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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第四巻:御影遥真とR-■■
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第九章 家族写真

 旧資料館の地下から地上へ戻ると、空はまだ曇っていた。


 雨は降っていない。


 けれど、雲の色はさっきよりも濃くなっていた。旧資料館の煉瓦壁は湿気を吸って暗く見え、入口脇の植え込みには、どこから落ちたのか分からない水滴が光っていた。


 霧生仁は、資料館前の石畳に立ったまま、観測局の封鎖部隊と向き合っていた。


 濃紺の防護コートを着た職員たちは、無表情で待機している。彼らの背後には、観測局の車両が二台停まっていた。側面に大きなロゴはない。だが、灰色の車体と黒い窓は、いかにも「公にはならないもの」を運ぶための車に見えた。


「現場保存は市警が継続する」


 霧生の声は低かった。


「観測局管理物の回収要請は受理した。だが、許可はしていない。正式な令状か、こっちの室長を納得させる文書を持ってこい」


 封鎖部隊の職員は、淡々と答える。


「記録災害拡大の恐れがあります」


「その言葉、さっきも聞いた」


「危険性は事実です」


「なら、危険物を高校生の近くに置くな。まずはお前らの部門の命令系統を整理してこい」


「R-Root Viewerは観測局由来の装置です」


「今は市立図書館の敷地内にある現場証拠だ」


 霧生は一歩も引かなかった。


 真昼は、その背中を見ていた。


 旧研究室から持ち出せたものは少ない。


 レイ宛ての手紙は、レイが持っている。佳乃の箱から出てきた鍵も、佳乃が持っている。研究室の資料は、透子が現場写真と目視メモを作り、霧生の判断でその場に保全された。


 R-Root Viewerは、完全に止めたわけではない。


 透子が出力を落とし、旧端末の回線を切り、装置の外部反応を一時的に遮断しただけだった。


 青白い光は弱まった。


 だが、消えなかった。


 最後に見えた表示は、真昼の目にまだ残っている。


 **次発:R-■■**


 レイは、資料館の入口近くで立っていた。


 顔色は悪い。


 だが、足は地面についている。


 佳乃が隣にいる。


 母親の手は、レイの袖を掴んでいない。けれど、すぐ触れられる距離にある。


 真昼は、近づいて小さく呼んだ。


「御影レイ」


 レイはすぐに返す。


「白瀬真昼」


 声は掠れていた。


 それでも、返事はあった。


 透子が端末を確認しながら頷く。


「反応は不安定ですが、自己名応答は維持されています。今日は、これ以上の閲覧は危険です」


「分かってます」


 レイは答えた。


「分かってますけど」


「けど?」


 真昼が聞く。


「奥にある」


 レイは、旧資料館の入口を振り返った。


「父さんの記録は、まだ奥にある」


 佳乃の表情が痛みに歪んだ。


 真昼は、その横顔を見た。


 佳乃も聞いたのだ。


 R-■■の濁流の中から浮かんだ遥真の声。


 レイ。戻れ。


 お前は、私の記録じゃない。


 それが本当に御影遥真の声だったのか、完全には分からない。


 でも、少なくとも、三人はそう聞いた。


 佳乃も。


 レイも。


 真昼も。


 霧生が戻ってきた。


「一度撤退だ」


「研究室は?」


 真昼が聞く。


「封鎖する。観測局に持っていかせないための封鎖だ。勘違いするなよ、白瀬。お前が夜中に忍び込むための封鎖じゃない」


「まだ何も言ってません」


「顔が言ってた」


「私の顔、警戒されすぎでは」


「実績がある」


 レイが小さく言う。


「あると思う」


「御影くんまで」


「味方だから言う」


「味方の定義が最近厳しい」


 その軽口は、ほんの少しだけ場の空気をゆるめた。


 だが、霧生の顔はすぐに険しく戻る。


「御影、今日は市警に戻さない。家に帰れ」


 レイは少し驚いたように目を上げた。


「事情聴取は」


「後でいい」


「でも」


「お前は今、現場資料じゃない。帰って休め」


 霧生は、言い切った。


「あと、御影佳乃さん」


「はい」


「今日は、家に誰か一人残りますか」


「私がいます」


「白瀬」


「はい」


「お前も途中まで付き添え。帰りは俺が送る」


「いいんですか」


「よくはない。だが、今の御影家を二人きりにしていいか、微妙だ」


 その言葉に、レイも佳乃も黙った。


 霧生は、少しだけ言い方を変える。


「悪い意味じゃない。間に一人いたほうが、言葉が折れにくい時もある」


 真昼は頷いた。


「行きます」


 レイは、何も言わなかった。


 ただ、父の手紙を胸元にしまい直した。


     *


 御影家へ戻ると、部屋の空気は朝と同じではなかった。


 朝食の匂いはもうない。


 テーブルは片づいている。


 湯呑みも、皿も、すべて洗われて棚に戻されていた。


 それなのに、食卓の端には紺色のアルバムが置かれたままだった。


 まるで、誰かが帰ってくるのを待っていたように。


 佳乃は玄関で靴を脱ぐと、すぐにはリビングへ入らなかった。


 廊下に立ったまま、深く息を吸う。


 家の匂い。


 洗剤。


 乾いた畳。


 図書館から持ち帰った紙の匂い。


 かすかな味噌の残り香。


 地下の湿気は、ここにはない。


 だが、佳乃の顔には、旧資料館の青白い光がまだ残っているように見えた。


「お茶を淹れるわ」


 彼女は言った。


 レイが小さく反応する。


「今?」


「今」


「母さん、何かあるとお茶を淹れる」


「何もなくても淹れるわ」


「それはそう」


 真昼は、玄関で鞄を抱えながら言った。


「あの、私、台所をお手伝いします」


「真昼さんは座っていて」


「でも」


「お客様だから」


「最近、お客様の距離感を超えている気がします」


 佳乃は、少しだけ笑った。


「では、今日は半分お客様で」


「半分」


「お茶を運ぶのを手伝ってくれる?」


「はい」


 真昼は台所へ向かった。


 佳乃は湯を沸かし、急須を出した。


 手の動きは慣れている。


 茶葉を入れ、湯を少し冷まし、湯呑みを三つ並べる。


 三つ。


 真昼は、無意識に食卓の三つ目の椅子を見た。


 使われない父の椅子。


 そこには、誰も座っていない。


 佳乃は、今日はその椅子を避けなかった。


 湯呑みを三つ運び、レイと真昼の前へ置き、自分はいつもの席に座る。


 そして、アルバムの前で手を止めた。


「見る?」


 佳乃が聞いた。


 レイは、すぐには答えなかった。


 答えないまま、アルバムを見ている。


 真昼は黙っていた。


 これは、自分が促す場面ではない。


 やがて、レイが小さく頷いた。


「見る」


 佳乃は、アルバムを開いた。


 最初のページには、幼いレイの写真。


 病院の白い布。


 赤ん坊の顔。


 疲れた顔で笑っている佳乃。


 そして、横に立つ御影遥真。


 写真の中の遥真の顔は、まだ分かる。


 ただ、左目のあたりに黒い滲みがある。


 旧研究室で見た残響のように、輪郭が揺れている。


 真昼は、写真を覗き込みすぎないように気をつけた。


 見たい。


 記録したい。


 でも、写真そのものが壊れるような気がした。


「まだ、消えてない」


 レイが言った。


 佳乃は頷いた。


「ええ」


「黒いけど」


「ええ」


「でも、父さんだって分かる」


「分かるわ」


 佳乃の声は、かすかに震えていた。


 ページをめくる。


 一歳の誕生日。


 公園。


 七五三。


 滑り台の下で泣いているレイ。


 その横でしゃがむ遥真。


 どの写真も、遥真の顔だけが少しずつ黒く滲んでいる。


 しかし、完全には消えていない。


 手は残っている。


 肩も残っている。


 小さなレイを支える腕も残っている。


 レイは、その写真を黙って見ていた。


 父の顔よりも、手を見ていた。


 自分の小さな肩に添えられた父の手。


 転びそうになった体を支える手。


 七五三の時、少し緊張している自分の背中に触れている手。


 R-■■の残響で見た父たちの手は、多すぎた。


 優しい手も、冷たい手も、離れていく手も、銃へ伸びる手もあった。


 だからこそ、写真の中のこの手が、本当に御影遥真のものなのか、レイは確かめようとしていた。


「この写真」


 佳乃が言った。


「覚えている?」


「覚えてない」


「三歳の頃だから、無理もないわね」


 佳乃は、滑り台の写真に指を近づけた。


 触れはしない。


 写真の表面から少し浮かせるだけ。


「この日、あなたは滑り台の途中で怖くなって、降りられなくなったの」


「僕が?」


「ええ。上で座ったまま動かなくなって。後ろに子どもたちが並んでしまって、私は下から呼んだのだけれど、あなたは固まってしまった」


「想像しづらい」


「今も、たまに固まるわ」


「母さん」


「本当のことよ」


 真昼が小さく笑いかけて、すぐに口元を押さえた。


 レイが横目で見る。


「笑った」


「すみません。想像できました」


「味方では」


「味方だから」


「それ、僕の台詞」


 佳乃の表情が少しだけ柔らかくなった。


「遥真が上まで行って、あなたの横に座ったの。抱き上げるのかと思ったら、隣に座って、ずっと話していた」


「何を?」


「聞こえなかった。でも、最後にあなたが自分で滑った」


「父さん、突き落とさなかった?」


「しません」


「白瀬なら」


「私もしません!」


「本当?」


「たぶん」


「たぶん?」


 佳乃は、二人のやり取りを聞いて、少し笑った。


 その笑いは長く続かなかった。


 ページをめくる手が、ある写真の前で止まる。


 そこには、夜の室内が写っていた。


 布団で眠っている幼いレイ。


 枕元に座る遥真。


 顔は黒く滲んでいる。


 けれど、背中の丸まり方で、彼が眠る子どもを見ていたことが分かる。


 佳乃は、その写真を見たまま黙った。


 レイが聞く。


「これは?」


 佳乃は、しばらく答えなかった。


 湯呑みの湯気が、ゆっくり消えていく。


 外では、風が窓を撫でた。


 雨はまだ降っていない。


 それでも、部屋の空気が少し湿った気がした。


「遥真が消えた夜」


 佳乃は言った。


 レイの目が動いた。


 真昼は、ノートへ手を伸ばしかけて止めた。


 記録するべきか。


 でも、この瞬間をペンの音で壊したくない。


 佳乃が、真昼を見た。


「書いていいわ」


 真昼は、静かに頷いた。


 ノートを開く。


 ペンを持つ。


 でも、すぐには書かない。


 佳乃の言葉を待った。


「雨の日だった」


 佳乃は話し始めた。


「強い雨ではなかったわ。細かい雨。傘を差しても、服の肩が濡れるような雨。夜なのに、道路の水たまりだけが街灯で白く光っていた」


 彼女の視線は、写真ではなく、もっと遠い夜を見ていた。


「遥真は、夕方からずっと落ち着かなかった。食卓でも、あなたの顔ばかり見ていた。あなたはまだ小さくて、眠くて、味噌汁の中におかずを落として怒っていた」


「覚えてない」


「そうでしょうね」


「母さんは覚えてる」


「ええ」


 佳乃は、手元の湯呑みを両手で包む。


「その日の遥真は、何度もあなたの名前を呼んだ。食卓で。お風呂のあとで。寝る前に。あなたは、最初は返事をしていたけれど、途中で面倒くさくなって、『もういい』と言った」


 レイは、少しだけ目を伏せた。


 佳乃の声が続く。


「あなたが眠ったあと、遥真は書斎にいた。私は、また地下の資料かと思った。あの頃の遥真は、旧地下鉄のことばかり調べていたから」


「旧地下鉄」


「ええ」


「R-■■も?」


「その名前は、私は知らなかった。でも、今なら、たぶんそうだったのだと思う」


 佳乃は、写真に目を戻した。


「夜遅く、遥真がコートを着ていた。私は止めたわ。こんな雨の夜にどこへ行くの、と」


 部屋の空気が静まる。


 レイは、母の声を聞いている。


 真昼は、ノートに短く書く。


 雨の夜。


 遥真、旧地下鉄へ。


 佳乃、止める。


 佳乃は、声を少し落とした。


「遥真は言ったの」


 そして、当時の言葉をそのままなぞるように言った。


「レイの名前が、あちら側へ引かれている」


 レイの手が、膝の上で止まった。


 真昼のペンも止まる。


 あちら側。


 零番線。


 R-■■。


 アガルタ核。


 どこを指していたのかは分からない。


 けれど、今の真昼たちには、その言葉が単なる比喩ではないと分かる。


「私は、意味が分からなかった」


 佳乃は言った。


「名前が引かれるって何。あちら側ってどこ。そう聞いたわ。でも遥真は、ちゃんと説明しなかった」


「いつもそう」


 レイが低く言う。


 佳乃は頷いた。


「ええ。いつもそうだった。今なら、私も怒ればよかったと思う。もっと問い詰めればよかった。行かせなければよかった。警察に連絡すればよかった。鍵を隠せばよかった。あなたを起こせばよかった」


「僕を?」


「遥真は、出ていく前にあなたの寝顔を見に行ったの」


 佳乃は、写真を見た。


 布団で眠る幼いレイ。


 枕元に座る遥真。


「この写真は、その時のもの」


「誰が撮ったの」


「私」


「どうして」


「分からない」


 佳乃は、少しだけ自嘲するように笑った。


「本当に、分からないの。ただ、撮らなければいけない気がした。遥真が、あなたの名前を何度も呼んでいたから」


 レイの喉が動く。


 佳乃は、その夜の声を思い出すように、ゆっくりと言った。


「レイ」


 それは、遥真の声ではなく、佳乃の声だった。


 だが、その中に、遥真の響きを少しだけ宿していた。


「御影レイ」


 部屋の蛍光灯が、一度だけ微かに揺れた。


 レイは目を閉じかけた。


 真昼がすぐに呼ぶ。


「御影レイ」


 レイは返す。


「白瀬真昼」


 佳乃も続ける。


「レイ」


「いる」


 佳乃は、安堵とも悲しみともつかない息を吐いた。


「あの人は、あなたが眠っているのに、何度も呼んでいた。返事がないのに、呼んでいた」


「どうして」


「分からなかった。今なら、あなたの名前をここに留めようとしていたのかもしれないと思う」


 真昼は、ノートに書いた。


 遥真、失踪前夜。


 眠るレイの名を反復。


 名前をこちら側に留めようとしていた?


 佳乃は続けた。


「そのあと、遥真は玄関へ行った。私はもう一度止めた。行かないで、と言った」


「父さんは?」


「戻る、と言った」


 佳乃の声が、少しだけ崩れた。


「すぐ戻る。レイが起きる前に戻る。そう言った」


「戻らなかった」


「ええ」


 レイの声は硬かった。


「戻らなかった」


 佳乃は頷く。


「戻らなかった」


 部屋に沈黙が落ちる。


 写真の中の遥真の顔は黒く滲んでいる。


 でも、完全には消えていない。


 幼いレイの寝顔を見ている姿は、まだそこにある。


 レイは写真を見つめていた。


「母さん」


「なに」


「どうして黙ってた」


 佳乃は、目を伏せた。


 その問いは何度も来た。


 それでも、何度来ても痛い。


「どうして、父さんが旧地下鉄に行ったことを言わなかった」


「……」


「どうして、父さんが僕の名前を気にしてたことを言わなかった」


「レイ」


「どうして、僕の検査記録を隠した」


 声が少しずつ強くなる。


「どうして、父さんの箱を隠した。どうして、研究室の鍵を持ってた。どうして、僕がA-00とかアルファとか言われる前に、教えてくれなかった」


 佳乃は、何も言えなかった。


 レイは続ける。


「守るため?」


「……ええ」


「それ、ずるいよ」


 佳乃の肩が小さく震えた。


「守るためって言われたら、怒りづらい」


 レイは膝の上で手を握った。


「でも、怒ってる」


「ええ」


「父さんにも怒ってる。母さんにも怒ってる。観測局にも。僕を番号で呼ぶ人たちにも。何も知らなかった自分にも」


 真昼は、何も言わなかった。


 言えなかった。


 ここで「怒っていい」と言うのは簡単だ。


 でも、その言葉すら、今は軽い気がした。


 佳乃は、ゆっくり顔を上げた。


「ごめんなさい」


 その声は静かだった。


「黙っていたことは、間違いだったかもしれない」


 レイは母を見る。


 佳乃は続けた。


「でも、あなたを守りたかったことまで、間違いにはしたくない」


 レイの表情が止まった。


「それは」


「ええ」


 佳乃は、泣かなかった。


 涙は目に浮かんでいた。


 でも、声は折れなかった。


「それも、ずるい言い方ね。分かっているわ。あなたを傷つけたことの言い訳にはならない。私が怖くて、話せなかったこともある。あなたが自分を人間じゃないと思う日が来るのが怖かった。遥真のことを憎んでしまう日が来るのが怖かった。私が、あなたに責められるのが怖かった」


「……」


「でも、それでも、私はあなたを守りたかった。守る方法を間違えたかもしれない。でも、守りたかったことまで、間違いだったとは思いたくない」


 レイは答えなかった。


 答えられなかった。


 真昼は、ペンを動かさずに二人を見ていた。


 佳乃の言葉は、綺麗な和解ではない。


 正しくもない。


 でも、嘘ではなかった。


 レイの怒りも、佳乃の後悔も、どちらも本当だった。


 写真の中の遥真の顔が、黒く滲んでいる。


 それでも、手は残っている。


 寝顔を見ている姿も残っている。


 人は、ひとつの名前だけでできていない。


 父。


 研究者。


 逃げた人。


 守ろうとした人。


 隠した人。


 帰らなかった人。


 その全部が、御影遥真だったのかもしれない。


 でも、今のレイには、まだそれを受け止めきれない。


 それでいいのだと、真昼は思った。


 すぐに許さなくていい。


 すぐに分からなくていい。


 ただ、消さない。


 今は、それでいい。


     *


 日が傾き始めた頃、真昼は帰ることになった。


 霧生が迎えに来るという連絡が入っていた。市警側では、旧研究室の封鎖手続きと観測局からの回収要請への対抗で、まだ動きが続いているらしい。


 佳乃は、玄関まで真昼を送った。


「今日は、ありがとう」


「私は、ほとんど何も」


「いてくれたわ」


 佳乃は言った。


「それが助かった」


 真昼は、何と返していいか分からず、深く頭を下げた。


「記録は、非公開にします」


「ええ」


「でも、消しません」


「お願い」


 リビングでは、レイがまだアルバムの前に座っていた。


 真昼は、玄関で靴を履きかけて、振り返った。


「御影くん」


 レイが顔を上げる。


「白瀬真昼」


「まだ呼んでません」


「先に返した」


「返事の先払いですね」


「便利」


「便利だから」


 真昼は少し笑った。


「また明日、学院で」


「分からない」


「え?」


「市警とか観測局とか、明日どうなるか分からない」


「それは、そうだけど」


「でも」


 レイは、少しだけ間を置いた。


「また明日」


 真昼は頷いた。


「はい。また明日」


 彼女が玄関を出ると、レイは立ち上がった。


 佳乃は、彼が自分の部屋へ戻るのだと思った。


 だが、レイは玄関の方へ来た。


「レイ?」


 レイは靴を履かない。


 ただ、玄関の手前で立ち止まる。


「母さん」


「なに」


 レイは、少しだけ視線を逸らした。


 言葉を探している。


 怒りはまだある。


 傷もある。


 許せていない。


 問いも残っている。


 それでも、言わなければならないことがある。


「明日も、朝、呼んで」


 佳乃の表情が、静かに崩れた。


 泣きそうになった。


 でも、泣く前に頷いた。


「もちろん。レイ」


 その声は、いつもの朝と同じだった。


 強くない。


 劇的でもない。


 ただ、毎日繰り返される声。


 レイを起こし、食卓へ呼び、地上に戻す声。


 レイは短く頷いた。


「うん」


 それだけ言って、自分の部屋へ戻っていった。


 佳乃は玄関に立ったまま、その背中を見送った。


 真昼は、ドアの外でその声を聞いていた。


 聞こえてしまった。


 でも、記録しなければと思った。


 鞄からノートを出す。


 玄関前の廊下で、ペンを走らせる。


 **明日も、朝、呼んで。

 もちろん。レイ。**


 書いた瞬間、真昼は少しだけ息を吐いた。


 これは和解ではない。


 許しでもない。


 父の記録が戻ったわけでもない。


 R-■■の奥には、まだ次発ホームが口を開けている。


 観測局利用派も動いている。


 御影遥真の真実も、まだ遠い。


 それでも、明日の朝、佳乃はレイを呼ぶ。


 レイは、たぶん返事をする。


 その約束だけが、今夜の御影家を支えている。


 廊下の窓の外で、細い雨が降り始めていた。


 水滴が手すりに落ちる。


 ぽたり。


 けれど、今の真昼には、その音が少しだけ違って聞こえた。


 零番線へ沈む音ではない。


 朝まで、名前を濡らさずに守るための音。


 彼女はノートを閉じた。


 そして、階段の下で待つ霧生の車へ向かった。

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