第五章 R系列記録
境界観測局アガルタ支局は、昼間でも夜のような場所だった。
窓がないからではない。
実際、地上階の一部には窓がある。廊下の端にある細長い採光窓からは、アガルタの曇った空も見える。職員食堂の入口には、観葉植物まで置かれている。
けれど、そこに入ると、空気そのものが少しだけ夜へ寄る。
白い壁。
灰色の床。
青白い案内灯。
声を落とすことを暗黙に求めるような廊下。
名札ではなく、職員識別コードで呼ばれる空気。
人の名前が、ここでは少し余分なものに見える。
真昼は、それが苦手だった。
何度来ても、慣れない。
自動ドアを通る時、受付端末が音もなく光る。
入構者登録。
黒江透子。
同行者。
白瀬真昼。
御影レイ。
市警立会。
霧生仁。
霧生は、端末の表示を見て顔をしかめた。
「俺の名前、毎回ここに入るのが気に入らん」
「入構記録ですから」
透子が言う。
「俺は入った。分かる。だが、ここの記録に残るのが気に入らん」
「それは分かります」
「分かるならどうにかしろ」
「無理です」
「即答か」
「規則なので」
「元観測局の人間が言うと説得力が嫌な方向にあるな」
真昼は小さく息を吐いた。
霧生が同行してくれたことに、少し安心していた。
本来なら、学院の保護者記録室で見つけた資料の照会は、市警と学院、そして観測局の間で文書のやり取りを重ねる必要があった。だが、R-■■関連保護者記録の閲覧通知が記録保全部へ飛んだことで、観測局側から即時照会が入った。
照会という言葉は、柔らかい。
実際には、記録保全部からの呼び出しに近かった。
霧生はそれを聞いた瞬間、短く言った。
「高校生二人だけで行かせる選択肢はない」
それだけで、ここにいる。
霧生は怪異を信じる人ではない。
だが、名前が消える現場に慣れてきている。
だからこそ、こういう場所で誰かが「記録上」と言い出した時、机を叩く役が必要だと分かっているのだろう。
レイは、受付ロビーの壁面を見ていた。
そこには、境界観測局の案内表示がある。
観測部。
収容管理部。
記録保全部。
実験観測部は、今は表示されていない。
だが、真昼には、その空白のあたりが見えた気がした。
古い入構証。
黒江透子。
実験観測部補助研究員。
K-117観測室。
白い壁。
先生。
真昼は、無意識にレイを呼んだ。
「御影レイ」
レイはすぐに返す。
「白瀬真昼」
霧生がちらりとこちらを見る。
「早めにやったな」
「はい」
「いい判断だ」
真昼は少しだけ驚いた。
「褒められました?」
「確認しただけだ」
「霧生さんの褒めは分かりづらい」
「分かりやすく褒めるとお前が調子に乗る」
「そんなに乗ります?」
「乗る」
レイが静かに言う。
「乗ると思う」
「御影くんまで」
「味方だから言う」
「最近、それ便利に使ってませんか」
「便利だから」
透子が振り返る。
「緊張を解くのはいいですが、記録保全部では発言に気をつけてください」
真昼は頷いた。
「はい」
境界観測局記録保全部。
それは、藍沢環の領域だった。
番号で保存する人。
名前が消える世界で、番号だけは裏切らないと信じた人。
以前の真昼なら、その考え方に反射的に怒っていた。
今でも、怒りはある。
だが、第三巻を経て、真昼は少しだけ分かってしまった。
名前は、いつも安全ではない。
呼べば壊れる名前もある。
呼ばないことで守るしかない名前もある。
なら、番号で保全するという選択にも、理由があるのだろう。
それでも。
御影遥真。
一瞬だけ見えた父の名前。
写真には残らなかった名前。
それを、R-■■関連保護者記録だけで済ませることはできない。
◇
記録保全部の受付は、図書館のカウンターに似ていた。
ただし、そこに温かさはなかった。
壁面には、温度と湿度が表示されている。資料保管庫へ続く扉には、二重のロック。職員たちは白衣ではなく、灰白色のジャケットを着ている。声は低く、移動は静かで、紙を扱う指先には薄い青灰色の手袋がはめられていた。
藍沢環は、奥の閲覧室で待っていた。
黒髪を低い位置でまとめ、眼鏡越しの視線は相変わらずまっすぐだった。灰白色のスーツに、観測局の職員証。胸元には、記録保全部第一記録保全課の識別表示。
RPD-012-AZ。
真昼は、そのコードを見るたびに少しだけ嫌な気分になる。
藍沢環という名前があるのに、ここではコードが先に表示される。
「黒江先生。霧生主任。白瀬真昼さん。御影レイさん」
藍沢は、全員の名前を順に呼んだ。
真昼は、少し意外に思った。
以前なら、彼女は御影レイをA-00と呼んだかもしれない。
少なくとも、記録上の分類を先に出したはずだ。
レイも、それに気づいたのか、わずかに目を動かした。
霧生が言う。
「今日は番号で呼ばないのか」
藍沢は表情を変えなかった。
「現時点での面会対象は、御影レイさんです。A-00分類記録については、今回の照会範囲外です」
「便利な線引きだな」
「必要な線引きです」
「まあ、番号で呼ばなかったことだけは評価する」
「ありがとうございます」
「礼を言われると居心地が悪い」
藍沢は、机の上に資料端末を置いた。
閲覧室は白く、余分なものがない。
中央に長机。
椅子が六脚。
壁際に大型の記録端末。
窓はない。
空気は乾いている。
それなのに、どこかで水音がする気がした。
真昼は、気のせいだと思うことにした。
藍沢は席に着くよう促した。
全員が座る。
レイは真昼の隣。
透子は藍沢の向かい。
霧生は少し斜めに座り、いつでも立てるような姿勢だった。
「まず確認します」
藍沢は言った。
「本日、アガルタ学院保護者記録室において、R-■■関連保護者記録への外部閲覧が検知されました。閲覧者は、黒江透子先生、白瀬真昼さん、御影レイさん。市警許可番号は照合済みです」
「違法閲覧じゃないな」
霧生が言う。
「手続き上は違法ではありません」
「手続き上は、という言い方をやめろ。不安になる」
「実質的にも、今回の閲覧自体を問題視しているわけではありません」
「じゃあ何が問題だ」
藍沢は、端末を操作した。
画面に、学院の保護者記録室で見つけた索引が表示される。
R-■■関連保護者記録。
その文字は、学院で見た時よりも鮮明だった。
真昼は喉の奥が固くなるのを感じた。
「この記録群は、通常の学校記録ではありません。境界観測局の旧照合タグが、学院側の保護者記録へ残留したものです」
「残留」
真昼が言った。
「誰かが勝手に入れたんじゃないんですか」
藍沢は真昼を見る。
「その可能性もあります。ただし、当時の学院と観測局の記録連携が正式な手続きで行われていた可能性も否定できません」
「生徒や保護者に知らせずに?」
「当時の規定は、現在よりも曖昧でした」
「曖昧で済むんですか」
「済みません」
藍沢は、そこだけ即答した。
真昼は言葉に詰まった。
否定されると思っていたからだ。
藍沢は続ける。
「ですが、済まないことと、今すぐ開示できることは別です」
透子が静かに言った。
「R-■■関連記録の開示を求めます」
「正式には拒否します」
藍沢の声は平坦だった。
だが、その平坦さは冷たさというより、何度も自分に言い聞かせた手順のようだった。
真昼の中で、また怒りが動く。
「どうしてですか」
「R-■■は、単独人物記録ではないからです」
「御影遥真さんの名前が関係しているのに?」
「関係しています。ですが、御影遥真氏そのものではありません」
レイが、わずかに顔を上げた。
「父の記録じゃないんですか」
藍沢は、少しだけ間を置いた。
その沈黙は、答えを選んでいる沈黙だった。
「御影遥真氏の記録は、含まれている可能性が高いです」
「可能性」
レイの声が低くなる。
「父の名前が学院の名簿から消えて、R-■■に置き換わって、記録室で父の名前を見て、写真には写らなくて、それでも可能性ですか」
藍沢は視線を逸らさなかった。
「はい。記録保全部の立場では、可能性としか言えません」
「便利ですね」
レイの声に、いつもは表に出ない棘が混ざった。
真昼は彼を見る。
「御影レイ」
レイは一瞬遅れて返した。
「白瀬真昼」
返事はある。
だが、声が硬い。
藍沢は、そのやり取りも記録するように見ていた。
「R-■■は、一人分の記録ではありません」
藍沢は言った。
その声は、先ほどよりも少しだけ低かった。
「名前で呼べば、その名前に他者の記録が流れ込みます」
真昼は、その言葉を受け止めた。
すぐに反論したい気持ちがあった。
だが、言葉の意味は分かる。
第三巻で見た。
真木彼方をまだ呼べなかった理由。
名前を呼ぶことが、その人を救うのではなく、壊す可能性。
それでも、真昼は黙れなかった。
「でも、御影遥真さんの名前がそこにあるなら、番号だけにはできません」
声は震えていなかった。
「学院の名簿に一瞬だけ残っていました。写真には写らなかった。でも、私たちは見ました。御影くんも、透子さんも、私も。佳乃さんも名前を言えた。御影遥真という人がそこにいるなら、R-■■だけで閉じることはできません」
「番号だけにするためではありません」
藍沢は答えた。
「名前が戻るまで崩さないためです」
真昼は、息を止めた。
以前の藍沢なら、きっとこう言った。
名前は揺らぎます。識別番号は揺らぎません。
番号で保全するべきです。
そう言い切ったはずだ。
だが、今の彼女は少し違った。
番号だけにするためではない。
名前が戻るまで崩さないため。
それは、真昼が思っていたよりもずっと痛みを含んだ言葉だった。
藍沢は端末に、概念図のようなものを表示した。
中心に、R-■■。
そこから細い線がいくつも伸びている。
A-00。
O-00。
K-117。
C-04。
記録欠落。
保護者呼称。
旧地下鉄。
無名駅。
Root Record。
Rei Line。
そして、その一角に、薄く表示される文字。
Mikage Haruma。
文字は見えるが、周囲に多くの線が絡んでいた。
真昼は、ぞっとした。
名前がある。
確かにある。
だが、その名前に向かって、他の記録が流れ込もうとしている。
それは、人を取り戻すというより、人に洪水を流し込むようなものだった。
「R-■■は、レイ系アニマに関わる根の記録です」
藍沢が言う。
「御影遥真氏は、その記録へ接触した外部協力者の一人です。加えて、御影レイさんの保護者であり、A-00分類の安定化に関わる家族呼称の保持者でもあった可能性があります」
「保持者」
レイが呟く。
藍沢は視線を彼へ向ける。
「はい。記録上はそう表現されます」
「父親じゃなくて?」
「記録上は、保護者呼称保持者」
真昼は机の下で拳を握った。
藍沢は続ける。
「不快な表現であることは理解しています」
「理解してるなら」
「ですが、記録は感情をそのまま入れると崩れます」
真昼は反射的に言い返しそうになった。
だが、透子が静かに手を上げた。
「白瀬さん」
「……はい」
「今は聞きましょう」
透子の顔にも、不快感はあった。
それでも彼女は止めた。
藍沢を庇っているのではない。
この説明が必要だと分かっているのだ。
藍沢は、少しだけ透子を見た。
その目に、わずかな感謝のようなものがあった。
すぐに消えたが、真昼は見逃さなかった。
「R-■■を御影遥真という名前で固定した場合、何が起きるんですか」
透子が問う。
「複数の記録が、御影遥真氏へ誤結合する可能性があります」
「具体的には」
「レイ系アニマに関わった別世界、別時間、別家庭の保護者記録、父性記録、観測者記録、加害者記録、保護者ではなかった人物の記録まで、御影遥真という名前へ流れ込む危険があります」
レイの顔が強張る。
真昼も、息が重くなる。
「父が、別の誰かの父になる?」
レイが言った。
「あるいは、別の誰かの罪を負います」
藍沢は答えた。
「逆に、御影遥真氏本人の記録が他者に分散する可能性もあります。名前で呼ぶことが、必ずしも本人を安定させるとは限りません」
真昼は、ノートを開いた。
書きながら、指が少し震えた。
R-■■は一人分の記録ではない。
御影遥真で固定すると、複数記録が誤結合する。
父性記録。
保護者呼称。
観測者記録。
別の父。
別の罪。
名前は、杭になる。
でも、杭が違う場所に打たれれば、別のものまで縫い止めてしまう。
藍沢は、真昼のペンの動きを見ていた。
「白瀬真昼さん」
「はい」
「あなたが怒る理由は分かります。御影遥真氏を番号で処理することは、人間を遠ざける行為に見えるでしょう」
「見えます」
「実際に、遠ざけています」
真昼は顔を上げた。
藍沢は言った。
「近づけすぎれば、壊れるからです」
その言葉に、真昼は反論できなかった。
真木彼方の声が、胸の奥で響く。
まだ、僕を呼ばないで。
呼べない名前。
でも、消えていない名前。
藍沢は、以前より真昼たちの言葉を少しだけ取り込んでいる。
真昼も、以前より藍沢の恐怖を少しだけ理解してしまっている。
だからこそ、対立は単純ではなかった。
「黒江先生」
藍沢は透子へ向き直った。
「R-■■関連記録の正式開示はできません。閲覧範囲を超えると、記録誤結合だけでなく、御影レイさん本人への逆流が起きる可能性があります」
「R-■■に御影遥真の記録が含まれていることは、認めるんですね」
透子が聞いた。
閲覧室の空気が止まった。
霧生も黙った。
真昼も、レイも、藍沢を見る。
藍沢環は、すぐには答えなかった。
無表情に見える顔の奥で、何かを計算しているのが分かった。
規則。
権限。
開示範囲。
保全リスク。
名前。
番号。
人間。
彼女は、そのすべてを秤にかけていた。
沈黙のあと、藍沢は言った。
「含まれている可能性が高い」
レイの手が、膝の上で握られた。
藍沢は続ける。
「ただし、御影遥真だけではありません」
その言葉は、救いではなかった。
だが、嘘でもなかった。
レイは静かに聞いた。
「父は、そこにいるんですか」
藍沢は、今度もすぐには答えなかった。
「記録としては」
「記録上じゃなくて」
レイの声がわずかに揺れる。
「父は、そこにいるんですか」
藍沢の瞳が、ほんの少しだけ変わった。
記録保全官としてではなく、一人の人間として、答えを探しているように見えた。
「分かりません」
彼女は言った。
「ですが、御影遥真氏の名前は、R-■■の周辺から完全には消えていません」
レイは目を伏せた。
それは、ほとんど何も言っていないに等しい答えだった。
でも、完全に消えたとは言われなかった。
それだけで、今は十分なのかもしれない。
霧生が腕を組んだ。
「正式開示は拒否。だが、御影遥真が含まれている可能性は高い。R-■■は一人分じゃない。御影に逆流する危険がある。ここまでは分かった」
「はい」
「で、俺たちは何を持って帰れる」
「正式には、何も」
霧生の眉間に皺が寄る。
「藍沢」
透子の声だった。
そこには、かつて観測局にいた人間同士の圧があった。
「私たちは御影家の保護者記録欠落と、アガルタ市内の父親欄欠落事件を追っています。R-■■が関係しているなら、何も渡せないでは済みません」
「分かっています」
「なら」
「正式には、渡せません」
藍沢は、もう一度言った。
そして、端末の画面を閉じた。
「ここから先は、正式な記録開示ではありません」
霧生が目を細める。
「聞かなかったことにしろって話か」
「聞いたことにはしてください。ただし、出所は私ではありません」
「無茶苦茶だな」
「はい」
「認めたぞ」
「認めます」
藍沢は、机の下の保全ケースを開いた。
透明な資料ケース。
その中に、古い記録カードが一枚入っていた。
名刺ほどの大きさではない。
図書館の古い貸出票や、研究資料の索引カードに近い。
紙は黄ばんでいる。
端は少し丸まり、中央にタイプライターのような文字が打たれていた。
藍沢は、それを直接手渡さなかった。
ケースごと、机の中央へ滑らせる。
「これは、R-■■本体ではありません。予備索引です。旧記録保全部の未整理カード群に紛れていたものです」
「未整理カード群」
真昼が繰り返す。
「つまり、正式なデータベースには?」
「存在しません」
「でも、紙には残っている」
「はい」
真昼は、透明ケース越しにカードを見た。
文字が読める。
今度は、消えていない。
**R-Root Preliminary Archive
External Collaborator:Mikage Haruma**
真昼は息を止めた。
レイも、その文字を見つめた。
御影遥真。
観測局の記録内で、初めてはっきり確認できた父の名前。
学院の名簿では一瞬だけだった。
写真には残らなかった。
佳乃の声には残っていた。
真昼のノートにも残した。
そして今、観測局の古い記録カードに、英字で残っている。
Mikage Haruma。
レイは、声を出さなかった。
ただ、カードを見ていた。
真昼は、彼の横顔を見た。
泣いてはいない。
でも、目が離せない。
その顔は、父を見つけた子どもの顔ではなかった。
父の名前が本当に存在したことを、証拠として突きつけられた少年の顔だった。
「これ、撮影は」
真昼が聞く。
藍沢は少し考えた。
「許可できません。画像記録化により文字欠落が進む可能性があります」
「手書きは?」
「あなたの記録反応なら、保持できる可能性があります。ただし、他者記録の流入に注意してください」
「書きます」
真昼は即答した。
霧生が言う。
「無理はするな」
「大丈夫です。これは、書かないほうが無理です」
真昼はノートを開いた。
丁寧に書く。
**R-Root Preliminary Archive
External Collaborator:Mikage Haruma**
一文字ずつ。
ゆっくり。
文字が紙に乗る。
消えない。
真昼は、その下に日本語で書いた。
**R-Root予備索引。
外部協力者:御影遥真。
観測局記録内で初めて確認。**
書き終えた時、胸の奥が少し重くなった。
誰かの名前を書いた時の重さ。
背負う覚悟。
それは、父の欄から消えかけている名前だった。
藍沢は、それを見ていた。
「白瀬真昼さん」
「はい」
「その記録は強い」
「分かっています」
「強い記録は、人を助けることもありますが、記録対象を固定しすぎる危険もあります」
「分かっています」
「本当に?」
真昼は、少しだけ顔を上げた。
「まだ全部は分かっていません。でも、分かろうとはしています」
藍沢は、ほんのわずかに目を伏せた。
「それなら、以前よりは安全です」
「藍沢さんに安全認定されると、複雑です」
「認定ではありません。比較です」
「やっぱり複雑」
レイが、静かに言った。
「このカードは、父が観測局に協力していた証拠ですか」
藍沢は答えた。
「少なくとも、御影遥真氏がR-Root予備記録に外部協力者として登録されていた証拠です」
「正式職員ではない」
「このカード上では、外部協力者です」
「父は、R-■■を追っていた?」
「可能性が高いです」
「僕を守るために?」
藍沢は、そこでは答えなかった。
「それは、このカードだけでは分かりません」
レイは、小さく頷いた。
「そうですか」
真昼は、その返事が痛かった。
レイは、答えを欲しがっている。
父が自分を守ろうとしていたのか。
観測していたのか。
利用していたのか。
どれか一つに決めたいわけではない。
ただ、知らないままではいられない。
藍沢は記録カードをケースに戻そうとした。
その時、カードの端がわずかに黒く滲んだ。
全員の視線がそこへ集まる。
藍沢は即座にケースを閉じた。
机の下の小型保全装置に入れる。
青白い光が点滅し、警告音が一度だけ鳴った。
**R系列反応上昇**
端末に表示される。
レイの呼吸が浅くなる。
真昼が呼ぶ。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
返事はある。
透子が続ける。
「現在地」
「境界観測局、記録保全部閲覧室」
「年齢」
「十七」
「父親名は」
透子が言いかけて、止まった。
藍沢も、霧生も、真昼も、同時に反応する。
今、呼びすぎてはいけない。
透子はすぐに言い直した。
「今日、確認した記録の対象は」
レイは、少しだけ息を整える。
「御影遥真」
その名前を自分で言った。
部屋の照明が一度だけ揺れる。
だが、レイは崩れなかった。
「僕の父です」
その言葉が、閲覧室に落ちた。
藍沢は、何も言わなかった。
だが、端末に表示されたR系列反応値が、ほんのわずかに下がった。
霧生がそれを見て、低く呟く。
「番号より効くこともあるじゃねえか」
藍沢は、静かに答えた。
「はい。だから、難しいのです」
真昼は、その言葉をノートに書いた。
番号より効く名前がある。
でも、効きすぎる名前もある。
藍沢は資料ケースを閉じ、席を立った。
「このカードの存在は、正式記録には残しません」
「いいんですか」
真昼が聞く。
「よくありません」
「即答」
「ですが、正式に残せば、上位部門が動きます。R-■■関連記録は、記録保全部だけで管理されているわけではありません」
透子の表情が硬くなる。
「観測応用部門ですか」
藍沢は答えなかった。
沈黙が、答えの代わりになった。
霧生が言う。
「また面倒な部署が増えるのか」
「主任」
透子が低く言う。
「増えるのではありません。元からいた部署です」
「最悪だな」
藍沢は、真昼たちを見る。
「御影遥真氏の旧研究室へ向かうなら、慎重に。R-Root Archiveは、R-■■本体への入口ではありませんが、近い位置にあります」
「近い位置」
「記録上、です」
「また便利な言い方だな」
霧生が言う。
藍沢は否定しなかった。
「それから、御影レイさん」
レイが顔を上げる。
「あなたをA-00として扱う記録は、今後強まる可能性があります」
真昼の胸が冷える。
レイは静かに聞いた。
「観測局が、僕をそう呼ぶということですか」
「一部の部門は、以前からそう呼んでいます」
「藍沢さんは」
「現在、私は御影レイさんと呼んでいます」
「現在?」
「はい」
レイは少しだけ目を細めた。
藍沢の表現はいつも硬い。
逃げ道を残す。
だが、今の言葉には、彼女なりの意思があった。
現在、私は御影レイさんと呼んでいます。
それは、少なくとも今この場で、レイをA-00とは呼ばないという宣言だった。
レイは、小さく頷いた。
「分かりました」
藍沢は、最後に真昼へ視線を向けた。
「白瀬真昼さん。あなたのノートに書いた記録を、今日中に複写しないでください」
「どうしてですか」
「記録反応が安定する前に複製すると、欠落が複製される可能性があります。まず、あなた自身の記憶に固定してください」
「私自身の記憶に」
「はい。あなたは強い記録者です。ただし、強い記録者は、自分の中で意味を整える前に外へ出すと、周囲を巻き込みます」
真昼は、その言葉を重く受け取った。
以前なら、反発したかもしれない。
でも今は、頷いた。
「分かりました。今日は非公開。複写もしません」
「ありがとうございます」
「藍沢さん」
「はい」
「番号は、名前が戻るまでの杭なんですよね」
藍沢は、わずかに動きを止めた。
「はい」
「杭を、墓標にしないでください」
藍沢の瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
その言葉は、藍沢自身がいつか言いそうな言葉だった。
けれど、今は真昼が言った。
名前で怒ってきた記録者が、番号を完全には否定せず、それでも墓標にするなと言っている。
藍沢は静かに頷いた。
「努力します」
霧生がすかさず言う。
「努力で済ませるな」
「善処します」
「余計悪い」
真昼は、少しだけ笑いそうになった。
レイも、ほんの少しだけ息を吐いた。
閲覧室の空気が、わずかに戻る。
それでも、机の上には見えないまま一枚のカードが残っているようだった。
R-Root Preliminary Archive。
External Collaborator:Mikage Haruma。
御影遥真。
観測局記録内で、初めて確認された父の名前。
◇
記録保全部を出る時、真昼は一度だけ振り返った。
藍沢環は、閲覧室の扉の前に立っていた。
灰白色のスーツ。
青灰色の手袋。
職員証の識別コード。
その姿は、相変わらず冷たく見える。
でも、真昼にはもう、それがただの冷たさではないと分かっていた。
名前が消える世界で、番号だけは裏切らないと信じた人。
そして今、番号だけでは足りないことを知り始めた人。
真昼は、胸元のノートを押さえた。
その中に、御影遥真の名前がある。
まだ写してはいけない。
まだ公開してはいけない。
でも、消してはいけない。
廊下を歩きながら、レイが小さく言った。
「白瀬」
「はい」
「父の名前、観測局にもあった」
「うん」
「でも、R-■■は父だけじゃない」
「うん」
「知るほど、遠くなる」
真昼は、すぐには答えなかった。
それは、否定できない言葉だった。
名前を追えば追うほど、番号の奥へ進む。
父を探せば探すほど、R系列という大きな記録に絡め取られる。
でも。
「遠くなっても、見えた場所は増えてる」
真昼は言った。
レイが彼女を見る。
「御影家のアルバム。佳乃さんの声。学院の訂正履歴。観測局の記録カード。全部違う場所だけど、同じ名前が少しずつ見えてる」
「御影遥真」
「うん」
「呼んでいいのかな」
「今は、慎重に」
「呼ばない?」
「忘れない程度に呼ぶ」
「難しい」
「難しいです」
「白瀬が認めた」
「認めます。これは難しい」
レイは、少しだけ目を伏せた。
「でも、僕は父を知らないといけない」
「うん」
「許すためじゃない」
「うん」
「怒るためにも、知らないといけない」
真昼は頷いた。
「記録します」
「公開しないで」
「しない」
「でも、消さないで」
「消さない」
霧生が前を歩きながら言う。
「その約束、俺も聞いたからな」
「監視ですか」
真昼が言う。
「保護だ」
「霧生さんの保護は、いつも監視に似てます」
「監視の柔らかい言い方が保護だ」
「開き直った」
透子が静かに言う。
「主任の場合、半分は本気です」
「黒江、お前は俺の味方じゃないのか」
「現場では味方です」
「今は?」
「記録保全部の廊下です」
「嫌な正確さだな」
そのやり取りに、真昼は少しだけ笑った。
レイも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
しかし、エレベーターホールへ出た瞬間、空気が変わった。
下りエレベーターの前に、見慣れない職員が二人立っていた。
灰白色のジャケットではない。
黒に近い濃紺の防護コート。
胸元の職員証には、記録保全部ではなく、別の部署名が表示されていた。
**観測応用部門**
透子の表情が硬くなる。
霧生が、さりげなくレイと真昼の前へ出た。
職員の一人が、無表情で軽く会釈した。
「御影レイさんですね」
その声は丁寧だった。
だが、呼び方の奥に、別の言葉が見えた気がした。
A-00。
レイの手が、わずかに震える。
真昼は即座に呼んだ。
「御影レイ」
レイは返す。
「白瀬真昼」
職員は、そのやり取りを観察するように見ていた。
霧生の声が低くなる。
「何の用だ」
「後日、正式にご案内します」
「今言え」
「R系列記録の反応上昇に伴い、A-00関連評価が再開されました」
真昼の胸が冷える。
透子が一歩前へ出た。
「この場でその分類を使うことは控えてください」
職員は、透子を見る。
「黒江先生。あなたには権限がありません」
霧生の目が細くなる。
「警察にはあるぞ」
職員は、それ以上言わなかった。
ただ、レイへ視線を戻した。
「いずれ、正式な照会が届きます」
エレベーターが到着する。
扉が開く。
職員たちは、何事もなかったように横へ退いた。
霧生が低く言う。
「乗るぞ」
真昼たちはエレベーターに乗った。
扉が閉まる直前、真昼は廊下の奥を見た。
藍沢が、記録保全部の扉の前に立っていた。
彼女は何も言わない。
ただ、観測応用部門の職員たちを見ていた。
その表情は、いつものように冷静だった。
だが、手袋をはめた指が、わずかに握られていた。
扉が閉まる。
エレベーターが下り始める。
真昼は、胸元のノートを強く押さえた。
R系列記録。
御影遥真。
観測応用部門。
A-00関連評価。
父の名前を追った先で、レイ自身を番号へ戻そうとする手が動き始めている。
水音は聞こえなかった。
けれど、真昼には分かった。
どこか深い場所で、次の記録が開こうとしている。




