序章 無名切符
雨の夜には、名前がにじむ。
そう言ったのが誰だったのか、もう思い出せなかった。
母だった気もする。
教師だった気もする。
職場の上司だった気もする。
あるいは、自分自身がいつか、誰かに向かってそう言ったのかもしれない。
けれど、いまはどうでもよかった。
雨が降っていた。
幻都アガルタの夜を、細かい雨が隙間なく濡らしている。
駅前の大通りはまだ明るい。ビルの看板、コンビニの白い照明、濡れた横断歩道に滲む信号の赤。タクシーのヘッドライトが水たまりを踏み、砕けた光が足元へ散る。傘を差した人々が足早に行き交い、誰かが誰かの名前を呼んでいた。
「佐伯さん、こっち」
「ミサキ、傘入れて」
「店長、先戻ります」
「お母さん、今どこ?」
呼ばれた人間は、返事をする。
手を振る。
振り返る。
足を止める。
苛立った顔でスマホを見る。
名前とは、そういうものだった。
誰かが呼ぶ。
呼ばれた者は、自分がそこにいることを思い出す。
けれど、呼ばれるたびに、少しずつ削れていくものもある。
その人は、大通りから一本外れた坂道を下っていた。
年齢は、街灯の下では若く見えた。
次の暗がりでは、ひどく疲れた大人にも見えた。
髪は雨に濡れて頬に貼りつき、黒いコートの肩には細い水筋がいくつも走っている。
傘は持っていなかった。
持っていたのかもしれない。
どこかに忘れたのかもしれない。
あるいは、最初から持っていなかったのかもしれない。
分からなかった。
ただ、右手だけが濡れないように握り込まれていた。
その手の中には、一枚の切符がある。
紙の切符。
いまどき、ほとんど使われないもの。
アガルタ市の旧地下鉄では、ずっと前に磁気券も紙券も廃止されている。新しい地下鉄はICカードで通れる。駅員のいる窓口も減った。切符というものは、遠足の記念写真や、古い映画の中にだけ残るものになりつつあった。
なのに、その切符は確かに手の中にある。
濡れた指先に貼りつく、ざらついた紙。
表には何も印字されていない。
発駅もない。
着駅もない。
運賃もない。
日付もない。
通し番号もない。
ただ、白い。
雨に濡れているはずなのに、紙はふやけていなかった。
その人は、坂道の途中で立ち止まった。
アガルタ市の旧地下鉄入口。
それは、地上から見ると小さな穴のようだった。
大通りの新しい地下鉄駅とは違う。ガラス張りの出入口も、エレベーターも、明るい案内板もない。石造りの低い門、錆びた手すり、剥がれかけたタイル。入口の上には、かつて駅名標だったものが取り付けられている。
文字は読めなかった。
黒く汚れているのではない。
削られているのでもない。
そこに何かが書かれていたはずなのに、文字の意味だけが抜け落ちている。
看板の下には、古い貼り紙が残っていた。
立入禁止。
関係者以外通行不可。
旧線区画閉鎖中。
その貼り紙の端に、新しい落書きがある。
黒いペンで、誰かが書いたらしい。
名前を捨てたいなら、下へ。
その人は、笑った。
声にはならない。
喉の奥で、小さく空気が漏れただけだった。
「馬鹿みたい」
そう言ったつもりだった。
でも、口から出た音は、別の言葉に聞こえた。
「……助けて」
自分で言って、自分で驚いた。
誰に向けた言葉なのか分からない。
誰かに助けてほしいのか。
それとも、誰にも呼ばれない場所へ助けてほしいのか。
スマホが震えた。
ポケットの中で、何度も。
その振動だけで、胸の奥が冷たくなる。
見たくなかった。
でも、見ないでいることもできなかった。
画面を開く。
通知が並んでいる。
メッセージ。
着信履歴。
仕事の連絡。
家族からの短い文。
SNSの反応。
誰かが自分をタグ付けした通知。
そのすべてに、本来なら名前があるはずだった。
宛名。
ユーザー名。
プロフィール名。
呼称。
表示名。
けれど、画面の上部に表示された自分のプロフィール欄だけが、空白になっていた。
アイコンはある。
投稿数もある。
フォロー数も、過去の写真も、短い自己紹介文も残っている。
ただ、名前欄だけがない。
そこだけ、白く抜けていた。
まるで最初から入力されていなかったように。
その人は、画面を見つめた。
胸の中に、奇妙な静けさが広がる。
恐怖ではなかった。
怒りでもなかった。
喪失感ですらなかった。
むしろ、安心に近かった。
名前がない。
呼ばれない。
誰かに見つけられない。
誰かの期待に引っ張られない。
誰かの記憶の中で、間違った形に固定されない。
子どもの頃から、名前はいつも先回りしていた。
その名前なら、こういう子でしょ。
その名前なら、ちゃんとしないと。
その名前なのに、どうしてできないの。
その名前、変わってるね。
その名前、前に聞いたことがある。
その名前の人って、たしか――。
呼ばれるたびに、自分ではない何かを押しつけられた。
名前を好きだった時期もあったはずだ。
小さな頃、ノートの一番上に自分の名前を書くのが好きだった。
新しい教科書の表紙に、太いペンで名前を書くのが好きだった。
誕生日カードにその名前があると、少し誇らしかった。
いつからだろう。
名前が重くなったのは。
呼ばれるたびに、胸の奥が縮むようになったのは。
自分の名前を検索するのが怖くなったのは。
誰かに名前を尋ねられた時、少しだけ嘘をつきたくなるようになったのは。
スマホの画面には、白い空欄がある。
その空欄を見ていると、不思議と呼吸が楽になった。
「もう」
その人は呟いた。
雨音に混じる程度の、小さな声。
「もう、呼ばれなくていい」
その瞬間、旧地下鉄入口の奥で、何かが動いた。
金属の擦れる音。
閉じられていたはずのシャッターの向こうで、古い機械が目を覚ましたような音がした。
その人はスマホを下ろす。
入口の闇を見つめる。
階段の下に、灯りが一つ点いていた。
白でも黄色でもない。
水の底から漏れるような、青白い光。
普段なら、そこで引き返したかもしれない。
立入禁止の貼り紙。
閉鎖された旧線。
夜の地下。
雨の日の無人駅。
まともな人間なら入らない。
けれど、自分がまともだった時期がいつまでだったのか、もう思い出せなかった。
その人は階段へ近づいた。
一段目に、雨水が溜まっている。
二段目に、古い泥がある。
三段目に、誰かの靴跡があった。
新しい。
黒い靴跡。
まるで、誰かが少し前に降りていったように。
その人は、手の中の切符を見た。
白いままだった。
何も書かれていない。
しかし、切符の端に雨粒が一滴落ちた。
ぽたり。
雨粒は紙の上で弾けず、吸い込まれもしなかった。
丸い水滴のまま、白い紙の上に留まる。
その下から、文字が浮かび上がった。
零番線。
その人は、息を止めた。
文字は、印刷ではなかった。
インクでもない。
紙の内側に沈んでいたものが、水に触れて浮かび上がったようだった。
零番線。
その三文字を見た瞬間、頭の奥で誰かが囁いた。
ここなら、名前を置いていける。
ここなら、誰も呼ばない。
ここなら、呼ばれたくなかった過去ごと、静かに沈めてくれる。
その声は優しかった。
恐ろしいほど優しかった。
命令ではない。
脅しでもない。
ただ、疲れた人間の隣に座って、濡れた肩へ毛布を掛けるような声。
もう、頑張らなくていい。
もう、返事をしなくていい。
もう、あなたの名前を説明しなくていい。
その人は階段を降りた。
一段。
また一段。
雨音が遠ざかる。
地上の車の音が薄れる。
スマホの電波表示が揺れる。
階段の壁には、古いタイルが貼られていた。
白いタイル。
ところどころ剥がれ、その下から灰色のコンクリートが覗いている。
壁には落書きがある。
読めるものと、読めないもの。
誰かの名前らしいものもある。
しかし、ほとんどは途中で途切れていた。
ミナ――
佐――
K-――
先生、僕――
ここで――
名前を――
階段の踊り場に、小さな鏡があった。
曇っている。
古い駅にある防犯用の凸面鏡。
その人は、そこに映った自分を見る。
輪郭が歪んでいた。
顔は見える。
目も、口も、髪も、濡れた肩も見える。
けれど、それが誰なのか、うまく結びつかない。
自分だ。
それは分かる。
でも、自分の名前が出てこない。
頭の奥に、空白がある。
そこには何かがあったはずなのに、いまは白い。
その白さに、また安心した。
怖いはずなのに、安心する。
そのことが、少しだけ怖かった。
スマホがまた震えた。
画面を見る。
着信。
発信者名は表示されていない。
番号だけが出ている。
けれど、その番号に見覚えがあった。
たぶん、家族。
たぶん、職場。
たぶん、自分を呼ぶ人。
出なければならない。
そう思った。
けれど、指は動かなかった。
鳴り続ける。
雨に濡れた旧地下鉄の階段で、スマホの画面だけが白く光っている。
その光の中に、名前欄のないプロフィールが浮かぶ。
空白。
何もない。
呼ばれない。
その人は、着信を切った。
そして、スマホのメモアプリを開いた。
なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。
最後に一度だけ、自分の名前を書こうと思ったのかもしれない。
置いていく前に、確かめたかったのかもしれない。
あるいは、まだ完全には捨てたくなかったのかもしれない。
新規メモ。
白い画面。
カーソルが点滅している。
その人は、親指を置いた。
名前を書く。
書けるはずだった。
何度も書いてきた。
学校のプリントに。
契約書に。
履歴書に。
病院の問診票に。
宅配便の受け取り欄に。
誰かへのメッセージの最後に。
自分の名前。
自分だけのものだったはずの文字。
けれど、最初の一文字が出てこなかった。
指が止まる。
キーボードの上で、ひらがなも、漢字も、アルファベットも、どれも遠い。
候補欄には何も出ない。
変換履歴もない。
まるで、その名前を一度も入力したことがないように。
その人は、笑った。
今度は声が出た。
乾いた笑い。
雨に濡れた地下階段には、あまりにも軽すぎる音。
「ひどいな」
誰に言ったのか分からない。
スマホにか。
自分にか。
この街にか。
それとも、名前にか。
切符を握る手に力が入る。
零番線の文字は、まだ薄く光っていた。
その光が、指の隙間から漏れる。
階段の下に、古い改札が見えた。
無人改札。
ずっと前に使われなくなったはずの機械。
天井から垂れた電線。
割れたタイル。
錆びた金属。
その奥に、閉じられたゲートが並んでいる。
ひとつだけ、ランプが点いていた。
赤でも青でもない。
白い。
改札機の上部には、小さな表示欄がある。
そこに、文字が流れる。
名前を入力してください。
その人は、足を止めた。
画面が滲む。
雨のせいではない。
地下なのに、頬が濡れている。
泣いているのだと気づくのに、少し時間がかかった。
名前を入力してください。
その人は、スマホのメモ画面を見る。
空白。
切符を見る。
零番線。
改札を見る。
名前を入力してください。
胸の奥で、何かが崩れた。
呼ばれたくなかった。
でも、本当は、正しく呼ばれたかったのかもしれない。
間違った期待ではなく。
嘲笑でもなく。
責任でもなく。
過去の失敗でもなく。
誰かの所有物としてでもなく。
ただ、自分がここにいると分かる声で。
一度だけ。
けれど、その声はもう遠い。
思い出そうとすればするほど、名前は白くなる。
その人は、スマホをポケットへ戻した。
切符を改札へ差し込む。
何も印字されていない切符が、古い機械に吸い込まれる。
一瞬の沈黙。
それから、改札が開いた。
拍子抜けするほど、静かに。
通っていい。
そう言われた気がした。
その人は改札を抜けた。
背後で、ゲートが閉じる。
地上の雨音はもう聞こえない。
代わりに、闇の奥で水音がする。
ぽたり。
ぽたり。
ホームへ続く通路には、駅名標があった。
普段なら広告が貼られていた場所かもしれない。
だが今は、白い板だけが暗闇の中に浮かんでいる。
雨粒が落ちるはずのない地下で、その白い板に一滴の水が落ちた。
ぽたり。
文字が浮かぶ。
零番線。
その人は、もう驚かなかった。
ただ、深く息を吐いた。
身体が軽くなる。
名前を持っていた場所が、空になっていく。
痛みも、恥も、呼ばれるたびに身構えた記憶も、少しずつ遠ざかる。
怖い。
でも、楽だった。
楽であることが、いちばん怖かった。
その人は最後に、もう一度だけスマホを取り出した。
メモ画面はまだ開いている。
白い画面。
点滅するカーソル。
何かを書かなければならない気がした。
名前ではなくてもいい。
せめて、自分がここへ来た理由だけでも。
けれど、指は動かない。
言葉が出ない。
呼ばれたくなかった痛みも、呼んでほしかった願いも、どちらも白く薄れていく。
その人は、スマホを握りしめたまま呟いた。
「名前なんて、もういらない」
闇の奥で、水音がした。
ぽたり。
それは、返事のようにも聞こえた。
ホームのさらに奥で、誰かが待っている気配がある。
少年の声のようなものが、一瞬だけ混じった。
先生。
けれど、その続きは聞こえない。
その人は、零番線の闇へ歩き出した。
背後の改札の表示欄から、最後の文字が消える。
名前を入力してください。
その文は白く滲み、やがて別の表示に変わった。
ご乗車ありがとうございます。
乗るべき列車など、どこにも来ていなかった。




