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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第三巻:真木彼方と零番線
33/82

第九章 ノクターン書房の警告

 ノクターン書房へ向かう道は、晴れていた。


 それが、かえって不気味だった。


 雨の街なら、まだ分かる。


 黒い傘。


 濡れた路地。


 旧地下鉄へ続く階段。


 名前のない切符。


 そういうものは、雨の中にあるほうが似合っている。アガルタ市の雨は、ただの天気ではない。水たまりは記憶を映し、窓ガラスは別の人生をにじませ、地下へ落ちる水音は誰かの名前を呼ぶ。


 だが、その日の午後は晴れていた。


 雲は薄く、雨上がりでもない。


 舗道は乾いている。


 坂道の街路樹の葉にも水滴はなく、カフェのオープンテラスには、薄い日差しの中で本を読む人までいた。


 なのに、真昼の鼻先には、雨の匂いが残っていた。


 古いコンクリートに染みた水の匂い。


 濡れた紙。


 黒い破片が光を食べた保管庫の、匂いのなさ。


 それらが身体の奥に残っている。


 無記性境界物質。


 記憶を保持しない物質。


 記録されず、記録を残さず、接触した記録の輪郭を削るもの。


 藍沢環の声が、まだ耳に残っていた。


 真昼は、鞄の中のノートを指先で確認した。


 そこには、非公開記録として書いた文字がある。


 無記性境界物質。


 黒刃ヌルの素材。


 Null-03刃体保管台、空。


 現物なし。


 持ち出し、または記録欠落。


 黒刃は、もう保管庫にはなかった。


 誰かが持ち出した。


 あるいは、持ち出されたという記録すら削られていた。


 そして、その刃を持つ者がいる。


 黒い傘。


 雨の夜。


 名前を消す者。


 オメガ。


 真昼は、隣を歩く御影レイを見た。


 彼は、いつも通りに見える。


 制服の上に黒いカーディガンを羽織り、手には小さな紙袋を持っている。中身は、ノクターン書房へ行く口実として買った焼き菓子だった。真昼が「手土産?」と聞いたら、レイは「本を買わないで長居すると気まずい」と答えた。


 その感覚は、妙に普通だった。


 でも、レイの目は普通ではなかった。


 晴れた坂道を歩いているのに、視線だけがどこか地下を見ている。


「御影レイ」


 真昼は呼んだ。


 レイはすぐに返す。


「白瀬真昼」


「戻ってる?」


「戻ってる」


「ほんと?」


「ほんと」


「保管庫から出てから、ちょっと遠い顔してる」


「君も」


「私は……まあ、はい」


「戻ってる?」


「戻ってる。たぶん」


「たぶん禁止」


「それ、私が言う側だったのに」


「相互教育」


「便利」


「便利だから」


 真昼は少しだけ笑った。


 笑えることに安心した。


 地下廃棄区画を出たあと、市警へ戻り、霧生に「今日はもう帰れ」と言われた。透子も同意した。藍沢は、記録保全部として回収記録を整理するために支局へ残った。


 そのまま帰るべきだった。


 たぶん。


 でも、レイが言った。


 ノクターン書房へ行く。


 それは、提案というより確認だった。


 真昼も、反対しなかった。


 零番線。


 Null-03。


 O-00。


 黒刃ヌル


 無記性境界物質。


 それらがつながりかけている。


 ならば、彼に聞かなければならない。


 名前のない青年。


 古書喫茶《ノクターン書房》の店番。


 天沢灯里を知っていた人。


 名前を問われて、呼ばないでください、と言った人。


 そして、オメガかどうかを問われても、肯定も否定もしなかった人。


 坂道を上りきると、ノクターン書房の看板が見えた。


 古い木製の看板。


 金色の文字は少しくすみ、昼の光の中では目立たない。


 雨の日のほうが似合う店だ。


 真昼は、そう思った。


 だが、店の前に立った瞬間、はっきり分かった。


 店内だけが、雨の匂いをしている。


 外は晴れている。


 舗道は乾いている。


 それなのに、扉の隙間から漏れてくる空気は湿っていた。


 レイも気づいたらしく、扉に触れる前に一度だけ手を止めた。


「行く?」


 真昼が聞く。


「行く」


「止めても?」


「行く」


「じゃあ、一緒に」


 レイは、小さく頷いた。


 扉を開ける。


 ドアベルが鳴った。


 からん。


 乾いた音のはずなのに、その余韻には水音が混じっていた。


     *


 ノクターン書房の中は、いつも通りだった。


 木製の棚。


 古い本の背表紙。


 窓際の席。


 奥のカウンター。


 小さな喫茶スペース。


 壁に掛かった古い時計。


 古書とコーヒーの匂い。


 だが、そのすべてに、薄い雨の膜がかかっている。


 窓の外は晴れている。


 硝子越しに坂道へ落ちる光も見える。


 それでも、店内の空気は雨の日のように湿っていた。


 床板が、ほんの少し軋む。


 棚の奥から、ページをめくる音がした。


 店内に客はいない。


 なのに、誰かが本を読んでいるような音。


 真昼は無意識にノートの入った鞄を押さえた。


 カウンターの奥に、青年がいた。


 白いシャツ。


 黒いカーディガン。


 古書店のエプロン。


 黒髪は少し長く、前髪が目元にかかっている。


 静かで、清潔で、線が細い。


 見終わったあとに顔の輪郭が少し曖昧になるような青年。


 彼は、棚の上に並べた古い貸出票を整理していた。


 真昼とレイを見ると、手を止める。


「いらっしゃいませ」


 いつもの声。


 低すぎず、高すぎず、記憶に残りにくい声。


 けれど、真昼にはもう、その声が記憶に残ってしまっている。


「御影くん。白瀬さん」


 青年は穏やかに言った。


「今日は雨ではありませんね」


 真昼は、少しだけ息を止めた。


 先に言われた。


 晴れているのに、雨の匂いがする店で。


「外は晴れてます」


 真昼は言った。


「ええ」


「でも、この店は雨の匂いがします」


「古い本は、天気を覚えていますから」


 青年は、まるで図書館司書のような口調で答えた。


「湿気が残っているのでしょう」


「湿気だけですか」


「それ以外に見えますか」


 真昼は、青年の顔を見た。


 微笑んでいる。


 いつも通りの、少しだけ困ったような微笑み。


 客の質問に、丁寧に答えようとしている店員の顔。


 けれど、その目の奥は静かすぎる。


 レイが紙袋をカウンターに置いた。


「差し入れです」


「ありがとうございます。珍しいですね」


「長く話すかもしれないので」


「それは、手土産というより使用料ですね」


「そうです」


 青年は、ほんの少しだけ笑った。


「正直な方ですね」


 真昼は椅子に座らなかった。


 立ったまま、カウンター越しに青年を見る。


 レイも隣に立つ。


 青年は、それを見て、貸出票の束を静かに整えた。


「本をお探しですか」


 真昼は、まっすぐ聞いた。


「零番線を知っていますか」


 店内の時計が止まったような気がした。


 秒針の音が消える。


 ページをめくる音も消える。


 外の坂道を通る車の音も、遠くなる。


 青年は、表情をほとんど変えなかった。


 ただ、貸出票を持つ指先だけが、一瞬止まった。


「急なご質問ですね」


「急じゃありません」


 真昼は言った。


「無名切符。K-117。Null-03。無記性境界物質。黒刃ヌル。全部、零番線につながっています」


「ずいぶん深くまで調べられたのですね」


「あなたは知っていましたね」


「何を、でしょう」


「零番線が何か」


 青年は、少しだけ視線を伏せた。


 そして、静かに答えた。


「名前を捨てたい方が向かう場所です」


 その言葉は、あまりにも自然だった。


 まるで、古い駅への道順を聞かれて答えたように。


 真昼の背筋が冷える。


「名前を捨てたい方」


「ええ」


「行きたい人を、止めないんですか」


「行きたい理由によります」


「名前を捨てたい理由があれば、行っていいんですか」


「私が許可する場所ではありません」


「でも、知ってる」


「知っていることと、止められることは違います」


 青年の声は柔らかい。


 その柔らかさが、かえって苛立たしかった。


 雨宮紗良の顔が浮かぶ。


 名前が消えたら楽になった、と言った少女。


 零番線へ行けば、名前を捨てられるかもしれないと感じてしまった少女。


 その危うさを、この青年は知っている。


 知っているのに、静かにしている。


 真昼は言いかけた。


 その前に、レイが口を開いた。


「あなたも行ったんですか」


 青年は、レイを見た。


 答えない。


 店内の空気が、さらに湿る。


 真昼は、レイの横顔を見た。


 彼の声は静かだった。


 でも、奥に鋭さがある。


「あなたは零番線を知っている。名前を捨てたい人が向かう場所だと知っている。行ったことがない人の言い方ではない」


 青年は、少しだけ微笑んだ。


「御影くんは、相変わらずよく見ていますね」


「答えてください」


「答えたら、何が変わりますか」


「あなたがどちら側にいるのか、少し分かる」


「どちら側」


 青年は、その言葉をゆっくり繰り返した。


「名前を残したい側と、名前を捨てたい側ですか」


 真昼は答えられなかった。


 レイも、すぐには答えなかった。


 青年は続ける。


「世界は、もう少し複雑です」


「複雑だからって、答えない理由にはなりません」


 真昼が言う。


「なります」


 青年は、真昼を見た。


「答えたことで、壊れるものもあります」


「それ、藍沢さんみたいな言い方です」


「藍沢さんは優秀な記録保全官です」


「知ってるんですね」


「この街で名前と記録を扱う方は、多くありませんから」


 真昼は、胸の奥に苛立ちと怖さが同時に広がるのを感じた。


 彼は知っている。


 観測局のことも。


 記録保全部のことも。


 Null-03のことも。


 たぶん、K-117のことも。


 そして、真木彼方のことも。


 青年は、カウンターの下から二つのカップを取り出した。


「コーヒーでよろしいですか」


「今、そういう空気ですか」


 真昼が言う。


「話が長くなる時は、温かいものがあったほうがいい」


「晴れてるのに、店内が雨の匂いだから?」


「それもあります」


 青年は、慣れた手つきでコーヒーを淹れ始めた。


 お湯を注ぐ音が、雨音に似ている。


 真昼は座らなかった。


 レイも座らない。


 青年は、それを責めなかった。


「零番線へ行ってはいけません」


 コーヒーを淹れながら、青年は言った。


 真昼は顔を上げる。


 青年は、カップへ視線を落としたまま続けた。


「あそこは、名前を捨てたい者には優しい場所です」


 真昼は、一歩だけカウンターへ近づいた。


「優しいなら、どうして行ってはいけないんですか」


 青年は、注ぐ手を止めた。


 湯気が立ち上る。


 晴れた午後の店内に、雨の日の湯気が漂う。


「優しい場所ほど、人を帰さないからです」


 その声は、今までより少しだけ低かった。


 真昼は、言葉を失った。


 青年はコーヒーを置いた。


 カップの中の黒い水面に、窓の外の光が映っている。


 けれど、その中心だけが少し暗い。


「零番線は、疲れた人に休んでいいと言います」


 青年は言った。


「名前を呼ばれることに傷ついた人に、もう返事をしなくていいと言います。記録されることに怯えた人に、もう見つからなくていいと言います。過去の名前に縛られた人に、それを置いていけると言います」


 雨宮紗良。


 真昼は、彼女の顔を思い浮かべた。


 名前を持っているほうがつらい、と言った少女。


 零番線の文字を綺麗だと言った少女。


「それは、救いに見える」


 青年は続ける。


「だから危険なのです」


「あなたは」


 レイが言った。


「その優しさを知っている」


 青年は答えない。


 真昼には、彼の横顔が一瞬だけ違って見えた。


 泣いているように。


 だが、実際には涙などない。


 顔はいつも通り微笑んでいる。


 なのに、どこかが泣いている。


 名前のない場所で、誰にも見られないように泣いている人の気配。


 真昼は、その気配に少しだけ息を詰めた。


 レイは、さらに踏み込んだ。


「あなたはオメガですか」


 店内の空気が完全に止まった。


 時計も、湯気も、本棚の奥の影も。


 すべてが、レイの問いを聞いていた。


 青年は、レイを見た。


 微笑む。


 その微笑みは、いつも通りだった。


 けれど、真昼には分かった。


 温度がない。


 優しい顔なのに、そこだけ世界から切り取られている。


「あなたは、まだ私に名前をつけたいのですね」


 青年は言った。


 レイの手が、わずかに握られる。


「オメガは、僕がつけた名前です」


「ええ」


「あなたの本当の名前ではない」


「そうですね」


「なら、本当の名前を教えてください」


 真昼は息を止めた。


 第二巻の終わりに、真昼も同じことを聞いた。


 あなたの名前は?


 その時、青年は言った。


 呼ばないでください。


 店内の雨音が止まった。


 今日も、同じことが起きるのではないか。


 そう思った。


 だが、青年はすぐには拒まなかった。


 ただ、レイを見ていた。


「本当の名前」


 彼は静かに繰り返す。


「それは、誰にとっての本当ですか」


「あなたにとって」


「私が覚えている名前ですか」


「そうです」


「私を呼んだ人が覚えている名前ですか」


「それも」


「記録に残っている名前ですか」


「それも」


「観測局がつけた番号ですか」


「違う」


「あなたがつけたオメガという名前は?」


 レイは、少しだけ言葉に詰まった。


 青年は微笑んでいる。


 責めているようには見えない。


 だが、問いは鋭い。


「御影くん。名前は、呼ぶ側の都合でもあります。あなたが私をオメガと呼ぶ時、あなたは私を理解した気になれる。対存在。終点。すべての自分を消す者。きれいな名前です」


「きれいじゃない」


「では、便利な名前です」


 レイの目が冷える。


「あなたは、僕が名前をつけることを責めているんですか」


「責めてはいません」


「なら何です」


「恐れているのです」


 その言葉は、真昼の胸に沈んだ。


 恐れている。


 青年は、そう言った。


 レイを責めるのではなく。


 真昼を拒むのでもなく。


 恐れている、と。


「名前をつけられることを?」


 真昼が聞いた。


「ええ」


「記録されることを?」


「ええ」


「見つけられることを?」


 青年は、少しだけ目を伏せた。


「ええ」


 真昼は、彼を見た。


 彼は怖い。


 危険だ。


 オメガと深く関わっている。


 もしかすると、オメガ本人かもしれない。


 黒刃を持ち出した者かもしれない。


 天沢灯里を殺した者かもしれない。


 古河千景を殺した者かもしれない。


 エミー・グレイス・ハーパーを殺した者かもしれない。


 それなのに、今の彼はひどく静かで、ひどく壊れやすく見える。


 真昼は、その見え方を信用しすぎてはいけないと思った。


 それでも、見えてしまったものをなかったことにはできない。


「見つけられたくないなら」


 真昼は言った。


「どうしてここにいるんですか」


 青年は、彼女を見た。


「ここ?」


「ノクターン書房です。古い本、貸出票、名前、記録、郷土資料、学院新聞のバックナンバー。あなたは、名前と記録だらけの場所にいる」


「皮肉ですね」


「自分で選んだんでしょう」


「あるいは、ここしか残らなかったのかもしれません」


 青年の声は、雨の日の窓のように曖昧だった。


「本は、人を呼びません。開かれるまで黙っています」


「でも、残ります」


「だから、時々怖い」


「それでもここにいる」


「ええ」


「あなたは、消えたいんですか。残りたいんですか」


 青年は、答えなかった。


 真昼は、少しだけ後悔した。


 踏み込みすぎたかもしれない。


 でも、もう引けなかった。


「灯里さんは、あなたに名前を聞かなかった」


 青年の指が止まった。


 真昼は続ける。


「名前が怖いなら、今日は呼ばない。そう言った」


 青年の微笑みが、ほんの少しだけ揺れた。


 それは初めて見せた揺れだった。


 真昼は、確信した。


 やはり知っている。


 天沢灯里を。


 彼女の声を。


 彼女の優しさを。


 彼女が最後に残した名前を。


「白瀬さん」


 青年は静かに言った。


「あなたは、天沢さんより少し乱暴ですね」


「前にも言われました」


「ええ」


「乱暴でも、聞きます」


「知っています」


「じゃあ、教えてください。零番線へ行ったら、雨宮紗良さんはどうなりますか」


 青年は、窓の外を見た。


 晴れた坂道。


 乾いた舗道。


 光。


 その外の世界とは別に、店内には雨の匂いがあった。


「彼女が名前を捨てたいだけなら、零番線は優しいでしょう」


「だけなら?」


「ええ」


「それ以外があるんですか」


「零番線には、名前を捨てたい人だけが行くわけではありません」


「誰が行くんですか」


 青年は、真昼を見ないまま答えた。


「名前を捨てさせたい者も、行きます」


 真昼の背筋が冷えた。


「それは、誰ですか」


「さあ」


「また答えない」


「答えられません」


「知らないから?」


「知っているからです」


 レイが、低く言った。


「あなたは、O-00を知っていますか」


 青年の表情が消えた。


 ほんの一瞬。


 目の奥から、人間らしい柔らかさが完全に抜けた。


 空白。


 真昼は息を止める。


 次の瞬間、青年はまた微笑んだ。


「御影くんは、危ない名前を覚えてしまいましたね」


「名前ではない。番号です」


「番号でも、人を呼べることがあります」


「O-00は人ですか」


「それは、誰が決めるのでしょう」


 レイが一歩近づく。


「真木彼方は」


 青年の視線が、レイに向く。


 真昼は反射的に言った。


「御影レイ」


 レイは止まる。


 ゆっくり息を吸う。


「白瀬真昼」


「今は、決めない」


「分かってる」


「ほんと?」


「分かってる。でも、聞く」


 真昼は頷いた。


 レイは、青年を見た。


「真木彼方は、零番線にいるんですか」


 青年は、コーヒーカップを一つ、レイの前へ置いた。


 答えない。


 レイはそれを見つめる。


「あなたは知っている」


「知っていることと、言えることは違います」


「またそれですか」


「ええ」


「彼方は、オメガですか」


 青年は微笑んだまま、沈黙した。


「オメガは、彼方から生まれたんですか」


 沈黙。


「それとも、あなたが」


「御影くん」


 青年が、初めてレイの言葉を遮った。


 声は柔らかい。


 けれど、刃のように細い。


「名前を急いで結ばないでください」


 レイは口を閉じた。


 青年は続ける。


「一度結んだ名前は、ほどくのが難しい。あなたが彼をオメガと結べば、彼はその形で記録されるかもしれない。あなたが私を彼と結べば、私もその形で観測されるかもしれない」


「だから黙れと?」


「違います」


 青年は、少しだけ悲しそうに見えた。


 いや、真昼にはそう見えた。


「まだ、呼んではいけないものがあります」


 その言葉が、店内に沈む。


 真昼は、ノートを取り出そうとして、やめた。


 今は書かない。


 覚える。


 そして、あとで非公開記録にする。


 公開しない記録。


 呼ばない記録。


 青年は、カウンターの上の貸出票を一枚手に取った。


 そこには、古い字で誰かの名前が書かれている。


 天沢灯里。


 真昼は、目を見開いた。


「それ」


「返却されなかった貸出票です」


「なぜ今」


「今日、見つかりました」


「本当に?」


「本は、必要な時に見つかることがあります」


「便利な本ですね」


「便利です」


 青年は、貸出票を真昼へ渡さなかった。


 ただ、見せただけだった。


 そこに天沢灯里の名前がある。


 その筆跡は、以前見た手帳のものとは違う。


 貸出記録としての字。


 誰かが彼女の名前を書いた記録。


 灯里はここに来ていた。


 知っていたことなのに、また胸が痛んだ。


「天沢さんは、零番線へ行こうとしていましたか」


 真昼が聞く。


 青年は首を横に振った。


「彼女は、行こうとしたのではありません」


「では?」


「引き返そうとした人の名前を、拾おうとしていました」


「誰の」


 青年は、答えなかった。


 真昼は分かってしまう。


 真木彼方。


 あるいは、O-00。


 あるいは、青年自身。


 青年は貸出票を静かにしまった。


「零番線へ行ってはいけません」


 もう一度、彼は言った。


「警告ですか」


 レイが聞く。


「はい」


「罠ではなく?」


「罠だと思っていただいても構いません。そのほうが、慎重になる」


 霧生が聞いたら嫌な顔をしそうな言い方だった。


 真昼は、少しだけ苦笑しそうになる。


 でも笑えなかった。


「雨宮さんを止めたいんです」


 真昼は言った。


「名前を無理に戻すとは言いません。でも、零番線へ行かせたくない」


「それは、あなたの正しさですか」


「たぶん」


「彼女の願いは?」


「名前を持っているほうがつらいと言ってました」


「では」


「でも、捨てたあとで後悔できない場所へ行くのは違う」


 真昼は、言葉を探しながら続けた。


「名前を捨てたいなら、名前がある場所で決めてほしい。呼ばれるのが嫌なら、呼ばない人のそばで休んでほしい。名前を全部消す場所じゃなくて、名前を置いておける場所が必要だと思う」


 青年は、彼女を見た。


 その目が、ほんの少し揺れる。


「白瀬さんは」


「はい」


「危険なほど、記録者ですね」


「褒めてませんよね」


「褒めています」


「じゃあ、嬉しくない褒め方です」


「すみません」


 青年は、本当に謝っているように見えた。


 そのことが、また真昼を混乱させる。


 レイは、コーヒーカップに手を触れなかった。


「最後に一つ」


 彼が言った。


「あなたは、僕たちの敵ですか」


 青年は、ゆっくり微笑んだ。


「それも、名前の一種ですね」


「答えてください」


「敵と呼べば、あなたは戦いやすい」


「味方と呼べば?」


「信じやすい」


「じゃあ、何ですか」


「まだ、呼ばないでください」


 その返答に、真昼は息を止めた。


 やはり、そこへ戻る。


 呼ばないでください。


 彼の中心には、その言葉がある。


 名前も、立場も、敵味方も。


 呼ばれた瞬間に固定されることを恐れている。


 青年は、二人の前に置いたコーヒーへ視線を落とした。


「冷めますよ」


「飲む空気じゃないです」


 真昼が言う。


「そうですね」


 青年は、困ったように笑った。


 その顔は、またいつもの店員のものだった。


     *


 店を出る時、外はまだ晴れていた。


 日差しは少し傾き、坂道の影が長く伸びている。


 ノクターン書房の扉を開けると、乾いた外気が入ってきた。


 真昼は振り返る。


 青年はカウンターの向こうに立っている。


 微笑んでいる。


 いつも通り。


 でも、彼が泣いているように見えた感覚は、まだ消えない。


「御影くん」


 青年が呼んだ。


 レイが足を止める。


「何ですか」


「もし彼を見つけても、すぐに名前を呼んではいけません」


 真昼は、振り返った。


「彼?」


 青年は答えない。


「真木彼方さんのことですか」


 沈黙。


「O-00のことですか」


 沈黙。


「あなた自身のことですか」


 青年は、少しだけ目を伏せた。


 そして、静かに言った。


「雨が降る前に、お帰りください」


 外は晴れている。


 空には、まだ青が残っている。


 それなのに、店の奥から水音がした。


 ぽたり。


 真昼は、もう一度聞こうとした。


 けれど、レイが小さく言った。


「行こう」


「御影くん」


「今は、答えない」


「うん」


 二人は店を出た。


 扉が閉まる。


 ドアベルが鳴る。


 からん。


 その音の奥で、雨の匂いが途切れた。


 坂道には日差しがあった。


 だが、遠くの空の端に、黒い雲がひとつだけ浮かんでいる。


 レイは立ち止まらずに歩いた。


 真昼は隣に並ぶ。


「御影レイ」


「白瀬真昼」


「戻ってる?」


「戻ってる」


「さっきの、どう思う?」


「分からない」


「分からないまま?」


「うん」


 レイは、坂道の下を見た。


 そこには、アガルタの街が広がっている。


 旧地下鉄。


 学院。


 市警。


 境界観測局。


 そして、どこにも載っていない零番線。


「でも、たぶん」


 レイは言った。


「あの人は、止めようとしている」


「何を」


「僕たちが、間違った名前で誰かを固定すること」


 真昼は、ノートの入った鞄を押さえた。


 もし彼を見つけても、すぐに名前を呼んではいけません。


 その言葉が、胸の奥で重く沈む。


 呼ばなければ消えるかもしれない。


 呼べば壊れるかもしれない。


 真昼は、空を見上げた。


 晴れているのに、雨の匂いがした。


 零番線へ向かう道は、もう開きかけている。

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