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多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第三巻:真木彼方と零番線
25/82

第一章 天沢灯里の記事のあと

 記事は、雨が上がった翌朝から読まれ始めた。


 最初は、旧新聞部室の古いノートパソコンの画面に表示された小さな数字でしかなかった。


 アクセス数、二十七。


 コメント、三件。


 真昼はその数字を見て、まだ大きく息を吐けなかった。


 公開ボタンを押した時、指は震えていた。


 それは、エミー・グレイス・ハーパーの記事を書いた時の震えとは少し違っていた。あの時は、書かなければ消えてしまうという焦りが強かった。自分が書かなければ、誰も彼女の名前を残さない。そんな切迫感が、真昼の背中を押していた。


 でも、今回は違う。


 天沢灯里。


 その名前は、もう真昼の中にある。


 旧新聞部室の床下から見つかった濡れた手帳。


 封鎖連絡層の奥で開いた記録室。


 乾いたまま残っていた欠落ページ。


 そこに書かれていた署名。


 天沢灯里。


 彼女はもう、真昼だけの中に閉じ込められてはいない。市警の保全記録にも、透子の報告書にも、レイの記憶の外側にも、そして《アガルタ観測録》の記事にも残った。


 それなのに、公開したあとの胸のざわつきは消えなかった。


 旧新聞部室は、朝の光の中にあった。


 窓ガラスには、昨日の雨の名残が細かく残っている。窓枠の外側に溜まった水が、時々、重さに耐えきれず一滴ずつ落ちた。遠くからは、新校舎へ向かう生徒たちの声が聞こえる。スニーカーの音、笑い声、朝練帰りの吹奏楽部がケースを運ぶ音。誰かが誰かの名前を呼ぶ声。


 ここだけが、少し時間から外れているようだった。


 古い机。


 壁一面の切り抜き。


 剥がれかけた都市伝説マップ。


 天井近くに積まれた学院新聞の束。


 印刷機の横に置きっぱなしの紙コップ。


 そして、机の中央に置かれたノートパソコン。


 その画面に、真昼の書いた記事が表示されている。


 タイトルは、


 天沢灯里は、名前を残した


 真昼はそのタイトルを何度も見直した。


 強すぎないか。


 断定しすぎていないか。


 灯里の人生を、自分の言葉で飾りすぎていないか。


 記事本文も、公開前に何度も読み返した。超常部分は書いていない。封鎖連絡層も、黒い傘も、記録者系アニマも、ノクターン書房の青年のことも、名前が本当に欠ける現象の詳細も書いていない。


 書いたのは、資料から確認できることだけだ。


 アガルタ学院に天沢灯里という卒業生がいたこと。


 在学中、図書委員として旧新聞部資料の整理に関わっていたこと。


 名前が欠けた古い記事を集めていたこと。


 彼女自身の名が、資料の中で一時読みにくくなっていたこと。


 それでも、自筆の署名が残っていたこと。


 そして最後に、こう書いた。


 天沢灯里。


 彼女は、誰かの名前を残そうとしていた。


 だから私は、彼女の名前をここに残す。


 それだけだ。


 それだけのはずだった。


 それでも、コメント欄は静かにはならなかった。


 朝八時を過ぎる頃には、アクセス数は三桁を超えていた。


 授業の予鈴まで、まだ少し時間がある。


 真昼は、椅子に座ったままコメント欄を開いた。


 最初のコメントは短かった。


 ――天沢灯里さん、覚えています。図書室でよく見かけました。静かな人でした。


 真昼は、指を止めた。


 覚えています。


 その言葉だけで、胸が少し温かくなる。


 灯里は、誰かの記憶の中にもいた。


 資料だけではない。


 手帳だけではない。


 記録室の白い光だけではない。


 図書室で、誰かに見られていた。


 古い本を運んでいたのかもしれない。カウンターで貸出カードを整理していたのかもしれない。雨の日に、銀色のヘアピンで前髪を留め直していたのかもしれない。


 次のコメント。


 ――旧新聞部室ってまだ残ってるんですね。灯里先輩が整理してた資料、今もあるなら見たいです。


 また次。


 ――図書委員だった人ですよね。名前、たしか卒業アルバムで見たことがあります。


 真昼は、少しだけ目を細めた。


 卒業アルバム。


 見たことがある。


 その言葉が残るだけで、灯里は少しずつ戻ってくる。


 けれど、コメント欄は優しい言葉だけではなかった。


 ――死者を記事にしてアクセス稼ぎですか。


 ――本人が望んでいたか分からないのに、勝手に名前を出すのはどうなんでしょう。


 ――記録することは暴力だと思います。


 真昼は、その一文を長く見つめた。


 記録することは暴力。


 喉の奥が、少しだけ詰まる。


 反論は、すぐに浮かんだ。


 違う。


 消えるほうが暴力だ。


 誰にも呼ばれなくなるほうが怖い。


 資料から名前だけが抜け落ちて、番号だけが残るほうが残酷だ。


 灯里は名前を残そうとしていた。


 古河千景は、自分のメモ帳に何度も名前を書いていた。


 エミーは、自分の名前を覚えてほしいと願っていた。


 だから書いた。


 だから、私は――。


 そこまで考えて、真昼は手を止めた。


 キーボードの上に置いた指が、少しだけ震えている。


 コメント返信欄は開かない。


 すぐには書かない。


 そう決めた。


 灯里の手帳が、頭の中で開く。


 名前をなくした人に、名前を聞くのは暴力かもしれない。


 でも、聞かなければ、その人は本当に消えてしまう。


 その二つの文は、どちらかだけを選べるものではなかった。


 記録することは暴力かもしれない。


 でも、記録しなければ消えるかもしれない。


 真昼は、その矛盾を抱えたまま書いた。


 だから、批判が届くのは当然だった。


 それは敵の言葉ではない。


 灯里の手帳の中にもあった問いだ。


 真昼は、コメントの横に小さくメモを残した。


 返信保留。


 要検討。


 反論ではなく、次の記事の前に考えること。


 書き終えてから、自分で少し驚いた。


 以前なら、すぐ返信していたかもしれない。


 相手の名前も知らないまま、画面越しに言い返していたかもしれない。


 いまは、少し待てる。


 待つことが、こんなに重いとは思わなかった。


 旧新聞部室の扉が、軽く叩かれた。


 真昼は顔を上げる。


「開いてます」


 扉が軋んで開く。


 御影レイが立っていた。


 制服のブレザーをきちんと着て、片手にコンビニの袋を持っている。髪は少し湿っていた。雨はもう止んでいるが、朝の空気にはまだ水分が残っている。


「おはよう」


 真昼が言う。


「おはよう」


 レイは短く返した。


 そして袋を机に置く。


「差し入れ」


「早い」


「母さんが、どうせ食べてないだろうからって」


「佳乃さん、私の扱いが完全に分かってきたね」


「食べてないの?」


「食べました」


「何を」


「ええと」


 真昼は机の上を見た。


 昨日の夜から置いてあるチョコバーの空き袋が一つ。


 それを見たレイが、無言で袋からサンドイッチを取り出した。


「食べてない」


「チョコは食べた」


「食事じゃない」


「脳の栄養」


「身体は?」


「身体もついでに動いてる」


「その理屈を母さんに言ったら怒られる」


「佳乃さんに怒られるのはちょっと嫌だな」


 真昼は観念して、サンドイッチを受け取った。


 ツナサンドだった。


「ツナ」


「卵もある」


「御影くん、私を餌付けしてる?」


「保守点検」


「私は旧地下鉄設備じゃないです」


「よく壊れる」


「否定しづらい言い方するのやめて」


 レイは、紙パックのカフェオレも置いた。


「こっちは甘いやつ」


「完璧」


「母さんが選んだ」


「佳乃さんに足を向けて寝られない」


「方向知らないでしょ」


「気持ちの問題」


 真昼はサンドイッチを一口食べた。


 思っていた以上に空腹だった。


 口の中に味が広がった瞬間、自分が朝から何も食べていなかったことを身体が思い出す。


 レイは向かいに座った。


 すぐに画面は覗かない。


 その距離感が、いつの間にか当たり前になっていた。


 最初の頃なら、彼はもっと遠かった。


 同級生としても、協力者としても、誰かの名前を呼び合う相手としても、彼は今よりずっと離れた場所にいた。


 いまは、コンビニ袋を机に置き、真昼が食べ終えるまで黙って待っている。


 それだけのことが、少し不思議だった。


「読まれてる?」


 レイが聞いた。


「うん。思ったより」


「コメントは?」


「賛否両方」


「見せて」


「いいけど、傷つくよ」


「僕が?」


「私が」


「じゃあ、やめる?」


「見る」


「結局見るんだ」


「記録者なので」


「便利な言葉」


「便利だから」


 真昼はノートパソコンを少しだけレイのほうへ向けた。


 レイは画面を読む。


 眉はほとんど動かない。


 でも、真昼には分かる。


 彼はコメントの文面だけではなく、その背後にいる人間を見ようとしている。


 天沢灯里を覚えている人。


 名前を残してくれてありがとうと書いた人。


 死者を記事にするなと怒った人。


 記録することは暴力だと言った人。


 それら全部を、ひとつの反応として処理しない。


 御影レイは、そういう読み方をするようになった。


「この人」


 レイが、あるコメントを指した。


 ――記録することは暴力だと思います。


「うん」


「返事する?」


「まだ」


「珍しい」


「自覚あります」


「どうして?」


「正しいこと言ってるから」


 レイは真昼を見た。


「批判が?」


「うん。全部正しいわけじゃない。でも、間違ってもない」


 真昼は、カフェオレのストローを刺した。


 甘い匂いが少しだけ広がる。


「灯里さんの記事を書いたこと、後悔はしてない。でも、彼女の名前を公開することで、灯里さんを知らない人の目にも触れる。好奇心だけで読む人もいる。怒る人もいる。勝手に想像する人もいる。それは、灯里さんをもう一度傷つけることかもしれない」


「うん」


「でも、書かないままだと、灯里さんはA.A.とか、欠けた図書委員とか、そういう形でしか残らなかった」


「うん」


「だから書いた。書いたけど、書いたから正しい、とは言えなくなった」


 レイは、少しだけ黙った。


 それから言った。


「成長?」


「たぶん」


「たぶんじゃなくて?」


「……成長」


「よし」


「最近、その『よし』の使い方、慣れてきたね」


「君がよく言うから」


「私の影響で御影くんが雑に人を褒めるようになった」


「雑ではない」


「じゃあ丁寧?」


「短いだけ」


「それを雑と言うんだよ」


 真昼は少し笑った。


 レイも、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 旧新聞部室に、朝の光が入る。


 雨上がりの光は、少し白い。


 埃が小さく舞って、画面の上を流れていく。


 真昼は、ツナサンドをもう一口食べる。


 レイは、コメント欄を読み続けていた。


 その指が、あるコメントの上で止まる。


「これ」


 真昼は画面を覗き込んだ。


 新着コメントだった。


 投稿者名は空白。


 アイコンもない。


 本文だけが、短く表示されている。


 ――零番線では、名前を捨てられる。


 旧新聞部室の空気が、少しだけ冷えた。


 真昼の手が止まる。


 ツナサンドの包み紙が、指先で小さく鳴った。


「……零番線」


 真昼が呟く。


 レイは画面から目を離さない。


「昨日の最後」


「うん」


 旧地下鉄のさらに奥。


 封鎖扉の向こう。


 黒い傘を持つ影が降りていった、深い階段。


 駅名標に一瞬だけ浮かんだ言葉。


 零番線。


 真昼は、それを記事には書いていない。


 透子の報告書にも、まだ一般公開される形では載っていない。


 霧生も、倉科も、特異殺人対策室の関係者以外には話していないはずだ。


 ノクターン書房の青年は知っていた。


 オメガも、おそらく知っている。


 そして今、その言葉がコメント欄にある。


「誰が」


 真昼は言いかけて、口を閉じた。


 誰が書いたのか。


 分かるわけがない。


 分かっているなら、こんなに怖くはない。


 レイが静かに言う。


「削除する?」


「しない」


「即答」


「削除したら、消えるかもしれない」


「残したら?」


「誰かが見る」


「危険かもしれない」


「分かってる」


 真昼は、コメントの横に管理者用メモを付けた。


 要保全。


 スクリーンショット。


 投稿時刻記録。


 IP確認不可なら透子さんへ。


 以前なら、まずコメント本文を大きく取り上げていたかもしれない。


 《アガルタ観測録》の新たな怪異コメント。


 零番線とは何か。


 旧地下鉄との関連は。


 そういう見出しが、頭に浮かばないわけではない。


 でも、今は公開しない。


 これは、すぐに記事にしていいものではない。


 零番線では、名前を捨てられる。


 その言葉には、怖さだけではなく、誘惑があった。


 名前を捨てたい人が見るかもしれない。


 その人が、本当に下へ行ってしまうかもしれない。


 真昼は、画面から視線を外せなかった。


「御影くん」


「何」


「名前って、捨てたい人もいるんだよね」


 レイは、すぐには答えなかった。


 雨上がりの光が、彼の横顔に当たっている。


 彼は多くの人生を見てきた。


 名前を守りたかった人も。


 名前を失って怖がった人も。


 名前から逃げたかった人も、たぶん。


「いると思う」


 レイは言った。


「名前が傷になることもある」


「うん」


「でも、捨てたら楽になるとは限らない」


「うん」


「でも、楽になる人もいるかもしれない」


 真昼は、カフェオレの紙パックを両手で持った。


 甘さが、今は少し重い。


「嫌だな」


「何が」


「簡単に言えないことが増える」


「いいことだと思う」


「そうかな」


「たぶん」


「たぶん?」


「たぶん、いいこと」


 真昼は小さく笑った。


「御影くんが曖昧なこと言うようになった」


「君の影響」


「悪影響?」


「相互教育」


「便利」


「便利だから」


 二人の会話は、そこで一度途切れた。


 画面の中のコメントは、消えない。


 零番線では、名前を捨てられる。


 その文字は、黒いインクではなく、水の底から浮かび上がっているように見えた。


 真昼のパソコンが、短い通知音を鳴らした。


 メール。


 《アガルタ観測録》の問い合わせフォームから届いたものだった。


 差出人名は、ある。


 ただし、真昼はその名前を見ても、すぐには声に出さなかった。


 知らない名前。


 学院の生徒ではない。


 市外の人間でもなさそうだ。


 件名は、


 友人の名前について相談です


 真昼は、レイと目を合わせた。


「開く?」


 レイが聞く。


「開く」


「食べ終わってから?」


「今」


「ツナが乾く」


「事件が乾かない」


「それ、うまいこと言ったつもり?」


「ちょっとだけ」


「微妙」


「うるさい」


 真昼はメールを開いた。


 本文は、丁寧すぎるくらい丁寧だった。


 知らない相手に助けを求める時の、慎重な言葉。


 突然のご連絡失礼します。


 《アガルタ観測録》の記事を読みました。


 天沢灯里さんの記事を読んで、もしかしたら相談してもいいのではないかと思いました。


 友人が、自分の名前を書けなくなりました。


 最初は冗談だと思いました。


 でも、学生証の名前欄が薄くなっています。


 スマホのプロフィールからも名前が消えました。


 本人は、怖がっているというより、少し安心しているように見えます。


 「もう呼ばれなくていい」と言っていました。


 そして、昨日の夜から連絡が取れません。


 真昼は、息を止めた。


 もう呼ばれなくていい。


 その言葉が、さっきの匿名コメントと重なる。


 零番線では、名前を捨てられる。


 メールは続いている。


 友人の部屋に、古い切符のようなものがありました。


 何も印字されていませんでした。


 でも、雨に濡れたら文字が浮かびました。


 写真を添付します。


 どうしたらいいか分かりません。


 警察に言うべきなのかもしれません。


 でも、こんな話をして信じてもらえるのか分かりません。


 記事を書いた白瀬さんなら、何か知っているかもしれないと思いました。


 お願いします。


 友人を探してください。


 真昼は、ゆっくり息を吐いた。


 レイは、画面を見つめたまま動かない。


 彼の表情はいつも通り静かに見える。


 でも、目の奥だけが暗くなっていた。


「名前を書けない」


 レイが言った。


「うん」


「プロフィールから消える」


「うん」


「本人は安心している」


「うん」


「無名切符」


 真昼は、メールの下部へスクロールした。


 添付ファイルが一枚。


 画像ファイル。


 開く前に、指が止まる。


 なぜか、見てはいけない気がした。


 でも、見なければ何も始まらない。


 真昼は画像を開いた。


 画面に、濡れた切符が映った。


 白い紙。


 古い駅の床らしき灰色のタイル。


 切符の端には、水滴が乗っている。


 印字は薄い。


 それでも読めた。


 零番線。


 真昼の胸の奥で、水音がした。


 ぽたり。


 旧新聞部室の窓の外では、雨はもう降っていない。


 なのに、その音は確かに聞こえた。


 レイが低く言う。


「白瀬真昼」


 真昼はすぐに答えた。


「御影レイ」


「戻ってる?」


「戻ってる」


「記事にする?」


 その問いは、短かった。


 でも、重かった。


 真昼は画面の切符を見つめる。


 記事にすれば、多くの人が見る。


 零番線という言葉が広がる。


 名前を捨てたい誰かが、それを読んでしまうかもしれない。


 でも、書かなければ、相談者の友人は消えるかもしれない。


 無名切符事件。


 その名前が頭に浮かぶ。


 真昼は、すぐに首を横に振った。


「まだ書かない」


 レイが少しだけ目を見開いた。


「本当に?」


「本当に」


「珍しい」


「分かってる」


 真昼は新しいフォルダを作った。


 《アガルタ観測録》の公開記事フォルダではない。


 ローカルの非公開記録。


 ファイル名を打つ。


 零番線/未公開記録


 その文字を見て、真昼は少しだけ唇を噛んだ。


 未公開。


 書かないのではない。


 記録しないのでもない。


 今は、公開しない。


 それが、こんなに苦しいとは思わなかった。


 真昼は、相談メールと添付写真を保存した。


 スクリーンショットも取る。


 投稿時刻、メール受信時刻、差出人名、添付ファイル名、コメント欄の匿名投稿。


 ひとつずつ記録する。


 レイは黙って見ていた。


 彼が黙っていると、旧新聞部室の空気が少しだけ深くなる。


 やがて、真昼は言った。


「黒江さんに連絡する」


「うん」


「霧生さんにも怒られる」


「うん」


「また現場に行くなって言われる」


「うん」


「行くけど」


「うん」


「止めてよ」


「止める」


「でも行くよ」


「分かってる」


「分かってるなら、止め方を考えて」


「物理的に?」


「それは困る」


「じゃあ、同行する」


 真昼はレイを見た。


 彼は真面目な顔で言っていた。


「御影くん」


「何」


「ありがとう」


「まだ何もしてない」


「一緒に行くって言った」


「止めるため」


「はいはい」


「本当に」


「分かってる」


 真昼は、メール返信欄を開いた。


 すぐには送らない。


 でも、下書きを始める。


 ご連絡ありがとうございます。


 添付写真を確認しました。


 まず、友人の方が最後に目撃された場所、時間、服装、連絡が取れなくなった時刻を教えてください。


 可能であれば、警察への相談も並行してください。


 この件について、こちらでも信頼できる関係者へ共有します。


 そこまで打って、真昼は少し迷った。


 最後に、もう一文を追加する。


 友人の方のお名前は、今は無理に書かなくて構いません。


 ただ、あなたが呼んでいた呼び方があれば、それを教えてください。


 真昼は、その文を見つめた。


 名前を書けなくなった人。


 名前を捨てたい人。


 名前が傷になった人。


 その人に、いきなり名前を書けとは言えない。


 でも、完全な空白のままにはできない。


 呼び方。


 それなら、まだ残っているかもしれない。


 真昼は送信ボタンを押した。


 画面が切り替わる。


 送信しました。


 旧新聞部室の外で、予鈴が鳴った。


 現実が戻ってくる音だった。


 授業。


 出席。


 教室。


 教師の声。


 クラスメイトの名前。


 白瀬真昼。


 御影レイ。


 この世界には、まだ日常がある。


 それでも、画面の中には濡れた切符が残っている。


 零番線。


 レイが立ち上がった。


「授業」


「行かなきゃ駄目?」


「行かないと目立つ」


「もう目立ってる」


「悪い方向に追加される」


「それは嫌だな」


 真昼はパソコンを閉じようとして、もう一度だけ切符の画像を見た。


 白い紙。


 水滴。


 薄く浮かぶ文字。


 そこには、行き先も発駅もない。


 ただ、ひとつだけ。


 零番線。


 真昼は、ノートにその文字を書いた。


 少し強い筆圧で。


 そして、その下に小さく書く。


 名前を捨てたい人がいる。


 その人を、どう記録するのか。


 ペン先が止まる。


 答えはまだない。


 けれど、記録は始まった。


 真昼はノートを閉じた。


 レイが扉の前で待っている。


「白瀬真昼」


 彼が呼ぶ。


 真昼は鞄を掴んで立ち上がった。


「御影レイ」


「戻ってる?」


「戻ってる」


「行こう」


「うん」


 二人は旧新聞部室を出た。


 窓の外に残った水滴が、一つ落ちる。


 ぽたり。


 閉じたノートの表紙に、どこからともなく湿った匂いが移っていた。

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