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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第四巻:御影遥真とR-■■
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第十章 次発ホーム

 雨は、朝まで降り続かなかった。


 夜のうちに細く降り始めた雨は、アガルタの街を濡らしきる前に止んだ。けれど、翌朝の道路には、ところどころ水たまりが残っていた。歩道橋の階段、旧地下鉄入口の縁石、コンビニの前のタイル、マンションの手すり。


 街は乾きかけている。


 でも、地下はまだ濡れている。


 真昼は、そう思った。


 アガルタ市旧中央線跡。


 現在は閉鎖管理区域となっている旧地下鉄の出入口前に、数人の影が集まっていた。


 時間はまだ早い。


 通勤客が増える前の、街が目を覚ましきる直前の時間帯だった。空は白く曇っている。ビルの窓には青みの薄い光が映り、道路を走る車の音も遠い。


 旧地下鉄入口には、市警の仮設封鎖テープが張られている。


 その前に立っていたのは、倉科悠斗だった。


 作業着の上に防寒用のジャケットを羽織り、腰には工具ポーチ。手には古い懐中ライト。見た目だけなら、地下設備の保守員にしか見えない。


 だが、彼はただの案内人ではなかった。


 一度、名前を失いかけた人。


 地下から戻ってきた人。


 今は自分の名前を持って、入口に立っている人。


「おはようございます、って言っていい空気ですか、これ」


 真昼が言うと、倉科は苦笑した。


「一応、朝だからな。おはよう」


「おはようございます」


「顔が朝じゃないけど」


「倉科さんもですよ」


「俺は地下担当だから、だいたいこういう顔だ」


「それ、職業病ですか」


「半分くらい」


 レイが隣で静かに言う。


「残り半分は?」


「寝不足」


「現実的」


 倉科はレイを見た。


「御影、調子は?」


「よくはないです」


「正直でよろしい」


「でも、返事はできます」


「じゃあ、確認しとくか。御影レイ」


 レイはすぐに返した。


「倉科悠斗」


 倉科は少しだけ目を細める。


「よし」


 真昼も続ける。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


 黒江透子が端末を確認しながら頷いた。


「自己名応答は安定しています。ただし、R系列接近反応は昨夜から上昇傾向です。長時間の滞在は避けるべきです」


 霧生仁は、封鎖テープの前で腕を組んでいた。


「長時間どころか、本音を言えば一秒も入れたくない」


「それは、こちらも同意します」


 透子が答える。


「同意してるのに入るんだな」


「入らなければ、観測応用部門に先を越されます」


「分かってる。だから嫌なんだ」


 霧生は煙草を吸わないくせに、胸元の古い煙草ケースを指で叩いた。


「開けても危険。開けなくても危険。まったく、報告書に書く人間の身にもなれ」


 真昼が小さく手を上げる。


「私も記録します」


「お前の記録は報告書より始末が悪い」


「褒めてます?」


「警戒してる」


「知ってました」


 そのやり取りに、ほんの少しだけ空気がゆるむ。


 だが、それもすぐに消えた。


 藍沢環が、封鎖テープの手前で立ち止まったからだった。


 灰白色の防護コート。


 胸元の職員証。


 携帯型記録端末。


 青灰色の手袋。


 記録保全部の主任記録保全官としての姿だった。


 真昼は彼女を見る。


 藍沢も、真昼を見る。


「白瀬真昼さん」


「はい」


「本日の記録は、現地複写禁止です。手書き一次記録のみ。帰還後、状態確認を経て複写可否を判断してください」


「分かっています」


「御影レイさんの呼称確認は、五分間隔。異常反応時は即時」


「はい」


「御影佳乃さんとの通信は、切らないでください。地上待機の保護者呼称が、今回の通行条件に関わる可能性があります」


 佳乃の名前が出た瞬間、レイの表情が少しだけ動いた。


 真昼はその横顔を見る。


 佳乃は、この場にはいない。


 地下へ同行することを望んだが、透子と藍沢が止めた。R-■■が父性記録だけでなく家族呼称に反応する以上、佳乃本人を深層へ連れていくのは危険すぎる。


 代わりに、佳乃は地上側に待機する。


 アガルタ市警の移動指揮車の中。


 綾瀬直央と御堂圭吾が通信を管理し、佳乃の声だけをレイへ届けられるようにしている。


 声だけ。


 それが鍵になるかもしれない。


 母の声。


 レイを朝へ戻す声。


 真昼は、インカムを耳に装着しながら、息を整えた。


 通信確認。


 霧生の声。


「綾瀬、聞こえるか」


『聞こえています。こちら地上指揮車。御堂さんもいます』


「佳乃さんは」


『同席しています。通信状態、安定』


 少し間があり、佳乃の声が入った。


『レイ』


 それだけだった。


 朝の声。


 レイは、目を伏せて返した。


「いる」


 通信の向こうで、佳乃が息を吐く気配がした。


『無理はしないで』


「うん」


『無理だと思ったら、帰ってきて』


「うん」


『怒っていてもいいから、帰ってきて』


 レイは少しだけ黙った。


 それから、短く答えた。


「分かった」


 真昼は、胸の奥が少し痛くなった。


 昨日の夜、レイは佳乃に言った。


 明日も、朝、呼んで。


 佳乃は答えた。


 もちろん。レイ。


 その約束が、今も続いている。


 和解はしていない。


 怒りも消えていない。


 それでも、呼び声は切れていない。


 霧生が懐中ライトを点けた。


「行くぞ。倉科、入口」


「了解」


 倉科が封鎖テープを外し、旧地下鉄入口の錠を開ける。


 金属扉が、低く唸るように開いた。


 湿った空気が上がってくる。


 真昼は、その匂いを知っていた。


 錆びた線路。


 古いコンクリート。


 水。


 そして、名前が薄くなる場所の匂い。


 階段は、下へ続いている。


 今回は、あの時ほど深く入らない。


 そう言われている。


 だが、地下にとって「深くない」は、地上の感覚では測れない。


 倉科が入口に立ち、振り返った。


「俺はここで退路確保。前に進むのは、御影、白瀬、黒江さん、霧生さん、藍沢さん」


「倉科さんは来ないんですか」


 真昼が聞く。


「行きたい気持ちはあるけどな。今の俺は、戻る側の杭らしい」


 倉科は軽く笑った。


「前に進むやつだけじゃ戻れない。入口に名前持ってるやつがいるほうがいいって、黒江さんと藍沢さんに言われた」


 藍沢が淡々と補足する。


「倉科悠斗さんの自己名固定は、現在かなり強い状態です。零番線深部への通行には向きませんが、退路保持には有効です」


「つまり、門番です」


 倉科が言う。


「ちょっと格好いい」


「工具持った門番ですね」


「白瀬、それ褒めてる?」


「かなり」


「ならよし」


 レイが倉科を見る。


「お願いします」


 倉科は、少し真面目な顔になった。


「ああ。帰ってこいよ、御影レイ」


「倉科悠斗」


 名前を返して、レイは階段へ足を踏み入れた。


     *


 旧地下鉄の階段は、以前より狭く感じた。


 壁に貼られた古い案内板は、ほとんど読めない。足元には、乾いた泥と水の跡が層になっている。途中の蛍光灯は切れていて、霧生と透子のライトが頼りだった。


 下りるほど、音が消える。


 地上の車の音。


 人の声。


 指揮車の機械音。


 それらが遠ざかり、代わりに水滴の音が近くなる。


 ぽたり。


 ぽたり。


 真昼は、インカムの向こうで佳乃の呼吸が聞こえていることに気づいた。


 細く、抑えた息。


 佳乃は地上にいる。


 それでも、その呼吸だけが一緒に地下へ降りているようだった。


 透子が前方の壁を確認する。


「前回と経路が少し違います」


「道が変わった?」


 真昼が聞く。


「はい。零番線の入口は、現象に応じて接続位置が変わります。今回は、R-■■表示に引かれている可能性があります」


 藍沢が携帯端末を見る。


「R系列反応、微増。A-00近接反応も上昇しています」


 霧生が舌打ちした。


「そのA-00って表示、消せないのか」


「端末上は消せますが、反応名としては残ります」


「気に入らん」


「同感です」


 藍沢が即答したので、霧生が少しだけ彼女を見る。


「お前がそれを言うと、時代が変わった感じがするな」


「時代ではなく、記録解釈です」


「似たようなもんだ」


「違います」


「そうかよ」


 地下通路の壁が、ゆっくり変わり始めた。


 古いタイルの表面に、見覚えのある黒い水のような光沢が浮かぶ。


 真昼は足を止めた。


 無名駅に近い。


 前にも見た。


 名前を入力してください。


 名前を捨てたいなら、下へ。


 あの改札。


 だが、今回の空気は少し違った。


 名前を捨てる甘い静けさではない。


 もっと硬い。


 もっと冷たい。


 書類の欄を突きつけられているような、行政的な寒さ。


 通路の先に、古い改札機が現れた。


 無人の改札。


 駅名標はない。


 ただ、改札機の上に小さな表示が光っている。


 **保護者名を入力してください**


 真昼は、息を止めた。


「前と違う」


 レイが呟く。


 透子が端末を確認する。


「通行条件が変わっています」


「父の名前か」


 霧生が言う。


「おそらく」


 藍沢が答える。


「R-■■関連保護者記録へ進む条件として、対象者の保護者名、特に父性呼称の入力を要求している」


「嫌な改札だな」


「はい」


 真昼は、レイを見る。


 レイは改札機の前に立った。


 表示は変わらない。


 保護者名を入力してください。


 古い入力パネルがある。


 五十音ではない。


 漢字入力のようでもない。


 ただ、指を置けば文字が浮かぶタイプの端末だった。


「無理ならやめる」


 霧生が言った。


「無理でも、やります」


「便利な犠牲者の顔をするな」


「便利じゃないです」


「そういう返しをする時点で危ない」


 真昼が静かに呼ぶ。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


 レイは返してから、入力パネルに手を置いた。


 文字を思い浮かべる。


 御影遥真。


 父の名前。


 御影。


 遥真。


 だが、指先に文字が乗らない。


 パネルの上に、最初に浮かんだのは「御」ではなかった。


 薄い黒い文字。


 **R-■■**


 レイの手が震える。


 表示が点滅する。


 **保護者名を入力してください**


「御影遥真」


 レイは声に出した。


 改札の表示が乱れる。


 **R-■■**


 また、R-■■。


 漢字を書こうとしても、父の名前が番号に置き換わる。


 レイは歯を食いしばった。


「御影、遥真」


 パネル上の文字が、一瞬だけ揺れる。


 だが、すぐに黒く滲んで、


 **R-■■**


 へ戻る。


 真昼は胸が苦しくなった。


 父の名前はある。


 佳乃の声に残っている。


 研究室の手紙に残っている。


 観測局の古いカードに残っていた。


 でも、ここでは書けない。


 R-■■が、父の名前の上から被さる。


 藍沢が端末を見ながら言う。


「名前単独では弾かれています。R-■■側が御影遥真氏を単独保護者名として認めていない」


「ふざけるなよ」


 霧生が低く言った。


「父親の名前だろ」


「記録上、複数の保護者記録が絡んでいます」


「記録上じゃなくて、父親だ」


 藍沢は、少しだけ黙った。


「はい」


 その返事は、小さかった。


 レイは改札の前で、息が浅くなっていた。


 入力できない。


 父の名前を書けない。


 書こうとすると番号になる。


 それは、保護者欄が空白になるのと同じだった。


 父がいなかったわけではない。


 でも、書類は父を受け取らない。


 レイは、パネルから手を離そうとした。


 その時、インカムが小さく鳴った。


『レイ』


 佳乃の声だった。


 レイの目が動く。


 地上からの声。


 指揮車の中。


 通信越し。


 それでも、朝と同じ声。


『聞こえる?』


「聞こえる」


『レイ』


「うん」


 佳乃は、少し間を置いた。


 その呼吸が、インカムの中で小さく揺れる。


『あなたのお父さんの名前は、御影遥真』


 改札の表示が、かすかに揺れた。


 R-■■の文字の奥で、別の文字が浮かびかける。


 佳乃は続ける。


『でも、あなたはお父さんの記録じゃない』


 レイの指先に、温度が戻る。


 真昼は、息を止めて見ていた。


『あなたは、御影レイ』


 その瞬間、改札機の表示が変わった。


 **保護者名照合中**


 R-■■が一度黒く沈む。


 その下から、一瞬だけ文字が浮かぶ。


 御影遥真。


 すぐに消える。


 だが、完全に消える前に、改札のランプが青白く点いた。


 **通行条件一部一致**


 **母性呼称補助確認**


 **自己名固定確認**


 **次発ホーム 一部開放**


 改札の扉が、半分だけ開いた。


 霧生が低く言う。


「半分か」


 藍沢が端末を見つめる。


「完全通行ではありません。R-■■本体ではなく、次発ホームの表層部分のみ」


「十分です」


 レイが言った。


 真昼はすぐに呼ぶ。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


 佳乃の声が入る。


『レイ』


「いる」


 改札の向こう側から、冷たい風が吹いた。


 駅の風ではない。


 ホームを通る列車の風でもない。


 写真の中に閉じ込められていた時間が、開いた時の風だった。


     *


 次発ホームは、通常のホームではなかった。


 線路がない。


 電車もない。


 天井の高さも分からない。


 足元はホームの床のようでありながら、ところどころ水面のように揺れていた。駅名標はあるが、文字は入っていない。蛍光灯は、規則正しく並んでいるのに、点いている場所と消えている場所が一定しない。


 前に見た零番線のホームに似ている。


 だが、あの場所よりも狭い。


 もっと手前。


 もっと表層。


 列車が来る場所ではなく、列車の表示だけが先に出る場所。


 そこが、次発ホームだった。


 壁も柱もないはずなのに、空間にはいくつもの四角いものが浮いていた。


 写真。


 家族写真。


 額に入ったもの。


 アルバムから剥がれたもの。


 スマートフォンの画面のようなもの。


 古い白黒写真。


 母子手帳のページ。


 保護者欄のコピー。


 緊急連絡カード。


 それらが、水に浮かぶ紙片のように、ホームの空中をゆっくり漂っている。


 真昼は、思わず手を伸ばしかけた。


 藍沢が静かに言う。


「触れないでください」


「分かってます」


「手が動きました」


「……分かってます」


 写真の中には、父の顔だけが黒くなっているものがあった。


 母と子は笑っている。


 父らしき人物だけ、顔が黒い。


 別の写真では、父も母も写っているのに、子どもだけが抜けている。


 小さな椅子だけが残っている。


 テーブルの上の誕生日ケーキだけが残っている。


 母子手帳のページには、父親名欄だけがR-■■に置き換わっている。


 出生届の写し。


 保護者連絡カード。


 授業参観の写真。


 運動会の集合写真。


 そこにいたはずの誰かだけが、黒く、白く、あるいは番号になっている。


 霧生が低く呟く。


「胸糞悪い展示会だな」


 透子が頷いた。


「展示ではありません。保護者記録の残響です」


「余計悪い」


 レイは、ゆっくり歩いていた。


 佳乃の声は通信越しに続いている。


『レイ、聞こえてる?』


「聞こえてる」


『足元、見て』


「見てる」


『息は?』


「できてる」


『名前は?』


「御影レイ」


 真昼も続ける。


「白瀬真昼」


 この場所では、呼び声を途切れさせてはいけない。


 そう全員が分かっていた。


 藍沢は端末を見ながら、写真の残響を分類している。


「父性記録、母性記録、保護者欄欠落、家族写真欠損、出生記録異常……R-■■は、保護者記録全般の根に接続しています。やはり単独父親記録ではありません」


「でも、父の欄が多い」


 真昼が言う。


「はい。今回表面化しているのは、父性呼称に偏っています」


「御影遥真さんが関係しているから?」


「可能性があります」


 レイが足を止めた。


 真昼も止まる。


 レイの前に、一枚の写真が浮いていた。


 見覚えのある写真。


 御影家のアルバムで見た。


 夜の室内。


 布団で眠る幼いレイ。


 枕元に座る御影遥真。


 顔は黒く滲んでいる。


 だが、姿は残っている。


 レイの寝顔を見ている父の背中。


 その写真だけが、他の写真よりも静かだった。


 周囲の残響がざわめく中、その一枚だけが、まるで息をひそめている。


「これ」


 レイが言う。


「家の写真」


 佳乃の声が通信越しに震える。


『それが、見えているの?』


「うん」


『遥真は?』


「顔は黒い」


『そう』


「でも、いる」


 レイは、写真へ手を伸ばさなかった。


 ただ見ている。


 黒く滲んだ父の顔。


 それでも、そこにいる父。


 写真の中の遥真の口元が、わずかに動いた気がした。


 音はない。


 だが、声が聞こえた。


「レイ」


 レイの体が強張る。


 真昼がすぐに呼ぶ。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


 返事はある。


 写真の中の遥真の声が、もう一度響く。


「戻れ」


 その声は、R-■■の濁流の中で聞いた声と同じだった。


 お前は、私の記録じゃない。


 そこまでは聞こえない。


 ただ、今は短く。


 戻れ。


 レイは唇を噛む。


「父さん」


 写真の黒い顔は、答えない。


 だが、周囲の写真たちが一斉に揺れた。


 複数の父の残響が、ざわめき始める。


 レイ。


 アルファ。


 対象。


 息子。


 A-00。


 R-■■。


 藍沢が端末を見る。


「反応上昇。長く留まれません」


 霧生が言う。


「必要なものは見たか」


 レイは答えない。


 写真を見ている。


 真昼は、その横顔を見た。


 ここで無理に引き離したら、また別の傷になる。


 でも、長く見れば飲まれる。


 佳乃の声が入る。


『レイ』


 レイが目を閉じる。


『そこにいるのは、お父さんの全部じゃないわ』


 レイの眉が動く。


『写真も、記録も、声も、全部の一部よ。私も全部は知らない。あなたも、今すぐ全部は知らなくていい』


 佳乃は、ゆっくり続けた。


『でも、戻ってきて。知るために、戻ってきて』


 レイは、深く息を吸った。


 そして、写真へ向かって小さく言った。


「まだ、知らない」


 黒く滲んだ父は、何も言わない。


「でも、知る」


 写真が、少しだけ揺れた。


 まるで、その言葉を受け取ったように。


 次の瞬間、ホーム奥の表示板が点いた。


 真昼たちが振り返る。


 黒い板。


 白い文字。


 **次発:R-■■**


 その下に、小さく別の表示が浮かぶ。


 **保護者記録深層方面**


 霧生が顔をしかめる。


「行き先の名前が嫌すぎる」


 藍沢は端末を見つめる。


「ここから先がR-■■本体に近い領域です。今回の条件では、進入は危険です」


「今日はここまでか」


 透子が言う。


「撤退を推奨します」


 レイは表示板を見ていた。


 行きたい。


 真昼には、その気持ちが分かった。


 父の声が聞こえた。


 写真があった。


 次発表示が出た。


 この奥に行けば、御影遥真の記録にもっと近づけるかもしれない。


 でも、今はまだ行けない。


 行けば、戻れないかもしれない。


 真昼は言った。


「御影くん」


「分かってる」


「まだ、奥には行かない」


「分かってる」


「でも、忘れない」


 レイは、少しだけ真昼を見る。


「うん」


 佳乃の声が入る。


『レイ』


「帰る」


 レイは言った。


「今日は、帰る」


 霧生が即座に動く。


「撤退だ。倉科に連絡。入口確認」


 透子が通信する。


「倉科さん、聞こえますか。撤退します」


『聞こえてます。入口、確保。こっちは異常なし……と言いたいけど、上の方で車の音が増えた。観測局っぽい』


 霧生が低く言う。


「だろうな」


 その時だった。


 次発ホームの奥。


 表示板のさらに向こう。


 黒い線路もない空間の奥に、人影が現れた。


 濃紺の防護コート。


 一人ではない。


 三人。


 いや、奥にさらにいる。


 観測局の封鎖部隊。


 しかし、旧地下鉄の入口から入ってきたのではない。


 ホームの奥から現れた。


 まるで、この場所への別経路を知っていたかのように。


 その先頭に立つ男が、ゆっくり歩いてくる。


 久我瀬玲央。


 真昼は、直接会うのは初めてだった。


 だが、すぐに分かった。


 観測応用部門。


 藍沢が警戒していた部門。


 レイをA-00として評価しようとしている者たち。


 久我瀬は、次発ホームの異常な光の中でも、まったく表情を変えなかった。


「想定より早く到達しましたね」


 彼は言った。


 声は穏やかだった。


 その穏やかさが、真昼にはひどく気持ち悪かった。


 霧生がレイの前に立つ。


「お前、どこから入った」


「観測局管理経路です」


「ここは市警の現場保存中だ」


「ここはR系列記録領域です。通常の現場保存では保全できません」


 久我瀬の視線が、霧生を越えてレイへ向く。


「A-00」


 真昼は反射的に叫んだ。


「御影レイです」


 久我瀬は、真昼を見る。


 少しだけ興味を持ったような目。


「白瀬真昼さん。あなたの記録反応は把握しています。ですが、ここでは不用意な呼称固定は危険です」


「あなたのA-00呼びのほうが危険です」


 真昼の声は震えていなかった。


 藍沢が一歩前に出る。


「久我瀬主任。現在、御影レイさんは自己名応答を維持しています。A-00分類呼称の使用を控えてください」


「藍沢主任。記録保全部の助言は受け取りました」


「助言ではありません。記録保全上の警告です」


「運用判断はこちらで行います」


 霧生が低く言う。


「未成年を回収しに来たのか」


 久我瀬は、少しだけ首を傾けた。


「保護です」


「便利な言葉だな」


「実際に危険です。R-■■との接触により、A-00の自己境界は不安定化している。家族や市警のもとに置くには危険すぎる」


 佳乃の声が通信越しに聞こえた。


『レイ?』


 レイは、久我瀬を見ていた。


 その顔から表情が抜けかけている。


 真昼はすぐに呼ぶ。


「御影レイ」


 レイは返した。


「白瀬真昼」


 佳乃も呼ぶ。


『レイ』


「いる」


 久我瀬は、それを観察していた。


「母性呼称による安定、友人呼称による外部固定。御影遥真の仮説は、やはり有効だった」


 レイの目が揺れる。


 霧生が一歩前へ出た。


「実験結果みたいに言うな」


「結果です」


 久我瀬は、平然と言った。


「利用できる結果です」


 霧生の声が、底冷えするほど低くなった。


「未成年を便利な制御装置みたいに呼ぶな」


「都市規模の記憶災害を防ぐためです」


「そのためなら、一人の名前を番号にしていいのか」


「一人ではありません。A-00は、複数記録と接続しています」


「だから、御影レイだと言ってる」


 霧生の背中越しに、真昼はレイを見た。


 レイは、逃げていない。


 でも、動けてもいない。


 次発ホームには、家族写真が漂っている。


 父の顔だけが黒い写真。


 子どもだけが抜けた写真。


 母子手帳のR-■■。


 その中央で、レイは二つの呼び方に挟まれている。


 御影レイ。


 A-00。


 久我瀬は、静かに手を上げた。


 背後の職員たちが、一歩前へ出る。


「安全確保を開始します」


 藍沢が鋭く言った。


「久我瀬主任、これは手続き違反です」


「緊急保護です」


「緊急保護対象者名を明示してください」


「A-00」


 藍沢の表情が硬くなる。


「不備です」


 久我瀬は答えない。


 職員たちは、レイへ向かって進んでくる。


 真昼は、ノートを握った。


 霧生は、懐中ライトではなく警察手帳を取り出した。


「一歩でも近づいたら、公務執行妨害で止める」


 久我瀬は、ほんの少しだけ笑った。


「この場所で、通常法がどこまで効くと思いますか」


「効かせるのが俺の仕事だ」


 次発ホームの表示板が明滅する。


 **次発:R-■■**


 黒い水音が響く。


 ぽたり。


 その音に混じって、黒く滲んだ家族写真の中から、もう一度声が聞こえた。


「レイ。戻れ」


 レイは目を閉じた。


 佳乃が叫ぶように呼ぶ。


『レイ!』


 真昼も呼んだ。


「御影レイ!」


 レイは目を開けた。


 そして、久我瀬を見た。


「僕は」


 声はまだ細い。


 でも、消えていない。


「A-00じゃない」


 次発ホームの光が、強く揺れた。


 久我瀬の表情が、初めてほんの少しだけ動いた。


 レイは続けた。


「僕は、御影レイです」


 その瞬間、ホームに浮いていた家族写真の何枚かが、ぱらぱらと音を立てて裏返った。


 裏面に、薄い文字が浮かぶ。


 父。


 母。


 子。


 保護者。


 対象。


 記録。


 名前。


 そして、中央の写真。


 幼いレイと御影遥真の写真だけが、ゆっくりと揺れながら光った。


 次発表示は消えない。


 久我瀬も退かない。


 霧生も退かない。


 この場所は、もう単なる閲覧の場ではなくなっていた。


 R-■■へ向かう入口で、御影レイという名前を奪うか、守るかの現場になっていた。

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