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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第四巻:御影遥真とR-■■
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第十一章 A-00強制回収命令

 次発ホームの空気が、硬くなった。


 それは、地下の冷気とは違った。


 古いコンクリートの冷たさでも、零番線の水気でもない。


 書類が人の前へ差し出された時の冷たさだった。


 命令。


 分類。


 対象。


 保護。


 収容。


 そういう言葉が、目に見えないまま空間を薄く凍らせていく。


 久我瀬玲央は、ホーム奥の暗がりから歩いてきた。


 濃紺の防護コート。


 胸元の職員証。


 その後ろに、観測応用部門の職員が数名。


 誰も大声を出さない。


 誰も武器を抜かない。


 だが、その静けさこそが、真昼には怖かった。


 彼らは、ここを異常な場所だと思っていない。


 少なくとも、初めて見る場所ではない。


 次発ホーム。


 R-■■へ続く入口。


 家族写真が漂い、父の顔が黒く抜け、母子手帳の父親欄が番号に置き換わる場所。


 その異様な空間の中で、久我瀬は会議室に入るような足取りで立っていた。


「御影レイさん」


 彼は、最初だけその名を使った。


 真昼は、かすかな違和感を覚えた。


 丁寧に呼んでいる。


 でも、それは相手を尊重する呼び方ではない。


 対象の警戒心を下げるための呼び方だ。


「あなたは現在、R-■■関連保護者記録との接触により、自己境界が不安定化しています。観測応用部門として、安全確保のため同行を求めます」


 霧生が、レイの前に立ったまま動かない。


「同行?」


「はい」


「任意か」


「現時点では」


「じゃあ拒否だ」


 霧生は即答した。


 久我瀬は表情を変えない。


「拒否は推奨しません」


「推奨されなくても拒否だ」


「主任刑事。ここは通常の地上施設ではありません。あなた方の手続きでは、記録災害を抑止できない」


「その記録災害って便利な言葉で、未成年を連れていくつもりなら、もう少し分かりやすい日本語にしろ」


 久我瀬は、レイを見る。


 霧生の肩越しに。


「御影レイさんは、アルファ症例です。R-■■の再起動は、A-00分類個体の不安定化を示している。家族や市警のもとに置くには危険が大きすぎる」


「こいつの名前は御影レイだ」


 霧生の声が、ホームに低く響いた。


「A-00なんて呼び方で連れていくなら、逮捕状を持ってこい」


 久我瀬の後ろにいた職員の一人が、わずかに眉を動かした。


 霧生はさらに続ける。


「保護だの安全確保だの、耳障りのいい言葉を並べるのは勝手だ。だが、本人が拒否してる。保護者は同意してない。市警は現場保存中。ここで連れていくなら、法的根拠を出せ」


 久我瀬は、ゆっくり頷いた。


「分かりました」


 彼は後方の職員へ視線を向ける。


 職員が、透明な防水ケースに入った書類端末を差し出した。


 久我瀬はそれを受け取り、霧生へ向けて表示する。


「境界災害予防措置に基づく、行政保護命令です」


 真昼の背筋が冷えた。


 行政保護命令。


 その文字が、端末画面に整然と並んでいる。


 発行元。


 境界観測局観測応用部門。


 協議先。


 市災害対策連絡室。


 対象。


 **A-00**


 保護理由。


 R-■■再起動に伴う自己境界不安定化。


 アガルタ核接続リスク増大。


 都市規模記憶災害予防のため。


 真昼は、その対象欄を見た。


 御影レイの名前がない。


 A-00。


 それだけ。


 霧生も、同じ場所を見ていた。


「おい」


 彼の声が低くなる。


「対象欄が番号だけだぞ」


「観測局分類上、対象特定は成立しています」


「法律ごっこをしたいのか?」


「ごっこではありません」


 久我瀬は静かに言った。


「A-00は、通常の個人識別では不十分です。複数記録と接続し、同魂者記憶を観測するアルファ症例。御影レイという現在名のみでは、対象の危険性を示せません」


「危険性を示すために、人間の名前を消すのか」


 真昼は、思わず口を挟んでいた。


 久我瀬の視線が彼女へ向く。


「白瀬真昼さん。名前を残すことと、災害を防ぐことは別です」


「別じゃありません」


 声が震えそうになった。


 でも、震えなかった。


「名前を消して守るって言い方は、もう何度も聞きました。でも、消された人はどこへ戻ればいいんですか。A-00って書類に書かれたら、御影くんはどこに帰ればいいんですか」


「御影レイという呼称は、現在の社会的呼称です」


「呼称じゃない」


 真昼は言った。


「名前です」


 久我瀬は、興味深そうに真昼を見る。


 それが嫌だった。


 怒られるよりも嫌だった。


 記録反応を見るような目。


 この少女は、どの程度の固定力を持つのか。


 そう測られている。


 藍沢環が、一歩前に出た。


「命令書を確認します」


 久我瀬は、わずかに目を細めた。


「藍沢主任。あなたは同行者ではありますが、運用部門の命令手続きに介入する権限はありません」


「記録形式の確認です。記録保全部としての権限があります」


 久我瀬は黙った。


 藍沢は端末を受け取り、画面を確認した。


 彼女の表情は静かだった。


 記録保全官の顔。


 感情ではなく、形式を見る顔。


 真昼は、それを見ながら、胸の奥で奇妙な緊張を覚えた。


 以前なら、その顔が嫌だった。


 番号で人を見る人の顔だと思った。


 でも今、その顔が必要だった。


 藍沢は、数秒で文面を読み取った。


 そして、はっきり言った。


「この命令は、対象者本人を特定していません」


 久我瀬の表情が、初めてわずかに硬くなった。


「A-00分類により特定しています」


「不十分です」


 藍沢は言った。


「識別番号のみでは、現時点の法的拘束対象として不十分です」


 真昼は、息を呑んだ。


 藍沢が。


 番号で保存する藍沢が。


 番号では不十分だと言っている。


 しかも、名前を盾にしている。


「対象者の現在名、戸籍上の氏名、保護者情報、本人確認記録が欠落しています。行政保護命令としては、形式不備です」


「R系列反応下では、氏名欄が不安定化します」


「だからこそ、書く必要があります」


 藍沢の声は、少しだけ強くなった。


「氏名が不安定化する状況で、識別番号だけを対象欄に記載すれば、番号が本人の代替名として固定されます。それは保護ではなく、名称上書きです」


 久我瀬は、藍沢を見た。


「君が、それを言うのか」


「私が言います」


 藍沢は答えた。


「番号は、名前が戻るまでの杭です。本人を縛る鎖ではありません」


 真昼は、藍沢の横顔を見た。


 何か言いたかった。


 でも、言えなかった。


 今は、彼女の言葉が必要だった。


 霧生が端末を覗き込む。


「つまり、この紙切れじゃ連れていけないってことだな」


「少なくとも、法的拘束には不備があります」


「十分だ」


 霧生は久我瀬へ端末を突き返した。


「出直せ」


 久我瀬は受け取らなかった。


 代わりに、静かに言った。


「法的拘束を待っている間に、R-■■が完全再起動した場合、誰が責任を取りますか」


「責任の話をするなら、まず未成年を番号で呼ぶ部署からだ」


「感情論です」


「現場論だ」


 霧生は一歩も引かない。


「こいつは今ここで返事してる。名前を呼べば戻る。保護者との通信もつながってる。市警もいる。黒江もいる。白瀬もいる。倉科が退路を押さえてる。お前らが勝手に連れていくほうが、よほど事故の原因になる」


「家族呼称と友人呼称に依存した不安定な維持です」


「人間はだいたいそういうもんだ」


 その言葉に、真昼は少しだけ胸が熱くなった。


 人間は、名前だけで一人立ちしているわけではない。


 誰かに呼ばれ、誰かに覚えられ、誰かの中に場所を持っている。


 それを「不安定」と呼ぶなら、人間はみんな不安定だ。


 久我瀬は、霧生を見てから、レイへ視線を移した。


「御影レイさん」


 また、その名を使った。


 真昼は警戒した。


 久我瀬は続ける。


「あなた自身は、どう考えますか」


 レイが顔を上げる。


「僕?」


「はい。あなたがここに留まることで、同行者全員に危険が及びます。R-■■は、父性記録だけではなく、根の保護者記録全体へ接続している。あなたの不安定化が進めば、この次発ホームそのものが崩れ、全員が記録層へ落ちる可能性があります」


「やめろ」


 霧生が低く言う。


 久我瀬は止まらない。


「あなた一人が観測局の管理下へ移れば、周囲への被害は抑えられる。市警も、白瀬真昼さんも、御影佳乃さんも、これ以上危険に晒されない」


 真昼は、久我瀬の意図に気づいた。


 レイを見る。


 レイの顔から、ゆっくり感情が抜けていく。


 それは、逃げる顔ではない。


 諦める顔だ。


 自分が行けば、皆が助かるかもしれない。


 そう考えている顔。


「御影くん」


 真昼は呼んだ。


 レイは返さない。


「御影レイ」


 少し遅れて、返事が来る。


「白瀬真昼」


 でも、声が遠い。


 久我瀬は続ける。


「あなたは危険です。しかし、制御できれば多くを救える。アガルタ核との接続が強まる前に保護する必要がある。これは処罰ではありません。隔離でもありません。都市を守るための――」


「黙って」


 真昼の声が、ホームに響いた。


 久我瀬の言葉が止まる。


 真昼は、レイの前に回り込んだ。


「御影くん」


「白瀬」


「便利な犠牲者の顔しないで」


 レイの目が揺れた。


 その言葉は、霧生が何度も言ってきたものと似ていた。


 未成年が便利な顔をするな。


 でも、真昼の声はもっと近かった。


 怒っていた。


 本気で怒っていた。


「自分が行けばいいって思ったでしょ」


 レイは答えない。


「皆が助かるなら、それでいいって思ったでしょ」


「……思ってない」


「嘘」


「白瀬」


「嘘つかないで。記録者の前で」


 真昼は、ノートを握りしめた。


「御影くんが行ったら、助かるんじゃない。御影くんがいなくなるだけです。皆が助かるって言い方で、あなた一人を消すの、やめて」


「僕のせいで」


「その顔」


 真昼は、歯を食いしばった。


「嫌いです」


 レイが目を見開く。


 真昼は続けた。


「自分を雑に差し出す顔。自分の名前が面倒になったみたいな顔。誰かに番号で呼ばれたほうが楽だって、一瞬思った顔」


 レイは、言い返せなかった。


 図星だったからだ。


 A-00。


 そう呼ばれれば、楽なのかもしれない。


 御影遥真の息子でなくていい。


 佳乃を傷つけた子でなくていい。


 真昼に記録される人でなくていい。


 ただ危険な症例として回収されれば、誰かの責任で管理される。


 自分で父を知らなくていい。


 自分で怒らなくていい。


 自分で帰らなくていい。


 その誘惑は、確かにあった。


 真昼は、それを見抜いていた。


「御影レイ」


 真昼は呼んだ。


 レイは、唇を動かす。


 声が出ない。


 その時、ホームが揺れた。


 次発表示が明滅する。


 **次発:R-■■**


 浮かんでいた家族写真が、ばらばらに回転し始める。


 父の顔が黒く滲む。


 母の手が消える。


 子どもの名前がR-■■に変わる。


 母子手帳のページが水を吸ったように波打つ。


 足元のホーム床が、水面のように揺れる。


 藍沢が叫んだ。


「R-■■反応上昇! 次発ホームの安定値が低下しています!」


 透子がレイの状態を見る。


「自己名境界が揺れています。呼称を続けて!」


 霧生が久我瀬側を睨む。


「お前らが煽ったせいだろうが!」


 久我瀬は端末を確認している。


「A-00の不安定化が進行しています。強制保護へ移行します」


 背後の職員たちが動く。


 霧生が警察手帳を掲げる。


「動くな!」


 職員たちは止まらない。


 その足元で、ホームがさらに崩れ始める。


 床の端が黒い水へ沈む。


 家族写真が、真昼の周囲を通り過ぎる。


 父のいない写真。


 子のいない写真。


 名前欄だけが番号になった書類。


 レイは、その中心で立ち尽くしている。


 真昼が腕を掴もうとして、透子の声を思い出す。


 急に触れてはいけない。


 今は、名前。


「御影レイ!」


 真昼が叫ぶ。


 返事はない。


「御影レイ!」


 レイの唇が動く。


 しかし、そこへ別の声が被る。


「A-00」


 久我瀬の声。


 観測応用部門の職員の端末音。


 命令書の対象欄。


 番号が、名前の上に被さろうとする。


 藍沢が前へ出た。


「久我瀬主任、A-00呼称を中止してください! 対象者の自己名応答を阻害しています!」


「自己名応答より、記録災害抑止が優先です」


「それが事故を招くと言っています!」


 藍沢の声は、珍しく荒くなっていた。


 霧生が職員の進路を塞ぐ。


「こっから先は通さん」


「公務妨害になります」


「そっちがな」


 ホームの揺れが強くなる。


 真昼はバランスを崩し、膝をつきそうになった。


 その瞬間、レイが手を伸ばしかける。


 まだ、彼は他人を助けようとする。


 自分が消えそうなのに。


 真昼は、もう一度怒鳴った。


「御影くん!」


 レイがこちらを見る。


「こっち見て」


「白瀬」


「そう。白瀬真昼です。あなたは?」


 レイは答えようとする。


 しかし、口の中にA-00が入り込む。


 A-00。


 アルファ。


 対象。


 制御装置。


 都市を守るため。


 家族を守るため。


 皆を守るため。


 自分が行けば。


 自分が消えれば。


 真昼の目が、怒りで濡れていた。


「帰ってきて」


 彼女は言った。


「私たちを助けるために消えるんじゃなくて、帰ってきて」


 インカムに、ノイズが走った。


 地上との通信が乱れる。


 御堂の声が一瞬だけ入る。


『通信、乱れて――佳乃さん、今――』


 次に、佳乃の声が届いた。


 ノイズ混じり。


 でも、はっきりと。


『レイ』


 レイの目が揺れる。


 佳乃の声。


 地上。


 指揮車。


 朝の台所。


 湯気。


 アルバム。


 明日も、朝、呼んで。


 もちろん。レイ。


『レイ、帰ってきなさい』


 それは、お願いではなかった。


 命令でもなかった。


 母の声だった。


 帰ってきなさい。


 その一言が、ホームの崩れる音を裂いた。


 レイの喉が動く。


『あなたが何を知っても、何に怒っても、帰ってきなさい』


 佳乃の声が震える。


 だが、切れない。


『A-00じゃない。アルファでもない。あなたは、御影レイ。私の息子。帰ってきなさい』


 レイは、目を閉じた。


 黒い水が足元へ迫る。


 久我瀬の職員たちが近づく。


 真昼が手を伸ばす。


 霧生が怒鳴る。


 透子が出力を抑えようと端末を操作する。


 藍沢が命令書の不備を叫ぶ。


 そのすべての中で、レイは一つだけ声を選んだ。


 母の声。


 そして、自分の名前。


 レイは目を開けた。


「僕は」


 声は小さかった。


 だが、ホームの中心に届いた。


「御影レイ」


 次発表示が、大きく揺れた。


 **次発:R-■■**


 その文字の下に、一瞬だけ別の表示が浮かぶ。


 **自己名固定確認**


 藍沢の端末が音を立てる。


「自己名境界、再固定!」


 透子が叫ぶ。


「今です、撤退を!」


 霧生がレイへ向かって手を伸ばす。


「御影!」


 今度は、レイがその手を取った。


 真昼も反対側からレイの腕を支える。


 触れても、もう崩れなかった。


 レイは自分の名前へ戻っている。


 佳乃の声が、まだ通信越しに続いている。


『レイ、帰ってきなさい』


「帰る」


 レイは言った。


「帰るよ、母さん」


 久我瀬が、わずかに目を細めた。


「回収を中止しない」


 霧生が振り返る。


「まだ言うか」


「A-00の安定化は一時的です。根本的な危険は残っている」


 藍沢が彼の前に立った。


「強制回収命令は無効です。対象者本人の氏名がありません。現在、対象者は御影レイとして自己名応答を維持しています。これ以上の接近は、記録保全部として記録事故誘発行為と判断します」


「藍沢主任」


「記録します」


 藍沢の声は静かだった。


「あなたの部署が、名前を持つ未成年者を識別番号のみで拘束しようとした記録を。記録保全部として、正式に残します」


 久我瀬の目が、ほんのわずかに険しくなった。


 真昼は、その横で藍沢を見た。


 番号の人が、名前を守っている。


 それは、奇妙で、痛くて、少しだけ希望のある光景だった。


 霧生が言う。


「撤退だ。全員、点呼」


 ホームがまだ揺れている。


 写真が舞う。


 床が崩れる。


 それでも、霧生の声は現場の声だった。


「御影レイ」


「いる」


「白瀬真昼」


「います」


「黒江透子」


「います」


「藍沢環」


「います」


「霧生仁」


「いる」


 通信の向こうから、倉科の声が入る。


『倉科悠斗、入口で待機中。退路、まだ生きてる!』


 佳乃の声も入る。


『御影佳乃、地上で待っています。レイ、帰ってきて』


 レイは、もう一度答えた。


「帰る」


 その言葉を合図に、彼らは次発ホームを引き返し始めた。


 背後では、久我瀬たちがまだ立っている。


 R-■■の表示は消えない。


 次発ホームは崩れ続けている。


 だが、レイはもう、自分を差し出す顔をしていなかった。


 真昼は、その横顔を見て、ノートを握った。


 書くべきことは山ほどある。


 でも、今は走る。


 名前を持ったまま、戻る。


 黒い水が足元へ迫る中、佳乃の声が通信の奥で繰り返された。


『レイ』


 そのたびに、レイは返した。


「いる」


 それは、命綱だった。


 番号ではなく。


 命令ではなく。


 母の声と、自分の名前で結ばれた、細くて強い命綱だった。

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