序章 父の欄が消える
家庭調査票の紙は、まだ少し温かかった。
印刷室から運ばれてきたばかりの紙束は、ひとまとめにされて教卓の上へ置かれている。白い紙の角はそろっていて、黒い罫線も、項目名も、いつもと同じだった。
児童氏名。
住所。
生年月日。
保護者氏名。
緊急連絡先。
勤務先。
既往歴。
通学路。
アレルギー。
四月のアガルタ市立鳴沢小学校では、毎年似たような書類が配られる。子どもたちはそれを連絡袋へ入れて持ち帰り、保護者が記入し、数日後に提出する。
ほとんどの児童にとって、それは面倒な紙だった。
保護者にとっても、毎年のことだった。
住所は変わらない。電話番号も変わらない。勤務先も大きくは変わらない。前年の控えを見ながら同じことを書き、印鑑を押し、連絡袋に戻すだけの紙。
だから、四年二組の担任である秋津美帆は、その朝、提出された家庭調査票を確認しながら、最初は何もおかしいと思わなかった。
「はい、出せる人は前に持ってきてください。まだの人は、明日でも大丈夫です。おうちの人に渡し忘れてる人、正直に言えば怒りません。黙ってると怒ります」
教室に小さな笑いが起きた。
「先生、怒るじゃん」
「怒ります。黙ってたら」
「ほら怒る」
「今のは確認です」
美帆がそう返すと、また何人かが笑った。
朝の教室は少し湿っていた。昨夜降った雨が校庭の砂を暗くし、窓を開けると、鉄棒と濡れた土の匂いが入ってくる。黒板の端には、昨日の日直が消しきれなかった白い粉が残っていた。
児童たちは、連絡袋を机の中から引っ張り出し、折れたプリントや給食の献立表と一緒に、家庭調査票を探していた。
「先生、これでいい?」
「見せて。うん、これ」
「お母さん、ここ書き忘れてるかも」
「じゃあ、今日持ち帰ってもらって。赤で印つけておくね」
いつもの朝だった。
いつもの紙。
いつもの声。
いつもの少しだけ慌ただしい教室。
その中で、最初に手を止めたのは、窓際から三列目の席に座っている男の子だった。
名前は、榎本颯太。
小柄で、前髪が目にかかりがちな児童だった。授業中はあまり手を挙げないが、ノートは丁寧に書く。掃除当番を忘れない。給食の牛乳を飲むのが遅い。休み時間は、友人と運動場へ行くよりも、図書室の前に貼ってある迷路クイズを解くほうを好む。
颯太は、自分の家庭調査票を両手で持ったまま、前へ来なかった。
美帆は最初、記入漏れに気づいたのだと思った。
「榎本くん、どうしたの」
颯太は返事をしなかった。
ただ、机の上の紙を見下ろしていた。
隣の児童が覗き込もうとして、颯太が慌てて紙を伏せる。
「見ないで」
「え、なんで」
「見ないでってば」
声が少し尖った。
美帆は、手元の紙束を教卓に置いた。
「榎本くん、持ってきてくれる?」
颯太は、しばらく動かなかった。
それから、紙を胸に当てるようにして立ち上がった。椅子の脚が床をこすり、短く鳴った。周囲の何人かが顔を上げる。
颯太は教卓の前まで来ると、紙を差し出した。
家庭調査票は、きれいに記入されていた。
児童氏名。
榎本颯太。
住所。
アガルタ市鳴沢町三丁目――
生年月日。
電話番号。
母親の欄。
榎本麻衣。
勤務先。
緊急連絡先。
そこまでは、いつもの字だった。
大人の、少し急いだ丸文字。おそらく母親が書いたものだろう。
だが、父親の欄だけが空白だった。
美帆は、そこでようやく息を整えた。家庭調査票の空白には、いろいろな理由がある。離婚、死別、別居、家庭内の事情、書きたくない事情。学校の教師は、そこへ無神経に踏み込んではいけない。
美帆は、声の調子を少し落とした。
「ここは、おうちの人が書かないでいいって言ってた?」
颯太は首を振った。
「書いた」
「書いた?」
「昨日、書いてた。お母さんが。お父さんの名前も」
美帆は紙を見た。
父親の欄は空白だった。
罫線の上に、消しゴムをかけた跡もない。修正テープの白さもない。紙は何も書かれていなかったように、なめらかだった。
「持ってくる途中で、何かこぼした?」
「こぼしてない」
「じゃあ、おうちで消したとか」
「消してない」
颯太の唇が、きゅっと結ばれた。
彼は怒っているのではなかった。
困っていた。
困って、少しだけ怖がっていた。
「先生」
「うん」
「お父さんの名前、何だっけ」
教室の音が、少しだけ遠くなった。
鉛筆を落とした音。
誰かが椅子を揺らす音。
校庭で下級生が笑う声。
廊下を走って注意される声。
それらが、窓の外の湿った空気に溶けて、薄くなった。
美帆は、すぐに答えなかった。
颯太の父親の名前を、美帆は知っているはずだった。
保護者面談で会ったことがある。背が高く、眼鏡をかけた男性だった。昨年の運動会では、颯太の徒競走をスマートフォンで撮っていた。保護者欄に名前もあった。PTAの係決めで、何かに丸をつけていたのを覚えている。
顔は思い出せる。
声も、なんとなく思い出せる。
少し低くて、丁寧な声。
だが、名前だけが出てこなかった。
喉元まで来ているのに、口に出す直前で、紙のようにふやけて崩れる。
「……おうちに帰ったら、もう一度確認してもらおうか」
美帆は、そう言った。
教師らしい、穏当な言葉だった。
颯太は美帆を見上げた。
「でも、今朝いたよ」
「うん」
「ご飯食べてた」
「うん」
「ネクタイ曲がってて、お母さんに直されてた」
「うん」
「行ってきますって言った」
「うん」
「だから、いるよ」
颯太の声が、そこで少し震えた。
「お父さん、いるよ」
美帆は、家庭調査票を伏せた。
教室の子どもたちがこちらを見ていることに気づいたからだった。
「いるよ。先生も、いないって言ってない」
「じゃあ、なんで名前が書けないの」
「……今日は、後でお母さんに確認しよう。先生から連絡するね」
「お母さん、怒られる?」
「怒られないよ」
「お父さんは?」
「怒られない」
「本当?」
「本当」
颯太は、まだ納得していない顔だった。
けれど、美帆が家庭調査票を預かると、小さく頷いて席へ戻った。
その背中は、いつもより少し丸かった。
美帆は、教卓の上に置いた紙を見下ろした。
父親欄。
空白。
ただの記入漏れ。
そう考えるべきだった。
そう処理するべきだった。
学校という場所では、書類の空白を、まず現実的な理由で扱う。家庭の事情か、記入漏れか、連絡ミスか。教師が勝手に怖がってはいけない。子どもの前で、意味を持たせてはいけない。
美帆は深呼吸をして、次の児童に声をかけた。
「はい、次の人」
すると、前から二番目の席の女の子が、そろそろと立ち上がった。
「先生」
「なに?」
「うちも」
女の子は、家庭調査票を持っていた。
両手で、端を握りしめていた。
「うちも、お父さんのところ、白い」
美帆の指先が、冷えた。
その女の子の家庭調査票も、母親の欄は書かれていた。
本人の名前も、住所も、緊急連絡先も、通学路も、兄弟姉妹の欄も、全部書かれていた。
父親の欄だけが空白だった。
その次の児童も。
そのまた次も。
全員ではない。
けれど、四年二組の中で、五人。
家庭調査票の父親欄だけが、空白だった。
母親の欄はある。
本人の名前はある。
兄弟姉妹の名前もある。
祖母の緊急連絡先まである子もいた。
なのに、父親の欄だけが白かった。
「先生、これって間違い?」
「先生、うちのお父さん、昨日書いてたよ」
「先生、電話したら分かる?」
「先生、なんで?」
声が増え始めた。
美帆は、子どもたちに不安が広がる前に手を叩いた。
「はい、一回しまって。まだ提出していない人は、連絡袋に戻して。今日の一時間目、国語です。教科書を開いてください」
「でも先生」
「あとで確認します。大丈夫。お父さんが消えたわけじゃないから」
言ってから、失敗したと思った。
子どもたちの何人かが、余計に不安そうな顔をした。
消えた。
その言葉だけが、教室に残った。
美帆はすぐに言い直した。
「ごめん。言い方がよくなかったね。書類の確認をします。今は授業を始めます」
児童たちは、しぶしぶ教科書を出した。
ページをめくる音が、いつもより薄く聞こえた。
美帆は黒板に単元名を書いた。
白いチョークが、黒板の上を滑った。
けれど、頭の隅では、家庭調査票の空白が消えなかった。
父親欄だけが空白。
それも、一人ではない。
紙に書かれていないだけならいい。
だが、颯太は父の名前を思い出せなかった。
美帆自身も、思い出せなかった。
それが、いちばん気味が悪かった。
◇
職員室では、最初、ただの事務連絡として扱われた。
「記入漏れが多い?」
学年主任の野々村が、眼鏡を上げながら聞き返した。
「はい。ただ、父親欄だけなんです」
「父親欄?」
「母親欄や住所は記入されています。父親欄だけ、空白になっている家庭が複数あって」
「最近は家庭の形もいろいろだからね」
「それは分かっています。ですが、児童が、昨日は書かれていたと言っていて」
「子どもの記憶違いでは?」
「かもしれません」
美帆は、そう言うしかなかった。
職員室は、昼休み前のざわつきに包まれていた。電話が鳴り、コピー機が唸り、給食当番の児童が廊下を通る。職員室の窓の外では、雨のあとの校庭が少しずつ乾き始めていた。
現実は、あまりに普通だった。
普通すぎて、家庭調査票の空白だけが浮いている。
「とりあえず、該当家庭へ確認を取ろう。家庭事情に関わる場合は慎重に。子どもの前では不用意に話さないように」
「はい」
「他のクラスは?」
「まだ確認していません」
野々村が近くの教員へ声をかけた。
「三組と一組も、家庭調査票の父親欄、確認してくれる?」
「父親欄ですか?」
「記入漏れが多いらしい」
「分かりました」
それから三十分後、四年一組で三件。
三組で四件。
五年生で六件。
二年生で二件。
六年生で一件。
父親欄の空白が見つかった。
ただし、全家庭ではない。
条件は分からない。
離婚家庭だけではない。
父親が単身赴任中の家庭だけでもない。
同居している家庭にも起きている。
今朝、父親が弁当を作ったという児童。
父親に車で送ってもらったという児童。
父親と喧嘩して、まだ謝っていないという児童。
父親が夜勤明けで寝ていたという児童。
それぞれが、父を覚えていた。
顔も。
声も。
癖も。
家の中の居場所も。
だが、名前だけが書けない。
教師たちも、過去の名簿を開けば分かるはずだった。
だが、不思議なことに、前年度の保護者名簿でも、父親欄だけが空白になっていた。
データベースでも同じだった。
母親名は残っている。
住所も残っている。
児童氏名も残っている。
だが、父親欄だけが白い。
「システム障害?」
「紙の名簿もです」
「じゃあ転記ミス?」
「全学年で?」
「あり得ないとは言い切れないけど」
「いや、さすがに」
職員室の空気が変わった。
誰も大声では言わない。
けれど、誰もが同じことを考え始めていた。
これは、普通の記入漏れではない。
美帆は、該当家庭へ電話をかけた。
まずは、榎本颯太の家。
電話に出たのは母親だった。
『はい、榎本です』
「あ、鳴沢小学校の秋津です。お忙しいところすみません。家庭調査票の件で確認をしたくて」
『はい。何か書き漏れがありましたか?』
「父親欄が空白になっていまして」
少し沈黙があった。
『……え?』
「お心当たりはありますか」
『いえ。主人の欄も書きました。昨日の夜、颯太と一緒に確認しました』
「そうですか」
『あの、空白なんですか?』
「はい」
『そんなはずないです。書きました。主人の名前も、勤務先も、携帯番号も』
「申し訳ありません。こちらでも確認しますので、念のため、もう一度ご記入いただくことは可能でしょうか」
『もちろんです。でも……』
電話の向こうで、紙を探す音がした。
引き出しを開ける音。
何かをめくる音。
『先生』
「はい」
『去年の控えを見ているんですけど』
「はい」
『主人の欄だけ、白いです』
美帆は、職員室の時計を見た。
秒針が、普通に動いている。
十二時四十六分。
何も止まっていない。
『おかしいです。去年も書きました。主人が自分で書いたんです。字が汚いから、私が笑って……』
母親の声が、不安で少しずつ早くなる。
『先生、これ、どういうことですか』
美帆は答えられなかった。
ただ、教師として言える範囲の言葉を探した。
「現時点では、こちらでも原因を確認中です。お子さんの前で不安を煽るようなことは避けたいので、学校でも慎重に扱います。ご家庭でも、できるだけ普段通りに」
『普段通りって』
「はい」
『主人は、いますよ』
「はい」
『今朝もいました。颯太とパンを取り合ってました。いつもそうなんです。大人げないんです。颯太が怒って、主人が謝って、それで……』
母親は、そこで言葉を止めた。
何かを思い出そうとしている沈黙だった。
『……先生』
「はい」
『私、主人の名前が、今、出てきません』
美帆は、受話器を握る手に力を込めた。
『顔は分かるんです。声も分かるんです。今朝のシャツの色も覚えています。紺色です。ネクタイが曲がっていて、私が直しました。なのに、名前が』
電話の向こうで、息を吸う音がした。
『先生、主人は、いるんですよね』
その問いは、子どもと同じだった。
お父さん、いるよ。
主人は、いるんですよね。
美帆は、教師としてではなく、一人の人間として、ゆっくり答えた。
「はい。まずは、そう扱いましょう」
『まずは?』
「すみません。言い方が悪かったです。いる人を、いないことにはしません」
電話の向こうで、母親が小さく泣いた。
美帆は、受話器を置いたあと、しばらく自分の手を見ていた。
手は震えていなかった。
震えていないことが、逆に怖かった。
◇
同じ日の夕方。
アガルタ市教育委員会の共有システムに、いくつもの問い合わせが入った。
家庭調査票の父親欄が空白になっている。
保護者連絡カードの父親名が消えている。
緊急連絡先の第二連絡先だけが白紙になっている。
学校保健調査票で、父方の病歴欄だけが未記入になっている。
給食費引き落とし口座の名義は残っているのに、保護者名欄だけが空欄になっている。
連絡帳のサインが、誰のものか分からなくなっている。
学校側は、まずシステム障害を疑った。
しかし、電子データだけではなかった。
紙の控えも。
家庭の控えも。
去年のファイルも。
古い封筒に入れてあったコピーも。
父親に関する欄だけが、白くなっていた。
それは、消されたというより、最初からそこだけ印刷されていなかったような白さだった。
修正の跡がない。
紙の繊維が削れていない。
インクの滲みもない。
父親の欄だけが、何も受け取らなかったように白い。
だが、家族は父を覚えている。
子どもたちは、父の嫌いな食べ物を覚えている。
母親たちは、夫の靴下のしまい方に腹を立てている。
祖母は、息子が高校時代に部活をサボったことをまだ覚えている。
妹は、兄が昔、自分の誕生日ケーキを勝手に食べたことを覚えている。
記憶はある。
生活もある。
朝の食卓も、洗面台に残った髭剃りの泡も、玄関に置かれた革靴も、途中まで読んだ新聞も、湯呑みの茶渋もある。
なのに、名前だけが紙に残らない。
夜になる頃、アガルタ市内のいくつかの家庭では、普段ならしない確認が行われた。
「お父さんの名前、言ってみて」
「なんで?」
「いいから」
「えー、急に?」
「いいから言って」
「……お父さんの名前?」
「そう」
「……」
「どうしたの」
「分かるよ」
「じゃあ言って」
「分かるってば」
「言って」
「……」
子どもは言えなかった。
母親も言えなかった。
父親本人だけが、笑って言った。
「何だよ、気持ち悪いな。俺の名前くらい――」
そこで、父親も黙った。
自分の名前が、口の中でほどけていく。
姓は分かる。
いや、姓も家族と共有しているから分かるだけかもしれない。
名が出てこない。
免許証を取り出す。
そこに書かれているはずの文字が、白く抜けている。
社員証を見る。
顔写真はある。
所属もある。
バーコードもある。
だが、名前欄だけが空白だった。
父親は、家族の前で笑おうとした。
「何かの印刷ミスだろ」
その声は、少し乾いていた。
「でも、免許証だよ」
「役所に問い合わせれば」
「今、夜だよ」
「明日でいい」
「明日になったら、戻る?」
「戻るだろ」
「本当に?」
「……戻る」
誰も、それ以上言えなかった。
テレビでは、いつも通りのニュースが流れていた。
アガルタ市の地下道一部補修。
市立図書館の郷土資料展示。
歓楽街の防犯強化。
旧地下鉄関連施設の立入禁止区域拡大。
どのニュースにも、父親欄が消える事件は出ていなかった。
まだ、事件になっていなかった。
ただ、家の中でだけ、父の名前が白くなっていた。
◇
榎本家では、夕飯のあと、アルバムが開かれた。
最初に言い出したのは、颯太だった。
「写真なら、書いてあるかも」
リビングの低いテーブルに、古いアルバムが置かれる。
母親の麻衣は、湯呑みを持ったまま、しばらく座ったきり動けなかった。夫は向かいに座っている。確かに、そこにいる。紺色の部屋着に着替え、眼鏡を外し、少し疲れた顔をしている。
けれど、麻衣は夫の名前が言えない。
夫も、自分の名前を言えない。
それでも、夫はいる。
テーブルの向こうで、眉間に皺を寄せている。
「アルバムなんて久しぶりだな」
夫が言った。
「お父さん、笑って」
「今?」
「なんか怖いから」
「怖くないだろ」
「怖いよ」
「……そうか」
夫は、少しだけ笑った。
颯太はアルバムをめくった。
赤ん坊の頃の自分。
母に抱かれている写真。
ベビーベッドで寝ている写真。
初めて立った日。
七五三。
幼稚園の運動会。
公園の滑り台。
海。
誕生日。
そこには、父も写っていた。
颯太を肩車している父。
ケーキのロウソクを消す颯太の横で、拍手している父。
運動会で、ゴール直前に転んだ颯太を抱き上げている父。
写真の父は、笑っていた。
颯太はほっとした。
「いるじゃん」
麻衣も息をついた。
「そうね。いる」
夫が苦笑する。
「だから言っただろ。俺はいるって」
「でも名前が」
「名前なんて、あとで分かる」
その時だった。
颯太がページをめくろうとした指を止めた。
写真の中の父の顔に、小さな黒い染みが浮いていた。
最初は、印刷の劣化に見えた。
古い写真なら、色褪せることもある。黒ずむこともある。湿気で滲むこともある。
だが、その染みは、父の顔の中心にだけあった。
目のあたり。
鼻筋。
口元。
まるで、そこに黒い水を一滴落としたように。
「お母さん」
颯太の声が細くなる。
「これ、さっきあった?」
麻衣は写真へ身を乗り出した。
夫も覗き込む。
黒い染みは、ゆっくり広がっていた。
紙の上で、インクが水を吸うように。
父の顔の輪郭が、少しずつ曖昧になっていく。
颯太が泣きそうな声を出した。
「やだ」
「颯太、見ないで」
「やだ、見てないと消える」
「颯太」
「見てないと、消える!」
颯太は写真に手を伸ばした。
父が慌てて止める。
「触るな。破れる」
「だって」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
颯太は父を見た。
目の前に父がいる。
写真の中の父の顔が黒く滲んでいる。
どちらを信じればいいのか、分からない。
「お父さん、名前言って」
「……」
「言ってよ」
「颯太」
「言って!」
夫は口を開いた。
何度も開いた。
だが、名前は出なかった。
自分の名前なのに。
家族に呼ばれてきた名前なのに。
会社で呼ばれ、病院で呼ばれ、免許証に印字され、年賀状に書かれ、結婚届に書いた名前なのに。
出てこなかった。
麻衣は、震える手でスマートフォンを取った。
アルバムの写真を撮ろうとした。
画面に写った写真の中で、父の顔だけが黒い穴のように抜けた。
実物よりも、さらに黒かった。
光を吸っているようだった。
颯太が泣き出した。
「お父さん、いるよね」
父は颯太を抱き寄せた。
「いる」
「消えない?」
「消えない」
「名前なくても?」
父は答えられなかった。
麻衣は、夫と息子を見ながら、自分の喉を押さえた。
呼びたい。
夫の名前を呼びたい。
朝、ネクタイを直しながら何度も呼んだ名前。
結婚式で呼んだ名前。
喧嘩した夜に、泣きながら呼んだ名前。
颯太が生まれた時、病室で何度も呼んだ名前。
それが、喉の奥で白く溶ける。
音になる前に、消える。
アルバムのページの上で、黒い滲みは止まらなかった。
写真の中の父は、まだそこにいた。
けれど、顔だけが分からなくなっていく。
名前だけではない。
写真が、父を忘れ始めていた。
◇
同じ夜。
御影佳乃は、図書館から少し遅く帰宅した。
雨は降っていなかった。
けれど、夜の空気には、雨の前のような匂いがあった。濡れていないはずのアスファルトが、地下から湿気を吸い上げている。街灯の下を歩くと、舗道の端に残った水たまりが、黒く光った。
佳乃は、買い物袋を片手に、マンションの階段を上がった。
古い低層マンションだった。廊下の蛍光灯が一本切れかけていて、一定の間隔でちらつく。鉄の手すりは冷たく、雨の日には少し錆の匂いがする。
鍵を開けると、部屋の中は静かだった。
「ただいま」
返事はない。
靴を見ると、レイの靴はなかった。
まだ帰っていないらしい。
佳乃はそれを見て、いつものように一瞬だけ不安になり、すぐに自分へ言い聞かせた。
高校生なのだから、遅くなる日もある。
それに、最近は一人ではない。
白瀬真昼という、よく喋る同級生がいる。
市警の人間もいる。
安心していい要素のはずなのに、安心しきれない。
佳乃はキッチンへ入り、買い物袋を置いた。
豆腐。
長ねぎ。
卵。
レイが好んで食べるわけでもないのに、いつも買ってしまうヨーグルト。
冷蔵庫にしまいながら、ふと、リビングの棚が気になった。
理由はなかった。
本当に、理由はなかった。
ただ、視線がそこへ行った。
リビングの奥には、低い本棚がある。郷土資料、古い図録、料理本、レイが幼い頃に読んでいた絵本、学校行事の写真アルバムが並んでいる。
その一番下の段。
少し奥へ押し込まれた、紺色の布張りのアルバム。
佳乃は、しばらくそれを見ていた。
見なければいい。
そう思った。
けれど、手は動いた。
彼女は本棚の前にしゃがみ、アルバムを引き出した。
布の表面に、薄く埃が積もっていた。指で払うと、灰色の筋が残る。
表紙には、金色の小さな文字が押されている。
**REI / 0-6**
レイが生まれてから六歳頃までの写真をまとめたアルバムだった。
佳乃は、ダイニングテーブルへ持っていった。
部屋は静かだった。
冷蔵庫の低い機械音。
外を通る車の音。
隣室のテレビの笑い声。
それらが、日常の薄い膜のように部屋を包んでいる。
佳乃は椅子に座り、アルバムを開いた。
最初のページ。
生まれたばかりのレイ。
小さな赤い顔。
病院の白い布。
少し疲れた顔で笑っている自分。
その横に、若い男が写っている。
御影遥真。
佳乃は、その名前を心の中で呼んだ。
呼べた。
まだ、呼べた。
喉の奥に引っかかりはある。
けれど、消えてはいない。
遥真。
御影遥真。
夫。
レイの父。
十年前の雨の夜に帰らなかった人。
佳乃は次のページをめくった。
一歳の誕生日。
小さなケーキ。
クリームを指につけて不機嫌そうなレイ。
横で笑っている遥真。
佳乃は、その写真を指先で撫でた。
遥真は、写真を撮られるのがあまり好きではなかった。
研究者らしく、記録を残す側でいたがる人だった。カメラを向けると、少しだけ困った顔をする。だが、レイと一緒に写る時だけは、逃げなかった。
レイの肩を支える手。
小さな背中に添えられた掌。
レイが転びそうになった時、すぐに伸びる腕。
写真には、そういうものが残っている。
佳乃はページをめくる。
三歳。
公園。
滑り台の下で、レイが泣いている。
遥真がしゃがんで、何かを言っている。
佳乃は、その時の声を覚えていた。
泣いてもいい。
でも、自分の名前を忘れるな。
なぜ、そんなことを言ったのか。
当時の佳乃には分からなかった。
ただ、遥真は時々、幼いレイに同じことを言った。
レイ。
御影レイ。
自分の名前を言ってみなさい。
佳乃は、それを少し大げさな教育方針だと思っていた。
言葉を覚えさせたいのか。
自分の名前をきちんと言える子にしたいのか。
そう思っていた。
後になって、そうではなかったと分かった。
遥真は、確認していたのだ。
レイが、レイでいるかどうかを。
佳乃はページを止めた。
七五三の写真。
神社の境内。
小さな羽織姿のレイ。
佳乃は着物を着ている。
遥真は少しよそ行きのスーツで、ぎこちなく笑っている。
三人で写った写真だった。
佳乃は、しばらくその写真を見つめた。
それから、息を止めた。
遥真の顔の端に、小さな黒い滲みがあった。
最初は影かと思った。
木漏れ日の影。
写真の劣化。
印刷の汚れ。
そう思いたかった。
だが、違った。
黒い滲みは、左目のあたりから広がっていた。
ほんの少し。
まだ、顔は分かる。
遥真だと分かる。
あの人だと分かる。
けれど、紙の上の遥真だけが、ゆっくりと夜に沈み始めている。
佳乃は、写真へ手を伸ばしかけて、止めた。
触ってはいけない。
そう思った。
理由は分からない。
でも、触れれば、何かが早まる気がした。
佳乃は椅子から立ち上がり、棚の引き出しを開けた。
古い封筒。
輪ゴムで留めたメモ束。
使わなくなった図書館の利用者カード。
その奥に、小さな木箱がある。
遥真が残したものを入れている箱だった。
佳乃は箱を出さなかった。
まだ、出せなかった。
ただ、引き出しを開けたまま、そこにあることを確認した。
箱は、まだある。
資料も、まだある。
名前も、まだある。
そう思おうとした。
その時、玄関の鍵が開く音がした。
佳乃は反射的にアルバムを閉じた。
強く閉じすぎて、乾いた音が部屋に響いた。
「ただいま」
レイの声だった。
いつも通り、少し低く、少し眠たげで、感情の少ない声。
佳乃はアルバムに手を置いたまま、息を整えた。
「おかえり。遅かったのね」
「白瀬に捕まった」
「また?」
「今回は僕が悪いわけじゃない」
「前もそう言っていた気がするわ」
「たぶん前も白瀬が悪い」
「仲がいいのね」
「解釈が雑」
レイは靴を脱ぎながら、短く答えた。
その声を聞くだけで、佳乃は少し安心した。
レイ。
御影レイ。
今、ここに帰ってきた息子。
佳乃はリビングの入口に立つレイを見た。
制服の上着を腕にかけ、前髪が少し乱れている。顔色は悪くない。ただ、目の奥に、いつもの年齢に合わない静けさがある。
「夕飯、食べる?」
「少し」
「少しじゃなくて、普通に食べなさい」
「普通の定義が人による」
「うちでは茶碗一杯です」
「厳密だ」
そんな会話をしながら、佳乃はアルバムをテーブルの端へ寄せた。
レイの視線が、それに落ちる。
「アルバム?」
「ええ。少し整理しようと思って」
「夜に?」
「思い立った時にやらないと、また忘れるから」
レイは、それ以上聞かなかった。
普段なら、それで済んだ。
佳乃が何かを隠した時、レイは無理に聞かない。レイが何かを見た時、佳乃も無理に聞かない。
そうやって、二人は長い時間を過ごしてきた。
だが、今夜は違った。
レイが、アルバムの表紙を見たまま、わずかに眉を寄せた。
「それ、父さんの写真?」
佳乃の指先が、動かなくなった。
レイが父を「父さん」と呼ぶことは少ない。
名前を出すことは、もっと少ない。
「ええ」
「見てもいい?」
佳乃は、すぐに答えられなかった。
見せるべきではない。
見せなければいけない。
二つの思いが、胸の中でぶつかった。
レイは、佳乃の沈黙を見て、少しだけ目を細めた。
「何かあった?」
佳乃は、笑おうとした。
いつものように。
何でもないと言おうとした。
ご飯にしましょう、と流そうとした。
けれど、アルバムの下から、閉じたはずの写真がこちらを見ている気がした。
黒く滲み始めた遥真の顔。
十年前の雨。
帰らなかった夫。
レイの名前を何度も呼んだ声。
佳乃は、ゆっくりと椅子に座り直した。
「レイ」
「なに」
「手を洗ってきなさい」
「……今?」
「今」
「話を逸らした?」
「違うわ。ご飯の前だから」
レイは数秒、母を見た。
それから、少しだけ息を吐いた。
「分かった」
洗面所へ向かうレイの背中を見送りながら、佳乃はアルバムに手を置いた。
まだ話せない。
でも、もう隠し続けることもできない。
水道の音が聞こえる。
レイが手を洗っている。
その音に重なるように、どこか遠くで、水が落ちる音がした気がした。
ぽたり。
佳乃は、閉じたアルバムを見下ろした。
表紙の布地の下に、古い写真たちが眠っている。
その中で、遥真の顔が少しずつ黒く滲んでいる。
佳乃は、誰にも聞こえないほど小さな声で言った。
「……まだ、終わっていなかったのね」
返事はなかった。
けれど、部屋の蛍光灯が一度だけちらついた。
そして、閉じたアルバムの端から、見えるはずのない白い紙片が、ほんの少しだけ覗いた。
そこには、黒い文字が滲むように浮かんでいた。
**R-■■**
佳乃は息を止めた。
洗面所の水が止まる。
レイの足音が、廊下を戻ってくる。
佳乃は、アルバムの上に手を重ねた。
守るように。
隠すように。
あるいは、これ以上、誰かの名前が消えないように。
夜のアガルタは、まだ雨も降っていないのに、地下から湿った匂いを上げていた。




