第七章 観測局利用派
境界観測局アガルタ支局の地下二階には、窓がない。
それは珍しいことではなかった。
観測局の建物は、地上にある部分よりも地下にある部分のほうが広い。記録保全部、収容管理部、旧実験観測部の封鎖区画、境界安定設備、地下連絡通路。すべてを含めれば、地上の外観から想像するよりはるかに深く、複雑に伸びている。
その中でも、観測応用部門は特に静かな場所だった。
廊下の照明は青白い。
床は艶のない黒灰色。
壁面には案内表示がほとんどない。
職員の行き来も少ない。
だが、そこには常に何かが動いている気配がある。
人ではなく、端末。
声ではなく、信号。
会話ではなく、監視値。
観測応用部門の中央管制室では、大小いくつものモニターが壁一面を埋めていた。
アガルタ地下層の簡易断面図。
旧地下鉄封鎖区域の境界揺らぎ値。
無名駅周辺の記録欠落反応。
零番線に関連する異常ログ。
A系列症例の観測波形。
O系列未確定反応。
そして、R系列記録の監視値。
そのR系列欄が、昼過ぎ、突然赤く点滅した。
警告音は小さかった。
人を驚かせるための音ではない。
訓練された職員が即座に気づく程度の、短く鋭い電子音。
ピ、と一度。
その音だけで、管制室にいた職員たちの視線が集まった。
画面の中央に文字が出る。
**R-Root Viewer Preliminary Access Unit
起動反応検知**
続いて、座標情報。
**旧資料館地下共同研究区画 B-3**
その下に、関連タグが自動表示される。
**H.M. / R-Root Archive**
**A-00近接**
**R-■■反応上昇**
**外部同行者:市警照会対象**
管制室の奥に立っていた男が、ゆっくりと顔を上げた。
久我瀬玲央。
境界観測局・観測応用部門主任研究官。
年齢は三十代後半。
身なりは整っている。
黒に近い濃紺の防護コートを羽織り、白いシャツの襟元は隙なく閉じられている。眼鏡はかけていない。瞳は黒く、感情を出さないよう訓練された人間の目をしていた。
ただし、冷たくはない。
彼の表情には、むしろ研究者としての関心があった。
長年閉じていた装置が、ようやく反応した。
待っていた現象が、予定より早く来た。
そんな目だった。
「反応値は」
久我瀬が聞く。
端末前の職員が答える。
「R-■■基礎反応値、基準の三・二倍まで上昇。A-00近接反応と同期しています。O系列反応は微弱。K-117、C-04タグにも短時間の残響反応あり」
「Mikage Harumaタグは」
「一時的に浮上。現在はR-Root内へ再沈降中」
久我瀬は、画面の表示を見つめた。
H.M.
Mikage Haruma。
十年近く沈んでいた名前。
そして、その名前に近づいた息子。
「御影遥真の旧端末が動いたか」
久我瀬は、声に感情を乗せなかった。
「やはり、彼は残していたんだな」
隣の職員が言う。
「旧研究室は、市警関係者が入構中です。霧生仁、黒江透子、御影レイ、白瀬真昼、御影佳乃」
「家族まで連れて行ったのか」
「はい」
「黒江先生らしい」
久我瀬の口元に、ほとんど笑みとは分からない程度の表情が浮かんだ。
「感情を捨てたふりをして、最後はそこへ戻る」
職員は反応しなかった。
久我瀬は、別のモニターへ視線を移す。
そこには、A-00関連評価の凍結ログが表示されていた。
御影レイ。
A-00。
アルファ症例候補。
家族呼称による自己境界安定。
市警関与により強制保護保留。
記録保全部による名称使用制限。
外部接触者:白瀬真昼。
久我瀬は、その最後の名前を見て、わずかに目を細めた。
「白瀬真昼の記録反応は、まだ上昇しているか」
「はい。R-■■周辺記録への干渉が確認されています。直接接続ではありませんが、手書き記録による欠落固定能力が高い」
「危険だな」
「対象ですか」
「能力が、だ」
久我瀬は淡々と言った。
「本人はただの高校生だろう。だが、強い記録者は、時に記録保全部より厄介になる。形式を持たないからこそ、既存の保全規則をすり抜ける」
「対応しますか」
「今は優先順位が違う」
久我瀬は、A-00の波形を拡大した。
青白い線が、不規則に震えている。
その線の奥に、別の波形が重なる。
R-■■。
御影遥真。
家族呼称。
アガルタ核。
久我瀬は、画面へ手を伸ばし、アガルタ地下層の最深部を示した。
赤い点。
**AGARTHA CORE / 未確定**
「アルファ症例は危険だ」
久我瀬は言った。
「放置すれば、同魂者記憶の逆流だけでは済まない。アガルタ全域の名前記録、家族記録、死者記録、地下層記録が同時に揺らぐ。御影レイは、市警や家族のもとに置くには危険すぎる」
「強制保護命令を再開しますか」
「準備しろ」
職員の手が止まる。
「正式に、ですか」
「正式に、だ」
「記録保全部が反対する可能性があります」
「記録保全部は保存する部署だ。運用判断に口を出す権限はない」
久我瀬は、まっすぐ前を見た。
「A-00は、都市規模の記憶災害を抑止できる可能性がある。制御できれば、アガルタ核への接続安定化も見込める。御影遥真は感情で研究を歪めた。息子を守るという理由で、貴重な症例を家庭内へ閉じ込めた」
彼の声は、怒ってはいなかった。
むしろ、正しい手順を確認しているようだった。
「R-■■は失敗ではない。上位世界接続制御への足がかりだった。御影遥真は、それを恐れた。黒江透子も、同じ誤りを繰り返している」
別の職員が尋ねる。
「旧研究室への介入は」
「R-Root Viewerの回収を優先する。市警との衝突は避けたいが、装置が完全起動する前に封鎖する」
「御影レイは」
「保護対象として扱う」
少し間を置いて、久我瀬は訂正するように言った。
「A-00として、だ」
*
記録保全部第一記録保全課の閲覧室では、藍沢環が端末の前に立っていた。
彼女の画面にも、同じ警告が出ている。
R-Root Viewer Preliminary Access Unit。
起動反応検知。
旧資料館地下共同研究区画 B-3。
藍沢は、何も言わずに数秒間その表示を見つめた。
それから、別ウィンドウを開く。
R系列関連記録保全ログ。
御影遥真。
Mikage Haruma。
R-Root Preliminary Archive。
External Collaborator。
先ほど、真昼たちに見せた古い記録カードの保全値が、わずかに不安定化していた。
藍沢は指を止めた。
彼女は後悔していなかった。
あのカードを見せなければ、真昼たちは御影遥真の名前を観測局記録内で確認できなかった。
御影レイは、父の名がR-■■の周辺から完全には消えていないと知ることもできなかった。
だが、見せたことでR系列は動いた。
記録は、中立ではない。
見れば変わる。
呼べば揺れる。
残せば、固定される。
それでも、残さなければ消える。
藍沢は、静かに息を吐いた。
その時、背後の扉が開いた。
入ってきたのは、久我瀬玲央だった。
濃紺の防護コート。
胸元の職員証。
観測応用部門主任。
彼が記録保全部へ直接来ることは少ない。
来る時は、必ず何かを取りに来る時だった。
「藍沢主任」
久我瀬は、丁寧に呼んだ。
「R系列関連記録の一部が外部閲覧されたようだね」
藍沢は振り返った。
「市警照会に基づく限定閲覧です」
「限定閲覧の範囲を超えている」
「超えていません」
「R-Root Preliminary Archiveの記録カードが動いた」
藍沢は沈黙した。
久我瀬は続ける。
「未整理カード群に紛れていた旧予備索引だ。正式データベースに存在しない。君が見せたのか」
「記録保全部の判断です」
「君個人の判断だろう」
「記録保全部の責任で処理します」
久我瀬は、ほんの少しだけ笑った。
「処理、か。いい言葉だ。記録保全部らしい」
「何のご用件でしょうか」
「R-Root Viewerの起動反応が出た。旧資料館地下の共同研究区画を封鎖する」
藍沢の顔が、わずかに硬くなる。
「市警が現場にいます」
「知っている」
「御影レイさんもいます」
「だから急ぐ」
藍沢は、端末の横に置いた手袋をゆっくり握った。
「御影レイさんをA-00として扱うつもりですか」
「扱うつもり、ではない。分類上、彼はA-00だ」
「現在の面会・照会記録では、御影レイさんです」
「記録保全部の配慮だろう。運用上の分類とは別だ」
「分類名の使用は、対象の自己境界に影響します」
「それを制御するために観測応用部門がある」
「制御できなかったから、Null-03事故が起きました」
閲覧室の空気が、ひやりと冷えた。
久我瀬の表情から、わずかな笑みが消える。
「黒江先生の受け売りかな」
「記録です」
「記録は保存しておけばいい。意味づけは運用部門が行う」
藍沢は、まっすぐ久我瀬を見た。
「記録の意味を理解しない運用は、事故を繰り返します」
久我瀬は、数秒間黙った。
その沈黙は、怒りではなかった。
評価だった。
藍沢がどこまで逆らうかを測っている。
「君は変わったな」
久我瀬が言った。
「以前の君は、もう少し形式に忠実だった」
「形式に忠実です」
「なら、強制保護命令の準備を妨げないでくれ」
「命令書の対象者名は」
「A-00」
「不備です」
藍沢は即答した。
「法的・行政的拘束対象として、識別番号のみでは本人特定が不十分です。御影レイさんの氏名を併記してください」
「氏名を使えば、A-00分類への抵抗が強まる」
「分類への抵抗ではありません。本人確認です」
「本人確認なら、番号で足りる」
「足りません」
藍沢の声が、少しだけ強くなった。
「番号は、名前が戻るまでの杭です。本人を奪うための鎖ではありません」
久我瀬の目が細くなる。
「白瀬真昼の影響か」
「事実です」
「彼女の記録反応を軽視するな。あの少女は、自分が何をしているか理解しきっていない。名前を残すことが救いだと思っている」
「彼女は、呼ばないことで守ることも覚えています」
藍沢はそう言った。
自分で言ってから、少しだけ驚いた。
白瀬真昼を擁護する言葉が、自然に出た。
久我瀬はそれに気づいたようだった。
「記録保全部は保存するだけでいい。運用判断に口を出すな」
「保存対象を破壊する運用には、記録保全部として異議を申し立てます」
「異議は受け取る」
「受け取るだけですか」
「運用は止めない」
久我瀬は、踵を返した。
「旧研究室を封鎖する。R-Root Viewerは回収。A-00は安全確保対象。市警へは正式照会を送る」
藍沢は低く言った。
「御影レイさんです」
久我瀬は扉の前で止まった。
振り返らない。
「それをいつまで保てるかな」
扉が閉まった。
藍沢は、しばらく動かなかった。
それから端末へ向き直り、記録保全部内部メモを開く。
手袋をはめた指が、キーを打つ。
**R系列記録緊急保全メモ。
観測応用部門によるR-Root Viewer回収準備を確認。
A-00表記による対象者拘束命令の可能性。
対象者名:御影レイ。
名称併記を必須条件として異議申立予定。**
藍沢は最後に、一行を加えた。
**番号は杭であり、対象者本人の代替名ではない。**
打ち終えた時、端末の端に別の警告が出た。
**R-Root Viewer反応上昇。
外部起動準備。**
藍沢は、すぐに通信端末を取った。
接続先は、市警特異殺人対策室。
*
旧資料館地下の研究室では、壁の奥の装置がかすかに唸っていた。
まだ完全には開いていない。
R-Root Viewer。
Preliminary Access Unit。
古い金属パネルの奥で、青白い光が一度、また一度と点滅する。
霧生は、壁の前に立ち、全員を下がらせていた。
「触るなと言ったからな」
「三回目です」
真昼が言う。
「三回言う必要がある相手だろ」
「否定できないのが悔しい」
レイは、父の手紙を胸元に持ったまま壁を見ていた。
佳乃はその隣に立っている。
透子は端末で装置の反応を測っていた。
「古い閲覧装置です。観測局本体の現行規格ではありません。ただし、R系列記録へ接続する補助端末である可能性が高い」
「開けられるのか」
霧生が聞く。
「開けるだけなら、おそらく。ですが、何が見えるか分かりません」
「一番嫌な答えだな」
「開けるべきかどうかは、別問題です」
レイが言う。
「僕は見ます」
佳乃が、すぐに反応した。
「レイ」
「父さんがここに残したなら、僕が見ないと意味がない」
「でも」
「母さんは止めたい?」
佳乃は、すぐに答えられなかった。
止めたい。
当然だ。
息子を、危険な記録に近づけたくない。
けれど、ここまで来て、また隠すことはできない。
佳乃は、苦しそうに言った。
「止めたいわ」
レイは母を見る。
「うん」
「でも、止めたら、また私は隠す側になる」
「……うん」
「だから、止めない。止めないけど、そばにいる」
レイの表情が少しだけ揺れた。
「うん」
真昼は、二人を見て、胸が苦しくなった。
家族は、いつも正しい言葉でできているわけではない。
間違った沈黙。
遅すぎた手紙。
隠された資料。
それでも、今ここで、佳乃はそばにいることを選んでいる。
霧生の携帯端末が鳴った。
彼は画面を見て、眉をひそめる。
「特殺室からだ」
通話を取る。
「霧生」
スピーカーに切り替えたわけではないが、綾瀬直央の声は少し漏れた。
『主任、観測局から正式照会が来ました』
「早いな」
『旧資料館地下共同研究区画にある境界観測装置の即時封鎖と、R系列関連物品の回収協力要請です』
「要請?」
『文面上は要請です。ただし、観測局管理物である可能性を理由に、現場保存権限を主張しています』
「勝手に主張してろ」
『それと、もう一点』
「言え」
『御影レイさんについて、A-00関連評価再開の通知が来ています。必要に応じて保護措置を検討する、と』
霧生の目が変わった。
「保護措置?」
『はい』
「文面をこっちへ送れ」
『今送ります』
端末に文書が届く。
霧生は読み、すぐに低く唸った。
「ふざけてるな」
真昼が不安そうに聞く。
「何ですか」
霧生は一瞬迷った。
だが、隠すほうが危険だと判断したのだろう。
「観測局の観測応用部門が、御影をA-00として評価再開する。必要に応じて強制保護を検討、だと」
レイの表情が消えた。
佳乃が息を呑む。
真昼の中で怒りが跳ね上がる。
「強制保護って」
「言い方だけは穏やかだが、要するに連れて行く準備だ」
霧生は端末を握りしめた。
「未成年を便利な制御装置みたいに呼ぶな」
その声は低かった。
怒鳴っていない。
だが、真昼は背筋が震えた。
本当に怒っている時の霧生の声だった。
透子の顔も硬い。
「観測応用部門が動いたんですね」
「知ってる部署か」
「知っています。私は直接所属していませんでしたが、実験観測部と連携していた時期があります」
「ろくでもなさそうだな」
「都市規模の境界災害抑止を名目に、症例の応用利用を進める部署です」
真昼が言う。
「応用利用って、人間に使う言葉じゃないですよ」
透子は、苦しそうに頷いた。
「はい」
「レイを、アガルタ核制御に使おうとしてる?」
真昼の声に、霧生が反応する。
「白瀬。どこでその言葉を」
「壁の図です。ここに、アガルタ核って」
霧生は壁の断面図を見る。
赤く囲まれた最深部。
AGARTHA CORE?
彼の顔がさらに険しくなる。
「黒江」
「はい」
「これ、どのくらいまずい」
「かなり」
「分かりやすい」
透子は端末を見る。
「A-00、R-■■、アガルタ核。この三つをつなげて考えているなら、観測応用部門は御影さんを都市規模の記憶安定装置として扱うつもりです」
「人間をか」
「はい」
「未成年をか」
「はい」
「家族の目の前でか」
透子は、悔しそうに唇を引き結んだ。
「必要なら、そうします」
佳乃が、レイの腕を掴んだ。
強く。
それは、母親の反射だった。
レイはその手を見る。
「母さん」
「行かせない」
佳乃の声は震えていた。
でも、はっきりしていた。
「もう、何も知らないまま連れて行かせたりしない」
レイは、母の手の上に自分の手を重ねた。
「うん」
真昼は、その光景を見て、自分のノートを強く握った。
A-00。
観測応用部門。
強制保護。
制御装置。
全部、書く。
ただし、公開するためではない。
この言葉を、彼らの言葉のままにしておかないために。
霧生は、通話を再開した。
「綾瀬。特殺室長に繋げ。あと、観測局からの要請文書を全部保全しろ。送信時刻、担当部署、署名者、添付ファイル、全部だ」
『はい』
「御堂は?」
『隣にいます』
「旧資料館周辺の監視カメラを見ろ。観測局の車両が動いているか確認」
『分かりました』
「あと、こっちへ応援を寄越せ。制服じゃなく、特殺室の人間だ。相手が観測局なら通常課に説明してる時間がない」
『了解しました』
通話を切る前に、綾瀬が少しだけ躊躇して言った。
『主任』
「何だ」
『御影くんは、大丈夫ですか』
霧生はレイを見た。
レイは青ざめている。
だが、立っている。
佳乃の手を握っている。
真昼が近くにいる。
透子が装置の前に立っている。
「今は、返事がある」
霧生は言った。
『分かりました』
通話が切れた。
霧生は、全員を見た。
「状況が変わった。観測局の回収部隊が来る可能性がある。こっちは市警として現場保存を主張する。黒江、装置は」
「まだ完全起動していません。ですが、封鎖される前に最低限の記録確認をする必要があります」
「危険は」
「あります」
「御影への影響は」
「あります」
「最悪だな」
「はい」
真昼が言った。
「でも、向こうに先に回収されたら、遥真さんの記録も、R-■■の入口も、全部観測局側に戻ります」
「分かってる」
霧生は眉間を押さえた。
「だから嫌なんだ。開けても危険。開けなくても危険。どっちに転んでも報告書が地獄だ」
「霧生さん、そこですか」
「そこもだ」
レイが、静かに口を開いた。
「開けます」
佳乃が彼を見る。
「レイ」
「僕を連れて行こうとしてる人たちは、父さんの記録も、僕の名前も、A-00のために使う。だったら、僕が先に知りたい」
「でも」
「母さん。隠されるのは、もう嫌だ」
佳乃は、息を呑んだ。
それは、彼女にとっていちばん痛い言葉だった。
レイも、それを分かっている。
だから、続けた。
「でも、一人では見ない」
佳乃の手を握る力が少し強くなる。
「母さんも、白瀬も、黒江さんも、霧生さんもいる。だから見る」
真昼は、喉の奥が熱くなった。
「記録します」
レイが彼女を見る。
「公開しないで」
「しない。でも、消さない」
「うん」
透子は、装置へ向き直った。
「起動準備をします。ただし、異常が出たら即時中断します。御影さん、名前確認を続けます」
「はい」
「佳乃さん。可能なら、レイさんを呼び続けてください。短く、いつもの声で」
「分かりました」
「白瀬さん。あなたは記録。ただし、呼び戻しが必要な場合は最優先で御影さんを呼んでください」
「はい」
「主任」
「何だ」
「外の対応を」
「俺の得意分野だ」
霧生は、研究室の扉へ向かった。
だが、部屋を出る前に振り返る。
「御影」
「はい」
「お前は、便利な制御装置じゃない」
レイは、少しだけ目を見開いた。
霧生は続ける。
「未成年だ。家族がいる。名前がある。嫌なら嫌と言え。無理なら無理と言え。返事しろと言われたら返事しろ。以上」
レイは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「雑ですね」
「分かりやすいだろ」
「はい」
「ならいい」
霧生は部屋を出た。
その背中が扉の向こうへ消える。
廊下には、すでに遠くから何かが近づく気配があった。
足音ではない。
車両の振動。
無線のノイズ。
組織が動く音。
*
同じ頃。
境界観測局アガルタ支局の地下搬入口で、濃紺の防護コートを着た職員たちが準備を進めていた。
小型記録封鎖ケース。
境界反応遮断シート。
携帯型認知安定タグ。
簡易拘束ベルト。
収容車両。
担当者の一人が、端末の出動指示を読み上げる。
**対象区画:アガルタ市立中央図書館旧資料館地下共同研究区画 B-3。
目的:R-Root Viewer Preliminary Access Unitの封鎖・回収。
副次目的:A-00関連評価対象の安全確保。
現場に市警関係者あり。衝突回避を原則とする。
ただし、記録災害拡大の恐れがある場合、観測局判断を優先。**
最後の一文が、白々しく端末に光っている。
観測局判断を優先。
久我瀬玲央は、搬入口の奥からそれを見ていた。
「出せ」
短く命じる。
車両のエンジンがかかる。
雨は降っていない。
それなのに、地下搬入口の床に、一滴だけ水が落ちた。
ぽたり。
久我瀬は、それを見下ろした。
水滴は、床の上で黒く広がらなかった。
ただ、光を少しだけ吸った。
「R-■■が動く時は、いつも水音がする」
彼は、誰に言うでもなく呟いた。
「御影遥真。あなたの感傷が、ようやく役に立つかもしれない」
車両が出ていく。
境界観測局の封鎖部隊は、旧資料館へ向かって走り出した。
*
研究室の奥で、R-Root Viewerが青白く光った。
金属パネルの奥から、低い機械音がする。
十年眠っていた装置が、目を覚ます音。
レイは、手紙を胸元に押さえた。
佳乃が隣で呼ぶ。
「レイ」
真昼も呼ぶ。
「御影レイ」
レイは、ゆっくり答えた。
「白瀬真昼」
そして、自分でも言った。
「僕は、御影レイ」
装置の光が強くなる。
壁の奥で、細い線がいくつも浮かび上がった。
R系列記録。
父の名前。
A-00。
アガルタ核。
利用しようとする者たち。
守ろうとして隠した者。
知らされずに育った息子。
呼び続けた母。
記録する少女。
今、すべての線が、旧研究室の一点へ集まり始めていた。
遠くで、車両のブレーキ音がした。
霧生の声が廊下から飛ぶ。
「来たぞ!」
透子が装置へ手を伸ばす。
「起動します」
真昼はノートを開いた。
レイは、母の手を握った。
青白い光が、部屋を満たす。
水音がした。
ぽたり。
今度は、どこから聞こえたのか分からなかった。




