第六章 K-117観測室
境界観測局アガルタ支局は、雨の日に見ると病院に似ていた。
白い外壁。
無駄に広いガラス窓。
人の気配が少ない正面玄関。
濡れた敷石の上に並ぶ誘導灯。
建物の壁面には、一般企業のようなロゴも、病院名のような看板もない。ただ、小さな金属プレートがひとつ取り付けられている。
境界災害記録保全機構
アガルタ支局
その下に、英字の略称が薄く刻まれていた。
B.O.A.
境界観測局。
白瀬真昼は、その文字を見上げながら、傘の柄を握り直した。
雨は細かい。
濡れるというより、空気そのものが水になって肌へ貼りついてくるような雨だった。アガルタ市の中心部から少し離れたこの区画は、夜になると人通りが少ない。支局の周囲には古い研究施設や閉鎖された公的倉庫が並び、街灯の光もどこか青白い。
「ここ、ほんとに公的機関なんですか」
真昼が小さく言うと、隣で御影レイが答えた。
「表向きは」
「裏向きは?」
「たぶん、入ったら分かる」
「嫌な返事」
「僕も嫌」
レイは黒い傘ではなく、今日は濃紺の傘を差していた。
佳乃が新しく用意したものだという。
黒い傘を避けたのは、たぶん偶然ではない。
真昼は透明傘の向こうで、レイの横顔を見る。
彼は静かに見える。
けれど、肩の力が少しだけ硬い。
ここは観測局だ。
真木彼方が収容されていた可能性のある場所。
K-117。
Null-03。
自分も同じ道を辿ったかもしれない、という恐怖がレイの中にないはずがない。
「御影レイ」
真昼は呼んだ。
レイはすぐに答える。
「白瀬真昼」
「戻ってる?」
「まだ外」
「外でも確認」
「戻ってる」
「よし」
少し離れた場所で、霧生仁が顔をしかめた。
「観測局の玄関前で点呼の練習するな。向こうの監視カメラに記録されるだろ」
「記録されると困ります?」
真昼が聞く。
「観測局に、お前らの変な儀式として保存されるのが嫌だ」
「儀式じゃなくて安全確認です」
「言い換えが上手くなったな」
「成長しました」
「伸び方を間違えてる」
霧生は、いつものくたびれたコートの上から市警の現場用ベストを着ている。髪には雨粒がついていたが、本人は気にしていない。片手には懐中ライト、もう片方にはクリップボード。
その横には、黒江透子がいた。
彼女は灰色の防護コートを着ている。
手袋は青灰色。
胸元のポケットには、古い入構証が入っている。
境界観測局
実験観測部
補助研究員
黒江透子
若い透子の写真が入ったカード。
透子はそれを何度も確認していた。
見るたびに顔色が少しだけ変わる。
だが、目を逸らさない。
今度は、現場から逃げない。
そう言った声が、真昼の中に残っている。
「倉科さんは?」
真昼が尋ねると、霧生が親指で支局の側面を指した。
「裏口側の入口管制だ。綾瀬と御堂と一緒に通信補助。本人は中まで行く気だったが、却下した」
「納得しました?」
「するわけないだろ」
「ですよね」
「だが、今回は足場も構造も未知だ。怪我明けの案内役を連れて深部へ行けるか」
霧生の声には、少しだけ疲れが滲んでいた。
倉科悠斗は、名前を取り戻した人間だ。
そして、地下から戻ってきた人間でもある。
連れていけば役に立つ。
だが、それを理由にもう一度危険へ下ろすことを、霧生は嫌っている。
その嫌がり方が、真昼には少し嬉しかった。
「倉科さん、怒ってました?」
「怒ってた」
「想像できます」
「最後に『霧生さんは過保護ですね』って言いやがった」
「合ってますね」
「お前まで言うな」
そう言いながら、霧生は支局の正面玄関へ向かう。
自動ドアの前で、藍沢環が待っていた。
灰白色のスーツ。
薄いグレーのロングジャケット。
低くまとめた黒髪。
職員証。
青灰色の手袋。
彼女の周囲だけ、雨粒の音が少し遠く聞こえるような気がした。
「お待ちしていました」
藍沢は、淡々とした声で言った。
「市警と境界観測局による限定合同調査として、本件の入構を記録します」
「限定合同調査」
真昼が小さく繰り返す。
「便利そうな言葉ですね」
「便利です。だから範囲を明記します」
藍沢は視線を真昼へ向けた。
「白瀬真昼さん。あなたは市警協力者として、黒江先生と霧生主任の管理下に入ります。単独行動は認められません。記録媒体の使用は事前承認されたものに限ります。発見物への接触は禁止です」
「はい」
真昼は素直に頷いた。
藍沢は少しだけ目を細めた。
「以前より、返答が早いですね」
「成長しました」
霧生が横から言う。
「油断するな。一瞬だ」
「主任、ひどいです」
「実績だ」
「また実績」
藍沢は、今度はレイを見る。
「御影レイさん。あなたは記憶混線反応の危険が高い。K-117関連設備では、自己名確認を頻繁に行ってください」
「分かりました」
「必要であれば、こちらの認知安定タグを」
「いりません」
レイの返事は静かだったが、速かった。
藍沢は手を止める。
「理由を伺っても?」
「名前で確認します」
「識別タグより不安定です」
「でも、僕にはそちらのほうが戻りやすい」
藍沢は沈黙した。
少しだけ、真昼を見た。
真昼は言った。
「名前で戻します」
「あなたも反応者です」
「だからです」
藍沢は、何かを記録端末へ入力した。
「記録します。市警側判断により、認知安定タグは任意使用。現時点では本人拒否」
「なんだか拒否って書かれると強そうですね」
真昼が言うと、霧生がため息をついた。
「強くない。面倒なだけだ」
「面倒でも、戻れる方法がいいです」
レイが静かに言った。
霧生は、それ以上言わなかった。
藍沢は、最後に透子を見た。
「黒江先生」
「はい」
「旧入構証は、あなたの過去の権限を利用するものです。扉が開いたとしても、それは現在の観測局があなたを許可したという意味ではありません」
「承知しています」
「また、旧認証が作動した場合、廃棄区画内の記録があなたを当時の所属で認識する可能性があります」
「実験観測部補助研究員として、ですか」
「はい」
透子の表情がわずかに硬くなる。
藍沢は続けた。
「その場合、過去の記録音声、映像、環境再現が起動する恐れがあります」
「つまり、過去に飲まれる可能性がある」
霧生が言う。
「その表現は非公式ですが、概ね合っています」
「非公式で十分だ」
霧生は透子を見た。
「黒江。今なら戻れる」
「戻りません」
「だろうな」
「はい」
「なら、名前を返せなくなったら俺が帰す」
「お願いします」
「だから少しは嫌がれ」
透子は、ほんのわずかに笑った。
「嫌です」
「遅い」
そのやり取りに、真昼は少しだけ息を吐いた。
緊張は消えない。
それでも、ここには名前を呼んでくれる人がいる。
それが大事だった。
藍沢が自動ドアの認証端末へ職員証をかざす。
電子音。
玄関のロックが開く。
境界観測局アガルタ支局の中は、外から見た印象よりもさらに静かだった。
*
支局のロビーは広かった。
広すぎる、と真昼は思った。
天井が高く、白い壁には余計な掲示物がない。受付カウンターはあるが、職員の姿は見えない。床は黒に近い灰色の石材で、歩くたびに靴音が小さく反響する。
壁際には、観測局の歴史を紹介する展示パネルのようなものが並んでいる。
境界災害。
記録保全。
都市記憶。
失踪者索引。
災害資料アーカイブ。
どれも、表向きにはまともな言葉だった。
だが、真昼にはその奥に別の言葉が見えた。
名前欠落。
収容。
同魂者。
Null-03。
零番線。
藍沢はロビーを横切り、職員用ゲートへ向かった。
ゲートの前に警備員が二人立っている。
藍沢が手続きの説明を始めると、霧生は真昼たちを少し下がらせた。
「ここから先、余計なことは言うな」
「私を見ながら言いました?」
「お前しか見てない」
「信用がない」
「あると思ってたのか」
「少し」
「ない」
真昼はレイを見る。
「御影くんは?」
「信用はある」
「え」
「勝手に動く方向では」
「何その限定」
「大事」
霧生がうなずく。
「御影は倒れる前に顔に出る。白瀬は倒れる前に走る」
「ひどい分析」
「現場分析だ」
レイが真顔で言う。
「当たってる」
「御影くんまで」
「保全のため」
「便利な言葉」
「便利だから」
そんなやり取りをしている間にも、藍沢は淡々と手続きを進めていた。
やがて、ゲートが開く。
職員用の廊下へ入る。
ロビーとは違い、ここから先は見学者向けの顔をしていなかった。
白い壁は同じだが、扉には番号だけが振られている。
RPD-1。
SCM-2。
EOD-3。
DZM-0。
真昼は小さくメモする。
藍沢が振り返った。
「白瀬さん。記録媒体は承認済みの紙ノートのみです」
「頭の中で記録してます」
「それは制限できません」
「ですよね」
「ただし、発言には注意してください」
「はい」
真昼は、口を閉じた。
霧生が小声で言う。
「できるのか」
「努力します」
「不安だ」
廊下の奥に、エレベーターがあった。
ただし、通常のエレベーターではない。
扉は分厚く、金属の縁が二重になっている。横の操作盤には、階数表示ではなく、アクセス区分が並んでいた。
地上管理層。
記録保全部。
収容管理層。
旧連絡区画。
地下廃棄区画。
最後のボタンだけ、赤い線で封印されている。
藍沢は職員証をかざした。
記録端末が短く鳴る。
しかし、地下廃棄区画のボタンは点灯しない。
「やはり、現行権限では開きません」
藍沢は言った。
透子は、胸元から古い入構証を取り出した。
透明なカードホルダーの中に、若い透子の写真がある。
それを見た瞬間、廊下の空気が少し変わった気がした。
真昼は思わず身構える。
レイもわずかに目を細めた。
透子は、入構証を操作盤へ近づけた。
古いカードと新しい端末。
時代の違う二つのものが、数秒間、沈黙して向き合う。
電子音。
低い。
警告ではない。
認証音でもない。
もっと古い機械が、長い眠りから目を覚ましたような音。
操作盤の表示が乱れた。
地下廃棄区画の封印表示が、白く点滅する。
次に、画面へ文字が浮かんだ。
旧権限照合中。
EOD補助認証確認。
黒江透子。
実験観測部。
補助研究員。
透子の指が、カードを持つ手元で震えた。
真昼はすぐに呼ぶ。
「黒江透子」
透子の肩が揺れる。
彼女は振り返らないが、答えた。
「はい」
霧生も続ける。
「黒江。今どこだ」
「境界観測局アガルタ支局、職員用エレベーター前」
「お前は」
「黒江透子」
「今の所属は」
透子は、一瞬だけ黙った。
画面には、まだ昔の所属が表示されている。
実験観測部。
補助研究員。
それでも、透子は言った。
「アガルタ市警察局、特異殺人対策室」
霧生が頷く。
「よし」
エレベーターの扉が開いた。
中は暗い。
古い照明が、ゆっくり点灯する。
藍沢が先に入る。
次に霧生。
透子。
真昼。
レイ。
扉が閉まる直前、無線から倉科悠斗の声が入った。
『入口管制、通信確認。映像、拾えてます』
霧生が答える。
「倉科、そっちは?」
『旧連絡区画入口で待機中です。行きたくないと言えば嘘になりますけど、今日は行きません』
「よし。成長したな」
『言い方が白瀬さんみたいで嫌です』
「俺も嫌だ」
真昼が小声で言う。
「二人とも失礼」
エレベーターが下降を始めた。
身体が少しだけ浮く感覚。
表示は階数ではない。
地上管理層。
記録保全部。
収容管理層。
旧連絡区画。
そして、地下廃棄区画。
降りるほど、空気が冷たくなる。
真昼の耳に、遠い水音が聞こえ始めた。
ぽたり。
ぽたり。
レイが少しだけ目を閉じる。
「御影レイ」
真昼が呼ぶ。
「白瀬真昼」
「戻ってる?」
「戻ってる。まだ」
「まだ禁止」
「分かってる」
エレベーターが止まった。
扉が開く。
地下廃棄区画は、白くなかった。
通路は灰色だった。
古い病院の裏側と、地下鉄の保守通路と、研究施設の廊下を無理に接続したような場所だった。天井は低く、壁には古い配線が這っている。床にはところどころ水が染み出し、非常灯が赤く点滅していた。
壁には、廃棄済みを示す黄色いテープがいくつも貼られている。
だが、その一部は剥がされていた。
誰かが、最近通ったように。
霧生が懐中ライトを点ける。
「点呼」
地下廃棄区画の入口で、名前が呼ばれた。
「御影レイ」
「はい」
「白瀬真昼」
「はい」
「黒江透子」
「はい」
「藍沢環」
「はい」
「霧生仁」
「はい」
藍沢が少しだけ霧生を見た。
「私もですか」
「ここにいる奴は全員だ」
「合理的です」
「今さら気づいたか」
「いえ。記録しました」
「記録するな」
真昼は少しだけ笑いそうになったが、すぐに口を閉じた。
通路の奥に、白い扉が見えた。
他の扉とは違う。
そこだけ、異様に白い。
新しい白ではない。
何度も消毒され、何度も塗り直され、何かを隠すために白く保たれてきたような色。
透子の足が止まった。
レイも、同じタイミングで呼吸を止めた。
藍沢が端末を確認する。
「旧観測室群です。K区画。対象識別 K-101からK-130までの観測履歴あり」
真昼の喉が乾く。
「K-117は」
藍沢は、白い扉を見た。
「この奥です」
*
K-117観測室の扉は、旧入構証で開いた。
透子がカードをかざすと、扉の横の認証ランプが点滅した。
赤。
黄。
白。
そして、音もなくロックが外れる。
霧生が先に扉へ手をかけた。
「黒江、後ろにいろ」
「私が」
「後ろだ」
霧生の声が低い。
透子は反論しかけて、やめた。
霧生が扉を開ける。
光が漏れた。
部屋の中は、白かった。
あまりにも白かった。
地下廃棄区画の灰色の通路から覗くと、その白さは現実の部屋ではなく、記憶の中に切り取られた空白のように見えた。
白い壁。
白い床。
白い天井。
窓はない。
中央に、固定式の椅子がある。
椅子の横には、古い記録端末。
壁の隅に、壊れたカメラ。
天井には蛍光灯の残骸。
部屋は使われていない。
使われていないはずなのに、誰かがついさっきまでいたような気配がある。
真昼は、足を踏み入れた瞬間、胸の奥が冷えた。
ここには名前がない。
いや。
名前を呼ぶための部屋だったのに、名前が残っていない。
そう感じた。
レイは入口で立ち止まっている。
顔色が悪い。
「御影レイ」
真昼が呼ぶ。
「白瀬真昼」
「入れる?」
「入る」
「無理なら」
「無理なら言う」
「ほんと?」
「言う」
レイは小さく頷いて、中へ入った。
透子は最後に入った。
その瞬間、部屋の白さが変わった。
いや、変わったように見えた。
白い壁に、何かが重なる。
若い透子。
白いジャケット。
記録端末。
不安を隠しきれない表情。
椅子に座る少年。
細い手首。
白い識別バンド。
K-117。
真昼は、まばたきをした。
幻は消える。
だが、透子は消えていないものを見ていた。
彼女の目は、部屋の中央の椅子へ固定されている。
「黒江さん」
真昼が呼んでも、透子はすぐには反応しなかった。
藍沢が壁の端末を操作する。
「注意してください。旧環境記録が残存している可能性があります」
「旧環境記録?」
真昼が聞く。
「観測室内で記録された音声、映像、気圧、照明、認知安定用音声などが、境界現象により空間側へ焼き付いている状態です」
「つまり」
霧生が言う。
「幽霊みたいなもんか」
「非公式には」
「もうそれでいい」
部屋の奥で、音がした。
カリ。
鉛筆の先が壁を擦るような音。
全員が振り返る。
白い壁の一部に、黒い筋があった。
落書きではない。
爪で引っかいた跡でもない。
鉛筆。
薄い黒鉛の跡。
真昼は近づく。
触れない距離で、文字を見る。
先生、僕の名前を――
その先が、黒く切れていた。
書きかけなのか。
消えたのか。
切られたのか。
分からない。
だが、その文字を見た瞬間、部屋の空気が変わった。
レイが息を詰める。
透子が、一歩後ろへ下がった。
白い椅子の近くから、声が聞こえた。
若い女性の声。
透子の声だった。
今より少し高く、今より少しだけ迷いが多い。
「大丈夫。あなたは、真木彼方です」
透子の顔から血の気が引いた。
真昼は、心臓を掴まれたような感覚に襲われた。
録音ではない。
スピーカーは動いていない。
でも、声は確かに部屋の中で響いた。
若い透子。
彼方を呼ぶ声。
「もう一回、お願いします」
少年の声。
真昼は、その声を知っている。
古い録音端末から聞いた声。
震えていて、細くて、それでも必死に自分を繋ぎ止めようとしていた声。
「真木彼方」
若い透子の声が、また響く。
「僕は、真木彼方」
少年の声。
「僕は……まだ、僕ですか」
現在の透子が、片手で口元を押さえた。
霧生がすぐに近づく。
「黒江」
透子は答えない。
彼女は白い椅子を見ている。
そこに今も少年が座っているかのように。
「黒江透子」
霧生が強く呼ぶ。
透子の肩が震えた。
しかし、戻らない。
若い透子の声が続く。
「彼方くん、私を見て」
少年の声。
「先生、名前を呼んでください」
「真木彼方」
「もう一回」
「真木彼方」
現在の透子の膝が折れた。
霧生が支えるより早く、彼女は壁に手をついた。
呼吸が乱れている。
いつもの冷静な黒江透子ではない。
ここにいるのは、過去の観測室に置き去りにされた若い研究員だった。
真昼の胸が痛む。
大人だと思っていた。
支えてくれる人だと思っていた。
レイや真昼を観測局から守り、霧生と並んで現場に立つ人。
でも、今の透子は違う。
名前を呼び続けたのに、救えなかった人。
その部屋に戻ってきてしまった人。
真昼は、足が動く前に声を出していた。
「黒江透子!」
観測室の白い壁が震えたように見えた。
透子の目が、わずかに動く。
真昼はもう一度呼ぶ。
「黒江透子!」
自分でも驚くほど強い声だった。
図書館で雨宮紗良の名前を避けた時とは違う。
今は、呼ぶ必要があった。
ここにいるのは、過去の補助研究員ではない。
K-117を救えなかった若い職員だけではない。
今の黒江透子。
市警の分析官。
レイと真昼を番号にしないと決めた人。
だから呼ぶ。
「黒江透子! ここは今です!」
霧生が透子の肩を支える。
「黒江。聞こえるか」
レイも、少し掠れた声で言う。
「黒江透子」
藍沢が続いた。
「黒江先生。現在時刻を確認してください」
透子の呼吸が、少しずつ変わる。
早く、浅かった呼吸が、一度止まる。
そして、深く吸い直す。
彼女は目を閉じた。
開く。
白い椅子を見る。
壁の文字を見る。
そして、真昼を見る。
「……白瀬さん」
「はい」
「ここは」
「境界観測局アガルタ支局、地下廃棄区画。K-117観測室」
「私は」
「黒江透子」
真昼は言った。
「アガルタ市警、特異殺人対策室の黒江透子です」
透子の目に、少しだけ現在の光が戻る。
「ありがとうございます」
声はまだ震えていた。
だが、戻ってきた。
霧生が低く言う。
「立てるか」
「はい」
「嘘なら座れ」
「少し、座ります」
「珍しく正直でよろしい」
霧生は、透子を壁際の簡易椅子に座らせた。
真昼は、まだ心臓が速い。
大人を名前で呼び戻した。
それが自分の中に、不思議な重さで残る。
記録者というのは、死者の名前を残すだけではない。
今ここにいる人の名前を、現在へ戻すことでもあるのかもしれない。
レイが、壁の文字を見ていた。
先生、僕の名前を――
その先の黒い切断跡。
「御影レイ」
真昼が呼ぶ。
レイは、少し遅れて答えた。
「白瀬真昼」
「見えてる?」
「少し」
「何が」
「白い部屋。手首。識別バンド。鉛筆。壁に書こうとしてる手」
「彼方さん?」
「たぶん。でも、弱い。ここには、もういない」
その言葉に、透子が顔を上げた。
レイは、ゆっくり続ける。
「痕跡だけ。声と、壁と、椅子。本人の記憶じゃない。部屋に残った形」
「ここには、もういない」
透子が繰り返す。
その声には、痛みと安堵が混ざっていた。
ここにいた。
だが、ここにはもういない。
真木彼方はこの部屋で苦しみ、名前を呼ばれ、壁に書こうとした。
でも、今この椅子に座っているわけではない。
それは残酷であり、救いでもあった。
藍沢が記録端末を操作している。
「室内残存記録、強いです。特に音声と筆跡。K-117観測時の環境記録が、空間に残存しています」
「回収できますか」
霧生が聞く。
「一部は。ただし、不用意に再生すべきではありません」
「もう聞こえたけどな」
「それは制御外の再生です。だから危険です」
藍沢は、壁の文字を撮影し、端末へ記録する。
真昼も、自分のノートに書いた。
先生、僕の名前を――
その先は黒く切れている。
書きながら、手が止まる。
呼びたい。
真木彼方。
でも、ここで何度もその名前を声に出すことが正しいのか分からない。
真昼は、ペン先を紙から離した。
今は、書く。
でも、呼ばない。
その選択が、少しだけ分かってきた気がした。
「床下」
レイが言った。
全員が彼を見る。
レイは、観測室の中央にある白い椅子の下を見ている。
「何かある」
「見えるのか」
霧生が聞く。
「見えるというより、そこだけ切れてない」
「どういう意味だ」
「他は黒く欠けてる。でも、椅子の下だけ紙の感触がある」
藍沢が端末で床をスキャンする。
眉をわずかに動かした。
「床板下に空間があります」
「隠し収納か」
霧生が膝をつく。
「観測室に床下収納なんてあるのか」
「通常はありません」
藍沢は答える。
「ただし、事故後に緊急保全された資料が隠された可能性はあります」
「隠したのは誰だ」
誰も答えられなかった。
透子が立ち上がろうとする。
霧生が止めた。
「座ってろ」
「でも」
「俺が開ける」
「主任」
「今のお前に床下を覗かせるのは嫌だ」
透子は、反論しなかった。
霧生は慎重に床板の継ぎ目を確認する。
藍沢が工具を取り出した。
「観測局備品です」
「何でも持ってるな」
「記録保全官なので」
「便利な職名だ」
霧生と藍沢が、椅子の下の床板を外す。
白い床の一部が持ち上がる。
その下に、薄い金属ケースがあった。
水は入っていない。
埃も少ない。
まるで、そこだけ時間から隔離されていたようだった。
藍沢がケース表面のラベルを読む。
「EOD-旧処置記録。封印状態」
「開けられるか」
「黒江先生の旧入構証が必要です」
透子は、黙って入構証を差し出した。
藍沢が認証端末を接続する。
古い入構証を読み込ませる。
電子音。
ケースのロックが外れた。
霧生が蓋を開く。
中には、紙のファイルが一冊入っていた。
厚くはない。
むしろ、薄い。
資料の大半は失われているのかもしれない。
表紙には、黒い文字が印字されていた。
接続切断処置 Null-03
対象 K-117
部屋の中の空気が、完全に止まった。
透子は立ち上がれなかった。
レイは、目を逸らせなかった。
真昼は、ノートを握りしめる。
霧生は低く呟いた。
「出やがったな」
藍沢は、表紙を見つめたまま言った。
「これは、記録保全部の保全対象外です」
「つまり?」
真昼が聞く。
「実験観測部の旧処置記録です」
「Null-03」
レイが、小さく言った。
その声に、部屋の白い壁が一瞬だけ暗く見えた。
透子は、やっと声を出した。
「ここから先が」
彼女の声は掠れていた。
「彼方くんが消えた理由です」
誰も、すぐにはページを開けなかった。
白い観測室の中で、壁の文字だけが残っている。
先生、僕の名前を――
その先は、まだ黒く切れていた。




