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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第四巻:御影遥真とR-■■
40/82

第二章 父のない戸籍事件

 幻都アガルタ市警察局、刑事部特異殺人対策室。


 その部屋は、いつも少しだけ時間に遅れているように見える。


 壁の時計は正確に動いている。


 端末も新しい。


 監視カメラ映像を映す大型モニターも、通信記録を解析するシステムも、他部署よりむしろ設備は整っている。


 それなのに、室内には古い紙の匂いが残っている。


 封筒。


 現場写真。


 付箋だらけの地図。


 聞き込みメモ。


 証言が食い違った調書。


 誰かの名前が黒く滲んだ古いコピー。


 不可解な事件を、どうにか現実の手続きへ押し込もうとした痕跡が、部屋の隅々に積もっていた。


 その朝、特異殺人対策室の空気は、いつもよりさらに悪かった。


 正確には、霧生仁の機嫌が悪かった。


 くたびれた灰色のスーツの上着を椅子の背にかけ、シャツの袖を肘までまくっている。手元には缶コーヒーがあるが、まだ開けられていない。吸わなくなった煙草の代わりに口に入れている飴も、今日は机の端に放り出されていた。


 彼の前のモニターには、アガルタ市教育委員会から転送された問い合わせ一覧が開かれている。


 家庭調査票・保護者欄未記入。


 父親名欄空白。


 緊急連絡先第二欄欠落。


 家族写真データの一部破損。


 児童が父親名を想起不能。


 保護者本人が自己名を想起不能。


 父親欄に不明コード表示。


 その一つ一つは、事件と呼ぶには曖昧だった。


 人は死んでいない。


 怪我人もいない。


 窃盗でも傷害でもない。


 だが、記録が壊れている。


 家族が泣いている。


 そして、霧生はその手のものを、最近見過ごせなくなっていた。


「で、上は何て?」


 霧生が低く聞いた。


 若手刑事の綾瀬直央が、手元の端末から顔を上げる。


「現時点では、教育委員会システムの入力同期障害、または紙書類回収時の確認ミスとして扱いたいそうです」


「紙の控えまで白くなってるのにか」


「そこは、まだ正式確認前という扱いです」


「便利だな、正式確認前」


 霧生は、ようやく缶コーヒーを開けた。


 金属音が、室内に乾いて響く。


「正式確認前なら、家族が自分の名前を忘れててもシステム障害で済むのか」


「上層部としては、市内の小学校で同時多発的に家庭調査票の一部が欠落した、という段階では警察案件にしづらいと」


「しづらいだけで、しない理由にはならん」


 御堂圭吾が情報解析席から言った。


「現時点の報告件数は、教育委員会経由が三十七件。未確認の学校内部報告まで含めると五十件を超えます。小学校だけでなく、中学校、高等部の保護者情報更新にも同様の欠落が出始めています」


「父親欄だけか」


「完全ではありません。祖父欄や第二保護者欄の欠落もあります。ただし、件数の八割以上が父親欄です」


 御堂はモニターへ一覧を出す。


 学校名。


 学年。


 児童生徒名。


 欠落欄。


 家庭構成。


 備考。


 そこに並ぶ「父親欄空白」の文字が、異様に整って見えた。


 霧生はしばらく黙って見ていた。


「綾瀬」


「はい」


「被害家庭への聞き取りは」


「教育委員会からの一次確認では、子どもも母親も父親の存在は覚えています。朝食の内容、直近の会話、服装、癖、職業、生活習慣などは説明できます」


「名前は」


「言えない家庭が増えています」


「父親本人は」


「半数ほどは、自分の名前を言えています。ただし、記録欄が空白になっている家庭では、本人も名の部分だけ出てこないケースがあります。姓は家族と共有しているためか、比較的残っています」


「免許証や社員証は」


 御堂が答える。


「画像で確認できた範囲では、顔写真と所属情報は残存。氏名欄だけ空白化。数件では、氏名欄の代わりに不明コードが出ています」


「不明コード」


 霧生は、嫌そうに言った。


「言え」


 御堂は画面を切り替えた。


 白い表示欄。


 父親名が入るべき位置。


 そこに、薄く文字が浮いている。


 **R-■■**


 室内の空気が、ほんの少しだけ沈んだ。


 綾瀬が眉をひそめる。


「これが複数件で出ています。御影家の保護者情報にも同じ表示が出たと、白瀬真昼さんから連絡がありました」


「本人からか」


「はい。黒江さん宛てに。公開はしない、ただし記録と共有は必要だと」


「白瀬にしては上出来だ」


 霧生が言うと、部屋の隅で資料を確認していた黒江透子が静かに顔を上げた。


「主任」


「何だ」


「白瀬さんは、以前よりかなり慎重になっています」


「分かってる。だから上出来って言った」


「言い方です」


「俺の言い方に期待するな」


 透子は、それ以上追及しなかった。


 そのかわり、手元の古いファイルを開く。


 アガルタ支局から取り寄せたものではない。


 透子自身が、観測局を離れた後も断片的に控えていた資料の写しだった。


 紙は古く、端が少し波打っている。


 そこには、観測局特有の味気ない文字が並んでいた。


 R系列。


 R-Root。


 R-■■。


 関連保護者記録。


 外部協力者。


 御影――


 最後の名前は、黒く滲んで読めなかった。


 霧生がそれを見る。


「黒江。お前、その顔は知ってる顔だな」


「完全には知りません」


「便利な返答だ」


「本当に、完全には知りません」


 透子はファイルのページを押さえた。


「R-■■という識別は、境界観測局の資料に以前から存在していました。ただし、私が在籍していた頃も、通常症例番号とは扱いが違いました」


「どう違う」


「個人番号ではない可能性が高いです」


 綾瀬がメモを取る手を止めた。


「個人番号ではない?」


「K-117やC-04のような個体識別ではなく、複数記録を束ねる根のような分類です。正式閲覧権限がなかったため、詳細は分かりません」


「また観測局の権限か」


 霧生は缶コーヒーを机に置いた。


「R-■■は、今回の父親欄欠落と関係しているのか」


「可能性は高いです」


「高い、じゃ報告書に弱い」


「では、現時点では強い関連が疑われる、と」


「言い換えただけだな」


「はい」


「正直でよろしい」


 透子は、画面のR-■■表示を見つめた。


「問題は、これが単純な名前欠落ではないことです」


「単純な名前欠落という言い方もだいぶ感覚が麻痺してるがな」


「はい」


 透子は否定しなかった。


「これまで確認されてきた名前欠落は、本人の名前そのものが記録や記憶から抜け落ちる現象でした。今回も名前は欠けています。ですが、欠けている対象が特殊です」


「父親」


「正確には、家族内における父という役割に紐づいた記録です」


 綾瀬が顔を上げる。


「役割記録?」


「はい。個人名、続柄、緊急連絡先、学校書類、家族写真。父親本人の全記録が消えているわけではありません。銀行口座や勤務先の勤怠記録は一部残っています。単独の個人としての記録は、まだ完全には落ちていない」


 透子は、モニターへ表示された事例を指す。


「しかし、子どもや家庭に関わる欄から落ちています。父であること。保護者であること。家族写真の中で父として写っていること。その部分だけが削られている」


 霧生が目を細める。


「人間そのものじゃなく、家族の中の立場を削ってるってことか」


「現時点では、その仮説が最も近いです」


 室内が静かになった。


 家族内の役割記録。


 父という役割。


 名前。


 記憶。


 責任。


 それらが、細い糸で結ばれている。


 その糸だけが、切られ始めている。


 綾瀬が、慎重に言った。


「でも、どうして父親だけなんでしょう。母親ではなく」


「分かりません」


 透子は答えた。


「ただ、御影家に同じ現象が出た以上、御影遥真氏の記録が起点、または誘因になっている可能性があります」


「御影遥真」


 霧生がその名前を繰り返した。


 部屋の空気が、少し揺れたように感じた。


 名前を口にするだけで、何かが反応する。


 霧生はそれに気づき、不快そうに眉を寄せた。


「嫌な名前の出方だな」


「はい」


「レイは?」


「白瀬さんからの連絡では、一時的に記憶混線を起こしました。佳乃さんの呼称で帰還しています」


「母親の声か」


「はい」


 霧生は、しばらく黙った。


 御影レイ。


 白瀬真昼。


 黒江透子。


 倉科悠斗。


 名前を呼び戻してきた現場が、頭の中をよぎる。


 零番線のホーム。


 K-117観測室。


 記録沈殿層。


 そのたびに、点呼で連れ戻してきた。


 だが今回は、家の食卓だった。


 事件現場ですらない場所で、名前が揺れた。


「御影と白瀬を呼べ」


 霧生は言った。


「学校は」


「遅刻扱いにならないよう、こっちで連絡する。未成年を呼びつける理由としては最悪だが、御影本人の家庭記録が欠けてる。事情聴取と安全確認だ」


「佳乃さんは?」


 綾瀬が聞く。


「本人の同意を取って、あとで話を聞く。今すぐ呼び出すな」


「なぜですか」


「母親までここに連れてきたら、御影が余計に硬くなる」


 透子が小さく頷いた。


「同意します」


「白瀬には釘を刺す」


「記事についてですか」


「当然だ。今回は広がり方が悪い。下手に煽ったら、父親欄を自分で確認しようとする家庭が増える。名前欠落が観測行為で進むなら、二次被害が出る」


 透子は、霧生を見た。


「主任がそこまで言うとは」


「何だ」


「いえ」


「俺だって少しは学ぶ」


「白瀬さんの影響ですか」


「やめろ。悪寒がする」


 御堂が控えめに手を挙げた。


「それと、もう一点」


「まだあるのか」


「はい。教育委員会のシステムログに、深夜三時十二分、複数校の保護者情報へ外部照会が入っています。ただし、通常のハッキングではありません。照会元のIPも端末識別も存在しません」


「存在しない照会元」


「ログ上では、照会種別だけが残っています」


「何だ」


 御堂は画面を出す。


 照会種別。


 **R系列保護者照合**


 霧生は、椅子の背にもたれた。


「……行政システム障害で済ませたがってる奴らに、これを見せてこい」


「見せますか」


「見せる。分からん顔をされたら、分からんまま署名させろ」


 綾瀬が少しだけ笑いかけて、すぐに引き締めた。


 霧生は、缶コーヒーを一口飲んだ。


「死体はない。血もない。凶器もない。だが、子どもが泣いてる。家族写真の顔が黒く抜けてる。父親本人が自分の名前を言えない。これを事務処理で捨てるなら、特殺室なんぞ最初からいらん」


 透子が静かに言う。


「では、事件として扱いますか」


 霧生は即答した。


「扱う」


「名称は」


「父親欄欠落事件」


 御堂が入力する。


「通称でよろしいですか」


「正式名称は後で考えろ」


「上層部提出用には、家庭記録欠落事案、でしょうか」


「好きにしろ。ただし、父が消えてるってことは薄めるな」


 透子は、自分の資料に一行を書き加えた。


 父のない戸籍事件。


 そして、その横に小さく、


 R-■■。


     *


 真昼とレイが特異殺人対策室に到着したのは、午前十時を少し過ぎた頃だった。


 学院には、霧生の名前で連絡が入っていた。


 表向きは、家庭記録欠落事案に関する事情確認。


 実際には、レイの安全確認と、御影家に現れたR-■■表示の聞き取りだった。


 真昼は、制服姿のまま、市警の廊下を早足で歩いていた。


 隣のレイは、いつも通りに見える。


 だが、真昼には分かる。


 少し遠い。


 歩いているのに、足元の感覚を何度も確認している。階段を上る時、手すりには触れないが、目だけが段差を数えている。廊下の窓ガラスに映る自分の顔を、見ないようにしている。


「御影レイ」


 真昼は呼んだ。


 レイはすぐ答える。


「白瀬真昼」


「反応速度、朝より戻ってる」


「検査継続中?」


「はい」


「黒江さんの影響が深刻」


「悪いことではないです」


「いいこととも限らない」


「そこは否定できない」


 真昼は、少しだけ息を整えた。


「佳乃さん、大丈夫かな」


「大丈夫じゃない」


 レイは、淡々と言った。


「でも、普通にしてた」


「普通に?」


「朝ごはんを片づけてた。食器を洗って、学校に連絡して、僕のネクタイが曲がってるって直した」


「強いですね」


「強いのか、そうしてないと崩れるのか、分からない」


 真昼は何も言えなかった。


 御影佳乃の声が、まだ耳に残っている。


 あなたのお父さんの名前は、御影遥真。


 でも、あなたはお父さんの記録じゃない。


 あなたは、御影レイ。


 その声で、レイは戻った。


 真昼は、自分がどれほど強く名前を呼んでも届かなかったものが、佳乃の静かな一言で戻った瞬間を思い出していた。


 悔しいわけではない。


 むしろ、よかった。


 だが、同時に思い知った。


 自分が呼べる名前と、家族が呼ぶ名前は違う。


 母の声には、記録者の声とは別の強さがある。


 特異殺人対策室の扉を開けると、霧生がこちらを見た。


「遅い」


「学校から来たんです」


 真昼が言う。


「呼びつけたのは霧生さんです」


「正論を朝から言うな」


「もう十時です」


「まだ朝だ」


「刑事さんの朝、範囲広いですね」


「お前の口も相変わらず範囲が広いな」


 レイが小さく言った。


「いつもの調子」


 真昼は胸を張る。


「状態確認です」


「君の?」


「御影くんの」


「僕は何もしてない」


「今しました」


「何を」


「会話」


「厳しい」


 霧生は、二人のやり取りを聞きながら、わずかに表情を緩めた。


 緩めたが、すぐに戻した。


「座れ」


 二人は会議テーブルの前に座った。


 透子が向かいにいる。


 綾瀬と御堂も端末を持って控えていた。


 真昼は、机に並んだ資料を見て、表情を引き締める。


 父親欄空白。


 家族写真黒色滲出。


 R-■■。


 教育委員会ログ。


 それらの文字が、ばらばらに置かれているだけで、朝の御影家の食卓が再びざわつくようだった。


「白瀬」


 霧生が言った。


「はい」


「まず釘を刺す」


「記事のことですね」


「分かってるなら話が早い」


「書きません」


 霧生が少しだけ眉を上げた。


「即答だな」


「正確には、公開しません。記録はします」


「よし。だが、それだけじゃ足りん」


 霧生は、テーブルに指を置いた。


「今回は記事にするな、ではない。記事にする前に、誰が読むか考えろ」


 真昼は、まっすぐ頷いた。


「分かってます。でも、記録はします」


「だろうな」


「父親欄が消えている家庭が複数あるなら、誰かが後で確認できる記録が必要です。ただ、今公開すると、自分の家の書類を確認する人が増える。もし確認そのものが欠落を進めるなら、危ない」


 霧生は、透子を見た。


「成長したな」


 透子は少しだけ微笑む。


「はい」


「俺が言ったみたいにするな」


 真昼は、少し困ったように笑った。


「笑い事じゃないぞ」


「はい」


「御影」


 霧生の声が少し低くなる。


 レイは顔を上げた。


「はい」


「朝の状況を話せるか」


「話せます」


「無理なら止める」


「話せます」


 レイは、御影家の保護者ポータルに父親欄の空白が出たこと、備考欄にR-■■が表示されたこと、それを見た瞬間に記憶混線を起こしたことを説明した。


 声は安定していた。


 だが、真昼には彼が何度か言葉を選び直しているのが分かった。


 父さん。


 父。


 御影遥真。


 R-■■。


 どの呼び方を使うかで、記憶の揺れ方が変わるのだろう。


「見えたものは」


 透子が聞いた。


 レイは少し間を置いた。


「雨の夜。古い研究室。紙の束。R-Root、Rei Line、A-00みたいな文字。あと、幼い僕の手」


「誰かいましたか」


「父だと思います」


「顔は」


「黒く滲んでいました」


 透子の指が、メモを取る途中で止まる。


「声は?」


 レイは、目を伏せた。


「レイ。自分の名前を言いなさい」


 その言葉を口にした瞬間、室内の蛍光灯がわずかにちらついた。


 全員が一瞬だけ天井を見る。


 霧生が舌打ちした。


「名前確認が反応条件か」


「可能性があります」


 透子は冷静に言ったが、声は少し硬かった。


「御影さん。今、名前を言えますか」


「御影レイ」


 すぐに返す。


 真昼も続ける。


「白瀬真昼」


 霧生が二人を見る。


「お前は聞かれてない」


「でも、必要かなと」


「まあ必要だ」


 霧生は、紙の資料を一枚レイの前へ滑らせた。


「これは教育委員会から来た事例一覧だ。個人情報は伏せてある。見て、何か感じるか」


「霧生さん」


 真昼が少し警戒する。


「危なければ止める。御影、無理して見るな」


「見ます」


 レイは資料を見た。


 複数家庭。


 父親欄空白。


 家族写真の顔部黒色滲出。


 本人父名想起不能。


 備考。


 旧地下鉄関連。


 郷土資料寄贈者。


 境界観測局関連施設勤務歴あり。


 都市交通局旧保守区勤務。


 レイは、ある行で視線を止めた。


「ここ」


「何だ」


「旧地下鉄」


「共通点として上がってる」


「父親が、地下に関わってる」


 御堂が頷いた。


「現段階で判明している共通点です。全件ではありませんが、該当率が高い」


 モニターに、項目が表示される。


 アガルタ市内在住。


 父親がアガルタ地下、旧地下鉄、境界観測局、または郷土資料に関係した経験がある。


 子どもが父を覚えている。


 母親も父を覚えている。


 書類だけが父を消す。


 一部の記録では父親欄がR-■■に置換される。


 真昼は、ノートを開いた。


 霧生が睨む。


「公開するなよ」


「非公開メモです」


「ならいい」


「いいんだ」


「もう止めても書くだろ」


「はい」


「開き直るな」


 真昼は書いた。


 父親欄欠落事件。


 父そのものではなく、父という役割に紐づく記録が落ちている。


 地下と関わった父。


 R-■■。


 御影遥真。


 書きながら、胸が重くなる。


 この事件は、これまでの名前欠落と違う。


 名前を捨てたい人の話ではない。


 名前を呼べない人の話でもない。


 家族の中で、その人が何だったのかが削られている。


 父。


 夫。


 保護者。


 連絡先。


 写真の中で子を抱いていた人。


 その役割だけが、白く抜けていく。


「これ」


 真昼は、顔を上げた。


「父親本人だけの事件じゃないですね」


 透子が頷いた。


「はい。残された家族側の記録も削られています」


「つまり、父親が自分を忘れるだけじゃなくて、家族が父を呼ぶための足場が削られている」


「その表現は近いです」


 霧生が低く言う。


「嫌な足場だな」


 透子はモニターを見る。


「通常の名前欠落は、本人の自己名固定が崩れることで周囲の記録へ波及する場合が多い。ですが今回、本人より先に家族書類が欠けています。家族内の役割記録だけを削る現象と考えるべきです」


「目的は」


 霧生が聞く。


「まだ分かりません」


「御影遥真を引っ張り出すためか」


「可能性はあります」


「R-■■を動かすためか」


「それも」


「御影レイを揺らすためか」


 透子は、すぐには答えなかった。


 レイの顔色が少し変わったからだった。


 真昼がすぐに呼ぶ。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


 返事はある。


 だが、声が少し低い。


 霧生はそれを見て、言葉を選び直した。


「すまん。言い方が悪かった」


 レイは少しだけ目を伏せる。


「いえ。事実として可能性はある」


「高校生が便利な分析対象の顔をするな」


「それ、何度目ですか」


「足りてないから何度でも言う」


 真昼が小さく笑いそうになり、すぐに真面目な顔に戻した。


 御堂が端末を操作しながら言った。


「解析結果、追加で出ました」


「言え」


「父親欄欠落が確認された家庭のうち、十五件について、過去住所と古い公的記録を照合しました。直接の共通点は見えづらかったのですが、旧住所、勤務先、学校区、資料寄贈履歴まで含めると、ある未公開調査ファイルの参照範囲と重なります」


「未公開調査ファイル?」


「十年前から十二年前にかけて作成された、旧地下鉄失踪記録の補助調査リストです。正式な市警ファイルではありません。郷土資料、新聞切り抜き、旧交通局記録、観測局関連と見られる断片資料を横断した個人調査ファイルです」


 霧生の目が鋭くなる。


「作成者は」


 御堂は、一瞬だけレイを見た。


 そして、画面に名前を出した。


 **御影遥真**


 レイの呼吸が止まりかける。


 真昼がすぐに呼ぶ。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


 今度は返事が早かった。


 レイは画面を見つめている。


 そこにある父の名前は、消えていない。


 少なくとも、御堂の端末上ではまだ読める。


 だが、名前の端が少しだけ滲んでいるように見えた。


 御堂が続ける。


「この補助調査リストは、御影遥真氏が失踪前に作成していたものと思われます。正式な研究ファイルではなく、個人調査メモに近い。欠落が起きている家庭の古い住所の一部が、そのリストに含まれています」


「どういうリストだ」


「旧地下鉄周辺で発生した失踪、名前欠落、家族写真の顔部欠損、保護者記録の異常を時系列でまとめたものです」


 綾瀬が息を呑む。


「十年前にも、同じようなことが?」


「断片的には」


 御堂は画面を拡大した。


 古い表。


 雨の日。


 旧地下鉄沿線。


 父名不明。


 家族写真破損。


 地下関係者。


 R関連疑い。


 その横に、手入力の注記。


 **R-Rootとの関係を再確認。

 父性記録のみ欠ける理由不明。

 レイへの波及を警戒。**


 室内が、完全に静まった。


 レイへの波及。


 その一文が、朝の御影家の食卓と直結する。


 佳乃がスマートフォンを伏せた手。


 使われない父の椅子。


 アルバム。


 R-■■。


 真昼は、喉の奥が乾くのを感じた。


「遥真さんは」


 彼女は、ゆっくり言った。


「この現象を、知ってた?」


 透子は頷いた。


「少なくとも、調べていました」


「レイに波及することも」


「警戒していたようです」


 レイは、画面の名前を見つめたまま言った。


「父さんは、何を知っていたんですか」


 誰もすぐには答えなかった。


 霧生も、透子も、御堂も。


 答えを持っていないからではない。


 答えの入り口が、あまりにも重いからだった。


 霧生が、低く言った。


「それを調べる」


 レイは彼を見る。


「御影遥真の記録を追う。R-■■も調べる。観測局が絡むなら引っ張り出す。だが、ひとつ確認だ」


「何ですか」


「お前は父親の記録じゃない」


 レイの目が揺れた。


 霧生は続ける。


「御影遥真が何を知っていたか。何を隠したか。何をやらかしたか。それはこれから調べる。だが、それでお前の名前がA-00になったりR-■■になったりするわけじゃない」


 レイは、少しだけ黙った。


 そして、小さく答えた。


「……はい」


 真昼は、ノートに書いた。


 御影遥真は、父親欄欠落現象を知っていた。


 旧地下鉄失踪記録と関連。


 R-Root。


 レイへの波及を警戒。


 その下に、もう一行。


 御影レイは、御影遥真の記録ではない。


 真昼はペンを止めた。


 この一文は、まだ公開できない。


 でも、絶対に残しておく必要がある。


 御堂が最後に、もう一つ資料を出した。


「補助調査リストの保存場所ですが、元ファイルは削除済みです。ただし、リンク先の一部が残っています」


「どこだ」


「アガルタ市立中央図書館・旧資料館地下。閉鎖済み共同研究室」


 レイが顔を上げる。


 真昼も、透子も反応した。


 御堂は、画面に古い施設配置図を映す。


「使用者登録名は、御影遥真。共同研究区画コードは、H.M. / R-Root Archive」


 霧生が椅子に深く座り直した。


「次はそこか」


 透子が静かに言う。


「おそらく、佳乃さんが何か知っています」


 レイは、母の顔を思い浮かべた。


 昨夜のアルバム。


 今朝の声。


 あなたのお父さんの名前は、御影遥真。


 でも、あなたはお父さんの記録じゃない。


 あなたは、御影レイ。


 その声が、まだ胸の中に残っている。


「母さんは」


 レイは言った。


「何か隠してます」


 真昼は隣で、すぐには何も言わなかった。


 霧生も急がなかった。


 しばらくして、レイが続けた。


「でも、たぶん、僕を守るために隠してる」


 霧生は頷いた。


「なら、守られた側として聞け」


「刑事としてじゃなく?」


「息子としてだ」


 その言葉は、レイにとって思った以上に重かった。


 息子。


 その役割は、まだ消えていない。


 父の欄が空白になっても。


 R-■■が浮かんでも。


 御影遥真の名前が滲んでも。


 自分が、誰かの息子だったということは、まだ残っている。


 レイは、ゆっくり頷いた。


「聞きます」


 真昼が小さく言う。


「一緒に?」


 レイは少し考えた。


「たぶん、いてほしい」


「了解」


「でも、喋りすぎないで」


「努力します」


「努力じゃ不安」


「じゃあ、善処します」


「もっと不安」


 綾瀬が、思わず小さく笑った。


 霧生が咳払いする。


「白瀬、喋りすぎるな。だが、記録はしろ」


「どっちですか」


「両方だ」


「難易度が高い」


「お前ならやるだろ」


 真昼は、少しだけ目を丸くした。


 それから、真面目に頷いた。


「やります」


 霧生は、モニターの御影遥真の名前を見た。


 その文字は、まだ消えていない。


 だが、端がわずかに揺れている。


 まるで、紙の向こう側から水が染み出しているように。


「父のない戸籍事件」


 霧生は、低く言った。


「名前が消えた父親たち。泣いてる子ども。父親を呼べなくなった家族。御影遥真の古い調査ファイル。R-■■」


 彼は立ち上がった。


「信じる信じないは後でいい。現場がある」


 誰も異論を挟まなかった。


 その時、御堂の端末が短く警告音を鳴らした。


「主任」


「何だ」


「補助調査リストの関連ファイルが一件、自動復元されました」


「中身は」


「タイトルだけです」


 御堂は画面を切り替えた。


 白い背景に、黒い文字。


 途中から滲んでいる。


 **R系列保護者記録

 対象:御影――

 備考:父性呼称によるA-00安定化について**


 レイの顔が、再び白くなる。


 真昼がすぐに呼ぶ。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


 返事はあった。


 霧生が画面を睨む。


「A-00安定化、だと」


 透子の声が硬くなる。


「御影遥真氏は、レイさんの状態を安定化させる方法として、父親の呼称を研究していた可能性があります」


 真昼は、朝の佳乃の声を思い出した。


 レイ。


 あなたは、御影レイ。


 それは、ただの母の呼び声ではなかったのかもしれない。


 家族の声が、レイを今へ戻していた。


 でも、それが研究されていたとしたら。


 記録されていたとしたら。


 守るためだったとしても、どこまでが愛で、どこからが観測なのか。


 レイは、画面を見つめたまま言った。


「父さんは」


 声が少し掠れていた。


「僕を、息子として見ていたんですか」


 誰も答えられなかった。


 モニターの文字だけが、薄く滲んでいた。


 R系列保護者記録。


 御影――。


 A-00安定化。


 そして、どこか遠くで、水が落ちるような音がした。


 ぽたり。


 その音は、市警の会議室にはあるはずのない音だった。

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