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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第三巻:真木彼方と零番線
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第十一章 真木彼方

 零番線のホームには、列車の来る気配がなかった。


 線路があるべき場所には、黒い水が広がっている。


 水面は揺れない。


 風もない。


 それなのに、どこか遠くで水滴の落ちる音だけが続いていた。


 ぽたり。


 ぽたり。


 音は規則的ではない。


 誰かの呼吸のように近づき、遠ざかり、また戻る。


 ホームの天井は低かった。


 古い地下鉄駅のようにも見えるが、どこか違う。広告看板はない。時刻表もない。ベンチもない。柱には駅名が貼られていない。壁のタイルは白く、ところどころひび割れているが、汚れはなかった。


 白すぎる。


 真昼は、そう思った。


 旧地下鉄の古い駅なら、もっと汚れているはずだ。煤、錆、落書き、染み、足跡、誰かが剥がしたポスターの跡。人が使った場所には、人が使った痕跡が残る。


 ここには、それがない。


 人が来たはずなのに、人の痕跡だけが消えている。


 足元には、名前のない切符が落ちていた。


 一枚ではない。


 何十枚も。


 白い紙片が、ホームの床に散っている。


 発駅はない。


 着駅もない。


 運賃も日付もない。


 ただ、どの切符にも空白の欄がある。


 名前欄。


 そこだけが、妙に広い。


 誰かが自分の名前を書こうとして、書けなかった余白。


 誰かが自分の名前を置いていった跡。


 真昼は、思わずしゃがみ込みそうになった。


 拾いたい。


 見たい。


 誰がここへ来たのか、何を捨てたのか、何を残したかったのか、確かめたい。


 だが、レイの声がすぐに聞こえた。


「白瀬真昼」


 胸の外側から、自分の名前が戻ってくる。


 真昼は息を吸った。


「御影レイ」


 返事をすると、足が床に戻る。


 今、彼女の名前は少しだけレイに預けられている。


 それは不思議な感覚だった。


 自分が自分でなくなったわけではない。


 白瀬真昼という名前を忘れたわけでもない。


 けれど、その名前の芯を、自分ひとりでは持っていない。


 レイが呼ぶたびに、名前が戻ってくる。


 彼の声を通って、胸の中央へ戻ってくる。


 そのたびに、真昼は立っていられる。


 怖い。


 けれど、捨てたわけではない。


 預けたのだ。


 信じて、持っていてもらっている。


 レイは隣にいた。


 顔色は悪い。


 それでも、彼は真昼より少しだけ前に立っている。零番線の奥を見つめ、片手を軽く握っていた。


 彼の中には、真昼の名前がある。


 そして、彼自身の名前も揺れている。


 御影レイ。


 真昼は、今度はこちらから呼んだ。


「御影レイ」


 レイが少しだけこちらを見る。


「白瀬真昼」


「戻ってる?」


「戻ってる。君は?」


「戻ってる。名前、ちゃんと返ってきてる」


「よかった」


 その短い言葉に、胸が少しだけ温かくなった。


 しかし、次の水音がそれをすぐに冷やす。


 ぽたり。


 ホームの奥から、声がした。


「先生」


 黒江透子の肩が震えた。


 彼女は、真昼たちより少し後ろに立っていた。霧生仁がその隣にいる。透子は白い観測室から戻ってきたあとも、ずっとぎりぎりだった。K-117観測室。壁の鉛筆跡。Null-03処置記録。若い自分の声。


 そして今、その声が呼んでいる。


 先生。


 透子は、一歩前へ出た。


 霧生がすぐに肩を掴む。


「黒江」


「分かっています」


 透子の声は震えていた。


「分かっています。まだ、近づくだけです」


「その『だけ』は信用しない」


「主任」


「俺はお前が名前を呼ぶ顔をしてるのが分かる」


 透子は答えられなかった。


 真昼にも分かった。


 透子は、呼びたい。


 ずっと呼びたかったのだ。


 真木彼方。


 自分が呼び続けなければ、彼は消えてしまう。


 そう信じていた少年の名前。


 呼べなかったのではない。


 呼んだ。


 何度も。


 それでも救えなかった。


 だから、もう一度呼びたい。


 今度こそ届くかもしれない。


 今度こそ戻せるかもしれない。


 その願いが、透子の全身からにじんでいた。


 真昼は、胸の奥が痛くなるのを感じた。


 少し前の自分なら、きっと一緒に呼んでいた。


 消えかけているなら、呼ばなければ。


 名前があるなら、記録しなければ。


 ここにいるなら、今すぐ見つけなければ。


 そう思ったはずだ。


 でも今は違う。


 天沢灯里の手帳がある。


 名前が怖いなら、今日は呼ばない。


 ノクターン書房の青年の警告がある。


 もし彼を見つけても、すぐに名前を呼んではいけません。


 そして、雨宮紗良の言葉がある。


 名前が消えたら、楽になった。


 名前は救いだけではない。


 呼ぶことは、いつも正しいわけではない。


 ホームの奥が、白く揺れた。


 零番線のホームが、別の場所と重なる。


 白い観測室。


 固定された椅子。


 壁の鉛筆跡。


 記録カメラ。


 白い識別バンド。


 その上に浮かぶ番号。


 K-117。


 そして、椅子に座る少年の輪郭。


 はっきり見えるわけではない。


 顔は曖昧だった。


 髪の長さも、目の色も、体格も、輪郭が水の中に沈んでいるように揺れている。


 ただ、細い手首だけが見えた。


 白い識別バンド。


 そこに書かれた番号。


 K-117。


 少年の声がした。


「先生、僕の名前を呼んでください」


 透子が息を呑んだ。


 真昼は、彼女が言葉を出す前に動いた。


「透子さん」


 声が、自分でも驚くほど強く出た。


 透子は止まらない。


 唇が動く。


 ま、の形。


 真昼は、さらに強く言った。


「透子さん、今は呼んじゃだめです」


 その瞬間、透子の表情が崩れた。


 怒りではない。


 悲しみでもない。


 もっと深い、何年も押し殺してきた痛みが、顔の奥から溢れかけた。


「白瀬さん」


 声が震えている。


「彼は、呼んでほしいと言っています」


「分かってます」


「ずっと、そう言っていたんです」


「分かってます」


「私は、呼ばなければ」


「今呼んだら、壊れるかもしれない」


 透子の目が見開かれる。


 真昼は、胸の外にある自分の名前を必死で握り返すような感覚で続けた。


「呼びたいのは分かります。呼ばなきゃいけないって思うのも分かります。でも、ここは零番線です。名前を捨てたい人に優しい場所で、名前を捨てさせたい誰かもいる場所です。ここで強く呼んだら、その名前がどこに結ばれるか分からない」


 透子は、少年の影を見る。


 少年は、白い椅子に座っているようで、ホームの端に立っているようでもあった。


 彼の周囲には、名前のない切符が何枚も浮かんでいる。


 呼ばれたい。


 呼ばれたくない。


 戻りたい。


 戻れない。


 その矛盾が、少年の輪郭を揺らしている。


「でも」


 透子の声が掠れる。


「私は、呼ぶことでしか、彼を守れなかった」


「今は、呼ばないことで守るんです」


 真昼の言葉に、透子は凍りついた。


 それは残酷な言葉だった。


 真昼自身、それが分かった。


 何年も名前を呼びたかった人に、今は呼ぶなと言っている。


 救えなかった過去を抱えた大人に、もう一度我慢しろと言っている。


 それがどれほどひどいことか、分かる。


 それでも、言わなければならなかった。


「灯里さんは、名前が怖い人に、今日は呼ばないって言いました」


 真昼は言った。


「でも、それは忘れるって意味じゃなかった。記録しないって意味でもなかった。呼ばないまま、名前があることを忘れない。今は、そういう記録が必要なんだと思います」


 透子の目に、涙が浮かんだ。


 涙はこぼれなかった。


 彼女は大人で、捜査官で、医師で、元観測局職員で、ずっと泣かないまま過ごしてきた人だった。


 でも今、その目は確かに濡れていた。


「彼方くん」


 透子は言った。


 真昼は、息を止める。


 その呼び方は、フルネームではない。


 真木彼方という名前を固定する呼び方ではない。


 透子にとっての呼び方。


 先生を呼ぶ少年へ返す、かつての関係の呼び方。


 少年の影が、少しだけ揺れた。


 透子は、歯を食いしばるようにして続けた。


「今は、呼ばない」


 声が震える。


「でも、忘れない」


 ホームの白い光が、わずかに弱まった。


 少年の影が、白い観測室から少しだけ離れる。


 椅子に縛られていたような輪郭が、地下鉄ホームの奥へ揺れる。


 真昼は、胸が締めつけられるようだった。


 呼ばない。


 でも、忘れない。


 それは、透子が選び直した言葉だった。


 過去にできなかった選択。


 名前を呼ぶことだけが救いではない。


 その選択を、透子は今、涙をこらえて選んでいる。


 少年の声がした。


 さっきより、少し近い。


 少しだけ、違う。


「まだ」


 透子が顔を上げる。


 レイも、真昼も、霧生も動かない。


「まだ、僕を呼ばないで」


 その声は、拒絶ではなかった。


 恐怖だけでもない。


 小さく、弱く、それでも自分で選ぼうとする声だった。


 まだ。


 今ではない。


 呼ばれたくないのではない。


 呼ばれたい。


 でも、今ではない。


 真昼は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。


 彼方は完全に消えていない。


 ただ誰かに呼ばれるのを待っているだけでもない。


 彼自身が、まだ選ぼうとしている。


 自分が呼ばれるタイミングを。


 自分が戻る形を。


 自分が誰なのかを。


 透子は、両手を握った。


「分かった」


 声は、とても小さかった。


「分かったわ、彼方くん」


 少年の影が、揺れた。


 その呼び方には反応する。


 でも壊れない。


 真昼は、それを見て呼吸を戻した。


 レイは、ずっと少年の影を見ていた。


 その目には恐怖があった。


 同情ではない。


 同一視でもない。


 自分が辿ったかもしれない道を、目の前に見ている恐怖。


 それでも、彼は一歩も下がらなかった。


「御影くん」


 真昼が呼ぶ。


 レイは答える。


「白瀬真昼」


「大丈夫?」


「大丈夫じゃない」


「うん」


「でも、言う」


 レイは、少年の影へ向かって言った。


「真木彼方は、僕かもしれなかった」


 零番線のホームが、かすかに揺れた。


 その名前に、空気が反応する。


 真昼は一瞬緊張した。


 しかし、レイの声は続いた。


「でも、僕じゃない」


 少年の影が、こちらを見た気がした。


 顔は見えない。


 だが、視線が合ったように感じた。


「まだ、僕は彼を知らない」


 レイは言った。


「だから、勝手に僕にしない。勝手にオメガにしない。勝手に終わった人にも、壊れた人にも、戻るべき人にも、しない」


 真昼は、胸が熱くなるのを感じた。


 それは、レイが初めて本当に彼方を他者として見ようとした言葉だった。


 自分の失敗未来でもなく。


 自分の一部でもなく。


 オメガの前段階でもなく。


 まだ知らない誰か。


 真木彼方。


 まだ呼べない名前。


「僕は、まだ彼を知らない」


 レイはもう一度言った。


「だから、知るまで呼ばない」


 少年の影が、少しだけ薄くなった。


 消えるのではない。


 奥へ下がる。


 白い観測室の残響が、ホームから離れていく。


 固定椅子の輪郭が消える。


 壁の鉛筆跡が遠ざかる。


 代わりに、ホームの奥に細い通路のような闇が見えた。


 名前のない切符が、その闇へ向かって流れていく。


 真昼は、雨宮紗良のことを思い出した。


「雨宮さんは」


 そう言いかけた時、ホームの端で切符が一枚浮いた。


 白い切符。


 そこには、何も書かれていない。


 ただ、端が少し濡れている。


 雨宮紗良の切符かどうかは分からない。


 だが、真昼にはなぜか、彼女がまだ完全には奥へ行っていないと感じた。


 名前を捨てたい人。


 でも、まだ誰かに「帰ってきて」と言われている人。


 莉子の声が、遠くから微かに聞こえた気がした。


 紗良。


 いや、名前ではなくてもいい。


 帰ってきて。


 真昼は、一歩前へ出ようとした。


 レイがすぐに呼ぶ。


「白瀬真昼」


「御影レイ」


「奥へ行きすぎない」


「分かってる」


「ほんと?」


「たぶん」


「たぶん禁止」


「努力する」


 霧生が低く言った。


「努力じゃ足りん。ここから奥はまだ行かない」


「でも、雨宮さんが」


「分かってる。だが今、俺たちは彼方の残響に触れたばかりだ。黒江も御影もギリギリだ。白瀬は名前を預けてる。無茶を重ねるな」


「主任」


 透子が言う。


「霧生さんの言う通りです」


 真昼は、悔しさを飲み込んだ。


 雨宮紗良を追いたい。


 でも、ここで無理をすれば、全員戻れなくなる。


 零番線は、優しい場所ほど人を帰さない。


 ノクターン書房の青年の言葉が、今度は正しく響いた。


 その時だった。


 ホームの奥に、黒い影が立った。


 遠い。


 線路の向こう側なのか、ホームの端なのか、それとも水面の中なのか分からない。


 黒い傘。


 晴れた日にも、地下にも、必要のない傘。


 だが、その影は確かにそれを差していた。


 真昼の身体が固まる。


 レイの呼吸が変わる。


 透子が息を呑む。


 霧生が懐中ライトを向ける。


 ライトの光は、影の手前で消えた。


 無記性境界物質を照らした時と同じ。


 光が届いたという記録ごと、抜け落ちるように。


 声がした。


 青年の声のようでもあった。


 彼方の声のようでもあった。


 オメガの声のようでもあった。


 あるいは、そのどれでもない声だった。


「まだ、名前に縛られているのですか」


 レイが一歩前へ出かける。


 真昼が、預けた自分の名前をレイの中から引き戻すように叫んだ。


「御影レイ!」


 レイは止まった。


「白瀬真昼」


 返事がある。


 真昼はその返事にすがる。


 黒い傘の影は、動かない。


 しかし、声だけが続く。


「名前は鎖です。記録は檻です。呼ぶことは、救いではありません」


 透子が震える声で言った。


「あなたは」


 影は、透子を見たように思えた。


「先生」


 その呼び方で、透子の顔が歪む。


 真昼がすぐに言う。


「黒江透子!」


 透子は、唇を噛んで答えた。


「……はい」


 黒い傘の影は、少しだけ笑ったように見えた。


「まだ、戻れるのですね」


 霧生が低く怒鳴る。


「お前は誰だ」


 影は答えない。


 かわりに、ホームの白い駅名標が強く光った。


 零番線。


 その文字の下に、見たことのない表示が一瞬だけ浮かぶ。


 次発:――


 文字は読めなかった。


 黒く滲んでいた。


 真昼が目を凝らす前に、表示は消える。


 黒い傘の影も、薄くなる。


 水音が強くなった。


 ぽたり。


 ぽたり。


 ぽたり。


 やがて、影は完全に見えなくなった。


 ホームには、名前のない切符だけが残る。


 少年の声も、黒い傘の声も消えた。


 ただ、遠くから、かすかにもう一度だけ聞こえた。


「まだ」


 誰の声か分からない。


 彼方か。


 O-00か。


 オメガか。


 それとも、零番線そのものか。


 真昼は、胸の外にある自分の名前を必死に握り返した。


「御影くん」


「白瀬真昼」


「返して」


 レイが、真昼を見た。


 その目は、強く揺れていた。


 それでも、彼は言った。


「白瀬真昼。君の名前」


 胸の奥に、名前が戻ってくる。


 完全ではない。


 でも、戻る。


 真昼は息を吸った。


「私は、白瀬真昼」


 零番線のホームで、彼女は自分の名前を取り戻すように言った。


 レイも言う。


「僕は、御影レイ」


 透子が続く。


「私は、黒江透子」


 霧生が、最後に低く言った。


「俺は、霧生仁」


 四つの名前が、ホームに落ちる。


 その瞬間、零番線の水面が静かに揺れた。


 まるで、名前を嫌う場所が、ほんの少しだけ彼らを覚えてしまったように。

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