あり」
透子が周囲を見る。
「貸出票が、記録媒体ではなく供給路になっている」
「分かりやすく言え」
霧生が言う。
「名前の一部が、どこかへ吸い込まれています」
「最悪だ」
「はい」
奥へ進むほど、貸出票は増えた。
棚の本は、もう背表紙の名前を失っている。
タイトルだけが残り、著者名の場所は白く抜けている。
その白い抜け穴から、人名の断片が浮き出す。
**真木彼――**
透子の表情が変わる。
霧生がすぐに呼ぶ。
「黒江透子」
「います」
透子は、歯を食いしばるように答えた。
貸出票はさらに舞う。
**御影遥真**
レイの足が止まりかける。
通信から佳乃の声が飛ぶ。
『レイ』
レイは、はっとする。
「御影レイ」
真昼が返す。
「白瀬真昼」
御影遥真の名前の一部が、黒い風に引かれ、店の奥へ流れていく。
レイは手を伸ばしそうになった。
だが、伸ばさなかった。
拳を握る。
「父さんの名前まで、持っていくな」
低い声だった。
奥で、何かが開く音がした。
傘。
黒い傘。
ばさり。
カウンターの向こうに、黒い影が立っていた。
青年だった。
だが、以前の青年ではない。
黒いカーディガンの輪郭はある。
白いシャツも見える。
細い指も、本を扱っていたはずの手もある。
しかし、その背後に黒い傘の影が重なっていた。
傘の骨が背中から伸びるように広がり、傘布の黒が肩を覆い、彼の輪郭を飲み込もうとしている。
顔は、まだ人間だった。
でも、目が揺れている。
穏やかな店番の目と、黒い傘の底の抜けた目が、同じ顔の中で入れ替わっている。
青年は、真昼たちを見た。
口元に、薄い笑みが浮かぶ。
穏やかに見えるのに、痛々しい。
「いらっしゃいませ」
いつもの挨拶。
しかし、店内に舞う貸出票が、その声に合わせて一斉に震えた。
霧生が前へ出る。
「市警だ。黒刃の所在と、名前返却事件について話を聞く」
青年は、霧生を見ない。
レイを見る。
真昼を見る。
そして、真昼の鞄の中にある非公開記録を見るように、目を細めた。
「置きましたね」
真昼の胸が冷えた。
青年は言う。
「私の名前を」
レイが一歩前に出る。
「あなたは、篠宮――」
その先を言いかけて、止まる。
真昼が止めたわけではない。
レイ自身が止まった。
青年は笑った。
「優しいですね」
レイの顔が歪む。
「優しさじゃない」
「では、恐れですか」
「慎重さです」
「同じことです」
青年の背後で、黒い傘が少し開く。
店内の紙片がさらに奥へ吸い込まれた。
**古河千景**
その名前の景の字が、黒い傘の内側へ滑り込む。
レイが息を詰める。
青年は言った。
「名前は鎖です。記録は檻です。呼ぶことは、救いではありません」
真昼は、その言葉を聞いた。
胸の奥が痛む。
でも、もう揺れなかった。
「知っています」
青年の表情が、わずかに変わった。
「知っている?」
「はい」
真昼は、一歩前に出る。
霧生が止めかけたが、透子が小さく首を振った。
今は、真昼の言葉が必要だった。
真昼は続ける。
「名前を呼ぶことが、いつも救いになるわけじゃない。記録することが、いつも人を楽にするわけじゃない。名前が戻れば、痛みも戻る。記録が残れば、罪も残る。全部、知っています」
青年の顔から、笑みが消える。
「それでも」
真昼の声は震えていた。
震えていても、止まらない。
「呼ばないことで守れる名前もある。でも、あなたはもう、呼ばれずに逃げていい段階を過ぎています」
黒い傘の影が、大きく揺れた。
青年の目が、はっきりと恐怖に変わる。
「呼ぶな」
その声は、穏やかではなかった。
命令でもあり、懇願でもあった。
「呼ばないでください」
ノクターン書房の棚が軋む。
貸出票が一斉に渦を巻く。
真昼の周囲に、名前が飛ぶ。
**天沢灯里**
**エミー・グレイス・ハーパー**
**古河千景**
**倉科悠斗**
**真木彼方**
**御影遥真**
黒い傘の内側へ吸い込まれかける名前たち。
真昼は、その全てを見た。
レイが、真昼の腕を掴んだ。
「本当に呼ぶんですか」
その声は切実だった。
「白瀬、呼んだら、あの人は壊れるかもしれない」
「分かっています」
「黒い傘の方が暴れるかもしれない」
「分かっています」
「彼方さんの欠落も、反応するかもしれない」
「分かっています」
「それでも?」
真昼は、レイを見る。
レイの顔には、恐怖があった。
彼は青年に自分の未来を見ている。
名前が痛くて、記録に耐えられなくて、全部を切ろうとする未来。
でも、そこに飲まれまいとしている。
真昼は、ゆっくり答えた。
「救うためじゃありません」
レイの指が震える。
真昼は続けた。
「逃がさないためです」
青年が、カウンターの向こうで後ずさった。
黒い傘の影が、彼の背後から腕のように伸びる。
「やめろ」
今度は、声が変わっていた。
青年の声ではない。
黒い傘の奥から響く声。
O-00。
Ω。
名前を消すもの。
真昼は息を吸った。
心臓が、痛いほど打つ。
怖い。
本当に怖い。
でも、ここで止まれば、また名前が吸われる。
また誰かが痛みだけを投げ返される。
また、青年は罪を覚えないために逃げる。
真昼は、声にした。
「篠宮凪」
その瞬間、ノクターン書房の記録が一斉に開いた。
店内の本棚が轟音を立てる。
閉じていた本が勝手に開く。
背表紙から消えていた人名が、白い光のように浮上する。
貸出票が、渦ではなく雨のように降り始める。
**エミー・グレイス・ハーパー**
赤いステージライト。
血の匂い。
最後まで自分の名を失いたくなかった声。
**天沢灯里**
雨の古書店。
銀色のヘアピン。
今日は呼ばない、と書いた手。
**古河千景**
閉鎖ホーム。
メモ帳。
僕は古河千景だ、と震えながら書いた文字。
**倉科悠斗**
工具箱。
姪のキーホルダー。
痛いけど俺の名前だ、と床で言った声。
**真木彼方**
先生、切ってください。
まだ呼ばないで。
その二つの声の間で揺れる欠落。
**御影遥真**
R-■■の奥。
息子を守るために沈んだ名前。
すべてが開く。
すべてが、篠宮凪という呼び声へ向かって流れ込む。
青年の表層が崩れた。
顔が一瞬、泣きそうな青年になる。
次の瞬間、黒い傘の目になる。
また青年に戻る。
そして、黒い傘の影が叫んだ。
「呼ぶなと言ったのに!」
店内のガラスが震える。
カウンターのカップが割れる。
黒い傘の影が、天井まで広がる。
黒刃が、その手に現れた。
光を吸う刃。
名前を切るための道具。
霧生が銃を構える。
「刃を下ろせ!」
透子が叫ぶ。
「近づきすぎないでください! 黒刃反応が広がっています!」
藍沢が端末を見て、声を張る。
「O-00記録、完全浮上。表層名、篠宮凪に反応。K-117反応、微弱上昇。まだ誤結合はしていません!」
通信から倉科の声。
『退路側、水が上がってきてる! でもまだ開いてる!』
佳乃の声が重なる。
『レイ』
レイは、激しい紙の渦の中で立っていた。
青年を見る。
黒い傘に飲まれかけた顔。
篠宮凪。
O-00。
オメガ。
その顔に、自分の未来が見える。
もし、自分が名前を捨てたら。
もし、他人の記憶に耐えきれず、誰かの痛みを消すために切ることを選んだら。
もし、A-00という番号だけになり、自分が御影レイであることを捨てたら。
あそこへ行くのかもしれない。
レイは、息を吸った。
「御影レイ」
自分で名乗る。
通信の向こうで佳乃が言う。
『レイ』
真昼が言う。
「御影レイ」
レイは、青年を見る。
「あなたは、僕じゃない」
黒い傘の影が、ぴたりと止まった。
青年の顔が、一瞬だけはっきり見えた。
若い。
疲れている。
傷ついている。
怯えている。
そして、人を殺した者の顔だった。
篠宮凪。
その名前が、顔の輪郭へ戻っていく。
彼は、レイを見る。
「では、あなたもいずれ分かります」
声は、青年と黒い傘の間で揺れていた。
「名前がある限り、終わらない」
レイは、拳を握った。
「終わらないなら、終わらないまま持ちます」
篠宮凪の目が揺れる。
真昼は、震える足で立っていた。
怖い。
今も怖い。
呼んでしまった。
約束を破った。
まだ呼ばないでください、という願いを聞いた上で、呼んだ。
その事実は消えない。
だが、真昼は逃げなかった。
「聞きました」
彼女は言った。
声は震えていた。
でも、雨音に消えなかった。
「でも、呼びます」
黒い傘の影が、怒りのように膨れ上がる。
篠宮凪の口元が歪む。
泣いているのか、笑っているのか、怒っているのか分からない。
彼の周囲に、無数の貸出票が回る。
その中で、彼自身の名前が何度も浮かんでは崩れた。
**篠宮凪**
**O-00**
**Ω**
**篠宮凪**
**O-00**
**Ω**
だが、もう完全には消えない。
真昼が呼んだ名前が、記録に杭を打った。
篠宮凪は人間だった。
オメガは、その名前から逃げていた。
だが、呼ばれた。
罪の記録は、もう番号の奥に沈まない。
霧生が叫ぶ。
「撤退準備! これ以上は店ごと崩れる!」
藍沢が端末を握る。
「名前固定反応、暴走寸前。市警側退路へ!」
透子が真昼の肩を掴む。
「真昼さん、下がって!」
「でも」
「今は生きて戻る!」
倉科の通信が飛ぶ。
『地上側、まだ開いてる! 急げ!』
佳乃の声。
『レイ!』
レイは、最後にもう一度、篠宮凪を見た。
黒い傘の影の中で、青年の顔が残っている。
名前を持つ敵。
逃げる人間。
罪から目を逸らす者。
そして、レイではない誰か。
「篠宮凪」
レイは、声に出した。
真昼が驚いて彼を見る。
レイの声は、震えていた。
だが、真昼の呼び声とは違う。
救うためでも、責めるためでもない。
自分と切り分けるための呼び声だった。
「あなたは、僕じゃない」
篠宮凪は、雨のような紙片の向こうで微笑んだ。
「なら、守ってみなさい」
黒い傘が完全に開く。
店内の光が落ちる。
貸出票が一斉に黒く染まる。
その黒の中から、篠宮凪の声が響いた。
「名前がある世界を」
次の瞬間、ノクターン書房の扉が内側から開いた。
雨の路地へ、紙片と水と光が溢れ出す。
霧生が真昼とレイを引き戻し、透子が藍沢を支え、全員が雨の中へ転がるように出た。
扉が閉まる。
鈴が鳴る。
ちりん。
その音だけが、異様に静かだった。
ノクターン書房は、また暗くなっていた。
看板の札は、いつの間にか裏返っている。
**CLOSED**
雨だけが降っている。
真昼は、濡れた石畳に膝をついたまま、息を整えた。
レイが隣にいる。
霧生も、透子も、藍沢もいる。
通信の向こうから、倉科と佳乃の声が重なる。
『返事しろ!』
『レイ!』
レイは、震える声で言った。
「御影レイ。いる」
真昼も言う。
「白瀬真昼。います」
霧生が、濡れた髪をかき上げながら低く言った。
「全員、生きてるな」
藍沢が端末を見る。
「O-00関連記録、篠宮凪名で固定反応あり。ただし、完全拘束ではありません」
透子が、暗く閉じた店を見る。
「逃げましたね」
「逃げた」
霧生が答える。
「だが、名前は置いてきた」
真昼は、店の扉を見た。
胸が痛い。
呼んだ痛み。
呼ばれた彼の痛み。
消された人たちの痛み。
それらが全部、雨の中で混じっている。
それでも、彼女は思った。
もう、O-00だけでは呼ばない。
もう、オメガだけでは逃がさない。
篠宮凪。
その名前は、ノクターン書房の中に、そして真昼の記録の中に、確かに置かれた。
雨は降り続いていた。
名前がある限り、終わらない。
そう言われた。
ならば、終わらないまま記録する。
真昼は、震える手でノートを取り出した。
ページは雨に濡れかけている。
それでも、書いた。
**篠宮凪。
オメガ。
名前を持つ敵。
呼んだ。
逃げなかった。
逃がさなかった。**




