第一章 御影家の朝
朝は、名前から始まる。
御影佳乃は、それを毎日してきた。
特別な儀式だと思ったことはない。そう思わないようにしてきた、と言ったほうが正しいかもしれない。
朝、台所に立つ。
小鍋に味噌汁を温める。
炊飯器の蓋を開け、湯気を逃がす。
卵焼き用の小さなフライパンを火にかける。
昨夜のうちに洗っておいた小松菜を刻む。
テーブルに箸を置く。
茶碗を二つ。
味噌汁椀を二つ。
湯呑みを二つ。
それから、少しだけ迷って、三つ目の椅子を見る。
食卓の端に置かれた椅子。
もう十年近く、誰も座っていない椅子。
背もたれの角に、小さな傷がある。レイが幼い頃、玩具の電車をぶつけてつけた傷だった。遥真はその時、怒らなかった。ただ傷を指でなぞって、「家具にも記録が残るんだな」と言った。
佳乃は、その言葉を今でも覚えている。
捨てようと思ったことは何度もある。
この椅子だけが、食卓の空気を少しだけ重くしているからだ。二人分の朝食に、三つ目の椅子は多すぎる。使われない椅子は、不在を形にする。
だが、捨てられなかった。
そこに誰かが座っていたことまで捨てるようで。
佳乃は、卵焼きを皿に移し、火を止めた。
それから、廊下へ向かう。
レイの部屋の前で立ち止まり、いつものように軽くノックした。
「レイ、朝よ」
返事はすぐにはなかった。
いつものことだ。
佳乃は、もう一度ノックする。
「レイ」
扉の向こうで、布団が擦れる音がした。
「……起きてる」
「起きている人は、扉越しでももう少し起きている声を出します」
「起きかけてる」
「起きていない人の言い訳ね」
「分類が厳しい」
「朝ごはん、冷めるわよ」
「分かった」
短い返事。
低く、眠たげで、感情の少ない声。
けれど、それでよかった。
佳乃は毎朝、その声を確認する。
レイ。
御影レイ。
自分の息子。
どれほど遠い記憶に沈んでいても、朝にはこの部屋にいて、この声で返事をする。
それが、佳乃にとっての日常だった。
昨夜、アルバムを閉じた音が、まだ耳に残っている。
写真の中の遥真の顔。
左目のあたりから広がり始めた、黒い滲み。
アルバムの端から覗いた白い紙片。
R-■■。
佳乃は、それを見た。
見なかったことにはできない。
けれど、まだレイには言えなかった。
言うべきだと分かっている。
隠し続けてきたことが、いつかレイを傷つけると分かっている。
それでも、朝食の前に話すことではない。
そんな言い訳を、佳乃は自分にした。
台所へ戻ると、レイが部屋から出てきた。
制服のシャツはまだボタンが一つ外れている。前髪は少し乱れ、顔色はいつもより白い。寝不足のようにも見えるし、いつものようにも見える。
「おはよう」
「おはよう」
佳乃はレイの顔を見た。
見る。
見すぎないようにする。
問い詰めない。
でも、見落とさない。
母親としての十七年は、その加減の積み重ねだった。
「寝られた?」
「少し」
「少しじゃ足りないわ」
「寝ても記憶は止まらない」
「そういう難しいことを言う前に、顔を洗ってきなさい」
「難しくない」
「私には難しいの」
「……分かった」
レイは洗面所へ向かった。
水道の音がする。
佳乃は、その音を聞きながら味噌汁をよそった。
昨夜も同じような水音を聞いた。
洗面所の水が止まった時、アルバムの端から白い紙片が見えた。
R-■■。
佳乃は一度だけ目を閉じた。
大丈夫。
まだ朝だ。
朝は、まず食べる。
体を今へ戻す。
言葉より先に、温かい味噌汁。
そうやって、ずっとやってきた。
レイが戻ってきて、椅子に座る。
二人分の箸。
二人分の茶碗。
そして、使われない三つ目の椅子。
レイの視線が、その椅子にほんの一瞬だけ向いた。
佳乃は気づいた。
気づいたが、何も言わなかった。
レイも何も言わない。
それが、これまでの御影家のやり方だった。
「いただきます」
佳乃が言う。
「いただきます」
レイも言う。
箸が茶碗に触れる。
味噌汁の湯気が上がる。
外は晴れている。
窓の向こうに見える細い道を、小学生たちがランドセルを揺らして歩いていた。昨日の雨で、道路の端にまだ小さな水たまりが残っている。そこへ朝日が当たり、白く光る。
レイは味噌汁を一口飲んだ。
その表情が、ほんの少しだけ緩む。
佳乃は、それを見て安心する。
「今日は早いの?」
「普通」
「普通の時間?」
「普通に間に合う時間」
「それは、だいぶ怪しい普通ね」
「間に合えば普通」
「朝から屁理屈を言う元気はあるのね」
レイは少しだけ視線を逸らした。
「母さんの朝は、言葉の検査が多い」
「親の仕事です」
「検査?」
「確認」
「同じでは」
「違うわ」
「どう違うの」
「確認には、朝ごはんがつきます」
レイは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「便利な定義」
「便利だから」
その返しに、レイは何かを思い出したように小さく息を吐いた。
「それ、白瀬みたい」
「真昼さん?」
「うん」
「真昼さんも、便利なの?」
「便利というか、騒がしい」
「それは便利なの?」
「たぶん」
佳乃は笑った。
レイが誰かを「騒がしい」と言う時、その声には少しだけ温度がある。
以前のレイなら、他人の話題をここまで自然に食卓へ持ち込まなかった。学校のことを聞いても、必要最低限の返事しか返ってこない。誰かの名前が出ることも少なかった。
白瀬真昼。
佳乃は、その名前を心の中で呼んだ。
息子の世界に、強引に入り込んできた少女。
危なっかしい。
騒がしい。
お節介。
でも、レイを呼び戻してくれる声を持つ子。
玄関のチャイムが鳴ったのは、その時だった。
レイは箸を止めた。
佳乃も一瞬だけ動きを止める。
朝の七時四十分。
宅配には早い。
新聞の集金でもない。
「私が出るわ」
「僕も」
「ご飯を食べていなさい」
「この時間に来る人、限られる」
「まさか」
佳乃が玄関へ向かうと、ドアの向こうから、聞き慣れた明るい声がした。
「おはようございます! 白瀬です!」
佳乃は、思わず笑ってしまった。
レイがダイニングから低く言う。
「限られてた」
「本当に真昼さんだったわ」
ドアを開けると、白瀬真昼が立っていた。
制服姿。
髪はポニーテール。
肩から鞄をかけ、片手に小さな紙袋を持っている。朝からよく動いた人間特有の、少しだけ息の上がった顔をしていた。
「朝早くにすみません!」
「おはよう、真昼さん。どうしたの?」
「登校前に少しだけ寄らせてもらおうと思って。御影くんの状態確認と、《アガルタ観測録》の記事の相談で」
言いながら、真昼は紙袋を差し出した。
「これ、近くのパン屋さんのスコーンです。朝ごはん中だったらすみません。むしろ朝ごはん中ですよね、この時間」
「ありがとう。ちょうど食べていたところよ。上がっていく?」
「え、いいんですか」
「もちろん」
「では、お邪魔します。五分だけ。いや、十分。いえ、できれば十五分」
ダイニングから、レイの声が飛ぶ。
「増えてる」
真昼は玄関先から言い返した。
「御影くん、おはようございます。朝から冷静な指摘をありがとう」
「朝から元気だね」
「御影くんの朝が静かすぎるだけです」
「普通」
「その普通、たぶん図書館の閉架書庫基準だよ」
佳乃は靴をそろえる真昼を見て、微笑んだ。
「お茶を淹れるわね」
「いえいえいえ! 朝の忙しい時間にそこまでしていただくわけには」
「もうお湯は沸いているから」
「でも」
レイが味噌汁を飲みながら言う。
「諦めたほうがいい」
「御影くんが言うと説得力あるね」
「母さんは客にお茶を出す」
「知ってた?」
「家のルール」
「御影家ルール、優しいけど圧がある」
真昼は恐縮しながらも、結局ダイニングに通された。
佳乃は彼女に温かいほうじ茶を出し、スコーンを皿に移した。
食卓は、少しだけ賑やかになった。
真昼が座ったのは、レイの隣ではなく、斜め向かいの席だった。
そして、空いたままの椅子を一瞬見た。
見たが、何も言わなかった。
その一瞬で、佳乃は、この子は見ていると思った。
何も知らないふりをしながら、ちゃんと見ている。
それは、彼女が記録者だからなのか、ただの性格なのか、佳乃には分からなかった。
「で、状態確認って何」
レイが聞いた。
真昼は鞄から小さなメモ帳を取り出しかけて、佳乃の前であることを思い出したように止めた。
「あ、ええと、昨日の件のあと、御影くんがちゃんと自分の名前で戻れてるかの確認です」
「昨日も戻ってた」
「昨日は戻ってた。でも朝は別。睡眠を挟むと記憶が沈む場合があるので」
「黒江さんみたいなこと言う」
「透子さんの受け売りです」
「素直」
「受け売りは出典を明らかにするのが記録者の基本なので」
「便利」
「便利だから」
佳乃は二人のやり取りを聞きながら、少しだけ安心した。
レイが、こんなふうに軽口を返している。
それだけで、昨夜の黒い滲みが少し遠ざかる気がした。
「御影レイ」
真昼が急に呼んだ。
レイは箸を置き、すぐに返す。
「白瀬真昼」
「反応速度、良好」
「何の検査」
「名前確認」
「朝食中に?」
「食事中のほうが日常環境下の反応が取れる」
「ますます黒江さんみたい」
「ちょっと嬉しい」
「そこは反省して」
佳乃は、そこで静かに言った。
「レイ」
レイが母を見る。
「なに」
「返事、ちゃんとしているのね」
「今?」
「今」
「してる」
「ええ」
佳乃は微笑んだ。
「よかった」
その一言に、レイは少しだけ目を伏せた。
真昼も黙った。
朝の食卓に、ほんの短い静けさが降りた。
その静けさを破ったのは、佳乃のスマートフォンだった。
テーブルの端に置いていた端末が震える。
画面には、アガルタ学院事務局の表示。
佳乃は眉をひそめた。
「学校から?」
レイが言う。
「この時間に?」
「珍しいわね」
佳乃は画面を確認した。
通知は、保護者ポータルからだった。
件名。
**保護者情報更新のお願い**
文面は事務的だった。
年度更新に伴い、保護者情報の確認をお願いします。
未入力項目、または照合不能項目が確認されています。
期日までにご入力ください。
佳乃は、胸の奥が冷えるのを感じた。
未入力項目。
照合不能項目。
その言葉が、昨夜見たアルバムの黒い滲みと重なった。
「母さん?」
レイが聞く。
佳乃は、できるだけ普通の声で答えた。
「保護者情報の更新だそうよ。年度の確認ね」
「今?」
「たまにあるわ」
「顔がたまにある感じじゃない」
真昼も、佳乃の手元を見ていた。
「佳乃さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫。少し確認するだけ」
佳乃はポータルへログインした。
指先が、わずかに震える。
パスワードを一度打ち間違えた。
レイはそれを見た。
真昼も見た。
佳乃は、何も言わずに再入力した。
保護者情報確認画面が開く。
生徒氏名。
御影レイ。
住所。
連絡先。
保護者1。
御影佳乃。
続柄。
母。
勤務先。
アガルタ市立中央図書館・郷土資料室。
そこまでは、正しい。
次の欄で、佳乃の手が止まった。
保護者2。
氏名欄が、空白だった。
続柄欄も空白。
勤務先欄も空白。
ただ、その下の備考欄に、薄く文字が浮いていた。
黒ではない。
灰色でもない。
画面の奥から滲むような、薄い白黒の文字。
**R-■■**
真昼の表情が変わった。
レイは、その文字を見た瞬間、顔から血の気が引いた。
佳乃は、呼吸を忘れた。
朝の食卓。
味噌汁の湯気。
ほうじ茶の香り。
スコーンの甘い匂い。
使われない三つ目の椅子。
そのすべてが、一瞬で遠くなった。
「……違う」
佳乃の声がかすれた。
「違うわ」
レイが画面を見る。
「父さんの欄?」
佳乃は答えられなかった。
真昼が静かに聞く。
「佳乃さん。前は、ここに御影遥真さんの名前がありましたか」
御影遥真。
その名前を真昼が口にした瞬間、レイの瞳が揺れた。
佳乃は、慌てて真昼を見る。
真昼はすぐに自分が踏み込みすぎたことに気づいた顔をした。
「すみません」
佳乃は首を横に振った。
「いいの。名前は、あったはずなの」
「はず?」
「ありました」
佳乃は言い直した。
自分に言い聞かせるように。
「御影遥真。レイの父親です。以前は、ここにありました」
レイは、画面から目を離せない。
R-■■。
その文字が、少しずつ濃くなっているように見えた。
見てはいけない。
そう思った。
でも、目が離せない。
文字の奥で、水音がした。
ぽたり。
ぽたり。
朝のダイニングの床が、濡れたコンクリートに変わる。
違う。
ここは家だ。
食卓だ。
母がいる。
白瀬がいる。
でも、匂いが変わる。
味噌汁の匂いが消え、雨に濡れた鉄の匂いがする。
古い研究室。
蛍光灯。
紙の束。
手書きの図面。
地下構造の断面図。
レイは、自分が小さな手を握られている感覚を思い出した。
いや、思い出したのか、流れ込んだのか分からない。
小さい。
自分の手が小さい。
隣に大人の手がある。
細く、骨ばっていて、インクの匂いがする手。
その手が、自分の指を包んでいる。
雨が降っている。
窓のない部屋なのに、雨音がする。
古い研究室の机の上で、ランプが点滅している。
紙に書かれた文字。
A-00。
R-Root。
Rei Line。
境界接続。
保護者呼称安定。
レイ。
御影レイ。
誰かが膝をつき、自分と目線を合わせる。
顔は見えない。
父のはずだ。
御影遥真のはずだ。
でも、顔だけが黒く滲んでいる。
声だけが残る。
「レイ」
低い声。
落ち着いた声。
少し焦っている声。
「自分の名前を言いなさい」
幼い自分が答えようとする。
みかげ、れい。
でも、口の中に別の文字が入ってくる。
A-00。
R-■■。
アルファ。
対象。
根。
記録。
息子。
観測対象。
レイは息ができなくなった。
ダイニングの椅子が遠ざかる。
視界が白くなる。
真昼の声が遠い。
「御影くん?」
佳乃の声も遠い。
「レイ?」
レイは立ち上がろうとした。
だが、足に力が入らなかった。
椅子が後ろへ倒れる音がした。
床が近づく。
その寸前、真昼が叫んだ。
「御影レイ!」
名前が、胸に当たった。
だが、まだ遠い。
R-■■の文字が目の奥で点滅する。
父の声が繰り返す。
レイ。自分の名前を言いなさい。
言えない。
言おうとすると、A-00が割り込む。
言おうとすると、父の顔が黒くなる。
言おうとすると、幼い自分の手が、どこか別の場所へ引かれる。
「御影レイ!」
真昼の声がもう一度聞こえる。
今度は近い。
肩を掴まれている。
床に倒れかけた体を、真昼が支えている。彼女の腕は細い。支えきれるはずがない。けれど、必死だった。
「御影くん、ここは家です。御影家のダイニング。朝です。私は白瀬真昼。あなたは」
真昼の声が震えている。
でも、止まらない。
「あなたは御影レイです!」
レイは返事をしようとした。
だが、口が動かない。
その時、別の声がした。
「レイ」
佳乃の声だった。
大きくはない。
叫んでいない。
ただ、朝に起こす時と同じ声。
台所から呼ぶ時の声。
ご飯が冷めると注意する時の声。
雨の日に傘を忘れないでと言う時の声。
無理に聞かない時の声。
帰ってきたら返事をして、と言う時の声。
「レイ」
その声だけが、雨の研究室を切った。
黒く滲んだ父の顔が遠ざかる。
幼い手の感覚が薄れる。
R-■■の文字が、画面の中へ戻っていく。
味噌汁の匂いが戻る。
ほうじ茶の香りが戻る。
床の感触が戻る。
真昼の手が肩にある。
佳乃が目の前に膝をついている。
「レイ。ここにいる?」
佳乃は聞いた。
レイは、息を吸った。
浅く、痛い呼吸だった。
「……いる」
「名前は?」
その問いに、胸の奥がまた揺れた。
父の声と同じ問い。
自分の名前を言いなさい。
でも、今聞いているのは母だった。
研究室ではない。
朝の家だ。
レイは、唇を動かした。
「御影、レイ」
佳乃の表情が、ほんの少しだけ崩れた。
安心と恐怖が同時に浮かんだ顔だった。
「そう」
彼女は、レイの頬に手を添えた。
「あなたは、御影レイ」
真昼が横で息を吐いた。
泣きそうな顔をしているのに、泣いてはいない。
「白瀬」
レイが言う。
真昼はすぐに返した。
「白瀬真昼です」
「ごめん」
「謝るところじゃないです」
「支えきれなかっただろ」
「そこですか?」
「重かった?」
「重かったです。御影くん、細いのに倒れると普通に人間の重さがある」
「人間だから」
言ってから、レイは自分で少し黙った。
佳乃も、真昼も黙った。
人間だから。
その言葉が、朝のダイニングに落ちる。
真昼は、静かに言った。
「はい。人間です」
レイは、まだ床に座り込んだまま、少しだけ目を伏せた。
佳乃は彼の手を握っている。
その手は、もう幼い手ではない。
十七歳の少年の手だった。
でも、佳乃には、いつかの小さな手の感触も重なっていた。
遥真が何度も確認していた名前。
レイ。
御影レイ。
その名前を、今度は自分が呼び続けなければならない。
佳乃は、テーブルの上のスマートフォンを見た。
画面はまだ開いたままだった。
保護者2。
氏名欄、空白。
備考欄。
R-■■。
その文字は、さっきよりも少し濃くなっていた。
佳乃は、ゆっくり立ち上がり、スマートフォンを伏せた。
真昼がそれを見た。
「佳乃さん」
「真昼さん」
「はい」
「今のことは」
「記録します。でも、公開はしません」
佳乃は、少しだけ目を見開いた。
真昼はまっすぐ言った。
「必要な記録だと思います。でも、外へ出していいものではないと思います。少なくとも、今は」
佳乃は、静かに頷いた。
「ありがとう」
「いえ」
レイが低く言う。
「白瀬が、公開しないって即答するの、珍しい」
「成長しました」
「自分で言う?」
「言います。言わないと不安なので」
真昼はそう言ってから、少しだけ表情を引き締めた。
「でも、これは《アガルタ観測録》だけの問題じゃありません。学院の保護者情報が書き換わってるなら、他にも起きてる可能性があります」
「父親欄」
レイが言った。
真昼が頷く。
「序盤からそこが狙われているなら、家族記録の欠落です。名前欠落とは少し違う。役割ごと削ってる」
「父という役割」
佳乃が静かに言った。
その言葉が、自分の口から出たことに、少しだけ驚いた。
父。
夫。
研究者。
失踪者。
御影遥真。
R-■■。
いくつもの呼び方が、胸の中で重なる。
レイはまだ床に座ったままだったが、視線だけはテーブルの端へ向いていた。
そこには、昨夜閉じたアルバムが置かれている。
佳乃は、もう隠せないと分かった。
だが、今すぐ全部を開くこともできない。
朝食の湯気は、すっかり薄くなっていた。
三つ目の椅子は、まだ空いている。
レイはその椅子を見た。
「母さん」
「なに」
「父さんの名前、言える?」
佳乃は、息を止めた。
真昼も黙る。
朝の部屋に、外の小学生たちの声が微かに届いている。
時間は進んでいる。
学校に行かなければならない。
食器を片づけなければならない。
学院へ連絡しなければならない。
市警にも連絡すべきかもしれない。
それでも、今、この問いから逃げてはいけなかった。
佳乃は、レイの目を見た。
「言えるわ」
声は震えなかった。
「御影遥真」
その名前を言った瞬間、部屋の蛍光灯がかすかにちらついた。
テーブルの端に置かれたアルバムの表紙が、ほんの少しだけ震える。
レイの顔が歪んだ。
真昼はすぐに彼の肩に手を置く。
だが、レイは倒れなかった。
佳乃の声が、彼をここに留めていた。
「あなたのお父さんの名前は、御影遥真」
佳乃は、もう一度言った。
「でも、あなたはお父さんの記録じゃない。あなたは、御影レイ」
レイは、長く息を吐いた。
「……うん」
短い返事だった。
それでも、返事だった。
佳乃は、それだけで少し救われた。
真昼が、静かにメモ帳を開いた。
ペン先が紙に触れる。
彼女は、声に出さずに書いた。
御影遥真。
保護者欄より欠落。
R-■■表示。
御影レイ、記憶混線。
佳乃さんの呼称で帰還。
父の名前は消えかけている。
でも、母の声にはまだ残っている。
真昼は最後の一文で手を止めた。
それから、慎重に書き足した。
ここから先は、まだ公開しない。
朝の光が、窓から食卓へ落ちていた。
冷めかけた味噌汁。
伏せられたスマートフォン。
閉じられたアルバム。
空いたままの椅子。
そして、そこにいない父の名前。
御影家の朝は、いつも通りに始まったはずだった。
けれど、もう、いつもの朝ではなかった。




