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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第三巻:真木彼方と零番線
28/82

第四章 記録沈殿層

 封鎖連絡層へ入る許可は、許可というより黙認に近かった。


 正式な文書には、旧地下鉄閉鎖区画周辺における異常遺留物確認作業、と書かれている。


 零番線という言葉はない。


 無名切符という言葉もない。


 K-117という番号も、資料の表面には出てこない。


 現場に持ち込まれた紙の上では、すべてが別の言い方に置き換えられていた。


 旧地下鉄閉鎖区画。

 異常遺留物。

 未承認通行痕跡。

 記録欠落関連反応。


 白瀬真昼は、その書類を見た時、少しだけ腹が立った。


 だが、今はその怒りをそのまま外へ出さない。


 言葉を置き換えなければ、許可されない場所がある。


 名前を出した途端に閉じる扉がある。


 それを、もう知っている。


 それでも、心の中では書き直していた。


 旧地下鉄閉鎖区画――零番線へ続く可能性のある場所。


 異常遺留物――無名切符。


 未承認通行痕跡――名前を捨てたい人が向かった道。


 記録欠落関連反応――雨宮紗良の名前が薄れていること。


 書類の言葉と、現場の言葉は違う。


 その差を忘れたら、きっと誰かが番号になる。


 集合場所は、アガルタ学院旧校舎地下の封鎖扉前だった。


 時間は午後七時。


 外はすでに暗く、雨が降っていた。


 旧校舎の窓を叩く雨音は、新校舎の明るい廊下から遠く離れるほど、古い紙をめくる音に似ていく。廊下の蛍光灯は一部が切れていて、壁の掲示物の影が細長く伸びていた。


 真昼は、制服の上から市警支給の薄い防護ジャケットを着ていた。


 動きにくい。


 肩が重い。


 ポケットが多すぎる。


 しかも、背中に反射材がついている。


「これ、私が着ると取材じゃなくて工事現場感が出ません?」


 真昼が言うと、隣で御影レイがヘルメットの紐を直しながら答えた。


「工事現場に失礼」


「そこ?」


「作業手順を守る人たちだから」


「私も今日は守ります」


「今日は?」


「……なるべく」


「霧生さんに報告する」


「御影くん、最近ほんと安全側」


「業務委託」


「まだ続いてた」


 レイも同じ防護ジャケットを着ている。


 彼はこういうものを着ても、妙に静かに馴染む。黒に近い紺の制服、白いシャツ、細い銀灰色のネクタイ。その上に無機質なジャケットを着ると、学生というより、どこかの研究施設から抜け出してきた観測対象のように見えた。


 真昼はそう思って、すぐに心の中で打ち消した。


 観測対象ではない。


 御影レイ。


 そう呼ぶ。


 彼は番号ではない。


「御影レイ」


 真昼が小さく呼ぶ。


 レイは、すぐにこちらを見た。


「白瀬真昼」


「戻ってる?」


「まだ入ってない」


「入る前から確認」


「戻ってる」


「よし」


 そこへ、低い声が飛んできた。


「点呼を始める前に雑談で点呼するな」


 霧生仁だった。


 くたびれたコートの上から、現場用ベストを着ている。片手には懐中ライト、もう片方には折り畳んだ図面。顔には、すでに疲労と苛立ちが乗っていた。


「雑談じゃなくて予備確認です」


 真昼が答える。


「言い換えが上手くなったな」


「成長しました」


「変な方向に伸びるな」


 霧生の後ろから、黒江透子が降りてきた。


 灰色のコートに、青灰色の手袋。


 手には小型の保全ケースと記録端末。


 いつも通り冷静に見える。


 だが、真昼には分かる。


 透子の視線は、封鎖扉を避けていない。


 むしろ、まっすぐ見すぎている。


 この先には、彼女の過去がある。


 K-117。


 真木彼方。


 先生、僕の名前を呼んでください。


 その声が、まだ透子の中で鳴っているのだろう。


 そして最後に、倉科悠斗が来た。


 反射ベスト、ヘルメット、作業用の手袋。


 左脇腹の傷は、表面上はもう見えない。


 それでも、階段を下りる時にわずかに息を詰めるのを、真昼は見逃さなかった。


 悠斗も、それに気づいたらしい。


「見るな」


「まだ何も言ってません」


「言う顔だった」


「痛むなら言ってください」


「痛む」


「ちゃんと言った」


「言わないと、霧生さんが帰れって言う」


 霧生が即座に言った。


「痛むなら帰れ」


「案内はできます」


「先頭には立たせない」


「分かってます」


「走るな」


「走りません」


「無理するな」


「しません」


「嘘なら置いて帰る」


「置いて帰るんですか」


「抱えて帰るよりは現実的だ」


「ひどい」


 悠斗が顔をしかめる。


 だが、そのやり取りのおかげで、空気が少しだけ緩んだ。


 緩んだ空気を、封鎖扉の向こうから漏れてくる冷気がすぐに冷やす。


 扉には、前に見た時と同じ表示があった。


 B-LINK-03

 封鎖連絡層

 許可なき通行を禁ず


 その下に貼られた紙も残っている。


 名前を確認してから入ること。


 霧生が全員を見た。


「手順確認。中へ入るのは五人。俺、黒江、御影、白瀬、倉科。綾瀬と御堂は入口管制。牧野は旧校舎地上で回収物保全待機」


 無線から綾瀬直央の声が入る。


『入口管制、通信良好です。映像も拾えています』


 続いて御堂圭吾。


『ただし、封鎖扉の先は前回よりノイズが強いです。距離計が少し揺れています』


「また機械が怖がってるのか」


『機械は怖がりません。私は少し怖いです』


「正直でよろしい」


 真昼は小さく笑いそうになったが、霧生の視線が飛んできたのでやめた。


 霧生が言う。


「中では定期的に点呼する。返事が遅れたら止まる。名前が言えなくなったら撤退。白瀬が勝手に何か拾おうとしたら、御影が止める」


「やっぱり私名指し」


「実績だ」


「反論できない」


「するな」


 透子が補足する。


「今回の目的は、無名切符とK-117の関連確認です。零番線そのものへ入ることではありません」


 真昼はその言葉を聞いて、少しだけ胸がざわついた。


 零番線へ入らない。


 まだ入らない。


 その方が正しい。


 でも、雨宮紗良の机に増えていた切符を思うと、下へ行かずにいられるのかという焦りもある。


 透子は真昼を見た。


「白瀬さん。焦らないでください」


「顔に出てました?」


「かなり」


「……努力します」


「焦りは、記録を雑にします」


 その言葉は厳しかった。


 けれど、真昼は頷いた。


「はい」


 霧生が懐中ライトを点ける。


「点呼」


 旧校舎地下の空気が、少し張り詰めた。


「御影レイ」


「はい」


「白瀬真昼」


「はい」


「黒江透子」


「はい」


「倉科悠斗」


「はい」


「霧生仁」


「はい」


 霧生は自分で返事をして、いつものように顔をしかめる。


「何回やっても気持ち悪いな」


 悠斗がぼそりと言った。


「でも助かる」


「お前が言うと重い」


「実感なんで」


 霧生は、それ以上何も言わず、封鎖扉を開けた。


 冷たい空気が流れてくる。


 湿ったコンクリート。


 錆。


 古い紙。


 水。


 そして、名前のない匂い。


 五人は、封鎖連絡層へ入った。


     *


 封鎖連絡層は、以前より深く見えた。


 通路そのものが変わったのか、こちらの見方が変わったのかは分からない。


 右側の壁には旧校舎地下の白いタイル。


 左側には旧地下鉄の灰色のコンクリート。


 天井には観測局の古い配線。


 床には浅い水。


 それらが不自然につながっている。


 真昼は、一歩入った瞬間、胸の奥に冷たいものを感じた。


 天沢灯里の記録室へ行った時の白い光はない。


 古河千景のメモ帳を見つけた時の、作業灯の黄色い記憶もない。


 代わりに、もっと低い場所から呼ばれる感覚がある。


 記録ではない。


 記録の底。


 誰かが書こうとして、書ききれなかったもの。


 誰かが残そうとして、沈んでしまったもの。


 それが、水の向こうからこちらを見ている。


「白瀬真昼」


 レイが隣で呼んだ。


 真昼は、すぐに答えた。


「御影レイ」


「引かれてる」


「うん」


「強い?」


「まだ大丈夫」


「まだ禁止」


「大丈夫じゃないけど、戻ってる」


「よし」


 霧生が前方から言う。


「お前らのその確認、俺もそのうち口癖になりそうで嫌だ」


「もうなってますよ」


 真昼が返す。


「なってない」


「点呼、かなり馴染んでます」


「業務だ」


「便利な言葉」


「便利だから」


 霧生が言うと、レイと真昼が同時に彼を見た。


「何だ」


「取られた」


「誰のものでもねえ」


 悠斗が低く笑った。


 その笑いは短かったが、地下では貴重だった。


 彼は前を歩きながら、壁の配管や足元の水の流れを確認している。第二巻で封鎖連絡層へ入った時より、動きが慎重だった。


 以前は、身体で道を覚えている人間の速さがあった。


 今は、怖さを知っている人の遅さがある。


 真昼はそれを、弱くなったとは思わなかった。


 生き残った人の歩き方だと思った。


「この先です」


 悠斗が言った。


「前に古河さんのメモ帳を見つけた保守通路の手前から、さらに下へ降りる点検梯子があります。通常の都市交通局図面には載ってません」


「また図面にない道か」


 霧生がうんざりしたように言う。


「地下は図面どおりなら苦労しません」


「それ、整備士の格言か?」


「愚痴です」


「いい愚痴だ」


 透子が端末を確認する。


「観測局の索引では、その下層が記録沈殿層と仮称されています」


「仮称?」


 真昼が聞く。


「正式名称ではありません。観測局内でも部署によって呼称が異なります。記録堆積層、廃棄記録層、沈殿領域、下位記録水域」


「呼び方が多いですね」


「誰も完全には把握していないからです」


 真昼は、その言葉に喉が少し乾いた。


 完全には把握していない。


 それでも封鎖し、番号をつけ、最高制限対象にする。


 観測局らしい。


 でも、馬鹿にする気にはなれなかった。


 分からないものに名前をつけることは、恐怖に形を与えることでもある。


 記録沈殿層。


 その言葉は、怖いほどしっくり来た。


 やがて、通路の左側に低い開口部が見えた。


 鉄の梯子が下へ伸びている。


 梯子の下は、暗い。


 ライトを向けても、底がよく見えない。


 ただ、水面の反射だけが揺れている。


 そこから、薄い紙の匂いがした。


 濡れた紙。


 古い名簿。


 沈んだアルバム。


 破れた診察券。


 真昼は、息を吸うだけで胸がいっぱいになる。


「点呼してから降りる」


 霧生が言った。


「御影レイ」


「はい」


「白瀬真昼」


「はい」


「黒江透子」


「はい」


「倉科悠斗」


「はい」


「霧生仁」


「はい」


 全員、返事をした。


 それから、一人ずつ梯子を降りる。


 霧生が先頭。


 次に悠斗。


 透子。


 真昼。


 レイ。


 真昼は梯子を握りながら、下から上がってくる冷気を受けた。


 足が一段ずつ暗い場所へ入っていく。


 上の封鎖連絡層の水音が遠くなる。


 代わりに、もっと多くの水音が聞こえ始めた。


 ぽたり。


 さらさら。


 ぱらり。


 紙がめくれるような音。


 誰かが鉛筆で名前を書くような音。


 誰かがその紙を水に落とす音。


 梯子を降りきった瞬間、真昼は息を忘れた。


     *


 そこは、地下の水底に沈んだ図書館のようだった。


 床一面に、浅い水が広がっている。


 深さは足首ほど。


 だが、その水の下に何かが沈んでいた。


 本。


 紙。


 名札。


 写真。


 手帳。


 切符。


 診察券。


 学生証。


 誰かの履歴書。


 古い新聞記事。


 破れた卒業アルバム。


 水に浸かっているはずなのに、完全には溶けていない。


 紙は紙の形を保ったまま、しかし文字だけがところどころ抜け落ちている。


 ライトを当てると、水の下の写真が白く光った。


 集合写真。


 顔がいくつも並んでいる。


 だが、中央の一人だけ顔が黒く抜けている。


 別の場所には、名簿が開いていた。


 名前の欄だけ空白。


 出席番号だけが残っている。


 さらに奥には、古い切符が束になって沈んでいる。


 行き先はない。


 発駅もない。


 名前欄だけがある。


 空白の名前欄。


 真昼は、膝から力が抜けそうになった。


 ここには、名前がある。


 そう感じた。


 いや、名前があったものがある。


 拾わなければ。


 読まなければ。


 記録しなければ。


 そう思った瞬間、胸の中で無数の声がざわめいた。


 私の名前は――


 俺は――


 あの子を――


 ここにいた――


 忘れないで――


 呼ばないで――


 消して――


 残して――


 助けて――


 放っておいて――


 矛盾した声が、一度に押し寄せる。


 真昼は思わず一歩踏み出した。


 水が跳ねる。


 足元の名札が揺れる。


 名前欄の空いたカードが、ライトの光を受けて白く浮かぶ。


 手を伸ばした。


「白瀬さん」


 透子の声が飛んだ。


 真昼の手が止まる。


 透子は、すぐそばまで来ていた。


 青灰色の手袋をした手で、真昼の手首を掴む。


 強くはない。


 だが、確実に止める力だった。


「触らないでください」


「でも」


「触らないでください」


「名前が」


 真昼の声は、自分でも驚くほど掠れていた。


「ここ、名前がいっぱいあるんです」


「分かっています」


「分かってるなら」


「全部は拾えません」


 透子の声は静かだった。


 それが、真昼の胸に強く刺さった。


「なんでそんなこと言えるんですか」


 思わず声が強くなる。


 水面が揺れた。


「ここにあるんですよ。誰かが消えかけた記録が。誰かの名前が。拾わなかったら、また沈むかもしれない。誰にも見つからないまま、ずっとここに」


「それでも、全部は拾えません」


 透子は同じ言葉を繰り返した。


 真昼は、言い返そうとした。


 でも、言葉が出なかった。


 周囲を見渡す。


 水の下に、どれだけの紙があるのか分からない。


 数十ではない。


 数百。


 いや、もっと。


 古いものから新しいものまで。


 濡れた名簿。


 黒く抜けた写真。


 名前欄のない診察券。


 空白の社員証。


 破れた手紙。


 駅の忘れ物票。


 学校の出席簿。


 警察の遺留品ラベル。


 その一つ一つに、誰かがいる気がした。


 拾いたい。


 拾わなければならない。


 でも、全部を拾おうとした瞬間、自分の名前が水に沈む。


 その予感があった。


 白瀬真昼という名前が、無数の消えた名前の中に溶けていく。


 真昼は、唇を噛んだ。


 怒りがある。


 でも、その怒りは行き場を失った。


 透子が正しいからだ。


 正しい。


 それがまた悔しかった。


「白瀬真昼」


 レイの声がした。


 真昼は、はっとする。


「御影レイ」


 返した声が、少し遅れた。


 霧生がすぐに振り返る。


「点呼」


 彼の声が、記録沈殿層に響いた。


「御影レイ」


 レイの返事が遅れた。


「……はい」


 霧生のライトが、レイを照らす。


「白瀬真昼」


「はい」


「黒江透子」


「はい」


「倉科悠斗」


「はい」


「霧生仁」


「はい」


 霧生は、少し間を置いてからレイを見た。


「御影、遅れたな」


「はい」


「今どこだ」


「記録沈殿層」


「お前は」


「御影レイ」


「見えてるものは」


 レイは、水面を見た。


 その目が、少し焦点を失っている。


「多い」


「何が」


「死じゃない。人生でもない。名前の端。呼ばれた時の感じ。呼ばれなかった時の感じ。名札を外した時の手。診察券を捨てた時の息。学生証を見て泣いた人。名前を書こうとして、やめた人」


 真昼の胸が締めつけられる。


 レイは続ける。


「同魂者じゃない。僕の記憶じゃない。でも、触れる。近い。名前を捨てたい人の記録が、水に沈んでる」


「御影レイ」


 真昼が呼ぶ。


 レイは彼女を見る。


「白瀬真昼」


「戻って」


「戻ってる」


「嘘ついてない?」


「少し」


「少し駄目」


「戻る」


 レイは深く息を吸った。


 霧生が言う。


「全員、ここからは三分ごとに点呼する。異論は聞かん」


「三分は短くないですか」


 真昼が言うと、霧生は即答した。


「短くない。お前ら全員、地下だと信用がない」


「全員扱い」


「俺も含めてだ」


 その言葉に、真昼は口を閉じた。


 霧生は自分も数に入れている。


 返事できる者から帰る。


 彼はいつもそういう現実の線を引く。


 それが、この場所では何より頼もしかった。


 悠斗が、膝をついて水の流れを見ている。


「水が、奥へ向かってます」


「方向は」


 霧生が聞く。


「封鎖連絡層じゃない。さらに下です。たぶん、零番線側」


 真昼は奥を見た。


 記録沈殿層の先には、低いアーチ状の通路があった。


 水はそこへ向かって流れている。


 流れに乗って、紙片や名札や切符が少しずつ動いている。


 名前が沈む場所。


 そして、名前を捨てたものが流れていく場所。


「零番線へは行かない」


 透子が言った。


 先に釘を刺された。


 真昼は、渋々頷く。


「分かってます」


 霧生が疑わしそうに見る。


「本当に?」


「本当に」


「御影」


「見張ります」


「やっぱり霧生さん側」


「安全側」


 真昼は小さく息を吐いた。


 それから、記録用のカメラを取り出す。


 触れない。


 でも、撮る。


 拾えない。


 でも、記録する。


 それが今できることだった。


 水の下の名簿。


 空白の診察券。


 黒く抜けた写真。


 名前欄のある切符。


 ひとつずつ撮る。


 全部ではない。


 全部は無理だ。


 撮りながら、その事実が少しずつ身体に沈んでいく。


 全部は拾えない。


 でも、だから何もしないわけではない。


 真昼は、カメラを構え直した。


 水面にライトが反射する。


 ファインダー越しに、古い卒業アルバムが見えた。


 開かれたページ。


 クラス写真。


 その下の名前欄が、一人分だけ空白になっている。


 真昼はシャッターを切る。


 音が、地下に小さく響いた。


     *


 記録沈殿層の奥へ進むほど、空気は重くなった。


 倉科悠斗は、慎重に足場を選んでいる。


 水の下には、紙だけでなく金属片や割れたガラス、古い標識の破片も沈んでいた。安全靴でなければ危険だった。


「ここ、普通の保守通路じゃないですね」


 悠斗が言う。


「分かるのか」


 霧生が聞く。


「床の傾斜が変です。水を流すための勾配じゃない。記録を集めるために沈ませてるような……いや、何言ってるんだ俺」


「地下に入ると詩人になるな、お前」


「最悪です」


 悠斗は顔をしかめる。


「でも、本当にそう見えます。自然に溜まったんじゃなくて、ここへ流れ着くように作られてる」


 透子が端末を確認する。


「記録沈殿層という仮称は、比喩ではなかった可能性があります」


「観測局が作ったんですか」


 真昼が聞く。


「一部は。すべてではないでしょう」


「どういう意味ですか」


「もともと、アガルタ地下には記録が沈みやすい場所があった。観測局はそこを封鎖し、調査し、利用しようとした」


「利用」


 真昼の声が硬くなる。


 透子は、静かに頷いた。


「失われた記録を回収するため。あるいは、消したい記録を沈めるため」


 真昼は水面を見る。


 そこに沈んでいる名札の一つが、ライトを受けて白く光った。


 消したい記録。


 それは誰にとっての消したい記録なのか。


 本人か。


 家族か。


 学校か。


 会社か。


 警察か。


 観測局か。


「全部、誰かが捨てたものなんですか」


「分かりません」


 透子は言った。


「誰かが捨てたもの。誰かが残そうとして落ちたもの。残したくても残せなかったもの。消されてここへ流れ着いたもの。おそらく混在しています」


「ひどい場所」


 真昼は呟いた。


「でも」


 レイが言った。


「優しい場所にも見える」


 真昼は振り返る。


 レイは水面を見ている。


「どういう意味」


「ここに沈めば、名前を捨てられる。誰にも呼ばれない。誰にも見つからない。そう感じる人がいると思う」


 雨宮紗良の顔が、真昼の脳裏に浮かぶ。


 名前が消えたら、楽になった。


 今は、持っているほうがつらい。


 真昼は、反論できなかった。


「嫌な優しさですね」


 悠斗が言った。


「帰さない場所の優しさだ」


 霧生が続ける。


「疲れてる奴に、もう歩かなくていいって言う場所は危ない。そこで寝たら終わる」


 霧生らしい言い方だった。


 真昼は少しだけ頷く。


 記録沈殿層は、恐ろしいだけの場所ではない。


 人を引き止める。


 休ませる。


 名前を置いていけると囁く。


 だから危険なのだ。


 透子が急に足を止めた。


「待ってください」


 全員が止まる。


 透子は、右側の水面を見ている。


 そこには、古い棚のようなものが半分沈んでいた。


 かつて書類棚だったのだろう。


 引き出しがいくつか開き、中から紙片が水に流れ出している。


 その下に、白いものが見えた。


 紙ではない。


 布でもない。


 細長く、輪の形をしている。


「識別バンド」


 透子の声が変わった。


 真昼は息を止める。


 霧生がライトを向ける。


 水の下に、白い識別バンドが沈んでいた。


 病院や施設で手首につけるような、細い樹脂製のバンド。


 表面に、黒い文字が残っている。


 K-117。


 レイの呼吸が乱れた。


 真昼は即座に呼ぶ。


「御影レイ」


「……白瀬真昼」


 遅い。


 透子は、識別バンドから目を離せない。


 その顔は、いつもの黒江透子ではなかった。


 若い頃の彼女が、ほんの一瞬だけ重なって見える。


 白い観測室。


 細い少年の腕。


 先生、僕の名前を呼んでください。


 霧生が低く言った。


「黒江」


 透子は答えない。


「黒江透子」


 今度は名前で呼んだ。


 透子の肩が、わずかに動く。


「……はい」


「今どこだ」


「記録沈殿層」


「お前は」


「黒江透子」


「それは何だ」


 透子は、ゆっくり息を吸った。


「K-117の識別バンドです」


「真木彼方のものか」


「確認が必要です」


 その声は震えていた。


 真昼は、初めて透子の震えをはっきり聞いた気がした。


 透子は保全ケースを取り出す。


 だが、すぐには触れない。


 写真を撮る。


 位置を記録する。


 周囲の水流を確認する。


 手順を一つずつ守っている。


 それが、彼女自身を現在へつなぎ止めているように見えた。


 真昼は、識別バンドを見つめた。


 白い。


 K-117。


 番号だけが残っている。


 真木彼方の名前はない。


 だが、裏側に何かがある。


「裏」


 レイが掠れた声で言った。


「裏に、何か」


 透子がピンセットで水面を慎重に動かす。


 識別バンドが少し傾く。


 裏側が見える。


 そこには、鉛筆の跡のようなものがあった。


 ほとんど消えている。


 水に削られ、樹脂の表面にかすかに残った筆圧。


 真昼は、ライトを当てる角度を変えた。


 見える。


 完全ではない。


 でも、読める。


 真木――


 その先は、ない。


 彼方、とは書かれていない。


 真木。


 そこまで。


 真昼の胸の奥で、音がした。


 ぽたり。


 水滴の音。


 それとも、誰かの名前が落ちる音。


 透子が、かすかに呟いた。


「彼方くん」


 霧生がすぐに言う。


「黒江」


 透子は目を閉じた。


 そして、言い直す。


「……K-117関連遺留品として保全します」


 その言葉は、手順だった。


 けれど、真昼には分かった。


 その手順の下で、透子は必死に名前を抱えている。


 レイが、低く言った。


「先生」


 真昼は振り返る。


「御影くん?」


 レイは識別バンドを見ている。


 目が少し遠い。


「誰かが呼んでる」


「誰が」


「分からない。声だけ。白い部屋。水音。先生。名前を――」


「御影レイ」


 真昼が強く呼ぶ。


 レイの目が揺れる。


「白瀬真昼」


「戻って」


「戻る」


 霧生が即座に点呼を始めた。


「御影レイ」


「はい」


「白瀬真昼」


「はい」


「黒江透子」


「はい」


「倉科悠斗」


「はい」


「霧生仁」


「はい」


 五つの名前が、記録沈殿層に響いた。


 水の下に沈んだ無数の名札が、その声に反応したようにわずかに揺れる。


 透子は、白い識別バンドを保全ケースに収めた。


 ケースの透明な壁越しに、K-117の文字が見える。


 裏側の、消えかけた鉛筆跡。


 真木――


 真昼は、それを見ながらノートを開いた。


 手が震えている。


 それでも書いた。


 K-117識別バンド。


 裏面に手書き痕。


 真木――


 彼方、までは読めない。


 書き終えた瞬間、胸が痛んだ。


 呼びたい。


 真木彼方。


 そう書きたい。


 そう呼びたい。


 でも、今はまだ呼べない。


 真昼は、ペンを止めた。


 記録沈殿層の奥で、水音が続いている。


 その音は、零番線へ向かって流れていた。

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