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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第四巻:御影遥真とR-■■
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第三章 佳乃の箱

 御影家へ戻る道は、妙に静かだった。


 市警から出た時、空は曇っていた。


 雨は降っていない。


 けれど、雲の下の街は、雨を待っているように湿っていた。歩道の端に残った水たまりは乾ききらず、車が通るたび、薄い膜のように揺れる。ビルの窓ガラスには昼前の光がぼんやり映り、そこに映る人影はどれも輪郭が少し滲んで見えた。


 御影レイは、真昼の隣を歩いていた。


 いつもの歩幅。


 いつもの顔。


 けれど、真昼には分かる。


 彼は今、歩いているというより、倒れないように自分の名前を足元へ置き直しながら進んでいる。


 父の欄。


 R-■■。


 御影遥真。


 父性呼称によるA-00安定化。


 市警のモニターに表示された文字が、まだ二人の間に残っていた。


 真昼は、横目でレイを見る。


「御影レイ」


 レイはすぐ返す。


「白瀬真昼」


「反応速度、まだ大丈夫」


「朝からずっと検査されてる」


「午後まで続きます」


「期間延長?」


「状況によります」


「診断書は?」


「非公開記録に」


「怖い」


「大丈夫。公開しません」


「そこじゃない」


 真昼は、少しだけ笑おうとした。


 でも、うまく笑えなかった。


 御影家へ戻る。


 佳乃に話を聞く。


 言葉にすると簡単だった。


 だが、それはつまり、長いあいだ閉じていた家の奥へ踏み込むということだった。


 真昼は、自分が一緒にいていいのか、まだ少し迷っていた。


 家族の話だ。


 父の話だ。


 御影遥真という、レイの中でも佳乃の中でも長く触れられなかった名前の話だ。


 他人がいていいのか。


 記録者がいていいのか。


 そう思う。


 でも、レイは市警で言った。


 たぶん、いてほしい。


 だから、いる。


 ただし、喋りすぎない。


 真昼は、それを自分に言い聞かせた。


「白瀬」


「はい」


「今、喋りすぎないって顔してる」


「顔で分かる?」


「分かる」


「そんなに顔が喋ってますか」


「かなり」


「霧生さんにも言われました」


「たぶん正しい」


「味方がいない」


「僕は味方」


「今の流れだと味方に見えない」


「味方だから言う」


「便利な理屈」


「便利だから」


 短いやり取り。


 それだけで、少しだけ息ができた。


 マンションの前に着くと、レイは一度足を止めた。


 古い低層マンション。


 灰色の外壁。


 錆の浮いた手すり。


 階段の踊り場に置かれた植木鉢。


 どこにでもあるような生活の場所。


 ここに、R-■■という文字は似合わない。


 ここに、A-00という記録は似合わない。


 ここにあるべきなのは、朝食の匂いと、母親の声と、使われていない椅子と、閉じたアルバムだ。


「戻る?」


 真昼が聞いた。


 レイは少しだけ沈黙した。


「戻る」


「無理だったら」


「無理って言う」


「本当に?」


「言う。たぶん」


「たぶん禁止」


「努力する」


「努力は許可します」


「厳しい」


 二人は階段を上がった。


 玄関の前で、レイは鍵を出しかけて、やめた。


 中から、鍵の開く音がした。


 佳乃が扉を開けた。


「おかえり」


 それは、いつもの声だった。


 朝と同じ。


 少しだけ心配を隠した、穏やかな声。


 レイは返事をした。


「ただいま」


 真昼も頭を下げる。


「お邪魔します」


「どうぞ。真昼さんも、来てくれてありがとう」


「いえ。私がいていいのか、まだちょっと迷ってます」


 佳乃は、少しだけ微笑んだ。


「レイが一緒に来てほしいと言ったのなら、いてあげて」


 レイが視線を逸らした。


「そこまで言ってない」


「言ったようなものね」


「母さんの解釈も雑」


「親だから」


「便利」


「便利だから」


 真昼は思わず言った。


「御影家、便利だからの使用頻度が高いですね」


「あなたたちが持ち込んだんじゃないかしら」


「責任の所在が複雑です」


 ほんの少しだけ、空気が緩んだ。


 けれど、玄関を上がった瞬間、真昼は気づいた。


 朝と違う。


 ダイニングテーブルの上は片づいている。


 食器も洗われている。


 味噌汁の匂いも薄い。


 だが、テーブルの端に紺色のアルバムが置かれている。


 その横に、古い木箱があった。


 まだ開けられていない。


 小さな木箱。


 角が少し擦れている。


 蓋には留め金がついていて、長いあいだ触れられていなかったように、金具の周りだけ色がくすんでいる。


 佳乃は、その箱の前に立った。


「お昼は食べられる?」


 レイは箱を見たまま答える。


「今、それを聞く?」


「食べないと倒れるから」


「母さん」


「大事な話をする時ほど、食べないといけないの」


 真昼は、少しだけ背筋を伸ばした。


 その言葉は、妙に佳乃らしかった。


 家族の秘密を開ける前でも、まず身体を地上へ戻す。


 温かいものを飲む。


 椅子に座る。


 名前を呼ぶ。


 そうやって、佳乃はレイを守ってきたのだろう。


 レイは少しだけ息を吐いた。


「少し食べる」


「少しじゃなくて」


「普通に食べる」


「よろしい」


 佳乃は、簡単な昼食を出した。


 おにぎり。


 卵焼き。


 味噌汁を温め直したもの。


 真昼にも、小さなおにぎりとお茶が出された。


「本当にすみません」


「何度も謝らなくていいのよ」


「朝もお茶をいただいて、昼も」


「真昼さんは、謝る回数が多いわね」


 レイが言う。


「普段は謝らない」


「御影くん、それは語弊がある」


「現場では突っ込んでから謝る」


「それは否定できない」


 佳乃がくすりと笑った。


「聞いていると心臓に悪いわ」


「すみません」


「ほら」


 レイが言う。


「今のは正当な謝罪です」


「便利な分類」


「便利だから」


 真昼は、おにぎりを一口食べた。


 海苔の香りと塩気が舌に広がる。


 食べることが、こんなに現実を戻すのだと、最近になって何度も思い知っている。


 零番線。


 記録沈殿層。


 白い観測室。


 名前が落ちる場所では、食べ物の匂いが遠くなる。


 だから、ここにいることを確かめるために食べる。


 レイも、黙って食べていた。


 佳乃はそれを見て、ほんの少しだけ安心した顔をした。


 食事が終わると、誰もすぐには話し出さなかった。


 湯呑みの中で、お茶の表面がわずかに揺れている。


 外を車が通った振動だろう。


 それとも、地下からの何かか。


 真昼は考えないようにした。


 佳乃が、木箱へ手を伸ばした。


「本当は」


 彼女は言った。


「もっと早く話すべきだったのかもしれない」


 レイは何も言わなかった。


 佳乃は留め金に指をかける。


「でも、何から話せばいいのか、ずっと分からなかった」


 金具が、小さく鳴った。


 箱の蓋が開く。


 中から、古い紙の匂いがした。


 図書館の閉架書庫に似た匂い。


 乾いた紙。


 少しだけ湿った封筒。


 インク。


 時間。


 佳乃は、まず一枚の名刺を取り出した。


 白地に、薄い青い線が入った名刺。


 印字は古い。


 肩書きのところに、見慣れない名称がある。


 **国立境界認知研究センター

 外部協力研究員

 御影 遥真**


 真昼は、息を止めた。


 表向きの名称。


 境界観測局が一般に見せている顔。


 佳乃は名刺をテーブルに置いた。


「これは、夫が持っていた名刺です」


 レイはそれを見る。


 御影遥真。


 父の名前。


 紙の上では、まだ読める。


 ただ、文字の縁が少しだけ薄い。


「父さんは、観測局の職員だったの?」


 レイが聞いた。


 佳乃は首を横に振った。


「正式な職員ではなかったと聞いているわ。少なくとも、本人はそう言っていた。大学の非常勤研究員として、アガルタ地下史と記憶文化論を調べていたの」


「記憶文化論」


「古い地名、失踪伝承、名前の残り方、家族の呼び方。そういうものを調べているのだと思っていた」


「思っていた?」


 佳乃は、二枚目の紙を取り出した。


 古い研究会の案内状。


 題名。


 **幻都アガルタ地下層における記憶滲出と家族呼称の安定効果**


 レイの顔が、わずかに硬くなる。


 真昼は、ペンを取り出しかけて、佳乃を見た。


「記録してもいいですか」


 佳乃は頷いた。


「お願い。私だけで持っているには、もう無理だから」


 その言葉は静かだった。


 けれど、長いあいだ一人で抱えてきた重さがあった。


 真昼はノートを開く。


 公開用ではない。


 非公開記録。


 御影家聞き取り。


 佳乃の箱。


 そう書いた。


 佳乃は次に、黒い革表紙の手帳を出した。


 表紙は擦れている。


 角は丸くなり、ゴムバンドは伸びかけている。


「遥真の手帳です」


 レイの手が、わずかに動いた。


 触れたい。


 触れたくない。


 その両方が見えた。


 佳乃は手帳を開かず、まずテーブルの中央に置いた。


「読んでもいいの?」


 レイが聞いた。


「いいわ。あなたの父親のものだから」


「今まで隠してたのに?」


 声は低かった。


 真昼は、胸が少し痛くなった。


 佳乃は逃げなかった。


「そうね」


「どうして」


「それも、話すわ」


 箱の中には、ほかにも資料があった。


 アガルタ学院の古い名簿。


 表紙には年度が書かれている。


 ページの端には付箋。


 そのひとつに、薄く「K」と書かれていた。


 真昼は、嫌な予感を覚えた。


 佳乃がその名簿を開く。


 古い生徒名簿。


 ページの一部に、黒い鉛筆の線。


 そこには、かすれた文字がある。


 真木――。


 その先は読めない。


 佳乃は言った。


「私は、この子のことを詳しくは知りません。ただ、遥真が何度か名前を口にしたことがある」


 レイが低く言う。


「真木彼方」


 部屋の空気が少しだけ揺れた。


 真昼がすぐに呼ぶ。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


 返事はある。


 佳乃は、二人のやり取りを見て、少しだけ眉を寄せた。


「今の名前は、危ないの?」


 真昼は答えを選んだ。


「危ない時があります。でも、消していい名前ではありません」


 佳乃は頷いた。


「そう」


 次に出てきたのは、旧地下鉄の事故記録だった。


 コピー紙の束。


 表紙には、赤い印で「未公表」と押されている。


 **旧地下鉄閉鎖区画内失踪事案

 補助調査資料**


 いくつもの日付。


 いくつもの場所。


 雨の日。


 地下道。


 通行禁止区画。


 行方不明者。


 家族証言。


 その中に、父親欄欠落の古い事例と似た記述があった。


 **保護者名想起不能。

 本人存在認識あり。

 家族写真に顔部黒色滲出。**


 真昼のペンが止まる。


「十年前にも、同じことが起きてる」


「遥真は、そう言っていたわ」


 佳乃は静かに言った。


「ただ、当時は断片的だった。学校や家庭の書類にまとまって出たわけではなかったみたい」


 次に出てきたのは、新聞切り抜きだった。


 黄ばんだ紙。


 地方紙の小さな記事。


 **アガルタ学院生徒、体調不良により長期欠席**


 その横に、手書きのメモ。


 **名前欠落の初期症状か。

 K-117と照合。

 黒江T.担当?**


 透子の名前の頭文字。


 真昼は、そこをじっと見つめた。


 真木彼方に関する新聞切り抜き。


 御影遥真は、彼方のことも追っていた。


 観測局とは別の場所から。


 父として。


 研究者として。


 あるいは、レイに同じことが起こる前に止めようとして。


 箱の中身は、ひとつ出すたびに、家の空気を変えていった。


 古い名刺。


 手帳。


 学院名簿。


 旧地下鉄事故記録。


 真木彼方に関する切り抜き。


 そして、次に出てきた紙片に、レイの呼吸が止まった。


 小さなメモ。


 遥真の字だろう。


 少し右上がりの、急いだ筆跡。


 そこに英字で、ひとつだけ書かれている。


 **Alpha**


 真昼は、レイを見た。


 レイはそのメモから目を離せない。


 佳乃も、それを見つめている。


「私は、その言葉の意味を知らなかった」


 佳乃は言った。


「遥真に聞いたことはあるわ。でも、研究上の仮称だとしか言わなかった」


「研究上の仮称」


 レイの声は乾いていた。


「僕のこと?」


「分からなかった」


「でも、今なら分かるでしょ」


「ええ」


 佳乃は、まっすぐ答えた。


「今なら、そうだと思う」


 レイの手が、テーブルの下で握られる。


 真昼は呼びかけたくなった。


 でも、今は少し待った。


 レイはまだ、ここにいる。


 怒っている。


 怒れるなら、まだここにいる。


 佳乃は、今度は薄いファイルを取り出した。


 クリアファイルに入った紙。


 医療機関の書式に似ているが、病院名はない。


 ただ、端に小さなコードがあった。


 A-00。


 真昼の背筋が冷えた。


 ファイルの表紙には、


 **幼児期認知安定検査記録**


 とある。


 対象名欄は、ところどころ黒く滲んでいた。


 だが、読める。


 御影レイ。


 検査年齢。


 三歳。


 五歳。


 六歳。


 レイの目が、紙の上を追う。


「僕の検査記録」


「遥真が持っていたものよ。病院で受けた普通の発達検査だと思っていた。でも、今見ると違うのでしょうね」


 真昼は、ファイルの一部を見た。


 **自己名応答:安定。

 母親呼称への反応:強。

 父親呼称への反応:中?強。

 未知呼称A-00への反応:拒否。

 R系列刺激時、心拍上昇。

 家族呼称提示により安定化。**


 真昼は、息を呑んだ。


 家族呼称提示により安定化。


 佳乃が毎朝、レイと呼んできたこと。


 遥真が幼いレイに名前を言わせていたこと。


 それが、記録の中では検査項目になっている。


 レイは、静かに言った。


「やっぱり、観測されてたんだ」


 佳乃の顔が痛みに歪む。


「レイ」


「僕は、子どもじゃなくて、症例だった?」


「違う」


「この紙にはそう書いてある」


「紙には、そう書いてあるかもしれない」


「父さんは、これを持ってた」


「ええ」


「母さんも、持ってた」


「ええ」


「どうして今まで黙ってたんだ」


 その問いは、静かだった。


 怒鳴っていない。


 でも、怒鳴るより痛かった。


 真昼は、膝の上で手を握った。


 何か言いたくなる。


 でも、今は真昼の言葉ではない。


 佳乃は、逃げなかった。


 レイの目を見た。


「話せば、あなたが自分を人間じゃないと思う日が来る気がしたから」


 レイは息を止めた。


 佳乃は続ける。


「あなたは小さい頃から、時々遠いところを見ていた。呼んでも、すぐに返事をしない日があった。眠っている時に、知らない言葉を言ったこともある。遥真は、そのたびにあなたの名前を呼んだ」


 佳乃の声は震えていない。


 でも、指先は震えていた。


「レイ。お前は御影レイだ。誰が何と言っても、それだけは忘れるな。そう言っていた」


 レイの目が、わずかに揺れる。


 幼い記憶が、どこかから戻りかけているのだろう。


 小さな手。


 父の声。


 雨の研究室。


 自分の名前を言いなさい。


 佳乃は言う。


「私は、その意味を全部は知らなかった。遥真が何を見ていたのか、私は全部は知らない」


 彼女は、テーブルの上の資料を見た。


 境界観測局の名刺。


 Alphaのメモ。


 検査記録。


 黒く滲んだ写真。


「でも、レイを観測対象として見たことだけは、一度もなかった」


 レイは、顔を上げた。


 佳乃は、はっきりと言った。


「あの人は間違えたのかもしれない。隠した。私にも、あなたにも、全部は話さなかった。観測局に関わった。あなたの検査記録を持っていた。それを、あなたが怒るのは当然だと思う」


「……」


「でも、遥真があなたを対象としてしか見ていなかったとは、私は言わせたくない」


 レイの喉が動いた。


 言葉は出なかった。


 佳乃の声が、少しだけ低くなる。


「私は、アルファを育てたんじゃない。レイを育てたの」


 その言葉で、部屋が静まり返った。


 真昼の胸にも、深く刺さった。


 レイは何も言えなかった。


 怒りも、反発も、疑いも、簡単には消えない。


 でも、その言葉だけは否定できなかった。


 佳乃は、レイをずっとレイと呼んできた。


 朝も。


 夜も。


 記憶が揺れた時も。


 父の記録が欠けた時も。


 御影レイ。


 その呼び方で、彼を地上へ戻してきた。


 沈黙が長く続いた。


 外の道路を車が通る音。


 冷蔵庫の低い機械音。


 湯呑みの底に残ったお茶が、わずかに揺れる音。


 それだけが聞こえた。


 やがて、レイが言った。


「怒ってる」


 佳乃は頷いた。


「ええ」


「父さんにも。母さんにも」


「ええ」


「でも、何に怒ってるのか、まだ分からない」


「ええ」


「僕を守ろうとしたことか。隠したことか。観測したことか。置いていったことか」


 佳乃の目が、少し濡れた。


「全部かもしれないわ」


「……うん」


 真昼は、そこでようやく小さく声を出した。


「御影くん」


 レイは答えた。


「白瀬真昼」


「戻ってる?」


「戻ってる。怒ってるけど」


「怒ってても戻ってるなら、よかった」


「よくはない」


「うん。よくはない」


 レイは、ほんの少しだけ真昼を見た。


 それから、テーブルの上の資料へ視線を戻す。


「続きは?」


 佳乃は頷いた。


 箱の奥から、最後に二つのものを出した。


 一つは、黒く塗り潰された家族写真だった。


 幼いレイ。


 佳乃。


 遥真。


 おそらく七五三の時の写真。


 だが、遥真の顔だけが、黒く塗り潰されていた。


 印刷の劣化ではない。


 誰かが後から塗ったように見える。


 しかし、表面にインクの盛り上がりはない。


 写真そのものが、そこだけ夜になっているようだった。


「これは、いつから?」


 レイが聞く。


「遥真が消えたあとから」


「消えた」


「帰らなかった夜のあと」


「どうして捨てなかったの」


「捨てたら、本当にいなかったことになる気がしたから」


 佳乃は、写真をテーブルに置いた。


「見えなくても、ここにいた。そう思いたかった」


 レイは写真を見た。


 黒く塗り潰された父の顔。


 その横にいる幼い自分。


 何も知らず、父の手に小さな手を預けている。


 その手だけは、黒くなっていなかった。


 父の顔は消えても、手の接触は残っている。


 レイは、そこから目を離せなかった。


 佳乃は最後に、封筒を取り出した。


 茶色い古い封筒。


 付箋が貼られている。


 **R系列**


 真昼は、ペンを握り直した。


 封筒の中には、紙が何枚か入っていた。


 そして、小さな鍵があった。


 古びた真鍮の鍵。


 鍵には黒いタグがついている。


 白い文字で、こう書かれていた。


 **H.M. / R-Root Archive**


 佳乃は、その鍵をテーブルの中央に置いた。


「これは?」


 レイが聞く。


「遥真が失踪する少し前に、私へ預けたもの」


「どうして」


「もし自分が帰らなかったら、レイが自分の名前を疑う日まで開けるな、と言われた」


 レイの表情が固まる。


 佳乃は、苦しそうに言った。


「私は、その言葉の意味が分からなかった。でも、今朝分かった」


 真昼は、鍵を見る。


 H.M.


 Haruma Mikage。


 R-Root Archive。


 旧研究室の鍵。


 市警で御堂が見つけた閉鎖済み共同研究室のコードと一致する。


「佳乃さん」


 真昼が慎重に言う。


「この鍵、アガルタ市立中央図書館の旧資料館地下にある共同研究室のものかもしれません」


 佳乃は、静かに頷いた。


「たぶん、そうだと思います」


「行ったことは?」


「ありません」


「遥真さんは」


「通っていました。失踪する前は、ほとんど毎日のように」


 レイは鍵を見ていた。


 触れようとして、止める。


 その指先が、かすかに震えている。


 真昼は呼んだ。


「御影レイ」


 レイは答える。


「白瀬真昼」


「大丈夫?」


「大丈夫じゃない」


「うん」


「でも、行く」


 佳乃の顔が強張る。


「レイ」


「行くよ」


「まだ、全部話していないわ」


「じゃあ、話して」


「今すぐ全部は」


「また隠すの?」


 その言葉に、佳乃が息を呑んだ。


 レイも、自分で言って傷ついた顔をした。


 けれど、言葉は戻せない。


 佳乃は、少しだけ目を伏せた。


「隠したくない」


「……」


「でも、一度に話せば、あなたが壊れる気がして怖い」


「僕は壊れ物?」


「私の息子よ」


 佳乃は、まっすぐ言った。


「だから怖いの」


 レイは言葉を失った。


 真昼は、胸の奥が痛くなった。


 守る側も、壊れるほど怖い。


 隠された側の怒りは正しい。


 でも、隠した側の恐怖も嘘ではない。


 名前を守ることは、こんなにも簡単ではない。


 レイは、しばらく黙っていた。


 そして、小さく言った。


「一緒に来て」


 佳乃が顔を上げる。


「え?」


「旧研究室。母さんも」


 佳乃の目が揺れた。


「私は」


「父さんのこと、僕より知ってる。僕のことも。だから、来て」


「……」


「でも、無理なら」


「行くわ」


 佳乃は言った。


 声は小さかったが、はっきりしていた。


「もう、あなたを知らない場所へ一人で行かせたくない」


 レイは、少しだけ目を伏せた。


「うん」


 真昼は、ノートに書いた。


 佳乃の箱。


 御影遥真は、表向きは大学の非常勤研究員。


 実際には、境界観測局の外部協力者。


 アガルタ地下史と記憶文化論。


 家族呼称の安定効果。


 Alpha。


 A-00。


 レイ幼少期検査記録。


 母親呼称、父親呼称。


 R系列。


 H.M. / R-Root Archive。


 最後に、真昼は少し迷ってから書いた。


 佳乃さんは隠していた。


 でも、捨ててはいなかった。


 その一文を書いた時、レイがこちらを見た。


「白瀬」


「はい」


「今、何を書いた?」


「非公開記録です」


「見せて」


 真昼は少し迷ったが、ノートを差し出した。


 レイは最後の一文を読んだ。


 佳乃さんは隠していた。


 でも、捨ててはいなかった。


 長い沈黙。


 佳乃も、その一文を見た。


 誰もすぐには何も言わなかった。


 やがてレイは、ノートを真昼へ返した。


「まだ、そう思えない」


「うん」


「でも、消さないで」


「消さない」


 佳乃は、そこで初めて涙を一粒だけこぼした。


 すぐに拭った。


 それ以上は泣かなかった。


 テーブルの上には、父の名前が散らばっていた。


 名刺。


 手帳。


 名簿。


 事故記録。


 新聞切り抜き。


 Alphaのメモ。


 検査記録。


 黒く塗り潰された家族写真。


 R系列の封筒。


 そして、旧研究室の鍵。


 御影遥真は、ここにはいない。


 それでも、その名前は、まだ完全には消えていなかった。


 真昼は、鍵のタグをもう一度見た。


 **H.M. / R-Root Archive**


 その文字の奥から、ほんのかすかに水音がした。


 ぽたり。


 誰も口にはしなかった。


 だが、全員が聞いていた。


 どこかで、次の扉が開き始めている。

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