第十章 次発ホーム
雨は、朝まで降り続かなかった。
夜のうちに細く降り始めた雨は、アガルタの街を濡らしきる前に止んだ。けれど、翌朝の道路には、ところどころ水たまりが残っていた。歩道橋の階段、旧地下鉄入口の縁石、コンビニの前のタイル、マンションの手すり。
街は乾きかけている。
でも、地下はまだ濡れている。
真昼は、そう思った。
アガルタ市旧中央線跡。
現在は閉鎖管理区域となっている旧地下鉄の出入口前に、数人の影が集まっていた。
時間はまだ早い。
通勤客が増える前の、街が目を覚ましきる直前の時間帯だった。空は白く曇っている。ビルの窓には青みの薄い光が映り、道路を走る車の音も遠い。
旧地下鉄入口には、市警の仮設封鎖テープが張られている。
その前に立っていたのは、倉科悠斗だった。
作業着の上に防寒用のジャケットを羽織り、腰には工具ポーチ。手には古い懐中ライト。見た目だけなら、地下設備の保守員にしか見えない。
だが、彼はただの案内人ではなかった。
一度、名前を失いかけた人。
地下から戻ってきた人。
今は自分の名前を持って、入口に立っている人。
「おはようございます、って言っていい空気ですか、これ」
真昼が言うと、倉科は苦笑した。
「一応、朝だからな。おはよう」
「おはようございます」
「顔が朝じゃないけど」
「倉科さんもですよ」
「俺は地下担当だから、だいたいこういう顔だ」
「それ、職業病ですか」
「半分くらい」
レイが隣で静かに言う。
「残り半分は?」
「寝不足」
「現実的」
倉科はレイを見た。
「御影、調子は?」
「よくはないです」
「正直でよろしい」
「でも、返事はできます」
「じゃあ、確認しとくか。御影レイ」
レイはすぐに返した。
「倉科悠斗」
倉科は少しだけ目を細める。
「よし」
真昼も続ける。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
黒江透子が端末を確認しながら頷いた。
「自己名応答は安定しています。ただし、R系列接近反応は昨夜から上昇傾向です。長時間の滞在は避けるべきです」
霧生仁は、封鎖テープの前で腕を組んでいた。
「長時間どころか、本音を言えば一秒も入れたくない」
「それは、こちらも同意します」
透子が答える。
「同意してるのに入るんだな」
「入らなければ、観測応用部門に先を越されます」
「分かってる。だから嫌なんだ」
霧生は煙草を吸わないくせに、胸元の古い煙草ケースを指で叩いた。
「開けても危険。開けなくても危険。まったく、報告書に書く人間の身にもなれ」
真昼が小さく手を上げる。
「私も記録します」
「お前の記録は報告書より始末が悪い」
「褒めてます?」
「警戒してる」
「知ってました」
そのやり取りに、ほんの少しだけ空気がゆるむ。
だが、それもすぐに消えた。
藍沢環が、封鎖テープの手前で立ち止まったからだった。
灰白色の防護コート。
胸元の職員証。
携帯型記録端末。
青灰色の手袋。
記録保全部の主任記録保全官としての姿だった。
真昼は彼女を見る。
藍沢も、真昼を見る。
「白瀬真昼さん」
「はい」
「本日の記録は、現地複写禁止です。手書き一次記録のみ。帰還後、状態確認を経て複写可否を判断してください」
「分かっています」
「御影レイさんの呼称確認は、五分間隔。異常反応時は即時」
「はい」
「御影佳乃さんとの通信は、切らないでください。地上待機の保護者呼称が、今回の通行条件に関わる可能性があります」
佳乃の名前が出た瞬間、レイの表情が少しだけ動いた。
真昼はその横顔を見る。
佳乃は、この場にはいない。
地下へ同行することを望んだが、透子と藍沢が止めた。R-■■が父性記録だけでなく家族呼称に反応する以上、佳乃本人を深層へ連れていくのは危険すぎる。
代わりに、佳乃は地上側に待機する。
アガルタ市警の移動指揮車の中。
綾瀬直央と御堂圭吾が通信を管理し、佳乃の声だけをレイへ届けられるようにしている。
声だけ。
それが鍵になるかもしれない。
母の声。
レイを朝へ戻す声。
真昼は、インカムを耳に装着しながら、息を整えた。
通信確認。
霧生の声。
「綾瀬、聞こえるか」
『聞こえています。こちら地上指揮車。御堂さんもいます』
「佳乃さんは」
『同席しています。通信状態、安定』
少し間があり、佳乃の声が入った。
『レイ』
それだけだった。
朝の声。
レイは、目を伏せて返した。
「いる」
通信の向こうで、佳乃が息を吐く気配がした。
『無理はしないで』
「うん」
『無理だと思ったら、帰ってきて』
「うん」
『怒っていてもいいから、帰ってきて』
レイは少しだけ黙った。
それから、短く答えた。
「分かった」
真昼は、胸の奥が少し痛くなった。
昨日の夜、レイは佳乃に言った。
明日も、朝、呼んで。
佳乃は答えた。
もちろん。レイ。
その約束が、今も続いている。
和解はしていない。
怒りも消えていない。
それでも、呼び声は切れていない。
霧生が懐中ライトを点けた。
「行くぞ。倉科、入口」
「了解」
倉科が封鎖テープを外し、旧地下鉄入口の錠を開ける。
金属扉が、低く唸るように開いた。
湿った空気が上がってくる。
真昼は、その匂いを知っていた。
錆びた線路。
古いコンクリート。
水。
そして、名前が薄くなる場所の匂い。
階段は、下へ続いている。
今回は、あの時ほど深く入らない。
そう言われている。
だが、地下にとって「深くない」は、地上の感覚では測れない。
倉科が入口に立ち、振り返った。
「俺はここで退路確保。前に進むのは、御影、白瀬、黒江さん、霧生さん、藍沢さん」
「倉科さんは来ないんですか」
真昼が聞く。
「行きたい気持ちはあるけどな。今の俺は、戻る側の杭らしい」
倉科は軽く笑った。
「前に進むやつだけじゃ戻れない。入口に名前持ってるやつがいるほうがいいって、黒江さんと藍沢さんに言われた」
藍沢が淡々と補足する。
「倉科悠斗さんの自己名固定は、現在かなり強い状態です。零番線深部への通行には向きませんが、退路保持には有効です」
「つまり、門番です」
倉科が言う。
「ちょっと格好いい」
「工具持った門番ですね」
「白瀬、それ褒めてる?」
「かなり」
「ならよし」
レイが倉科を見る。
「お願いします」
倉科は、少し真面目な顔になった。
「ああ。帰ってこいよ、御影レイ」
「倉科悠斗」
名前を返して、レイは階段へ足を踏み入れた。
*
旧地下鉄の階段は、以前より狭く感じた。
壁に貼られた古い案内板は、ほとんど読めない。足元には、乾いた泥と水の跡が層になっている。途中の蛍光灯は切れていて、霧生と透子のライトが頼りだった。
下りるほど、音が消える。
地上の車の音。
人の声。
指揮車の機械音。
それらが遠ざかり、代わりに水滴の音が近くなる。
ぽたり。
ぽたり。
真昼は、インカムの向こうで佳乃の呼吸が聞こえていることに気づいた。
細く、抑えた息。
佳乃は地上にいる。
それでも、その呼吸だけが一緒に地下へ降りているようだった。
透子が前方の壁を確認する。
「前回と経路が少し違います」
「道が変わった?」
真昼が聞く。
「はい。零番線の入口は、現象に応じて接続位置が変わります。今回は、R-■■表示に引かれている可能性があります」
藍沢が携帯端末を見る。
「R系列反応、微増。A-00近接反応も上昇しています」
霧生が舌打ちした。
「そのA-00って表示、消せないのか」
「端末上は消せますが、反応名としては残ります」
「気に入らん」
「同感です」
藍沢が即答したので、霧生が少しだけ彼女を見る。
「お前がそれを言うと、時代が変わった感じがするな」
「時代ではなく、記録解釈です」
「似たようなもんだ」
「違います」
「そうかよ」
地下通路の壁が、ゆっくり変わり始めた。
古いタイルの表面に、見覚えのある黒い水のような光沢が浮かぶ。
真昼は足を止めた。
無名駅に近い。
前にも見た。
名前を入力してください。
名前を捨てたいなら、下へ。
あの改札。
だが、今回の空気は少し違った。
名前を捨てる甘い静けさではない。
もっと硬い。
もっと冷たい。
書類の欄を突きつけられているような、行政的な寒さ。
通路の先に、古い改札機が現れた。
無人の改札。
駅名標はない。
ただ、改札機の上に小さな表示が光っている。
**保護者名を入力してください**
真昼は、息を止めた。
「前と違う」
レイが呟く。
透子が端末を確認する。
「通行条件が変わっています」
「父の名前か」
霧生が言う。
「おそらく」
藍沢が答える。
「R-■■関連保護者記録へ進む条件として、対象者の保護者名、特に父性呼称の入力を要求している」
「嫌な改札だな」
「はい」
真昼は、レイを見る。
レイは改札機の前に立った。
表示は変わらない。
保護者名を入力してください。
古い入力パネルがある。
五十音ではない。
漢字入力のようでもない。
ただ、指を置けば文字が浮かぶタイプの端末だった。
「無理ならやめる」
霧生が言った。
「無理でも、やります」
「便利な犠牲者の顔をするな」
「便利じゃないです」
「そういう返しをする時点で危ない」
真昼が静かに呼ぶ。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
レイは返してから、入力パネルに手を置いた。
文字を思い浮かべる。
御影遥真。
父の名前。
御影。
遥真。
だが、指先に文字が乗らない。
パネルの上に、最初に浮かんだのは「御」ではなかった。
薄い黒い文字。
**R-■■**
レイの手が震える。
表示が点滅する。
**保護者名を入力してください**
「御影遥真」
レイは声に出した。
改札の表示が乱れる。
**R-■■**
また、R-■■。
漢字を書こうとしても、父の名前が番号に置き換わる。
レイは歯を食いしばった。
「御影、遥真」
パネル上の文字が、一瞬だけ揺れる。
だが、すぐに黒く滲んで、
**R-■■**
へ戻る。
真昼は胸が苦しくなった。
父の名前はある。
佳乃の声に残っている。
研究室の手紙に残っている。
観測局の古いカードに残っていた。
でも、ここでは書けない。
R-■■が、父の名前の上から被さる。
藍沢が端末を見ながら言う。
「名前単独では弾かれています。R-■■側が御影遥真氏を単独保護者名として認めていない」
「ふざけるなよ」
霧生が低く言った。
「父親の名前だろ」
「記録上、複数の保護者記録が絡んでいます」
「記録上じゃなくて、父親だ」
藍沢は、少しだけ黙った。
「はい」
その返事は、小さかった。
レイは改札の前で、息が浅くなっていた。
入力できない。
父の名前を書けない。
書こうとすると番号になる。
それは、保護者欄が空白になるのと同じだった。
父がいなかったわけではない。
でも、書類は父を受け取らない。
レイは、パネルから手を離そうとした。
その時、インカムが小さく鳴った。
『レイ』
佳乃の声だった。
レイの目が動く。
地上からの声。
指揮車の中。
通信越し。
それでも、朝と同じ声。
『聞こえる?』
「聞こえる」
『レイ』
「うん」
佳乃は、少し間を置いた。
その呼吸が、インカムの中で小さく揺れる。
『あなたのお父さんの名前は、御影遥真』
改札の表示が、かすかに揺れた。
R-■■の文字の奥で、別の文字が浮かびかける。
佳乃は続ける。
『でも、あなたはお父さんの記録じゃない』
レイの指先に、温度が戻る。
真昼は、息を止めて見ていた。
『あなたは、御影レイ』
その瞬間、改札機の表示が変わった。
**保護者名照合中**
R-■■が一度黒く沈む。
その下から、一瞬だけ文字が浮かぶ。
御影遥真。
すぐに消える。
だが、完全に消える前に、改札のランプが青白く点いた。
**通行条件一部一致**
**母性呼称補助確認**
**自己名固定確認**
**次発ホーム 一部開放**
改札の扉が、半分だけ開いた。
霧生が低く言う。
「半分か」
藍沢が端末を見つめる。
「完全通行ではありません。R-■■本体ではなく、次発ホームの表層部分のみ」
「十分です」
レイが言った。
真昼はすぐに呼ぶ。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
佳乃の声が入る。
『レイ』
「いる」
改札の向こう側から、冷たい風が吹いた。
駅の風ではない。
ホームを通る列車の風でもない。
写真の中に閉じ込められていた時間が、開いた時の風だった。
*
次発ホームは、通常のホームではなかった。
線路がない。
電車もない。
天井の高さも分からない。
足元はホームの床のようでありながら、ところどころ水面のように揺れていた。駅名標はあるが、文字は入っていない。蛍光灯は、規則正しく並んでいるのに、点いている場所と消えている場所が一定しない。
前に見た零番線のホームに似ている。
だが、あの場所よりも狭い。
もっと手前。
もっと表層。
列車が来る場所ではなく、列車の表示だけが先に出る場所。
そこが、次発ホームだった。
壁も柱もないはずなのに、空間にはいくつもの四角いものが浮いていた。
写真。
家族写真。
額に入ったもの。
アルバムから剥がれたもの。
スマートフォンの画面のようなもの。
古い白黒写真。
母子手帳のページ。
保護者欄のコピー。
緊急連絡カード。
それらが、水に浮かぶ紙片のように、ホームの空中をゆっくり漂っている。
真昼は、思わず手を伸ばしかけた。
藍沢が静かに言う。
「触れないでください」
「分かってます」
「手が動きました」
「……分かってます」
写真の中には、父の顔だけが黒くなっているものがあった。
母と子は笑っている。
父らしき人物だけ、顔が黒い。
別の写真では、父も母も写っているのに、子どもだけが抜けている。
小さな椅子だけが残っている。
テーブルの上の誕生日ケーキだけが残っている。
母子手帳のページには、父親名欄だけがR-■■に置き換わっている。
出生届の写し。
保護者連絡カード。
授業参観の写真。
運動会の集合写真。
そこにいたはずの誰かだけが、黒く、白く、あるいは番号になっている。
霧生が低く呟く。
「胸糞悪い展示会だな」
透子が頷いた。
「展示ではありません。保護者記録の残響です」
「余計悪い」
レイは、ゆっくり歩いていた。
佳乃の声は通信越しに続いている。
『レイ、聞こえてる?』
「聞こえてる」
『足元、見て』
「見てる」
『息は?』
「できてる」
『名前は?』
「御影レイ」
真昼も続ける。
「白瀬真昼」
この場所では、呼び声を途切れさせてはいけない。
そう全員が分かっていた。
藍沢は端末を見ながら、写真の残響を分類している。
「父性記録、母性記録、保護者欄欠落、家族写真欠損、出生記録異常……R-■■は、保護者記録全般の根に接続しています。やはり単独父親記録ではありません」
「でも、父の欄が多い」
真昼が言う。
「はい。今回表面化しているのは、父性呼称に偏っています」
「御影遥真さんが関係しているから?」
「可能性があります」
レイが足を止めた。
真昼も止まる。
レイの前に、一枚の写真が浮いていた。
見覚えのある写真。
御影家のアルバムで見た。
夜の室内。
布団で眠る幼いレイ。
枕元に座る御影遥真。
顔は黒く滲んでいる。
だが、姿は残っている。
レイの寝顔を見ている父の背中。
その写真だけが、他の写真よりも静かだった。
周囲の残響がざわめく中、その一枚だけが、まるで息をひそめている。
「これ」
レイが言う。
「家の写真」
佳乃の声が通信越しに震える。
『それが、見えているの?』
「うん」
『遥真は?』
「顔は黒い」
『そう』
「でも、いる」
レイは、写真へ手を伸ばさなかった。
ただ見ている。
黒く滲んだ父の顔。
それでも、そこにいる父。
写真の中の遥真の口元が、わずかに動いた気がした。
音はない。
だが、声が聞こえた。
「レイ」
レイの体が強張る。
真昼がすぐに呼ぶ。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
返事はある。
写真の中の遥真の声が、もう一度響く。
「戻れ」
その声は、R-■■の濁流の中で聞いた声と同じだった。
お前は、私の記録じゃない。
そこまでは聞こえない。
ただ、今は短く。
戻れ。
レイは唇を噛む。
「父さん」
写真の黒い顔は、答えない。
だが、周囲の写真たちが一斉に揺れた。
複数の父の残響が、ざわめき始める。
レイ。
アルファ。
対象。
息子。
A-00。
R-■■。
藍沢が端末を見る。
「反応上昇。長く留まれません」
霧生が言う。
「必要なものは見たか」
レイは答えない。
写真を見ている。
真昼は、その横顔を見た。
ここで無理に引き離したら、また別の傷になる。
でも、長く見れば飲まれる。
佳乃の声が入る。
『レイ』
レイが目を閉じる。
『そこにいるのは、お父さんの全部じゃないわ』
レイの眉が動く。
『写真も、記録も、声も、全部の一部よ。私も全部は知らない。あなたも、今すぐ全部は知らなくていい』
佳乃は、ゆっくり続けた。
『でも、戻ってきて。知るために、戻ってきて』
レイは、深く息を吸った。
そして、写真へ向かって小さく言った。
「まだ、知らない」
黒く滲んだ父は、何も言わない。
「でも、知る」
写真が、少しだけ揺れた。
まるで、その言葉を受け取ったように。
次の瞬間、ホーム奥の表示板が点いた。
真昼たちが振り返る。
黒い板。
白い文字。
**次発:R-■■**
その下に、小さく別の表示が浮かぶ。
**保護者記録深層方面**
霧生が顔をしかめる。
「行き先の名前が嫌すぎる」
藍沢は端末を見つめる。
「ここから先がR-■■本体に近い領域です。今回の条件では、進入は危険です」
「今日はここまでか」
透子が言う。
「撤退を推奨します」
レイは表示板を見ていた。
行きたい。
真昼には、その気持ちが分かった。
父の声が聞こえた。
写真があった。
次発表示が出た。
この奥に行けば、御影遥真の記録にもっと近づけるかもしれない。
でも、今はまだ行けない。
行けば、戻れないかもしれない。
真昼は言った。
「御影くん」
「分かってる」
「まだ、奥には行かない」
「分かってる」
「でも、忘れない」
レイは、少しだけ真昼を見る。
「うん」
佳乃の声が入る。
『レイ』
「帰る」
レイは言った。
「今日は、帰る」
霧生が即座に動く。
「撤退だ。倉科に連絡。入口確認」
透子が通信する。
「倉科さん、聞こえますか。撤退します」
『聞こえてます。入口、確保。こっちは異常なし……と言いたいけど、上の方で車の音が増えた。観測局っぽい』
霧生が低く言う。
「だろうな」
その時だった。
次発ホームの奥。
表示板のさらに向こう。
黒い線路もない空間の奥に、人影が現れた。
濃紺の防護コート。
一人ではない。
三人。
いや、奥にさらにいる。
観測局の封鎖部隊。
しかし、旧地下鉄の入口から入ってきたのではない。
ホームの奥から現れた。
まるで、この場所への別経路を知っていたかのように。
その先頭に立つ男が、ゆっくり歩いてくる。
久我瀬玲央。
真昼は、直接会うのは初めてだった。
だが、すぐに分かった。
観測応用部門。
藍沢が警戒していた部門。
レイをA-00として評価しようとしている者たち。
久我瀬は、次発ホームの異常な光の中でも、まったく表情を変えなかった。
「想定より早く到達しましたね」
彼は言った。
声は穏やかだった。
その穏やかさが、真昼にはひどく気持ち悪かった。
霧生がレイの前に立つ。
「お前、どこから入った」
「観測局管理経路です」
「ここは市警の現場保存中だ」
「ここはR系列記録領域です。通常の現場保存では保全できません」
久我瀬の視線が、霧生を越えてレイへ向く。
「A-00」
真昼は反射的に叫んだ。
「御影レイです」
久我瀬は、真昼を見る。
少しだけ興味を持ったような目。
「白瀬真昼さん。あなたの記録反応は把握しています。ですが、ここでは不用意な呼称固定は危険です」
「あなたのA-00呼びのほうが危険です」
真昼の声は震えていなかった。
藍沢が一歩前に出る。
「久我瀬主任。現在、御影レイさんは自己名応答を維持しています。A-00分類呼称の使用を控えてください」
「藍沢主任。記録保全部の助言は受け取りました」
「助言ではありません。記録保全上の警告です」
「運用判断はこちらで行います」
霧生が低く言う。
「未成年を回収しに来たのか」
久我瀬は、少しだけ首を傾けた。
「保護です」
「便利な言葉だな」
「実際に危険です。R-■■との接触により、A-00の自己境界は不安定化している。家族や市警のもとに置くには危険すぎる」
佳乃の声が通信越しに聞こえた。
『レイ?』
レイは、久我瀬を見ていた。
その顔から表情が抜けかけている。
真昼はすぐに呼ぶ。
「御影レイ」
レイは返した。
「白瀬真昼」
佳乃も呼ぶ。
『レイ』
「いる」
久我瀬は、それを観察していた。
「母性呼称による安定、友人呼称による外部固定。御影遥真の仮説は、やはり有効だった」
レイの目が揺れる。
霧生が一歩前へ出た。
「実験結果みたいに言うな」
「結果です」
久我瀬は、平然と言った。
「利用できる結果です」
霧生の声が、底冷えするほど低くなった。
「未成年を便利な制御装置みたいに呼ぶな」
「都市規模の記憶災害を防ぐためです」
「そのためなら、一人の名前を番号にしていいのか」
「一人ではありません。A-00は、複数記録と接続しています」
「だから、御影レイだと言ってる」
霧生の背中越しに、真昼はレイを見た。
レイは、逃げていない。
でも、動けてもいない。
次発ホームには、家族写真が漂っている。
父の顔だけが黒い写真。
子どもだけが抜けた写真。
母子手帳のR-■■。
その中央で、レイは二つの呼び方に挟まれている。
御影レイ。
A-00。
久我瀬は、静かに手を上げた。
背後の職員たちが、一歩前へ出る。
「安全確保を開始します」
藍沢が鋭く言った。
「久我瀬主任、これは手続き違反です」
「緊急保護です」
「緊急保護対象者名を明示してください」
「A-00」
藍沢の表情が硬くなる。
「不備です」
久我瀬は答えない。
職員たちは、レイへ向かって進んでくる。
真昼は、ノートを握った。
霧生は、懐中ライトではなく警察手帳を取り出した。
「一歩でも近づいたら、公務執行妨害で止める」
久我瀬は、ほんの少しだけ笑った。
「この場所で、通常法がどこまで効くと思いますか」
「効かせるのが俺の仕事だ」
次発ホームの表示板が明滅する。
**次発:R-■■**
黒い水音が響く。
ぽたり。
その音に混じって、黒く滲んだ家族写真の中から、もう一度声が聞こえた。
「レイ。戻れ」
レイは目を閉じた。
佳乃が叫ぶように呼ぶ。
『レイ!』
真昼も呼んだ。
「御影レイ!」
レイは目を開けた。
そして、久我瀬を見た。
「僕は」
声はまだ細い。
でも、消えていない。
「A-00じゃない」
次発ホームの光が、強く揺れた。
久我瀬の表情が、初めてほんの少しだけ動いた。
レイは続けた。
「僕は、御影レイです」
その瞬間、ホームに浮いていた家族写真の何枚かが、ぱらぱらと音を立てて裏返った。
裏面に、薄い文字が浮かぶ。
父。
母。
子。
保護者。
対象。
記録。
名前。
そして、中央の写真。
幼いレイと御影遥真の写真だけが、ゆっくりと揺れながら光った。
次発表示は消えない。
久我瀬も退かない。
霧生も退かない。
この場所は、もう単なる閲覧の場ではなくなっていた。
R-■■へ向かう入口で、御影レイという名前を奪うか、守るかの現場になっていた。




