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終章 名前を残す者

 記事を書く前に、白瀬真昼は一時間だけ画面を閉じた。


 旧新聞部室には、雨上がりの匂いが残っていた。


 窓の外では、雲の切れ間から薄い光が差している。校庭の水たまりはまだ乾かず、部活動へ向かう生徒たちの靴音が、時々遠くから聞こえた。旧校舎の廊下には人が少ない。新校舎の喧騒がここへ届く頃には、すでに昔の記録のように薄れている。


 真昼は、机の上に三つのものを並べていた。


 ひとつは、天沢灯里の署名が残ったページの複写。


 ひとつは、古河千景の名前が戻った事故記録の写し。


 もうひとつは、自分のノート。


 ノートの見開きには、たくさんの名前が書かれている。


 エミー・グレイス・ハーパー。


 倉科悠斗。


 古河千景。


 天沢灯里。


 真木彼方。


 御影レイ。


 白瀬真昼。


 そして、まだ名前を書けない誰か。


 ノクターン書房の青年。


 オメガ。


 真昼は、その二つを同じ行には書かなかった。


 同じかもしれない。


 違うかもしれない。


 本人かもしれない。


 表の顔かもしれない。


 名前を失う前の残響かもしれない。


 今はまだ、断定しない。


 灯里なら、そう書く気がした。


 断定しない。


 でも、残す。


 真昼は、ノートの端にそう書いた。


 文字は、天沢灯里の字とは似ていない。


 灯里の字は細く、右上がりで、迷いながらも丁寧だった。


 真昼の字は、少し強い。


 気を抜くと走る。


 怒ると筆圧が濃くなる。


 迷っても、たぶん線が消えない。


 同じ記録者系アニマ。


 でも、同じ字ではない。


 同じ少女ではない。


 真昼は、それを確認するように、自分の名前を書いた。


 白瀬真昼。


 その下に、もう一度。


 天沢灯里。


 混ざらない。


 混ぜない。


 どちらも消さない。


 古いノートパソコンを開く。


 画面が少し遅れて明るくなる。


 《アガルタ観測録》の管理画面には、前の記事のアクセス数がまだ表示されている。


 エミー・グレイス・ハーパーは、ここにいた。


 その記事は今も読まれていた。


 コメント欄には、まだ賛否が届く。


 名前を書いてくれてありがとう。


 そっとしておいてやれ。


 彼女のステージを覚えている。


 被害者を記事にするな。


 真昼は、全部を読んだ。


 全部に返事はしない。


 全部に傷つくこともしない。


 それでも、読んだ。


 名前を残すことは、相手の人生を自分の正しさで包むことではない。


 灯里の手帳を読んでから、真昼はそれを以前より強く思うようになっていた。


 正しさは力になる。


 でも、疑わなくなった正しさは刃になる。


 黒江透子の言葉も、まだ残っている。


 真昼は、新規投稿画面を開いた。


 タイトル欄に、最初こう打った。


 消えた図書委員の記録


 しばらく見つめる。


 悪くない。


 記事としては分かりやすい。


 読者も入りやすい。


 けれど、真昼はその文字を消した。


 消えた。


 その言葉を、いま灯里に使うのは違う気がした。


 彼女は消えかけた。


 でも、消えた人としてだけ残したくなかった。


 次に打つ。


 天沢灯里は、名前を残した


 今度は消さなかった。


 タイトル欄の中に、その名前がある。


 天沢灯里。


 それだけで、画面の中に小さな灯が点ったように見えた。


「書けそう?」


 扉のほうから声がした。


 御影レイだった。


 いつからいたのか、彼は旧新聞部室の入口に立っていた。手には、コンビニの袋を持っている。


 真昼は画面から顔を上げる。


「ノック」


「した」


「聞こえなかった」


「集中してた」


「じゃあ許す」


「どうも」


 レイは入ってきて、机の端に袋を置いた。


 中には、ツナサンドとカフェオレが入っていた。


 真昼は目を丸くする。


「ツナサンド」


「前に卵よりツナ派って言ってた」


「覚えてたんだ」


「記憶力はある」


「御影くんのそういう自己評価、時々怖い」


「事実」


「ありがとう」


 真昼はツナサンドを受け取った。


 包みを開ける前に、ふと手を止める。


「御影くんは?」


「食べた」


「本当に?」


「本当に」


「佳乃さん確認済み?」


「母さんみたいなこと言う」


「佳乃さん優秀だから」


「食べた」


「よし」


 レイは、机の向かいに座った。


 画面を覗こうとはしない。


 それが、今の真昼にはありがたかった。


「タイトル」


 真昼は言った。


「天沢灯里は、名前を残した、にしようと思う」


「いいと思う」


「即答」


「名前があるから」


「うん」


 真昼は画面へ視線を戻した。


 記事本文の冒頭に、ゆっくり文字を打つ。


 アガルタ学院の古い記録の中に、天沢灯里という名前がある。


 彼女は、学院の卒業生だった。


 在学中は図書委員として資料整理に関わり、旧新聞部室に残された古い学院新聞や切り抜き、名簿、行事記録を分類していた。


 その作業の中で、彼女はある異変に気づいた。


 人の名前だけが欠けている記事がある。


 本文は読める。


 日付も読める。


 場所も読める。


 けれど、名前だけが、まるで雨に濡れたように滲んでいる。


 真昼は、そこで手を止めた。


 超常部分は書かない。


 名前が本当に消えることも、記録層のことも、封鎖連絡層のことも、黒い傘のことも書かない。


 けれど、嘘は書かない。


 書ける範囲で、本当のことを書く。


 彼女は、名前の一部が読めなくなった古い資料を集めていた。


 それらが単なる劣化なのか、資料管理上の問題なのか、それとも別の理由があるのかを、彼女は断定しなかった。


 ただし、見過ごさなかった。


 真昼は、ノートに挟んでいた灯里の手帳の一文を見た。


 名前をなくした人に、名前を聞くのは暴力かもしれない。

 でも、聞かなければ、その人は本当に消えてしまう。


 この記事に、そのままは載せない。


 まだ載せてはいけない。


 でも、その問いは記事の背骨にする。


 真昼は続けて打った。


 記録することは、救いだけではない。


 誰かの名前を書くことは、その人の傷に触れることでもある。


 天沢灯里は、その怖さを知っていた。


 だから彼女は、名前が欠けた記録を前にして、急いで断定しなかった。


 誰かを暴くためではなく、消えないように残すために、資料を集めていた。


 レイは、黙って真昼を見ていた。


 真昼は、視線を画面に置いたまま聞く。


「どうしたの」


「いや」


「見すぎ」


「書いてる時の顔が、前と違う」


「前?」


「エミーの記事を書いていた時」


 真昼の指が止まる。


「どう違う?」


「前は、追いつこうとしてた」


「今は?」


「待ってる」


 真昼は、少しだけ笑った。


「霧生さんに言われたからね。待つのも仕事だって」


「できるようになった?」


「少し」


「すごい」


「それ、半分馬鹿にしてる?」


「今日はしてない」


「珍しい」


「たぶん」


「やっぱり半分くらい馬鹿にしてるでしょ」


 レイは答えなかった。


 真昼はツナサンドを一口食べた。


 空腹を思い出す。


 記事を書く時ほど、自分の身体を忘れやすい。


 それも、自覚しなければいけない。


 生きて書く。


 書いて生き残る。


 灯里はできなかった。


 だから、自分はしなければいけない。


 真昼は、再びキーボードへ手を置いた。


 天沢灯里の名は、一時、複数の資料から失われかけていた。


 旧新聞部室の整理カード、貸出票、学院新聞の一部。


 それらの記録では、彼女の名前は欠けていた。


 しかし、彼女自身の署名が残っていた。


 濡れ、滲み、傷んだ紙の中に、それでも読める文字があった。


 天沢灯里。


 真昼は、そこで一度だけ目を閉じた。


 封鎖連絡層の記録室。


 白い光。


 机の上の欠落ページ。


 私は、あの人の名前を知らない。


 でも、名前がない人ではない。


 いつか、誰かが呼べるように、ここに記録する。


 天沢灯里。


 その署名が、まだ胸の中にある。


 真昼は、記事の最後へ進んだ。


 エミーの記事の時より、指は遅かった。


 でも、その遅さが必要だった。


 最後の段落。


 天沢灯里。


 彼女は、誰かの名前を残そうとしていた。


 だから私は、彼女の名前をここに残す。


 打ち終えた瞬間、真昼は大きく息を吐いた。


 画面の中で、その三行が静かに光っている。


 レイが、そっと言った。


「公開する?」


「する」


「今?」


「少し見直してから」


「珍しい」


「うるさい」


「成長」


「うるさい」


 真昼は、記事を最初から読み返した。


 過剰な表現は削る。


 憶測は削る。


 証明できないことは書かない。


 けれど、名前は削らない。


 天沢灯里。


 その名前だけは、何度も確認した。


 誤字がないように。


 読み違えないように。


 彼女を、自分の言葉で塗りつぶさないように。


 やがて、真昼は公開ボタンにカーソルを合わせた。


 指が少しだけ震える。


 レイが言う。


「白瀬真昼」


 真昼は笑った。


「御影レイ」


「戻ってる?」


「戻ってる」


「なら、どうぞ」


 真昼は、公開ボタンを押した。


 画面が切り替わる。


 記事が公開されました。


 その文字を見た時、旧新聞部室の空気が少しだけ軽くなった気がした。


 窓の外で、雨上がりの光が水たまりに反射する。


 真昼は、画面のタイトルを見た。


 天沢灯里は、名前を残した


 その名前は、消えていない。


     *


 同じ頃、黒江透子は特異殺人対策室の自席で報告書を書いていた。


 机の上には、いくつもの資料が並んでいる。


 封鎖連絡層で回収されたメモ帳の保全記録。


 旧地下鉄事故記録の改訂写し。


 天沢灯里の記録室から回収された欠落ページの報告。


 御影レイの記憶混線反応記録。


 白瀬真昼の記録者系アニマ反応記録。


 境界観測局・記録保全部との照会履歴。


 透子は、報告書の該当欄にカーソルを置いた。


 対象識別。


 かつてなら、こう書いたかもしれない。


 C-04。


 観測局の書式では、それが正しい。


 安定した識別番号。


 揺らがない索引。


 名前が消える時に残すための杭。


 藍沢環の言葉は、透子にも理解できる。


 理解できるからこそ、痛い。


 名前が壊れる記録を、透子も何度も見た。


 呼んだ瞬間に消える文字。


 録音から抜け落ちる音。


 写真の顔が黒く滲む現象。


 担当者の記憶から消える表情。


 だから番号を使う。


 分かっている。


 だが、分かっていても、もうそれだけでは足りない。


 透子は、欄に文字を打った。


 古河千景。


 少し待つ。


 画面の文字は消えない。


 滲まない。


 欠けない。


 古河千景。


 透子は、その名前を声に出さず、目だけで読んだ。


 C-04ではありません。


 古河千景。


 封鎖連絡層で自分が言った言葉が蘇る。


 あの時、名前を呼んだのは白瀬真昼だけではなかった。


 御影レイも呼んだ。


 霧生仁も、倉科悠斗も呼んだ。


 そして透子も呼んだ。


 名前を呼ぶことの危険を知っている。


 それでも呼んだ。


 透子は、報告書の備考欄へ追記する。


 旧識別番号 C-04。

 市警側記録においては、以後、古河千景として扱う。

 氏名は本人私物メモ帳、現場表示、複数記録同期変化により確認。

 境界観測局側資料については、現時点で未訂正。


 未訂正。


 その三文字が、透子の胸を重くする。


 すぐに通知が来た。


 境界観測局・記録保全部からの自動応答。


 C-04関連記録の氏名訂正申請について、観測記録保全上の審査対象とします。


 透子は、画面を見つめた。


 審査対象。


 つまり、まだ認めない。


 C-04は、観測局の中ではまだC-04のまま。


 古河千景という名前は、市警側の記録に戻っただけ。


 それでも、最初の一歩だ。


 透子は、返信欄に短く打つ。


 氏名訂正の根拠資料を追加提出します。


 その下に、添付ファイルを並べる。


 本人メモ帳画像。


 事故記録変化前後比較。


 封鎖連絡層現場映像。


 白瀬真昼反応記録。


 御影レイ証言記録。


 そして、天沢灯里整理記録該当箇所。


 送信前に、透子は一度だけ手を止めた。


 真木彼方。


 K-117。


 あの名前は、まだ正式には戻らない。


 自分の報告書にも、まだ書ききれない。


 だが、古河千景を書いた今、その空白は以前よりも痛かった。


「黒江」


 背後から霧生の声がした。


 透子は振り返らない。


「はい」


「また観測局とか」


「はい」


「揉めるぞ」


「承知しています」


「ならいい」


 霧生は、彼女の机の横に缶コーヒーを置いた。


 透子はそれを見た。


「ありがとうございます」


「礼はいい。寝ろ」


「この報告書を送ったら」


「お前も白瀬も、送ったらとか書いたらとか言って寝ねえな」


「記録者とはそういうものかもしれません」


「便利に使うな、その言葉」


 透子は、ほんの少しだけ笑った。


 それから、送信ボタンを押す。


 古河千景。


 その名前が、市警の記録に残った。


     *


 夕方、御影レイと白瀬真昼は、アガルタ学院の屋上にいた。


 屋上は、本来は立ち入り禁止に近い扱いだった。


 だが、旧新聞部室に比べれば、まだ健全な場所だと真昼は主張した。


 レイは、よく分からない比較だと言った。


 空は雨上がりの薄い藍色に変わり始めている。


 街の向こうでは、ビルの窓に夕陽が反射していた。


 アガルタ市は、雨が上がると少しだけ別の都市に見える。


 濡れた道路が光を返し、古い建物の影が深くなり、遠くの高架線が水滴を纏って銀色に見える。


 真昼は、スマホで自分の記事を開いていた。


 公開から数時間。


 コメントは、もうつき始めている。


 天沢灯里さんを知っています。図書館で会ったことがあります。


 旧新聞部室って、まだ残っているんだ。


 名前が欠けた記事、私も見たことがあるかもしれない。


 こういう記事、慎重に書いているのが分かる。


 消えた人を掘り返すな。


 それでも、名前を残してくれてありがとう。


 真昼は、最後のコメントで指を止めた。


 名前を残してくれてありがとう。


 誰からの言葉かは分からない。


 灯里を知る人か。


 灯里を知らない人か。


 同じように誰かの名前を失いかけた人か。


 ただの読者か。


 分からない。


 でも、その言葉は画面の中に残っている。


 真昼はスマホを閉じた。


「怖い?」


 レイが聞いた。


 真昼は、少し考えた。


「怖い」


「書いたこと?」


「うん。でも、書かなかった場合のほうが怖かった」


「なら、よかった?」


「まだ分からない」


「分からないまま記録する」


「黒江さんの受け売り」


「便利だから」


「便利だから」


 二人で同じ言葉を言って、少しだけ笑った。


 その笑いが消えたあと、レイは屋上のフェンス越しに街を見下ろした。


「古河千景」


 彼が言った。


 真昼は、横を見る。


 レイの声は静かだった。


「まだ中にいる」


「千景さんの記憶?」


「うん。地下の水音とか、メモ帳の感触とか、黒い傘とか」


「大丈夫?」


「大丈夫じゃない」


「よろしい」


「正直だから?」


「正直だから」


 レイは、少しだけ口元を緩めた。


 それから、また街へ視線を戻す。


「古河千景は、僕だった」


 真昼は黙って聞いた。


 その言葉は、以前なら危うかった。


 自分と他者の境目が溶ける言葉だった。


 でも今のレイは、そこで止まらない。


「でも、僕じゃなかった」


 真昼は頷いた。


「うん」


「古河千景は、古河千景だった」


「うん」


「名前が戻ると、少し遠くなる」


「寂しい?」


「少し」


 レイは正直に言った。


「でも、楽でもある」


「うん」


「僕が全部を抱えなくていい」


 その言葉に、真昼は胸が温かくなった。


 レイは続ける。


「僕が見えない名前を、君が拾ってくれた」


「私だけじゃないよ。透子さんも、霧生さんも、倉科さんも」


「うん」


「灯里さんも」


 レイは頷いた。


「うん」


 真昼は、フェンスに指をかけた。


 夕方の風が、少し冷たい。


 灯里の白い傘の冷たさとは違う。


 これは、自分の夕方の風だ。


「天沢灯里も、私だった」


 真昼は言った。


 レイは、静かにこちらを見る。


 真昼は続けた。


「でも、私じゃなかった」


 声は震えなかった。


 少し前なら泣いていたかもしれない。


 今は、泣かなかった。


 胸は痛い。


 でも、その痛みは真昼の中で場所を得ている。


「灯里さんは、灯里さんだった。優しくて、慎重で、私よりずっと相手の傷を見てた。私は、たぶん彼女より乱暴で、早く結論を出したがる」


「うん」


「うんって」


「事実」


「そこは少し否定して」


「でも、君は戻ってきた」


 レイは言った。


「灯里に飲まれなかった」


「御影くんが呼んだから」


「君が返したから」


 真昼は、少しだけ黙った。


 それから、笑った。


「相互教育?」


「たぶん」


「便利」


「便利だから」


 二人は、しばらく屋上から街を見ていた。


 遠くに、旧地下鉄の入口があるはずだった。


 そのさらに下に、封鎖連絡層がある。


 もっと下には、まだ名前しか知らない場所がある。


 零番線。


 真昼は、その名前をまだ口にしなかった。


 言えば、何かが近づく気がした。


 ただ、胸の奥で水音がした。


 ぽたり。


 ぽたり。


 レイもそれを聞いたのか、少しだけ目を細めた。


「まだ、下にある」


 彼が言った。


「うん」


「真木彼方」


 真昼は、静かにその名前を聞いた。


「まだ戻ってない」


「うん」


「オメガの名前も」


「うん」


「ノクターン書房の青年も」


「うん」


 レイはフェンスから手を離した。


「でも、今日は」


「今日は?」


「天沢灯里と、古河千景」


 真昼は頷いた。


「うん。今日は、その二人」


 沈みかけた夕陽が、街の水たまりを赤く染めていた。


 真昼は、スマホをもう一度開く。


 記事のタイトルを見る。


 天沢灯里は、名前を残した


 その下に、公開日時。


 そして、最後の三行。


 天沢灯里。


 彼女は、誰かの名前を残そうとしていた。


 だから私は、彼女の名前をここに残す。


 真昼は、その画面を閉じた。


 記事はもう、公開されている。


 自分の手の中だけではない。


 誰かが読む。


 誰かが傷つくかもしれない。


 誰かが救われるかもしれない。


 どちらかだけではない。


 それでも、名前は残った。


     *


 境界観測局アガルタ支局の封鎖区画は、地図に載っていない。


 市の地下施設一覧にも、旧地下鉄の保守図にも、アガルタ学院の旧校舎図面にも、その部屋は存在しない。


 ただ、観測局の古い索引には、かつてこう記録されていた。


 記録保全補助室 O-00連絡庫。


 現在は封鎖。


 使用停止。


 アクセス権限凍結。


 その部屋の扉が、雨の夜に開いた。


 照明は点かない。


 非常灯だけが、赤く床を照らしている。


 棚には、黒いファイルが並んでいた。


 背表紙には、名前ではなく番号だけが記されている。


 K-117。


 C-04。


 R-■■。


 A-00。


 O-00。


 その前に、一人の影が立っていた。


 顔は見えない。


 黒い手袋をした指が、C-04のファイルを抜き取る。


 開く。


 中の氏名欄は、まだ大半が黒く塗られている。


 だが、欄外に小さな手書きの文字が戻っていた。


 古河千景。


 黒い手袋の指が、その文字をなぞる。


 インクではない。


 鉛筆でもない。


 記録そのものが、紙に浮き上がったような名前だった。


 影は、しばらくその文字を見ていた。


 それから、ファイルを閉じる。


 K-117のファイルを開く。


 氏名欄は空白だった。


 空白。


 何も書かれていない。


 しかし、紙の裏側から薄い筆圧の跡が浮かんでいる。


 真木――


 その先は読めない。


 影は、手を止める。


 遠くで、誰かの声がしたようだった。


 先生、僕の名前を呼んでください。


 影は振り返らない。


 次に、R-■■のファイル。


 番号の末尾は黒く潰れている。


 中には、古い写真が一枚ある。


 顔の部分だけが黒く滲んでいる。


 学生服の少年。


 誰かの父親に似ているようにも、御影レイに似ているようにも見える。


 だが、まだ読めない。


 影は、それも閉じる。


 A-00。


 ファイルを開くまでもない。


 そこには、御影レイの現在の観測記録がある。


 多元人格統合観測型・第一種候補。


 Alpha Case。


 そして、O-00。


 影は最後に、そのファイルを開いた。


 ページの上部に、赤字の追記がある。


 活動再開。


 対象、記録者系アニマへ再接触。


 零番線への移動兆候あり。


 赤字は、まだ乾いていないように見えた。


 誰が書いたのか。


 いつ書かれたのか。


 記録なのか。


 予測なのか。


 命令なのか。


 分からない。


 影は、O-00のページに手を置いた。


 その指先から、黒い滲みが広がりかける。


 しかし、途中で止まった。


 ページの余白に、小さな名前が浮かんでいたからだ。


 天沢灯里。


 古河千景。


 その二つの名前が、赤字の下に並んでいる。


 消えない。


 黒く塗りつぶそうとしても、消えない。


 影の指が、わずかに震えた。


 怒りか。


 恐怖か。


 それとも、もっと古い感情か。


 部屋の奥で、水音がした。


 ぽたり。


 影は、O-00のファイルを閉じた。


 棚へ戻さない。


 片手に持ったまま、封鎖区画の奥へ向かう。


 そこには、もう一つの扉がある。


 古い観測局の扉ではない。


 地下鉄の扉でもない。


 名前のない黒い扉。


 その上に、かつて駅名標だったものの残骸が取り付けられている。


 文字は消えている。


 ただし、闇の中で一瞬だけ白く光った。


 零番線。


     *


 旧地下鉄のさらに下で、水音がした。


 封鎖扉の向こう。


 誰も降りてはいけない階段の先。


 古い駅名標が、闇の中で一瞬だけ点灯する。


 零番線。


 それは路線名ではなかった。


 駅名でもなかった。


 たぶん、墓標でもなかった。


 名前を持たないものたちが、最後に流れ着く場所。


 黒い傘を持つ影は、その階段をゆっくりと降りていく。


 階段は深い。


 一段降りるたび、地上の雨音が遠ざかる。


 二段降りるたび、誰かの名前が背後で滲む。


 三段降りるたび、古い記録が閉じていく。


 それでも、完全には消えない名前があった。


 天沢灯里。


 古河千景。


 その二つの名前は、影の背中に小さな灯のように貼りついている。


 影は、振り返らない。


 背後で、誰かの声がした。


 真木彼方。


 呼ばれたのか。


 呼んだのか。


 それとも、まだ誰も呼べていないのか。


 影は答えない。


 ただ、黒い傘の縁から一滴だけ水が落ちた。


 ぽたり。


 その音を合図に、零番線の灯りが消えた。

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