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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第三巻:真木彼方と零番線
34/82

第十章 零番線

 雨宮紗良が消えたのは、日没の直前だった。


 正確には、まだ消えてはいなかった。


 莉子から届いたメッセージには、そう書かれていた。


 ――紗良が部屋からいなくなりました。


 続けて、震えた手で打ったらしい短い文。


 ――でも、まだ追えます。


 添付されていた写真には、マンションの玄関前が映っていた。


 濡れた足跡。


 白い切符。


 そして、雨が降っていないはずの夕方の路面に、ひと筋だけ水の跡が伸びている。


 水の跡は、坂の下へ向かっていた。


 旧地下鉄入口の方角へ。


 真昼がその写真を見た時、胸の奥で水音がした。


 ぽたり。


 それは、もう予感ではなかった。


 始まったのだ。


 名前を捨てたい少女が、零番線へ向かっている。


     *


 アガルタ市警特異殺人対策室の会議室に、全員が集まるまで十分もかからなかった。


 霧生仁は、電話を切るなり指示を飛ばした。


「雨宮紗良のスマホ位置情報は」


 御堂圭吾の声がスピーカーから返る。


『最終反応、雨宮坂旧地下鉄入口付近です。ただし、端末の識別名が途中で空白化しています。機種情報は残っていますが、ユーザー名が消えました』


「通信は」


『切断。圏外ではなく、識別不能です』


「嫌な言い方をするな」


『事実です』


 霧生は舌打ちした。


 綾瀬直央が地図を開く。


「雨宮さんの自宅から旧地下鉄入口まで徒歩で十分程度。莉子さんは追っていますが、単独で地下へ入るのは止めるよう伝えました」


「当然だ。莉子を地下へ入れるな」


「はい」


 真昼は、机の端に置かれた無名切符の写真を見つめていた。


 雨宮紗良の部屋で増えていた切符。


 その中の一枚にあったK-117の文字。


 記録沈殿層から見つかった識別バンド。


 Null-03処置記録。


 O-00、零番線へ移動。


 ノクターン書房の青年の警告。


 もし彼を見つけても、すぐに名前を呼んではいけません。


 すべてが、ひとつの場所へ向かっている。


 零番線。


「白瀬真昼」


 レイが呼んだ。


 真昼はすぐに返す。


「御影レイ」


「戻ってる?」


「戻ってる。焦ってるけど」


「焦りは禁止」


「禁止されても焦る」


「なら、声に出して」


「焦ってます」


「よし」


「よしなの?」


「隠すよりいい」


 真昼は、少しだけ息を吐いた。


 御影レイも顔色がよくない。


 だが、彼は立っている。


 ここにいる。


 真昼が自分の焦りを言葉にできたのは、レイがそうしてくれたからだ。


 霧生が全員を見た。


「確認する。雨宮紗良を追う。旧地下鉄入口から封鎖連絡層、記録沈殿層、その下の未確認区画へ進む可能性がある。目的は保護。零番線の調査じゃない」


 真昼は、言葉を飲み込んだ。


 霧生は見逃さなかった。


「何だ、白瀬」


「いえ」


「言え」


「……零番線へ行かないと、雨宮さんを止められないかもしれません」


「分かってる」


「でも目的は保護」


「そうだ。調査にした瞬間、足が遅れる。見るもの全部拾おうとする奴がいるからな」


 霧生は真昼を見ていた。


「私ですね」


「お前だ」


「否定できない」


「しなくていい。今日は拾うな。保護が先だ」


 黒江透子が、保全ケースを閉じる。


 中には、K-117の識別バンドとNull-03処置記録の複写が収められている。


「雨宮さんの名前欠落は進行しています。旧地下鉄入口へ向かった時点で、零番線への誘引はかなり強いと見ます」


「止め方は」


 霧生が聞く。


「確実な方法はありません」


「嫌な正直さだな」


「名前を呼ぶことが逆効果になる可能性があります」


 真昼の胸が痛んだ。


「呼んじゃ駄目なんですか」


「駄目とは言いません。ただし、彼女にとって名前そのものが傷になっています。強く呼び戻せば、拒絶反応でさらに奥へ進むかもしれない」


「じゃあ、どうすれば」


 透子は、少しだけ真昼を見る。


「呼び方を選ぶこと。本人がまだ受け取れる呼び方を探すこと。そして、零番線の内部へ入るなら、自分の名前を見失わないこと」


 自分の名前。


 真昼は、自分の胸元を押さえた。


 白瀬真昼。


 灯里ではない。


 真昼。


 前に進んでしまう記録者。


 でも、今回は書くより先に戻さなければならない。


 扉が開き、倉科悠斗が入ってきた。


 作業服に反射ベスト、ヘルメットを小脇に抱えている。


 霧生が眉をひそめた。


「倉科。入口待機って言ったよな」


「入口まで案内します」


「その先は」


「状況次第で」


「却下」


「霧生さん」


「却下だ」


 悠斗は、珍しく食い下がった。


「俺は旧地下鉄の構造を知ってます。記録沈殿層の水の流れも見ました。零番線側に降りるなら、少なくとも途中までは俺がいたほうが早い」


「怪我は」


「痛みます」


「正直すぎる」


「嘘ついたら怒るでしょう」


「怒る」


「じゃあ痛みます。でも歩けます」


 霧生は、しばらく悠斗を睨んだ。


 悠斗も視線を逸らさない。


 名前を取り戻した男。


 旧地下鉄から戻ってきた男。


 そして、自分だけが待機することに納得できない男。


「途中までだ」


 霧生は言った。


「記録沈殿層まで。そこから先は俺の判断」


「分かりました」


「走るな」


「走りません」


「無理するな」


「しますん」


「どっちだ」


「……なるべくしません」


「信用ならん」


 それでも、霧生は止めなかった。


 真昼は、悠斗へ小さく頭を下げた。


「お願いします」


 悠斗は、少しだけ困ったように笑った。


「保守課としては、存在しない駅へ行くのは業務外なんですけどね」


「でも来てくれるんですね」


「名前をなくしかけた人間としては、業務外じゃない」


 その言葉に、真昼は何も言えなくなった。


 レイも、静かに悠斗を見た。


 彼もまた、生きて戻った同魂者を前にすると、何か言葉を探すような顔をする。


 霧生が腕時計を見た。


「行くぞ。点呼は現地で取る。白瀬、御影、黒江、倉科、俺。藍沢は?」


 透子が答える。


「観測局側で記録沈殿層入口の監視支援に入っています。零番線内部への同行は許可されていません」


「向こうも都合がいいな」


「記録保全部としては、ここから先は未承認調査扱いに近いようです」


「また便利な言葉だ」


 真昼は、鞄の中のノートを確認した。


 非公開記録。


 ペン。


 ライト。


 小型カメラ。


 それから、雨宮紗良の相談記録。


 書くためではない。


 戻るため。


 そう言い聞かせて、真昼は市警を出た。


     *


 旧地下鉄入口の前には、莉子がいた。


 雨は降っていない。


 だが、入口の石段だけが濡れていた。


 莉子は、階段の前で膝をつき、息を切らしていた。制服の袖が汚れ、手にはスマホを握っている。目は赤く、泣いた跡があった。


「白瀬さん!」


 真昼が駆け寄る。


「莉子さん、入ってないですね?」


「入ってません。入ろうとしたら、階段が……」


「階段?」


「見え方が変で。降りても、降りても、入口に戻るみたいで」


 霧生がすぐに周囲を確認する。


「防犯カメラは」


 無線から御堂の声。


『旧入口周辺カメラ、映像乱れています。雨宮紗良と思われる人物が十八時四十二分に入口へ接近。その後、人物部分だけ欠落』


「またか」


 霧生が低く言う。


 莉子が震える声で言った。


「紗良、最後に振り返ったんです」


「何か言いましたか」


 真昼が聞く。


「聞こえませんでした。でも、口が動いて」


「名前?」


 莉子は首を横に振った。


「たぶん、『ごめん』って」


 真昼の胸が痛んだ。


 ごめん。


 その言葉には、まだ誰かへ向けた線がある。


 完全に切れてはいない。


「大丈夫です」


 真昼は、莉子の両肩を軽く支えた。


「まだ追えます」


「本当に?」


「はい」


 言い切った。


 根拠は弱い。


 でも、ここで曖昧にはできなかった。


 莉子は、小さく頷いた。


「お願いします。紗良を……名前じゃなくてもいいから、連れて帰ってください」


 真昼は、その言葉を強く受け取った。


 名前じゃなくてもいい。


 でも、帰ってきてほしい。


 それは、今回の答えの一部かもしれない。


 霧生が綾瀬へ指示を飛ばす。


「莉子を地上待機車両へ。単独で階段へ近づけるな」


「はい」


 綾瀬が莉子を支える。


 莉子は最後まで階段を見ていた。


 真昼は彼女に頷き、旧地下鉄入口へ向き直った。


 石段は、いつもより長く見えた。


 奥に、青白い光がある。


 霧生が全員を見た。


「点呼」


 乾いた夕方のはずなのに、入口の前だけ水音がする。


「御影レイ」


「はい」


「白瀬真昼」


「はい」


「黒江透子」


「はい」


「倉科悠斗」


「はい」


「霧生仁」


「はい」


 霧生は、自分で返事をしてから言った。


「行くぞ。返事できなくなった奴から引きずって帰る」


 誰も笑わなかった。


 五人は、階段を降りた。


     *


 封鎖連絡層は、前より静かだった。


 静かすぎた。


 水音はある。


 蛍光灯のちらつきもある。


 旧校舎地下と旧地下鉄の継ぎ目も、観測局の配線もある。


 だが、以前聞こえた細かな声が少ない。


 まるで、もっと下の方へすべて吸い込まれているようだった。


 倉科悠斗は、先頭近くで道を確認している。


 慎重だった。


 第二巻で見せた地下整備士としての速さは残っている。


 けれど今は、曲がり角ごとに足を止め、壁の結露、床の水流、非常灯の向きを確かめる。


「水が全部、下へ向かってます」


 悠斗が言う。


「記録沈殿層へ?」


 真昼が聞く。


「そのさらに下です。前はここまで強くなかった」


 透子が端末を確認する。


「零番線への誘導が進行している可能性があります」


「雨宮さんが入ったから?」


「または、彼女を受け入れるために開いている」


 その言葉に、真昼の背中が冷える。


 零番線が、待っている。


 名前を捨てたい人を。


 いや、名前を捨てさせたい者を。


 ノクターン書房の青年の言葉が蘇る。


 零番線には、名前を捨てたい人だけが行くわけではありません。


 名前を捨てさせたい者も、行きます。


「白瀬真昼」


 レイが呼んだ。


「御影レイ」


「顔」


「また喋ってました?」


「かなり」


「気をつけます」


「僕も」


 レイも、顔色が悪かった。


 K-117観測室で見た記録。


 無記性境界物質。


 O-00。


 すべてが、彼の中でざわめいているのだろう。


 真昼は、歩きながら言った。


「御影くん」


「何」


「零番線に入っても、彼方さんとオメガをすぐ結ばない」


「分かってる」


「O-00も」


「うん」


「分からないまま記録する」


「君の言葉?」


「今のところ」


「借りる」


「どうぞ」


 レイは小さく頷いた。


 霧生が後ろから言う。


「お前ら、地下で哲学するな。足元見ろ」


「はい」


 二人の返事が重なった。


 やがて、梯子のある開口部へ到達した。


 記録沈殿層へ下りる場所。


 前に降りた時と同じはずなのに、今は梯子の下から薄い白い光が漏れていた。


 霧生が低く言う。


「嫌なサービスだな」


 悠斗が、梯子を覗き込む。


「水位が上がってます」


「降りられるか」


「降りられます。ただし、流れが強い。足を取られるかもしれません」


「白瀬」


「はい」


「拾うな」


「まだ何も」


「降りる前に言っとく」


「分かってます」


「御影、見張れ」


「はい」


「倉科、無理するな」


「はい」


「黒江」


「はい」


「過去じゃなくて、現場を見ろ」


「はい」


 霧生は、最後に自分で深く息をした。


「点呼」


 名前が、梯子の上で呼ばれる。


「御影レイ」


「はい」


「白瀬真昼」


「はい」


「黒江透子」


「はい」


「倉科悠斗」


「はい」


「霧生仁」


「はい」


 五人は、記録沈殿層へ降りた。


     *


 記録沈殿層は、前より流れていた。


 水が足首を越え、ところどころ脛の近くまである。


 沈んだ名簿、破れた写真、空白の診察券、顔の黒い集合写真、名前欄のない切符。そうしたものが、ゆっくりと奥へ流れていく。


 止まった場所ではなく、流れる場所になっていた。


 全部が、さらに下へ向かっている。


 真昼は、見ているだけで胸が痛くなった。


 拾いたい。


 手を伸ばしたい。


 でも、今は拾わない。


 雨宮紗良を追う。


 それでも、水の下に沈む名札が目に入るたび、足が止まりそうになる。


 レイが隣で短く言う。


「白瀬真昼」


「御影レイ」


「進む」


「うん」


 その繰り返しで、真昼は歩いた。


 記録沈殿層の奥。


 前に見た低いアーチ状の通路があった。


 水はそこへ吸い込まれている。


 通路の上には、古い表示板が掛かっていた。


 文字は読めなかった。


 いや、読めないはずだった。


 しかし、真昼が近づくと、文字の空白が白く光った。


 無名駅。


 ほんの一瞬、そう読めた。


 次の瞬間、また空白になる。


「見えた?」


 真昼が聞く。


 レイが頷く。


「無名駅」


 透子も言った。


「観測局資料にあった名称です」


 霧生は懐中ライトを握り直す。


「名前のない駅に名前があるのか」


「矛盾してますね」


 真昼が言う。


「この街に今さらだ」


 霧生が返す。


 悠斗は、通路の足元を確認していた。


「この先、都市交通局の管轄外です」


「分かるのか」


「床の規格が違います。線路の間隔も、保守通路の幅も。旧地下鉄に似せてあるけど、違う」


「行けるか」


 悠斗は、少しだけ黙った。


 水の流れを見て、通路の奥を見て、それから自分の足元を見た。


「俺は、ここまでかもしれません」


 真昼は驚いて彼を見た。


「倉科さん?」


 悠斗は悔しそうに笑った。


「足が痛いとかじゃないです。いや、痛いですけど。それだけじゃない」


「何が」


「通路が、俺を通したがってない」


 霧生が目を細める。


「どういう意味だ」


「分かりません。でも、ここから先へ一歩入ろうとすると、頭の中で名前が鳴るんです」


「名前?」


「倉科悠斗」


 悠斗は、自分で言った。


「何度も。ゆう兄って声もする。姪の声です。俺の工具箱。保守課の出勤表。名前が戻ってからの記録が、ここで引っかかってる」


 真昼は、胸が熱くなるのを感じた。


 名前が戻っているから、通れない。


 零番線は、名前を捨てたい者を受け入れる。


 名前を取り戻した者は、弾かれる。


 それは残酷なようで、救いにも見えた。


 悠斗は、悔しそうに水面を見た。


「俺、役に立てると思ったんですけどね」


「役に立った」


 レイが言った。


 悠斗は顔を上げる。


「ここまで来られたのは、倉科さんがいたからです」


 悠斗は、少しだけ目を逸らした。


「御影くんにそう言われると、なんか重いな」


「よく言われます」


「でしょうね」


 霧生が、悠斗の肩を軽く叩いた。


「倉科、お前はここで待機。無線中継と退路確保」


「霧生さん」


「ここから先へ無理に入ったら、戻った名前を自分で削ることになるかもしれん」


 悠斗は、唇を噛んだ。


 何か言いたそうだった。


 だが、やがて頷いた。


「分かりました」


「よし」


「でも、戻ってこなかったら怒ります」


「誰にだ」


「全員に」


「なら戻るしかないな」


 霧生は短く言った。


 真昼は、悠斗に向かって深く頷く。


「行ってきます」


「白瀬さん」


「はい」


「記録、拾いすぎないでください」


 真昼は、少しだけ笑った。


「みんなに言われますね」


「みんな心配してるんですよ」


「……はい」


 悠斗は、通路の手前に残った。


 その姿が、少しだけ水の向こうに揺れる。


 倉科悠斗。


 戻った名前を持つ人。


 だからこそ、零番線へは行けない人。


 真昼は、その意味を胸に刻んだ。


 四人は、無名駅へ向かう通路を進んだ。


     *


 通路を抜けると、そこには改札があった。


 古い駅の改札。


 だが、旧地下鉄のどの駅とも違う。


 天井は低く、壁は白いタイルで覆われている。床は黒い石のような素材で、足元に水はない。水音は聞こえるのに、どこにも水が見えない。


 改札機は五台並んでいた。


 どれも古い。


 磁気券を入れる口がある。


 ICカードのタッチパネルはない。


 だが、それぞれの改札機の上部に小さな白い画面があった。


 画面には、同じ文字が表示されている。


 名前を入力してください。


 真昼は、息を止めた。


 ここが、無名駅の改札。


 零番線へ入るための門。


 発駅も着駅もない切符。


 名前欄だけがある改札。


「名前を入力」


 霧生が呟く。


「嫌な改札だな」


 透子が端末を確認する。


「強い名前反応があります。ここで自己名認証のようなものが行われる可能性があります」


「普通の駅なら切符を入れるだけだろ」


「ここでは、切符より名前が乗車資格なのかもしれません」


「ますます嫌だ」


 レイは、一台の改札に近づいた。


 真昼がすぐに呼ぶ。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


「勝手に進まない」


「確認だけ」


「確認が進むやつ」


「分かってる」


 レイは、手を伸ばさずに画面を見る。


 名前を入力してください。


 その文字の下に、空白の欄がある。


 タッチパネルでも、キーボードでもない。


 だが、そこに名前を書かなければならないと分かる。


 真昼は、自分の胸元を押さえた。


 白瀬真昼。


 その名前は、強く残っている。


 自分の中に。


 灯里の名前と違うものとして。


 父と母から受け取った名前として。


 《アガルタ観測録》の記事に署名する名前として。


 レイが呼び、霧生が点呼し、透子が記録し、悠斗が覚えてくれている名前として。


 その強さが、今は重い。


 透子が言った。


「まず、私が試します」


 霧生が止めた。


「駄目だ」


「なぜ」


「お前はK-117観測室で揺れたばかりだ」


「ですが」


「俺がやる」


 霧生は改札の前に立った。


 画面の空白欄に向かって、指先を伸ばす。


 そこに何もないはずなのに、指で文字を書くように動かした。


 霧生仁。


 書いた瞬間、改札機が低い音を立てた。


 赤いランプ。


 通行不可。


 画面に文字が出る。


 名前保持強度:高

 通行条件不一致


 霧生が顔をしかめる。


「名前で弾かれるのか」


 真昼は画面を見つめた。


 名前保持強度。


 高。


 霧生は、自分の名前を強く持っている。


 警察官として。


 現場指揮官として。


 点呼する者として。


 だから、通れない。


 透子が試した。


 黒江透子。


 ランプは赤。


 ただし、霧生とは違う表示が出た。


 名前保持強度:高

 過去所属干渉あり

 通行条件不一致


 透子は、少しだけ目を伏せた。


 実験観測部。


 補助研究員。


 古い入構証。


 過去所属干渉。


 その言葉は、まだ彼女を刺す。


 霧生が低く言った。


「通れないなら好都合だ」


「主任」


「お前は今、通れなくていい」


 透子は反論しなかった。


 次に、レイが改札の前へ立った。


 真昼の心臓が強く跳ねる。


「御影くん」


「やる」


「無理ならすぐ戻って」


「うん」


 レイは、空白欄に指を動かした。


 御影レイ。


 その文字は、見えなかった。


 だが、改札機の画面が揺れた。


 赤ではない。


 白。


 そして、薄い青。


 ゲートが、わずかに開きかける。


 画面に文字が出る。


 名前保持強度:不安定

 多元接続反応あり

 通行条件一部一致


 真昼の息が止まる。


 レイは通れかけている。


 名前が揺らぎやすいから。


 同魂者たちの記憶を持ち、自己名がいつも複数の人生に押されているから。


 零番線は、レイを受け入れようとしている。


 霧生がすぐにレイの肩を掴んだ。


「まだだ」


「分かってます」


「顔が分かってない」


「通れそうだった」


「だから止めた」


 レイは、改札の向こうを見ていた。


 そこには、短い通路があり、その先にホームらしき空間がある。


 駅名標は見えない。


 ただ、白い光が奥から漏れている。


 真昼は、一歩前に出た。


「私も試します」


 霧生が即座に言う。


「待て」


「でも、必要です」


「またそれか」


「零番線へ入るには、私の記録反応が必要かもしれない」


「誰が決めた」


「ここまでの全部です」


 真昼は、改札を見る。


「雨宮さんは名前を捨てたい。レイは通れかける。でも、彼女を見つけて、戻れる言葉を探すには記録が必要です。零番線の中で何が起きているか、誰が名前を捨てさせようとしているのか、見つけるには」


「お前が必要か」


「はい」


 霧生は苦い顔をした。


「自分で言うな」


「言いたくないです」


「じゃあ言うな」


「でも、言わないと行けない」


 透子が静かに言った。


「主任。白瀬さんの記録反応が必要な可能性は高いです」


「黒江」


「ただし、危険も高い」


「だから止めたいんだよ」


「私もです」


 透子は真昼を見た。


「白瀬さん。あなたは記録者系アニマとして、名前を強く保持しています。零番線は、それを拒む可能性が高い。無理に通ろうとすれば、あなた自身の名前に負荷がかかります」


「分かりました」


「本当に?」


「怖いです」


 真昼は正直に言った。


「でも、行きます」


 レイが、真昼を見る。


「白瀬」


 その呼び方に、真昼は少しだけ笑った。


「真昼、じゃないんだ」


「今は、白瀬真昼を強く持っててほしい」


「うん」


 真昼は、改札の前へ立った。


 画面の空白欄を見る。


 名前を入力してください。


 指先が少し震えた。


 真昼は、空白欄に書く。


 白瀬真昼。


 見えない文字。


 でも、自分の中でははっきりしている。


 白瀬真昼。


 父が呼ぶ声。


 母が呼ぶ声。


 教師が出席を取る声。


 《アガルタ観測録》の記事の署名。


 灯里ではない私。


 レイが呼び返してくれる名前。


 その名前を、改札へ差し出した。


 瞬間、強い音が鳴った。


 赤いランプ。


 それも、霧生や透子の時より強い。


 ゲートは開かない。


 画面が白く震え、警告文字が出る。


 名前保持強度:過剰

 記録者系反応あり

 通行条件不一致


 真昼の胸が締めつけられた。


 弾かれた。


 強く。


 名前を持ちすぎている。


 記録者だから。


 消えそうな名前を拾い、残し、抱えようとしているから。


 零番線は、真昼を拒む。


 名前を捨てる場所に、名前を残そうとする者は入れない。


 真昼は、改札の前で立ち尽くした。


「白瀬真昼」


 レイが呼ぶ。


 真昼は答えた。


「御影レイ」


「戻ってる?」


「戻ってる。でも、通れない」


「うん」


「どうしよう」


 珍しく、言葉がそのまま出た。


 どうしよう。


 記事なら書ける。


 非公開記録なら作れる。


 名前なら呼べる。


 でも、今は通れない。


 雨宮紗良はこの先にいるかもしれない。


 真木彼方の声も、この先にいるかもしれない。


 O-00も。


 黒い傘の影も。


 真昼の記録が必要だとしても、改札が拒む。


 霧生が言った。


「無理なら撤退だ」


「でも」


「白瀬」


 霧生の声は低い。


「お前の名前を壊してまで行くな」


 その言葉は、重かった。


 霧生らしい。


 現実側の命綱。


 生きている者を帰す刑事。


 真昼は、その言葉に感謝した。


 でも、まだ引けなかった。


 透子が画面を見ている。


「名前保持強度が過剰。つまり、白瀬さん自身の名前が強すぎるのではなく、あなたが保持している他者の名前も反応している可能性があります」


「他者の名前」


「エミー・グレイス・ハーパー。天沢灯里。古河千景。真木彼方。あなたが記録した名前たち」


 真昼は、胸元を押さえた。


 確かにいる。


 自分の中に。


 彼らは真昼ではない。


 でも、真昼の記録の中にいる。


 それが、零番線には重すぎる。


「じゃあ、置いていく?」


 真昼が呟く。


 レイが即座に言った。


「駄目」


「まだ何も言ってない」


「言いかけた」


「……言いかけた」


「駄目。名前を捨てたら戻れない」


「捨てない」


 真昼は言った。


 その瞬間、考えが形になった。


「捨てるんじゃなくて、預ける」


 レイが、真昼を見る。


 霧生が眉をひそめる。


「何を言い出した」


「私の名前」


「却下」


「まだ説明してない」


「説明される前から嫌な予感がする」


「御影くんに預けます」


 霧生が本当に嫌そうな顔をした。


 透子は目を見開く。


 レイは、動かなかった。


 真昼は、彼のほうへ向き直る。


「零番線は、名前を捨てたい人を通す。でも、私は名前を捨てたくない。だから捨てない。御影くんに預ける」


「白瀬」


 レイの声が、少しだけ低くなる。


「それ、危ない」


「分かってる」


「僕は名前が揺らぎやすい」


「だから通れる」


「だから、君の名前を落とすかもしれない」


「落とさないで」


「簡単に言う」


「簡単じゃないよ」


 真昼は、笑わなかった。


「でも、御影くんなら持っていられると思う」


 レイの目が揺れた。


 真昼は続ける。


「エミーを、エミーとして見た。古河千景を、古河千景として見た。真木彼方を、自分かもしれないって怖がりながら、それでもまだ決めないでいてくれてる。御影くんは、誰かを自分として飲み込むだけじゃなくて、別の人として持っていられるようになってる」


「僕が失敗したら」


「その時は怒る」


「怒れる状態じゃないかもしれない」


「じゃあ、戻ってから怒る」


「無茶苦茶だ」


「知ってる」


 真昼は、一歩近づいた。


 レイの前に立つ。


 改札の白い画面が、二人の横顔を照らしている。


 霧生は、止めようとして一歩出た。


 透子が静かに言う。


「主任」


「止めるぞ」


「私も止めたいです」


「なら止めろ」


「でも、理屈は通っています」


「理屈が通る危険行為が一番嫌いだ」


「同感です」


「同感するな」


 透子は真昼を見た。


「白瀬さん。これは、あなた自身の名前を一時的に他者の記憶保持へ委ねる行為です。失敗すれば、名前欠落、自己認識不安定、記録者系反応の逆流が起きる可能性があります」


「はい」


「御影さんにも負荷がかかります」


「はい」


「それでも?」


 真昼は、レイを見た。


「それでも」


 レイは、ずっと真昼を見ていた。


 灰青色の目。


 無数の記憶を抱えて、それでも御影レイとして立っている目。


 真昼は、彼に向かって手を差し出した。


「御影くん、私の名前を持ってて」


 言葉にした瞬間、胸の奥で何かが震えた。


 白瀬真昼。


 その名前が、自分の中から一歩外へ出る。


 消えるのではない。


 落ちるのでもない。


 預ける。


 信じて、手渡す。


 レイは、真昼の手を見た。


 それから、彼女の顔を見た。


 長い沈黙。


 霧生が何か言おうとした。


 だが、レイの声が先だった。


「白瀬真昼」


 彼は言った。


 その声は、いつもの確認よりずっと深かった。


「絶対に返す」


 真昼は、頷いた。


「うん」


「何度でも呼ぶ」


「うん」


「君が忘れても、僕が覚えてる」


「うん」


「でも」


 レイは、少しだけ息を吸った。


「君も僕を呼んで」


「御影レイ」


 すぐに呼んだ。


「ここにいる」


「白瀬真昼」


「ここにいる」


 その瞬間、改札の画面が白く光った。


 名前保持強度:分散

 記録者系反応:同期

 多元接続反応:補助

 通行条件一致


 ゲートが、ゆっくり開いた。


 真昼は、自分の名前が遠くなる感覚に襲われた。


 白瀬真昼。


 言える。


 まだ言える。


 でも、少しだけ、自分の外にある。


 レイの中に預けた名前が、彼の声を通じて戻ってくる。


「白瀬真昼」


 レイが呼ぶ。


「御影レイ」


 真昼が返す。


 それで、踏み出せた。


 霧生が、低く言う。


「本当に嫌な突破方法だな」


「主任」


 透子が言う。


「通行条件が成立しました」


「見れば分かる」


「進みますか」


「進まない選択肢があるなら今すぐ選びたい」


「ありません」


「だろうな」


 霧生は、無線を入れた。


「倉科、こちら霧生。無名駅改札を通過する。お前は待機継続。俺たちの返事が途切れたら、地上へ連絡しろ。勝手に追うな」


 少しノイズ混じりに、悠斗の声が返る。


『了解。……必ず戻ってください』


「命令される筋合いはないが、戻る」


『それでお願いします』


 霧生は無線を切った。


 そして、改札の前で再び点呼した。


「御影レイ」


「はい」


「白瀬真昼」


 一瞬、胸が揺れる。


 自分の名前が、レイの中から返ってくるような感覚。


 真昼は答えた。


「はい」


「黒江透子」


「はい」


「霧生仁」


「はい」


 霧生は藍沢の名前を呼びかけて、いないことを思い出したように舌打ちした。


「くそ。四人か」


 透子が言う。


「四人です」


「減らすなよ」


「はい」


 四人は、改札を通った。


     *


 改札の向こうは、駅だった。


 だが、電車の気配はなかった。


 短い通路を抜けると、低い天井のホームが広がっている。古い地下鉄のホームに似ているが、どこか違う。ベンチはない。広告もない。時刻表もない。線路があるはずの場所は暗い水で満たされ、その水面はまったく揺れていなかった。


 ホームの端に、駅名標がある。


 白い板。


 何も書かれていない。


 真昼が一歩進むと、預けた名前が胸の外で揺れた。


 レイがすぐに呼ぶ。


「白瀬真昼」


「御影レイ」


 戻る。


 ほんの少し。


 透子が静かに言う。


「ここが」


「零番線かどうかは、まだ」


 霧生が言いかけた時、駅名標が光った。


 白い光。


 空白だった文字が、ゆっくり浮かび上がる。


 零番線。


 その三文字が、暗いホームに白く灯った。


 真昼は、息を止めた。


 ついに来た。


 名前を捨てたい者に優しい場所。


 名前を捨てさせたい者も来る場所。


 真木彼方の声が残るかもしれない場所。


 O-00が移動した場所。


 そして、雨宮紗良が向かった場所。


 水面の奥から、かすかな声がした。


 少年の声だった。


 細く、遠く、けれど確かに届いた。


「先生」


 透子の顔色が変わった。


 レイの手が震えた。


 真昼は、預けた自分の名前を胸の外に感じながら、必死に声を出した。


「黒江透子」


 透子が、かすかに息を吸う。


「……はい」


 水音がした。


 ぽたり。


 ホームの奥で、もう一度、少年の声が響いた。


「先生」


 零番線は、彼らを待っていた。

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