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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第三巻:真木彼方と零番線
31/82

第七章 Null-03

 そのファイルは、軽かった。


 薄い紙束。


 古い金属ケースの中で何年も眠っていたはずなのに、表紙はほとんど傷んでいない。紙の角も湿っておらず、インクの滲みも少ない。封鎖連絡層や記録沈殿層から引き上げられた資料とは違う。水に侵されていない。カビもない。まるで、そのファイルだけが時間から保護されていたようだった。


 けれど、そこに書かれた文字は、どの水濡れ資料よりも冷たかった。


 接続切断処置 Null-03

 対象 K-117


 白い観測室の中央で、誰もすぐにはページをめくれなかった。


 壁には、まだ鉛筆の跡がある。


 先生、僕の名前を――


 その先は黒く切れている。


 真昼は、表紙と壁の文字を交互に見た。


 呼んでほしい名前。


 呼べなくなった名前。


 切断された言葉。


 そして、Null-03。


 御影レイは、観測室の入口近くに立っていた。


 少しだけ壁から距離を取っている。いつものように静かだが、指先がわずかに強張っていた。彼の視線は、ファイルの表紙から動かない。


 黒江透子は、白い椅子の近くに立っている。


 さっき膝が折れかけたあと、霧生に座らされたが、今は立っていた。立っているだけで精一杯のようにも見える。けれど、彼女は自分で立つことを選んだ。


 藍沢環は、記録端末を構えている。


 青灰色の手袋をした指が、端末の縁を押さえていた。彼女の表情は崩れていない。だが、視線はいつもより硬い。


 霧生仁が、低く言った。


「開けるぞ」


 誰も止めなかった。


 霧生は、ファイルの表紙をめくった。


 紙がこすれる音が、白い観測室に響く。


 一枚目。


 処置概要。


 表の上部には、観測局の古いロゴがある。


 部署名。


 境界観測局アガルタ支局

 実験観測部

 多元記憶接続安定化試験班


 真昼は、無意識に透子を見た。


 実験観測部。


 補助研究員。


 古い入構証に書かれていた肩書きと同じ場所。


 透子は、目を逸らさなかった。


 霧生が読み上げる。


「対象識別、K-117。多元記憶流入症状、第三段階から第四段階へ移行中。自己名固定不安定。一人称混線。睡眠障害。食事摂取低下。外部記憶混入による自傷リスク上昇」


 言葉は、事務的だった。


 冷静で、整理されていて、必要なことだけが書かれている。


 だが、その一文一文の向こうに、少年がいる。


 眠れない少年。


 食べられない少年。


 自分の名前を何度も確認する少年。


 白い識別バンドを巻かれ、先生と呼び、名前を呼んでほしいと頼んだ少年。


 霧生は続けた。


「処置目的。過剰多元記憶接続の一時切断。対象者の自己境界保護。記憶流入停止による人格崩壊防止」


 真昼は、思わず息を止めた。


 人格崩壊防止。


 自己境界保護。


 言葉だけ見れば、それは救うための処置に見える。


 殺すためではない。


 壊すためではない。


 少なくとも、この紙の上では。


 藍沢が静かに言った。


「当時の記録では、これは救命処置でした」


 その声に、透子の肩がわずかに動いた。


 藍沢は続ける。


「K-117は、記憶流入の負荷に耐えられない状態へ近づいていた。自己名の再確認頻度は一日百回を超過。睡眠中にも異なる一人称発話が確認され、観測室外で自傷行動の兆候があった。記録上、処置を行わなければ対象者の自己境界崩壊が進行すると判断されています」


「記録上は、ですね」


 透子が言った。


 声は静かだった。


 けれど、その静けさの下に、鋭いものがあった。


 藍沢は頷く。


「はい。記録上は」


「救命という言葉で、何でも許されるわけではありません」


 透子は、白い椅子を見た。


 そこに少年が座っていたのだ。


 救うために。


 保護するために。


 名前の代わりに番号を巻かれて。


 記憶を切られるために。


「私は、あの時も反対しました」


 透子が言った。


 その言葉は、誰かに向けられているようで、誰にも向けられていなかった。


「記憶流入を止める必要があることは分かっていました。彼方くんは限界でした。名前を呼ぶだけでは戻れない時間が増えていた。食べられなくなって、眠れなくなって、自分の手を見て、それが自分の手か分からないと言った」


 真昼は、ノートを持つ手に力を入れた。


 透子は続ける。


「でも、Null-03は危険すぎました。外部記憶だけを切る保証がなかった。自己名まで切る可能性があった。私は、それを言いました」


「記録に残っていますか」


 藍沢が聞いた。


 透子は、少しだけ笑った。


 痛い笑いだった。


「一部だけ」


 藍沢は、端末へ何か入力した。


「確認します」


 霧生が二枚目をめくる。


 処置内容。


 そこには、さらに細かい専門用語が並んでいた。


 過剰記憶接続。

 アニマ層共鳴。

 記録層逆流。

 自己名固定補助。

 Null Material。

 Null-03刃体試験型。

 接続切断点。


 真昼は、眉を寄せる。


黒刃ヌルの原型ですか」


 透子は頷いた。


「はい」


 レイが低く言う。


「刃」


「当時は、医療器具ではなく境界操作具と呼ばれていました」


 藍沢が補足する。


「刃の形をしているのは、境界接続を“切る”という概念形状が最も安定したためです。記憶の流入を糸と見立て、それを切断する。概念としての刃です」


「でも実際に切った」


 レイの声が、少しだけ冷たくなる。


 藍沢は、彼を見る。


「はい」


「彼方の記憶を」


「外部記憶接続を切断する予定でした」


「予定」


 レイは、その言葉を繰り返した。


 真昼は、彼の横顔を見る。


 レイの中にも、いくつもの記憶が流れている。


 エミー。


 倉科悠斗。


 古河千景。


 知らない誰か。


 真木彼方。


 もし観測局がレイを先に見つけていたら。


 もし彼も白い部屋に座らされていたら。


 もし彼の手首にもK-117とは違う番号が巻かれていたら。


 真昼は、その想像をすぐに追い払った。


 でも、レイは追い払えないのかもしれない。


 霧生がページをめくる。


 処置実施記録。


 日時。


 担当者。


 立会者。


 補助研究員。


 真昼は、そこに黒江透子の名前があるのを見た。


 今より少し硬い字で、印字されている。


 黒江透子。


 名前が残っている。


 それは救いのようで、同時に残酷だった。


 透子はその場所にいた。


 記録から消えていない。


 だから、逃げられない。


 霧生は、読み上げを続けた。


「処置開始。K-117、強い不安反応。自己名確認を要求。補助研究員黒江、対象者へ呼称固定を実施」


 観測室の中に、また声が響いた。


 若い透子の声。


「真木彼方」


 少年の声。


「もう一回、お願いします」


 現在の透子が目を閉じた。


 真昼はすぐに彼女を見る。


「黒江透子」


 透子は、目を開けた。


「はい」


 戻っている。


 でも、ぎりぎりだ。


 霧生が、読むのを一瞬止めた。


「続けるか」


 透子は頷いた。


「続けてください」


「無理なら止める」


「無理ではありません」


「信用しない」


「主任」


「顔に出てる」


 透子は、少しだけ口を閉じた。


 それから、正直に言った。


「無理です。でも、続けてください」


 霧生は顔をしかめた。


「嫌な正直さを覚えやがって」


 真昼は思わず言った。


「それ、私の影響ですか」


「悪影響だ」


 レイが横で静かに言う。


「でも必要」


「お前まで」


 霧生は短く息を吐いた。


 そして、ページへ目を戻す。


「処置開始から三分後。外部記憶流入、一時的に低下。対象者呼吸安定。自己名反復成功」


 藍沢が言う。


「ここまでは、一部成功しています」


 真昼は、少しだけ希望のようなものを感じてしまった。


 成功した瞬間があった。


 彼方は、少しだけ戻れたのかもしれない。


 だが、次の行でそれは壊れた。


 霧生の声が低くなる。


「処置開始から五分後。Null-03刃体、想定切断深度を超過。対象者の自己名固定補助記録に異常。音声記録から対象者氏名の一部欠落を確認」


 真昼の指が、ノートの上で止まる。


「氏名の一部欠落」


「続けるぞ」


 霧生は、少しだけ間を置いてから読み上げた。


「六分後。対象者顔写真の輪郭不安定化。映像記録上、顔部に黒色滲出。七分後。識別バンド内面の手書き氏名、後半消失。八分後。担当者二名、対象者氏名を想起不能」


 観測室の白い壁が、少し遠くなったように感じた。


 真昼は、息が浅くなる。


 自己名。


 顔写真。


 音声。


 識別バンドの裏側。


 職員の記憶。


 名前を支えるものが、一つずつ消えていく。


 藍沢の手袋をした指が、端末の縁を強く押さえていた。


 彼女もまた、この記録を冷静には読めないのだろう。


「九分後」


 霧生は読み続ける。


「K-117、強い錯乱。発話記録、複数一人称混在。『僕』『俺』『私』『知らない』『切らないで』『切って』。補助研究員黒江、処置停止を要請」


 透子が、かすかに息を吸った。


 若い透子の声が、残響のように響く。


「やめてください。自己名が落ちています。彼は戻れなくなる」


 別の大人の声が重なる。


「外部記憶流入は低下している。処置を継続」


「対象者の名前が消えています」


「識別番号は維持されている」


「番号では戻れません!」


 真昼は、喉の奥が熱くなった。


 若い透子は、言っていた。


 番号では戻れない。


 それでも止められなかった。


 透子は、現在の自分の手を見ている。


 手袋の上からでも、指が震えているのが分かった。


 レイが、低く呟く。


「僕も」


 真昼は振り返る。


「御影くん?」


「もし、こうなったら」


 レイの目が、ファイルではなく白い椅子を見ている。


「名前が落ちて、顔が黒くなって、音声から抜けて、みんなが思い出せなくなったら」


「御影レイ」


 真昼が呼ぶ。


 彼はすぐには返さない。


「御影レイ」


 もう一度。


 レイの目が揺れる。


「……白瀬真昼」


「今ここにいるのは誰」


「御影レイ」


「K-117は?」


「真木彼方」


 言ってから、レイは息を止めた。


 真昼も止めた。


 その名前をここで呼ぶことが正しいか分からない。


 でも、出てしまった。


 観測室の白い壁が、かすかに震えた気がした。


 透子が、レイを見る。


 怒るでも、止めるでもない。


 ただ、痛そうに。


 レイは続けた。


「真木彼方は、僕じゃない」


 声は震えていた。


「でも、近い」


 真昼は頷いた。


「うん」


「近すぎる」


「うん」


「怖い」


 その言葉は小さかった。


 レイが、自分から怖いと言った。


 真昼は、胸が締めつけられる。


「怖くていい」


 真昼は言った。


「でも、御影くんはここにいる」


「白瀬は」


「白瀬真昼」


「うん」


 霧生が低く言う。


「点呼」


 観測室の白い空気を切るように、名前が呼ばれる。


「御影レイ」


「はい」


「白瀬真昼」


「はい」


「黒江透子」


「はい」


「藍沢環」


「はい」


「霧生仁」


「はい」


 五つの名前が、白い部屋に落ちた。


 壁の黒い切断跡は消えない。


 だが、少なくとも今ここにいる五人の名前は戻った。


 霧生はファイルへ目を戻す。


「十分快適な読み物じゃないが、続けるぞ」


「快適だったら困ります」


 真昼が言う。


「そうだな」


 霧生はページをめくった。


 処置終了後記録。


 そこから先は、さらに冷たかった。


「処置後一時間。K-117、発話量低下。自己名反復不能。補助研究員黒江による呼称固定への反応鈍化」


 透子が、目を閉じる。


 若い透子の声。


「真木彼方」


 沈黙。


「彼方くん」


 沈黙。


「聞こえていますか」


 沈黙。


 紙の上の記録は、沈黙すら文字にしている。


 処置後三時間。


 K-117の氏名欄、空白化。


 処置後五時間。


 顔写真、黒色滲出により識別困難。


 処置後八時間。


 音声記録から対象者名の発音部欠落。


 処置後十二時間。


 観測室カメラ映像に対象者不在時間が発生。


 処置後十八時間。


 担当職員一名、K-117を「誰だったか分からない」と証言。


 処置後二十四時間。


 K-117、観測不能状態へ移行。


 真昼は、ノートに書けなかった。


 ペン先が紙の上で止まったまま、線だけが震える。


 観測不能状態へ移行。


 それは、死んだとも、生きているとも、逃げたとも言わない言葉だった。


 全部を避ける言葉。


 便利で、冷たくて、残酷な言葉。


「つまり」


 霧生が低く言った。


「処置の結果、K-117は名前も顔も声も記録も失って、どこに行ったか分からなくなった」


 藍沢は、少しだけ目を伏せた。


「記録上は、そうです」


「その言い方、腹が立つな」


「私もです」


 藍沢の返答に、霧生がわずかに眉を上げる。


 藍沢は続けた。


「ただし、記録上としか言えません。死亡確認がない。遺体がない。失踪記録としても不完全。収容記録からも抜け落ちている。K-117は、事件としても、事故としても、死亡としても確定していません」


「だから観測不能状態」


「はい」


「便利な墓標だな」


 霧生の声は低かった。


 透子が言った。


「墓標にもなりません」


 真昼は、その言葉を聞いて胸が痛んだ。


 C-04は名前ではない。


 古河千景の時に灯里が書いていた言葉。


 K-117も、名前ではない。


 けれど、今はまだ真木彼方と書ききれない。


 呼びたいのに、呼べない。


 真昼は、その苦しさを初めて少し理解した。


 藍沢が、ページの下部に目を落とす。


「未整理記録があります」


「何だ」


 霧生が聞く。


「Null-03処置後、K-117関連記録の欠落が進行する一方で、別の識別番号が複数のログに出現しています」


「別の識別番号」


 レイが言った。


 藍沢は、紙をめくる。


 そこには、コピーが貼り付けられていた。


 古いログ画面の印刷。


 日付は、処置の翌日。


 行動ログ。


 入退室記録。


 記録層反応。


 零番線関連警告。


 その横に、赤い丸で囲まれた番号がある。


 O-00。


 真昼の背筋が冷える。


 O。


 オメガ。


 その連想はあまりにも自然で、だからこそ怖かった。


 レイの顔色が変わった。


「O-00」


 藍沢が言う。


「未整理記録です。正式分類前の仮コード。Null-03事故後、短期間だけ複数ログに出現。その後、記録保全部でも扱いが凍結されています」


「それがオメガ?」


 真昼が聞いた。


 藍沢はすぐには答えない。


「断定できません」


「でも、関係はある」


「関係がある可能性は高いです」


 レイは、ファイルを見つめていた。


 唇の色が少し薄い。


「彼方が、オメガになった?」


 その声は、誰かに聞くというより、自分の中に落ちる問いだった。


「それとも、オメガが彼方から生まれた?」


 真昼は、息を止める。


「御影くん」


「僕は」


 レイの声が揺れる。


「もしK-117が、Null-03で切られて、名前を失って、O-00が出てきたなら」


「御影レイ」


 真昼が強く呼んだ。


 レイは止まらない。


「僕も、切られたら」


「御影レイ!」


 今度は、真昼だけではなかった。


 霧生も呼んだ。


「御影レイ」


 透子も呼ぶ。


「御影さん」


 藍沢も、少し遅れて言った。


「御影レイさん」


 四つの声が重なる。


 レイの呼吸が止まる。


 それから、ゆっくり戻る。


「……白瀬真昼」


 真昼は、彼の前に立った。


「ここはどこ」


「K-117観測室」


「あなたは」


「御影レイ」


「K-117は」


 レイは、一瞬だけ目を閉じた。


 そして言った。


「真木彼方」


「O-00は」


「分からない」


「分からないままでいい」


 真昼は言った。


「今は、分からないままでいい」


 レイは、少しだけ頷いた。


「うん」


 分からないままにすること。


 それがこんなに難しいとは、以前の真昼なら思わなかった。


 でも今は分かる。


 分からないものへ無理に名前をつけると、壊れることがある。


 オメガ。


 O-00。


 真木彼方。


 それらを今、無理につなげてはいけない。


 藍沢が、ファイルの最後のページを見た。


 その動きが、ほんの少しだけ止まる。


「どうした」


 霧生が聞く。


 藍沢は、最後のページを机代わりの白い椅子の上へ置いた。


「手書きの追記があります」


 真昼は、近づいた。


 ページの下部。


 正式な印字ではない。


 赤いインク。


 急いで書かれたような文字。


 しかし、判読はできる。


 O-00、零番線へ移動。


 白い観測室の空気が、深く沈んだ。


 水音がした。


 ここに水はない。


 それでも、確かに聞こえた。


 ぽたり。


 ぽたり。


 レイが小さく言った。


「零番線」


 透子は、ファイルから目を離せない。


「彼方くんが消えたあと」


 彼女の声は、かすれていた。


「O-00が、零番線へ」


「それが彼方本人なのか、別の何かなのかは分からない」


 藍沢が言った。


「未整理記録です」


 霧生が低く言う。


「未整理で済ませるには、ずいぶん重いな」


「はい」


 藍沢は否定しなかった。


 真昼は、ノートを開いた。


 ペンを持つ。


 手が震えている。


 それでも、書いた。


 Null-03処置。


 目的:過剰記憶接続の切断。自己境界保護。救命処置として記録。


 結果:K-117氏名欄空白化。顔写真黒色滲出。音声記録から氏名発音欠落。観測不能状態へ移行。


 未整理記録:O-00。


 追記:O-00、零番線へ移動。


 最後の一行を書いた時、ペン先が止まった。


 O-00。


 零番線。


 真木彼方。


 オメガ。


 まだつなげてはいけない。


 でも、つながりかけている。


 真昼は、ノートの端に小さく書いた。


 断定しない。


 でも、残す。


 その文字を見たレイが、静かに言った。


「灯里みたい」


 真昼は、少しだけ笑った。


「うん。でも、私は私」


「白瀬真昼」


「御影レイ」


 霧生が、ファイルを閉じた。


「今日はここまでだ」


「主任」


 透子が言いかける。


 霧生は、低い声で遮った。


「ここまでだ。これ以上は読むな。黒江も、御影も、もう顔が悪い。白瀬は手が震えてる。藍沢、お前もだ」


 藍沢が、自分の手を見る。


 青灰色の手袋をした指が、確かにわずかに震えていた。


「私は」


「震えてる」


 霧生は言った。


「ここで止める。続きは地上で読む。生きて帰ってからだ」


 誰も反論できなかった。


 観測室の壁には、鉛筆の跡が残っている。


 先生、僕の名前を――


 その先は黒く切れている。


 その下で、閉じられたファイルの表紙だけが、白い部屋の光を受けていた。


 接続切断処置 Null-03

 対象 K-117


 そして、最後の追記が、全員の中に残っている。


 O-00、零番線へ移動。


 真昼は、ノートを閉じた。


 まだ呼べない名前が、地下の奥で水音に混じっている。


 ぽたり。


 ぽたり。


 それは、零番線からの返事のようにも聞こえた。

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