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第十一章 ノクターン書房の青年

 ノクターン書房へ行く日は、雨だった。


 偶然ではない気がした。


 アガルタでは、雨の日に古いものが目を覚ます。


 水たまりには別の街が映り、地下の音は少しだけ近くなり、紙に書かれた名前は湿気を含んで滲む。真昼は、そんな言い方を以前なら記事の導入に使ったかもしれない。


 だが今は、少し慎重になっていた。


 雨の日に何かが起きる。


 それは物語めいた表現ではなく、実際に誰かの名前が薄れるかもしれないということだった。


 白瀬真昼は、透明な傘を差して坂道を下っていた。


 傘の内側に雨音が響く。


 ぽつ、ぽつ、ぽつ。


 その音は、封鎖連絡層の水音より軽い。


 けれど、完全に違うとも言い切れなかった。


 雨の音と地下の水音は、いつもどこかでつながっている。


 隣を歩く御影レイは、黒い傘を差していた。


 本人が選んだものではない。


 佳乃が、玄関先で半ば強引に持たせたものらしい。


 真昼は、それを見た時に少しだけ複雑な顔をしてしまった。


 黒い傘。


 オメガ。


 雨の路地。


 古河千景の最後の記憶。


 エミーの夜。


 灯里の消えた坂道。


 その全部が重なる。


 レイも分かっているのだろう。


 傘を差す手が、少しだけ硬い。


「変えようか」


 真昼が言うと、レイは横を向いた。


「何を」


「傘。私の透明傘と交換する?」


「透明傘だと、雨粒が見えすぎる」


「黒い傘は?」


「嫌だけど、視界は落ち着く」


「難しいね」


「うん」


「じゃあ、次から紺とかにしよう」


「母さんに言っておく」


「佳乃さん、たぶん可愛い柄買ってくるよ」


「それは困る」


「水玉とか」


「困る」


「猫柄とか」


「少し困る」


「少しなんだ」


 レイは答えなかった。


 真昼は少し笑った。


 笑えることが、ありがたかった。


 古河千景の名前が戻った。


 天沢灯里の欠落ページを持ち帰った。


 封鎖連絡層から地上へ戻った。


 それでも、事件は終わっていない。


 むしろ、名前を取り戻したことで、いくつもの扉が開いてしまった。


 真木彼方の現在は分からない。


 黒刃ヌルの全貌も分からない。


 オメガの名前もない。


 そして、ノクターン書房の青年。


 彼は、今日もそこにいるのだろうか。


 いつものように静かに。


 何もなかったように。


 真昼は、鞄の中に手を入れた。


 そこには、ノートがある。


 封鎖連絡層で書いた記録。


 天沢灯里。


 アガルタ学院卒業生。


 図書委員。


 旧新聞部資料整理補助。


 名前を奪われる前に、名前を残そうとした少女。


 それと、灯里が最後に残したページの複写。


 原本は市警で保全されている。


 真昼が持っているのは、許可された複写だけだ。


 それでも、その紙は重かった。


 私は、あの人の名前を知らない。


 でも、名前がない人ではない。


 いつか、誰かが呼べるように、ここに記録する。


 天沢灯里。


 あの人。


 灯里が名前を呼べなかった青年。


 今日、真昼はその人に会いに行く。


 名前を聞くために。


 いや。


 それだけではない。


 灯里の名前を記録したと伝えるために。


 坂の途中に、ノクターン書房の看板が見えた。


 黒に近い深緑の扉。


 曇ったガラス窓。


 軒下の小さな看板。


 Nocturne Books.


 雨粒が、金色の文字を細く濡らしていた。


 真昼は店の前で足を止めた。


 レイも止まる。


「行ける?」


 レイが聞いた。


 真昼は、透明な傘越しに店の窓を見る。


 中には、柔らかい光がある。


 本棚の影。


 カウンター。


 古い時計。


 そして、たぶん彼。


「行ける」


 真昼は答えた。


「でも、怖い」


「僕も」


「御影くんも?」


「うん」


「じゃあ、点呼しようか」


「ここで?」


「入る前の儀式」


 レイは少しだけ迷ったあと、小さく言った。


「御影レイ」


 真昼も答える。


「白瀬真昼」


「戻ってる?」


「戻ってる」


「僕も」


「よし」


 真昼は、傘を閉じた。


 雨粒が軒下に落ちる。


 扉を開けると、鈴が鳴った。


 高すぎず、低すぎず、雨の日のガラス窓に似た音。


 その音を聞いた瞬間、真昼の胸の奥で灯里が振り返った気がした。


 でも、今は飲まれない。


 私は白瀬真昼。


 天沢灯里の名前を持ってきた。


 それだけを、胸の中で確認する。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの奥から、青年が顔を上げた。


 白いシャツ。


 黒いカーディガン。


 店のエプロン。


 静かな声。


 穏やかな微笑み。


 何も変わっていない。


 古河千景の名前が戻っても。


 封鎖連絡層の記録室が開いても。


 天沢灯里の署名が見つかっても。


 彼は、ノクターン書房の店番としてそこにいた。


「白瀬さん。御影くん」


 青年は二人の名前を呼んだ。


 真昼は、その呼び方に胸が痛くなる。


 彼は、こちらの名前を呼べる。


 灯里の名前も呼んだのだろう。


 天沢さん、と。


 なのに、自分の名前は言わない。


「こんにちは」


 真昼は言った。


「少し、お話できますか」


「もちろんです」


 青年は、カウンターの上に置いていた本を閉じた。


 その本の表紙は古く、題名は真昼の位置からは読めない。


 ただ、栞が挟まっていた。


 生成り色の栞。


 真昼の視線に気づいたのか、青年はそっと本を伏せた。


「雨の日は、よくいらっしゃいますね」


「そちらも、雨の日によくいますよね」


 真昼が返すと、青年は微笑んだ。


「この店は、雨の日のほうが本が落ち着きますから」


「人は?」


「人は、雨の日のほうが迷いやすい」


「迷った人が来る店なんですか」


「そういう方もいます」


 答えはいつも通り、近いようで遠い。


 真昼は鞄からノートを出した。


 今日は、いきなり詰め寄らない。


 灯里の手帳を読んだからだ。


 名前を聞くことが暴力かもしれない。


 そのことを忘れずに、でも、逃げずに聞く。


「天沢灯里さんの名前を記録しました」


 真昼は言った。


 青年の微笑みが、ほんのわずかに止まった。


 それは、他の人なら見逃す程度の変化だった。


 けれど、真昼もレイも見逃さなかった。


 青年は、ゆっくりと言った。


「そうですか」


「旧校舎地下と封鎖連絡層で、灯里さんの記録を見つけました。最後に残したページも」


「最後に」


 青年は、その言葉を静かに繰り返した。


 声に感情はほとんどない。


 でも、真昼には分かった。


 彼は知っている。


 灯里に最後があったことを。


「灯里さんは、あなたの名前を知りませんでした」


 真昼は続けた。


「でも、名前がない人ではないと書いていました。いつか誰かが呼べるように、記録すると」


 青年は、カウンターの木目に視線を落とした。


 長い沈黙。


 雨音が、窓を叩く。


 古い時計が秒針を刻む。


 やがて、青年は微笑んだ。


「彼女は、最後まで優しい人でした」


 その言葉は、静かだった。


 優しい追悼のようにも聞こえる。


 だが、真昼の胸には別のものとして刺さった。


 最後まで。


 彼は、灯里の最後を知っている。


 少なくとも、知らない人の言い方ではない。


「あなたは、灯里さんを知っていたんですね」


 真昼は言った。


 青年は、すぐには答えなかった。


 カウンターの奥で、コーヒーサーバーが小さく音を立てる。


 店内には、他の客はいない。


 本棚の影だけが、黙っている。


「この店には、いろいろな方が来ます」


 青年は言った。


「答えになってません」


「そうですね」


「知っていたんですか」


「天沢さんは、古い資料を丁寧に扱う方でした」


 真昼の呼吸が止まりかける。


 天沢さん。


 彼は今、そう呼んだ。


 自然に。


 灯里を、番号でも、A.A.でも、白い傘の少女でもなく。


 天沢さんと。


「彼女は」


 青年は続けた。


「濡れた傘を必ず拭いてから店に入りました。本の頁をめくる時、指先に力を入れすぎない。鉛筆で書く時も、資料から少し離れた場所で書く。古い紙が湿気を吸うと、角から傷むと言っていました」


 真昼の胸が痛んだ。


 それは、記録室で流れ込んできた灯里の感覚と同じだった。


 本を濡らしてはいけない。


 紙は角から傷む。


 青年は、それを覚えている。


 灯里を、覚えている。


「覚えてるじゃないですか」


 真昼の声が震えた。


「あなた、ちゃんと覚えてるじゃないですか」


 青年は、真昼を見た。


 微笑みはまだある。


 だが、その奥に何があるのか分からない。


「覚えていることと、語れることは違います」


「便利な言葉ですね」


「ええ」


 青年は否定しなかった。


「とても便利です。語らずに済みますから」


 その返しに、真昼は一瞬言葉を失った。


 レイが、そこで口を開いた。


「あなたは、オメガですか」


 空気が止まった。


 あまりにも真っ直ぐな問いだった。


 真昼は横を見る。


 レイは、青年から目を逸らしていない。


 傘の下の黒い顔。


 黒い刃。


 私はお前だ。


 お前は私に戻るだけだ。


 レイの記憶の奥にいる存在。


 その仮称として、彼が名付けたもの。


 オメガ。


 青年は、ゆっくりとレイを見た。


「オメガという名は、あなたがつけたのでしょう」


 否定ではない。


 肯定でもない。


 ただ、名前の出どころだけを指摘する答え。


 レイの表情が硬くなる。


「否定しないんですね」


「否定すれば、あなたは信じますか」


「しません」


「肯定すれば、あなたは満足しますか」


「しません」


「では、どちらも同じです」


 青年の声は穏やかだった。


 だが、言葉の中に刃があった。


 黒刃ではない。


 もっと静かなもの。


 相手の問いを、問いの形のまま無力化する刃。


 レイは、一歩前へ出た。


「あなたの周囲だけ、記憶が静かすぎる」


「静かなのは悪いことでしょうか」


「異常です」


「この街では、異常でないものを探すほうが難しい」


「あなたは灯里を知っていた。古河千景の資料にも反応した。名前を聞かれると逸らす。雨の日にここにいる。黒い傘の記憶と、あなたの声が重なる」


 真昼はレイの横顔を見た。


 彼は淡々と並べている。


 感情的に問い詰めているようでいて、実際には自分が見てきたものを一つずつ確認している。


 レイもまた、記録しようとしているのだ。


 青年は静かに聞いていた。


「声が重なる」


 彼は言った。


「記憶は、時々、似ている声を同じものとして扱います」


「逃げないでください」


「逃げているように見えますか」


「はい」


 レイは即答した。


 青年は少しだけ微笑んだ。


「あなたは、以前より他人を他人として見るようになりましたね」


 真昼の背筋が冷えた。


 その言い方。


 彼は、レイの変化を知っている。


 エミーの時のレイ。


 古河千景の時のレイ。


 同魂者を「僕」と呼んでいたレイが、名前で分けられるようになったことを知っている。


「なぜ、それを知ってるんですか」


 真昼が聞いた。


 青年は真昼を見る。


「あなたが記録したからです」


「記事には書いてません」


「記事だけが記録ではありません」


 その言葉に、真昼は息を止めた。


 ノート。


 手帳。


 封鎖連絡層。


 記録室。


 声に出した名前。


 この街では、記録は紙だけに残るのではない。


 名前を呼ぶことそのものが、どこかへ沈んでいく。


 青年は、それを見ているのか。


 それとも、見えてしまうのか。


「じゃあ」


 真昼は言った。


 灯里の手帳の一文が、胸の奥で疼く。


 名前をなくした人に、名前を聞くのは暴力かもしれない。


 でも、聞かなければ、その人は本当に消えてしまう。


 今、自分はまた、その境目に立っている。


 灯里は無理に聞かなかった。


 真昼は、聞く。


 ただし、傷つけるためではない。


 記録するためだけでもない。


 あなたに名前があることを、あなた自身に思い出してほしいから。


 そう言い訳しているのかもしれない。


 それでも、真昼は聞いた。


「じゃあ、あなたの名前は?」


 青年の表情が消えた。


 完全に。


 微笑みも、丁寧さも、店番としての距離も、何もかも。


 そこに、人の顔があるのに、顔としての意味だけが抜け落ちたようだった。


 店内の雨音が止まった。


 窓の外では、雨粒がまだ落ちているはずなのに、音がしない。


 古い時計の秒針も止まった。


 コーヒーサーバーの小さな音も消える。


 本棚の影が、少しだけ濃くなる。


 レイが、真昼の前へ半歩出た。


 青年は、カウンターの向こうで動かない。


 ただ、口を開いた。


「呼ばないでください」


 その声は、灯里の記憶の中の青年と同じだった。


 必要ですか、と聞き返した声。


 優しい人は、いちばん残酷です、と言った声。


 そして同時に、地下の黒い傘の人物の声にも似ていた。


 怖がらなくていい。


 これは終わりではない。


 私はお前だ。


 全部が、同じ場所で重なる。


 真昼の胸が締めつけられる。


 目の前の青年が泣いているように見えた。


 けれど、涙は見えない。


 表情もない。


 顔の輪郭が、黒く滲みかけている。


「呼ばないでください」


 青年はもう一度言った。


 今度は、懇願に近かった。


 真昼は息を吸った。


 このまま踏み込めば、何かが壊れる。


 自分が壊すのか。


 彼が壊れるのか。


 あるいは、記録が欠落するのか。


 分からない。


 灯里なら、ここで止まった。


 名前が怖いなら、今日は呼ばない。


 その言葉が胸に浮かぶ。


 真昼は、ゆっくり言った。


「今日は、呼びません」


 レイが一瞬こちらを見る。


 青年の顔に、わずかに何かが戻る。


「でも」


 真昼は続けた。


「あなたに名前があることは、忘れません」


 店内の空気が震えた。


 雨音が戻る。


 古い時計の秒針が、何事もなかったように動き出す。


 コーヒーサーバーが小さく音を立てる。


 本棚の影が、元の濃さに戻る。


 青年は、いつもの微笑みを浮かべていた。


 まるで、何も起きなかったように。


「白瀬さんは、天沢さんより少しだけ乱暴ですね」


 真昼は、胸の奥が痛くなった。


「知ってます」


「けれど」


 青年は、少しだけ目を伏せた。


「彼女より、少しだけ生き残るのが上手かもしれない」


 それは、褒め言葉ではなかった。


 警告にも聞こえた。


 別れの言葉にも聞こえた。


 レイが言った。


「あなたは、僕たちの敵ですか」


 青年は答えなかった。


「味方ですか」


 それにも答えない。


 真昼は、青年を見つめた。


 彼がオメガ本人なのか。


 オメガの表の顔なのか。


 名前を失う前の残響なのか。


 オメガに近すぎる別の誰かなのか。


 分からない。


 ただ、一つだけ分かる。


 彼は灯里を知っていた。


 古河千景の名前が戻ったことも、おそらく知っている。


 レイの変化も知っている。


 そして、自分の名前を呼ばれることを恐れている。


「また来ます」


 真昼は言った。


 青年は静かに微笑む。


「雨の日に?」


「晴れの日でも」


「晴れの日は、資料が見つかりにくいですよ」


「探します」


「白瀬さんらしい」


「それ、褒めてます?」


「半分くらい」


 真昼は、少しだけ笑った。


 笑いながらも、胸は冷えていた。


 この人は危険だ。


 たぶん、とても。


 でも、ただの怪物ではない。


 灯里が名前を聞けなかった理由が、少し分かる。


 怖いからではない。


 彼が泣いているように見えたからだ。


 店を出る前に、レイが一度だけ振り返った。


「オメガという名を、僕がつけたと言いましたね」


「はい」


 青年は答える。


「なら、あなたの本当の名前を、いつか聞きます」


 青年は微笑んだ。


「本当の名前が、まだ残っていれば」


 その言葉を最後に、真昼とレイは店を出た。


     *


 外では、雨が続いていた。


 坂道の石畳に水が流れ、街灯の光が細かく砕けている。


 真昼は透明な傘を開いた。


 レイも黒い傘を開く。


 二つの傘が、雨の中に並ぶ。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 ノクターン書房の扉が背後で閉まる。


 鈴の音が、雨に溶けていく。


「確定できない」


 レイが言った。


 真昼は頷いた。


「うん」


「でも、無関係じゃない」


「うん」


「声が重なった」


「私にも聞こえた」


「灯里の記憶の青年と、黒い傘の声」


「うん」


「でも、同じとまでは言えない」


「うん」


 真昼は、雨の坂道を見下ろした。


 白い傘が落ちていた場所。


 銀色のヘアピンが沈んだ水たまり。


 灯里が消えた夜。


 その全部が、今もこの坂に残っている気がする。


「御影くん」


「何」


「灯里さん、あの人の名前を聞けなかったんじゃなくて、聞かなかったんだね」


「うん」


「聞いたら、壊れるって分かってたのかもしれない」


「君は聞いた」


「聞いた。でも、途中で止めた」


「成長?」


「たぶん」


「たぶんじゃなくて?」


「成長」


 レイは少しだけ頷いた。


「よし」


「御影くんのよし、最近ちょっと好き」


「そう」


「反応薄い」


「照れてる」


「嘘でしょ」


「半分」


「また半分」


 二人は、雨の中を歩き出した。


 真昼の鞄の中には、天沢灯里の記録がある。


 古河千景の名前も、もう欠けていない。


 真木彼方の録音は、透子が持っている。


 ノクターン書房の青年の名前は、まだない。


 けれど、真昼はもう彼を「名前がない人」とは思わなかった。


 呼べない名前がある人。


 呼ばれることを恐れている人。


 あるいは、名前を呼ばれた瞬間に何かが崩れる人。


 その違いを、灯里が教えてくれた。


 雨の音の中で、真昼はノートを取り出したくなった。


 でも、今は書かなかった。


 濡れるから。


 紙は濡れると角から傷む。


 その感覚に、少しだけ灯里が笑った気がした。


 真昼は、胸の中で名前を呼ぶ。


 天沢灯里。


 古河千景。


 真木彼方。


 御影レイ。


 白瀬真昼。


 そして、まだ呼べない誰か。


 呼ばないでください。


 その声は、雨の中でも消えなかった。


 呼ばない。


 今日は。


 でも、忘れない。


 真昼はそう思いながら、坂道を下った。


 背後のノクターン書房の窓には、店番の青年の影が映っていた。


 彼は、カウンターの奥で本を閉じている。


 その横に、黒い傘が立てかけられているように見えた。


 次の瞬間、雨粒が窓を流れ、影は滲んだ。


 そこに本当に黒い傘があったのか。


 それとも、真昼の記憶が見せたものなのか。


 確かめるために振り返ることは、しなかった。


 今は、まだ。

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