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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第四巻:御影遥真とR-■■
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第四章 アガルタ学院・保護者記録室

 アガルタ学院の事務棟は、校舎の中でいちばん音が少ない場所だった。


 授業中の教室棟からは、教師の声やチョークの音が微かに聞こえてくる。体育館の方からは、バスケットボールが床を叩く音が響いている。中庭では、風に揺れる木の葉が乾いた音を立てていた。


 だが、事務棟の廊下へ入ると、空気が一段冷える。


 床は磨かれている。


 掲示物は少ない。


 壁には、学院長室、事務局、会議室、資料管理室といった札が整然と並んでいる。生徒が日常的に出入りする場所ではない。ここは、学院を動かす側の場所だった。


 真昼は、いつもより少しだけ歩幅を抑えていた。


 隣には御影レイ。


 そのさらに前に、黒江透子がいる。


 透子は市警からの同行者として来ていた。淡いグレーのスーツに、簡易の身分証。警察官というより、医療機関の調査員のようにも見える。けれど、彼女が持つ資料ケースと、歩き方の迷いのなさは、ここが単なる学校事務の確認ではないことを示していた。


 本来なら、霧生仁も同行するはずだった。


 だが彼は、市警側と学院側、教育委員会側の手続き調整に回っていた。


 真昼が「私、学院の生徒ですし、保護者記録室の場所くらい分かります」と言った瞬間、霧生は電話越しに低い声で言った。


『だからお前が勝手に入るのを防ぐために、俺が許可を取ってるんだろうが』


 真昼は反論できなかった。


『現場の鍵は飾りじゃない。学院の保護者記録室はお前の部室じゃない。黒江と一緒に入れ。御影から目を離すな。記録はしろ。ただし、持ち出すな。撮影は許可範囲内。怪しいものを見つけても、すぐ触るな』


「霧生さん、私の行動予測が細かいですね」


『当たってるだろ』


「だいたい」


『だいたいじゃねえ。全部だ』


 その会話を思い出して、真昼は少しだけ唇を尖らせた。


 レイが横目で見る。


「今、霧生さんに怒られた顔してる」


「顔で分かる?」


「分かる」


「私、そんなに顔が喋ってる?」


「うん」


「記録者としては致命的では」


「向いてるとも言える」


「どういう意味ですか」


「顔が先に記事を書く」


「それ、褒めてない」


「うん」


 透子が前を向いたまま、静かに言った。


「二人とも、声量を落としてください」


「すみません」


 真昼はすぐに謝った。


 レイも短く「はい」と返した。


 透子は少しだけ振り返る。


「緊張を和らげる会話としては有効ですが、ここから先は記録室です。何が呼び水になるか分かりません」


「呼び水」


 真昼は、その言葉を小さく繰り返した。


 水。


 地下。


 零番線。


 R-■■。


 どの単語も、もうただの比喩には聞こえない。


 レイの表情は落ち着いていた。


 ただし、彼の左手は制服の袖口を軽く握っている。指先が、布の端を何度も確かめるように動いていた。


「御影レイ」


 真昼は呼んだ。


 レイはすぐに返す。


「白瀬真昼」


 透子が確認するように頷いた。


「反応は安定しています。ただし、記録室内では間隔を短くしましょう」


「はい」


 真昼は頷いた。


 やがて、廊下の奥にある扉の前へ着いた。


 札には、こう書かれている。


 **保護者記録室**


 その下に、小さな注意書き。


 **関係職員以外立入禁止**


 真昼は、その文字を見て少しだけ息を呑んだ。


 保護者記録室。


 自分の学院に、こんな部屋があることは知っていた。


 だが、意識したことはほとんどない。


 生徒にとって保護者記録とは、自分たちの後ろにあるものだ。


 入学手続き。


 緊急連絡。


 欠席連絡。


 進路面談。


 授業料。


 事故の時に呼ばれる人。


 自分の知らないところで、自分と家族が結びつけられている紙とデータ。


 その部屋に、今から入る。


 案内役の事務局職員が、緊張した顔で鍵を開けた。


「市警の許可確認は済んでいます。ただし、閲覧は該当年度と関連索引に限る、とのことです」


「ありがとうございます」


 透子が丁寧に頭を下げる。


 事務局職員は、ちらりと真昼とレイを見た。


 学院の生徒をこんな場所へ入れることに抵抗があるのだろう。だが、今回の件では、御影家の保護者記録が直接関わっている。学院側も、完全に拒むことはできなかった。


「何かあれば、入口の外におります」


「分かりました」


 職員が扉を開ける。


 冷えた空気が流れてきた。


 紙と金属棚の匂い。


 古いファイルの匂い。


 少しだけ、湿気。


 真昼は、無意識に鞄の中のノートを押さえた。


     ◇


 保護者記録室は、想像していたより広かった。


 四方の壁は金属棚で埋まり、年度ごとに分けられたファイルボックスが並んでいる。棚の上段には古い紙の名簿。下段には、近年の保護者情報の紙控え。中央の机には閲覧用端末が二台置かれ、片方は電子化済みデータベースに接続されていた。


 窓はない。


 蛍光灯の白い光が、紙の背表紙を均等に照らしている。


 それなのに、部屋の隅だけが少し暗かった。


 真昼は、その暗さに見覚えがある気がした。


 記録沈殿層。


 旧地下鉄。


 白い観測室。


 名前が落ちる場所では、光の届き方が少しおかしくなる。


「白瀬さん」


 透子が呼んだ。


「はい」


「見すぎないでください。気になる場所があれば、まず言葉にしてください」


「了解です」


「御影さん」


「はい」


「少しでも違和感があれば、すぐに言ってください。強い既視感、匂い、音、手足の感覚の変化、幼少期記憶の混入。どれでも構いません」


「分かりました」


 透子は、机の上に資料ケースを置いた。


 中から、御堂が出力したリストを取り出す。


 欠落が確認された年度。


 御影レイ入学年度。


 御影遥真の旧保護者記録。


 R-■■関連保護者記録という不自然な索引。


 真昼はその文字を見て、胸の中に小さな苛立ちが湧くのを感じた。


 関連保護者記録。


 その言葉が、すでに人間を遠ざけている。


 保護者とは、人の親のことだ。


 名前を書き、迎えに来て、欠席連絡を入れて、進路面談で椅子に座り、子どものことで悩み、怒り、笑う人のことだ。


 それを、関連記録。


 真昼は、まだ現物を見ていないのに、すでに少し怒っていた。


 レイが横で言う。


「白瀬」


「はい」


「顔」


「また?」


「うん」


「今度は何て喋ってました?」


「怒ってる」


「正解」


 透子が言った。


「怒りは後で使ってください。今は探します」


「はい」


 透子は端末の前に座り、事務局から渡された一時閲覧権限でログインした。


 画面に、学院保護者情報管理システムが開く。


 生徒名検索。


 年度検索。


 保護者索引。


 透子は、まず「御影レイ」と入力した。


 該当する記録が表示される。


 生徒氏名。


 御影レイ。


 入学年度。


 保護者1。


 御影佳乃。


 続柄。


 母。


 保護者2。


 空白。


 備考欄。


 R-■■。


 朝、御影家で見たものと同じ表示だった。


 ただし、学院の端末で見ると、その文字は少しだけ濃い。


 R-■■。


 まるで、こちらが近づくほど濃くなるインクのように。


 レイの呼吸が、わずかに変わった。


 真昼がすぐに呼ぶ。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


 返事は早い。


 透子は画面を見たまま言う。


「この記録は現在進行で書き換わっています。備考欄のR-■■表示が、御影家の端末よりも濃い」


「濃いって、記録に濃淡があるんですか」


 真昼が聞く。


「通常はありません。ですが、境界現象が絡む記録では、文字の濃度、滲み、空白化の進行速度が意味を持つ場合があります」


「嫌な健康診断みたいですね」


「近いかもしれません」


「近いんだ」


 透子は、次に古い年度の紙名簿を確認するため、棚へ向かった。


 ラベルには、年度と学年が記されている。


 御影レイ入学年度。


 真昼は、思わず棚の奥を見た。


 古いファイルが並んでいる。


 紙の背表紙には、家庭名簿、保護者連絡簿、緊急連絡先台帳と書かれている。


 それらは、誰かが体調を崩した時、怪我をした時、帰りが遅い時、呼び出す相手を確認するための記録だった。


 ただの紙ではない。


 子どもを家に戻すための、現実の線だ。


 透子がファイルを一冊取り出した。


 机の上に置く。


 分厚い。


 ページを開くと、五十音順の索引があった。


 御影。


 真昼は、そこを探す。


 だが、ない。


 御影佳乃はある。


 御影レイもある。


 しかし、御影遥真の名前がない。


 保護者1の欄に御影佳乃。


 保護者2の欄は空白。


 やはり、ない。


「最初からなかったみたいですね」


 真昼は言った。


 透子はページの端を見ている。


「いえ」


「何かあります?」


「紙の罫線が不自然です。保護者2の欄だけ、印字がわずかに歪んでいます」


 レイが覗き込む。


 真昼も見る。


 確かに、保護者2の欄だけ、横罫線がほんの少し波打っている。


 名前を消された後、紙が自分の形を思い出せなくなったような歪み。


 透子は、手袋をつけた指でそこを指す。


「ここに何かがあった可能性が高い」


「御影遥真」


 真昼が言う。


 その瞬間、レイの肩が少しだけ揺れた。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


 返事はある。


 透子はページをめくった。


 索引の後半。


 付録。


 特記事項。


 そして、そこに不自然な項目があった。


 他の項目は、生徒氏名順、保護者名順、学級別、緊急連絡別といった実務的なものばかりだった。


 その中に、一つだけ、まるで別の場所から挿入されたような項目。


 **R-■■関連保護者記録**


 真昼は、数秒、声を出せなかった。


 その後、胸の奥から熱が上がった。


「……何ですか、これ」


 透子は黙っていた。


 レイも黙っている。


 真昼は、項目を睨んだ。


「保護者って、人の親ですよ。関連記録って何ですか」


 声が思ったより強く出た。


「子どもの緊急連絡先で、家に迎えに来る人で、給食費とか保護者会とか、そういう全部を背負ってる人でしょう。そこに名前があった人を、関連記録って」


「白瀬さん」


 透子が静かに言った。


「怒る理由は分かります」


「分かるなら」


「でも、今は声を抑えてください」


 透子の声は冷静だった。


 けれど、目は冷たくなかった。


 むしろ、彼女自身も不快感を押し込めているのが分かった。


「この表現は、観測局由来の可能性があります。学院の通常書式ではありません」


「観測局が学院の保護者記録に?」


「直接か、間接かは不明です。ただ、記録形式が通常の教育記録とは違います」


 真昼は奥歯を噛んだ。


 名前を番号にする。


 家族を関連記録にする。


 人を守るための形式なのかもしれない。


 そう理解する努力は、以前よりできるようになった。


 藍沢環の言葉も思い出す。


 番号は、名前が戻るまでの杭。


 だが、それでも。


 杭が、いつの間にか墓標になっていることもある。


「御影くん」


 真昼は、レイを見た。


「大丈夫?」


 レイは索引を見つめていた。


 表情は静かだった。


 静かすぎた。


「分からない」


「名前確認」


「御影レイ」


 真昼が呼ぶ前に、彼自身が言った。


 それから、真昼を見る。


「白瀬真昼」


「うん。返事できてる」


「でも、変だ」


 レイは、索引の文字から目を離さない。


「ここ、見覚えがある」


 透子がすぐに反応した。


「この記録室に?」


「部屋じゃない。匂い。紙の匂いと、廊下のワックスの匂い。あと、父の手」


「御影さん、今どこにいますか」


「アガルタ学院、保護者記録室」


「年齢は」


「十七」


「名前は」


「御影レイ」


「見えているものを言えますか」


 レイは、目を閉じた。


 だが、閉じた瞬間、逆に記憶が濃くなった。


     ◇


 廊下が長い。


 幼い足では、やけに長く感じる。


 床は磨かれていて、蛍光灯が映っている。


 大人の手が、自分の手を握っている。


 骨ばった手。


 指先にインクの匂い。


 手のひらは温かい。


 早足ではない。


 でも、立ち止まらない。


 横を歩く大人の顔は見えない。


 見上げても、光の中で黒く滲む。


 けれど、声は分かる。


 父。


 御影遥真。


 父が、誰かに言っている。


「この子をA-00として登録することは認めない」


 声は静かだった。


 怒鳴っていない。


 だが、絶対に引かない声だった。


 向かい側に、別の人影が立っている。


 白い服。


 灰色の職員証。


 学院職員ではない。


 もっと冷たい、資料室の奥にいるような人たち。


 そのうち一人が答える。


「では、R系列への接続をどう説明するのです」


 父の手に、少しだけ力が入る。


 幼い自分の指が、きゅっと握られる。


「説明は私がする」


「御影先生。記録上の安定と、家庭内呼称の安定は別です」


「別ではない」


「情緒的な反応を、分類基準に混ぜるべきではありません」


「情緒ではない。この子が自分の名前へ戻るための環境だ」


「A-00は、すでに複数記録と接続しています」


「だからこそ、番号ではなく名前が必要だ」


「観測局の分類に従ってください」


「この子は分類ではない」


 幼い自分は、何を言われているのか分からない。


 ただ、父の手が熱いことだけ分かる。


 大人たちは、自分の上で難しい言葉を交わしている。


 A-00。


 R系列。


 登録。


 接続。


 分類。


 どれも分からない。


 けれど、嫌な言葉だと分かる。


 父が、自分の前に立つ。


 廊下の白い光の下で、父の背中だけが見える。


「レイ」


 父が言う。


「自分の名前を言いなさい」


 幼い自分は、答える。


 みかげ、れい。


 すると父は、少しだけ息を吐いた。


「そうだ」


 父の声が、近くなる。


「お前は御影レイだ」


 その直後、白い服の人影が言う。


「その呼称が、いつまで保つとお考えですか」


     ◇


 レイは膝をついた。


 床に片手をつき、もう片方の手で胸元を押さえる。


 真昼はすぐに動いた。


「御影レイ!」


 保護者記録室の紙が、一斉に揺れたような気がした。


 棚の奥で、古い名簿のページが鳴る。


 透子がレイの肩を支え、低い声で確認する。


「御影さん。現在地」


 レイは息を吸った。


 うまく入らない。


 胸の奥に、幼い自分の呼吸が残っている。


 廊下。


 父の手。


 A-00。


 R系列。


 白い服。


 分類ではない。


 この子は分類ではない。


「御影レイ」


 真昼がもう一度呼んだ。


 レイは、真昼の声を掴む。


「白瀬真昼」


 返事が出た。


 それだけで、部屋の空気が少し戻る。


 真昼はしゃがみ込み、レイの顔を覗いた。


「戻ってる?」


「……戻ってる」


「今どこ?」


「アガルタ学院、保護者記録室」


「年齢」


「十七」


「好きな朝ごはん」


 レイが少しだけ眉を寄せる。


「今それ?」


「現実確認です」


「特にない」


「よし、いつもの御影くん」


「ひどい判定」


「でも戻った」


 透子が、静かに息を吐いた。


「レイさん。今見えた記憶は、幼少期の実記憶である可能性が高いです」


「実記憶」


「はい。記録室の環境刺激と、R-■■関連索引によって誘発されたのでしょう」


「父がいた」


 レイは床に座ったまま言った。


「ここに。僕を連れて」


 真昼は、胸が痛くなった。


 御影遥真。


 この学院に来ていた。


 幼いレイの手を引いて。


 A-00として登録するなと、誰かに言っていた。


 それは観測だったのか。


 保護だったのか。


 まだ分からない。


 ただ、少なくともその場で遥真は、レイを分類ではないと言った。


 その言葉がレイにどう届くのか、真昼には分からなかった。


 救いになるのか。


 余計に苦しめるのか。


 レイは、まだ顔色が悪い。


 透子が言う。


「一度外に出ますか」


 レイは首を横に振った。


「まだ見ます」


「無理は」


「無理ではある」


「では」


「でも、ここで止めたら、次に入るのがもっと怖くなる」


 透子は、すぐには反論しなかった。


 真昼も分かった。


 怖い場所を、一度逃げることは必要な場合がある。


 でも、逃げたことで次に近づけなくなることもある。


 レイは、今その境界にいる。


 真昼は、彼の隣にしゃがんだまま言った。


「一緒に見ます」


「記録者として?」


「それもあります。でも、今は友人として」


 レイは少しだけ彼女を見た。


「友人」


「不服?」


「いや」


「じゃあ、採用で」


「勝手」


「便利だから」


 レイは、ほんの少しだけ息を吐いた。


 笑った、というほどではない。


 でも、呼吸が戻った。


 透子は立ち上がり、索引欄の続きへ視線を戻した。


「R-■■関連保護者記録。参照先があるはずです」


 彼女は索引番号を追う。


 棚番号。


 年度。


 別置資料。


 保護者特記事項。


 その中で、ひとつだけ消えかけた参照先があった。


 **別置:旧保護者名簿・訂正履歴**


 真昼は立ち上がった。


「旧保護者名簿」


 透子が棚の下段を探す。


 古い箱型ファイル。


 背表紙には、手書きで「訂正履歴」とある。


 紙の色は黄ばみ、端は少し波打っている。


 透子が慎重に取り出し、机の上へ置く。


「白瀬さん、触れないでください」


「まだ触ってません」


「触りそうでした」


「顔?」


「手です」


 レイが小さく言う。


「白瀬の手も喋る」


「私、全身で喋ってます?」


「たぶん」


 透子は、手袋をした指でページを開いた。


 訂正履歴は、年度ごとにまとめられている。


 保護者氏名の誤字。


 住所変更。


 電話番号変更。


 離婚や再婚による続柄変更。


 緊急連絡先の削除。


 そうした現実の記録が並んでいる。


 その中に、御影レイの入学年度があった。


 ページの下の方。


 小さな訂正欄。


 黒い線で一度消され、その横に新しい文字を書こうとした跡がある。


 だが、消された名前も、新しい文字も、ほとんど読めなかった。


「ここ」


 透子が言う。


 真昼は身を乗り出した。


 レイも見る。


 手書きの訂正跡。


 最初は、ただの薄い汚れに見えた。


 だが、蛍光灯が一度だけちらついた瞬間、その文字が浮かび上がった。


 **御影遥真**


 真昼は息を止めた。


 レイの目が見開かれる。


 透子も動かない。


 そこにあった。


 御影遥真。


 消されたわけではない。


 完全に無かったわけではない。


 訂正履歴の隅に、手書きで残っていた。


 一瞬だけ。


 次の瞬間、文字は薄れ始める。


「待って」


 真昼は反射的にスマートフォンを取り出した。


「白瀬さん」


 透子が止めるより早く、真昼は撮影した。


 シャッター音。


 画面を確認する。


 そこには、紙のページが写っている。


 訂正欄も写っている。


 黒い線も写っている。


 だが、名前の部分だけが空白だった。


 御影遥真という文字だけが、写真から抜け落ちている。


「……駄目」


 真昼は呟いた。


「写真には残らない」


 レイが画面を見た。


 何も言わない。


 その沈黙が、真昼の中で火をつけた。


 彼女はスマートフォンを置き、ノートを開いた。


 ペンを取る。


 今見えているうちに。


 手が震える。


 でも、書く。


 真昼はページの端に、はっきりと書いた。


 **御影遥真。**


 文字がノートに乗る。


 消えない。


 今のところ。


 真昼は続ける。


 **一瞬だけ見えた。

 写真には残らない。

 でも、私が見た。**


 ペン先が紙に深く沈んだ。


 彼女は、呼吸を忘れていたことに気づいた。


 ゆっくり息を吸う。


 レイがノートを見ている。


 その表情は、泣いているようにも、怒っているようにも見えなかった。


 ただ、何かを必死に受け止めようとしている顔だった。


「白瀬」


「はい」


「それ、消さないで」


「消しません」


「写真には残らないんだね」


「はい」


「でも、君が見た」


「見ました」


「僕も見た」


「はい」


 透子が静かに言った。


「私も確認しました」


 真昼は頷いた。


「三人の目視確認。手書き記録あり。写真記録不可」


「記録形式としては弱いです」


 透子が言う。


 真昼は答えた。


「でも、ゼロじゃない」


「はい」


 透子は、少しだけ目を伏せた。


「ゼロではありません」


 真昼は、ノートを閉じなかった。


 閉じたら、文字が消える気がした。


 だから開いたまま、手を置いていた。


 御影遥真。


 一瞬だけ見えた。


 写真には残らない。


 でも、私が見た。


 レイは、その文字を見つめたまま、静かに言った。


「父さんは、ここに来てた」


「うん」


 真昼が答える。


「僕を連れて」


「うん」


「A-00として登録するなって言った」


「うん」


「でも、検査記録はあった」


「うん」


「守ろうとしたのか、観測してたのか、分からない」


 真昼は、少しだけ考えた。


「今は、分からないままでいいと思います」


 レイは彼女を見る。


「君がそれを言う?」


「言います。最近覚えました」


「誰の影響」


「たぶん、みんなです」


「便利な答え」


「便利だから」


 透子が、訂正履歴のページを丁寧に保全用フィルムで挟んだ。


「この資料は学院側に保管されたまま、閲覧記録を残します。持ち出しはしません」


「持ち出さないんですか」


 真昼が聞く。


「持ち出せば、記録が進行する可能性があります。ここにあることで辛うじて残っているのかもしれません」


「場所に固定されてる?」


「その可能性があります」


 真昼は、保護者記録室を見回した。


 古い名簿。


 電子端末。


 索引。


 訂正履歴。


 ここは、名前を縛る場所ではない。


 本来なら、子どもを家に帰すための場所だ。


 でも、その場所に観測局由来の索引が紛れ込み、人の親をR-■■関連保護者記録と呼んでいる。


 真昼は、胸の奥の怒りを、今度は少しだけ形を変えて持った。


 ただ怒鳴るのではなく、残すための怒りに。


「御影くん」


「何」


「お父さんの名前、ここにありました」


「うん」


「でも、まだ呼びすぎないほうがいい」


「分かってる」


「名前を消したくないから、呼ばない時もある」


「真木彼方の時と同じ?」


「少し違う。でも、似てる」


 レイは頷いた。


「じゃあ、知るまで呼ばない」


「うん。でも、忘れない」


「それも同じ」


「うん」


 その時、入口の外でノックがあった。


 事務局職員の声がする。


「黒江様、確認中失礼します。市警の霧生様からお電話です」


 透子が扉へ向かう。


 真昼とレイは、その場に残った。


 保護者記録室の蛍光灯が、また一度ちらつく。


 ノートの文字は、消えていない。


 御影遥真。


 真昼は、その文字を指でなぞらなかった。


 触れたら、壊れそうだったから。


 ただ見た。


 見続けた。


 誰かが残した名前は、時に写真にも、端末にも、正式記録にも残らない。


 でも、人の目に一瞬だけ戻ることがある。


 その一瞬を、書き留める。


 それが、今の真昼にできることだった。


 透子が電話を終えて戻ってきた。


「霧生主任からです」


「何か分かりましたか?」


「旧研究室の許可取りが進んでいます。ただし、観測局側からも照会が入りました」


 レイが顔を上げる。


「観測局」


「はい」


 透子の表情は硬い。


「R-■■関連保護者記録に対し、記録保全部が閲覧履歴を確認しています」


「藍沢さん?」


「おそらく」


 真昼は、ノートを閉じた。


 御影遥真の名前を、その中に入れる。


 保護するように。


 隠すように。


 次の瞬間、部屋の端末が短く音を鳴らした。


 画面に、自動通知が表示される。


 **R-■■関連保護者記録

 外部閲覧を検知

 照合保留**


 続いて、もう一行。


 **記録保全部へ照会中**


 透子は画面を見つめた。


「向こうも、気づきました」


 真昼はレイを見る。


 レイは静かに立っている。


 まだ揺れている。


 それでも、倒れてはいない。


 彼は言った。


「次は、藍沢さんですね」


 透子は頷く。


「避けては通れません」


 真昼は、ノートを胸に抱えた。


 保護者記録室の中で、一度だけ見えた父の名前。


 写真には残らなかった名前。


 それでも、三人が見た名前。


 御影遥真。


 R-■■の奥に沈み始めた、父の名前。


 蛍光灯の下で、古い名簿のページが、誰も触れていないのにほんの少しだけ揺れた。


 まるで、閉じた紙の奥で、水が落ちたように。


 ぽたり。

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