終章 零番線の灯
真昼は、零番線の記事を書かなかった。
《アガルタ観測録》の管理画面は、何度も開いた。
下書きフォルダも開いた。
タイトル欄に指を置いたまま、何度も考えた。
零番線。
無名切符。
名前を捨てる駅。
存在しない旧地下鉄のホーム。
どれも、記事のタイトルとしては強すぎる。
強すぎるということは、届きすぎるということだった。
怖いもの見たさの読者にも届く。
都市伝説を面白がる人にも届く。
名前を捨てたい人にも届く。
そして、零番線へ向かう理由を探している誰かにも、届いてしまう。
真昼は、管理画面のタイトル欄を空白のまま閉じた。
かわりに、別の文書を開く。
公開記事用の下書き。
タイトルは、何度も書き直した。
名前を呼ぶことについて。
呼び方には責任がある。
呼ばれたくない名前、忘れたくない名前。
どれも少し違う。
最終的に、真昼はこう書いた。
名前を呼ぶ前に、考えたいこと
タイトルとしては弱い。
煽りもない。
零番線という言葉も、無名切符という言葉もない。
旧地下鉄も、観測局も、K-117も、黒い傘も書かない。
でも、これでいいと思った。
今の真昼が公開してよいのは、そこまでだった。
旧新聞部室は、夕方の光の中にあった。
雨は止んでいる。
窓ガラスには、昨夜の雨粒の跡が細く残っているだけだ。校庭では、部活動を終えた生徒たちが帰り支度をしていた。誰かが誰かの名前を呼んでいる。
普通の声。
軽い声。
少し苛立った声。
親しい声。
呼ばれた者が振り返る。
手を振る。
返事をする。
それだけの光景が、真昼には以前より複雑に見えた。
名前を呼ぶことは、いつも優しいわけではない。
でも、名前を呼ばれないことが、いつも救いになるわけでもない。
真昼は、キーボードに指を置いた。
記事本文を書き始める。
誰かの名前を呼ぶ時、私たちはその人に手を伸ばしている。
その手は、支えになることもある。
けれど、時には、相手の傷に触れてしまうこともある。
名前を呼ばれることが苦しい人もいる。
昔の失敗と結びついた名前。
家族の期待と結びついた名前。
ネット上で晒された名前。
誰かに勝手に意味を押しつけられた名前。
役割や肩書きに塗りつぶされた名前。
名前は、その人をその人として呼ぶためのものだ。
でも、呼ぶ側の都合で使えば、名前は鎖にもなる。
真昼は一度手を止めた。
雨宮紗良のことを思い出す。
名前が消えたら、楽になった。
そう言った少女。
彼女はまだ、完全には戻っていない。
旧地下鉄入口の前で見つかった切符の裏には、さ、のような跡だけが残っていた。莉子は今も彼女の呼び方を覚え続けている。名前ではないかもしれない。あだ名でもないかもしれない。ただ、彼女が振り返るかもしれない言葉を、忘れないようにしている。
真昼は続きを書いた。
だから、名前を呼ぶ時には考えたい。
その呼び方は、相手をここへ戻すためのものなのか。
それとも、自分が安心するためのものなのか。
相手が今、受け取れる呼び方なのか。
受け取れないなら、無理に呼ばないことも必要なのかもしれない。
けれど、呼ばないことは、忘れることではない。
公開記事に書けるのは、そこまでだった。
真昼は、最後の段落に迷った。
何度も消した。
書き直した。
そして、最後に、短く書く。
名前を呼ばれることが苦しい人もいる。
だから、呼び方には責任がある。
それでも、あなたの名前が必要になった時、誰かが覚えていられるように。
書き終えて、真昼はしばらく画面を見つめた。
強い記事ではない。
派手な記事でもない。
きっと、天沢灯里の記事ほど読まれない。
コメントも少ないかもしれない。
でも、今はそれでいい。
この文章は、零番線への案内ではない。
戻るための細い糸だ。
公開ボタンを押す前に、真昼は画面の下に署名を入れた。
白瀬真昼。
その名前は、ちゃんと書けた。
御影レイに預け、返してもらった名前。
前と同じではない。
少しだけ、強くなった名前。
真昼は、公開ボタンを押した。
画面に表示が出る。
記事を公開しました。
その文字を見ても、以前のような高揚はなかった。
かわりに、静かな重さが残った。
書いた。
でも、全部は書いていない。
それが、今回の記録だった。
*
市警の報告書では、今回の一連の現象はまだ整理されていなかった。
霧生仁は、会議室の端で缶コーヒーを飲みながら、分厚いファイルを睨んでいた。
「行方不明未遂、異常遺留物、旧地下鉄侵入、記録欠落、観測局案件。どの棚に入れてもはみ出すな」
綾瀬直央が、隣で端末を操作している。
「分類コードを複数付けるしかありませんね」
「複数付けたら、上が読む前に投げ返してくる」
「では、主任が読ませるように書くしかありません」
「若手が上司に無茶を振るな」
「主任がいつも私たちにやっていることです」
霧生は、何か言い返そうとして、やめた。
「……成長したな」
「白瀬さんみたいな言い方をしないでください」
「俺も嫌だった」
そのやり取りを聞きながら、黒江透子は別の机で報告書を書いていた。
白い識別バンド。
K-117。
Null-03処置記録。
零番線で聞いた少年の声。
呼ばなかった名前。
それらを、報告書の言葉へ変換する作業は、思った以上に苦しかった。
正式記録には、K-117と書く。
書かなければならない。
まだ、真木彼方という名前を公式には通せない。
書類の氏名欄に入力しても、文字が弾かれる。変換候補から落ちる。保存すると、K-117へ置き換わる。
透子は何度も試した。
真木彼方。
Enter。
保存。
画面が一瞬白くなり、戻る。
K-117。
何度やっても同じだった。
透子は、しばらく画面を見つめていた。
それから、報告書の正式欄にはK-117と入力した。
手続きとして。
証拠保全として。
まだ壊さないために。
そして、その横に紙の付箋を貼った。
電子記録ではない。
私的注記。
青いインクのペンで書く。
真木彼方。
書けた。
消えなかった。
電子記録には残せない。
市警の公式報告書では弾かれる。
観測局の記録保全部なら、まだ承認しないだろう。
それでも、透子の手元の紙には残った。
彼方くん。
今は、呼ばない。
でも、忘れない。
透子は、その付箋を見つめた。
涙は出なかった。
もう、零番線のホームで泣き尽くしたのかもしれない。
あるいは、まだ泣くには早いのかもしれない。
霧生が近づいてきた。
付箋を見て、少しだけ眉を上げる。
「正式記録じゃないな」
「はい」
「消されるぞ」
「はい」
「それでも書くのか」
「はい」
霧生は、しばらく黙った。
それから、机の上に缶コーヒーを置いた。
「飲め」
「またですか」
「今日は飲め」
「ありがとうございます」
「礼はいらん」
透子は缶を受け取った。
霧生は、付箋をもう一度見た。
「黒江」
「はい」
「呼ばなかったな」
透子は、ゆっくり頷いた。
「はい」
「よくやった」
その言葉は、短かった。
乱暴で、説明が足りない。
だが、透子には十分だった。
「ありがとうございます」
「だから礼はいらん」
霧生はそう言って、自分の報告書へ戻った。
透子は、付箋の文字に指を触れないようにして、そっと見つめた。
真木彼方。
まだ呼べない名前。
だが、消えていない名前。
*
御影レイは、旧新聞部室の窓際に座っていた。
真昼が公開記事を書き終えたあと、彼はいつものように差し入れを持ってきた。
今日は、サンドイッチではない。
小さなチョコレート菓子と、甘いカフェオレ。
「佳乃さん?」
真昼が聞くと、レイは頷いた。
「母さんが、たぶん疲れてるだろうからって」
「佳乃さん、私のエネルギー源を完全に把握してきてる」
「食事ではない」
「分かってる。でも今日は食べる」
「菓子を?」
「夕飯も食べます」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん禁止」
「御影くんに言われると、逃げ場がない」
真昼は、チョコレートを一つ口に入れた。
甘さが舌の上で溶ける。
それだけで、身体が地上へ戻ってくる気がした。
レイは、公開された記事を読んでいた。
名前を呼ぶ前に、考えたいこと。
彼は最後まで黙って読み、少しだけ頷いた。
「零番線を書かなかった」
「書かなかった」
「無名切符も」
「書かなかった」
「真木彼方も」
「公開記事には書かない」
「うん」
「書きたかった?」
真昼は、正直に頷いた。
「書きたかった。すごく」
「知ってる」
「零番線のことも、無記性境界物質のことも、Null-03のことも、O-00のことも。全部書けば、きっと読まれる」
「うん」
「でも、読まれちゃいけない人にも届く」
「うん」
「だから、書かなかった」
「成長」
「それ、最近みんな言う」
「実際にそうだから」
「でも、ちょっと悔しい」
「書かないのが?」
「うん。記録者なのに」
レイは、画面から目を離した。
「書いてる」
「非公開で?」
「うん」
「公開しない記録でも、記録?」
「記録」
レイは静かに言った。
「たぶん、僕はそのほうが助かることもある」
真昼は、彼を見る。
「御影くんも?」
「全部をすぐ見られたら、嫌だと思う」
その言葉に、真昼は胸が少し痛んだ。
オメガの怒り。
自分の人生を覗かれることへの恐怖。
レイは、それを少しずつ理解し始めている。
理解することと、許すことは違う。
けれど、見ないふりはもうできない。
「真木彼方は」
レイが言った。
真昼は、彼の声に集中した。
「真木彼方は、僕かもしれなかった」
窓の外では、夕方の光が薄くなっている。
雨は降っていない。
けれど、旧新聞部室の中には、まだ地下の水音が少しだけ残っている気がした。
レイは続ける。
「でも、僕じゃない」
「うん」
「まだ、彼を知らない」
「うん」
「知るのが怖い」
「うん」
「それでも、知らないままオメガにしたくない」
真昼は、静かに頷いた。
それは、零番線のホームでレイが掴んだ答えだった。
真木彼方を、自分の失敗未来として飲み込まない。
オメガとして固定しない。
かわいそうな被害者として終わらせない。
まだ知らない一人として、残す。
「じゃあ」
真昼は言った。
「知るまで呼ばない」
レイが彼女を見る。
真昼は、ノートを開いた。
そこには、非公開記録のタイトルが書かれている。
真木彼方/未呼称記録
「でも、忘れない」
レイは、その文字を見た。
しばらく黙っていた。
そして、静かに言う。
「未呼称記録」
「うん」
「呼ばない記録?」
「まだ呼ばない記録」
「彼方が自分で選ぶまで」
「そう」
「いいと思う」
真昼は、少しだけ笑った。
「御影くんの『いいと思う』は、たまにすごく効くね」
「効く?」
「効く」
「じゃあ、よかった」
真昼は、非公開フォルダに新しいファイルを保存した。
真木彼方_未呼称記録
ファイル名ではスラッシュが使えない。
真昼は少しだけ眉をひそめる。
「またスラッシュが使えない」
「ファイル名だから」
「情緒がない」
「安全性は高い」
「御影くん、こういう時だけ藍沢さんっぽい」
「少し嫌」
「私も言ってから少し嫌だった」
二人は、少し笑った。
笑えることが、まだ地上にいる証拠だった。
真昼は、ファイルの冒頭に書いた。
真木彼方。
未呼称記録。
この記録は、対象名を公開しない。
対象者は現在、呼称により状態が悪化する可能性がある。
ただし、対象者は完全に消失していない。
零番線にて、本人意思と思われる応答あり。
「まだ、僕を呼ばないで」
この記録は、呼ぶためではなく、呼べる日まで忘れないために作成する。
そこまで書いて、真昼は手を止めた。
レイが、静かに彼女の名前を呼ぶ。
「白瀬真昼」
真昼は返した。
「御影レイ」
「戻ってる?」
「戻ってる」
今度は、預けなくても戻っている。
けれど、あの時預けた感覚は残っている。
自分の名前を誰かに持っていてもらうこと。
それは弱さではなかった。
名前は、自分ひとりで抱えなくてもいい。
誰かに呼んでもらうことで戻る名前もある。
誰かに預けることで壊れずに済む名前もある。
そして、まだ呼ばないことで守れる名前もある。
真昼は、画面に最後の一行を打った。
呼ばない。
でも、忘れない。
*
その夜、ノクターン書房には灯りが点いていなかった。
いつもなら、雨の日でなくても、坂道の途中に小さな琥珀色の光が見える。
古い本棚とカウンターの明かり。
窓際の読書灯。
だが、その夜の店は暗かった。
外は晴れている。
空には、薄い月が出ていた。
それでも、ノクターン書房の前だけ、湿った空気が漂っている。
扉には、古い紙片が貼られていた。
本日臨時休業
それだけ。
名前はない。
署名もない。
誰が貼ったのかも分からない。
坂道を通る人は、誰も気にしない。
古い古書喫茶が一日閉まっているだけだ。
けれど、窓ガラスの内側で、何かが動いた。
黒い傘の影。
それは店内にいるようにも、窓に映っているだけのようにも見えた。
影は、しばらく空の本棚を見ていた。
棚の一角には、貸出票が一枚挟まれている。
天沢灯里。
その名前は、消えていない。
影は、それを見ているようだった。
やがて、窓の内側で水滴が落ちた。
ぽたり。
外は晴れている。
それでも、店内のガラスに水が伝う。
黒い傘の影は、音もなく背を向けた。
その足元に、白い切符が一枚落ちている。
名前欄は空白。
行き先も空白。
ただ、雨粒が落ちた瞬間だけ、薄い文字が浮かんだ。
零番線。
*
零番線のホームには、列車は来ない。
誰もいない。
ベンチもない。
広告もない。
時刻表もない。
白い駅名標には、何も書かれていない。
ホームの端に、黒い水面が広がっている。
水面は揺れない。
ただ、遠くで水滴の落ちる音だけがする。
ぽたり。
ぽたり。
ホームの中央に、黒い傘を持つ影が立っていた。
傘は開かれていない。
持ち手を下にして、杖のように床へ立てている。
顔は見えない。
背丈も、輪郭も、性別も、定まらない。
青年のようにも見える。
少年のようにも見える。
レイに似ているようにも見える。
誰にも似ていないようにも見える。
影は、駅名標を見上げた。
そこには何も書かれていない。
零番線という文字すら、消えている。
しばらく、何も起きなかった。
やがて、ホームの奥にある次発案内だけが、一瞬光った。
次発:R-■■
黒い傘の影は、じっとそれを見上げる。
驚く様子はない。
待っていたようにも見える。
恐れていたようにも見える。
遠くで、水音がした。
ぽたり。
次発案内の光が消える。
ホームの天井に並んだ灯りのうち、一つだけが明滅した。
一度。
二度。
そして、消えた。
零番線のホームは、少しだけ暗くなった。
列車は、まだ来ない。




