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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第四巻:御影遥真とR-■■
44/82

第六章 父の研究室

 アガルタ市立中央図書館の旧資料館は、本館の裏手にあった。


 新しい本館がガラスと白い壁でできているのに対し、旧資料館は赤茶けた煉瓦造りだった。角はところどころ欠け、窓枠の金属には細い錆が浮いている。壁を這う蔦は冬枯れのまま絡まり、葉の落ちた茎だけが黒い線になって煉瓦に張りついていた。


 かつては郷土資料の展示室として使われていたらしい。


 今は閉鎖されている。


 入口のガラス扉には、白い紙が内側から貼られていた。


 **旧資料館閉鎖中

 関係者以外立入禁止**


 その下に、図書館の公印。


 さらに、別の小さなシール。


 **地下共同研究区画・管理移管済**


 真昼は、そのシールを見つめた。


 管理移管済。


 どこへ移管されたのかは書かれていない。


 だが、もう分かっている。


 境界観測局。


 あるいは、その周辺にいた誰か。


 霧生仁は、入り口前で図書館職員と短く話していた。


 いつものくたびれたスーツではあるが、今日は胸元に市警の腕章を付けている。資料館前には、黄色い規制テープこそ張られていないが、霧生がいるだけでそこが現場になる。


 職員は、何度も頭を下げた。


「鍵は旧資料館入口のみです。地下区画については、図書館側では管理しておりません。古い共同研究室が残っていることは把握していますが、詳細な台帳は移管時に……」


「その台帳が消えたって話はもう聞いた」


 霧生が言う。


「責めてるわけじゃない。案内はここまででいい」


「はい。ただ、地下は換気設備が止まっている可能性があります。照明も一部不安定で」


「了解。こちらで確認する」


 職員が去ると、霧生は真昼たちを見た。


「確認する。白瀬、御影、黒江、御影佳乃さん、俺。中に入るのはこの五人だけだ。勝手に触るな。勝手に持ち出すな。勝手に走るな。勝手に泣くなとは言わんが、泣いても動くな」


 真昼は小さく手を上げる。


「霧生さん、最後だけ妙に具体的です」


「地下の密室で感情が爆発するとろくなことがない」


「経験則ですか」


「最近な」


 透子が資料ケースを持ち直した。


「記録反応の可能性があります。御影さん、佳乃さん、体調に変化があればすぐに言ってください」


「はい」


 佳乃は頷いた。


 その顔は静かだった。


 だが、真昼には分かる。


 緊張している。


 当然だ。


 夫が通っていた研究室。


 夫が鍵を残した場所。


 失踪する前、ほとんど毎日のように通っていた場所。


 そこへ、十年近く経って初めて入る。


 レイは、佳乃の隣に立っていた。


 いつものように表情は薄い。


 けれど、左手は制服の袖ではなく、自分の鞄の持ち手を握っている。指先が少し白い。


 真昼は呼んだ。


「御影レイ」


 レイは返す。


「白瀬真昼」


 佳乃も、そっと言った。


「レイ」


 レイは母を見る。


「うん」


 その返事は短い。


 だが、真昼はその「うん」が、いちばん深くレイを地上へ戻しているように感じた。


 霧生が入口の鍵を開ける。


 古い錠が、硬い音を立てた。


 扉が開く。


 閉じていた建物の匂いが流れてきた。


 紙。


 埃。


 古い木材。


 少しだけカビ。


 そして、地下から上がってくる湿った空気。


 真昼は、胸の奥でかすかな水音を聞いた気がした。


 ぽたり。


 まだ、聞こえたとは言わない。


 そう思って、足を踏み入れた。


     *


 旧資料館の一階は、時間が止まっていた。


 展示ケースは空だった。


 壁の展示パネルには、古いアガルタの地図が色褪せて残っている。かつての地下水路、旧市街、旧地下鉄計画線、廃止された駅、消えた町名。郷土資料館らしく、地元の歴史を説明しているはずなのに、今見ると、それは別の意味を持って迫ってくる。


 アガルタは、最初から地下と一緒にあった。


 地上の街路よりも古い水路。


 地図に残らない通路。


 名前の変わった駅。


 地名だけ残り、場所が消えた区画。


 真昼は、壁の地図を見ながら歩いた。


 レイが横で言う。


「見すぎ」


「分かってます」


「分かってない顔」


「顔で判断しないで」


「顔が先に記録してる」


「今日はその表現、ちょっと刺さります」


 霧生が前から言う。


「白瀬、地図を剥がすなよ」


「剥がしません!」


「目で剥がしそうだった」


「霧生さんまで」


 佳乃が少しだけ笑った。


 緊張の中で、その小さな笑いがあったことに、真昼は安心した。


 地下への階段は、展示室の奥にあった。


 普段は職員用の扉で隠されているらしい。図書館職員が事前に開けておいてくれた扉の奥に、コンクリートの階段が下へ伸びている。


 階段の壁には、古い案内板があった。


 **地下収蔵庫

 共同研究区画**


 その下に、後から貼られた黒いテープ。


 **封鎖中**


 霧生が懐中ライトをつけた。


 透子も携帯端末の照明を起動する。


 階段は狭く、手すりは冷たい。下へ降りるほど、空気は湿っていく。


 足音が響いた。


 一段。


 また一段。


 地上の図書館の気配が遠ざかる。


 真昼は、何度も地下へ降りてきた。


 旧地下鉄。


 封鎖連絡層。


 記録沈殿層。


 零番線。


 それでも、今回の地下は違った。


 ここは「父の研究室」へ続く階段だ。


 レイにとっては、同魂者の記録ではない。


 遠い誰かの名前でもない。


 家の中で使われなかった椅子とつながる地下。


 佳乃が閉じてきた箱とつながる地下。


 御影遥真という名前の人が、何を見ていたのかを残した場所。


 真昼は、自分がただの記録者としてだけでは歩けないことを感じていた。


「白瀬真昼」


 今度は、レイが呼んだ。


 真昼はすぐに返す。


「御影レイ」


「大丈夫?」


「私?」


「うん」


「大丈夫。ちょっと、ここが誰の場所なのか考えてた」


「父の場所」


「うん」


「でも、たぶん僕の場所でもある」


 その言葉は、重かった。


 真昼は否定しなかった。


「一緒に入ります」


「うん」


 階段の下には、短い廊下があった。


 壁は灰色のコンクリート。


 天井の蛍光灯は半分ほど切れている。


 廊下の両側には、古い収蔵庫の扉が並んでいた。資料整理室、未分類資料室、映像記録保管庫。どれも鍵がかかっている。


 一番奥に、金属扉があった。


 他の扉より古い。


 表面には、何度も貼られたラベルの跡が残っている。


 かすれて読める文字。


 **共同研究室 B-3**


 その下に、手書きの古い札。


 **H.M.**


 佳乃が、息を呑んだ。


 霧生が彼女を見る。


「大丈夫ですか」


「はい」


 佳乃は、鞄から小さな鍵を取り出した。


 真鍮の鍵。


 黒いタグ。


 **H.M. / R-Root Archive**


 その文字を見た瞬間、廊下の蛍光灯が一度だけちらついた。


 レイの肩が少し揺れる。


 真昼が呼ぶ。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


 佳乃も、静かに言う。


「レイ」


「いる」


 佳乃は頷き、鍵を差し込んだ。


 錠は、少し抵抗した。


 十年近く開けられていなかったのだろう。金属の奥で、錆びた音がする。


 佳乃は両手で鍵を支える。


 レイが横から手を添えた。


 親子の指が、一瞬だけ重なる。


 佳乃が息を止める。


 鍵が回った。


 重い音が、廊下に響く。


 扉が、ゆっくり開いた。


     *


 御影遥真の研究室は、ひどく人間的な場所だった。


 真昼は、最初にそう思った。


 もっと白い部屋を想像していた。


 観測局の施設のような、無機質な空間。


 あるいは、旧地下鉄の深層に似た、湿った不気味な部屋。


 だが、そこにあったのは、埃をかぶった机と、本棚と、地図と、紙の山だった。


 人が長く使っていた部屋。


 忙しさに任せて片づけきれなかった部屋。


 考えながら歩き、考えながら紙を置き、考えながらコーヒーを飲み、考えながら帰らなかった人の部屋。


 机の上には、乾いたペンが転がっている。


 カップの底には、黒く固まったコーヒーの跡。


 壁には、アガルタ市の古い地図。


 旧地下鉄路線図。


 手書きの矢印。


 赤いピン。


 青い糸。


 地図の一部には、現在の路線には存在しない駅名が書かれている。


 無名駅。


 零番線。


 その下に、小さく。


 **R?**


 真昼の背中が冷えた。


 部屋の奥の壁には、アガルタ地下層の手書き断面図が貼られていた。


 地上。


 生活地下層。


 旧地下鉄層。


 封鎖連絡層。


 記録沈殿層。


 零番線。


 さらにその下に、赤い線で囲まれた領域。


 **AGARTHA CORE?**


 日本語のメモ。


 **アガルタ核/仮称**


 透子がその文字を見て、顔を硬くした。


「アガルタ核」


 真昼が小さく言う。


「それ、まだちゃんと分かってない言葉ですよね」


「はい」


 透子は慎重に答えた。


「観測局内でも、正式に扱える職員は限られているはずです」


「遥真さんは、知ってた?」


「少なくとも、仮説としてここに書いています」


 霧生は部屋全体を照らしながら、低く言った。


「郷土史研究の部屋にしちゃ、ずいぶん深いところまで潜ってるな」


「ええ」


 佳乃は入口付近に立ったまま、動けずにいた。


 彼女の視線は、机に向いている。


 そこに、遥真の椅子がある。


 背もたれの革が少し擦り切れた古い椅子。


 誰かがさっきまで座っていたように、机へわずかに斜めを向いている。


 佳乃は、ゆっくり息を吐いた。


「本当に、ここにいたのね」


 その声には、怒りも、懐かしさも、恐怖もあった。


 十年前、帰らなかった夫。


 その夫が、ここで何をしていたのか。


 佳乃は、今ようやく見ている。


 レイは机の前へ歩いた。


 真昼は少し後ろについていく。


 机の上には、未整理の紙が積まれている。


 英字と日本語が混じったメモ。


 古い図書館資料の複写。


 新聞切り抜き。


 観測局の書式に似た記録票。


 どの紙も、埃をかぶっている。


 だが、文字はまだ読める。


 **R系列記録**


 **A-00**


 **O-00**


 **K-117**


 **C-04**


 真昼は、その並びを見て、胸を押さえた。


 名前ではない。


 番号。


 でも、それぞれの奥に人がいる。


 A-00。


 レイ。


 O-00。


 オメガ。


 K-117。


 真木彼方。


 C-04。


 古河千景。


 遥真は、それらをつなげていた。


 しかも、かなり前から。


「父さんは」


 レイが呟く。


「全部知ってたのかな」


「全部ではないと思います」


 透子が言った。


「でも、追っていた。少なくとも、観測局内部の分類と、旧地下鉄の現象を結びつけていた」


 霧生が資料に顔を近づける。


「黒江、これは持ち出せるか」


「状態確認が必要です。下手に持ち出すと欠落が進むかもしれません。まずは現場記録と目視メモを」


「面倒だな」


「記録室ですから」


「この部屋は、記録室というより頭の中だ」


 霧生の言葉に、真昼は納得した。


 御影遥真の頭の中。


 いや、彼の不安と焦りが、そのまま壁と机に広がっている。


 赤い糸は、事件を結んでいるのではない。


 息子を守る方法を探す父の思考の軌跡だったのかもしれない。


 机の中央には、まだ途中の原稿があった。


 表紙には、仮タイトル。


 **幻都アガルタにおける根源記録と家族呼称の安定効果**


 レイが、その紙を見た。


 真昼も見る。


 透子が慎重にページをめくる。


 本文は未完成だった。


 注釈も途中。


 図表もいくつか手書きのまま。


 だが、要旨の部分は読めた。


 **多元人格症例、特にA系列およびR系列接続を持つ被験者において、自己名の安定は単独の認知訓練では維持されない。**


 **自己名は、本人の記憶のみではなく、周囲からの反復呼称によって補強される。**


 **特に家族呼称は、日常内における強い帰還点として作用する可能性がある。**


 真昼は、無意識に佳乃を見た。


 佳乃は、まだ入口付近にいた。


 だが、その声は毎朝、レイを呼んでいた。


 レイ、朝よ。


 レイ。


 ご飯よ。


 傘を持っていきなさい。


 帰ったら返事をして。


 その一つ一つが、単なる日常ではなかったのかもしれない。


 いや、違う。


 単なる日常だったからこそ、命綱になっていた。


 透子が読み上げる。


「家族が名前を呼ぶことは、アルファ症例の自己境界安定に影響する……」


 レイは黙っていた。


 顔色は悪い。


 だが、目は原稿から離れない。


 次のページには、手書きの図があった。


 中央に「自己名」。


 その周囲に、いくつもの円。


 母親呼称。


 父親呼称。


 学校内呼称。


 友人呼称。


 公的記録。


 観測局分類。


 番号。


 矢印が引かれている。


 母親呼称と父親呼称から、自己名へ太い線。


 観測局分類からは、逆方向へ危険を示す赤い線。


 その横に遥真の手書き。


 **A-00呼称は本人を分類へ寄せる。

 御影レイ呼称を優先。

 家庭内反復呼称、効果あり。

 佳乃の声、反応強。**


 佳乃の手が震えた。


「私の声」


 レイも、その文字を見ていた。


 佳乃の声、反応強。


 それは、母としての呼び声を、研究メモにされた言葉だった。


 真昼は、その残酷さに胸が痛んだ。


 でも同時に、そこには確かに観察ではなく感謝のようなものも滲んでいた。


 遥真は、佳乃が知らずにレイを守っていることを、記録していた。


 知らせなかった。


 それがどれほどひどいことかは別として。


 佳乃は、何も知らずにやっていた。


 理論も、症例も、A-00も知らずに。


 ただ母として、毎朝レイを呼んでいた。


「私は」


 佳乃の声がかすれる。


「知らなかった」


 レイは原稿を見つめたまま言う。


「母さんは、利用されてた?」


 佳乃は答えられなかった。


 透子も、真昼も、すぐには口を挟めなかった。


 それはあまりに痛い問いだった。


 母の愛情を、父が研究に組み込んでいたのか。


 それとも、母の声が息子を守ることに気づき、それを必死で理解しようとしていたのか。


 線引きは、簡単ではない。


 レイの声が低くなる。


「やっぱり、観測してたんだ」


 佳乃が一歩近づいた。


「レイ」


「僕を。母さんを。家族を」


「違う、と言い切れない」


 佳乃は、逃げなかった。


 その言葉に、レイが顔を上げる。


 佳乃は、泣きそうな顔をしていた。


 でも、泣かなかった。


「違う、と言い切れない。あの人は研究者だった。記録した。あなたの反応も、私の声も、家のことも、研究の一部にしていたのかもしれない」


 佳乃は、机の上の原稿を見る。


「でも、あの人はあなたを守る方法を探していた」


「守るなら、言えばよかった」


「そうね」


「隠さなければよかった」


「そうね」


「帰ってくればよかった」


 佳乃の顔が、そこで初めて大きく歪んだ。


「そうね」


 短い返事。


 それだけだった。


 レイは何かを言いかけて、やめた。


 怒りの行き場がない。


 父はここにいない。


 母は全部を知っていたわけではない。


 でも、傷ついた事実は消えない。


 真昼は、口を開きかけて閉じた。


 今は、言葉を入れる場所ではない。


 霧生も黙っていた。


 いつもなら何か現場手順へ戻す言葉を言う彼が、今は黙っている。


 この部屋では、捜査より先に、家族の傷があった。


 透子が静かに資料をめくった。


「続きがあります」


 レイは、目を閉じて息を整えた。


「読んでください」


 透子は続きのページを見る。


 そこには、遥真の手書きの注が残っていた。


 **A-00分類を本人に提示することは禁忌。

 自己名の外部侵食を招く。

 観測局側へ抗議。

 学院記録へのA-00登録、拒否。**


 レイの目が開く。


「学院記録」


 真昼は、保護者記録室で見た記憶混線を思い出した。


 父の声。


 この子をA-00として登録することは認めない。


 別の声。


 では、R系列への接続をどう説明するのです。


 あれは、ただの残響ではなかった。


 ここに繋がっている。


 遥真は、少なくとも学院記録にA-00を入れさせないよう抵抗していた。


 その事実が、レイの表情を少しだけ変えた。


 救われた顔ではない。


 むしろ、さらに苦しそうだった。


 父が守ろうとしていた痕跡が出るほど、父が隠した罪も重くなる。


「レイ」


 佳乃が言う。


 レイは答えない。


 代わりに、机の引き出しへ視線を移した。


 そこだけ、半分ほど開いていた。


 他の場所が埃に覆われているのに、その引き出しの取っ手だけ、少しだけ磨かれているように見える。


 霧生が気づく。


「触るな。俺が確認する」


 霧生は手袋をつけ、引き出しをゆっくり開けた。


 中には、封筒が一枚入っていた。


 古い白い封筒。


 表に、手書きで宛名がある。


 **レイへ**


 レイの呼吸が止まった。


 佳乃も、動けなくなる。


 霧生は、封筒を取り出し、まず透子を見る。


「開けるか」


 透子はレイを見る。


「御影さんが決めるべきです」


 全員の視線が、レイに向いた。


 レイは、しばらく封筒を見ていた。


 手紙。


 父から自分へ。


 未送信の手紙。


 それがここにある。


 机の引き出しの中に、十年近く。


 届かなかった言葉。


 遅すぎる言葉。


「開けます」


 レイは言った。


 霧生は封筒を手渡さず、机の上へ置いた。


 レイはそれを両手で取る。


 紙は乾いていた。


 触れると、端が少し崩れそうだった。


 真昼は、息をするのも忘れて見ていた。


 レイは封を開ける。


 中には、便箋が二枚。


 折り目は丁寧だった。


 一枚目の冒頭に、短い言葉があった。


 レイは、そこを読んだ。


 目が止まった。


 唇が、ほんの少し震える。


 真昼は、読んでいいのか迷った。


 だが、レイが紙を少しだけ傾けた。


 まるで、読んでくれと言うように。


 そこには、こう書かれていた。


 **レイ。

 お前はアルファではない。

 私の息子だ。**


 その一文を見た瞬間、真昼の胸が締めつけられた。


 佳乃が片手で口元を押さえる。


 透子は目を伏せる。


 霧生は、黙って視線を外した。


 レイだけが、便箋を見続けていた。


 お前はアルファではない。


 私の息子だ。


 その言葉は、レイがずっと欲しかったものかもしれない。


 でも、今さらだった。


 今さらすぎた。


 十年近く前に書かれて、届かなかった言葉。


 父が帰らず、母が隠し、観測局が番号で呼び、レイ自身が自分の名前を疑うようになってから、ようやく見つかった言葉。


 レイは、崩れそうに見えた。


 肩が少し落ちる。


 指先が震える。


 便箋を持つ手から力が抜けそうになる。


 真昼は呼ぼうとした。


 しかし、その前にレイが言った。


「遅いよ」


 声は小さかった。


 怒鳴らなかった。


 泣かなかった。


 ただ、絞り出すような声だった。


「遅いよ、父さん」


 佳乃の目から、今度は涙がこぼれた。


 レイは泣かなかった。


 便箋を見つめたまま、唇を噛んだ。


 泣かないことで、かろうじて立っているようだった。


 真昼は、そっと呼んだ。


「御影レイ」


 レイは、少し遅れて返す。


「白瀬真昼」


 佳乃も呼んだ。


「レイ」


 レイは目を閉じた。


「いる」


 その返事だけで、佳乃は頷いた。


 透子が、慎重に言った。


「続きを読むのは、今でなくても構いません」


 レイは首を横に振った。


「読みます」


「無理は」


「読みます」


 声は硬かった。


 真昼は、レイの横に立つ。


 彼が落ちないように。


 触れはしない。


 でも、すぐ支えられる距離で。


 レイは便箋の続きを読んだ。


 すべてを声には出さなかった。


 ただ、目だけが行を追う。


 時々、息が止まりそうになる。


 手紙には、断片的に書かれていた。


 遥真が観測局と関わったこと。


 R系列記録を追っていたこと。


 レイにA-00分類が近づいていること。


 家族の呼び声が、レイをレイとして留めること。


 佳乃の声が、最も強い帰還点であること。


 そして、もし自分が帰れなかった場合、レイが自分の名前を疑う日が来たら、この研究室の資料を見せてほしいこと。


 ただし、佳乃へ宛てた部分は別にあるらしい。


 この封筒は、レイ宛てだった。


 最後の方に、遥真の手書きが少し乱れていた。


 **父として、お前に隠すことを謝る。

 研究者として、隠さなければならないと判断した。

 どちらも私だ。

 どちらも、お前を傷つける。**


 レイの喉が動く。


 真昼は、その一文を心の中で記録した。


 父として。


 研究者として。


 どちらも私だ。


 どちらも、お前を傷つける。


 御影遥真は、自分の矛盾を分かっていた。


 分かっていて、なお隠した。


 だから、許しやすくはならない。


 むしろ、余計に苦しい。


「父さんは」


 レイが言った。


「分かってたんだ」


 佳乃が涙を拭う。


「そうね」


「分かってて、隠したんだ」


「そうね」


「それで、守ったつもりだったんだ」


 佳乃は、すぐには答えなかった。


 答えようとして、言葉を飲み込む。


 その代わり、真昼が小さく言った。


「守ろうとしたことと、傷つけたことは、両方残ると思います」


 レイは真昼を見る。


 真昼は怖かった。


 踏み込みすぎかもしれない。


 でも、言ってしまった。


「どっちかだけにしたら、たぶん嘘になる」


 レイは、しばらく彼女を見ていた。


 そして、視線を手紙へ戻した。


「うん」


 それだけだった。


 でも、拒絶ではなかった。


 霧生が部屋の奥を照らしていた。


 そのライトが、壁の本棚の横で止まる。


「黒江」


「はい」


「この壁、奥がある」


 全員がそちらを見る。


 机の奥、地図が貼られた壁の一部。


 アガルタ地下層の断面図の裏。


 霧生が壁際に近づき、指で軽く叩く。


 音が違った。


 他の壁より、少しだけ空洞の響きがある。


「隠し扉か」


 透子が端末をかざす。


「微弱な電源反応があります。古い装置が奥にあるかもしれません」


 真昼は、壁の地図を見た。


 アガルタ核。


 R系列記録。


 A-00。


 O-00。


 K-117。


 C-04。


 その線が、すべて壁の一角へ向かっている。


「父さん」


 レイが呟く。


「ここに何を隠したんだ」


 霧生が壁の地図を慎重にめくる。


 その下に、小さな金属パネルがあった。


 鍵穴はない。


 古い端末の認証口だけがある。


 佳乃の箱から出てきた鍵のタグを、真昼は思い出した。


 H.M. / R-Root Archive。


 だが、鍵は扉を開けるためだけではないのかもしれない。


 レイが手紙を畳み、胸元へ押さえた。


 佳乃は、まだ涙の跡が残る顔で壁を見る。


 透子は端末を確認する。


 霧生は、全員を一歩下がらせた。


「今日はここまで、と言いたいところだが」


 真昼が言う。


「言えない顔ですね」


「白瀬、顔で読むな」


「霧生さんもよくやります」


「俺はいい」


「便利」


「便利だから」


 レイが、小さく息を吐いた。


 こんな状況で、そのやり取りに少しだけ救われたような顔をした。


 透子が言う。


「起動する前に、準備が必要です。R系列記録に直接接続する装置であれば、御影さんへの影響が大きい」


「装置?」


 真昼が壁を見る。


 金属パネルの奥で、古い機械音がした。


 誰も触れていない。


 それなのに、長く眠っていた何かが、目を覚まし始めている。


 パネルの下に、小さな文字が浮かぶ。


 埃の下から、ゆっくりと。


 **R-Root Viewer

 Preliminary Access Unit**


 真昼は息を止めた。


 R系列記録の簡易閲覧装置。


 遥真が隠していたもの。


 レイの父が残した、次の扉。


 水音がした。


 ぽたり。


 今度は、全員が聞いた。


 霧生が懐中ライトを握り直す。


「撤退準備をしたうえで開ける。勝手に触るな。白瀬、特にお前だ」


「分かってます」


「御影」


「はい」


「今、名前は」


 レイは手紙を握ったまま、答えた。


「御影レイ」


 佳乃が続けるように言った。


「レイ」


 真昼も呼んだ。


「御影レイ」


 レイは、少しだけ目を閉じる。


 父の手紙。


 母の声。


 真昼の呼び声。


 それらが、彼をここに留めている。


 彼は目を開けた。


「行きます」


 壁の奥で、古い装置の光が、青白く一度だけ瞬いた。


 まるで、十年越しに誰かの返事を待っていたように。

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