第八章 R-■■の閲覧
青白い光が、父の研究室を満たした。
それは、照明の光ではなかった。
壁の奥に隠されていた古い装置から漏れてくる、記録の光だった。
R-Root Viewer。
Preliminary Access Unit。
金属パネルの奥で、細い管のようなものが何本も淡く光り、古い映写機のレンズに似た丸い部品がゆっくりと回転する。だが、そこにフィルムはなかった。リールもない。映写機のように見えるのに、映すための膜がない。
かわりに、壁に貼られた古い地図が揺れた。
旧地下鉄路線図。
アガルタ地下層の断面図。
赤いピンで留められた事故記録。
R系列、A-00、O-00、K-117、C-04と書かれたメモ。
それらが、風もないのに震え始める。
紙そのものが震えているのではない。
紙に残された記録の輪郭が、呼吸を始めたように見えた。
「映像じゃない」
真昼は思わず呟いた。
装置からは、何も投影されていないはずだった。
それでも、部屋の空気が変わっていく。
埃をかぶった机。
乾いたペン。
未完成の論文。
父の手紙。
それらの上に、別の時間が重なっていく。
透子は装置横の古い端末を見ていた。画面は緑がかった黒で、文字は粗い。現行の観測局端末とは規格が違う。だが、表示されている内容は明らかに境界観測局のものだった。
**R-Root Viewer / Preliminary Access Unit**
**閲覧対象:R-■■関連保護者記録**
**閲覧補助:H.M. archive fragment**
**警告:単独人物記録ではありません**
**警告:呼称固定により誤結合の危険があります**
透子は唇を引き結んだ。
「やはり、R-■■本体ではありません。予備閲覧装置です。ただ、R系列の残響へ接続しています」
「残響って」
真昼が聞く。
「映像でも音声でもなく、記録が残した反応です。見えているものが、必ずしも過去の再生とは限りません」
「つまり?」
「混ざります」
透子は短く言った。
「御影さん。見えるものを、すべてお父様の記憶だと思わないでください。R-■■は一人分の記録ではありません」
レイは、装置の光を見ていた。
手には、父の手紙。
その便箋を胸元へ押さえるように持っている。
「分かっています」
声は落ち着いている。
けれど、真昼には分かった。
落ち着いているのではない。
落ち着こうとしている。
佳乃はレイの隣に立っていた。
彼女の手は、レイの袖口に触れるか触れないかの位置にある。握りたい。でも、握ってよいのか分からない。止めたい。でも、止めないと決めた。そんな距離だった。
「レイ」
佳乃が呼ぶ。
レイは、母を見る。
「いる」
「ええ」
佳乃は小さく頷いた。
「ここにいて」
「うん」
真昼も言った。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
返事はある。
まだ、大丈夫。
霧生の声が廊下から聞こえた。
「黒江、何分かかる!」
透子が扉の方へ答える。
「起動確認だけなら一分。ただし閲覧を始めるなら、途中停止の準備が必要です!」
「外はそれほど待ってくれなさそうだぞ!」
廊下では、観測局の封鎖部隊が近づいている。
真昼は、その足音を直接聞いたわけではない。
だが、研究室の扉の向こうに、圧力のようなものがあった。
濃紺の防護コート。
A-00関連評価。
強制保護。
便利な制御装置。
その言葉が部屋の外から迫ってくる。
中では、父が残した装置が開こうとしている。
どちらもレイを見ている。
ただし、違う呼び方で。
観測局はA-00と呼ぶ。
父は、手紙の中で息子と呼んだ。
母は、レイと呼ぶ。
真昼は、御影レイと呼ぶ。
真昼はノートを開いた。
ペン先が紙に触れる。
その瞬間、装置が低く鳴った。
古い映写機が回るような音。
だが、フィルムの擦れる音ではない。
水が細い管を流れるような音だった。
ぽたり。
ぽたり。
壁の地図が白くぼやける。
研究室の輪郭が遠ざかる。
机の上の紙が、別の紙へ変わる。
空気の奥に、いくつもの声が重なった。
*
最初に見えたのは、食卓だった。
見慣れない家。
朝の光が差し込んでいる。
小さな男の子が、椅子の上で足をぶらぶら揺らしている。テーブルの上には、焼きすぎたトーストと、半分に切られたオレンジ。父親らしい男が、エプロンをつけて台所から戻ってくる。
「焦げた」
男が言う。
少年が言う。
「知ってる」
「でも食べられる」
「苦い」
「大人の味だ」
「うそだ」
「そうだな、嘘だ」
男は笑い、少年の皿から黒く焦げた部分を自分の皿へ移した。
その手つきは不器用だった。
でも、優しかった。
少年が名前を呼ばれる。
「レイ、牛乳飲め」
レイ。
その響きに、研究室のレイが小さく息を呑んだ。
見知らぬ食卓。
見知らぬ父。
見知らぬ少年。
でも、名前は自分に向かってくる。
レイ。
父の声。
優しい声。
その食卓が、水面に落ちる光のように揺れ、消えた。
次に見えたのは、暗い玄関だった。
スーツケース。
靴箱の上に置かれた封筒。
廊下の奥で、少年が立っている。
父親は背を向けている。
玄関のドアは半分開いている。
「行かないで」
少年が言う。
父親は振り返らない。
「お前のためだ」
「それ、嫌い」
「いつか分かる」
「分かりたくない」
父親は、少しだけ肩を震わせた。
けれど、戻らなかった。
そのまま外へ出る。
ドアが閉まる。
少年は、玄関に残された封筒を見つめる。
そこに名前は書かれていない。
ただ、封筒の端に、黒い滲みが広がっている。
その少年も、レイと呼ばれていた。
また、消える。
今度は白い部屋。
観測室。
固定椅子。
計測器。
父親らしい男が、白衣を着ている。
その前に、少年が座っている。
額に電極。
手首に細い識別バンド。
父は、端末へ数値を入力している。
「対象、呼称刺激に反応」
父の声は冷たい。
少年が言う。
「お父さん」
父は、すぐには答えない。
数値を見ている。
少年はもう一度言う。
「お父さん」
父はようやく顔を上げる。
その目に、親の色はない。
研究者の目だった。
「今は、そう呼ばないでください」
少年の顔が、空白になる。
父は続ける。
「あなたは、A系列対象です」
端末の画面に、文字が出る。
A-00。
アルファ。
対象。
少年は泣かない。
ただ、小さな声で言う。
「僕、レイだよ」
その部屋も消える。
次は雨の街。
父が少年を抱えて走っている。
背後で警報が鳴っている。
観測局の職員たちが追ってくる。
父は息を切らしながら、少年を抱きしめる。
「見るな」
「怖い」
「見るな、レイ」
「お父さん」
「名前を言え」
「みかげ、れい」
「そうだ。お前は御影レイだ。誰が何と言っても、それだけは忘れるな」
真昼は、そこに息を呑んだ。
これは、遥真か。
それとも別の父か。
声は似ている。
でも、輪郭が滲んでいる。
雨の中で父の顔は黒く、はっきりしない。
その父は、少年を守るために走っている。
世界を敵に回してでも。
だが、次の残響はもっと暗かった。
地下室。
薄暗い蛍光灯。
壁に貼られた世界地図。
机の上に、古い拳銃。
少年が床に座っている。
父がその前に膝をついている。
父の手は震えている。
「すまない」
父が言う。
少年は、泣いていない。
ただ、父を見ている。
「世界が壊れる」
父は言う。
「お前をこのままにしておくと、すべてが壊れる」
「僕が悪いの?」
「違う」
「じゃあ、なんで」
「私が弱いからだ」
父は、少年の名前を呼ぼうとする。
けれど、呼べない。
呼べば止まってしまうから。
だから父は、違う呼び方をする。
「アルファ」
少年の目が、ゆっくり暗くなる。
父は泣きながら、拳銃へ手を伸ばす。
その瞬間、残響が砕けた。
*
レイは、息ができなかった。
父が多すぎる。
優しい父。
出ていく父。
観測する父。
守る父。
殺そうとする父。
どの父も、自分を見ている。
どの父も、何かを言う。
どの父も、名前を持っているはずなのに、その名前がない。
全部、父という役割だけで迫ってくる。
レイ。
アルファ。
対象。
息子。
A-00。
お前。
私の子。
私の失敗。
私の記録。
私の責任。
私の罪。
声が重なる。
呼び方が重なる。
どの声に返事をすればいいのか分からない。
御影遥真はどこにいる。
自分の父はどれだ。
優しい食卓の父か。
玄関を出ていく父か。
白衣で観測する父か。
雨の中で守る父か。
銃へ手を伸ばす父か。
それとも、その全部ではないのか。
レイは、立っているはずの研究室の床を見失った。
足元が水になる。
黒い水面。
零番線。
次発案内。
R-■■。
ホームの向こうで、いくつもの父が並んでいる。
顔はない。
声だけがある。
「レイ」
「アルファ」
「対象」
「息子」
「A-00」
「戻れ」
「来い」
「消えろ」
「守らせてくれ」
「観測させろ」
「世界のためだ」
「お前のためだ」
「私のためだ」
レイは耳を塞ごうとした。
だが、声は耳からではなく、内側から響いてくる。
自分の中に父が多すぎる。
父という役割の記録が、レイ系アニマの根に絡みついている。
R-■■。
それは一人の父の番号ではない。
レイ系アニマに関わった、無数の保護者記録。
父だった者。
父になれなかった者。
父を演じた者。
父として守った者。
父として壊した者。
子を対象にした者。
子を世界から隠した者。
子を世界のために差し出した者。
そのすべてが、R-■■の中で渦巻いている。
御影遥真は、その中の一人。
だが、レイにとっては一人では済まない。
父。
その言葉だけで、すべてが流れ込んでくる。
レイの喉から、声が漏れた。
「どれが」
真昼には、その声が聞こえた。
研究室の中で、レイは立ったまま震えていた。目は開いているのに、ここを見ていない。青白い光が彼の顔を照らし、瞳の奥でいくつもの影が揺れている。
「どれが、父さんなんだ」
佳乃が息を呑む。
真昼はすぐに近づこうとした。
だが、透子が片手で制した。
「急に触れないでください。今、接触刺激が別の残響に結合する可能性があります」
「でも」
「名前で」
透子の声は鋭かった。
「名前で戻してください」
真昼は頷いた。
喉が乾いている。
それでも、声を出す。
「御影レイ」
レイの肩が揺れた。
でも、返事がない。
「御影レイ」
真昼はもう一度呼ぶ。
研究室の壁に映る残響が揺れる。
複数の父の声が、真昼の声を押し返すように響く。
「レイ」
「アルファ」
「対象」
「A-00」
「息子」
「私の」
「私の」
「私の」
真昼は、奥歯を噛んだ。
「違う」
声が出た。
彼女は、ノートを握りしめたまま言う。
「御影くんは、誰かの所有物じゃない」
透子が装置の出力を下げようと端末を操作する。
だが、表示が乱れている。
**R系列反応上昇**
**保護者記録逆流**
**呼称過多**
**自己名境界不安定**
佳乃が、レイの名前を呼んだ。
「レイ」
その声は大きくなかった。
叫んでいない。
朝に起こす時と同じ声。
食卓から呼ぶ時と同じ声。
傘を忘れないでと言う時と同じ声。
その声だけが、複数の父の声を少しだけ割った。
レイの唇が動く。
だが、まだ返事はない。
佳乃は一歩近づいた。
透子が止めようとしたが、佳乃は首を振った。
「触らないわ」
彼女は、レイの前に立つ。
手は伸ばさない。
ただ、呼ぶ。
「レイ」
真昼も重ねる。
「御影レイ」
佳乃が言う。
「レイ」
真昼が言う。
「御影レイ」
二つの呼び方。
母の声。
友人の声。
家族の中の名前。
外で自分として立つ名前。
レイ。
御影レイ。
その二つが、黒い水面に杭のように落ちた。
レイは、息を吸った。
浅い。
でも、吸えた。
遠くで、また声がした。
今度は、他の父たちの声ではなかった。
ざわめきの奥から、一本だけ浮かび上がる声。
低く、疲れていて、必死で、それでも静かな声。
「レイ」
レイは目を見開いた。
その声を、知っている。
研究室の手紙。
幼い記憶。
朝のアルバム。
黒く滲んだ顔。
御影遥真。
声は続けた。
「戻れ」
複数の父の記録が、周囲で渦巻いている。
それでも、その声だけは、少し違った。
レイを呼んでいる。
だが、所有しようとしていない。
「お前は、私の記録じゃない」
その言葉が、残響の中を通った。
黒い水面が割れる。
白い研究室の壁が戻る。
机の上の論文が見える。
父の手紙が胸元にある。
佳乃が前にいる。
真昼がノートを握っている。
透子が端末の前にいる。
廊下では霧生の声がしている。
レイは、膝から崩れ落ちた。
今度は、真昼と佳乃が同時に支えた。
透子もすぐに駆け寄る。
「御影さん、現在地」
レイは、息を整える。
「旧資料館地下。父の研究室」
「名前」
「御影レイ」
真昼が、ほとんど泣きそうな声で言った。
「白瀬真昼」
レイは、少しだけ顔を上げる。
「言う前に言った」
「返事の予約です」
「便利」
「便利だから」
佳乃が、レイの肩に手を添えた。
「レイ」
「母さん」
「戻った?」
「戻った」
「そう」
佳乃は、その一言で目を閉じた。
透子は端末へ戻り、出力を下げた。
装置の光が少し弱まる。
だが、完全には消えない。
壁の奥で、まだ何かが動いている。
真昼はレイの横でしゃがんだまま、震える手でノートを開いた。
書く。
今見たものを、全部は書けない。
でも、要点だけでも残す。
**R-■■は一人分の父の記録ではない。
レイ系アニマに関わる、根の保護者記録。
優しい父、去る父、観測する父、守る父、殺そうとする父。
父という役割が複数世界から流れ込む。
御影遥真はその中の一人。
ただし、遥真の声は言った。
「レイ。戻れ。お前は、私の記録じゃない」**
書き終えた瞬間、真昼は息を吐いた。
重い。
この記録は重い。
だが、書かなければ、今見た残響の全部がR-■■の濁流に戻ってしまう気がした。
レイは、真昼のノートを見た。
「私の記録じゃない」
「うん」
「父さんの声だった?」
真昼は、すぐには答えなかった。
確証はない。
R-■■は混ざる。
見たものがすべて過去の再生とは限らない。
でも。
「私は、そう聞こえました」
レイは頷いた。
「僕も」
佳乃が、涙をこらえるように唇を噛んだ。
「私も」
透子は端末から目を離さず言った。
「三名の聴取確認。ただし、記録残響の性質上、確定は保留」
霧生なら、「そういうところだぞ」と言いそうだった。
だが、今は透子のその言い方が必要だった。
確定しない。
でも、残す。
断定しない。
でも、消さない。
その時、廊下から怒鳴り声が響いた。
「ここは市警が現場保存中だ。勝手に入るな!」
霧生の声。
それに対して、別の冷たい声が返る。
「観測局管理物の回収です。市警側には正式照会を送付済みです」
「照会は受け取った。許可した覚えはない」
「記録災害拡大の恐れがあります」
「便利な言葉で高校生を回収しようとしてんじゃねえぞ」
真昼は、研究室の扉を見る。
封鎖部隊が来ている。
時間がない。
透子が装置の端末を確認する。
「まだ、完全には切れていません」
「何か残ってるんですか」
真昼が聞く。
「閲覧装置の奥に、別の表示が出ています」
レイはまだ立てない。
だが、顔を上げる。
壁の奥、青白い光の中に、文字が浮かんでいた。
それは、真昼たちが見たことのある形式だった。
零番線のホームで。
列車が来ない場所で。
黒い水面の向こうで。
駅名標ではなく、次発案内に浮かんだ文字。
装置の奥に、同じ表示が出る。
**次発:R-■■**
真昼は、喉の奥が冷えるのを感じた。
「零番線と同じ」
透子が頷く。
「R-■■の本体、あるいは深層記録は、まだ奥にあります」
「ここで見たのは?」
「予備閲覧。入口です」
レイは、床に座ったままその文字を見上げていた。
「父さんの記録は、まだ奥にある」
佳乃が隣で息を呑む。
真昼は、ノートを握った。
次発:R-■■。
零番線の次発ホーム。
父の記録。
根の保護者記録。
まだ終わっていない。
廊下で、金属音がした。
封鎖部隊が、さらに近づいている。
霧生の声が響く。
「黒江! あと何秒だ!」
透子は端末を見た。
装置は、まだ青白く光っている。
R-■■の表示は消えない。
真昼はレイを呼んだ。
「御影レイ」
レイは答える。
「白瀬真昼」
佳乃も呼ぶ。
「レイ」
「いる」
レイは、父の手紙を握りしめた。
そして、次発案内のような表示を見つめたまま、小さく言った。
「まだ、父さんを知らない」
誰も否定しなかった。
R-■■は、彼らをさらに奥へ誘っている。
その奥に、御影遥真の記録があるのか。
それとも、父という役割のさらに深い濁流があるのか。
まだ分からない。
ただひとつだけ、分かった。
御影遥真は、R-■■ではない。
だが、R-■■の奥に沈んでいる。
そして、今もどこかで、息子を戻そうとしている。
お前は、私の記録じゃない。
その声だけが、青白い光の中で、まだ微かに残っていた。
装置の奥で、水音がした。
ぽたり。
次発表示が、一度だけ強く光った。
**次発:R-■■**




