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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第三巻:真木彼方と零番線
26/82

第二章 消える署名

 相談者は、待ち合わせ場所に十分早く来ていた。


 アガルタ市立中央図書館の分室。


 雨宮坂の中腹にある、小さな図書館だった。


 本館ほど広くはない。児童書の棚、地域資料のコーナー、自習机が十席ほど、古い新聞の縮刷版を置いた低い棚、そして窓際の閲覧席。昼過ぎの館内は静かで、ページをめくる音と空調の低い音だけが聞こえている。


 雨は降っていなかった。


 けれど、窓の外の空は灰色で、いつ降り出してもおかしくない重さを抱えている。ガラスには、昨日の雨の筋がまだ残っていた。坂道を上ってくる人々は、みな折り畳み傘を鞄に差している。


 白瀬真昼は、入口の自動ドアの前で一度立ち止まった。


 図書館の匂いがした。


 紙。

 埃。

 静かな空気。

 濡れた傘立てに残る水の匂い。


 天沢灯里のことを思い出すには、十分すぎる場所だった。


 灯里も、こういう場所にいた。


 古い本を丁寧に扱い、濡れた傘を拭いてから棚の前に立ち、名前が欠けた資料を見つけてしまった少女。


 真昼は鞄の紐を握り直した。


 今日は、灯里の名前を追うために来たのではない。


 別の人の名前が消えかけている。


 しかも、その人は名前を取り戻したがっているとは限らない。


 そこが、いちばん怖かった。


「白瀬真昼」


 隣で、御影レイが小さく呼んだ。


 図書館の中だから、声は抑えている。


 真昼はすぐに答えた。


「御影レイ」


「戻ってる?」


「戻ってる。まだ入口だし」


「入口で引かれることもある」


「否定できない」


 真昼は、少しだけ笑った。


 レイは笑わなかったが、いつもの無表情の奥に、ほんの少しだけ安堵がある。


 彼の手には、薄いファイルが一冊。


 真昼が送った相談メールの印刷と、零番線の切符写真、匿名コメントのスクリーンショットが入っている。すでに黒江透子へ共有済みだ。透子からは、まず本人と相談者の安全確認をし、単独行動はしないこと、現物がある場合は触れずに写真と位置情報だけ記録すること、と返信があった。


 最後に、霧生仁からも短いメッセージが届いた。


 勝手に旧地下鉄へ行くな。


 真昼は、その文面を見てしばらく黙った。


 行くな、とだけ書かれているのに、霧生の声で再生された。


 そして、たぶん後で怒られる。


 まだ何もしていないのに、怒られる未来が見える。


 レイはそのメッセージを見て言った。


「行かなければ怒られない」


「行かないとは言ってない」


「だから怒られる」


「御影くんまで霧生さん側についた」


「安全側」


「安全側って言うと正しく聞こえる」


「正しい」


「分かってる」


 そう言いながら、真昼は図書館へ入った。


 受付カウンターの横を通り、地域資料コーナーへ向かう。


 待ち合わせの席は、メールで指定されていた。


 新聞縮刷版の棚の近く。


 人目はあるが、会話が小さければ聞こえにくい場所。


 そこに、一人の少女が座っていた。


 アガルタ学院の制服ではない。


 紺のカーディガンに、白いブラウス。膝の上には学生鞄。髪は肩より少し長く、毛先が内側に入っている。真面目そうな印象だが、目の下には薄い隈があった。


 彼女は、真昼たちを見るなり立ち上がった。


「あの、白瀬さんですか」


「はい。白瀬真昼です」


 真昼は、いつもより少しだけゆっくり名乗った。


 自分の名前を言うことにも、意味がある。


 相手は小さく頭を下げた。


「望月莉子です。メールを送った者です」


「連絡ありがとうございます。こっちは御影レイくん。私と一緒に動いてくれてる人です」


 レイは軽く会釈した。


「御影です」


 莉子は、レイを見て少しだけ目を見開いた。


 たぶん、真昼の記事や過去の噂で名前を知っているのかもしれない。


 けれど、そのことには触れなかった。


 代わりに、鞄を胸の前で抱え直す。


「来てくださって、ありがとうございます。本当に、変な相談なのに」


「変な相談は慣れてます」


 真昼が言うと、レイが横で小さく言った。


「慣れてはいけない」


「慣れないとやってられない」


「それは少し分かる」


 莉子は、二人のやり取りを見て、ほんの少しだけ表情を緩めた。


 緊張で固まっていた顔に、人間らしい疲れが戻る。


 真昼は、その変化を見てから、向かいの席に座った。


「メールの友人の方は?」


 そう聞くと、莉子はすぐに表情を曇らせた。


「来ています」


 真昼は、少し驚いた。


「来てる?」


「はい。あっちの閲覧席に……」


 莉子が視線で示す。


 窓際の席。


 地域資料コーナーから少し離れた場所に、もう一人の少女が座っていた。


 灰色のパーカー。


 黒いスカート。


 膝に開いたノート。


 片手にペンを持ったまま、じっと紙を見ている。


 年齢は真昼たちと同じくらいに見えた。


 肩までの髪は少し乱れ、横顔は青白い。


 彼女は、窓の外を見ているのではない。


 ノートの一番上を見ている。


 そこには、名前を書く欄があった。


 図書館の利用申込用紙。


 真昼は、胸が少し冷えるのを感じた。


 莉子が小さく言う。


「雨宮紗良です」


 言った直後、彼女ははっとして口を押さえた。


「あ、すみません。名前、言わないほうがよかったですか」


 真昼はすぐに首を横に振った。


「今は大丈夫です。ただ、本人が嫌がるなら、呼び方を変えましょう」


「本人は……最近、名前で呼ばれるのを嫌がります」


「苗字も?」


「苗字も、下の名前も。あだ名も」


 莉子は、窓際の少女を見た。


「でも、名前を呼ばないと、どんどん遠くなる気がして」


 その言葉は、真昼の胸に刺さった。


 名前を呼ばないと遠くなる。


 名前を呼ぶと傷つけるかもしれない。


 どちらも本当だ。


 灯里の手帳にあった問いが、また胸の奥で開く。


 真昼は、莉子へ向き直った。


「最初から教えてください。いつ頃からですか」


「三日前です。最初は、授業中に小テストの名前欄が書けなかったって言ってました」


「書けなかったというのは、漢字を忘れた?」


「いえ。漢字は分かるって言ってました。でも、手が止まるって。自分の名前を書こうとすると、指が動かなくなるって」


「その用紙は残ってますか」


「写真を撮りました」


 莉子はスマホを出し、画像を見せた。


 小テストの紙。


 上部の名前欄。


 雨宮、と書きかけたような跡がある。


 だが、その先がない。


 雨、の字も途中で薄れている。


 宮の一部は、紙に鉛筆を置いた跡だけが残っている。


 まるで、本人が途中で忘れたのではなく、書いた線そのものが紙から離れていったようだった。


 レイが画面を見つめる。


 真昼は、彼の表情を横目で確認した。


 強い混線ではない。


 でも、反応はある。


「御影くん」


「うん」


「何か見える?」


「まだ、記憶じゃない」


「じゃない?」


「呼ばれるのを避ける感覚だけ。誰かの人生が流れ込んでる感じは薄い」


 莉子が、不安げに二人を見る。


「あの、どういう意味ですか」


 真昼は、言葉を選んだ。


 全部は説明できない。


 だが、曖昧にしすぎてもいけない。


「私たちは、名前が消えるような現象を何度か見ています。でも、それにも種類があります。誰か別の記憶が流れ込んで、自分の名前が揺れる場合もある。記録から名前が欠ける場合もある。今回の雨宮さんは、少し違うかもしれません」


「違う?」


 莉子の声が小さくなる。


 レイが続けた。


「名前が消されているというより、本人が少しずつ手を離しているように見える」


 莉子は息を呑んだ。


「紗良が、自分で?」


「無意識だと思う」


 レイは静かに言う。


「でも、呼ばれたくない気持ちが、何かに引っ張られてる」


 莉子は、窓際の少女を見る。


 雨宮紗良。


 その名前を声に出さず、唇だけが動いた。


「紗良は、前から名前を嫌がってました」


 莉子は言った。


「自分の名前、綺麗すぎて嫌だって。雨宮紗良なんて、きらきらしてて、期待されてるみたいで嫌だって」


 真昼は黙って聞いた。


「それだけじゃなくて……中学の頃、少し炎上したことがあったんです」


「炎上」


「SNSで。学校の愚痴を書いたら、クラスの子に見つかって、スクショされて、本名を晒されて」


 莉子の声が震えた。


「雨宮紗良って名前が、検索すれば出るようになりました。大したことじゃないって言う人もいました。でも、本人にとっては大きかったんです。名前を検索するのが怖くなって。新しいアカウントを作っても、また見つかるんじゃないかって」


 真昼の指が、ノートの端を握った。


 名前が、傷になる。


 記事のコメント欄で見た言葉が思い出される。


 記録することは暴力。


 本名を晒すことも、記録だ。


 誰かを残すことと、誰かを傷つけることは、ときどき同じ道具で行われる。


「家では?」


 真昼が聞いた。


 莉子は、少し迷った。


「たぶん、あまり名前で呼ばれてません。お姉ちゃん、とか、あんた、とか。弟の面倒を見てるから、家ではずっとお姉ちゃんで。ちゃんと雨宮紗良って呼ばれるのは、怒られる時か、学校の書類か、病院の受付くらいだって」


「呼ばれる時が、嫌な時ばかりだったんですね」


「はい」


 莉子は俯いた。


「でも、私は名前で呼んでました。紗良って。本人も、私には最初は怒らなかった。でも最近は、それも嫌がるようになって」


「無名切符を見つけたのは?」


「昨日の夜です。紗良の部屋に行ったら、机の上にあって」


「本人は?」


「いました。まだ、いました」


 莉子はそこを強調した。


 真昼は、メールに書かれていた「昨日の夜から連絡が取れません」という一文を思い出す。


「連絡が取れなかったのは?」


「夜中から今朝までです。さっき、図書館にいるって連絡が来ました。『名前を書く練習をしてる』って」


 莉子の目に涙が浮かんだ。


「でも、あれは練習じゃない。書けないことを確かめに来てるだけです」


 真昼は、窓際の席へ視線を向けた。


 雨宮紗良は、まだノートを見ている。


 ペン先は紙に触れている。


 でも、線は増えない。


 真昼は静かに立ち上がった。


「話してもいいか、聞いてきます」


「お願いします」


 莉子が頭を下げる。


 レイも立ち上がる。


 真昼は彼を見る。


「一緒に?」


「一緒に」


「私が話してる時、見えたら止めて」


「君が踏み込みすぎたら?」


「止めて」


「物理的に?」


「さっきも言ったけど、それは困る」


「じゃあ名前を呼ぶ」


「それで」


 二人は窓際の席へ向かった。


     *


 雨宮紗良は、近くで見るとさらに疲れていた。


 肌は青白く、唇の色も薄い。


 けれど、目だけは妙にはっきりしている。


 眠っていない人間の目ではない。


 何か重いものを一つ降ろした後のような、静かな目だった。


 真昼が近づくと、彼女は顔を上げた。


「白瀬真昼さん」


 先に名前を呼ばれた。


 真昼は少しだけ驚く。


「はい。あなたは……今、どう呼べばいいですか」


 名前を言いかけて、止めた。


 紗良は、その小さな停止を見ていた。


 そして、少しだけ笑った。


「莉子から聞いたんですね」


「聞きました」


「気を遣われるの、変な感じ」


「嫌ですか」


「嫌じゃないです」


 紗良は、ノートを閉じなかった。


 開いたまま、名前欄が見えている。


 白い空欄。


 何も書かれていない。


 真昼は、向かいの席に座った。


 レイは隣に立ったまま、少し距離を取る。


 図書館の窓の外では、灰色の雲が低く流れている。


「莉子さんから、相談を受けました」


 真昼は言った。


「友達思いですよね」


 紗良の声は平坦だった。


 責めているようでも、感謝しているようでもない。


「迷惑ですか」


「分かりません」


「分からない?」


「助けてほしい気もするし、放っておいてほしい気もする」


 真昼は、その答えをメモしなかった。


 今書くのは違う気がした。


 紗良は、ペンを指先で回す。


「記事、読みました。天沢灯里さんの記事」


 真昼は、少し背筋を伸ばした。


「ありがとうございます」


「名前を残す記事でしたね」


「はい」


「読んで、少し怖かった」


 真昼は、すぐに言い返さなかった。


 紗良は続ける。


「白瀬さんは、消えそうな名前を残したい人なんですよね」


「そうです」


「じゃあ、私は白瀬さんにとって、残さなきゃいけない人ですか」


 その問いは鋭かった。


 静かだったから、余計に刺さった。


 真昼はすぐに答えられない。


 以前なら、はい、と答えていたかもしれない。


 あなたの名前も残したい。


 消える前に記録したい。


 そう言っていたかもしれない。


 でも今は、その答えが相手を傷つけることを知っている。


「あなたが望むなら」


 真昼は言った。


 紗良は、少しだけ目を細めた。


「望まなかったら?」


「今は、無理に名前を聞きません」


「今は?」


「はい。今は」


「いつかは聞く?」


「必要になったら。あなたが消えそうになったら」


「消えたいのに?」


 真昼は、息を止めた。


 紗良は、窓の外を見た。


「名前が消えたら、楽になったんです」


 その声は、怖いほど穏やかだった。


「最初はびっくりしました。答案用紙に名前が書けなくて、頭が真っ白になって。でも、そのあと、すごく静かになった。名前を書かなくていいんだって。名前を見られなくていいんだって」


 彼女は自分のスマホを取り出した。


 画面を開く。


 プロフィール欄。


 アイコンはある。


 投稿もある。


 自己紹介文も残っている。


 だが、名前欄だけが空白だった。


「これを見た時、怖いより先に、よかったって思いました」


「よかった」


「はい」


「どうして?」


 紗良は、少しだけ笑った。


 その笑いには、自分を馬鹿にするような響きがあった。


「だって、もう検索されない。もうスクショされても、名前が出ない。もう雨宮紗良って呼ばれない。綺麗な名前ですねって言われない。名前負けしてるねって笑われない。家でお姉ちゃんって呼ばれて、学校で名字で呼ばれて、ネットでフルネームを晒される。そういう全部から、少し離れられる」


 真昼は何も言えなかった。


 名前が消えたら、楽になった。


 その言葉は、真昼がこれまで見てきた名前欠落と正反対だった。


 エミーは名前を取り戻すことで、ひとりの女性として戻った。


 古河千景は、自分のメモ帳に何度も名前を書くことで、自分を守ろうとしていた。


 天沢灯里は、名前を残すために記録した。


 真木彼方は、透子に名前を呼んでほしがっていた。


 でも、目の前の少女は言う。


 名前が消えたら楽になった。


 真昼は、胸の奥が揺れるのを感じた。


「でも」


 莉子の声がした。


 いつの間にか近くまで来ていた。


 紗良は顔を上げる。


 莉子は、泣きそうな顔で立っていた。


「でも、私は嫌だよ」


「莉子」


「だって、呼べなくなるじゃん」


 莉子の声が震える。


 図書館の中なので、大きな声ではない。


 それでも、感情は抑えきれていなかった。


「名前が嫌なら、呼び方変えるよ。あだ名でも、名字でも、何も呼ばないでもいい。でも、全部消えるのは嫌だよ。私だけでも覚えていたいよ」


 紗良は、少し困った顔をした。


「莉子は、そう言うと思った」


「分かってるなら」


「でも、それも重い」


 莉子が固まる。


 紗良は、すぐに目を伏せた。


「ごめん。ひどいこと言ってるのは分かってる。でも、重いんだよ。覚えてるって言われるのも、残すって言われるのも。私がもう捨てたいものを、誰かが大事に持ってるの、苦しい」


 莉子は、何も言えなくなった。


 真昼も、何も言えなかった。


 言葉が、喉の手前で止まる。


 名前を残すことは、救いだけではない。


 残されたくないものを残すこともある。


 誰かのために覚えているつもりで、その人の逃げ道を塞ぐこともある。


 レイが、静かに言った。


「それでも、全部捨てたら戻れなくなるかもしれない」


 紗良は、初めてレイをちゃんと見た。


「あなたは、戻ったことがあるんですか」


「あります」


 レイは短く答えた。


「名前を呼ばれて?」


「はい」


「じゃあ、呼ばれたくなかったことは?」


 レイは、少しだけ黙った。


「あります」


「それでも戻るほうがいいと思う?」


「分かりません」


 紗良は、少し驚いたようだった。


 レイは続ける。


「僕の場合は、呼ばれなければ危なかった。でも、あなたが同じかは分からない」


「分からないのに止めるんですか」


「止めます」


「どうして」


「零番線は、あなたの味方のふりをしているだけかもしれないから」


 紗良の指が止まった。


 ペンが、ノートの上で小さく揺れる。


「零番線」


 彼女は呟いた。


 その言葉を口にした瞬間、窓の外が少し暗くなった。


 雲が太陽を隠しただけかもしれない。


 けれど真昼には、図書館の空気が一段冷えたように感じられた。


「その切符」


 真昼が聞く。


「どこで手に入れたんですか」


「分かりません」


「誰かにもらった?」


「たぶん」


「誰に?」


「覚えてません」


「黒い傘の人?」


 思わず聞いてしまった。


 紗良は首を傾げる。


「傘?」


「雨の日でしたか」


「はい」


「どこで?」


「旧地下鉄の入口の近く。たぶん」


「たぶん?」


「最近、場所の記憶も少しぼやけます。名前が消えると、場所も薄くなるみたいで」


 レイが、わずかに眉を寄せた。


「記憶混線とは違う」


 真昼が小声で聞く。


「うん。誰かの記憶が入ってるというより、自分の記録が薄くなってる」


「記録」


「名前を手放しかけた人が、零番線に引かれてる」


 紗良は、二人の会話を静かに聞いていた。


 怖がっているようにも、諦めているようにも見える。


 だが、その奥には、やはり安心がある。


 自分の名前が消えていくことへの安心。


 それが、真昼には苦しかった。


「あなたは」


 真昼は、慎重に言葉を選んだ。


「本当に、名前を全部捨てたいですか」


 紗良は、すぐには答えなかった。


 窓の外を見る。


 空はさらに暗い。


 雨が来る。


 そう分かる色だった。


「分かりません」


 彼女は言った。


「でも、今は、持っているほうがつらい」


 その答えは、真昼の中に静かに沈んだ。


 真昼は、ノートを開いた。


 書いていいか、目で確認する。


 紗良は、少し迷ってから頷いた。


 真昼は書いた。


 本人発言。


 名前が消えたら楽になった。


 今は、持っているほうがつらい。


 書きながら、胸が痛んだ。


 これは記事ではない。


 非公開記録。


 いつか必要になった時のために残すもの。


 今すぐ誰かに見せるためではない。


 紗良が、その文字を見て言った。


「書くんですね」


「はい」


「公開しますか」


「しません」


「本当に?」


「今は」


「また、今は」


「はい」


 真昼は顔を上げた。


「私は記録します。でも、あなたの名前を勝手に記事にしません。いま書いているのは、あなたを探すためと、あなたが消えそうになった時に戻れる場所を作るためです」


「戻りたくなかったら?」


「その時、また聞きます」


「しつこいですね」


「よく言われます」


 紗良は、少しだけ笑った。


 今度の笑いは、自分を削るためのものではなかった。


 ほんの少しだけ、人に向けた笑いだった。


     *


 紗良の家は、図書館から坂を二本下った場所にあった。


 古いマンションの三階。


 白い外壁は雨で少し黒ずみ、廊下には濡れた傘の匂いがあった。


 莉子が同行を頼み、紗良本人も許可したため、真昼とレイは部屋を確認することになった。


 もちろん、透子には連絡した。


 返信はすぐ来た。


 現物には触れないでください。


 位置関係を撮影。


 可能なら本人の同意を得て、警察に共有。


 霧生からは一分遅れで来た。


 現場に行くなと言ったはずだ。


 真昼は、それを見て少しだけ肩をすくめた。


「怒ってる」


 レイが言う。


「うん」


「既読つけた?」


「つけた」


「返事は?」


「今からします」


 真昼は短く打った。


 本人同意あり。部屋確認のみ。現物には触りません。


 すぐに返事が来た。


 信用してない。御影、見張れ。


 レイにも同じ文面が届いたらしい。


 彼はスマホを見て、真昼を見た。


「見張る」


「御影くん、完全に霧生さん側」


「安全側」


「便利な言葉」


「便利だから」


 紗良は、そのやり取りを不思議そうに見ていた。


「仲いいんですね」


 真昼とレイは、一瞬だけ黙った。


「相互監視です」


 真昼が言う。


「相互保守点検」


 レイが続ける。


「何ですか、それ」


 紗良が少し笑う。


 莉子も、少しだけ安心したような顔をした。


 紗良の部屋は、整っていた。


 机、本棚、ベッド、小さなクローゼット。


 壁には、ポストカードが数枚貼ってある。海の写真、雨の街の写真、読めない外国語のポスター。棚には参考書と小説、ノート、古いCD。机の端には、ペン立てと、白いマグカップ。


 そして、机の中央に切符があった。


 一枚ではない。


 何枚も。


 真昼は、息を止めた。


 白い切符。


 何も印字されていないもの。


 端が少し湿っているもの。


 完全に乾いているもの。


 重なっているもの。


 机の上だけでなく、引き出しの隙間、ノートの間、参考書の下にも見える。


 莉子が震えた声で言った。


「昨日は、一枚だけだったのに」


 紗良は、ぼんやりと机を見ていた。


「増えてる」


「自分で置いた?」


 真昼が聞く。


「覚えてません」


 紗良はそう答えた。


 嘘ではなさそうだった。


 真昼はスマホで写真を撮る。


 机全体。


 切符の位置。


 ノートとの関係。


 床。


 窓。


 ゴミ箱。


 レイは、机の前で立ち止まったまま動かない。


 顔色が少し悪い。


「御影レイ」


 真昼が呼ぶ。


「白瀬真昼」


「何か見える?」


「少し」


「混線?」


「弱い。誰かの人生じゃない。駅の匂い」


「駅の匂い」


「古い改札。名前欄。水音。あと……呼ばれたくない人たちの気配」


 紗良が小さく息を吸った。


 レイは続けた。


「同魂者じゃない。少なくとも、あなたは僕と同じではない」


「同じ?」


 紗良が聞く。


「すみません。説明が難しい」


 レイは少しだけ困った顔をした。


 真昼が補足する。


「御影くんは、特定の人たちの記憶に反応することがあります。でも、今あなたから感じているのは、それとは違うみたいです」


「じゃあ、何ですか」


 紗良は聞いた。


 真昼は、机の上の切符を見た。


「名前を手放しかけた人を、零番線が呼んでいる」


 言葉にすると、部屋の空気が少し変わった。


 窓の外で、雨が降り始める。


 ぽつり。


 ガラスに一滴。


 また一滴。


 切符の一枚に、窓から跳ねた雨粒が落ちた。


 薄く文字が浮かぶ。


 零番線。


 莉子が小さく悲鳴を上げた。


 紗良は、目を逸らさなかった。


 むしろ、引き寄せられるように見つめている。


「綺麗」


 彼女は呟いた。


 真昼の胸が冷える。


「綺麗?」


「はい。だって、何も書いてないのに、行き先だけある」


「行きたいですか」


 紗良は答えなかった。


 答えないことが、答えに近かった。


 レイが一歩前に出る。


「行かないでください」


 紗良は彼を見る。


「どうして」


「戻れないかもしれない」


「戻らなくていいなら?」


 レイは、答えに詰まった。


 真昼も、すぐには言えなかった。


 戻らなくていい。


 そう言う人に、戻れと言うことは、何なのか。


 救いなのか。


 押しつけなのか。


 それでも、真昼は言った。


「戻らないかどうかは、名前がある場所で決めてください」


 紗良が、少しだけ眉を寄せた。


「どういう意味ですか」


「今のあなたは、名前を持っているのがつらい。でも、零番線へ行った後のあなたは、もう自分が何を捨てたか分からなくなるかもしれない。捨てるかどうかを決めたことすら、覚えていられないかもしれない」


「それでも楽なら」


「楽かどうかも、分からなくなるかもしれない」


 真昼の声は震えていた。


 それでも、言った。


「だから、今は行かないでください。名前を戻すとは言いません。呼びません。でも、捨てるのは少し待ってください」


 紗良は黙った。


 雨音が部屋を満たす。


 莉子は、泣きそうな顔で紗良を見ている。


 レイは、机の切符から目を離さない。


 真昼は、自分がどれほど難しいことを言っているか分かっていた。


 待ってほしい。


 それは、灯里が選んだ優しさに近い。


 名前が怖いなら、今日は呼ばない。


 でも、真昼の中には別の強さもある。


 消えそうなものを前にしたら、黙っていられない。


 だから、今はこう言うしかなかった。


 呼ばない。


 でも、行かせない。


 矛盾している。


 それでも、目の前の人を失いたくなかった。


 紗良は、机の上の切符へ手を伸ばしかけた。


 真昼が息を止める。


 しかし紗良は、触れる直前で手を止めた。


「少しだけ」


 彼女は言った。


「少しだけ、待ちます」


 莉子が泣き出しそうな顔で頷いた。


「ありがとう」


「まだ、ありがとうって言わないで」


「うん」


 真昼は、ゆっくり息を吐いた。


 レイも小さく肩の力を抜く。


 だが、緊張は終わらなかった。


 机の上の切符が、雨音に合わせるように少しずつ湿っていく。


 真昼は、切符に触れないようにしながら、一枚ずつ写真を撮った。


 すべて、名前欄が空白だった。


 発駅も空白。


 着駅も空白。


 運賃も空白。


 ただ、雨粒が乗ったものだけに、零番線と浮かぶ。


 その時、レイが机の端にある一枚を指した。


「それ」


 真昼は、ライトを当てる。


 切符の裏側が、少しだけ見えていた。


 他の切符と違って、裏面に何かが書かれている。


 ただし、薄い。


 鉛筆の跡のような文字。


 真昼は、触らずにスマホを近づけ、拡大した。


 画面の中で、文字が浮かぶ。


 K-117。


 真昼の呼吸が止まった。


 レイの顔色が、はっきり変わる。


 莉子は意味が分からず、二人を見る。


 紗良は、なぜかその番号を見て、少しだけ首を傾げた。


「それ」


 彼女は言った。


「夢で見ました」


 真昼は、ゆっくり振り返る。


「夢?」


「白い部屋で、誰かが呼んでた」


 紗良は、自分の名前が書けないノートを見るような目で、切符の裏側を見ていた。


「先生って」


 レイが、小さく息を吸う。


 真昼は、胸の奥で水音を聞いた。


 ぽたり。


 ぽたり。


 K-117。


 真木彼方。


 まだ呼べない名前が、零番線の切符の裏から、こちらを見ていた。

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