第二章 消える署名
相談者は、待ち合わせ場所に十分早く来ていた。
アガルタ市立中央図書館の分室。
雨宮坂の中腹にある、小さな図書館だった。
本館ほど広くはない。児童書の棚、地域資料のコーナー、自習机が十席ほど、古い新聞の縮刷版を置いた低い棚、そして窓際の閲覧席。昼過ぎの館内は静かで、ページをめくる音と空調の低い音だけが聞こえている。
雨は降っていなかった。
けれど、窓の外の空は灰色で、いつ降り出してもおかしくない重さを抱えている。ガラスには、昨日の雨の筋がまだ残っていた。坂道を上ってくる人々は、みな折り畳み傘を鞄に差している。
白瀬真昼は、入口の自動ドアの前で一度立ち止まった。
図書館の匂いがした。
紙。
埃。
静かな空気。
濡れた傘立てに残る水の匂い。
天沢灯里のことを思い出すには、十分すぎる場所だった。
灯里も、こういう場所にいた。
古い本を丁寧に扱い、濡れた傘を拭いてから棚の前に立ち、名前が欠けた資料を見つけてしまった少女。
真昼は鞄の紐を握り直した。
今日は、灯里の名前を追うために来たのではない。
別の人の名前が消えかけている。
しかも、その人は名前を取り戻したがっているとは限らない。
そこが、いちばん怖かった。
「白瀬真昼」
隣で、御影レイが小さく呼んだ。
図書館の中だから、声は抑えている。
真昼はすぐに答えた。
「御影レイ」
「戻ってる?」
「戻ってる。まだ入口だし」
「入口で引かれることもある」
「否定できない」
真昼は、少しだけ笑った。
レイは笑わなかったが、いつもの無表情の奥に、ほんの少しだけ安堵がある。
彼の手には、薄いファイルが一冊。
真昼が送った相談メールの印刷と、零番線の切符写真、匿名コメントのスクリーンショットが入っている。すでに黒江透子へ共有済みだ。透子からは、まず本人と相談者の安全確認をし、単独行動はしないこと、現物がある場合は触れずに写真と位置情報だけ記録すること、と返信があった。
最後に、霧生仁からも短いメッセージが届いた。
勝手に旧地下鉄へ行くな。
真昼は、その文面を見てしばらく黙った。
行くな、とだけ書かれているのに、霧生の声で再生された。
そして、たぶん後で怒られる。
まだ何もしていないのに、怒られる未来が見える。
レイはそのメッセージを見て言った。
「行かなければ怒られない」
「行かないとは言ってない」
「だから怒られる」
「御影くんまで霧生さん側についた」
「安全側」
「安全側って言うと正しく聞こえる」
「正しい」
「分かってる」
そう言いながら、真昼は図書館へ入った。
受付カウンターの横を通り、地域資料コーナーへ向かう。
待ち合わせの席は、メールで指定されていた。
新聞縮刷版の棚の近く。
人目はあるが、会話が小さければ聞こえにくい場所。
そこに、一人の少女が座っていた。
アガルタ学院の制服ではない。
紺のカーディガンに、白いブラウス。膝の上には学生鞄。髪は肩より少し長く、毛先が内側に入っている。真面目そうな印象だが、目の下には薄い隈があった。
彼女は、真昼たちを見るなり立ち上がった。
「あの、白瀬さんですか」
「はい。白瀬真昼です」
真昼は、いつもより少しだけゆっくり名乗った。
自分の名前を言うことにも、意味がある。
相手は小さく頭を下げた。
「望月莉子です。メールを送った者です」
「連絡ありがとうございます。こっちは御影レイくん。私と一緒に動いてくれてる人です」
レイは軽く会釈した。
「御影です」
莉子は、レイを見て少しだけ目を見開いた。
たぶん、真昼の記事や過去の噂で名前を知っているのかもしれない。
けれど、そのことには触れなかった。
代わりに、鞄を胸の前で抱え直す。
「来てくださって、ありがとうございます。本当に、変な相談なのに」
「変な相談は慣れてます」
真昼が言うと、レイが横で小さく言った。
「慣れてはいけない」
「慣れないとやってられない」
「それは少し分かる」
莉子は、二人のやり取りを見て、ほんの少しだけ表情を緩めた。
緊張で固まっていた顔に、人間らしい疲れが戻る。
真昼は、その変化を見てから、向かいの席に座った。
「メールの友人の方は?」
そう聞くと、莉子はすぐに表情を曇らせた。
「来ています」
真昼は、少し驚いた。
「来てる?」
「はい。あっちの閲覧席に……」
莉子が視線で示す。
窓際の席。
地域資料コーナーから少し離れた場所に、もう一人の少女が座っていた。
灰色のパーカー。
黒いスカート。
膝に開いたノート。
片手にペンを持ったまま、じっと紙を見ている。
年齢は真昼たちと同じくらいに見えた。
肩までの髪は少し乱れ、横顔は青白い。
彼女は、窓の外を見ているのではない。
ノートの一番上を見ている。
そこには、名前を書く欄があった。
図書館の利用申込用紙。
真昼は、胸が少し冷えるのを感じた。
莉子が小さく言う。
「雨宮紗良です」
言った直後、彼女ははっとして口を押さえた。
「あ、すみません。名前、言わないほうがよかったですか」
真昼はすぐに首を横に振った。
「今は大丈夫です。ただ、本人が嫌がるなら、呼び方を変えましょう」
「本人は……最近、名前で呼ばれるのを嫌がります」
「苗字も?」
「苗字も、下の名前も。あだ名も」
莉子は、窓際の少女を見た。
「でも、名前を呼ばないと、どんどん遠くなる気がして」
その言葉は、真昼の胸に刺さった。
名前を呼ばないと遠くなる。
名前を呼ぶと傷つけるかもしれない。
どちらも本当だ。
灯里の手帳にあった問いが、また胸の奥で開く。
真昼は、莉子へ向き直った。
「最初から教えてください。いつ頃からですか」
「三日前です。最初は、授業中に小テストの名前欄が書けなかったって言ってました」
「書けなかったというのは、漢字を忘れた?」
「いえ。漢字は分かるって言ってました。でも、手が止まるって。自分の名前を書こうとすると、指が動かなくなるって」
「その用紙は残ってますか」
「写真を撮りました」
莉子はスマホを出し、画像を見せた。
小テストの紙。
上部の名前欄。
雨宮、と書きかけたような跡がある。
だが、その先がない。
雨、の字も途中で薄れている。
宮の一部は、紙に鉛筆を置いた跡だけが残っている。
まるで、本人が途中で忘れたのではなく、書いた線そのものが紙から離れていったようだった。
レイが画面を見つめる。
真昼は、彼の表情を横目で確認した。
強い混線ではない。
でも、反応はある。
「御影くん」
「うん」
「何か見える?」
「まだ、記憶じゃない」
「じゃない?」
「呼ばれるのを避ける感覚だけ。誰かの人生が流れ込んでる感じは薄い」
莉子が、不安げに二人を見る。
「あの、どういう意味ですか」
真昼は、言葉を選んだ。
全部は説明できない。
だが、曖昧にしすぎてもいけない。
「私たちは、名前が消えるような現象を何度か見ています。でも、それにも種類があります。誰か別の記憶が流れ込んで、自分の名前が揺れる場合もある。記録から名前が欠ける場合もある。今回の雨宮さんは、少し違うかもしれません」
「違う?」
莉子の声が小さくなる。
レイが続けた。
「名前が消されているというより、本人が少しずつ手を離しているように見える」
莉子は息を呑んだ。
「紗良が、自分で?」
「無意識だと思う」
レイは静かに言う。
「でも、呼ばれたくない気持ちが、何かに引っ張られてる」
莉子は、窓際の少女を見る。
雨宮紗良。
その名前を声に出さず、唇だけが動いた。
「紗良は、前から名前を嫌がってました」
莉子は言った。
「自分の名前、綺麗すぎて嫌だって。雨宮紗良なんて、きらきらしてて、期待されてるみたいで嫌だって」
真昼は黙って聞いた。
「それだけじゃなくて……中学の頃、少し炎上したことがあったんです」
「炎上」
「SNSで。学校の愚痴を書いたら、クラスの子に見つかって、スクショされて、本名を晒されて」
莉子の声が震えた。
「雨宮紗良って名前が、検索すれば出るようになりました。大したことじゃないって言う人もいました。でも、本人にとっては大きかったんです。名前を検索するのが怖くなって。新しいアカウントを作っても、また見つかるんじゃないかって」
真昼の指が、ノートの端を握った。
名前が、傷になる。
記事のコメント欄で見た言葉が思い出される。
記録することは暴力。
本名を晒すことも、記録だ。
誰かを残すことと、誰かを傷つけることは、ときどき同じ道具で行われる。
「家では?」
真昼が聞いた。
莉子は、少し迷った。
「たぶん、あまり名前で呼ばれてません。お姉ちゃん、とか、あんた、とか。弟の面倒を見てるから、家ではずっとお姉ちゃんで。ちゃんと雨宮紗良って呼ばれるのは、怒られる時か、学校の書類か、病院の受付くらいだって」
「呼ばれる時が、嫌な時ばかりだったんですね」
「はい」
莉子は俯いた。
「でも、私は名前で呼んでました。紗良って。本人も、私には最初は怒らなかった。でも最近は、それも嫌がるようになって」
「無名切符を見つけたのは?」
「昨日の夜です。紗良の部屋に行ったら、机の上にあって」
「本人は?」
「いました。まだ、いました」
莉子はそこを強調した。
真昼は、メールに書かれていた「昨日の夜から連絡が取れません」という一文を思い出す。
「連絡が取れなかったのは?」
「夜中から今朝までです。さっき、図書館にいるって連絡が来ました。『名前を書く練習をしてる』って」
莉子の目に涙が浮かんだ。
「でも、あれは練習じゃない。書けないことを確かめに来てるだけです」
真昼は、窓際の席へ視線を向けた。
雨宮紗良は、まだノートを見ている。
ペン先は紙に触れている。
でも、線は増えない。
真昼は静かに立ち上がった。
「話してもいいか、聞いてきます」
「お願いします」
莉子が頭を下げる。
レイも立ち上がる。
真昼は彼を見る。
「一緒に?」
「一緒に」
「私が話してる時、見えたら止めて」
「君が踏み込みすぎたら?」
「止めて」
「物理的に?」
「さっきも言ったけど、それは困る」
「じゃあ名前を呼ぶ」
「それで」
二人は窓際の席へ向かった。
*
雨宮紗良は、近くで見るとさらに疲れていた。
肌は青白く、唇の色も薄い。
けれど、目だけは妙にはっきりしている。
眠っていない人間の目ではない。
何か重いものを一つ降ろした後のような、静かな目だった。
真昼が近づくと、彼女は顔を上げた。
「白瀬真昼さん」
先に名前を呼ばれた。
真昼は少しだけ驚く。
「はい。あなたは……今、どう呼べばいいですか」
名前を言いかけて、止めた。
紗良は、その小さな停止を見ていた。
そして、少しだけ笑った。
「莉子から聞いたんですね」
「聞きました」
「気を遣われるの、変な感じ」
「嫌ですか」
「嫌じゃないです」
紗良は、ノートを閉じなかった。
開いたまま、名前欄が見えている。
白い空欄。
何も書かれていない。
真昼は、向かいの席に座った。
レイは隣に立ったまま、少し距離を取る。
図書館の窓の外では、灰色の雲が低く流れている。
「莉子さんから、相談を受けました」
真昼は言った。
「友達思いですよね」
紗良の声は平坦だった。
責めているようでも、感謝しているようでもない。
「迷惑ですか」
「分かりません」
「分からない?」
「助けてほしい気もするし、放っておいてほしい気もする」
真昼は、その答えをメモしなかった。
今書くのは違う気がした。
紗良は、ペンを指先で回す。
「記事、読みました。天沢灯里さんの記事」
真昼は、少し背筋を伸ばした。
「ありがとうございます」
「名前を残す記事でしたね」
「はい」
「読んで、少し怖かった」
真昼は、すぐに言い返さなかった。
紗良は続ける。
「白瀬さんは、消えそうな名前を残したい人なんですよね」
「そうです」
「じゃあ、私は白瀬さんにとって、残さなきゃいけない人ですか」
その問いは鋭かった。
静かだったから、余計に刺さった。
真昼はすぐに答えられない。
以前なら、はい、と答えていたかもしれない。
あなたの名前も残したい。
消える前に記録したい。
そう言っていたかもしれない。
でも今は、その答えが相手を傷つけることを知っている。
「あなたが望むなら」
真昼は言った。
紗良は、少しだけ目を細めた。
「望まなかったら?」
「今は、無理に名前を聞きません」
「今は?」
「はい。今は」
「いつかは聞く?」
「必要になったら。あなたが消えそうになったら」
「消えたいのに?」
真昼は、息を止めた。
紗良は、窓の外を見た。
「名前が消えたら、楽になったんです」
その声は、怖いほど穏やかだった。
「最初はびっくりしました。答案用紙に名前が書けなくて、頭が真っ白になって。でも、そのあと、すごく静かになった。名前を書かなくていいんだって。名前を見られなくていいんだって」
彼女は自分のスマホを取り出した。
画面を開く。
プロフィール欄。
アイコンはある。
投稿もある。
自己紹介文も残っている。
だが、名前欄だけが空白だった。
「これを見た時、怖いより先に、よかったって思いました」
「よかった」
「はい」
「どうして?」
紗良は、少しだけ笑った。
その笑いには、自分を馬鹿にするような響きがあった。
「だって、もう検索されない。もうスクショされても、名前が出ない。もう雨宮紗良って呼ばれない。綺麗な名前ですねって言われない。名前負けしてるねって笑われない。家でお姉ちゃんって呼ばれて、学校で名字で呼ばれて、ネットでフルネームを晒される。そういう全部から、少し離れられる」
真昼は何も言えなかった。
名前が消えたら、楽になった。
その言葉は、真昼がこれまで見てきた名前欠落と正反対だった。
エミーは名前を取り戻すことで、ひとりの女性として戻った。
古河千景は、自分のメモ帳に何度も名前を書くことで、自分を守ろうとしていた。
天沢灯里は、名前を残すために記録した。
真木彼方は、透子に名前を呼んでほしがっていた。
でも、目の前の少女は言う。
名前が消えたら楽になった。
真昼は、胸の奥が揺れるのを感じた。
「でも」
莉子の声がした。
いつの間にか近くまで来ていた。
紗良は顔を上げる。
莉子は、泣きそうな顔で立っていた。
「でも、私は嫌だよ」
「莉子」
「だって、呼べなくなるじゃん」
莉子の声が震える。
図書館の中なので、大きな声ではない。
それでも、感情は抑えきれていなかった。
「名前が嫌なら、呼び方変えるよ。あだ名でも、名字でも、何も呼ばないでもいい。でも、全部消えるのは嫌だよ。私だけでも覚えていたいよ」
紗良は、少し困った顔をした。
「莉子は、そう言うと思った」
「分かってるなら」
「でも、それも重い」
莉子が固まる。
紗良は、すぐに目を伏せた。
「ごめん。ひどいこと言ってるのは分かってる。でも、重いんだよ。覚えてるって言われるのも、残すって言われるのも。私がもう捨てたいものを、誰かが大事に持ってるの、苦しい」
莉子は、何も言えなくなった。
真昼も、何も言えなかった。
言葉が、喉の手前で止まる。
名前を残すことは、救いだけではない。
残されたくないものを残すこともある。
誰かのために覚えているつもりで、その人の逃げ道を塞ぐこともある。
レイが、静かに言った。
「それでも、全部捨てたら戻れなくなるかもしれない」
紗良は、初めてレイをちゃんと見た。
「あなたは、戻ったことがあるんですか」
「あります」
レイは短く答えた。
「名前を呼ばれて?」
「はい」
「じゃあ、呼ばれたくなかったことは?」
レイは、少しだけ黙った。
「あります」
「それでも戻るほうがいいと思う?」
「分かりません」
紗良は、少し驚いたようだった。
レイは続ける。
「僕の場合は、呼ばれなければ危なかった。でも、あなたが同じかは分からない」
「分からないのに止めるんですか」
「止めます」
「どうして」
「零番線は、あなたの味方のふりをしているだけかもしれないから」
紗良の指が止まった。
ペンが、ノートの上で小さく揺れる。
「零番線」
彼女は呟いた。
その言葉を口にした瞬間、窓の外が少し暗くなった。
雲が太陽を隠しただけかもしれない。
けれど真昼には、図書館の空気が一段冷えたように感じられた。
「その切符」
真昼が聞く。
「どこで手に入れたんですか」
「分かりません」
「誰かにもらった?」
「たぶん」
「誰に?」
「覚えてません」
「黒い傘の人?」
思わず聞いてしまった。
紗良は首を傾げる。
「傘?」
「雨の日でしたか」
「はい」
「どこで?」
「旧地下鉄の入口の近く。たぶん」
「たぶん?」
「最近、場所の記憶も少しぼやけます。名前が消えると、場所も薄くなるみたいで」
レイが、わずかに眉を寄せた。
「記憶混線とは違う」
真昼が小声で聞く。
「うん。誰かの記憶が入ってるというより、自分の記録が薄くなってる」
「記録」
「名前を手放しかけた人が、零番線に引かれてる」
紗良は、二人の会話を静かに聞いていた。
怖がっているようにも、諦めているようにも見える。
だが、その奥には、やはり安心がある。
自分の名前が消えていくことへの安心。
それが、真昼には苦しかった。
「あなたは」
真昼は、慎重に言葉を選んだ。
「本当に、名前を全部捨てたいですか」
紗良は、すぐには答えなかった。
窓の外を見る。
空はさらに暗い。
雨が来る。
そう分かる色だった。
「分かりません」
彼女は言った。
「でも、今は、持っているほうがつらい」
その答えは、真昼の中に静かに沈んだ。
真昼は、ノートを開いた。
書いていいか、目で確認する。
紗良は、少し迷ってから頷いた。
真昼は書いた。
本人発言。
名前が消えたら楽になった。
今は、持っているほうがつらい。
書きながら、胸が痛んだ。
これは記事ではない。
非公開記録。
いつか必要になった時のために残すもの。
今すぐ誰かに見せるためではない。
紗良が、その文字を見て言った。
「書くんですね」
「はい」
「公開しますか」
「しません」
「本当に?」
「今は」
「また、今は」
「はい」
真昼は顔を上げた。
「私は記録します。でも、あなたの名前を勝手に記事にしません。いま書いているのは、あなたを探すためと、あなたが消えそうになった時に戻れる場所を作るためです」
「戻りたくなかったら?」
「その時、また聞きます」
「しつこいですね」
「よく言われます」
紗良は、少しだけ笑った。
今度の笑いは、自分を削るためのものではなかった。
ほんの少しだけ、人に向けた笑いだった。
*
紗良の家は、図書館から坂を二本下った場所にあった。
古いマンションの三階。
白い外壁は雨で少し黒ずみ、廊下には濡れた傘の匂いがあった。
莉子が同行を頼み、紗良本人も許可したため、真昼とレイは部屋を確認することになった。
もちろん、透子には連絡した。
返信はすぐ来た。
現物には触れないでください。
位置関係を撮影。
可能なら本人の同意を得て、警察に共有。
霧生からは一分遅れで来た。
現場に行くなと言ったはずだ。
真昼は、それを見て少しだけ肩をすくめた。
「怒ってる」
レイが言う。
「うん」
「既読つけた?」
「つけた」
「返事は?」
「今からします」
真昼は短く打った。
本人同意あり。部屋確認のみ。現物には触りません。
すぐに返事が来た。
信用してない。御影、見張れ。
レイにも同じ文面が届いたらしい。
彼はスマホを見て、真昼を見た。
「見張る」
「御影くん、完全に霧生さん側」
「安全側」
「便利な言葉」
「便利だから」
紗良は、そのやり取りを不思議そうに見ていた。
「仲いいんですね」
真昼とレイは、一瞬だけ黙った。
「相互監視です」
真昼が言う。
「相互保守点検」
レイが続ける。
「何ですか、それ」
紗良が少し笑う。
莉子も、少しだけ安心したような顔をした。
紗良の部屋は、整っていた。
机、本棚、ベッド、小さなクローゼット。
壁には、ポストカードが数枚貼ってある。海の写真、雨の街の写真、読めない外国語のポスター。棚には参考書と小説、ノート、古いCD。机の端には、ペン立てと、白いマグカップ。
そして、机の中央に切符があった。
一枚ではない。
何枚も。
真昼は、息を止めた。
白い切符。
何も印字されていないもの。
端が少し湿っているもの。
完全に乾いているもの。
重なっているもの。
机の上だけでなく、引き出しの隙間、ノートの間、参考書の下にも見える。
莉子が震えた声で言った。
「昨日は、一枚だけだったのに」
紗良は、ぼんやりと机を見ていた。
「増えてる」
「自分で置いた?」
真昼が聞く。
「覚えてません」
紗良はそう答えた。
嘘ではなさそうだった。
真昼はスマホで写真を撮る。
机全体。
切符の位置。
ノートとの関係。
床。
窓。
ゴミ箱。
レイは、机の前で立ち止まったまま動かない。
顔色が少し悪い。
「御影レイ」
真昼が呼ぶ。
「白瀬真昼」
「何か見える?」
「少し」
「混線?」
「弱い。誰かの人生じゃない。駅の匂い」
「駅の匂い」
「古い改札。名前欄。水音。あと……呼ばれたくない人たちの気配」
紗良が小さく息を吸った。
レイは続けた。
「同魂者じゃない。少なくとも、あなたは僕と同じではない」
「同じ?」
紗良が聞く。
「すみません。説明が難しい」
レイは少しだけ困った顔をした。
真昼が補足する。
「御影くんは、特定の人たちの記憶に反応することがあります。でも、今あなたから感じているのは、それとは違うみたいです」
「じゃあ、何ですか」
紗良は聞いた。
真昼は、机の上の切符を見た。
「名前を手放しかけた人を、零番線が呼んでいる」
言葉にすると、部屋の空気が少し変わった。
窓の外で、雨が降り始める。
ぽつり。
ガラスに一滴。
また一滴。
切符の一枚に、窓から跳ねた雨粒が落ちた。
薄く文字が浮かぶ。
零番線。
莉子が小さく悲鳴を上げた。
紗良は、目を逸らさなかった。
むしろ、引き寄せられるように見つめている。
「綺麗」
彼女は呟いた。
真昼の胸が冷える。
「綺麗?」
「はい。だって、何も書いてないのに、行き先だけある」
「行きたいですか」
紗良は答えなかった。
答えないことが、答えに近かった。
レイが一歩前に出る。
「行かないでください」
紗良は彼を見る。
「どうして」
「戻れないかもしれない」
「戻らなくていいなら?」
レイは、答えに詰まった。
真昼も、すぐには言えなかった。
戻らなくていい。
そう言う人に、戻れと言うことは、何なのか。
救いなのか。
押しつけなのか。
それでも、真昼は言った。
「戻らないかどうかは、名前がある場所で決めてください」
紗良が、少しだけ眉を寄せた。
「どういう意味ですか」
「今のあなたは、名前を持っているのがつらい。でも、零番線へ行った後のあなたは、もう自分が何を捨てたか分からなくなるかもしれない。捨てるかどうかを決めたことすら、覚えていられないかもしれない」
「それでも楽なら」
「楽かどうかも、分からなくなるかもしれない」
真昼の声は震えていた。
それでも、言った。
「だから、今は行かないでください。名前を戻すとは言いません。呼びません。でも、捨てるのは少し待ってください」
紗良は黙った。
雨音が部屋を満たす。
莉子は、泣きそうな顔で紗良を見ている。
レイは、机の切符から目を離さない。
真昼は、自分がどれほど難しいことを言っているか分かっていた。
待ってほしい。
それは、灯里が選んだ優しさに近い。
名前が怖いなら、今日は呼ばない。
でも、真昼の中には別の強さもある。
消えそうなものを前にしたら、黙っていられない。
だから、今はこう言うしかなかった。
呼ばない。
でも、行かせない。
矛盾している。
それでも、目の前の人を失いたくなかった。
紗良は、机の上の切符へ手を伸ばしかけた。
真昼が息を止める。
しかし紗良は、触れる直前で手を止めた。
「少しだけ」
彼女は言った。
「少しだけ、待ちます」
莉子が泣き出しそうな顔で頷いた。
「ありがとう」
「まだ、ありがとうって言わないで」
「うん」
真昼は、ゆっくり息を吐いた。
レイも小さく肩の力を抜く。
だが、緊張は終わらなかった。
机の上の切符が、雨音に合わせるように少しずつ湿っていく。
真昼は、切符に触れないようにしながら、一枚ずつ写真を撮った。
すべて、名前欄が空白だった。
発駅も空白。
着駅も空白。
運賃も空白。
ただ、雨粒が乗ったものだけに、零番線と浮かぶ。
その時、レイが机の端にある一枚を指した。
「それ」
真昼は、ライトを当てる。
切符の裏側が、少しだけ見えていた。
他の切符と違って、裏面に何かが書かれている。
ただし、薄い。
鉛筆の跡のような文字。
真昼は、触らずにスマホを近づけ、拡大した。
画面の中で、文字が浮かぶ。
K-117。
真昼の呼吸が止まった。
レイの顔色が、はっきり変わる。
莉子は意味が分からず、二人を見る。
紗良は、なぜかその番号を見て、少しだけ首を傾げた。
「それ」
彼女は言った。
「夢で見ました」
真昼は、ゆっくり振り返る。
「夢?」
「白い部屋で、誰かが呼んでた」
紗良は、自分の名前が書けないノートを見るような目で、切符の裏側を見ていた。
「先生って」
レイが、小さく息を吸う。
真昼は、胸の奥で水音を聞いた。
ぽたり。
ぽたり。
K-117。
真木彼方。
まだ呼べない名前が、零番線の切符の裏から、こちらを見ていた。




