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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第四巻:御影遥真とR-■■
38/82

序章 父の欄が消える

 家庭調査票の紙は、まだ少し温かかった。


 印刷室から運ばれてきたばかりの紙束は、ひとまとめにされて教卓の上へ置かれている。白い紙の角はそろっていて、黒い罫線も、項目名も、いつもと同じだった。


 児童氏名。


 住所。


 生年月日。


 保護者氏名。


 緊急連絡先。


 勤務先。


 既往歴。


 通学路。


 アレルギー。


 四月のアガルタ市立鳴沢小学校では、毎年似たような書類が配られる。子どもたちはそれを連絡袋へ入れて持ち帰り、保護者が記入し、数日後に提出する。


 ほとんどの児童にとって、それは面倒な紙だった。


 保護者にとっても、毎年のことだった。


 住所は変わらない。電話番号も変わらない。勤務先も大きくは変わらない。前年の控えを見ながら同じことを書き、印鑑を押し、連絡袋に戻すだけの紙。


 だから、四年二組の担任である秋津美帆は、その朝、提出された家庭調査票を確認しながら、最初は何もおかしいと思わなかった。


「はい、出せる人は前に持ってきてください。まだの人は、明日でも大丈夫です。おうちの人に渡し忘れてる人、正直に言えば怒りません。黙ってると怒ります」


 教室に小さな笑いが起きた。


「先生、怒るじゃん」


「怒ります。黙ってたら」


「ほら怒る」


「今のは確認です」


 美帆がそう返すと、また何人かが笑った。


 朝の教室は少し湿っていた。昨夜降った雨が校庭の砂を暗くし、窓を開けると、鉄棒と濡れた土の匂いが入ってくる。黒板の端には、昨日の日直が消しきれなかった白い粉が残っていた。


 児童たちは、連絡袋を机の中から引っ張り出し、折れたプリントや給食の献立表と一緒に、家庭調査票を探していた。


「先生、これでいい?」


「見せて。うん、これ」


「お母さん、ここ書き忘れてるかも」


「じゃあ、今日持ち帰ってもらって。赤で印つけておくね」


 いつもの朝だった。


 いつもの紙。


 いつもの声。


 いつもの少しだけ慌ただしい教室。


 その中で、最初に手を止めたのは、窓際から三列目の席に座っている男の子だった。


 名前は、榎本颯太。


 小柄で、前髪が目にかかりがちな児童だった。授業中はあまり手を挙げないが、ノートは丁寧に書く。掃除当番を忘れない。給食の牛乳を飲むのが遅い。休み時間は、友人と運動場へ行くよりも、図書室の前に貼ってある迷路クイズを解くほうを好む。


 颯太は、自分の家庭調査票を両手で持ったまま、前へ来なかった。


 美帆は最初、記入漏れに気づいたのだと思った。


「榎本くん、どうしたの」


 颯太は返事をしなかった。


 ただ、机の上の紙を見下ろしていた。


 隣の児童が覗き込もうとして、颯太が慌てて紙を伏せる。


「見ないで」


「え、なんで」


「見ないでってば」


 声が少し尖った。


 美帆は、手元の紙束を教卓に置いた。


「榎本くん、持ってきてくれる?」


 颯太は、しばらく動かなかった。


 それから、紙を胸に当てるようにして立ち上がった。椅子の脚が床をこすり、短く鳴った。周囲の何人かが顔を上げる。


 颯太は教卓の前まで来ると、紙を差し出した。


 家庭調査票は、きれいに記入されていた。


 児童氏名。


 榎本颯太。


 住所。


 アガルタ市鳴沢町三丁目――


 生年月日。


 電話番号。


 母親の欄。


 榎本麻衣。


 勤務先。


 緊急連絡先。


 そこまでは、いつもの字だった。


 大人の、少し急いだ丸文字。おそらく母親が書いたものだろう。


 だが、父親の欄だけが空白だった。


 美帆は、そこでようやく息を整えた。家庭調査票の空白には、いろいろな理由がある。離婚、死別、別居、家庭内の事情、書きたくない事情。学校の教師は、そこへ無神経に踏み込んではいけない。


 美帆は、声の調子を少し落とした。


「ここは、おうちの人が書かないでいいって言ってた?」


 颯太は首を振った。


「書いた」


「書いた?」


「昨日、書いてた。お母さんが。お父さんの名前も」


 美帆は紙を見た。


 父親の欄は空白だった。


 罫線の上に、消しゴムをかけた跡もない。修正テープの白さもない。紙は何も書かれていなかったように、なめらかだった。


「持ってくる途中で、何かこぼした?」


「こぼしてない」


「じゃあ、おうちで消したとか」


「消してない」


 颯太の唇が、きゅっと結ばれた。


 彼は怒っているのではなかった。


 困っていた。


 困って、少しだけ怖がっていた。


「先生」


「うん」


「お父さんの名前、何だっけ」


 教室の音が、少しだけ遠くなった。


 鉛筆を落とした音。


 誰かが椅子を揺らす音。


 校庭で下級生が笑う声。


 廊下を走って注意される声。


 それらが、窓の外の湿った空気に溶けて、薄くなった。


 美帆は、すぐに答えなかった。


 颯太の父親の名前を、美帆は知っているはずだった。


 保護者面談で会ったことがある。背が高く、眼鏡をかけた男性だった。昨年の運動会では、颯太の徒競走をスマートフォンで撮っていた。保護者欄に名前もあった。PTAの係決めで、何かに丸をつけていたのを覚えている。


 顔は思い出せる。


 声も、なんとなく思い出せる。


 少し低くて、丁寧な声。


 だが、名前だけが出てこなかった。


 喉元まで来ているのに、口に出す直前で、紙のようにふやけて崩れる。


「……おうちに帰ったら、もう一度確認してもらおうか」


 美帆は、そう言った。


 教師らしい、穏当な言葉だった。


 颯太は美帆を見上げた。


「でも、今朝いたよ」


「うん」


「ご飯食べてた」


「うん」


「ネクタイ曲がってて、お母さんに直されてた」


「うん」


「行ってきますって言った」


「うん」


「だから、いるよ」


 颯太の声が、そこで少し震えた。


「お父さん、いるよ」


 美帆は、家庭調査票を伏せた。


 教室の子どもたちがこちらを見ていることに気づいたからだった。


「いるよ。先生も、いないって言ってない」


「じゃあ、なんで名前が書けないの」


「……今日は、後でお母さんに確認しよう。先生から連絡するね」


「お母さん、怒られる?」


「怒られないよ」


「お父さんは?」


「怒られない」


「本当?」


「本当」


 颯太は、まだ納得していない顔だった。


 けれど、美帆が家庭調査票を預かると、小さく頷いて席へ戻った。


 その背中は、いつもより少し丸かった。


 美帆は、教卓の上に置いた紙を見下ろした。


 父親欄。


 空白。


 ただの記入漏れ。


 そう考えるべきだった。


 そう処理するべきだった。


 学校という場所では、書類の空白を、まず現実的な理由で扱う。家庭の事情か、記入漏れか、連絡ミスか。教師が勝手に怖がってはいけない。子どもの前で、意味を持たせてはいけない。


 美帆は深呼吸をして、次の児童に声をかけた。


「はい、次の人」


 すると、前から二番目の席の女の子が、そろそろと立ち上がった。


「先生」


「なに?」


「うちも」


 女の子は、家庭調査票を持っていた。


 両手で、端を握りしめていた。


「うちも、お父さんのところ、白い」


 美帆の指先が、冷えた。


 その女の子の家庭調査票も、母親の欄は書かれていた。


 本人の名前も、住所も、緊急連絡先も、通学路も、兄弟姉妹の欄も、全部書かれていた。


 父親の欄だけが空白だった。


 その次の児童も。


 そのまた次も。


 全員ではない。


 けれど、四年二組の中で、五人。


 家庭調査票の父親欄だけが、空白だった。


 母親の欄はある。


 本人の名前はある。


 兄弟姉妹の名前もある。


 祖母の緊急連絡先まである子もいた。


 なのに、父親の欄だけが白かった。


「先生、これって間違い?」


「先生、うちのお父さん、昨日書いてたよ」


「先生、電話したら分かる?」


「先生、なんで?」


 声が増え始めた。


 美帆は、子どもたちに不安が広がる前に手を叩いた。


「はい、一回しまって。まだ提出していない人は、連絡袋に戻して。今日の一時間目、国語です。教科書を開いてください」


「でも先生」


「あとで確認します。大丈夫。お父さんが消えたわけじゃないから」


 言ってから、失敗したと思った。


 子どもたちの何人かが、余計に不安そうな顔をした。


 消えた。


 その言葉だけが、教室に残った。


 美帆はすぐに言い直した。


「ごめん。言い方がよくなかったね。書類の確認をします。今は授業を始めます」


 児童たちは、しぶしぶ教科書を出した。


 ページをめくる音が、いつもより薄く聞こえた。


 美帆は黒板に単元名を書いた。


 白いチョークが、黒板の上を滑った。


 けれど、頭の隅では、家庭調査票の空白が消えなかった。


 父親欄だけが空白。


 それも、一人ではない。


 紙に書かれていないだけならいい。


 だが、颯太は父の名前を思い出せなかった。


 美帆自身も、思い出せなかった。


 それが、いちばん気味が悪かった。


     ◇


 職員室では、最初、ただの事務連絡として扱われた。


「記入漏れが多い?」


 学年主任の野々村が、眼鏡を上げながら聞き返した。


「はい。ただ、父親欄だけなんです」


「父親欄?」


「母親欄や住所は記入されています。父親欄だけ、空白になっている家庭が複数あって」


「最近は家庭の形もいろいろだからね」


「それは分かっています。ですが、児童が、昨日は書かれていたと言っていて」


「子どもの記憶違いでは?」


「かもしれません」


 美帆は、そう言うしかなかった。


 職員室は、昼休み前のざわつきに包まれていた。電話が鳴り、コピー機が唸り、給食当番の児童が廊下を通る。職員室の窓の外では、雨のあとの校庭が少しずつ乾き始めていた。


 現実は、あまりに普通だった。


 普通すぎて、家庭調査票の空白だけが浮いている。


「とりあえず、該当家庭へ確認を取ろう。家庭事情に関わる場合は慎重に。子どもの前では不用意に話さないように」


「はい」


「他のクラスは?」


「まだ確認していません」


 野々村が近くの教員へ声をかけた。


「三組と一組も、家庭調査票の父親欄、確認してくれる?」


「父親欄ですか?」


「記入漏れが多いらしい」


「分かりました」


 それから三十分後、四年一組で三件。


 三組で四件。


 五年生で六件。


 二年生で二件。


 六年生で一件。


 父親欄の空白が見つかった。


 ただし、全家庭ではない。


 条件は分からない。


 離婚家庭だけではない。


 父親が単身赴任中の家庭だけでもない。


 同居している家庭にも起きている。


 今朝、父親が弁当を作ったという児童。


 父親に車で送ってもらったという児童。


 父親と喧嘩して、まだ謝っていないという児童。


 父親が夜勤明けで寝ていたという児童。


 それぞれが、父を覚えていた。


 顔も。


 声も。


 癖も。


 家の中の居場所も。


 だが、名前だけが書けない。


 教師たちも、過去の名簿を開けば分かるはずだった。


 だが、不思議なことに、前年度の保護者名簿でも、父親欄だけが空白になっていた。


 データベースでも同じだった。


 母親名は残っている。


 住所も残っている。


 児童氏名も残っている。


 だが、父親欄だけが白い。


「システム障害?」


「紙の名簿もです」


「じゃあ転記ミス?」


「全学年で?」


「あり得ないとは言い切れないけど」


「いや、さすがに」


 職員室の空気が変わった。


 誰も大声では言わない。


 けれど、誰もが同じことを考え始めていた。


 これは、普通の記入漏れではない。


 美帆は、該当家庭へ電話をかけた。


 まずは、榎本颯太の家。


 電話に出たのは母親だった。


『はい、榎本です』


「あ、鳴沢小学校の秋津です。お忙しいところすみません。家庭調査票の件で確認をしたくて」


『はい。何か書き漏れがありましたか?』


「父親欄が空白になっていまして」


 少し沈黙があった。


『……え?』


「お心当たりはありますか」


『いえ。主人の欄も書きました。昨日の夜、颯太と一緒に確認しました』


「そうですか」


『あの、空白なんですか?』


「はい」


『そんなはずないです。書きました。主人の名前も、勤務先も、携帯番号も』


「申し訳ありません。こちらでも確認しますので、念のため、もう一度ご記入いただくことは可能でしょうか」


『もちろんです。でも……』


 電話の向こうで、紙を探す音がした。


 引き出しを開ける音。


 何かをめくる音。


『先生』


「はい」


『去年の控えを見ているんですけど』


「はい」


『主人の欄だけ、白いです』


 美帆は、職員室の時計を見た。


 秒針が、普通に動いている。


 十二時四十六分。


 何も止まっていない。


『おかしいです。去年も書きました。主人が自分で書いたんです。字が汚いから、私が笑って……』


 母親の声が、不安で少しずつ早くなる。


『先生、これ、どういうことですか』


 美帆は答えられなかった。


 ただ、教師として言える範囲の言葉を探した。


「現時点では、こちらでも原因を確認中です。お子さんの前で不安を煽るようなことは避けたいので、学校でも慎重に扱います。ご家庭でも、できるだけ普段通りに」


『普段通りって』


「はい」


『主人は、いますよ』


「はい」


『今朝もいました。颯太とパンを取り合ってました。いつもそうなんです。大人げないんです。颯太が怒って、主人が謝って、それで……』


 母親は、そこで言葉を止めた。


 何かを思い出そうとしている沈黙だった。


『……先生』


「はい」


『私、主人の名前が、今、出てきません』


 美帆は、受話器を握る手に力を込めた。


『顔は分かるんです。声も分かるんです。今朝のシャツの色も覚えています。紺色です。ネクタイが曲がっていて、私が直しました。なのに、名前が』


 電話の向こうで、息を吸う音がした。


『先生、主人は、いるんですよね』


 その問いは、子どもと同じだった。


 お父さん、いるよ。


 主人は、いるんですよね。


 美帆は、教師としてではなく、一人の人間として、ゆっくり答えた。


「はい。まずは、そう扱いましょう」


『まずは?』


「すみません。言い方が悪かったです。いる人を、いないことにはしません」


 電話の向こうで、母親が小さく泣いた。


 美帆は、受話器を置いたあと、しばらく自分の手を見ていた。


 手は震えていなかった。


 震えていないことが、逆に怖かった。


     ◇


 同じ日の夕方。


 アガルタ市教育委員会の共有システムに、いくつもの問い合わせが入った。


 家庭調査票の父親欄が空白になっている。


 保護者連絡カードの父親名が消えている。


 緊急連絡先の第二連絡先だけが白紙になっている。


 学校保健調査票で、父方の病歴欄だけが未記入になっている。


 給食費引き落とし口座の名義は残っているのに、保護者名欄だけが空欄になっている。


 連絡帳のサインが、誰のものか分からなくなっている。


 学校側は、まずシステム障害を疑った。


 しかし、電子データだけではなかった。


 紙の控えも。


 家庭の控えも。


 去年のファイルも。


 古い封筒に入れてあったコピーも。


 父親に関する欄だけが、白くなっていた。


 それは、消されたというより、最初からそこだけ印刷されていなかったような白さだった。


 修正の跡がない。


 紙の繊維が削れていない。


 インクの滲みもない。


 父親の欄だけが、何も受け取らなかったように白い。


 だが、家族は父を覚えている。


 子どもたちは、父の嫌いな食べ物を覚えている。


 母親たちは、夫の靴下のしまい方に腹を立てている。


 祖母は、息子が高校時代に部活をサボったことをまだ覚えている。


 妹は、兄が昔、自分の誕生日ケーキを勝手に食べたことを覚えている。


 記憶はある。


 生活もある。


 朝の食卓も、洗面台に残った髭剃りの泡も、玄関に置かれた革靴も、途中まで読んだ新聞も、湯呑みの茶渋もある。


 なのに、名前だけが紙に残らない。


 夜になる頃、アガルタ市内のいくつかの家庭では、普段ならしない確認が行われた。


「お父さんの名前、言ってみて」


「なんで?」


「いいから」


「えー、急に?」


「いいから言って」


「……お父さんの名前?」


「そう」


「……」


「どうしたの」


「分かるよ」


「じゃあ言って」


「分かるってば」


「言って」


「……」


 子どもは言えなかった。


 母親も言えなかった。


 父親本人だけが、笑って言った。


「何だよ、気持ち悪いな。俺の名前くらい――」


 そこで、父親も黙った。


 自分の名前が、口の中でほどけていく。


 姓は分かる。


 いや、姓も家族と共有しているから分かるだけかもしれない。


 名が出てこない。


 免許証を取り出す。


 そこに書かれているはずの文字が、白く抜けている。


 社員証を見る。


 顔写真はある。


 所属もある。


 バーコードもある。


 だが、名前欄だけが空白だった。


 父親は、家族の前で笑おうとした。


「何かの印刷ミスだろ」


 その声は、少し乾いていた。


「でも、免許証だよ」


「役所に問い合わせれば」


「今、夜だよ」


「明日でいい」


「明日になったら、戻る?」


「戻るだろ」


「本当に?」


「……戻る」


 誰も、それ以上言えなかった。


 テレビでは、いつも通りのニュースが流れていた。


 アガルタ市の地下道一部補修。


 市立図書館の郷土資料展示。


 歓楽街の防犯強化。


 旧地下鉄関連施設の立入禁止区域拡大。


 どのニュースにも、父親欄が消える事件は出ていなかった。


 まだ、事件になっていなかった。


 ただ、家の中でだけ、父の名前が白くなっていた。


     ◇


 榎本家では、夕飯のあと、アルバムが開かれた。


 最初に言い出したのは、颯太だった。


「写真なら、書いてあるかも」


 リビングの低いテーブルに、古いアルバムが置かれる。


 母親の麻衣は、湯呑みを持ったまま、しばらく座ったきり動けなかった。夫は向かいに座っている。確かに、そこにいる。紺色の部屋着に着替え、眼鏡を外し、少し疲れた顔をしている。


 けれど、麻衣は夫の名前が言えない。


 夫も、自分の名前を言えない。


 それでも、夫はいる。


 テーブルの向こうで、眉間に皺を寄せている。


「アルバムなんて久しぶりだな」


 夫が言った。


「お父さん、笑って」


「今?」


「なんか怖いから」


「怖くないだろ」


「怖いよ」


「……そうか」


 夫は、少しだけ笑った。


 颯太はアルバムをめくった。


 赤ん坊の頃の自分。


 母に抱かれている写真。


 ベビーベッドで寝ている写真。


 初めて立った日。


 七五三。


 幼稚園の運動会。


 公園の滑り台。


 海。


 誕生日。


 そこには、父も写っていた。


 颯太を肩車している父。


 ケーキのロウソクを消す颯太の横で、拍手している父。


 運動会で、ゴール直前に転んだ颯太を抱き上げている父。


 写真の父は、笑っていた。


 颯太はほっとした。


「いるじゃん」


 麻衣も息をついた。


「そうね。いる」


 夫が苦笑する。


「だから言っただろ。俺はいるって」


「でも名前が」


「名前なんて、あとで分かる」


 その時だった。


 颯太がページをめくろうとした指を止めた。


 写真の中の父の顔に、小さな黒い染みが浮いていた。


 最初は、印刷の劣化に見えた。


 古い写真なら、色褪せることもある。黒ずむこともある。湿気で滲むこともある。


 だが、その染みは、父の顔の中心にだけあった。


 目のあたり。


 鼻筋。


 口元。


 まるで、そこに黒い水を一滴落としたように。


「お母さん」


 颯太の声が細くなる。


「これ、さっきあった?」


 麻衣は写真へ身を乗り出した。


 夫も覗き込む。


 黒い染みは、ゆっくり広がっていた。


 紙の上で、インクが水を吸うように。


 父の顔の輪郭が、少しずつ曖昧になっていく。


 颯太が泣きそうな声を出した。


「やだ」


「颯太、見ないで」


「やだ、見てないと消える」


「颯太」


「見てないと、消える!」


 颯太は写真に手を伸ばした。


 父が慌てて止める。


「触るな。破れる」


「だって」


「大丈夫」


「大丈夫じゃない!」


 颯太は父を見た。


 目の前に父がいる。


 写真の中の父の顔が黒く滲んでいる。


 どちらを信じればいいのか、分からない。


「お父さん、名前言って」


「……」


「言ってよ」


「颯太」


「言って!」


 夫は口を開いた。


 何度も開いた。


 だが、名前は出なかった。


 自分の名前なのに。


 家族に呼ばれてきた名前なのに。


 会社で呼ばれ、病院で呼ばれ、免許証に印字され、年賀状に書かれ、結婚届に書いた名前なのに。


 出てこなかった。


 麻衣は、震える手でスマートフォンを取った。


 アルバムの写真を撮ろうとした。


 画面に写った写真の中で、父の顔だけが黒い穴のように抜けた。


 実物よりも、さらに黒かった。


 光を吸っているようだった。


 颯太が泣き出した。


「お父さん、いるよね」


 父は颯太を抱き寄せた。


「いる」


「消えない?」


「消えない」


「名前なくても?」


 父は答えられなかった。


 麻衣は、夫と息子を見ながら、自分の喉を押さえた。


 呼びたい。


 夫の名前を呼びたい。


 朝、ネクタイを直しながら何度も呼んだ名前。


 結婚式で呼んだ名前。


 喧嘩した夜に、泣きながら呼んだ名前。


 颯太が生まれた時、病室で何度も呼んだ名前。


 それが、喉の奥で白く溶ける。


 音になる前に、消える。


 アルバムのページの上で、黒い滲みは止まらなかった。


 写真の中の父は、まだそこにいた。


 けれど、顔だけが分からなくなっていく。


 名前だけではない。


 写真が、父を忘れ始めていた。


     ◇


 同じ夜。


 御影佳乃は、図書館から少し遅く帰宅した。


 雨は降っていなかった。


 けれど、夜の空気には、雨の前のような匂いがあった。濡れていないはずのアスファルトが、地下から湿気を吸い上げている。街灯の下を歩くと、舗道の端に残った水たまりが、黒く光った。


 佳乃は、買い物袋を片手に、マンションの階段を上がった。


 古い低層マンションだった。廊下の蛍光灯が一本切れかけていて、一定の間隔でちらつく。鉄の手すりは冷たく、雨の日には少し錆の匂いがする。


 鍵を開けると、部屋の中は静かだった。


「ただいま」


 返事はない。


 靴を見ると、レイの靴はなかった。


 まだ帰っていないらしい。


 佳乃はそれを見て、いつものように一瞬だけ不安になり、すぐに自分へ言い聞かせた。


 高校生なのだから、遅くなる日もある。


 それに、最近は一人ではない。


 白瀬真昼という、よく喋る同級生がいる。


 市警の人間もいる。


 安心していい要素のはずなのに、安心しきれない。


 佳乃はキッチンへ入り、買い物袋を置いた。


 豆腐。


 長ねぎ。


 卵。


 レイが好んで食べるわけでもないのに、いつも買ってしまうヨーグルト。


 冷蔵庫にしまいながら、ふと、リビングの棚が気になった。


 理由はなかった。


 本当に、理由はなかった。


 ただ、視線がそこへ行った。


 リビングの奥には、低い本棚がある。郷土資料、古い図録、料理本、レイが幼い頃に読んでいた絵本、学校行事の写真アルバムが並んでいる。


 その一番下の段。


 少し奥へ押し込まれた、紺色の布張りのアルバム。


 佳乃は、しばらくそれを見ていた。


 見なければいい。


 そう思った。


 けれど、手は動いた。


 彼女は本棚の前にしゃがみ、アルバムを引き出した。


 布の表面に、薄く埃が積もっていた。指で払うと、灰色の筋が残る。


 表紙には、金色の小さな文字が押されている。


 **REI / 0-6**


 レイが生まれてから六歳頃までの写真をまとめたアルバムだった。


 佳乃は、ダイニングテーブルへ持っていった。


 部屋は静かだった。


 冷蔵庫の低い機械音。


 外を通る車の音。


 隣室のテレビの笑い声。


 それらが、日常の薄い膜のように部屋を包んでいる。


 佳乃は椅子に座り、アルバムを開いた。


 最初のページ。


 生まれたばかりのレイ。


 小さな赤い顔。


 病院の白い布。


 少し疲れた顔で笑っている自分。


 その横に、若い男が写っている。


 御影遥真。


 佳乃は、その名前を心の中で呼んだ。


 呼べた。


 まだ、呼べた。


 喉の奥に引っかかりはある。


 けれど、消えてはいない。


 遥真。


 御影遥真。


 夫。


 レイの父。


 十年前の雨の夜に帰らなかった人。


 佳乃は次のページをめくった。


 一歳の誕生日。


 小さなケーキ。


 クリームを指につけて不機嫌そうなレイ。


 横で笑っている遥真。


 佳乃は、その写真を指先で撫でた。


 遥真は、写真を撮られるのがあまり好きではなかった。


 研究者らしく、記録を残す側でいたがる人だった。カメラを向けると、少しだけ困った顔をする。だが、レイと一緒に写る時だけは、逃げなかった。


 レイの肩を支える手。


 小さな背中に添えられた掌。


 レイが転びそうになった時、すぐに伸びる腕。


 写真には、そういうものが残っている。


 佳乃はページをめくる。


 三歳。


 公園。


 滑り台の下で、レイが泣いている。


 遥真がしゃがんで、何かを言っている。


 佳乃は、その時の声を覚えていた。


 泣いてもいい。


 でも、自分の名前を忘れるな。


 なぜ、そんなことを言ったのか。


 当時の佳乃には分からなかった。


 ただ、遥真は時々、幼いレイに同じことを言った。


 レイ。


 御影レイ。


 自分の名前を言ってみなさい。


 佳乃は、それを少し大げさな教育方針だと思っていた。


 言葉を覚えさせたいのか。


 自分の名前をきちんと言える子にしたいのか。


 そう思っていた。


 後になって、そうではなかったと分かった。


 遥真は、確認していたのだ。


 レイが、レイでいるかどうかを。


 佳乃はページを止めた。


 七五三の写真。


 神社の境内。


 小さな羽織姿のレイ。


 佳乃は着物を着ている。


 遥真は少しよそ行きのスーツで、ぎこちなく笑っている。


 三人で写った写真だった。


 佳乃は、しばらくその写真を見つめた。


 それから、息を止めた。


 遥真の顔の端に、小さな黒い滲みがあった。


 最初は影かと思った。


 木漏れ日の影。


 写真の劣化。


 印刷の汚れ。


 そう思いたかった。


 だが、違った。


 黒い滲みは、左目のあたりから広がっていた。


 ほんの少し。


 まだ、顔は分かる。


 遥真だと分かる。


 あの人だと分かる。


 けれど、紙の上の遥真だけが、ゆっくりと夜に沈み始めている。


 佳乃は、写真へ手を伸ばしかけて、止めた。


 触ってはいけない。


 そう思った。


 理由は分からない。


 でも、触れれば、何かが早まる気がした。


 佳乃は椅子から立ち上がり、棚の引き出しを開けた。


 古い封筒。


 輪ゴムで留めたメモ束。


 使わなくなった図書館の利用者カード。


 その奥に、小さな木箱がある。


 遥真が残したものを入れている箱だった。


 佳乃は箱を出さなかった。


 まだ、出せなかった。


 ただ、引き出しを開けたまま、そこにあることを確認した。


 箱は、まだある。


 資料も、まだある。


 名前も、まだある。


 そう思おうとした。


 その時、玄関の鍵が開く音がした。


 佳乃は反射的にアルバムを閉じた。


 強く閉じすぎて、乾いた音が部屋に響いた。


「ただいま」


 レイの声だった。


 いつも通り、少し低く、少し眠たげで、感情の少ない声。


 佳乃はアルバムに手を置いたまま、息を整えた。


「おかえり。遅かったのね」


「白瀬に捕まった」


「また?」


「今回は僕が悪いわけじゃない」


「前もそう言っていた気がするわ」


「たぶん前も白瀬が悪い」


「仲がいいのね」


「解釈が雑」


 レイは靴を脱ぎながら、短く答えた。


 その声を聞くだけで、佳乃は少し安心した。


 レイ。


 御影レイ。


 今、ここに帰ってきた息子。


 佳乃はリビングの入口に立つレイを見た。


 制服の上着を腕にかけ、前髪が少し乱れている。顔色は悪くない。ただ、目の奥に、いつもの年齢に合わない静けさがある。


「夕飯、食べる?」


「少し」


「少しじゃなくて、普通に食べなさい」


「普通の定義が人による」


「うちでは茶碗一杯です」


「厳密だ」


 そんな会話をしながら、佳乃はアルバムをテーブルの端へ寄せた。


 レイの視線が、それに落ちる。


「アルバム?」


「ええ。少し整理しようと思って」


「夜に?」


「思い立った時にやらないと、また忘れるから」


 レイは、それ以上聞かなかった。


 普段なら、それで済んだ。


 佳乃が何かを隠した時、レイは無理に聞かない。レイが何かを見た時、佳乃も無理に聞かない。


 そうやって、二人は長い時間を過ごしてきた。


 だが、今夜は違った。


 レイが、アルバムの表紙を見たまま、わずかに眉を寄せた。


「それ、父さんの写真?」


 佳乃の指先が、動かなくなった。


 レイが父を「父さん」と呼ぶことは少ない。


 名前を出すことは、もっと少ない。


「ええ」


「見てもいい?」


 佳乃は、すぐに答えられなかった。


 見せるべきではない。


 見せなければいけない。


 二つの思いが、胸の中でぶつかった。


 レイは、佳乃の沈黙を見て、少しだけ目を細めた。


「何かあった?」


 佳乃は、笑おうとした。


 いつものように。


 何でもないと言おうとした。


 ご飯にしましょう、と流そうとした。


 けれど、アルバムの下から、閉じたはずの写真がこちらを見ている気がした。


 黒く滲み始めた遥真の顔。


 十年前の雨。


 帰らなかった夫。


 レイの名前を何度も呼んだ声。


 佳乃は、ゆっくりと椅子に座り直した。


「レイ」


「なに」


「手を洗ってきなさい」


「……今?」


「今」


「話を逸らした?」


「違うわ。ご飯の前だから」


 レイは数秒、母を見た。


 それから、少しだけ息を吐いた。


「分かった」


 洗面所へ向かうレイの背中を見送りながら、佳乃はアルバムに手を置いた。


 まだ話せない。


 でも、もう隠し続けることもできない。


 水道の音が聞こえる。


 レイが手を洗っている。


 その音に重なるように、どこか遠くで、水が落ちる音がした気がした。


 ぽたり。


 佳乃は、閉じたアルバムを見下ろした。


 表紙の布地の下に、古い写真たちが眠っている。


 その中で、遥真の顔が少しずつ黒く滲んでいる。


 佳乃は、誰にも聞こえないほど小さな声で言った。


「……まだ、終わっていなかったのね」


 返事はなかった。


 けれど、部屋の蛍光灯が一度だけちらついた。


 そして、閉じたアルバムの端から、見えるはずのない白い紙片が、ほんの少しだけ覗いた。


 そこには、黒い文字が滲むように浮かんでいた。


 **R-■■**


 佳乃は息を止めた。


 洗面所の水が止まる。


 レイの足音が、廊下を戻ってくる。


 佳乃は、アルバムの上に手を重ねた。


 守るように。


 隠すように。


 あるいは、これ以上、誰かの名前が消えないように。


 夜のアガルタは、まだ雨も降っていないのに、地下から湿った匂いを上げていた。

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