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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第三巻:真木彼方と零番線
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第五章 境界観測局アガルタ支局

 白い識別バンドは、保全ケースの中で乾き始めていた。


 記録沈殿層から引き上げられた時、それは水を含んでいた。


 白かったはずの樹脂は灰色に濁り、内側には細かな傷が無数に走っている。表面に印字された番号だけが、妙にはっきり残っていた。


 K-117。


 その三文字と数字の組み合わせは、名前ではない。


 だが、名前よりも長く残っていた。


 黒江透子は、特異殺人対策室の鑑識用小会議室で、その保全ケースを見つめていた。


 部屋は白い。


 病院のような白ではない。


 市警の備品特有の、少し黄ばんだ白だ。


 長机。

 壁際のスチール棚。

 資料用モニター。

 古い空調の音。

 薬品と紙とコーヒーの匂い。


 それでも、透子には別の部屋が重なって見えた。


 もっと白い部屋。


 窓のない観測室。


 壁に取り付けられた記録用カメラ。


 細い腕に巻かれた識別バンド。


 その表面に書かれた番号。


 K-117。


 そして、何度も聞いた声。


 先生、僕の名前を呼んでください。


 透子は瞬きをした。


 小会議室に戻る。


 目の前には、保全ケース。


 中には識別バンド。


 裏側には、かすかに残った鉛筆の跡。


 真木――


 そこまでしか読めない。


 そこから先がない。


 彼方、とはまだ書けない。


 書いてはいけないわけではない。


 透子の中には、その名前がある。


 何度も呼んだ。


 何度も呼び損ねた。


 だが、公式記録にそれを書くには、まだ足りない。


 足りない、という言葉が嫌だった。


 人ひとりの名前に、証拠が足りない。


 そんな言い方を、観測局時代の自分は何度も聞いた。


 そして、何度も従った。


 扉が開いた。


 霧生仁が入ってくる。


 手には缶コーヒーを二本持っていた。片方を透子の前に置き、もう片方を自分で開ける。プルタブの音が、小会議室に妙に大きく響いた。


「飲め」


 透子は缶を見た。


「ありがとうございます」


「礼はいい。飲め」


「はい」


 透子は缶を開けた。


 甘くないコーヒーだった。


 苦味が舌に広がる。


 その苦さで、少しだけ現在に戻れる。


 霧生は椅子に座らなかった。


 壁際に立ち、識別バンドの保全ケースを見下ろしている。


「黒江」


「はい」


「お前、顔が現場じゃない」


 透子は、缶を持つ手を止めた。


「どういう意味でしょう」


「今の顔は捜査官じゃない。過去の関係者の顔だ」


 霧生の声は低かった。


 怒鳴ってはいない。


 だからこそ、逃げられない。


「否定はしません」


「否定しろ。少しは」


「できません」


 透子は、識別バンドを見た。


「これは、私の過去です」


「だから問題なんだよ」


 霧生は缶コーヒーを一口飲み、顔をしかめた。


「不味いな」


「主任が買ってきたのでは」


「自販機が悪い」


「責任転嫁です」


「そうだよ。今はそういう無駄話を挟まないと、お前がそのケースに引っ張られっぱなしになる」


 透子は、返事をしなかった。


 霧生はそれを見て、ため息をつく。


「次に何をするつもりだ」


「境界観測局アガルタ支局へ行きます」


 即答だった。


 自分でも、少し早すぎると思った。


 霧生は、分かっていたという顔をした。


「却下」


「主任」


「却下だ」


「必要です」


「お前にはな」


「事件にも必要です」


「そこを混ぜるな」


 霧生の声が少し低くなる。


「黒江。K-117の識別バンドが出た。零番線の切符にK-117の文字があった。雨宮紗良の夢に先生って声が出た。分かる。つながってる。だから調べる必要はある。だが、お前が真っ先に観測局へ乗り込む理由にはならん」


「乗り込むわけではありません」


「同じだ。お前は今、捜査じゃなくて、昔の自分を殴りに行こうとしてる」


 透子は、缶を机に置いた。


 音を立てないようにしたつもりだった。


 それでも、少し響いた。


「私は、殴りに行きたいわけではありません」


「なら何だ」


「確認しに行きます」


「何を」


「彼方くんが、どこで消えたのか」


「知ってどうする」


「今、同じことが起きようとしているなら、止めます」


「お前一人で?」


「一人ではありません」


 霧生が目を細めた。


「レイと白瀬を連れていくつもりか」


「必要があれば」


「やめろ」


 即座だった。


「御影はK-117に近すぎる。白瀬は記録沈殿層で沈みかけた。倉科は怪我明け。お前は過去に足を取られてる。全員危ない。現場指揮官として許可できるか」


「ですが、雨宮紗良さんは待てない可能性があります」


「それは分かってる」


「零番線関連記録は最高制限対象です。観測局アガルタ支局の地下廃棄区画に、K-117観測室とNull-03処置記録が残っている可能性があります」


「だから、まず書類で開示請求する」


「間に合いません」


「じゃあ令状」


「観測局は、市警の通常令状で地下廃棄区画を開けません」


「腹立つな」


「同感です」


「同感してる場合か」


 霧生は苛立ったように髪を掻き上げた。


 その仕草には、疲労が滲んでいる。


「黒江。お前が行きたいのは分かった。だがな、現場から生きて帰すのが俺の仕事だ。過去と差し違える顔の奴を地下へは下ろせん」


 透子は、識別バンドを見た。


 K-117。


 真木――


 彼方。


 その先を書けないまま、何年も経った。


 何年も。


 そして今、また同じ番号が、水の底から上がってきた。


「主任」


 透子は、静かに言った。


「私は、あの時、現場から逃げました」


 霧生の表情が変わる。


 透子は続けた。


「実際にその場を走って逃げたわけではありません。事故の直後も処置室にいました。報告書を書きました。聴取にも応じました。観測局を辞める手続きも、必要な形では整えました」


 言葉は、思ったより滑らかに出てきた。


 長い間、自分の中で何度も繰り返していたからだ。


「でも、私は現場から逃げました。K-117を、真木彼方という名前で最後まで追わなかった。観測不能状態へ移行、という言葉を受け入れた。受け入れたふりをした。あの時の私は、自分にできる限界を理由にして、見に行くことをやめた」


 透子は、霧生を見た。


「今度は、私が現場から逃げない番です」


 小会議室は静かになった。


 空調の音だけが残る。


 霧生はしばらく何も言わなかった。


 やがて、短く息を吐く。


「言うと思った」


「止めますか」


「止める」


「それでも行きます」


「だから面倒なんだよ、お前らは」


「お前ら?」


「御影も白瀬も倉科も、お前もだ。行くって決めた顔をする奴ばっかりだ」


 霧生は椅子を引いて、ようやく座った。


「条件がある」


「はい」


「市警の管理下で行く。単独行動なし。御影と白瀬を連れていくなら、俺も行く。倉科は入口待機か、行っても浅い場所まで。藍沢環と正式に接触する。観測局の敷地内で無茶をすれば、向こうの思うつぼだ」


 透子は頷いた。


「承知しました」


「あと」


「はい」


「お前が過去に飲まれたら、俺が止める」


「お願いします」


「場合によっては、引きずってでも帰す」


「承知しています」


「承知するな。少しは嫌がれ」


「嫌です」


「遅い」


 霧生は、苦い顔をして缶コーヒーを飲んだ。


「藍沢には?」


「すでに連絡を入れています」


「早いな」


「おそらく、向こうから来ます」


「止めに?」


「はい」


「止まるのか」


「いいえ」


「だろうな」


 その時、小会議室の外で足音が止まった。


 ノック。


 規則正しい二回。


 透子と霧生は同時に扉を見る。


「噂をすれば、か」


 霧生が立ち上がる。


「どうぞ」


 透子が言った。


 扉が開く。


 藍沢環が立っていた。


     *


 藍沢環は、雨の匂いを連れて入ってきた。


 灰白色のスーツ。


 薄いグレーのロングジャケット。


 首元の職員証。


 低い位置でまとめた黒髪。


 青灰色の手袋。


 手には透明な資料ケースを持っている。


 彼女は、部屋へ入るなり、まず保全ケースの中の識別バンドを見た。


 表情はほとんど動かない。


 だが、視線の焦点だけが鋭くなる。


「K-117」


 藍沢は、番号を読んだ。


 名前ではない。


 番号。


 透子の胸に、少しだけ痛みが走る。


「藍沢さん」


「黒江先生。霧生主任」


 藍沢は、丁寧に一礼した。


「境界観測局記録保全部、藍沢環です。本日は、市警側による零番線関連未承認調査の中止要請に参りました」


 霧生が露骨に顔をしかめた。


「最初からそれか」


「正式な用件ですので」


「堅いな」


「職務です」


「職務で止まる相手に見えるか」


 藍沢は透子を見た。


「見えません」


「分かってて来たんだな」


「はい」


 真昼とレイが小会議室へ入ってきたのは、その直後だった。


 透子が呼んだわけではない。


 しかし、綾瀬から「藍沢環が来た」と聞いたらしく、旧新聞部室から市警へ戻っていた二人が顔を出した。


 真昼は、藍沢を見るなり少しだけ身構えた。


「藍沢さん」


「白瀬真昼さん」


 藍沢は、真昼の名前を呼んだ。


 第二巻の時より、わずかに自然だった。


 真昼もそれに気づいたらしい。


「今、名前で呼びましたね」


「必要な場面では呼びます」


「必要じゃない場面では?」


「控えます」


「やっぱり藍沢さんです」


「あなたも変わりませんね」


「成長しました」


「そのようです」


 真昼は、少しだけ虚を突かれた顔をした。


 褒められるとは思っていなかったのだろう。


 レイは、藍沢の手元の資料ケースを見ている。


「資料を持ってきたんですか」


「正式には、中止要請の文書です」


 藍沢は答えた。


「非正式には?」


 レイが重ねる。


 藍沢は、少しだけ沈黙した。


 それから、資料ケースを机に置いた。


「記録保全部としては、零番線関連記録の無許可調査は推奨できません」


「でしょうね」


 真昼が言う。


「ですが」


 藍沢は続けた。


「雨宮紗良さんの症状、無名切符、K-117識別バンド、記録沈殿層からの回収物。この組み合わせは、既存の保全手順だけでは処理できません」


 透子が静かに聞く。


「観測局は、雨宮紗良さんを収容対象にしますか」


「記録保全部としては、現時点で収容は推奨しません」


「他部署は?」


「収容管理部は検討するでしょう」


 部屋の空気が冷えた。


 真昼が即座に言う。


「収容って、雨宮さんを?」


「可能性の話です」


「名前が書けなくなっただけで?」


「名前欠落が進行し、零番線への接近兆候がある場合、保護名目で一時収容が提案される可能性があります」


「保護名目」


 真昼の声が硬くなる。


「便利な言葉ですね」


「便利です。だから危険です」


 藍沢は、静かに言った。


 真昼が言葉を失う。


 藍沢は、資料ケースから薄いファイルを取り出した。


「観測局は一枚岩ではありません。あなた方が見ている境界観測局は、外から見える一部にすぎません」


 彼女は、机の上に四枚の紙を並べた。


 記録保全部。


 収容管理部。


 実験観測部。


 廃棄区画管理室。


「大きく分ければ、この四系統が今回の件に関与します」


 藍沢は、まず自分の所属に指を置いた。


「記録保全部。私の部署です。目的は、消えかけた記録を保存すること。手段は、番号化、索引化、保全ログ、欠落進行の監視。私たちは、名前より識別番号を優先します」


「知ってます」


 真昼が言う。


「白瀬さん」


「すみません。続けてください」


 藍沢は次に、収容管理部を指した。


「収容管理部。境界現象に巻き込まれた人物、または現象を拡大させる可能性のある人物を隔離・保護します。彼らは本人の安全を理由に動きますが、本人の自由意思を後回しにする傾向があります」


 透子の表情が硬くなる。


 藍沢は、三枚目に指を移した。


「実験観測部。かつて黒江先生が所属していた部署です」


 真昼は、透子を見た。


 透子は表情を変えなかった。


 だが、肩がわずかに強張った。


「実験観測部は、境界現象を観測・解析し、制御技術を開発する部署です。Null-03、無記性境界物質、同魂者の過剰記憶接続遮断。このあたりの旧計画は、この部署の管轄でした」


 レイが低く言う。


「真木彼方は」


 藍沢は、すぐには答えなかった。


「K-117は、実験観測部の関与を受けています」


「関与」


 レイの声が少し冷える。


「便利な言葉ですね」


 藍沢は、レイを見た。


「はい。便利です。そして、十分ではありません」


 彼女は最後の紙を指した。


「廃棄区画管理室。現在は表向き機能停止しています。過去に使用された観測室、処置室、破棄予定記録、失敗した試験体記録、封鎖対象物品を管理していた部門です。地下施設の一部を管轄していました」


 霧生が腕を組む。


「つまり、K-117観測室はそこか」


「観測室自体は実験観測部の設備です。ですが、事故後に廃棄区画へ移管されています」


「事故後、ね」


 霧生の声に皮肉が混じる。


「便利な処分場だな」


「否定しません」


 藍沢は言った。


 その声は、わずかに硬かった。


「私は記録保全部の人間です。実験観測部でも、収容管理部でもありません。廃棄区画管理室の権限も持ちません」


「なら、なぜ資料を持ってきたんですか」


 真昼が聞いた。


 藍沢は、ほんの少しだけ視線を伏せた。


「古河千景の件があります」


 その名前が出た瞬間、真昼の胸が熱くなる。


 C-04ではない。


 古河千景。


 藍沢がその名前を口にした。


「今、言いましたね」


 真昼は言った。


「古河千景って」


「市警側記録と現場遺留品により、記録保全部でも暫定照合名として扱われ始めています」


「暫定」


「正式訂正には時間がかかります」


「でも、言った」


「はい」


 藍沢は、真昼を見る。


「白瀬さん。名前で守れる記録があることは、認めます」


 真昼は黙った。


 藍沢の声は静かだった。


「ですが、名前で壊れる記録もあるのです」


「雨宮さんみたいに?」


「彼女も、可能性の一つです。そして、真木彼方も」


 透子の指が、机の縁に触れた。


 藍沢は続ける。


「私は番号を信じています。ですが、番号だけで守れなかった記録があることも知っています」


 部屋の空気が、少しだけ変わった。


 藍沢環という人物は、真昼にとって苛立たしい存在だった。


 番号を信じ、名前を警戒し、形式で人を守ろうとする人。


 けれど今、彼女はその形式の限界を認めた。


 それは、彼女にとって簡単なことではないはずだった。


「非公式資料とは?」


 透子が聞いた。


 藍沢は、資料ケースの底から封筒を取り出した。


 灰色の封筒。


 封印シールは剥がされていない。


 だが、端だけが少し古びている。


「地下廃棄区画へ入る方法です」


 霧生が目を細める。


「止めに来たんじゃなかったのか」


「正式には、止めに来ました」


「非正式には」


「中へ入らなければ、雨宮紗良さんの進行も、K-117の再浮上も止められない可能性があります」


「観測局の人間がそれを言うのか」


「記録保全部の人間として言っています」


 藍沢は、封筒を透子の前へ置いた。


「地下廃棄区画への正規ルートは、現在凍結されています。ですが、旧入構証を利用した非常用アクセスが一つ残っています」


「旧入構証」


 透子の声が、少しだけ低くなる。


 藍沢は頷く。


「廃棄区画は、かつて実験観測部の一部職員が直接管理していました。事故後、多くの入構権限は削除されましたが、完全には消えていません。むしろ、消せなかった」


「なぜ」


「消すと、記録上その職員がそこにいた事実まで欠落する恐れがあったためです」


 真昼は、ぞっとした。


 入構権限を消すだけで、その人がいた記録まで欠ける。


 観測局が番号を信じる理由が、少しだけ分かってしまう。


 それがまた嫌だった。


 藍沢は言った。


「黒江先生。あなたの旧入構証が残っています」


 透子は、封筒を見たまま動かなかった。


 霧生が横から言う。


「開けるぞ」


「……はい」


 霧生は封筒を開けた。


 中から、透明なカードホルダーが出てくる。


 古い入構証。


 端は少し黄ばみ、表面には細かな傷がある。


 そこに、若い女性の写真があった。


 今より少し髪が長い。


 表情は硬く、目元にまだ現在ほどの疲労はない。


 白衣ではなく、観測局の薄いグレーのジャケットを着ている。


 写真の下に、文字。


 境界観測局

 実験観測部

 補助研究員

 黒江透子


 真昼は、息を止めた。


 透子の顔色が、はっきり変わっていた。


 白くなる、というより、血の気が奥へ引く。


 彼女は、何年も前の自分を見ている。


 K-117がまだ「彼方くん」と呼ばれていた頃の自分。


 Null-03事故の前の自分。


 現場から逃げる前の自分。


 藍沢は静かに言った。


「この入構証で、地下廃棄区画の一部扉が開く可能性があります」


 霧生が低く言う。


「可能性」


「はい。保証はできません」


「罠の可能性は」


「あります」


「即答するな」


「嘘を混ぜるべきではありませんので」


 霧生は、藍沢をしばらく睨んだ。


 しかし、怒鳴らなかった。


 透子は、入構証に手を伸ばした。


 指がわずかに震えている。


 触れる直前、真昼が思わず言った。


「黒江さん」


 透子の手が止まる。


「今、どこですか」


 その問いに、透子は少し驚いたように真昼を見た。


 真昼は続ける。


「ここは、市警です。特異殺人対策室の小会議室。私は白瀬真昼。隣に御影レイ。霧生さんと藍沢さんもいます」


 レイが静かに続ける。


「あなたは、黒江透子」


 霧生も低く言う。


「戻れ、黒江」


 透子は、ゆっくり息を吸った。


 そして、答えた。


「……黒江透子」


 声は小さかった。


 だが、現在の声だった。


「私は、黒江透子です」


 彼女は入構証を手に取った。


 古いカードの中で、若い黒江透子がこちらを見ている。


 実験観測部、補助研究員。


 その肩書きは、今の透子を刺した。


 だが、透子は目を逸らさなかった。


「行きます」


 彼女は言った。


「今度は、現場から逃げません」


 雨が、市警の窓を叩き始めた。


 ぽたり。


 その音は、地下から聞こえる水音に似ていた。

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