表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
多元人格アルファ―幻都アガルタの自分殺し―  作者: 秋月キアラ
第三巻:真木彼方と零番線
24/82

序章 無名切符

 雨の夜には、名前がにじむ。


 そう言ったのが誰だったのか、もう思い出せなかった。


 母だった気もする。

 教師だった気もする。

 職場の上司だった気もする。

 あるいは、自分自身がいつか、誰かに向かってそう言ったのかもしれない。


 けれど、いまはどうでもよかった。


 雨が降っていた。


 幻都アガルタの夜を、細かい雨が隙間なく濡らしている。


 駅前の大通りはまだ明るい。ビルの看板、コンビニの白い照明、濡れた横断歩道に滲む信号の赤。タクシーのヘッドライトが水たまりを踏み、砕けた光が足元へ散る。傘を差した人々が足早に行き交い、誰かが誰かの名前を呼んでいた。


「佐伯さん、こっち」

「ミサキ、傘入れて」

「店長、先戻ります」

「お母さん、今どこ?」


 呼ばれた人間は、返事をする。


 手を振る。

 振り返る。

 足を止める。

 苛立った顔でスマホを見る。


 名前とは、そういうものだった。


 誰かが呼ぶ。

 呼ばれた者は、自分がそこにいることを思い出す。


 けれど、呼ばれるたびに、少しずつ削れていくものもある。


 その人は、大通りから一本外れた坂道を下っていた。


 年齢は、街灯の下では若く見えた。

 次の暗がりでは、ひどく疲れた大人にも見えた。

 髪は雨に濡れて頬に貼りつき、黒いコートの肩には細い水筋がいくつも走っている。

 傘は持っていなかった。


 持っていたのかもしれない。

 どこかに忘れたのかもしれない。

 あるいは、最初から持っていなかったのかもしれない。


 分からなかった。


 ただ、右手だけが濡れないように握り込まれていた。


 その手の中には、一枚の切符がある。


 紙の切符。


 いまどき、ほとんど使われないもの。


 アガルタ市の旧地下鉄では、ずっと前に磁気券も紙券も廃止されている。新しい地下鉄はICカードで通れる。駅員のいる窓口も減った。切符というものは、遠足の記念写真や、古い映画の中にだけ残るものになりつつあった。


 なのに、その切符は確かに手の中にある。


 濡れた指先に貼りつく、ざらついた紙。


 表には何も印字されていない。


 発駅もない。


 着駅もない。


 運賃もない。


 日付もない。


 通し番号もない。


 ただ、白い。


 雨に濡れているはずなのに、紙はふやけていなかった。


 その人は、坂道の途中で立ち止まった。


 アガルタ市の旧地下鉄入口。


 それは、地上から見ると小さな穴のようだった。


 大通りの新しい地下鉄駅とは違う。ガラス張りの出入口も、エレベーターも、明るい案内板もない。石造りの低い門、錆びた手すり、剥がれかけたタイル。入口の上には、かつて駅名標だったものが取り付けられている。


 文字は読めなかった。


 黒く汚れているのではない。


 削られているのでもない。


 そこに何かが書かれていたはずなのに、文字の意味だけが抜け落ちている。


 看板の下には、古い貼り紙が残っていた。


 立入禁止。

 関係者以外通行不可。

 旧線区画閉鎖中。


 その貼り紙の端に、新しい落書きがある。


 黒いペンで、誰かが書いたらしい。


 名前を捨てたいなら、下へ。


 その人は、笑った。


 声にはならない。


 喉の奥で、小さく空気が漏れただけだった。


「馬鹿みたい」


 そう言ったつもりだった。


 でも、口から出た音は、別の言葉に聞こえた。


「……助けて」


 自分で言って、自分で驚いた。


 誰に向けた言葉なのか分からない。


 誰かに助けてほしいのか。


 それとも、誰にも呼ばれない場所へ助けてほしいのか。


 スマホが震えた。


 ポケットの中で、何度も。


 その振動だけで、胸の奥が冷たくなる。


 見たくなかった。


 でも、見ないでいることもできなかった。


 画面を開く。


 通知が並んでいる。


 メッセージ。

 着信履歴。

 仕事の連絡。

 家族からの短い文。

 SNSの反応。

 誰かが自分をタグ付けした通知。


 そのすべてに、本来なら名前があるはずだった。


 宛名。


 ユーザー名。


 プロフィール名。


 呼称。


 表示名。


 けれど、画面の上部に表示された自分のプロフィール欄だけが、空白になっていた。


 アイコンはある。


 投稿数もある。


 フォロー数も、過去の写真も、短い自己紹介文も残っている。


 ただ、名前欄だけがない。


 そこだけ、白く抜けていた。


 まるで最初から入力されていなかったように。


 その人は、画面を見つめた。


 胸の中に、奇妙な静けさが広がる。


 恐怖ではなかった。


 怒りでもなかった。


 喪失感ですらなかった。


 むしろ、安心に近かった。


 名前がない。


 呼ばれない。


 誰かに見つけられない。


 誰かの期待に引っ張られない。


 誰かの記憶の中で、間違った形に固定されない。


 子どもの頃から、名前はいつも先回りしていた。


 その名前なら、こういう子でしょ。

 その名前なら、ちゃんとしないと。

 その名前なのに、どうしてできないの。

 その名前、変わってるね。

 その名前、前に聞いたことがある。

 その名前の人って、たしか――。


 呼ばれるたびに、自分ではない何かを押しつけられた。


 名前を好きだった時期もあったはずだ。


 小さな頃、ノートの一番上に自分の名前を書くのが好きだった。

 新しい教科書の表紙に、太いペンで名前を書くのが好きだった。

 誕生日カードにその名前があると、少し誇らしかった。


 いつからだろう。


 名前が重くなったのは。


 呼ばれるたびに、胸の奥が縮むようになったのは。


 自分の名前を検索するのが怖くなったのは。


 誰かに名前を尋ねられた時、少しだけ嘘をつきたくなるようになったのは。


 スマホの画面には、白い空欄がある。


 その空欄を見ていると、不思議と呼吸が楽になった。


「もう」


 その人は呟いた。


 雨音に混じる程度の、小さな声。


「もう、呼ばれなくていい」


 その瞬間、旧地下鉄入口の奥で、何かが動いた。


 金属の擦れる音。


 閉じられていたはずのシャッターの向こうで、古い機械が目を覚ましたような音がした。


 その人はスマホを下ろす。


 入口の闇を見つめる。


 階段の下に、灯りが一つ点いていた。


 白でも黄色でもない。


 水の底から漏れるような、青白い光。


 普段なら、そこで引き返したかもしれない。


 立入禁止の貼り紙。

 閉鎖された旧線。

 夜の地下。

 雨の日の無人駅。


 まともな人間なら入らない。


 けれど、自分がまともだった時期がいつまでだったのか、もう思い出せなかった。


 その人は階段へ近づいた。


 一段目に、雨水が溜まっている。


 二段目に、古い泥がある。


 三段目に、誰かの靴跡があった。


 新しい。


 黒い靴跡。


 まるで、誰かが少し前に降りていったように。


 その人は、手の中の切符を見た。


 白いままだった。


 何も書かれていない。


 しかし、切符の端に雨粒が一滴落ちた。


 ぽたり。


 雨粒は紙の上で弾けず、吸い込まれもしなかった。


 丸い水滴のまま、白い紙の上に留まる。


 その下から、文字が浮かび上がった。


 零番線。


 その人は、息を止めた。


 文字は、印刷ではなかった。


 インクでもない。


 紙の内側に沈んでいたものが、水に触れて浮かび上がったようだった。


 零番線。


 その三文字を見た瞬間、頭の奥で誰かが囁いた。


 ここなら、名前を置いていける。


 ここなら、誰も呼ばない。


 ここなら、呼ばれたくなかった過去ごと、静かに沈めてくれる。


 その声は優しかった。


 恐ろしいほど優しかった。


 命令ではない。


 脅しでもない。


 ただ、疲れた人間の隣に座って、濡れた肩へ毛布を掛けるような声。


 もう、頑張らなくていい。


 もう、返事をしなくていい。


 もう、あなたの名前を説明しなくていい。


 その人は階段を降りた。


 一段。


 また一段。


 雨音が遠ざかる。


 地上の車の音が薄れる。


 スマホの電波表示が揺れる。


 階段の壁には、古いタイルが貼られていた。


 白いタイル。


 ところどころ剥がれ、その下から灰色のコンクリートが覗いている。


 壁には落書きがある。


 読めるものと、読めないもの。


 誰かの名前らしいものもある。


 しかし、ほとんどは途中で途切れていた。


 ミナ――

 佐――

 K-――

 先生、僕――

 ここで――

 名前を――


 階段の踊り場に、小さな鏡があった。


 曇っている。


 古い駅にある防犯用の凸面鏡。


 その人は、そこに映った自分を見る。


 輪郭が歪んでいた。


 顔は見える。


 目も、口も、髪も、濡れた肩も見える。


 けれど、それが誰なのか、うまく結びつかない。


 自分だ。


 それは分かる。


 でも、自分の名前が出てこない。


 頭の奥に、空白がある。


 そこには何かがあったはずなのに、いまは白い。


 その白さに、また安心した。


 怖いはずなのに、安心する。


 そのことが、少しだけ怖かった。


 スマホがまた震えた。


 画面を見る。


 着信。


 発信者名は表示されていない。


 番号だけが出ている。


 けれど、その番号に見覚えがあった。


 たぶん、家族。


 たぶん、職場。


 たぶん、自分を呼ぶ人。


 出なければならない。


 そう思った。


 けれど、指は動かなかった。


 鳴り続ける。


 雨に濡れた旧地下鉄の階段で、スマホの画面だけが白く光っている。


 その光の中に、名前欄のないプロフィールが浮かぶ。


 空白。


 何もない。


 呼ばれない。


 その人は、着信を切った。


 そして、スマホのメモアプリを開いた。


 なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。


 最後に一度だけ、自分の名前を書こうと思ったのかもしれない。


 置いていく前に、確かめたかったのかもしれない。


 あるいは、まだ完全には捨てたくなかったのかもしれない。


 新規メモ。


 白い画面。


 カーソルが点滅している。


 その人は、親指を置いた。


 名前を書く。


 書けるはずだった。


 何度も書いてきた。


 学校のプリントに。


 契約書に。


 履歴書に。


 病院の問診票に。


 宅配便の受け取り欄に。


 誰かへのメッセージの最後に。


 自分の名前。


 自分だけのものだったはずの文字。


 けれど、最初の一文字が出てこなかった。


 指が止まる。


 キーボードの上で、ひらがなも、漢字も、アルファベットも、どれも遠い。


 候補欄には何も出ない。


 変換履歴もない。


 まるで、その名前を一度も入力したことがないように。


 その人は、笑った。


 今度は声が出た。


 乾いた笑い。


 雨に濡れた地下階段には、あまりにも軽すぎる音。


「ひどいな」


 誰に言ったのか分からない。


 スマホにか。


 自分にか。


 この街にか。


 それとも、名前にか。


 切符を握る手に力が入る。


 零番線の文字は、まだ薄く光っていた。


 その光が、指の隙間から漏れる。


 階段の下に、古い改札が見えた。


 無人改札。


 ずっと前に使われなくなったはずの機械。


 天井から垂れた電線。


 割れたタイル。


 錆びた金属。


 その奥に、閉じられたゲートが並んでいる。


 ひとつだけ、ランプが点いていた。


 赤でも青でもない。


 白い。


 改札機の上部には、小さな表示欄がある。


 そこに、文字が流れる。


 名前を入力してください。


 その人は、足を止めた。


 画面が滲む。


 雨のせいではない。


 地下なのに、頬が濡れている。


 泣いているのだと気づくのに、少し時間がかかった。


 名前を入力してください。


 その人は、スマホのメモ画面を見る。


 空白。


 切符を見る。


 零番線。


 改札を見る。


 名前を入力してください。


 胸の奥で、何かが崩れた。


 呼ばれたくなかった。


 でも、本当は、正しく呼ばれたかったのかもしれない。


 間違った期待ではなく。


 嘲笑でもなく。


 責任でもなく。


 過去の失敗でもなく。


 誰かの所有物としてでもなく。


 ただ、自分がここにいると分かる声で。


 一度だけ。


 けれど、その声はもう遠い。


 思い出そうとすればするほど、名前は白くなる。


 その人は、スマホをポケットへ戻した。


 切符を改札へ差し込む。


 何も印字されていない切符が、古い機械に吸い込まれる。


 一瞬の沈黙。


 それから、改札が開いた。


 拍子抜けするほど、静かに。


 通っていい。


 そう言われた気がした。


 その人は改札を抜けた。


 背後で、ゲートが閉じる。


 地上の雨音はもう聞こえない。


 代わりに、闇の奥で水音がする。


 ぽたり。


 ぽたり。


 ホームへ続く通路には、駅名標があった。


 普段なら広告が貼られていた場所かもしれない。


 だが今は、白い板だけが暗闇の中に浮かんでいる。


 雨粒が落ちるはずのない地下で、その白い板に一滴の水が落ちた。


 ぽたり。


 文字が浮かぶ。


 零番線。


 その人は、もう驚かなかった。


 ただ、深く息を吐いた。


 身体が軽くなる。


 名前を持っていた場所が、空になっていく。


 痛みも、恥も、呼ばれるたびに身構えた記憶も、少しずつ遠ざかる。


 怖い。


 でも、楽だった。


 楽であることが、いちばん怖かった。


 その人は最後に、もう一度だけスマホを取り出した。


 メモ画面はまだ開いている。


 白い画面。


 点滅するカーソル。


 何かを書かなければならない気がした。


 名前ではなくてもいい。


 せめて、自分がここへ来た理由だけでも。


 けれど、指は動かない。


 言葉が出ない。


 呼ばれたくなかった痛みも、呼んでほしかった願いも、どちらも白く薄れていく。


 その人は、スマホを握りしめたまま呟いた。


「名前なんて、もういらない」


 闇の奥で、水音がした。


 ぽたり。


 それは、返事のようにも聞こえた。


 ホームのさらに奥で、誰かが待っている気配がある。


 少年の声のようなものが、一瞬だけ混じった。


 先生。


 けれど、その続きは聞こえない。


 その人は、零番線の闇へ歩き出した。


 背後の改札の表示欄から、最後の文字が消える。


 名前を入力してください。


 その文は白く滲み、やがて別の表示に変わった。


 ご乗車ありがとうございます。


 乗るべき列車など、どこにも来ていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ