第十一章 真木彼方
零番線のホームには、列車の来る気配がなかった。
線路があるべき場所には、黒い水が広がっている。
水面は揺れない。
風もない。
それなのに、どこか遠くで水滴の落ちる音だけが続いていた。
ぽたり。
ぽたり。
音は規則的ではない。
誰かの呼吸のように近づき、遠ざかり、また戻る。
ホームの天井は低かった。
古い地下鉄駅のようにも見えるが、どこか違う。広告看板はない。時刻表もない。ベンチもない。柱には駅名が貼られていない。壁のタイルは白く、ところどころひび割れているが、汚れはなかった。
白すぎる。
真昼は、そう思った。
旧地下鉄の古い駅なら、もっと汚れているはずだ。煤、錆、落書き、染み、足跡、誰かが剥がしたポスターの跡。人が使った場所には、人が使った痕跡が残る。
ここには、それがない。
人が来たはずなのに、人の痕跡だけが消えている。
足元には、名前のない切符が落ちていた。
一枚ではない。
何十枚も。
白い紙片が、ホームの床に散っている。
発駅はない。
着駅もない。
運賃も日付もない。
ただ、どの切符にも空白の欄がある。
名前欄。
そこだけが、妙に広い。
誰かが自分の名前を書こうとして、書けなかった余白。
誰かが自分の名前を置いていった跡。
真昼は、思わずしゃがみ込みそうになった。
拾いたい。
見たい。
誰がここへ来たのか、何を捨てたのか、何を残したかったのか、確かめたい。
だが、レイの声がすぐに聞こえた。
「白瀬真昼」
胸の外側から、自分の名前が戻ってくる。
真昼は息を吸った。
「御影レイ」
返事をすると、足が床に戻る。
今、彼女の名前は少しだけレイに預けられている。
それは不思議な感覚だった。
自分が自分でなくなったわけではない。
白瀬真昼という名前を忘れたわけでもない。
けれど、その名前の芯を、自分ひとりでは持っていない。
レイが呼ぶたびに、名前が戻ってくる。
彼の声を通って、胸の中央へ戻ってくる。
そのたびに、真昼は立っていられる。
怖い。
けれど、捨てたわけではない。
預けたのだ。
信じて、持っていてもらっている。
レイは隣にいた。
顔色は悪い。
それでも、彼は真昼より少しだけ前に立っている。零番線の奥を見つめ、片手を軽く握っていた。
彼の中には、真昼の名前がある。
そして、彼自身の名前も揺れている。
御影レイ。
真昼は、今度はこちらから呼んだ。
「御影レイ」
レイが少しだけこちらを見る。
「白瀬真昼」
「戻ってる?」
「戻ってる。君は?」
「戻ってる。名前、ちゃんと返ってきてる」
「よかった」
その短い言葉に、胸が少しだけ温かくなった。
しかし、次の水音がそれをすぐに冷やす。
ぽたり。
ホームの奥から、声がした。
「先生」
黒江透子の肩が震えた。
彼女は、真昼たちより少し後ろに立っていた。霧生仁がその隣にいる。透子は白い観測室から戻ってきたあとも、ずっとぎりぎりだった。K-117観測室。壁の鉛筆跡。Null-03処置記録。若い自分の声。
そして今、その声が呼んでいる。
先生。
透子は、一歩前へ出た。
霧生がすぐに肩を掴む。
「黒江」
「分かっています」
透子の声は震えていた。
「分かっています。まだ、近づくだけです」
「その『だけ』は信用しない」
「主任」
「俺はお前が名前を呼ぶ顔をしてるのが分かる」
透子は答えられなかった。
真昼にも分かった。
透子は、呼びたい。
ずっと呼びたかったのだ。
真木彼方。
自分が呼び続けなければ、彼は消えてしまう。
そう信じていた少年の名前。
呼べなかったのではない。
呼んだ。
何度も。
それでも救えなかった。
だから、もう一度呼びたい。
今度こそ届くかもしれない。
今度こそ戻せるかもしれない。
その願いが、透子の全身からにじんでいた。
真昼は、胸の奥が痛くなるのを感じた。
少し前の自分なら、きっと一緒に呼んでいた。
消えかけているなら、呼ばなければ。
名前があるなら、記録しなければ。
ここにいるなら、今すぐ見つけなければ。
そう思ったはずだ。
でも今は違う。
天沢灯里の手帳がある。
名前が怖いなら、今日は呼ばない。
ノクターン書房の青年の警告がある。
もし彼を見つけても、すぐに名前を呼んではいけません。
そして、雨宮紗良の言葉がある。
名前が消えたら、楽になった。
名前は救いだけではない。
呼ぶことは、いつも正しいわけではない。
ホームの奥が、白く揺れた。
零番線のホームが、別の場所と重なる。
白い観測室。
固定された椅子。
壁の鉛筆跡。
記録カメラ。
白い識別バンド。
その上に浮かぶ番号。
K-117。
そして、椅子に座る少年の輪郭。
はっきり見えるわけではない。
顔は曖昧だった。
髪の長さも、目の色も、体格も、輪郭が水の中に沈んでいるように揺れている。
ただ、細い手首だけが見えた。
白い識別バンド。
そこに書かれた番号。
K-117。
少年の声がした。
「先生、僕の名前を呼んでください」
透子が息を呑んだ。
真昼は、彼女が言葉を出す前に動いた。
「透子さん」
声が、自分でも驚くほど強く出た。
透子は止まらない。
唇が動く。
ま、の形。
真昼は、さらに強く言った。
「透子さん、今は呼んじゃだめです」
その瞬間、透子の表情が崩れた。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっと深い、何年も押し殺してきた痛みが、顔の奥から溢れかけた。
「白瀬さん」
声が震えている。
「彼は、呼んでほしいと言っています」
「分かってます」
「ずっと、そう言っていたんです」
「分かってます」
「私は、呼ばなければ」
「今呼んだら、壊れるかもしれない」
透子の目が見開かれる。
真昼は、胸の外にある自分の名前を必死で握り返すような感覚で続けた。
「呼びたいのは分かります。呼ばなきゃいけないって思うのも分かります。でも、ここは零番線です。名前を捨てたい人に優しい場所で、名前を捨てさせたい誰かもいる場所です。ここで強く呼んだら、その名前がどこに結ばれるか分からない」
透子は、少年の影を見る。
少年は、白い椅子に座っているようで、ホームの端に立っているようでもあった。
彼の周囲には、名前のない切符が何枚も浮かんでいる。
呼ばれたい。
呼ばれたくない。
戻りたい。
戻れない。
その矛盾が、少年の輪郭を揺らしている。
「でも」
透子の声が掠れる。
「私は、呼ぶことでしか、彼を守れなかった」
「今は、呼ばないことで守るんです」
真昼の言葉に、透子は凍りついた。
それは残酷な言葉だった。
真昼自身、それが分かった。
何年も名前を呼びたかった人に、今は呼ぶなと言っている。
救えなかった過去を抱えた大人に、もう一度我慢しろと言っている。
それがどれほどひどいことか、分かる。
それでも、言わなければならなかった。
「灯里さんは、名前が怖い人に、今日は呼ばないって言いました」
真昼は言った。
「でも、それは忘れるって意味じゃなかった。記録しないって意味でもなかった。呼ばないまま、名前があることを忘れない。今は、そういう記録が必要なんだと思います」
透子の目に、涙が浮かんだ。
涙はこぼれなかった。
彼女は大人で、捜査官で、医師で、元観測局職員で、ずっと泣かないまま過ごしてきた人だった。
でも今、その目は確かに濡れていた。
「彼方くん」
透子は言った。
真昼は、息を止める。
その呼び方は、フルネームではない。
真木彼方という名前を固定する呼び方ではない。
透子にとっての呼び方。
先生を呼ぶ少年へ返す、かつての関係の呼び方。
少年の影が、少しだけ揺れた。
透子は、歯を食いしばるようにして続けた。
「今は、呼ばない」
声が震える。
「でも、忘れない」
ホームの白い光が、わずかに弱まった。
少年の影が、白い観測室から少しだけ離れる。
椅子に縛られていたような輪郭が、地下鉄ホームの奥へ揺れる。
真昼は、胸が締めつけられるようだった。
呼ばない。
でも、忘れない。
それは、透子が選び直した言葉だった。
過去にできなかった選択。
名前を呼ぶことだけが救いではない。
その選択を、透子は今、涙をこらえて選んでいる。
少年の声がした。
さっきより、少し近い。
少しだけ、違う。
「まだ」
透子が顔を上げる。
レイも、真昼も、霧生も動かない。
「まだ、僕を呼ばないで」
その声は、拒絶ではなかった。
恐怖だけでもない。
小さく、弱く、それでも自分で選ぼうとする声だった。
まだ。
今ではない。
呼ばれたくないのではない。
呼ばれたい。
でも、今ではない。
真昼は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
彼方は完全に消えていない。
ただ誰かに呼ばれるのを待っているだけでもない。
彼自身が、まだ選ぼうとしている。
自分が呼ばれるタイミングを。
自分が戻る形を。
自分が誰なのかを。
透子は、両手を握った。
「分かった」
声は、とても小さかった。
「分かったわ、彼方くん」
少年の影が、揺れた。
その呼び方には反応する。
でも壊れない。
真昼は、それを見て呼吸を戻した。
レイは、ずっと少年の影を見ていた。
その目には恐怖があった。
同情ではない。
同一視でもない。
自分が辿ったかもしれない道を、目の前に見ている恐怖。
それでも、彼は一歩も下がらなかった。
「御影くん」
真昼が呼ぶ。
レイは答える。
「白瀬真昼」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
「うん」
「でも、言う」
レイは、少年の影へ向かって言った。
「真木彼方は、僕かもしれなかった」
零番線のホームが、かすかに揺れた。
その名前に、空気が反応する。
真昼は一瞬緊張した。
しかし、レイの声は続いた。
「でも、僕じゃない」
少年の影が、こちらを見た気がした。
顔は見えない。
だが、視線が合ったように感じた。
「まだ、僕は彼を知らない」
レイは言った。
「だから、勝手に僕にしない。勝手にオメガにしない。勝手に終わった人にも、壊れた人にも、戻るべき人にも、しない」
真昼は、胸が熱くなるのを感じた。
それは、レイが初めて本当に彼方を他者として見ようとした言葉だった。
自分の失敗未来でもなく。
自分の一部でもなく。
オメガの前段階でもなく。
まだ知らない誰か。
真木彼方。
まだ呼べない名前。
「僕は、まだ彼を知らない」
レイはもう一度言った。
「だから、知るまで呼ばない」
少年の影が、少しだけ薄くなった。
消えるのではない。
奥へ下がる。
白い観測室の残響が、ホームから離れていく。
固定椅子の輪郭が消える。
壁の鉛筆跡が遠ざかる。
代わりに、ホームの奥に細い通路のような闇が見えた。
名前のない切符が、その闇へ向かって流れていく。
真昼は、雨宮紗良のことを思い出した。
「雨宮さんは」
そう言いかけた時、ホームの端で切符が一枚浮いた。
白い切符。
そこには、何も書かれていない。
ただ、端が少し濡れている。
雨宮紗良の切符かどうかは分からない。
だが、真昼にはなぜか、彼女がまだ完全には奥へ行っていないと感じた。
名前を捨てたい人。
でも、まだ誰かに「帰ってきて」と言われている人。
莉子の声が、遠くから微かに聞こえた気がした。
紗良。
いや、名前ではなくてもいい。
帰ってきて。
真昼は、一歩前へ出ようとした。
レイがすぐに呼ぶ。
「白瀬真昼」
「御影レイ」
「奥へ行きすぎない」
「分かってる」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶん禁止」
「努力する」
霧生が低く言った。
「努力じゃ足りん。ここから奥はまだ行かない」
「でも、雨宮さんが」
「分かってる。だが今、俺たちは彼方の残響に触れたばかりだ。黒江も御影もギリギリだ。白瀬は名前を預けてる。無茶を重ねるな」
「主任」
透子が言う。
「霧生さんの言う通りです」
真昼は、悔しさを飲み込んだ。
雨宮紗良を追いたい。
でも、ここで無理をすれば、全員戻れなくなる。
零番線は、優しい場所ほど人を帰さない。
ノクターン書房の青年の言葉が、今度は正しく響いた。
その時だった。
ホームの奥に、黒い影が立った。
遠い。
線路の向こう側なのか、ホームの端なのか、それとも水面の中なのか分からない。
黒い傘。
晴れた日にも、地下にも、必要のない傘。
だが、その影は確かにそれを差していた。
真昼の身体が固まる。
レイの呼吸が変わる。
透子が息を呑む。
霧生が懐中ライトを向ける。
ライトの光は、影の手前で消えた。
無記性境界物質を照らした時と同じ。
光が届いたという記録ごと、抜け落ちるように。
声がした。
青年の声のようでもあった。
彼方の声のようでもあった。
オメガの声のようでもあった。
あるいは、そのどれでもない声だった。
「まだ、名前に縛られているのですか」
レイが一歩前へ出かける。
真昼が、預けた自分の名前をレイの中から引き戻すように叫んだ。
「御影レイ!」
レイは止まった。
「白瀬真昼」
返事がある。
真昼はその返事にすがる。
黒い傘の影は、動かない。
しかし、声だけが続く。
「名前は鎖です。記録は檻です。呼ぶことは、救いではありません」
透子が震える声で言った。
「あなたは」
影は、透子を見たように思えた。
「先生」
その呼び方で、透子の顔が歪む。
真昼がすぐに言う。
「黒江透子!」
透子は、唇を噛んで答えた。
「……はい」
黒い傘の影は、少しだけ笑ったように見えた。
「まだ、戻れるのですね」
霧生が低く怒鳴る。
「お前は誰だ」
影は答えない。
かわりに、ホームの白い駅名標が強く光った。
零番線。
その文字の下に、見たことのない表示が一瞬だけ浮かぶ。
次発:――
文字は読めなかった。
黒く滲んでいた。
真昼が目を凝らす前に、表示は消える。
黒い傘の影も、薄くなる。
水音が強くなった。
ぽたり。
ぽたり。
ぽたり。
やがて、影は完全に見えなくなった。
ホームには、名前のない切符だけが残る。
少年の声も、黒い傘の声も消えた。
ただ、遠くから、かすかにもう一度だけ聞こえた。
「まだ」
誰の声か分からない。
彼方か。
O-00か。
オメガか。
それとも、零番線そのものか。
真昼は、胸の外にある自分の名前を必死に握り返した。
「御影くん」
「白瀬真昼」
「返して」
レイが、真昼を見た。
その目は、強く揺れていた。
それでも、彼は言った。
「白瀬真昼。君の名前」
胸の奥に、名前が戻ってくる。
完全ではない。
でも、戻る。
真昼は息を吸った。
「私は、白瀬真昼」
零番線のホームで、彼女は自分の名前を取り戻すように言った。
レイも言う。
「僕は、御影レイ」
透子が続く。
「私は、黒江透子」
霧生が、最後に低く言った。
「俺は、霧生仁」
四つの名前が、ホームに落ちる。
その瞬間、零番線の水面が静かに揺れた。
まるで、名前を嫌う場所が、ほんの少しだけ彼らを覚えてしまったように。




