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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第四巻:御影遥真とR-■■
39/82

第一章 御影家の朝

 朝は、名前から始まる。


 御影佳乃は、それを毎日してきた。


 特別な儀式だと思ったことはない。そう思わないようにしてきた、と言ったほうが正しいかもしれない。


 朝、台所に立つ。


 小鍋に味噌汁を温める。


 炊飯器の蓋を開け、湯気を逃がす。


 卵焼き用の小さなフライパンを火にかける。


 昨夜のうちに洗っておいた小松菜を刻む。


 テーブルに箸を置く。


 茶碗を二つ。


 味噌汁椀を二つ。


 湯呑みを二つ。


 それから、少しだけ迷って、三つ目の椅子を見る。


 食卓の端に置かれた椅子。


 もう十年近く、誰も座っていない椅子。


 背もたれの角に、小さな傷がある。レイが幼い頃、玩具の電車をぶつけてつけた傷だった。遥真はその時、怒らなかった。ただ傷を指でなぞって、「家具にも記録が残るんだな」と言った。


 佳乃は、その言葉を今でも覚えている。


 捨てようと思ったことは何度もある。


 この椅子だけが、食卓の空気を少しだけ重くしているからだ。二人分の朝食に、三つ目の椅子は多すぎる。使われない椅子は、不在を形にする。


 だが、捨てられなかった。


 そこに誰かが座っていたことまで捨てるようで。


 佳乃は、卵焼きを皿に移し、火を止めた。


 それから、廊下へ向かう。


 レイの部屋の前で立ち止まり、いつものように軽くノックした。


「レイ、朝よ」


 返事はすぐにはなかった。


 いつものことだ。


 佳乃は、もう一度ノックする。


「レイ」


 扉の向こうで、布団が擦れる音がした。


「……起きてる」


「起きている人は、扉越しでももう少し起きている声を出します」


「起きかけてる」


「起きていない人の言い訳ね」


「分類が厳しい」


「朝ごはん、冷めるわよ」


「分かった」


 短い返事。


 低く、眠たげで、感情の少ない声。


 けれど、それでよかった。


 佳乃は毎朝、その声を確認する。


 レイ。


 御影レイ。


 自分の息子。


 どれほど遠い記憶に沈んでいても、朝にはこの部屋にいて、この声で返事をする。


 それが、佳乃にとっての日常だった。


 昨夜、アルバムを閉じた音が、まだ耳に残っている。


 写真の中の遥真の顔。


 左目のあたりから広がり始めた、黒い滲み。


 アルバムの端から覗いた白い紙片。


 R-■■。


 佳乃は、それを見た。


 見なかったことにはできない。


 けれど、まだレイには言えなかった。


 言うべきだと分かっている。


 隠し続けてきたことが、いつかレイを傷つけると分かっている。


 それでも、朝食の前に話すことではない。


 そんな言い訳を、佳乃は自分にした。


 台所へ戻ると、レイが部屋から出てきた。


 制服のシャツはまだボタンが一つ外れている。前髪は少し乱れ、顔色はいつもより白い。寝不足のようにも見えるし、いつものようにも見える。


「おはよう」


「おはよう」


 佳乃はレイの顔を見た。


 見る。


 見すぎないようにする。


 問い詰めない。


 でも、見落とさない。


 母親としての十七年は、その加減の積み重ねだった。


「寝られた?」


「少し」


「少しじゃ足りないわ」


「寝ても記憶は止まらない」


「そういう難しいことを言う前に、顔を洗ってきなさい」


「難しくない」


「私には難しいの」


「……分かった」


 レイは洗面所へ向かった。


 水道の音がする。


 佳乃は、その音を聞きながら味噌汁をよそった。


 昨夜も同じような水音を聞いた。


 洗面所の水が止まった時、アルバムの端から白い紙片が見えた。


 R-■■。


 佳乃は一度だけ目を閉じた。


 大丈夫。


 まだ朝だ。


 朝は、まず食べる。


 体を今へ戻す。


 言葉より先に、温かい味噌汁。


 そうやって、ずっとやってきた。


 レイが戻ってきて、椅子に座る。


 二人分の箸。


 二人分の茶碗。


 そして、使われない三つ目の椅子。


 レイの視線が、その椅子にほんの一瞬だけ向いた。


 佳乃は気づいた。


 気づいたが、何も言わなかった。


 レイも何も言わない。


 それが、これまでの御影家のやり方だった。


「いただきます」


 佳乃が言う。


「いただきます」


 レイも言う。


 箸が茶碗に触れる。


 味噌汁の湯気が上がる。


 外は晴れている。


 窓の向こうに見える細い道を、小学生たちがランドセルを揺らして歩いていた。昨日の雨で、道路の端にまだ小さな水たまりが残っている。そこへ朝日が当たり、白く光る。


 レイは味噌汁を一口飲んだ。


 その表情が、ほんの少しだけ緩む。


 佳乃は、それを見て安心する。


「今日は早いの?」


「普通」


「普通の時間?」


「普通に間に合う時間」


「それは、だいぶ怪しい普通ね」


「間に合えば普通」


「朝から屁理屈を言う元気はあるのね」


 レイは少しだけ視線を逸らした。


「母さんの朝は、言葉の検査が多い」


「親の仕事です」


「検査?」


「確認」


「同じでは」


「違うわ」


「どう違うの」


「確認には、朝ごはんがつきます」


 レイは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「便利な定義」


「便利だから」


 その返しに、レイは何かを思い出したように小さく息を吐いた。


「それ、白瀬みたい」


「真昼さん?」


「うん」


「真昼さんも、便利なの?」


「便利というか、騒がしい」


「それは便利なの?」


「たぶん」


 佳乃は笑った。


 レイが誰かを「騒がしい」と言う時、その声には少しだけ温度がある。


 以前のレイなら、他人の話題をここまで自然に食卓へ持ち込まなかった。学校のことを聞いても、必要最低限の返事しか返ってこない。誰かの名前が出ることも少なかった。


 白瀬真昼。


 佳乃は、その名前を心の中で呼んだ。


 息子の世界に、強引に入り込んできた少女。


 危なっかしい。


 騒がしい。


 お節介。


 でも、レイを呼び戻してくれる声を持つ子。


 玄関のチャイムが鳴ったのは、その時だった。


 レイは箸を止めた。


 佳乃も一瞬だけ動きを止める。


 朝の七時四十分。


 宅配には早い。


 新聞の集金でもない。


「私が出るわ」


「僕も」


「ご飯を食べていなさい」


「この時間に来る人、限られる」


「まさか」


 佳乃が玄関へ向かうと、ドアの向こうから、聞き慣れた明るい声がした。


「おはようございます! 白瀬です!」


 佳乃は、思わず笑ってしまった。


 レイがダイニングから低く言う。


「限られてた」


「本当に真昼さんだったわ」


 ドアを開けると、白瀬真昼が立っていた。


 制服姿。


 髪はポニーテール。


 肩から鞄をかけ、片手に小さな紙袋を持っている。朝からよく動いた人間特有の、少しだけ息の上がった顔をしていた。


「朝早くにすみません!」


「おはよう、真昼さん。どうしたの?」


「登校前に少しだけ寄らせてもらおうと思って。御影くんの状態確認と、《アガルタ観測録》の記事の相談で」


 言いながら、真昼は紙袋を差し出した。


「これ、近くのパン屋さんのスコーンです。朝ごはん中だったらすみません。むしろ朝ごはん中ですよね、この時間」


「ありがとう。ちょうど食べていたところよ。上がっていく?」


「え、いいんですか」


「もちろん」


「では、お邪魔します。五分だけ。いや、十分。いえ、できれば十五分」


 ダイニングから、レイの声が飛ぶ。


「増えてる」


 真昼は玄関先から言い返した。


「御影くん、おはようございます。朝から冷静な指摘をありがとう」


「朝から元気だね」


「御影くんの朝が静かすぎるだけです」


「普通」


「その普通、たぶん図書館の閉架書庫基準だよ」


 佳乃は靴をそろえる真昼を見て、微笑んだ。


「お茶を淹れるわね」


「いえいえいえ! 朝の忙しい時間にそこまでしていただくわけには」


「もうお湯は沸いているから」


「でも」


 レイが味噌汁を飲みながら言う。


「諦めたほうがいい」


「御影くんが言うと説得力あるね」


「母さんは客にお茶を出す」


「知ってた?」


「家のルール」


「御影家ルール、優しいけど圧がある」


 真昼は恐縮しながらも、結局ダイニングに通された。


 佳乃は彼女に温かいほうじ茶を出し、スコーンを皿に移した。


 食卓は、少しだけ賑やかになった。


 真昼が座ったのは、レイの隣ではなく、斜め向かいの席だった。


 そして、空いたままの椅子を一瞬見た。


 見たが、何も言わなかった。


 その一瞬で、佳乃は、この子は見ていると思った。


 何も知らないふりをしながら、ちゃんと見ている。


 それは、彼女が記録者だからなのか、ただの性格なのか、佳乃には分からなかった。


「で、状態確認って何」


 レイが聞いた。


 真昼は鞄から小さなメモ帳を取り出しかけて、佳乃の前であることを思い出したように止めた。


「あ、ええと、昨日の件のあと、御影くんがちゃんと自分の名前で戻れてるかの確認です」


「昨日も戻ってた」


「昨日は戻ってた。でも朝は別。睡眠を挟むと記憶が沈む場合があるので」


「黒江さんみたいなこと言う」


「透子さんの受け売りです」


「素直」


「受け売りは出典を明らかにするのが記録者の基本なので」


「便利」


「便利だから」


 佳乃は二人のやり取りを聞きながら、少しだけ安心した。


 レイが、こんなふうに軽口を返している。


 それだけで、昨夜の黒い滲みが少し遠ざかる気がした。


「御影レイ」


 真昼が急に呼んだ。


 レイは箸を置き、すぐに返す。


「白瀬真昼」


「反応速度、良好」


「何の検査」


「名前確認」


「朝食中に?」


「食事中のほうが日常環境下の反応が取れる」


「ますます黒江さんみたい」


「ちょっと嬉しい」


「そこは反省して」


 佳乃は、そこで静かに言った。


「レイ」


 レイが母を見る。


「なに」


「返事、ちゃんとしているのね」


「今?」


「今」


「してる」


「ええ」


 佳乃は微笑んだ。


「よかった」


 その一言に、レイは少しだけ目を伏せた。


 真昼も黙った。


 朝の食卓に、ほんの短い静けさが降りた。


 その静けさを破ったのは、佳乃のスマートフォンだった。


 テーブルの端に置いていた端末が震える。


 画面には、アガルタ学院事務局の表示。


 佳乃は眉をひそめた。


「学校から?」


 レイが言う。


「この時間に?」


「珍しいわね」


 佳乃は画面を確認した。


 通知は、保護者ポータルからだった。


 件名。


 **保護者情報更新のお願い**


 文面は事務的だった。


 年度更新に伴い、保護者情報の確認をお願いします。


 未入力項目、または照合不能項目が確認されています。


 期日までにご入力ください。


 佳乃は、胸の奥が冷えるのを感じた。


 未入力項目。


 照合不能項目。


 その言葉が、昨夜見たアルバムの黒い滲みと重なった。


「母さん?」


 レイが聞く。


 佳乃は、できるだけ普通の声で答えた。


「保護者情報の更新だそうよ。年度の確認ね」


「今?」


「たまにあるわ」


「顔がたまにある感じじゃない」


 真昼も、佳乃の手元を見ていた。


「佳乃さん、大丈夫ですか?」


「大丈夫。少し確認するだけ」


 佳乃はポータルへログインした。


 指先が、わずかに震える。


 パスワードを一度打ち間違えた。


 レイはそれを見た。


 真昼も見た。


 佳乃は、何も言わずに再入力した。


 保護者情報確認画面が開く。


 生徒氏名。


 御影レイ。


 住所。


 連絡先。


 保護者1。


 御影佳乃。


 続柄。


 母。


 勤務先。


 アガルタ市立中央図書館・郷土資料室。


 そこまでは、正しい。


 次の欄で、佳乃の手が止まった。


 保護者2。


 氏名欄が、空白だった。


 続柄欄も空白。


 勤務先欄も空白。


 ただ、その下の備考欄に、薄く文字が浮いていた。


 黒ではない。


 灰色でもない。


 画面の奥から滲むような、薄い白黒の文字。


 **R-■■**


 真昼の表情が変わった。


 レイは、その文字を見た瞬間、顔から血の気が引いた。


 佳乃は、呼吸を忘れた。


 朝の食卓。


 味噌汁の湯気。


 ほうじ茶の香り。


 スコーンの甘い匂い。


 使われない三つ目の椅子。


 そのすべてが、一瞬で遠くなった。


「……違う」


 佳乃の声がかすれた。


「違うわ」


 レイが画面を見る。


「父さんの欄?」


 佳乃は答えられなかった。


 真昼が静かに聞く。


「佳乃さん。前は、ここに御影遥真さんの名前がありましたか」


 御影遥真。


 その名前を真昼が口にした瞬間、レイの瞳が揺れた。


 佳乃は、慌てて真昼を見る。


 真昼はすぐに自分が踏み込みすぎたことに気づいた顔をした。


「すみません」


 佳乃は首を横に振った。


「いいの。名前は、あったはずなの」


「はず?」


「ありました」


 佳乃は言い直した。


 自分に言い聞かせるように。


「御影遥真。レイの父親です。以前は、ここにありました」


 レイは、画面から目を離せない。


 R-■■。


 その文字が、少しずつ濃くなっているように見えた。


 見てはいけない。


 そう思った。


 でも、目が離せない。


 文字の奥で、水音がした。


 ぽたり。


 ぽたり。


 朝のダイニングの床が、濡れたコンクリートに変わる。


 違う。


 ここは家だ。


 食卓だ。


 母がいる。


 白瀬がいる。


 でも、匂いが変わる。


 味噌汁の匂いが消え、雨に濡れた鉄の匂いがする。


 古い研究室。


 蛍光灯。


 紙の束。


 手書きの図面。


 地下構造の断面図。


 レイは、自分が小さな手を握られている感覚を思い出した。


 いや、思い出したのか、流れ込んだのか分からない。


 小さい。


 自分の手が小さい。


 隣に大人の手がある。


 細く、骨ばっていて、インクの匂いがする手。


 その手が、自分の指を包んでいる。


 雨が降っている。


 窓のない部屋なのに、雨音がする。


 古い研究室の机の上で、ランプが点滅している。


 紙に書かれた文字。


 A-00。


 R-Root。


 Rei Line。


 境界接続。


 保護者呼称安定。


 レイ。


 御影レイ。


 誰かが膝をつき、自分と目線を合わせる。


 顔は見えない。


 父のはずだ。


 御影遥真のはずだ。


 でも、顔だけが黒く滲んでいる。


 声だけが残る。


「レイ」


 低い声。


 落ち着いた声。


 少し焦っている声。


「自分の名前を言いなさい」


 幼い自分が答えようとする。


 みかげ、れい。


 でも、口の中に別の文字が入ってくる。


 A-00。


 R-■■。


 アルファ。


 対象。


 根。


 記録。


 息子。


 観測対象。


 レイは息ができなくなった。


 ダイニングの椅子が遠ざかる。


 視界が白くなる。


 真昼の声が遠い。


「御影くん?」


 佳乃の声も遠い。


「レイ?」


 レイは立ち上がろうとした。


 だが、足に力が入らなかった。


 椅子が後ろへ倒れる音がした。


 床が近づく。


 その寸前、真昼が叫んだ。


「御影レイ!」


 名前が、胸に当たった。


 だが、まだ遠い。


 R-■■の文字が目の奥で点滅する。


 父の声が繰り返す。


 レイ。自分の名前を言いなさい。


 言えない。


 言おうとすると、A-00が割り込む。


 言おうとすると、父の顔が黒くなる。


 言おうとすると、幼い自分の手が、どこか別の場所へ引かれる。


「御影レイ!」


 真昼の声がもう一度聞こえる。


 今度は近い。


 肩を掴まれている。


 床に倒れかけた体を、真昼が支えている。彼女の腕は細い。支えきれるはずがない。けれど、必死だった。


「御影くん、ここは家です。御影家のダイニング。朝です。私は白瀬真昼。あなたは」


 真昼の声が震えている。


 でも、止まらない。


「あなたは御影レイです!」


 レイは返事をしようとした。


 だが、口が動かない。


 その時、別の声がした。


「レイ」


 佳乃の声だった。


 大きくはない。


 叫んでいない。


 ただ、朝に起こす時と同じ声。


 台所から呼ぶ時の声。


 ご飯が冷めると注意する時の声。


 雨の日に傘を忘れないでと言う時の声。


 無理に聞かない時の声。


 帰ってきたら返事をして、と言う時の声。


「レイ」


 その声だけが、雨の研究室を切った。


 黒く滲んだ父の顔が遠ざかる。


 幼い手の感覚が薄れる。


 R-■■の文字が、画面の中へ戻っていく。


 味噌汁の匂いが戻る。


 ほうじ茶の香りが戻る。


 床の感触が戻る。


 真昼の手が肩にある。


 佳乃が目の前に膝をついている。


「レイ。ここにいる?」


 佳乃は聞いた。


 レイは、息を吸った。


 浅く、痛い呼吸だった。


「……いる」


「名前は?」


 その問いに、胸の奥がまた揺れた。


 父の声と同じ問い。


 自分の名前を言いなさい。


 でも、今聞いているのは母だった。


 研究室ではない。


 朝の家だ。


 レイは、唇を動かした。


「御影、レイ」


 佳乃の表情が、ほんの少しだけ崩れた。


 安心と恐怖が同時に浮かんだ顔だった。


「そう」


 彼女は、レイの頬に手を添えた。


「あなたは、御影レイ」


 真昼が横で息を吐いた。


 泣きそうな顔をしているのに、泣いてはいない。


「白瀬」


 レイが言う。


 真昼はすぐに返した。


「白瀬真昼です」


「ごめん」


「謝るところじゃないです」


「支えきれなかっただろ」


「そこですか?」


「重かった?」


「重かったです。御影くん、細いのに倒れると普通に人間の重さがある」


「人間だから」


 言ってから、レイは自分で少し黙った。


 佳乃も、真昼も黙った。


 人間だから。


 その言葉が、朝のダイニングに落ちる。


 真昼は、静かに言った。


「はい。人間です」


 レイは、まだ床に座り込んだまま、少しだけ目を伏せた。


 佳乃は彼の手を握っている。


 その手は、もう幼い手ではない。


 十七歳の少年の手だった。


 でも、佳乃には、いつかの小さな手の感触も重なっていた。


 遥真が何度も確認していた名前。


 レイ。


 御影レイ。


 その名前を、今度は自分が呼び続けなければならない。


 佳乃は、テーブルの上のスマートフォンを見た。


 画面はまだ開いたままだった。


 保護者2。


 氏名欄、空白。


 備考欄。


 R-■■。


 その文字は、さっきよりも少し濃くなっていた。


 佳乃は、ゆっくり立ち上がり、スマートフォンを伏せた。


 真昼がそれを見た。


「佳乃さん」


「真昼さん」


「はい」


「今のことは」


「記録します。でも、公開はしません」


 佳乃は、少しだけ目を見開いた。


 真昼はまっすぐ言った。


「必要な記録だと思います。でも、外へ出していいものではないと思います。少なくとも、今は」


 佳乃は、静かに頷いた。


「ありがとう」


「いえ」


 レイが低く言う。


「白瀬が、公開しないって即答するの、珍しい」


「成長しました」


「自分で言う?」


「言います。言わないと不安なので」


 真昼はそう言ってから、少しだけ表情を引き締めた。


「でも、これは《アガルタ観測録》だけの問題じゃありません。学院の保護者情報が書き換わってるなら、他にも起きてる可能性があります」


「父親欄」


 レイが言った。


 真昼が頷く。


「序盤からそこが狙われているなら、家族記録の欠落です。名前欠落とは少し違う。役割ごと削ってる」


「父という役割」


 佳乃が静かに言った。


 その言葉が、自分の口から出たことに、少しだけ驚いた。


 父。


 夫。


 研究者。


 失踪者。


 御影遥真。


 R-■■。


 いくつもの呼び方が、胸の中で重なる。


 レイはまだ床に座ったままだったが、視線だけはテーブルの端へ向いていた。


 そこには、昨夜閉じたアルバムが置かれている。


 佳乃は、もう隠せないと分かった。


 だが、今すぐ全部を開くこともできない。


 朝食の湯気は、すっかり薄くなっていた。


 三つ目の椅子は、まだ空いている。


 レイはその椅子を見た。


「母さん」


「なに」


「父さんの名前、言える?」


 佳乃は、息を止めた。


 真昼も黙る。


 朝の部屋に、外の小学生たちの声が微かに届いている。


 時間は進んでいる。


 学校に行かなければならない。


 食器を片づけなければならない。


 学院へ連絡しなければならない。


 市警にも連絡すべきかもしれない。


 それでも、今、この問いから逃げてはいけなかった。


 佳乃は、レイの目を見た。


「言えるわ」


 声は震えなかった。


「御影遥真」


 その名前を言った瞬間、部屋の蛍光灯がかすかにちらついた。


 テーブルの端に置かれたアルバムの表紙が、ほんの少しだけ震える。


 レイの顔が歪んだ。


 真昼はすぐに彼の肩に手を置く。


 だが、レイは倒れなかった。


 佳乃の声が、彼をここに留めていた。


「あなたのお父さんの名前は、御影遥真」


 佳乃は、もう一度言った。


「でも、あなたはお父さんの記録じゃない。あなたは、御影レイ」


 レイは、長く息を吐いた。


「……うん」


 短い返事だった。


 それでも、返事だった。


 佳乃は、それだけで少し救われた。


 真昼が、静かにメモ帳を開いた。


 ペン先が紙に触れる。


 彼女は、声に出さずに書いた。


 御影遥真。


 保護者欄より欠落。


 R-■■表示。


 御影レイ、記憶混線。


 佳乃さんの呼称で帰還。


 父の名前は消えかけている。


 でも、母の声にはまだ残っている。


 真昼は最後の一文で手を止めた。


 それから、慎重に書き足した。


 ここから先は、まだ公開しない。


 朝の光が、窓から食卓へ落ちていた。


 冷めかけた味噌汁。


 伏せられたスマートフォン。


 閉じられたアルバム。


 空いたままの椅子。


 そして、そこにいない父の名前。


 御影家の朝は、いつも通りに始まったはずだった。


 けれど、もう、いつもの朝ではなかった。

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