第九章 ノクターン書房の警告
ノクターン書房へ向かう道は、晴れていた。
それが、かえって不気味だった。
雨の街なら、まだ分かる。
黒い傘。
濡れた路地。
旧地下鉄へ続く階段。
名前のない切符。
そういうものは、雨の中にあるほうが似合っている。アガルタ市の雨は、ただの天気ではない。水たまりは記憶を映し、窓ガラスは別の人生をにじませ、地下へ落ちる水音は誰かの名前を呼ぶ。
だが、その日の午後は晴れていた。
雲は薄く、雨上がりでもない。
舗道は乾いている。
坂道の街路樹の葉にも水滴はなく、カフェのオープンテラスには、薄い日差しの中で本を読む人までいた。
なのに、真昼の鼻先には、雨の匂いが残っていた。
古いコンクリートに染みた水の匂い。
濡れた紙。
黒い破片が光を食べた保管庫の、匂いのなさ。
それらが身体の奥に残っている。
無記性境界物質。
記憶を保持しない物質。
記録されず、記録を残さず、接触した記録の輪郭を削るもの。
藍沢環の声が、まだ耳に残っていた。
真昼は、鞄の中のノートを指先で確認した。
そこには、非公開記録として書いた文字がある。
無記性境界物質。
黒刃の素材。
Null-03刃体保管台、空。
現物なし。
持ち出し、または記録欠落。
黒刃は、もう保管庫にはなかった。
誰かが持ち出した。
あるいは、持ち出されたという記録すら削られていた。
そして、その刃を持つ者がいる。
黒い傘。
雨の夜。
名前を消す者。
オメガ。
真昼は、隣を歩く御影レイを見た。
彼は、いつも通りに見える。
制服の上に黒いカーディガンを羽織り、手には小さな紙袋を持っている。中身は、ノクターン書房へ行く口実として買った焼き菓子だった。真昼が「手土産?」と聞いたら、レイは「本を買わないで長居すると気まずい」と答えた。
その感覚は、妙に普通だった。
でも、レイの目は普通ではなかった。
晴れた坂道を歩いているのに、視線だけがどこか地下を見ている。
「御影レイ」
真昼は呼んだ。
レイはすぐに返す。
「白瀬真昼」
「戻ってる?」
「戻ってる」
「ほんと?」
「ほんと」
「保管庫から出てから、ちょっと遠い顔してる」
「君も」
「私は……まあ、はい」
「戻ってる?」
「戻ってる。たぶん」
「たぶん禁止」
「それ、私が言う側だったのに」
「相互教育」
「便利」
「便利だから」
真昼は少しだけ笑った。
笑えることに安心した。
地下廃棄区画を出たあと、市警へ戻り、霧生に「今日はもう帰れ」と言われた。透子も同意した。藍沢は、記録保全部として回収記録を整理するために支局へ残った。
そのまま帰るべきだった。
たぶん。
でも、レイが言った。
ノクターン書房へ行く。
それは、提案というより確認だった。
真昼も、反対しなかった。
零番線。
Null-03。
O-00。
黒刃。
無記性境界物質。
それらがつながりかけている。
ならば、彼に聞かなければならない。
名前のない青年。
古書喫茶《ノクターン書房》の店番。
天沢灯里を知っていた人。
名前を問われて、呼ばないでください、と言った人。
そして、オメガかどうかを問われても、肯定も否定もしなかった人。
坂道を上りきると、ノクターン書房の看板が見えた。
古い木製の看板。
金色の文字は少しくすみ、昼の光の中では目立たない。
雨の日のほうが似合う店だ。
真昼は、そう思った。
だが、店の前に立った瞬間、はっきり分かった。
店内だけが、雨の匂いをしている。
外は晴れている。
舗道は乾いている。
それなのに、扉の隙間から漏れてくる空気は湿っていた。
レイも気づいたらしく、扉に触れる前に一度だけ手を止めた。
「行く?」
真昼が聞く。
「行く」
「止めても?」
「行く」
「じゃあ、一緒に」
レイは、小さく頷いた。
扉を開ける。
ドアベルが鳴った。
からん。
乾いた音のはずなのに、その余韻には水音が混じっていた。
*
ノクターン書房の中は、いつも通りだった。
木製の棚。
古い本の背表紙。
窓際の席。
奥のカウンター。
小さな喫茶スペース。
壁に掛かった古い時計。
古書とコーヒーの匂い。
だが、そのすべてに、薄い雨の膜がかかっている。
窓の外は晴れている。
硝子越しに坂道へ落ちる光も見える。
それでも、店内の空気は雨の日のように湿っていた。
床板が、ほんの少し軋む。
棚の奥から、ページをめくる音がした。
店内に客はいない。
なのに、誰かが本を読んでいるような音。
真昼は無意識にノートの入った鞄を押さえた。
カウンターの奥に、青年がいた。
白いシャツ。
黒いカーディガン。
古書店のエプロン。
黒髪は少し長く、前髪が目元にかかっている。
静かで、清潔で、線が細い。
見終わったあとに顔の輪郭が少し曖昧になるような青年。
彼は、棚の上に並べた古い貸出票を整理していた。
真昼とレイを見ると、手を止める。
「いらっしゃいませ」
いつもの声。
低すぎず、高すぎず、記憶に残りにくい声。
けれど、真昼にはもう、その声が記憶に残ってしまっている。
「御影くん。白瀬さん」
青年は穏やかに言った。
「今日は雨ではありませんね」
真昼は、少しだけ息を止めた。
先に言われた。
晴れているのに、雨の匂いがする店で。
「外は晴れてます」
真昼は言った。
「ええ」
「でも、この店は雨の匂いがします」
「古い本は、天気を覚えていますから」
青年は、まるで図書館司書のような口調で答えた。
「湿気が残っているのでしょう」
「湿気だけですか」
「それ以外に見えますか」
真昼は、青年の顔を見た。
微笑んでいる。
いつも通りの、少しだけ困ったような微笑み。
客の質問に、丁寧に答えようとしている店員の顔。
けれど、その目の奥は静かすぎる。
レイが紙袋をカウンターに置いた。
「差し入れです」
「ありがとうございます。珍しいですね」
「長く話すかもしれないので」
「それは、手土産というより使用料ですね」
「そうです」
青年は、ほんの少しだけ笑った。
「正直な方ですね」
真昼は椅子に座らなかった。
立ったまま、カウンター越しに青年を見る。
レイも隣に立つ。
青年は、それを見て、貸出票の束を静かに整えた。
「本をお探しですか」
真昼は、まっすぐ聞いた。
「零番線を知っていますか」
店内の時計が止まったような気がした。
秒針の音が消える。
ページをめくる音も消える。
外の坂道を通る車の音も、遠くなる。
青年は、表情をほとんど変えなかった。
ただ、貸出票を持つ指先だけが、一瞬止まった。
「急なご質問ですね」
「急じゃありません」
真昼は言った。
「無名切符。K-117。Null-03。無記性境界物質。黒刃。全部、零番線につながっています」
「ずいぶん深くまで調べられたのですね」
「あなたは知っていましたね」
「何を、でしょう」
「零番線が何か」
青年は、少しだけ視線を伏せた。
そして、静かに答えた。
「名前を捨てたい方が向かう場所です」
その言葉は、あまりにも自然だった。
まるで、古い駅への道順を聞かれて答えたように。
真昼の背筋が冷える。
「名前を捨てたい方」
「ええ」
「行きたい人を、止めないんですか」
「行きたい理由によります」
「名前を捨てたい理由があれば、行っていいんですか」
「私が許可する場所ではありません」
「でも、知ってる」
「知っていることと、止められることは違います」
青年の声は柔らかい。
その柔らかさが、かえって苛立たしかった。
雨宮紗良の顔が浮かぶ。
名前が消えたら楽になった、と言った少女。
零番線へ行けば、名前を捨てられるかもしれないと感じてしまった少女。
その危うさを、この青年は知っている。
知っているのに、静かにしている。
真昼は言いかけた。
その前に、レイが口を開いた。
「あなたも行ったんですか」
青年は、レイを見た。
答えない。
店内の空気が、さらに湿る。
真昼は、レイの横顔を見た。
彼の声は静かだった。
でも、奥に鋭さがある。
「あなたは零番線を知っている。名前を捨てたい人が向かう場所だと知っている。行ったことがない人の言い方ではない」
青年は、少しだけ微笑んだ。
「御影くんは、相変わらずよく見ていますね」
「答えてください」
「答えたら、何が変わりますか」
「あなたがどちら側にいるのか、少し分かる」
「どちら側」
青年は、その言葉をゆっくり繰り返した。
「名前を残したい側と、名前を捨てたい側ですか」
真昼は答えられなかった。
レイも、すぐには答えなかった。
青年は続ける。
「世界は、もう少し複雑です」
「複雑だからって、答えない理由にはなりません」
真昼が言う。
「なります」
青年は、真昼を見た。
「答えたことで、壊れるものもあります」
「それ、藍沢さんみたいな言い方です」
「藍沢さんは優秀な記録保全官です」
「知ってるんですね」
「この街で名前と記録を扱う方は、多くありませんから」
真昼は、胸の奥に苛立ちと怖さが同時に広がるのを感じた。
彼は知っている。
観測局のことも。
記録保全部のことも。
Null-03のことも。
たぶん、K-117のことも。
そして、真木彼方のことも。
青年は、カウンターの下から二つのカップを取り出した。
「コーヒーでよろしいですか」
「今、そういう空気ですか」
真昼が言う。
「話が長くなる時は、温かいものがあったほうがいい」
「晴れてるのに、店内が雨の匂いだから?」
「それもあります」
青年は、慣れた手つきでコーヒーを淹れ始めた。
お湯を注ぐ音が、雨音に似ている。
真昼は座らなかった。
レイも座らない。
青年は、それを責めなかった。
「零番線へ行ってはいけません」
コーヒーを淹れながら、青年は言った。
真昼は顔を上げる。
青年は、カップへ視線を落としたまま続けた。
「あそこは、名前を捨てたい者には優しい場所です」
真昼は、一歩だけカウンターへ近づいた。
「優しいなら、どうして行ってはいけないんですか」
青年は、注ぐ手を止めた。
湯気が立ち上る。
晴れた午後の店内に、雨の日の湯気が漂う。
「優しい場所ほど、人を帰さないからです」
その声は、今までより少しだけ低かった。
真昼は、言葉を失った。
青年はコーヒーを置いた。
カップの中の黒い水面に、窓の外の光が映っている。
けれど、その中心だけが少し暗い。
「零番線は、疲れた人に休んでいいと言います」
青年は言った。
「名前を呼ばれることに傷ついた人に、もう返事をしなくていいと言います。記録されることに怯えた人に、もう見つからなくていいと言います。過去の名前に縛られた人に、それを置いていけると言います」
雨宮紗良。
真昼は、彼女の顔を思い浮かべた。
名前を持っているほうがつらい、と言った少女。
零番線の文字を綺麗だと言った少女。
「それは、救いに見える」
青年は続ける。
「だから危険なのです」
「あなたは」
レイが言った。
「その優しさを知っている」
青年は答えない。
真昼には、彼の横顔が一瞬だけ違って見えた。
泣いているように。
だが、実際には涙などない。
顔はいつも通り微笑んでいる。
なのに、どこかが泣いている。
名前のない場所で、誰にも見られないように泣いている人の気配。
真昼は、その気配に少しだけ息を詰めた。
レイは、さらに踏み込んだ。
「あなたはオメガですか」
店内の空気が完全に止まった。
時計も、湯気も、本棚の奥の影も。
すべてが、レイの問いを聞いていた。
青年は、レイを見た。
微笑む。
その微笑みは、いつも通りだった。
けれど、真昼には分かった。
温度がない。
優しい顔なのに、そこだけ世界から切り取られている。
「あなたは、まだ私に名前をつけたいのですね」
青年は言った。
レイの手が、わずかに握られる。
「オメガは、僕がつけた名前です」
「ええ」
「あなたの本当の名前ではない」
「そうですね」
「なら、本当の名前を教えてください」
真昼は息を止めた。
第二巻の終わりに、真昼も同じことを聞いた。
あなたの名前は?
その時、青年は言った。
呼ばないでください。
店内の雨音が止まった。
今日も、同じことが起きるのではないか。
そう思った。
だが、青年はすぐには拒まなかった。
ただ、レイを見ていた。
「本当の名前」
彼は静かに繰り返す。
「それは、誰にとっての本当ですか」
「あなたにとって」
「私が覚えている名前ですか」
「そうです」
「私を呼んだ人が覚えている名前ですか」
「それも」
「記録に残っている名前ですか」
「それも」
「観測局がつけた番号ですか」
「違う」
「あなたがつけたオメガという名前は?」
レイは、少しだけ言葉に詰まった。
青年は微笑んでいる。
責めているようには見えない。
だが、問いは鋭い。
「御影くん。名前は、呼ぶ側の都合でもあります。あなたが私をオメガと呼ぶ時、あなたは私を理解した気になれる。対存在。終点。すべての自分を消す者。きれいな名前です」
「きれいじゃない」
「では、便利な名前です」
レイの目が冷える。
「あなたは、僕が名前をつけることを責めているんですか」
「責めてはいません」
「なら何です」
「恐れているのです」
その言葉は、真昼の胸に沈んだ。
恐れている。
青年は、そう言った。
レイを責めるのではなく。
真昼を拒むのでもなく。
恐れている、と。
「名前をつけられることを?」
真昼が聞いた。
「ええ」
「記録されることを?」
「ええ」
「見つけられることを?」
青年は、少しだけ目を伏せた。
「ええ」
真昼は、彼を見た。
彼は怖い。
危険だ。
オメガと深く関わっている。
もしかすると、オメガ本人かもしれない。
黒刃を持ち出した者かもしれない。
天沢灯里を殺した者かもしれない。
古河千景を殺した者かもしれない。
エミー・グレイス・ハーパーを殺した者かもしれない。
それなのに、今の彼はひどく静かで、ひどく壊れやすく見える。
真昼は、その見え方を信用しすぎてはいけないと思った。
それでも、見えてしまったものをなかったことにはできない。
「見つけられたくないなら」
真昼は言った。
「どうしてここにいるんですか」
青年は、彼女を見た。
「ここ?」
「ノクターン書房です。古い本、貸出票、名前、記録、郷土資料、学院新聞のバックナンバー。あなたは、名前と記録だらけの場所にいる」
「皮肉ですね」
「自分で選んだんでしょう」
「あるいは、ここしか残らなかったのかもしれません」
青年の声は、雨の日の窓のように曖昧だった。
「本は、人を呼びません。開かれるまで黙っています」
「でも、残ります」
「だから、時々怖い」
「それでもここにいる」
「ええ」
「あなたは、消えたいんですか。残りたいんですか」
青年は、答えなかった。
真昼は、少しだけ後悔した。
踏み込みすぎたかもしれない。
でも、もう引けなかった。
「灯里さんは、あなたに名前を聞かなかった」
青年の指が止まった。
真昼は続ける。
「名前が怖いなら、今日は呼ばない。そう言った」
青年の微笑みが、ほんの少しだけ揺れた。
それは初めて見せた揺れだった。
真昼は、確信した。
やはり知っている。
天沢灯里を。
彼女の声を。
彼女の優しさを。
彼女が最後に残した名前を。
「白瀬さん」
青年は静かに言った。
「あなたは、天沢さんより少し乱暴ですね」
「前にも言われました」
「ええ」
「乱暴でも、聞きます」
「知っています」
「じゃあ、教えてください。零番線へ行ったら、雨宮紗良さんはどうなりますか」
青年は、窓の外を見た。
晴れた坂道。
乾いた舗道。
光。
その外の世界とは別に、店内には雨の匂いがあった。
「彼女が名前を捨てたいだけなら、零番線は優しいでしょう」
「だけなら?」
「ええ」
「それ以外があるんですか」
「零番線には、名前を捨てたい人だけが行くわけではありません」
「誰が行くんですか」
青年は、真昼を見ないまま答えた。
「名前を捨てさせたい者も、行きます」
真昼の背筋が冷えた。
「それは、誰ですか」
「さあ」
「また答えない」
「答えられません」
「知らないから?」
「知っているからです」
レイが、低く言った。
「あなたは、O-00を知っていますか」
青年の表情が消えた。
ほんの一瞬。
目の奥から、人間らしい柔らかさが完全に抜けた。
空白。
真昼は息を止める。
次の瞬間、青年はまた微笑んだ。
「御影くんは、危ない名前を覚えてしまいましたね」
「名前ではない。番号です」
「番号でも、人を呼べることがあります」
「O-00は人ですか」
「それは、誰が決めるのでしょう」
レイが一歩近づく。
「真木彼方は」
青年の視線が、レイに向く。
真昼は反射的に言った。
「御影レイ」
レイは止まる。
ゆっくり息を吸う。
「白瀬真昼」
「今は、決めない」
「分かってる」
「ほんと?」
「分かってる。でも、聞く」
真昼は頷いた。
レイは、青年を見た。
「真木彼方は、零番線にいるんですか」
青年は、コーヒーカップを一つ、レイの前へ置いた。
答えない。
レイはそれを見つめる。
「あなたは知っている」
「知っていることと、言えることは違います」
「またそれですか」
「ええ」
「彼方は、オメガですか」
青年は微笑んだまま、沈黙した。
「オメガは、彼方から生まれたんですか」
沈黙。
「それとも、あなたが」
「御影くん」
青年が、初めてレイの言葉を遮った。
声は柔らかい。
けれど、刃のように細い。
「名前を急いで結ばないでください」
レイは口を閉じた。
青年は続ける。
「一度結んだ名前は、ほどくのが難しい。あなたが彼をオメガと結べば、彼はその形で記録されるかもしれない。あなたが私を彼と結べば、私もその形で観測されるかもしれない」
「だから黙れと?」
「違います」
青年は、少しだけ悲しそうに見えた。
いや、真昼にはそう見えた。
「まだ、呼んではいけないものがあります」
その言葉が、店内に沈む。
真昼は、ノートを取り出そうとして、やめた。
今は書かない。
覚える。
そして、あとで非公開記録にする。
公開しない記録。
呼ばない記録。
青年は、カウンターの上の貸出票を一枚手に取った。
そこには、古い字で誰かの名前が書かれている。
天沢灯里。
真昼は、目を見開いた。
「それ」
「返却されなかった貸出票です」
「なぜ今」
「今日、見つかりました」
「本当に?」
「本は、必要な時に見つかることがあります」
「便利な本ですね」
「便利です」
青年は、貸出票を真昼へ渡さなかった。
ただ、見せただけだった。
そこに天沢灯里の名前がある。
その筆跡は、以前見た手帳のものとは違う。
貸出記録としての字。
誰かが彼女の名前を書いた記録。
灯里はここに来ていた。
知っていたことなのに、また胸が痛んだ。
「天沢さんは、零番線へ行こうとしていましたか」
真昼が聞く。
青年は首を横に振った。
「彼女は、行こうとしたのではありません」
「では?」
「引き返そうとした人の名前を、拾おうとしていました」
「誰の」
青年は、答えなかった。
真昼は分かってしまう。
真木彼方。
あるいは、O-00。
あるいは、青年自身。
青年は貸出票を静かにしまった。
「零番線へ行ってはいけません」
もう一度、彼は言った。
「警告ですか」
レイが聞く。
「はい」
「罠ではなく?」
「罠だと思っていただいても構いません。そのほうが、慎重になる」
霧生が聞いたら嫌な顔をしそうな言い方だった。
真昼は、少しだけ苦笑しそうになる。
でも笑えなかった。
「雨宮さんを止めたいんです」
真昼は言った。
「名前を無理に戻すとは言いません。でも、零番線へ行かせたくない」
「それは、あなたの正しさですか」
「たぶん」
「彼女の願いは?」
「名前を持っているほうがつらいと言ってました」
「では」
「でも、捨てたあとで後悔できない場所へ行くのは違う」
真昼は、言葉を探しながら続けた。
「名前を捨てたいなら、名前がある場所で決めてほしい。呼ばれるのが嫌なら、呼ばない人のそばで休んでほしい。名前を全部消す場所じゃなくて、名前を置いておける場所が必要だと思う」
青年は、彼女を見た。
その目が、ほんの少し揺れる。
「白瀬さんは」
「はい」
「危険なほど、記録者ですね」
「褒めてませんよね」
「褒めています」
「じゃあ、嬉しくない褒め方です」
「すみません」
青年は、本当に謝っているように見えた。
そのことが、また真昼を混乱させる。
レイは、コーヒーカップに手を触れなかった。
「最後に一つ」
彼が言った。
「あなたは、僕たちの敵ですか」
青年は、ゆっくり微笑んだ。
「それも、名前の一種ですね」
「答えてください」
「敵と呼べば、あなたは戦いやすい」
「味方と呼べば?」
「信じやすい」
「じゃあ、何ですか」
「まだ、呼ばないでください」
その返答に、真昼は息を止めた。
やはり、そこへ戻る。
呼ばないでください。
彼の中心には、その言葉がある。
名前も、立場も、敵味方も。
呼ばれた瞬間に固定されることを恐れている。
青年は、二人の前に置いたコーヒーへ視線を落とした。
「冷めますよ」
「飲む空気じゃないです」
真昼が言う。
「そうですね」
青年は、困ったように笑った。
その顔は、またいつもの店員のものだった。
*
店を出る時、外はまだ晴れていた。
日差しは少し傾き、坂道の影が長く伸びている。
ノクターン書房の扉を開けると、乾いた外気が入ってきた。
真昼は振り返る。
青年はカウンターの向こうに立っている。
微笑んでいる。
いつも通り。
でも、彼が泣いているように見えた感覚は、まだ消えない。
「御影くん」
青年が呼んだ。
レイが足を止める。
「何ですか」
「もし彼を見つけても、すぐに名前を呼んではいけません」
真昼は、振り返った。
「彼?」
青年は答えない。
「真木彼方さんのことですか」
沈黙。
「O-00のことですか」
沈黙。
「あなた自身のことですか」
青年は、少しだけ目を伏せた。
そして、静かに言った。
「雨が降る前に、お帰りください」
外は晴れている。
空には、まだ青が残っている。
それなのに、店の奥から水音がした。
ぽたり。
真昼は、もう一度聞こうとした。
けれど、レイが小さく言った。
「行こう」
「御影くん」
「今は、答えない」
「うん」
二人は店を出た。
扉が閉まる。
ドアベルが鳴る。
からん。
その音の奥で、雨の匂いが途切れた。
坂道には日差しがあった。
だが、遠くの空の端に、黒い雲がひとつだけ浮かんでいる。
レイは立ち止まらずに歩いた。
真昼は隣に並ぶ。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
「戻ってる?」
「戻ってる」
「さっきの、どう思う?」
「分からない」
「分からないまま?」
「うん」
レイは、坂道の下を見た。
そこには、アガルタの街が広がっている。
旧地下鉄。
学院。
市警。
境界観測局。
そして、どこにも載っていない零番線。
「でも、たぶん」
レイは言った。
「あの人は、止めようとしている」
「何を」
「僕たちが、間違った名前で誰かを固定すること」
真昼は、ノートの入った鞄を押さえた。
もし彼を見つけても、すぐに名前を呼んではいけません。
その言葉が、胸の奥で重く沈む。
呼ばなければ消えるかもしれない。
呼べば壊れるかもしれない。
真昼は、空を見上げた。
晴れているのに、雨の匂いがした。
零番線へ向かう道は、もう開きかけている。




