第六章 父の研究室
アガルタ市立中央図書館の旧資料館は、本館の裏手にあった。
新しい本館がガラスと白い壁でできているのに対し、旧資料館は赤茶けた煉瓦造りだった。角はところどころ欠け、窓枠の金属には細い錆が浮いている。壁を這う蔦は冬枯れのまま絡まり、葉の落ちた茎だけが黒い線になって煉瓦に張りついていた。
かつては郷土資料の展示室として使われていたらしい。
今は閉鎖されている。
入口のガラス扉には、白い紙が内側から貼られていた。
**旧資料館閉鎖中
関係者以外立入禁止**
その下に、図書館の公印。
さらに、別の小さなシール。
**地下共同研究区画・管理移管済**
真昼は、そのシールを見つめた。
管理移管済。
どこへ移管されたのかは書かれていない。
だが、もう分かっている。
境界観測局。
あるいは、その周辺にいた誰か。
霧生仁は、入り口前で図書館職員と短く話していた。
いつものくたびれたスーツではあるが、今日は胸元に市警の腕章を付けている。資料館前には、黄色い規制テープこそ張られていないが、霧生がいるだけでそこが現場になる。
職員は、何度も頭を下げた。
「鍵は旧資料館入口のみです。地下区画については、図書館側では管理しておりません。古い共同研究室が残っていることは把握していますが、詳細な台帳は移管時に……」
「その台帳が消えたって話はもう聞いた」
霧生が言う。
「責めてるわけじゃない。案内はここまででいい」
「はい。ただ、地下は換気設備が止まっている可能性があります。照明も一部不安定で」
「了解。こちらで確認する」
職員が去ると、霧生は真昼たちを見た。
「確認する。白瀬、御影、黒江、御影佳乃さん、俺。中に入るのはこの五人だけだ。勝手に触るな。勝手に持ち出すな。勝手に走るな。勝手に泣くなとは言わんが、泣いても動くな」
真昼は小さく手を上げる。
「霧生さん、最後だけ妙に具体的です」
「地下の密室で感情が爆発するとろくなことがない」
「経験則ですか」
「最近な」
透子が資料ケースを持ち直した。
「記録反応の可能性があります。御影さん、佳乃さん、体調に変化があればすぐに言ってください」
「はい」
佳乃は頷いた。
その顔は静かだった。
だが、真昼には分かる。
緊張している。
当然だ。
夫が通っていた研究室。
夫が鍵を残した場所。
失踪する前、ほとんど毎日のように通っていた場所。
そこへ、十年近く経って初めて入る。
レイは、佳乃の隣に立っていた。
いつものように表情は薄い。
けれど、左手は制服の袖ではなく、自分の鞄の持ち手を握っている。指先が少し白い。
真昼は呼んだ。
「御影レイ」
レイは返す。
「白瀬真昼」
佳乃も、そっと言った。
「レイ」
レイは母を見る。
「うん」
その返事は短い。
だが、真昼はその「うん」が、いちばん深くレイを地上へ戻しているように感じた。
霧生が入口の鍵を開ける。
古い錠が、硬い音を立てた。
扉が開く。
閉じていた建物の匂いが流れてきた。
紙。
埃。
古い木材。
少しだけカビ。
そして、地下から上がってくる湿った空気。
真昼は、胸の奥でかすかな水音を聞いた気がした。
ぽたり。
まだ、聞こえたとは言わない。
そう思って、足を踏み入れた。
*
旧資料館の一階は、時間が止まっていた。
展示ケースは空だった。
壁の展示パネルには、古いアガルタの地図が色褪せて残っている。かつての地下水路、旧市街、旧地下鉄計画線、廃止された駅、消えた町名。郷土資料館らしく、地元の歴史を説明しているはずなのに、今見ると、それは別の意味を持って迫ってくる。
アガルタは、最初から地下と一緒にあった。
地上の街路よりも古い水路。
地図に残らない通路。
名前の変わった駅。
地名だけ残り、場所が消えた区画。
真昼は、壁の地図を見ながら歩いた。
レイが横で言う。
「見すぎ」
「分かってます」
「分かってない顔」
「顔で判断しないで」
「顔が先に記録してる」
「今日はその表現、ちょっと刺さります」
霧生が前から言う。
「白瀬、地図を剥がすなよ」
「剥がしません!」
「目で剥がしそうだった」
「霧生さんまで」
佳乃が少しだけ笑った。
緊張の中で、その小さな笑いがあったことに、真昼は安心した。
地下への階段は、展示室の奥にあった。
普段は職員用の扉で隠されているらしい。図書館職員が事前に開けておいてくれた扉の奥に、コンクリートの階段が下へ伸びている。
階段の壁には、古い案内板があった。
**地下収蔵庫
共同研究区画**
その下に、後から貼られた黒いテープ。
**封鎖中**
霧生が懐中ライトをつけた。
透子も携帯端末の照明を起動する。
階段は狭く、手すりは冷たい。下へ降りるほど、空気は湿っていく。
足音が響いた。
一段。
また一段。
地上の図書館の気配が遠ざかる。
真昼は、何度も地下へ降りてきた。
旧地下鉄。
封鎖連絡層。
記録沈殿層。
零番線。
それでも、今回の地下は違った。
ここは「父の研究室」へ続く階段だ。
レイにとっては、同魂者の記録ではない。
遠い誰かの名前でもない。
家の中で使われなかった椅子とつながる地下。
佳乃が閉じてきた箱とつながる地下。
御影遥真という名前の人が、何を見ていたのかを残した場所。
真昼は、自分がただの記録者としてだけでは歩けないことを感じていた。
「白瀬真昼」
今度は、レイが呼んだ。
真昼はすぐに返す。
「御影レイ」
「大丈夫?」
「私?」
「うん」
「大丈夫。ちょっと、ここが誰の場所なのか考えてた」
「父の場所」
「うん」
「でも、たぶん僕の場所でもある」
その言葉は、重かった。
真昼は否定しなかった。
「一緒に入ります」
「うん」
階段の下には、短い廊下があった。
壁は灰色のコンクリート。
天井の蛍光灯は半分ほど切れている。
廊下の両側には、古い収蔵庫の扉が並んでいた。資料整理室、未分類資料室、映像記録保管庫。どれも鍵がかかっている。
一番奥に、金属扉があった。
他の扉より古い。
表面には、何度も貼られたラベルの跡が残っている。
かすれて読める文字。
**共同研究室 B-3**
その下に、手書きの古い札。
**H.M.**
佳乃が、息を呑んだ。
霧生が彼女を見る。
「大丈夫ですか」
「はい」
佳乃は、鞄から小さな鍵を取り出した。
真鍮の鍵。
黒いタグ。
**H.M. / R-Root Archive**
その文字を見た瞬間、廊下の蛍光灯が一度だけちらついた。
レイの肩が少し揺れる。
真昼が呼ぶ。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
佳乃も、静かに言う。
「レイ」
「いる」
佳乃は頷き、鍵を差し込んだ。
錠は、少し抵抗した。
十年近く開けられていなかったのだろう。金属の奥で、錆びた音がする。
佳乃は両手で鍵を支える。
レイが横から手を添えた。
親子の指が、一瞬だけ重なる。
佳乃が息を止める。
鍵が回った。
重い音が、廊下に響く。
扉が、ゆっくり開いた。
*
御影遥真の研究室は、ひどく人間的な場所だった。
真昼は、最初にそう思った。
もっと白い部屋を想像していた。
観測局の施設のような、無機質な空間。
あるいは、旧地下鉄の深層に似た、湿った不気味な部屋。
だが、そこにあったのは、埃をかぶった机と、本棚と、地図と、紙の山だった。
人が長く使っていた部屋。
忙しさに任せて片づけきれなかった部屋。
考えながら歩き、考えながら紙を置き、考えながらコーヒーを飲み、考えながら帰らなかった人の部屋。
机の上には、乾いたペンが転がっている。
カップの底には、黒く固まったコーヒーの跡。
壁には、アガルタ市の古い地図。
旧地下鉄路線図。
手書きの矢印。
赤いピン。
青い糸。
地図の一部には、現在の路線には存在しない駅名が書かれている。
無名駅。
零番線。
その下に、小さく。
**R?**
真昼の背中が冷えた。
部屋の奥の壁には、アガルタ地下層の手書き断面図が貼られていた。
地上。
生活地下層。
旧地下鉄層。
封鎖連絡層。
記録沈殿層。
零番線。
さらにその下に、赤い線で囲まれた領域。
**AGARTHA CORE?**
日本語のメモ。
**アガルタ核/仮称**
透子がその文字を見て、顔を硬くした。
「アガルタ核」
真昼が小さく言う。
「それ、まだちゃんと分かってない言葉ですよね」
「はい」
透子は慎重に答えた。
「観測局内でも、正式に扱える職員は限られているはずです」
「遥真さんは、知ってた?」
「少なくとも、仮説としてここに書いています」
霧生は部屋全体を照らしながら、低く言った。
「郷土史研究の部屋にしちゃ、ずいぶん深いところまで潜ってるな」
「ええ」
佳乃は入口付近に立ったまま、動けずにいた。
彼女の視線は、机に向いている。
そこに、遥真の椅子がある。
背もたれの革が少し擦り切れた古い椅子。
誰かがさっきまで座っていたように、机へわずかに斜めを向いている。
佳乃は、ゆっくり息を吐いた。
「本当に、ここにいたのね」
その声には、怒りも、懐かしさも、恐怖もあった。
十年前、帰らなかった夫。
その夫が、ここで何をしていたのか。
佳乃は、今ようやく見ている。
レイは机の前へ歩いた。
真昼は少し後ろについていく。
机の上には、未整理の紙が積まれている。
英字と日本語が混じったメモ。
古い図書館資料の複写。
新聞切り抜き。
観測局の書式に似た記録票。
どの紙も、埃をかぶっている。
だが、文字はまだ読める。
**R系列記録**
**A-00**
**O-00**
**K-117**
**C-04**
真昼は、その並びを見て、胸を押さえた。
名前ではない。
番号。
でも、それぞれの奥に人がいる。
A-00。
レイ。
O-00。
オメガ。
K-117。
真木彼方。
C-04。
古河千景。
遥真は、それらをつなげていた。
しかも、かなり前から。
「父さんは」
レイが呟く。
「全部知ってたのかな」
「全部ではないと思います」
透子が言った。
「でも、追っていた。少なくとも、観測局内部の分類と、旧地下鉄の現象を結びつけていた」
霧生が資料に顔を近づける。
「黒江、これは持ち出せるか」
「状態確認が必要です。下手に持ち出すと欠落が進むかもしれません。まずは現場記録と目視メモを」
「面倒だな」
「記録室ですから」
「この部屋は、記録室というより頭の中だ」
霧生の言葉に、真昼は納得した。
御影遥真の頭の中。
いや、彼の不安と焦りが、そのまま壁と机に広がっている。
赤い糸は、事件を結んでいるのではない。
息子を守る方法を探す父の思考の軌跡だったのかもしれない。
机の中央には、まだ途中の原稿があった。
表紙には、仮タイトル。
**幻都アガルタにおける根源記録と家族呼称の安定効果**
レイが、その紙を見た。
真昼も見る。
透子が慎重にページをめくる。
本文は未完成だった。
注釈も途中。
図表もいくつか手書きのまま。
だが、要旨の部分は読めた。
**多元人格症例、特にA系列およびR系列接続を持つ被験者において、自己名の安定は単独の認知訓練では維持されない。**
**自己名は、本人の記憶のみではなく、周囲からの反復呼称によって補強される。**
**特に家族呼称は、日常内における強い帰還点として作用する可能性がある。**
真昼は、無意識に佳乃を見た。
佳乃は、まだ入口付近にいた。
だが、その声は毎朝、レイを呼んでいた。
レイ、朝よ。
レイ。
ご飯よ。
傘を持っていきなさい。
帰ったら返事をして。
その一つ一つが、単なる日常ではなかったのかもしれない。
いや、違う。
単なる日常だったからこそ、命綱になっていた。
透子が読み上げる。
「家族が名前を呼ぶことは、アルファ症例の自己境界安定に影響する……」
レイは黙っていた。
顔色は悪い。
だが、目は原稿から離れない。
次のページには、手書きの図があった。
中央に「自己名」。
その周囲に、いくつもの円。
母親呼称。
父親呼称。
学校内呼称。
友人呼称。
公的記録。
観測局分類。
番号。
矢印が引かれている。
母親呼称と父親呼称から、自己名へ太い線。
観測局分類からは、逆方向へ危険を示す赤い線。
その横に遥真の手書き。
**A-00呼称は本人を分類へ寄せる。
御影レイ呼称を優先。
家庭内反復呼称、効果あり。
佳乃の声、反応強。**
佳乃の手が震えた。
「私の声」
レイも、その文字を見ていた。
佳乃の声、反応強。
それは、母としての呼び声を、研究メモにされた言葉だった。
真昼は、その残酷さに胸が痛んだ。
でも同時に、そこには確かに観察ではなく感謝のようなものも滲んでいた。
遥真は、佳乃が知らずにレイを守っていることを、記録していた。
知らせなかった。
それがどれほどひどいことかは別として。
佳乃は、何も知らずにやっていた。
理論も、症例も、A-00も知らずに。
ただ母として、毎朝レイを呼んでいた。
「私は」
佳乃の声がかすれる。
「知らなかった」
レイは原稿を見つめたまま言う。
「母さんは、利用されてた?」
佳乃は答えられなかった。
透子も、真昼も、すぐには口を挟めなかった。
それはあまりに痛い問いだった。
母の愛情を、父が研究に組み込んでいたのか。
それとも、母の声が息子を守ることに気づき、それを必死で理解しようとしていたのか。
線引きは、簡単ではない。
レイの声が低くなる。
「やっぱり、観測してたんだ」
佳乃が一歩近づいた。
「レイ」
「僕を。母さんを。家族を」
「違う、と言い切れない」
佳乃は、逃げなかった。
その言葉に、レイが顔を上げる。
佳乃は、泣きそうな顔をしていた。
でも、泣かなかった。
「違う、と言い切れない。あの人は研究者だった。記録した。あなたの反応も、私の声も、家のことも、研究の一部にしていたのかもしれない」
佳乃は、机の上の原稿を見る。
「でも、あの人はあなたを守る方法を探していた」
「守るなら、言えばよかった」
「そうね」
「隠さなければよかった」
「そうね」
「帰ってくればよかった」
佳乃の顔が、そこで初めて大きく歪んだ。
「そうね」
短い返事。
それだけだった。
レイは何かを言いかけて、やめた。
怒りの行き場がない。
父はここにいない。
母は全部を知っていたわけではない。
でも、傷ついた事実は消えない。
真昼は、口を開きかけて閉じた。
今は、言葉を入れる場所ではない。
霧生も黙っていた。
いつもなら何か現場手順へ戻す言葉を言う彼が、今は黙っている。
この部屋では、捜査より先に、家族の傷があった。
透子が静かに資料をめくった。
「続きがあります」
レイは、目を閉じて息を整えた。
「読んでください」
透子は続きのページを見る。
そこには、遥真の手書きの注が残っていた。
**A-00分類を本人に提示することは禁忌。
自己名の外部侵食を招く。
観測局側へ抗議。
学院記録へのA-00登録、拒否。**
レイの目が開く。
「学院記録」
真昼は、保護者記録室で見た記憶混線を思い出した。
父の声。
この子をA-00として登録することは認めない。
別の声。
では、R系列への接続をどう説明するのです。
あれは、ただの残響ではなかった。
ここに繋がっている。
遥真は、少なくとも学院記録にA-00を入れさせないよう抵抗していた。
その事実が、レイの表情を少しだけ変えた。
救われた顔ではない。
むしろ、さらに苦しそうだった。
父が守ろうとしていた痕跡が出るほど、父が隠した罪も重くなる。
「レイ」
佳乃が言う。
レイは答えない。
代わりに、机の引き出しへ視線を移した。
そこだけ、半分ほど開いていた。
他の場所が埃に覆われているのに、その引き出しの取っ手だけ、少しだけ磨かれているように見える。
霧生が気づく。
「触るな。俺が確認する」
霧生は手袋をつけ、引き出しをゆっくり開けた。
中には、封筒が一枚入っていた。
古い白い封筒。
表に、手書きで宛名がある。
**レイへ**
レイの呼吸が止まった。
佳乃も、動けなくなる。
霧生は、封筒を取り出し、まず透子を見る。
「開けるか」
透子はレイを見る。
「御影さんが決めるべきです」
全員の視線が、レイに向いた。
レイは、しばらく封筒を見ていた。
手紙。
父から自分へ。
未送信の手紙。
それがここにある。
机の引き出しの中に、十年近く。
届かなかった言葉。
遅すぎる言葉。
「開けます」
レイは言った。
霧生は封筒を手渡さず、机の上へ置いた。
レイはそれを両手で取る。
紙は乾いていた。
触れると、端が少し崩れそうだった。
真昼は、息をするのも忘れて見ていた。
レイは封を開ける。
中には、便箋が二枚。
折り目は丁寧だった。
一枚目の冒頭に、短い言葉があった。
レイは、そこを読んだ。
目が止まった。
唇が、ほんの少し震える。
真昼は、読んでいいのか迷った。
だが、レイが紙を少しだけ傾けた。
まるで、読んでくれと言うように。
そこには、こう書かれていた。
**レイ。
お前はアルファではない。
私の息子だ。**
その一文を見た瞬間、真昼の胸が締めつけられた。
佳乃が片手で口元を押さえる。
透子は目を伏せる。
霧生は、黙って視線を外した。
レイだけが、便箋を見続けていた。
お前はアルファではない。
私の息子だ。
その言葉は、レイがずっと欲しかったものかもしれない。
でも、今さらだった。
今さらすぎた。
十年近く前に書かれて、届かなかった言葉。
父が帰らず、母が隠し、観測局が番号で呼び、レイ自身が自分の名前を疑うようになってから、ようやく見つかった言葉。
レイは、崩れそうに見えた。
肩が少し落ちる。
指先が震える。
便箋を持つ手から力が抜けそうになる。
真昼は呼ぼうとした。
しかし、その前にレイが言った。
「遅いよ」
声は小さかった。
怒鳴らなかった。
泣かなかった。
ただ、絞り出すような声だった。
「遅いよ、父さん」
佳乃の目から、今度は涙がこぼれた。
レイは泣かなかった。
便箋を見つめたまま、唇を噛んだ。
泣かないことで、かろうじて立っているようだった。
真昼は、そっと呼んだ。
「御影レイ」
レイは、少し遅れて返す。
「白瀬真昼」
佳乃も呼んだ。
「レイ」
レイは目を閉じた。
「いる」
その返事だけで、佳乃は頷いた。
透子が、慎重に言った。
「続きを読むのは、今でなくても構いません」
レイは首を横に振った。
「読みます」
「無理は」
「読みます」
声は硬かった。
真昼は、レイの横に立つ。
彼が落ちないように。
触れはしない。
でも、すぐ支えられる距離で。
レイは便箋の続きを読んだ。
すべてを声には出さなかった。
ただ、目だけが行を追う。
時々、息が止まりそうになる。
手紙には、断片的に書かれていた。
遥真が観測局と関わったこと。
R系列記録を追っていたこと。
レイにA-00分類が近づいていること。
家族の呼び声が、レイをレイとして留めること。
佳乃の声が、最も強い帰還点であること。
そして、もし自分が帰れなかった場合、レイが自分の名前を疑う日が来たら、この研究室の資料を見せてほしいこと。
ただし、佳乃へ宛てた部分は別にあるらしい。
この封筒は、レイ宛てだった。
最後の方に、遥真の手書きが少し乱れていた。
**父として、お前に隠すことを謝る。
研究者として、隠さなければならないと判断した。
どちらも私だ。
どちらも、お前を傷つける。**
レイの喉が動く。
真昼は、その一文を心の中で記録した。
父として。
研究者として。
どちらも私だ。
どちらも、お前を傷つける。
御影遥真は、自分の矛盾を分かっていた。
分かっていて、なお隠した。
だから、許しやすくはならない。
むしろ、余計に苦しい。
「父さんは」
レイが言った。
「分かってたんだ」
佳乃が涙を拭う。
「そうね」
「分かってて、隠したんだ」
「そうね」
「それで、守ったつもりだったんだ」
佳乃は、すぐには答えなかった。
答えようとして、言葉を飲み込む。
その代わり、真昼が小さく言った。
「守ろうとしたことと、傷つけたことは、両方残ると思います」
レイは真昼を見る。
真昼は怖かった。
踏み込みすぎかもしれない。
でも、言ってしまった。
「どっちかだけにしたら、たぶん嘘になる」
レイは、しばらく彼女を見ていた。
そして、視線を手紙へ戻した。
「うん」
それだけだった。
でも、拒絶ではなかった。
霧生が部屋の奥を照らしていた。
そのライトが、壁の本棚の横で止まる。
「黒江」
「はい」
「この壁、奥がある」
全員がそちらを見る。
机の奥、地図が貼られた壁の一部。
アガルタ地下層の断面図の裏。
霧生が壁際に近づき、指で軽く叩く。
音が違った。
他の壁より、少しだけ空洞の響きがある。
「隠し扉か」
透子が端末をかざす。
「微弱な電源反応があります。古い装置が奥にあるかもしれません」
真昼は、壁の地図を見た。
アガルタ核。
R系列記録。
A-00。
O-00。
K-117。
C-04。
その線が、すべて壁の一角へ向かっている。
「父さん」
レイが呟く。
「ここに何を隠したんだ」
霧生が壁の地図を慎重にめくる。
その下に、小さな金属パネルがあった。
鍵穴はない。
古い端末の認証口だけがある。
佳乃の箱から出てきた鍵のタグを、真昼は思い出した。
H.M. / R-Root Archive。
だが、鍵は扉を開けるためだけではないのかもしれない。
レイが手紙を畳み、胸元へ押さえた。
佳乃は、まだ涙の跡が残る顔で壁を見る。
透子は端末を確認する。
霧生は、全員を一歩下がらせた。
「今日はここまで、と言いたいところだが」
真昼が言う。
「言えない顔ですね」
「白瀬、顔で読むな」
「霧生さんもよくやります」
「俺はいい」
「便利」
「便利だから」
レイが、小さく息を吐いた。
こんな状況で、そのやり取りに少しだけ救われたような顔をした。
透子が言う。
「起動する前に、準備が必要です。R系列記録に直接接続する装置であれば、御影さんへの影響が大きい」
「装置?」
真昼が壁を見る。
金属パネルの奥で、古い機械音がした。
誰も触れていない。
それなのに、長く眠っていた何かが、目を覚まし始めている。
パネルの下に、小さな文字が浮かぶ。
埃の下から、ゆっくりと。
**R-Root Viewer
Preliminary Access Unit**
真昼は息を止めた。
R系列記録の簡易閲覧装置。
遥真が隠していたもの。
レイの父が残した、次の扉。
水音がした。
ぽたり。
今度は、全員が聞いた。
霧生が懐中ライトを握り直す。
「撤退準備をしたうえで開ける。勝手に触るな。白瀬、特にお前だ」
「分かってます」
「御影」
「はい」
「今、名前は」
レイは手紙を握ったまま、答えた。
「御影レイ」
佳乃が続けるように言った。
「レイ」
真昼も呼んだ。
「御影レイ」
レイは、少しだけ目を閉じる。
父の手紙。
母の声。
真昼の呼び声。
それらが、彼をここに留めている。
彼は目を開けた。
「行きます」
壁の奥で、古い装置の光が、青白く一度だけ瞬いた。
まるで、十年越しに誰かの返事を待っていたように。




