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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第三巻:真木彼方と零番線
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第八章 無記性境界物質

 撤収するはずだった。


 霧生仁は、そう決めていた。


 接続切断処置 Null-03。


 対象 K-117。


 O-00、零番線へ移動。


 その記録を読んだ時点で、白い観測室にいる全員の状態は限界に近かった。御影レイは、まだ立っている。だが目の奥が揺れている。白瀬真昼は、ノートを閉じたあとも指先の震えが止まっていない。黒江透子は、辛うじて現在に戻っているだけで、あの白すぎる部屋の中へ何度も引き戻されそうになっていた。


 藍沢環でさえ、青灰色の手袋の指がわずかに震えていた。


 霧生は、それを見ていた。


 だから、終わりだと決めた。


 今日はここまで。


 地上へ戻る。


 続きは、生きて帰ってから読む。


 それが現場指揮官としての判断だった。


 だが、地下はいつも、人間の判断より少しだけ遅れて罠を開く。


 K-117観測室を出た直後、廃棄区画の廊下で非常灯が一度だけ瞬いた。


 赤い光が消え、戻る。


 その一瞬の暗闇の中で、通路の奥に白い線が浮かんだ。


 床の水でも、壁の反射でもない。


 扉の縁だった。


「止まってください」


 藍沢が言った。


 霧生はすぐに足を止めた。


「何だ」


「今の発光、見えましたか」


「見えた。見たくなかったがな」


 藍沢は端末を確認する。


 画面には、さっきまで表示されていなかった区画名が出ていた。


 DZM-0-B

 旧保管庫

 Null Material Storage


 真昼は、その英字を読んだ瞬間、胸の奥がざらつくのを感じた。


 Null Material。


 無記性境界物質。


 黒刃ヌルの素材。


 レイも同じ言葉に反応した。


 彼の視線が、廊下の奥へ向く。


 そこには、厚い金属扉があった。


 壁と同じ灰色に塗られていて、ライトを当てなければ扉だと分からない。だが、非常灯が明滅した一瞬だけ、縁の封印線が白く浮かんだのだ。


 霧生は、あからさまに嫌な顔をした。


「開けないぞ」


 最初に言った。


 真昼は口を開きかけて、閉じた。


 ここで「でも」と言えば、間違いなく怒られる。


 レイも何も言わなかった。


 透子も。


 代わりに、藍沢が静かに言った。


「正規判断としては、開けるべきではありません」


「なら話は終わりだ」


「ですが、この扉が今表示された理由は確認が必要です」


「確認って言葉も便利だな」


「便利です。ですが、今回は危険でもあります」


 藍沢は端末画面を霧生に向けた。


「旧保管庫は、Null-03処置記録と同じ認証系統に接続されています。先ほどの処置記録を開いたことで、関連保管庫の封印表示が一時的に復旧した可能性があります」


「つまり?」


「次にここへ来た時、開く保証はありません」


 霧生は、低く舌打ちした。


 それは分かっている、という顔だった。


 地上へ戻る判断は正しい。


 けれど、今しか見えない扉がある。


 この地下で、今しか開かないものを見逃した結果、どれだけの名前が消えたのか。


 真昼は黙っていた。


 だが、たぶん顔に出ていた。


 霧生がこちらを睨む。


「白瀬、喋るな」


「まだ何も」


「顔が喋ってる」


「顔を黙らせる方法が分かりません」


「下を向け」


「はい」


 真昼は素直に下を向いた。


 視界に、自分の靴と水の染みた床が入る。


 床の水たまりに、自分の顔が少しだけ映っていた。


 不安そうで、悔しそうで、行きたそうな顔。


 確かに喋っている。


 レイが隣で小さく言った。


「白瀬真昼」


「御影レイ」


「戻ってる?」


「戻ってる。行きたいけど」


「僕も」


「御影くんも?」


「見たくない。でも、見ないと分からない」


 その言葉に、真昼は顔を上げかけたが、霧生に睨まれてまた下げた。


 透子が静かに言った。


「主任」


「お前までか」


「開けるだけです。内部へ踏み込むかどうかは、現場判断で」


「そういう言い方が一番信用ならん」


「承知しています」


「承知するな」


 透子は、保全ケースを胸に抱えたまま扉を見ていた。


「Null-03の処置記録だけでは、何が彼方くんを切ったのか分かりません。素材の状態を確認する必要があります」


「必要は分かる。今やる必要があるかだ」


「今表示されました」


「くそ」


 霧生は、短く息を吐いた。


 それから、全員を見た。


「中へは入らない。扉を開ける。入口から確認。危険反応が出たら即閉鎖。白瀬、手を出すな。御影、近づきすぎるな。黒江、過去を見るな。藍沢、お前は嘘を混ぜるな」


 藍沢は、少しだけ目を瞬かせた。


「最後だけ指示の種類が違います」


「お前に必要な指示だ」


「承知しました」


「だから承知するな」


 霧生は、扉の前で点呼した。


「御影レイ」


「はい」


「白瀬真昼」


「はい」


「黒江透子」


「はい」


「藍沢環」


「はい」


「霧生仁」


「はい」


 五つの名前が、灰色の廊下に落ちる。


 藍沢が職員証をかざす。


 反応しない。


 彼女は、一瞬だけ透子を見る。


 透子は、古い入構証を取り出した。


 若い透子の写真が、非常灯の赤い光を受けている。


 彼女はそれを端末へかざした。


 低い認証音。


 扉の封印線が白く光る。


 画面に文字が浮かぶ。


 旧権限照合。


 実験観測部補助認証。


 Null-03関連保管庫。


 開封許可。


 金属扉の奥で、何重ものロックが外れる音がした。


 ひとつ。


 ふたつ。


 みっつ。


 最後に、空気が抜けるような音。


 扉が、数センチだけ開いた。


 その隙間から、冷たい空気が流れ出した。


 真昼は、思わず一歩下がった。


 匂いがない。


 水の匂いも、紙の匂いも、金属の匂いもない。


 ただ、匂いという記録そのものが抜け落ちたような空気だった。


「白瀬?」


 レイが気づく。


「大丈夫」


 真昼は言った。


 でも、大丈夫ではなかった。


 胸の奥が、強く拒否している。


 入ってはいけない。


 見てはいけない。


 近づいてはいけない。


 それは恐怖ではない。


 記録者としての本能に近い。


 そこにあるものは、記録を食べる。


 そう分かった。


 扉が開く。


 保管庫の中は、思ったより狭かった。


 奥行きは三メートルほど。


 左右に金属棚があり、棚の中には円筒形の保管容器が並んでいる。いくつかは空で、いくつかには封印ラベルが貼られている。天井には古い照明があるが、点灯していない。


 霧生がライトを向けた。


 光が、保管庫の中へ伸びる。


 だが、中央の容器だけが光を返さなかった。


 透明な強化ガラスのような筒。


 その中に、黒い破片が浮いている。


 ガラス片のようにも見えた。


 黒い鉱石のようにも見えた。


 けれど、どちらでもない。


 輪郭が定まらない。


 あるはずなのに、そこだけ視線が滑る。


 ライトを当てても、反射しない。


 光が吸い込まれる。


 影ができるのではない。


 光がそこへ行ったという事実ごと、消えてしまう。


「これが」


 真昼は、声が出なかった。


 藍沢が、静かに言う。


「無記性境界物質です」


 その言葉が保管庫の中に落ちた瞬間、黒い破片がわずかに揺れたように見えた。


 いや、揺れていない。


 揺れたという記録を、真昼の頭が勝手に作ろうとしただけかもしれない。


 藍沢は説明を続けた。


「これは記憶を保持しません。記録されず、記録を残さず、接触した記録の輪郭を削ります」


 霧生が低く言う。


「もう少し刑事にも分かる日本語で」


「普通の物質は、世界に履歴を残します。誰が触れたか、どこにあったか、いつ移動したか。微細な記録が残る。ですが、これはそれを持ちません」


「証拠にならない物質ってことか」


「証拠になりにくく、証拠を消します」


「最悪だな」


「はい」


 藍沢は否定しなかった。


 真昼は、黒い破片から目を離せない。


 見たくないのに、見てしまう。


 それは黒い空白だった。


 名前を食べる空白。


 ノートの上に落ちれば、書いた文字の意味だけを抜き取る。


 写真の上に落ちれば、顔だけを黒くする。


 録音に触れれば、名前の発音だけを消す。


 名簿に触れれば、氏名欄だけを空白にする。


 そのイメージが、一瞬で流れ込んできた。


 真昼は口元を押さえた。


「白瀬真昼」


 レイが呼ぶ。


 真昼は、すぐに答えられなかった。


 胸の奥が空白になる感覚。


 自分の名前を書いたノートの表紙が、白く抜ける幻。


 天沢灯里の署名が消える幻。


 古河千景のメモ帳の名前が黒く塗り潰される幻。


 エミー・グレイス・ハーパーの名前が、ステージライトの下から抜け落ちる幻。


「白瀬真昼!」


 今度は強い。


 真昼は息を吸った。


「……御影レイ」


「戻って」


「戻ってる。戻ってるけど、嫌」


「何が」


「食べる」


「何を」


「名前を」


 言った瞬間、吐き気がこみ上げた。


 霧生がすぐに近づく。


「白瀬、下がれ」


「はい」


 真昼は素直に下がった。


 ここで逆らう余裕はなかった。


 レイも顔色が悪い。


 彼は黒い破片を見ている。


 真昼とは違う反応だ。


 恐怖。


 既視感。


 そして、記憶。


「黒刃」


 レイが呟いた。


 透子が振り返る。


「御影さん?」


「同じ気配がする」


 レイの声は低い。


「古河千景の記憶で見た刃。エミーの時の黒い穴。雨の路地。切られる瞬間の黒い線。これと同じ」


 彼は、黒い破片を見たまま言った。


「これが刃になる」


 藍沢が端末を操作する。


「Null-03刃体は、この物質を境界操作用に加工したものです。完全な固体ではありません。物質としての形状と、概念としての形状を同時に固定する必要がありました」


「意味が分かるようで分からん」


 霧生が言う。


「ナイフの形をした呪いみたいなもんか」


「非公式には」


「今日は非公式でいい」


 透子は、保管容器の前に立っていた。


 顔色は白い。


 だが、目は逸らしていない。


「これで」


 彼女は言った。


 声が少し震えた。


「これで彼方くんを切ったんですか」


 藍沢は答えなかった。


 その沈黙が、あまりにも長かった。


 真昼は、その答えのなさに胸が冷えるのを感じた。


 答えないことが、答えだった。


 透子は、目を閉じる。


 白い観測室。


 少年の手首。


 K-117。


 先生、僕の名前を呼んでください。


 Null-03。


 接続切断処置。


 救命処置。


 そして、この黒い空白。


「救うために」


 透子は呟いた。


「こんなものを」


 藍沢は、やっと口を開いた。


「当時の実験観測部は、外部記憶接続だけを切断できると考えていました」


「できなかった」


「はい」


「分かっていて使ったのでは」


 透子の声が、さらに低くなる。


 藍沢は、すぐには答えない。


「私は、当時の実験観測部ではありません」


「知っています」


「ですが、記録を見る限り、危険性は認識されていました」


 透子の手が強く握られる。


「それでも」


「はい」


「使った」


「はい」


 その二つの「はい」は、保管庫の冷たい空気よりも冷たかった。


 霧生が、二人の間に入るように立った。


「黒江。今ここで藍沢を責めても、処置は止まらん」


「分かっています」


「分かってる顔じゃない」


「分かっています」


「じゃあ名前」


 透子は、少しだけ息を止めた。


 霧生が言う。


「お前は」


「黒江透子」


「所属は」


「アガルタ市警察局、特異殺人対策室」


「今の仕事は」


「現場確認と、雨宮紗良さんの保護につながる記録の回収」


「よし」


 透子は、深く息を吐いた。


 真昼はそれを見て、自分の胸にも手を当てる。


 白瀬真昼。


 自分も確認する。


 白瀬真昼。


 記録者。


 でも、全部を飲み込む必要はない。


 黒い破片は、保管容器の中で静かに浮いている。


 それは動かない。


 動かないのに、そこだけ世界が欠けている。


 藍沢は、保管庫の脇にある記録タグを示した。


「物質サンプルには、個別番号が付与されていました」


 棚の端に、小さな金属タグがある。


 サンプル識別番号。


 NM-03-A。


 藍沢がライトを当てる。


 文字は読めた。


 次の瞬間、タグの下端が黒く滲んだ。


 藍沢の手袋が触れていたわけではない。


 ライトを当てただけだ。


 しかし、タグの文字の一部が薄くなる。


 NM-03-A。


 Mの左側が消え、数字の3が半分欠ける。


 藍沢がすぐにライトを離した。


「反応が進んでいます」


 霧生が顔をしかめる。


「ライトでか」


「観測行為でも進行することがあります」


「見るだけで消えるのか」


「はい」


「最悪の上塗りだな」


 真昼は、スマホで写真を撮ろうとして、手を止めた。


 許可されていない。


 それ以前に、撮ってはいけない気がした。


 藍沢が、市警共有用の承認済みカメラを取り出す。


「一枚だけ撮影します。記録欠落の確認です」


 霧生が頷く。


「やれ」


 藍沢が保管容器を撮影する。


 シャッター音。


 端末画面に画像が表示される。


 棚。


 保管容器。


 金属タグ。


 しかし、黒い破片があるはずの場所だけが、白く抜けていた。


 黒ではない。


 空白。


 まるで、最初からそこに何もなかったように。


 真昼は、胃の奥が冷たくなるのを感じた。


「写らない」


「写らないのではなく、撮影記録から欠落しています」


 藍沢が言う。


「違いが分からん」


 霧生が返す。


「写らない場合、影や輪郭、反射の不自然さが残ります。しかしこれは、画像内にその存在を示す痕跡がありません。容器の中は空に見える。周囲の構造にも矛盾が出ない」


「なかったことになる」


 レイが言った。


 藍沢は頷いた。


「近いです」


 なかったことになる。


 その言葉は、真昼にとって何より怖かった。


 死ぬことではない。


 忘れられることでもない。


 最初からいなかったことになる。


 それが、無記性境界物質。


 黒刃ヌルの素材。


 オメガが持つ刃。


 真昼は、喉の奥で名前を確認した。


 エミー・グレイス・ハーパー。


 古河千景。


 天沢灯里。


 真木彼方。


 御影レイ。


 白瀬真昼。


 消さない。


 消させない。


 でも、その決意さえ、この黒い破片の前では紙のように薄く見えた。


 その時、レイが一歩下がった。


 真昼はすぐに気づく。


「御影レイ」


 レイは答えない。


「御影レイ」


「……白瀬真昼」


 遅い。


 霧生が反応する。


「御影」


「大丈夫です」


「大丈夫じゃない返事だ」


 レイは、黒い破片から目を逸らした。


「刃がない」


「何?」


 真昼が聞く。


「ここに、素材はある。でも、刃がない」


 藍沢が顔を上げる。


「どういう意味ですか」


「形の記憶がない。刃になったものが、ここから抜けてる」


 レイは保管庫の奥を見た。


 棚のさらに奥。


 そこには、空の固定台があった。


 黒い金属の枠。


 内側に、細長いくぼみがある。


 ナイフ。


 いや、刃。


 そこに何かが固定されていた痕跡がある。


 だが、現物はない。


 藍沢が端末を向ける。


 保管台の識別ラベルを読み取ろうとする。


 画面にノイズが走る。


「Null-03刃体保管台」


 彼女の声が硬くなった。


「空です」


 霧生が低く言う。


「持ち出されてるのか」


「記録上は」


 藍沢は、そこで言葉を止めた。


「記録上は?」


「廃棄済みとなっています」


「廃棄された物が、どうして保管台から消えてる」


「分かりません」


「分かりませんで済むか」


 藍沢は、端末を操作する。


 だが、表示される文字は乱れていた。


 Null-03刃体。


 試作刃体。


 処置後封印。


 移管。


 廃棄。


 持出。


 記録欠落。


 単語が重なり、どれが正しい履歴なのか分からない。


 透子が、空の保管台を見つめている。


黒刃ヌル


 彼女は言った。


「ここにあった」


「現在はない」


 藍沢が言う。


「誰が持ち出した」


 霧生が聞く。


 誰も答えない。


 答えられない。


 だが、全員が同じ影を思い浮かべていた。


 黒い傘。


 黒い手袋。


 雨の夜。


 名前を消す刃。


 オメガ。


 レイは、空の保管台から目を離せない。


 真昼が彼の横に立つ。


「御影くん」


「うん」


「今、決めなくていい」


「何を」


「誰が持ち出したか。O-00が何か。彼方さんがどうなったか。今は、決めなくていい」


 レイは、少しだけ息を吸った。


「分からないまま記録する」


「うん」


「でも、残す」


「うん」


 レイは頷いた。


「白瀬真昼」


「御影レイ」


 霧生が言った。


「閉めるぞ」


 今度は、誰も反対しなかった。


 藍沢が保管庫の扉を閉じる。


 金属扉が重い音を立てて閉まった。


 ロックが一つずつ戻る。


 空気が少しだけ普通に戻った。


 匂いのない冷気が遮断される。


 真昼は、そこでようやく深く息をした。


 喉が痛かった。


 ノートを開く。


 手がまだ震えている。


 それでも書いた。


 無記性境界物質。


 記憶を保持しない。


 記録されない。


 記録を残さない。


 接触した記録の輪郭を削る。


 写真では空白化。


 記録タグの番号欠落。


 黒刃ヌルの素材。


 Null-03刃体保管台、空。


 現物なし。


 持ち出し、または記録欠落。


 最後の一行を書く時、ペン先が紙に深く沈んだ。


 黒刃は、ここにない。


 それは、すでに誰かの手にある。


 そして、その誰かは雨の夜に現れる。


 名前を消すために。


 記録を切るために。


 真昼はノートを閉じた。


 廃棄区画の奥から、水音がした。


 ぽたり。


 ぽたり。


 その音は、零番線へ続いているように聞こえた。

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