第九章 家族写真
旧資料館の地下から地上へ戻ると、空はまだ曇っていた。
雨は降っていない。
けれど、雲の色はさっきよりも濃くなっていた。旧資料館の煉瓦壁は湿気を吸って暗く見え、入口脇の植え込みには、どこから落ちたのか分からない水滴が光っていた。
霧生仁は、資料館前の石畳に立ったまま、観測局の封鎖部隊と向き合っていた。
濃紺の防護コートを着た職員たちは、無表情で待機している。彼らの背後には、観測局の車両が二台停まっていた。側面に大きなロゴはない。だが、灰色の車体と黒い窓は、いかにも「公にはならないもの」を運ぶための車に見えた。
「現場保存は市警が継続する」
霧生の声は低かった。
「観測局管理物の回収要請は受理した。だが、許可はしていない。正式な令状か、こっちの室長を納得させる文書を持ってこい」
封鎖部隊の職員は、淡々と答える。
「記録災害拡大の恐れがあります」
「その言葉、さっきも聞いた」
「危険性は事実です」
「なら、危険物を高校生の近くに置くな。まずはお前らの部門の命令系統を整理してこい」
「R-Root Viewerは観測局由来の装置です」
「今は市立図書館の敷地内にある現場証拠だ」
霧生は一歩も引かなかった。
真昼は、その背中を見ていた。
旧研究室から持ち出せたものは少ない。
レイ宛ての手紙は、レイが持っている。佳乃の箱から出てきた鍵も、佳乃が持っている。研究室の資料は、透子が現場写真と目視メモを作り、霧生の判断でその場に保全された。
R-Root Viewerは、完全に止めたわけではない。
透子が出力を落とし、旧端末の回線を切り、装置の外部反応を一時的に遮断しただけだった。
青白い光は弱まった。
だが、消えなかった。
最後に見えた表示は、真昼の目にまだ残っている。
**次発:R-■■**
レイは、資料館の入口近くで立っていた。
顔色は悪い。
だが、足は地面についている。
佳乃が隣にいる。
母親の手は、レイの袖を掴んでいない。けれど、すぐ触れられる距離にある。
真昼は、近づいて小さく呼んだ。
「御影レイ」
レイはすぐに返す。
「白瀬真昼」
声は掠れていた。
それでも、返事はあった。
透子が端末を確認しながら頷く。
「反応は不安定ですが、自己名応答は維持されています。今日は、これ以上の閲覧は危険です」
「分かってます」
レイは答えた。
「分かってますけど」
「けど?」
真昼が聞く。
「奥にある」
レイは、旧資料館の入口を振り返った。
「父さんの記録は、まだ奥にある」
佳乃の表情が痛みに歪んだ。
真昼は、その横顔を見た。
佳乃も聞いたのだ。
R-■■の濁流の中から浮かんだ遥真の声。
レイ。戻れ。
お前は、私の記録じゃない。
それが本当に御影遥真の声だったのか、完全には分からない。
でも、少なくとも、三人はそう聞いた。
佳乃も。
レイも。
真昼も。
霧生が戻ってきた。
「一度撤退だ」
「研究室は?」
真昼が聞く。
「封鎖する。観測局に持っていかせないための封鎖だ。勘違いするなよ、白瀬。お前が夜中に忍び込むための封鎖じゃない」
「まだ何も言ってません」
「顔が言ってた」
「私の顔、警戒されすぎでは」
「実績がある」
レイが小さく言う。
「あると思う」
「御影くんまで」
「味方だから言う」
「味方の定義が最近厳しい」
その軽口は、ほんの少しだけ場の空気をゆるめた。
だが、霧生の顔はすぐに険しく戻る。
「御影、今日は市警に戻さない。家に帰れ」
レイは少し驚いたように目を上げた。
「事情聴取は」
「後でいい」
「でも」
「お前は今、現場資料じゃない。帰って休め」
霧生は、言い切った。
「あと、御影佳乃さん」
「はい」
「今日は、家に誰か一人残りますか」
「私がいます」
「白瀬」
「はい」
「お前も途中まで付き添え。帰りは俺が送る」
「いいんですか」
「よくはない。だが、今の御影家を二人きりにしていいか、微妙だ」
その言葉に、レイも佳乃も黙った。
霧生は、少しだけ言い方を変える。
「悪い意味じゃない。間に一人いたほうが、言葉が折れにくい時もある」
真昼は頷いた。
「行きます」
レイは、何も言わなかった。
ただ、父の手紙を胸元にしまい直した。
*
御影家へ戻ると、部屋の空気は朝と同じではなかった。
朝食の匂いはもうない。
テーブルは片づいている。
湯呑みも、皿も、すべて洗われて棚に戻されていた。
それなのに、食卓の端には紺色のアルバムが置かれたままだった。
まるで、誰かが帰ってくるのを待っていたように。
佳乃は玄関で靴を脱ぐと、すぐにはリビングへ入らなかった。
廊下に立ったまま、深く息を吸う。
家の匂い。
洗剤。
乾いた畳。
図書館から持ち帰った紙の匂い。
かすかな味噌の残り香。
地下の湿気は、ここにはない。
だが、佳乃の顔には、旧資料館の青白い光がまだ残っているように見えた。
「お茶を淹れるわ」
彼女は言った。
レイが小さく反応する。
「今?」
「今」
「母さん、何かあるとお茶を淹れる」
「何もなくても淹れるわ」
「それはそう」
真昼は、玄関で鞄を抱えながら言った。
「あの、私、台所をお手伝いします」
「真昼さんは座っていて」
「でも」
「お客様だから」
「最近、お客様の距離感を超えている気がします」
佳乃は、少しだけ笑った。
「では、今日は半分お客様で」
「半分」
「お茶を運ぶのを手伝ってくれる?」
「はい」
真昼は台所へ向かった。
佳乃は湯を沸かし、急須を出した。
手の動きは慣れている。
茶葉を入れ、湯を少し冷まし、湯呑みを三つ並べる。
三つ。
真昼は、無意識に食卓の三つ目の椅子を見た。
使われない父の椅子。
そこには、誰も座っていない。
佳乃は、今日はその椅子を避けなかった。
湯呑みを三つ運び、レイと真昼の前へ置き、自分はいつもの席に座る。
そして、アルバムの前で手を止めた。
「見る?」
佳乃が聞いた。
レイは、すぐには答えなかった。
答えないまま、アルバムを見ている。
真昼は黙っていた。
これは、自分が促す場面ではない。
やがて、レイが小さく頷いた。
「見る」
佳乃は、アルバムを開いた。
最初のページには、幼いレイの写真。
病院の白い布。
赤ん坊の顔。
疲れた顔で笑っている佳乃。
そして、横に立つ御影遥真。
写真の中の遥真の顔は、まだ分かる。
ただ、左目のあたりに黒い滲みがある。
旧研究室で見た残響のように、輪郭が揺れている。
真昼は、写真を覗き込みすぎないように気をつけた。
見たい。
記録したい。
でも、写真そのものが壊れるような気がした。
「まだ、消えてない」
レイが言った。
佳乃は頷いた。
「ええ」
「黒いけど」
「ええ」
「でも、父さんだって分かる」
「分かるわ」
佳乃の声は、かすかに震えていた。
ページをめくる。
一歳の誕生日。
公園。
七五三。
滑り台の下で泣いているレイ。
その横でしゃがむ遥真。
どの写真も、遥真の顔だけが少しずつ黒く滲んでいる。
しかし、完全には消えていない。
手は残っている。
肩も残っている。
小さなレイを支える腕も残っている。
レイは、その写真を黙って見ていた。
父の顔よりも、手を見ていた。
自分の小さな肩に添えられた父の手。
転びそうになった体を支える手。
七五三の時、少し緊張している自分の背中に触れている手。
R-■■の残響で見た父たちの手は、多すぎた。
優しい手も、冷たい手も、離れていく手も、銃へ伸びる手もあった。
だからこそ、写真の中のこの手が、本当に御影遥真のものなのか、レイは確かめようとしていた。
「この写真」
佳乃が言った。
「覚えている?」
「覚えてない」
「三歳の頃だから、無理もないわね」
佳乃は、滑り台の写真に指を近づけた。
触れはしない。
写真の表面から少し浮かせるだけ。
「この日、あなたは滑り台の途中で怖くなって、降りられなくなったの」
「僕が?」
「ええ。上で座ったまま動かなくなって。後ろに子どもたちが並んでしまって、私は下から呼んだのだけれど、あなたは固まってしまった」
「想像しづらい」
「今も、たまに固まるわ」
「母さん」
「本当のことよ」
真昼が小さく笑いかけて、すぐに口元を押さえた。
レイが横目で見る。
「笑った」
「すみません。想像できました」
「味方では」
「味方だから」
「それ、僕の台詞」
佳乃の表情が少しだけ柔らかくなった。
「遥真が上まで行って、あなたの横に座ったの。抱き上げるのかと思ったら、隣に座って、ずっと話していた」
「何を?」
「聞こえなかった。でも、最後にあなたが自分で滑った」
「父さん、突き落とさなかった?」
「しません」
「白瀬なら」
「私もしません!」
「本当?」
「たぶん」
「たぶん?」
佳乃は、二人のやり取りを聞いて、少し笑った。
その笑いは長く続かなかった。
ページをめくる手が、ある写真の前で止まる。
そこには、夜の室内が写っていた。
布団で眠っている幼いレイ。
枕元に座る遥真。
顔は黒く滲んでいる。
けれど、背中の丸まり方で、彼が眠る子どもを見ていたことが分かる。
佳乃は、その写真を見たまま黙った。
レイが聞く。
「これは?」
佳乃は、しばらく答えなかった。
湯呑みの湯気が、ゆっくり消えていく。
外では、風が窓を撫でた。
雨はまだ降っていない。
それでも、部屋の空気が少し湿った気がした。
「遥真が消えた夜」
佳乃は言った。
レイの目が動いた。
真昼は、ノートへ手を伸ばしかけて止めた。
記録するべきか。
でも、この瞬間をペンの音で壊したくない。
佳乃が、真昼を見た。
「書いていいわ」
真昼は、静かに頷いた。
ノートを開く。
ペンを持つ。
でも、すぐには書かない。
佳乃の言葉を待った。
「雨の日だった」
佳乃は話し始めた。
「強い雨ではなかったわ。細かい雨。傘を差しても、服の肩が濡れるような雨。夜なのに、道路の水たまりだけが街灯で白く光っていた」
彼女の視線は、写真ではなく、もっと遠い夜を見ていた。
「遥真は、夕方からずっと落ち着かなかった。食卓でも、あなたの顔ばかり見ていた。あなたはまだ小さくて、眠くて、味噌汁の中におかずを落として怒っていた」
「覚えてない」
「そうでしょうね」
「母さんは覚えてる」
「ええ」
佳乃は、手元の湯呑みを両手で包む。
「その日の遥真は、何度もあなたの名前を呼んだ。食卓で。お風呂のあとで。寝る前に。あなたは、最初は返事をしていたけれど、途中で面倒くさくなって、『もういい』と言った」
レイは、少しだけ目を伏せた。
佳乃の声が続く。
「あなたが眠ったあと、遥真は書斎にいた。私は、また地下の資料かと思った。あの頃の遥真は、旧地下鉄のことばかり調べていたから」
「旧地下鉄」
「ええ」
「R-■■も?」
「その名前は、私は知らなかった。でも、今なら、たぶんそうだったのだと思う」
佳乃は、写真に目を戻した。
「夜遅く、遥真がコートを着ていた。私は止めたわ。こんな雨の夜にどこへ行くの、と」
部屋の空気が静まる。
レイは、母の声を聞いている。
真昼は、ノートに短く書く。
雨の夜。
遥真、旧地下鉄へ。
佳乃、止める。
佳乃は、声を少し落とした。
「遥真は言ったの」
そして、当時の言葉をそのままなぞるように言った。
「レイの名前が、あちら側へ引かれている」
レイの手が、膝の上で止まった。
真昼のペンも止まる。
あちら側。
零番線。
R-■■。
アガルタ核。
どこを指していたのかは分からない。
けれど、今の真昼たちには、その言葉が単なる比喩ではないと分かる。
「私は、意味が分からなかった」
佳乃は言った。
「名前が引かれるって何。あちら側ってどこ。そう聞いたわ。でも遥真は、ちゃんと説明しなかった」
「いつもそう」
レイが低く言う。
佳乃は頷いた。
「ええ。いつもそうだった。今なら、私も怒ればよかったと思う。もっと問い詰めればよかった。行かせなければよかった。警察に連絡すればよかった。鍵を隠せばよかった。あなたを起こせばよかった」
「僕を?」
「遥真は、出ていく前にあなたの寝顔を見に行ったの」
佳乃は、写真を見た。
布団で眠る幼いレイ。
枕元に座る遥真。
「この写真は、その時のもの」
「誰が撮ったの」
「私」
「どうして」
「分からない」
佳乃は、少しだけ自嘲するように笑った。
「本当に、分からないの。ただ、撮らなければいけない気がした。遥真が、あなたの名前を何度も呼んでいたから」
レイの喉が動く。
佳乃は、その夜の声を思い出すように、ゆっくりと言った。
「レイ」
それは、遥真の声ではなく、佳乃の声だった。
だが、その中に、遥真の響きを少しだけ宿していた。
「御影レイ」
部屋の蛍光灯が、一度だけ微かに揺れた。
レイは目を閉じかけた。
真昼がすぐに呼ぶ。
「御影レイ」
レイは返す。
「白瀬真昼」
佳乃も続ける。
「レイ」
「いる」
佳乃は、安堵とも悲しみともつかない息を吐いた。
「あの人は、あなたが眠っているのに、何度も呼んでいた。返事がないのに、呼んでいた」
「どうして」
「分からなかった。今なら、あなたの名前をここに留めようとしていたのかもしれないと思う」
真昼は、ノートに書いた。
遥真、失踪前夜。
眠るレイの名を反復。
名前をこちら側に留めようとしていた?
佳乃は続けた。
「そのあと、遥真は玄関へ行った。私はもう一度止めた。行かないで、と言った」
「父さんは?」
「戻る、と言った」
佳乃の声が、少しだけ崩れた。
「すぐ戻る。レイが起きる前に戻る。そう言った」
「戻らなかった」
「ええ」
レイの声は硬かった。
「戻らなかった」
佳乃は頷く。
「戻らなかった」
部屋に沈黙が落ちる。
写真の中の遥真の顔は黒く滲んでいる。
でも、完全には消えていない。
幼いレイの寝顔を見ている姿は、まだそこにある。
レイは写真を見つめていた。
「母さん」
「なに」
「どうして黙ってた」
佳乃は、目を伏せた。
その問いは何度も来た。
それでも、何度来ても痛い。
「どうして、父さんが旧地下鉄に行ったことを言わなかった」
「……」
「どうして、父さんが僕の名前を気にしてたことを言わなかった」
「レイ」
「どうして、僕の検査記録を隠した」
声が少しずつ強くなる。
「どうして、父さんの箱を隠した。どうして、研究室の鍵を持ってた。どうして、僕がA-00とかアルファとか言われる前に、教えてくれなかった」
佳乃は、何も言えなかった。
レイは続ける。
「守るため?」
「……ええ」
「それ、ずるいよ」
佳乃の肩が小さく震えた。
「守るためって言われたら、怒りづらい」
レイは膝の上で手を握った。
「でも、怒ってる」
「ええ」
「父さんにも怒ってる。母さんにも怒ってる。観測局にも。僕を番号で呼ぶ人たちにも。何も知らなかった自分にも」
真昼は、何も言わなかった。
言えなかった。
ここで「怒っていい」と言うのは簡単だ。
でも、その言葉すら、今は軽い気がした。
佳乃は、ゆっくり顔を上げた。
「ごめんなさい」
その声は静かだった。
「黙っていたことは、間違いだったかもしれない」
レイは母を見る。
佳乃は続けた。
「でも、あなたを守りたかったことまで、間違いにはしたくない」
レイの表情が止まった。
「それは」
「ええ」
佳乃は、泣かなかった。
涙は目に浮かんでいた。
でも、声は折れなかった。
「それも、ずるい言い方ね。分かっているわ。あなたを傷つけたことの言い訳にはならない。私が怖くて、話せなかったこともある。あなたが自分を人間じゃないと思う日が来るのが怖かった。遥真のことを憎んでしまう日が来るのが怖かった。私が、あなたに責められるのが怖かった」
「……」
「でも、それでも、私はあなたを守りたかった。守る方法を間違えたかもしれない。でも、守りたかったことまで、間違いだったとは思いたくない」
レイは答えなかった。
答えられなかった。
真昼は、ペンを動かさずに二人を見ていた。
佳乃の言葉は、綺麗な和解ではない。
正しくもない。
でも、嘘ではなかった。
レイの怒りも、佳乃の後悔も、どちらも本当だった。
写真の中の遥真の顔が、黒く滲んでいる。
それでも、手は残っている。
寝顔を見ている姿も残っている。
人は、ひとつの名前だけでできていない。
父。
研究者。
逃げた人。
守ろうとした人。
隠した人。
帰らなかった人。
その全部が、御影遥真だったのかもしれない。
でも、今のレイには、まだそれを受け止めきれない。
それでいいのだと、真昼は思った。
すぐに許さなくていい。
すぐに分からなくていい。
ただ、消さない。
今は、それでいい。
*
日が傾き始めた頃、真昼は帰ることになった。
霧生が迎えに来るという連絡が入っていた。市警側では、旧研究室の封鎖手続きと観測局からの回収要請への対抗で、まだ動きが続いているらしい。
佳乃は、玄関まで真昼を送った。
「今日は、ありがとう」
「私は、ほとんど何も」
「いてくれたわ」
佳乃は言った。
「それが助かった」
真昼は、何と返していいか分からず、深く頭を下げた。
「記録は、非公開にします」
「ええ」
「でも、消しません」
「お願い」
リビングでは、レイがまだアルバムの前に座っていた。
真昼は、玄関で靴を履きかけて、振り返った。
「御影くん」
レイが顔を上げる。
「白瀬真昼」
「まだ呼んでません」
「先に返した」
「返事の先払いですね」
「便利」
「便利だから」
真昼は少し笑った。
「また明日、学院で」
「分からない」
「え?」
「市警とか観測局とか、明日どうなるか分からない」
「それは、そうだけど」
「でも」
レイは、少しだけ間を置いた。
「また明日」
真昼は頷いた。
「はい。また明日」
彼女が玄関を出ると、レイは立ち上がった。
佳乃は、彼が自分の部屋へ戻るのだと思った。
だが、レイは玄関の方へ来た。
「レイ?」
レイは靴を履かない。
ただ、玄関の手前で立ち止まる。
「母さん」
「なに」
レイは、少しだけ視線を逸らした。
言葉を探している。
怒りはまだある。
傷もある。
許せていない。
問いも残っている。
それでも、言わなければならないことがある。
「明日も、朝、呼んで」
佳乃の表情が、静かに崩れた。
泣きそうになった。
でも、泣く前に頷いた。
「もちろん。レイ」
その声は、いつもの朝と同じだった。
強くない。
劇的でもない。
ただ、毎日繰り返される声。
レイを起こし、食卓へ呼び、地上に戻す声。
レイは短く頷いた。
「うん」
それだけ言って、自分の部屋へ戻っていった。
佳乃は玄関に立ったまま、その背中を見送った。
真昼は、ドアの外でその声を聞いていた。
聞こえてしまった。
でも、記録しなければと思った。
鞄からノートを出す。
玄関前の廊下で、ペンを走らせる。
**明日も、朝、呼んで。
もちろん。レイ。**
書いた瞬間、真昼は少しだけ息を吐いた。
これは和解ではない。
許しでもない。
父の記録が戻ったわけでもない。
R-■■の奥には、まだ次発ホームが口を開けている。
観測局利用派も動いている。
御影遥真の真実も、まだ遠い。
それでも、明日の朝、佳乃はレイを呼ぶ。
レイは、たぶん返事をする。
その約束だけが、今夜の御影家を支えている。
廊下の窓の外で、細い雨が降り始めていた。
水滴が手すりに落ちる。
ぽたり。
けれど、今の真昼には、その音が少しだけ違って聞こえた。
零番線へ沈む音ではない。
朝まで、名前を濡らさずに守るための音。
彼女はノートを閉じた。
そして、階段の下で待つ霧生の車へ向かった。




