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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第三巻:真木彼方と零番線
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第十二章 呼べない名前

 零番線が閉じ始めた。


 最初に変わったのは、音だった。


 水滴の音が近くなる。


 ぽたり。


 ぽたり。


 さっきまでホームの奥で聞こえていたはずの音が、いつの間にか足元から響いている。線路の代わりに広がる黒い水面が、静かにせり上がっていた。


 波はない。


 流れもない。


 ただ、そこにある水の位置だけが、少しずつ上がってくる。


 零番線のホームは、急いでいるようには見えなかった。


 警報も鳴らない。


 非常灯も点滅しない。


 駅員のアナウンスもない。


 けれど、確実に閉じている。


 白い駅名標の文字が、明滅した。


 零番線。


 その三文字が一度消え、また浮かぶ。


 次に、足元の切符が動いた。


 名前のない切符。


 白い紙片。


 それらが、見えない風に押されるようにホームの奥へ流れていく。床に水はないはずなのに、切符だけが水に浮かぶ葉のように移動していた。


 真昼は、その動きに引き寄せられかけた。


 切符の一枚に、薄い文字が見えた気がしたのだ。


 雨宮――


 その先はない。


 雨宮紗良。


 そう書きたい。


 呼びたい。


 でも、今それを呼べば、彼女はさらに奥へ逃げるかもしれない。


 真昼は唇を噛んだ。


「白瀬真昼」


 レイの声がした。


 その声が、胸の外から戻ってくる。


 真昼は返事をしようとした。


 けれど、喉の奥で言葉が引っかかった。


「……御影、レイ」


 少し遅れた。


 自分でも分かった。


 レイもすぐに気づいた。


「白瀬真昼」


「御影レイ」


 今度は少し早い。


 けれど、名前が遠い。


 白瀬真昼。


 自分の名前なのに、口に出した瞬間、どこか別の場所から借りてきた言葉のように感じる。


 さっきまでは、レイに預けた名前が、呼ばれるたびにちゃんと戻ってきていた。


 今は、戻ってくる途中で零番線の空気に削られている。


 手紙の端が水に濡れて、少しずつ文字を失うように。


 真昼は胸を押さえた。


 白瀬真昼。


 私は、白瀬真昼。


 心の中で唱える。


 だが、唱えた名前の輪郭が薄い。


 真昼という音だけが、遠いところで揺れている。


「まずい」


 霧生仁が言った。


 彼の声も、いつもより少し遠く聞こえる。


「改札へ戻る。今すぐだ」


 黒江透子は、まだホームの奥を見ていた。


 少年の声は消えた。


 黒い傘の影もない。


 それでも、透子の視線はそこから離れない。


 彼方くん。


 呼びたい。


 呼ばない。


 その二つの言葉のあいだに立っている。


「黒江透子」


 霧生が強く呼んだ。


 透子の肩が揺れる。


「……はい」


「撤退する」


「はい」


「今どこだ」


「零番線のホーム」


「お前は」


「黒江透子」


「よし。歩け」


 透子は頷いた。


 涙はこぼれていない。


 だが、目元が濡れていた。


 彼女は呼ばなかった。


 真木彼方という名前を、叫ばなかった。


 ずっと呼びたかった名前を、今は呼ばないことで守った。


 真昼は、その姿を見て胸が痛んだ。


 透子は何もできなかったわけではない。


 むしろ、何もしないことを選ぶのに、これほどの力がいるのだと初めて知った。


「白瀬真昼」


 レイがまた呼ぶ。


 真昼は返そうとした。


 だが、声が出ない。


 目の前に白い切符が舞った。


 切符の名前欄が空白だ。


 そこに、自分の名前を書けばいい。


 そう思った。


 書けば、置いていける。


 置いていけば、軽くなる。


 白瀬真昼という名前は、重い。


 エミー・グレイス・ハーパーを残した。


 天沢灯里を残した。


 古河千景を残した。


 真木彼方を残そうとしている。


 雨宮紗良を連れ戻そうとしている。


 名前を抱えすぎている。


 疲れていないはずがない。


 ここへ置いていけば、楽になる。


 零番線は、そう言っているようだった。


 真昼は、一歩だけ奥へ向かいかけた。


 レイの手が、彼女の手首を掴んだ。


「白瀬真昼!」


 声が強い。


 痛いほど強い。


 真昼は振り返った。


 レイの顔が見える。


 焦っている。


 彼がこんな顔をするのは珍しい。


 無表情の下にいつも隠れているものが、今は隠れていない。


「返事して」


 レイが言う。


 真昼は口を開く。


 でも、言葉が出ない。


 御影レイ。


 それすら、少し遠い。


 誰だっけ。


 違う。


 違う。


 分かっている。


 御影レイ。


 アルファ。


 でも、アルファと呼んではいけない。


 彼は御影レイ。


 同じ魂の記憶を持っていても、御影レイ。


 真昼は、必死にその名前を掴む。


「み……かげ」


 声が掠れる。


「御影、レイ」


 レイの手の力が少しだけ緩む。


「白瀬真昼」


「……うん」


「うんじゃなくて、名前」


「白瀬」


 真昼は息を吸った。


 白瀬。


 その先。


 その先が薄い。


 真昼。


 灯里。


 違う。


 灯里ではない。


 天沢灯里は、私だった。


 でも、私じゃなかった。


 そう言った。


 忘れてはいけない。


 真昼は目を閉じた。


 ノート。


 旧新聞部室。


 机の上のパソコン。


 記事のタイトル。


 非公開記録。


 そこに書いた名前たち。


 胸の中で、ページが開く。


 最初に浮かんだのは、赤いステージの光だった。


 エミー・グレイス・ハーパー。


 彼女は、レイの中にいた。


 でも、レイではなかった。


 ショーライトの下で踊り、自分の名前を持っていた女性。


 真昼は、その名前を記録した。


 彼女はここにいた。


 次に、銀色のヘアピンが見えた。


 天沢灯里。


 静かな図書委員。


 名前が怖いなら、今日は呼ばないと言った少女。


 それでも最後に、自分の名前を残した少女。


 灯里は真昼だった。


 でも、真昼ではなかった。


 次に、濡れたメモ帳。


 古河千景。


 C-04ではない。


 自分を普通だと思い込もうとしていた青年。


 俺は、お前じゃない。


 俺は古河千景だ。


 何度も自分の名前を書いて、最後まで自分であろうとした人。


 次に、白い識別バンド。


 K-117。


 真木――


 まだ先が読めない。


 真木彼方。


 名前を呼んでほしかった少年。


 でも今は、まだ呼べない名前。


 それでも消えていない名前。


 最後に、レイの声。


 白瀬真昼。絶対に返す。


 御影レイ。


 自分かもしれなかった人たちの記憶を抱えながら、誰かを誰かとして見ようとしている少年。


 真昼は、目を開けた。


 零番線のホームが揺れている。


 でも、名前が戻ってきている。


 一つずつ。


 自分が記録した名前たちが、白瀬真昼という名前の周りに杭のように立っている。


 エミー・グレイス・ハーパー。


 天沢灯里。


 古河千景。


 真木彼方。


 御影レイ。


 そして。


「私は」


 真昼は声を絞り出した。


 レイが、真昼の手を強く握る。


 霧生が低く呼ぶ。


「白瀬」


 透子も言う。


「白瀬さん」


 レイが、もう一度名前を返す。


「白瀬真昼」


 真昼は、自分の胸の奥へその名前を受け取った。


 預けていた名前が、レイの声から戻る。


 ただ戻るのではない。


 少し強くなって戻ってくる。


 自分ひとりで持つ名前ではなく、誰かに預けて、返してもらった名前として。


「私は、白瀬真昼」


 はっきり言えた。


 その瞬間、ホームの床が大きく揺れた。


 駅名標の光が強くなる。


 零番線。


 その文字が、白く滲む。


 水面がせり上がり、ホームの端を舐めるように近づいてきた。


 霧生が叫ぶ。


「走るぞ!」


 今度は誰も反論しなかった。


 霧生が先頭に立つ。


 透子が続く。


 真昼とレイは並んで走る。


 レイはまだ真昼の手を離さない。


 離せば、また名前が少し薄れる気がした。


 背後で、少年の声がした。


 小さく。


 遠く。


 先生。


 透子の足が、ほんの一瞬だけ止まりかけた。


 霧生が振り返る。


「黒江透子!」


 透子は、唇を噛む。


「はい!」


 彼女は振り返らなかった。


 振り返らないことで、呼ばないことで、彼を守る。


 その背中を、真昼は忘れないと思った。


 通路の先に、改札の光が見える。


 行きには白く開いた改札が、今は赤く点滅していた。


 画面の文字が乱れている。


 名前を入力してください。


 名前を返却してください。


 名前を確認してください。


 名前を――


 文字が次々と変わる。


 真昼の胸がざわつく。


「御影くん」


「白瀬真昼」


「もう一回」


「白瀬真昼」


「返ってる」


「うん」


 改札の前で、霧生が自分の名前を書いた。


 霧生仁。


 行きには弾かれた改札が、今度は出口として開く。


 名前保持強度:高

 退出許可


「便利な改札だな、くそ」


 霧生が吐き捨てるように言い、通過する。


 透子が続く。


 黒江透子。


 過去所属干渉あり。


 退出許可。


 透子は一瞬だけ顔を歪めたが、通った。


 次にレイ。


 御影レイ。


 多元接続反応あり。


 退出許可。


 レイは、真昼の手を離さなかった。


 最後に真昼が立つ。


 画面が白く明滅する。


 名前を入力してください。


 真昼は、指を動かした。


 白瀬真昼。


 今度は、書ける。


 自分の中に戻っている。


 でも、改札はすぐには開かない。


 画面に文字が出る。


 名前保持強度:再固定中

 記録者系反応:過負荷

 退出条件:不安定


 真昼の喉が詰まる。


 レイが、改札の向こうから手を伸ばした。


「白瀬真昼」


「御影レイ」


「返す」


「受け取る」


「白瀬真昼」


「私は、白瀬真昼」


 画面の文字が変わる。


 名前再固定確認。


 退出許可。


 改札が開いた。


 真昼は、レイの手に引かれて外へ出た。


 その瞬間、背後で大きな音がした。


 金属の扉が閉まる音ではない。


 水が空間ごと落ちるような音。


 改札の向こうの通路が、白く滲む。


 零番線のホームが遠ざかる。


 駅名標の文字が消える。


 零番線。


 白い三文字が、最後に一度だけ光った。


 そして、消えた。


     *


 無名駅の改札は、何もなかったように静かになった。


 通路の向こうは、記録沈殿層へ戻っている。


 水の流れも、さっきより弱い。


 落ちている切符の数も減っていた。


 霧生は、まず全員を壁際に座らせた。


「点呼」


 息を整えるより先に、名前を呼ぶ。


「御影レイ」


「はい」


「白瀬真昼」


「はい」


「黒江透子」


「はい」


「霧生仁」


「はい」


 霧生は、短く息を吐いた。


 それから無線を入れる。


「倉科、聞こえるか」


 ノイズの奥から声が返った。


『聞こえます! 戻ったんですか』


「戻った。そっちは」


『待機継続中です。すごく行きたくなりましたけど、行ってません』


「よくやった」


『褒め方が雑です』


「生きてるから十分だ」


 無線の向こうで、悠斗が小さく笑った。


『雨宮さんは?』


 その問いに、真昼は顔を上げた。


 雨宮紗良。


 彼女は、完全に戻ったのか。


 それともまだ零番線のどこかにいるのか。


 答えは、まだ分からない。


 だが、真昼の足元に、一枚の切符が落ちていた。


 行きにはなかったものだ。


 濡れた白い切符。


 名前欄には何も書かれていない。


 ただ、裏面に鉛筆の跡があった。


 さ、のような一文字。


 あるいは、ただの傷。


 真昼は、それを触らずに見つめた。


 雨宮紗良が戻った証拠ではない。


 でも、完全に奥へ行ってしまった証拠でもない。


「まだ」


 真昼は言った。


「まだ、終わってません」


 霧生が頷く。


「だろうな」


 透子は、壁に背を預けたまま目を閉じていた。


 真昼は彼女の横へ座る。


「透子さん」


 透子は、ゆっくり目を開ける。


「はい」


「呼ばなかったですね」


 透子の顔が、少しだけ歪んだ。


「呼びたかった」


「はい」


「ずっと呼びたかったんです」


「はい」


「今でも、呼びたい」


「はい」


「でも」


 透子は、零番線が消えた方を見た。


「今呼んだら、彼方くんが壊れるかもしれない」


 真昼は頷いた。


「彼方さん、自分で言いました。まだ呼ばないでって」


「ええ」


 透子は、ほんの少しだけ目元を押さえた。


「私は、何もできなかったわけではないんでしょうか」


 その問いは、ひどく小さかった。


 黒江透子という大人が、ずっと自分に向けていた問い。


 救えなかった。


 守れなかった。


 名前を呼び続けたのに戻せなかった。


 今も連れ帰れなかった。


 それでも。


「できました」


 真昼は言った。


 透子が彼女を見る。


「透子さんは、今度は彼方さんの声を聞きました」


「声」


「呼んでほしい声だけじゃなくて、まだ呼ばないでって声も」


 透子は、ゆっくり息を吐いた。


「そうですね」


「呼ばないことで、守ったんだと思います」


 透子は、すぐには答えなかった。


 だが、少しだけ頷いた。


「……それが、今の私にできる保護なら」


「はい」


「忘れないことも、保護になるでしょうか」


 真昼は、自分のノートを押さえた。


「なります」


 そう答えた。


 今は、そう信じたかった。


 レイは、少し離れた場所で水面を見ていた。


 真昼は立ち上がり、彼の隣へ行く。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


「返してくれてありがとう」


「返せてよかった」


 短い言葉。


 でも、その中に本当に安堵があった。


 真昼は、胸元に手を当てる。


 自分の名前は戻っている。


 完全に。


 いや、前と同じではない。


 少し変わった。


 名前を預けて、返してもらった。


 その記憶が、白瀬真昼という名前の中に増えた。


「重かった?」


 真昼が聞く。


「何が」


「私の名前」


 レイは少し考えた。


「重かった」


「正直」


「でも、温かかった」


 真昼は、返事に困った。


 こういう時のレイは、本当にずるい。


「御影くん、たまにすごく変なこと言う」


「変?」


「うん」


「嫌だった?」


「嫌じゃない」


「ならよかった」


 レイは、水面から目を離した。


「白瀬真昼」


「御影レイ」


「僕、まだ彼を知らない」


「うん」


「でも、彼は消えてない」


「うん」


「まだ呼べない」


「うん」


「それを、忘れないで」


「記録する」


「公開する?」


「しない」


 真昼は、はっきり答えた。


「今は、非公開」


「うん」


 その時、記録沈殿層の奥から、また微かな水音がした。


 ぽたり。


 それは、零番線が完全に閉じた音なのか。


 まだどこかで開いている音なのか。


 分からない。


 霧生が立ち上がった。


「帰るぞ。地上へ戻るまでが捜査だ」


「遠足みたいですね」


 真昼が言うと、霧生が顔をしかめる。


「こんな遠足があってたまるか」


「ですよね」


「御影、白瀬。歩けるか」


「歩けます」


 レイが答える。


「私も」


 真昼も言った。


 透子も立ち上がる。


 その足取りはまだ重いが、倒れそうではない。


 四人は、記録沈殿層を戻った。


 途中、真昼は何度も沈んだ名札や写真を見た。


 拾いたくなった。


 でも、拾わなかった。


 今は。


 その代わり、心の中で言った。


 忘れない。


 全部は拾えない。


 でも、見たことを消さない。


 封鎖連絡層へ戻る梯子の前で、倉科悠斗が待っていた。


 彼は、真昼たちを見るなり大きく息を吐いた。


「遅い」


「ごめんなさい」


 真昼が言う。


「謝るくらいなら無事でいてください」


「無事です。たぶん」


「たぶん?」


 悠斗が顔をしかめる。


 レイが言った。


「名前は戻っています」


「なら、たぶんよりマシですね」


 霧生が点呼する。


「御影レイ」


「はい」


「白瀬真昼」


「はい」


「黒江透子」


「はい」


「倉科悠斗」


「はい」


「霧生仁」


「はい」


 五つの名前が戻った。


 そのことが、今は何より現実だった。


     *


 地上に戻ると、雨が降っていた。


 旧地下鉄入口の前で、莉子が待っていた。


 綾瀬に止められて、階段には近づけなかったのだろう。傘を差しているのに、肩が濡れている。ずっと入口を見ていたからだ。


 真昼たちが出てくると、莉子は駆け寄った。


「紗良は」


 その問いに、真昼はすぐには答えられなかった。


 嘘はつけない。


 完全に戻したとは言えない。


 でも、完全に失ったとも言えない。


「まだ、探します」


 真昼は言った。


「でも、完全に消えたわけじゃありません」


 莉子の目に涙が浮かぶ。


「本当に?」


「はい」


 真昼は、彼女の前で小さく頷いた。


「莉子さん。呼び方を、覚えていてください」


「呼び方?」


「雨宮さんが受け取れる呼び方。名前じゃなくてもいい。紗良さんが嫌がらない言葉。あなたが彼女を、ちゃんと彼女として思い出せる言葉」


 莉子は泣きながら頷いた。


「覚えてます」


「それを、消さないでください」


「はい」


 雨は、旧地下鉄入口の石段を濡らしていた。


 水は下へ落ちていく。


 でも今は、誰もその階段を降りなかった。


     *


 その夜、真昼は旧新聞部室に戻った。


 霧生には帰れと言われた。


 レイにも休めと言われた。


 透子にも、記録は明日でいいと言われた。


 それでも、真昼は少しだけ書きたかった。


 公開記事ではない。


 《アガルタ観測録》の管理画面も開かない。


 非公開フォルダ。


 零番線_未公開記録。


 その中に、新しいファイルを作る。


 012_呼べない名前


 指が、少し震えた。


 だが、名前は書ける。


 白瀬真昼。


 自分の署名を、最初に書いた。


 それから、本文を打つ。


 零番線にて、K-117と思われる残響に接触。


 少年の声。


 「先生、僕の名前を呼んでください」


 黒江透子、呼称を試みるも中止。


 白瀬真昼、呼称停止を助言。


 黒江透子、以下の言葉を選択。


 彼方くん。


 今は、呼ばない。


 でも、忘れない。


 真昼は、そこで一度手を止めた。


 それから、ゆっくり書いた。


 残響側より応答。


 「まだ、僕を呼ばないで」


 これは拒絶ではない。


 呼称の拒否ではなく、呼称時期の選択。


 K-117は、完全消失していない。


 真木彼方は、まだ自分が呼ばれる時を選ぼうとしている。


 真昼は、画面を見つめた。


 そして、最後に三行を書く。


 真木彼方。


 まだ呼べない名前。


 でも、消えていない名前。


 書いた瞬間、胸の奥で何かが静かに落ち着いた。


 救えたわけではない。


 連れ戻せたわけでもない。


 雨宮紗良も、まだ完全には戻っていない。


 零番線は閉じたが、消えたわけではない。


 黒い傘の影も、O-00も、オメガも、まだ奥にいる。


 それでも、今日、ひとつだけ分かった。


 呼ばないことは、忘れることではない。


 公開しないことは、記録しないことではない。


 戻せなかったことは、何もしなかったことではない。


 真昼は、ファイルを保存した。


 外では雨が降っている。


 窓ガラスに水滴が落ちる。


 ぽたり。


 でも、今の水音は、零番線からの呼び声ではなかった。


 真昼は、ノートの表紙に手を置いた。


「私は、白瀬真昼」


 小さく声に出す。


 その名前は、ちゃんと戻ってきた。


 そして、画面の中には、まだ呼べない名前が残っている。


 真木彼方。


 消えていない名前。


 いつか呼べる日まで、守る名前。

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