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第十章 天沢灯里

 古河千景の名前が戻ったあと、雨の音が変わった。


 それは、旧図書館棟の窓を叩く雨ではなかった。


 市警の端末に表示された氏名欄でも、真昼のノートに書かれた文字でも、保全ケースに収められた湿ったメモ帳でもない。


 もっと下。


 旧校舎の床の下。


 封鎖連絡層の奥。


 そこから、何かが目を覚ましたような音がした。


 ぽたり。


 ぽたり。


 水滴ではない。


 錠が外れる音にも似ていた。


 白瀬真昼は、旧図書館棟の入口で立ち止まった。


 雨に濡れた髪の先から、雫が一滴落ちる。


 手にはノート。


 そのページには、さっき書いたばかりの名前がある。


 古河千景。


 もう、空白はない。


 C-04ではない。


 古河千景。


 その名前を見た瞬間、封鎖連絡層の水音が、真昼の胸の奥でもう一度響いた。


 遠くの扉が開く音。


 誰かが、まだ呼ばれていない名前を抱えて待っているような気配。


「……聞こえた?」


 真昼が言うと、隣にいた御影レイが顔を上げた。


 彼も濡れていた。


 旧校舎地下から戻る途中で、雨を浴びたわけではない。封鎖連絡層の水気が、服や髪にまとわりついているようだった。


「水音?」


「ううん」


 真昼は、旧図書館棟の奥を見た。


「扉の音」


 レイの目が、わずかに細くなる。


 黒江透子も振り返った。


 手には、古河千景のメモ帳を収めた保全ケース。


 胸元には、真木彼方の録音端末。


 彼女も何かを感じたらしい。


 いつもの冷静な表情の奥に、警戒が浮かんでいる。


「封鎖連絡層が、まだ動いています」


 透子が言った。


 霧生仁が、露骨に嫌そうな顔をした。


「戻ったばっかりだぞ」


「はい」


「高校生二人と怪我人を地下から引き上げて、名前も一つ戻して、ようやく地上の空気を吸ったところだぞ」


「はい」


「そこでまた行く流れを作るな」


 透子は黙った。


 沈黙は、否定ではなかった。


 倉科悠斗が旧図書館棟の壁に片手をつき、息を整えながら言う。


「今の、俺にも聞こえました」


 霧生が眉を寄せる。


「倉科にもか」


「音っていうか、圧が変わった感じです。地下の扉が開いた時の空気の動きに近い」


「最悪だな」


「たぶん、今しか開かない場所です」


 真昼は、その言葉に反応した。


「今しか」


 悠斗は頷いた。


「古河さんの名前が戻ったことで、何かの固定が外れた。そういう感じがします」


「お前まで観測局みたいなことを言うな」


「現場の感覚です」


「なお悪い」


 霧生は額を押さえた。


 しかし、誰よりも早く無線を取った。


「綾瀬、聞こえるか」


『はい。入口管制です』


「封鎖連絡層の映像に変化は」


『あります。さっきまでノイズが強かった奥側通路に、空間反応が出ています。ええと……すみません、うまく言えません。通路が増えています』


「増えた?」


『はい。地図上にはなかった側室が、カメラ映像に映っています。扉の表示は……記録室、のように見えます』


 真昼の心臓が、強く鳴った。


 記録室。


 灯里の手帳。


 旧新聞部室。


 ノクターン書房。


 名前を残そうとした少女。


 全部が、その言葉へ集まっていく。


 霧生は、苦い顔で全員を見た。


「十五分だけだ」


「主任」


 透子が言う。


「十五分で入って確認して戻る。深入りはしない。メモ帳はもう回収した。今回の目的は達成してる。余計な深追いはしない」


「でも」


 真昼が口を開くと、霧生はすぐに指を突きつけた。


「白瀬、今からお前が言うことは分かってる」


「まだ言ってません」


「灯里さんの記録かもしれない、今行かないと消えるかもしれない、私が行かないと分からないかもしれない、だろ」


「かなり合ってます」


「合ってるから先に止めてる」


「でも、行かない選択肢はないですよね」


 霧生は舌打ちした。


 レイが静かに言う。


「僕も行きます」


「お前はさっき千景の記憶を見て崩れかけた」


「でも戻りました」


「それで安全とは言わねえ」


「分かっています」


「分かっているなら」


「灯里の記録は、白瀬だけだと危ない」


 レイの声は淡々としていた。


 だが、その中に確かな緊張がある。


「白瀬は灯里の残響に引かれます。僕は灯里を直接見られない。でも、白瀬真昼を呼ぶことはできます」


 真昼は、レイを見た。


 彼は、こちらを見ない。


 ただ、そう言った。


 白瀬真昼を呼ぶことはできます。


 それは、今の真昼にとって一番必要な言葉だった。


 透子が、短く判断した。


「入ります。ただし、霧生主任の条件どおり十五分。目的は、出現した記録室の確認と、灯里さんに関連する記録の有無確認。危険反応が出たら即撤退」


 霧生は低く唸った。


「全員、点呼」


 雨音の中で、名前が呼ばれる。


「御影レイ」


「はい」


「白瀬真昼」


「はい」


「黒江透子」


「はい」


「倉科悠斗」


「はい」


「霧生仁」


「はい」


 霧生は、自分で返事をしてからまた顔をしかめた。


「二回目でも慣れねえ」


「でも助かるでしょ」


 真昼が言う。


「助かるから嫌なんだよ」


 悠斗がぼそっと言う。


「俺の台詞を取るな」


 霧生が返す。


 ほんの少しだけ、空気が緩んだ。


 だが、旧図書館棟の奥からは、まだ水音がしている。


 扉が開いた。


 名前が戻ったあとにだけ現れる記録室。


 そこに、天沢灯里が待っている。


 真昼はそう感じた。


     *


 封鎖連絡層へ戻ると、さっきよりも空気が薄くなっていた。


 呼吸がしにくいわけではない。


 ただ、言葉を発する前の沈黙が、やけに長く感じられる。


 壁に貼られていた名札は、古河千景の名前が戻ったことで少しだけ変化していた。


 C-04と書かれていた紙は、剥がれて床に落ちている。


 その下から現れた古い名札には、古河千景と読める文字がある。


 ただし、他の名札はまだ不安定だった。


 K-117。


 R-■■。


 A.A.


 そして、いくつかの空白。


 真昼は、A.A.の文字を見た。


 胸が痛む。


 Amasawa Akari。


 天沢灯里。


 もう、欠けた記号ではない。


 名前を知っている。


 なのに、その人の最後はまだ見えない。


「白瀬真昼」


 レイが言った。


「御影レイ」


 真昼は返した。


「戻ってる?」


「戻ってる。まだ大丈夫」


「まだ禁止」


「大丈夫」


「よし」


 霧生が前方へライトを向ける。


「こっちだな」


 さっきは存在しなかった通路が、壁の隙間に開いていた。


 旧地下鉄のコンクリートと、旧校舎地下の白いタイルの境目。


 そこに、細い扉がある。


 扉というより、記録棚の引き戸のようだった。


 上部に小さな金属プレート。


 記録室 B-LINK-A


 A。


 真昼は、声に出さずにその文字を読んだ。


 A.A.


 天沢灯里。


「鍵は?」


 霧生が聞く。


 悠斗が扉の縁を確認する。


「物理鍵じゃないですね。引っかかってるだけに見える。でも、さっきまでなかったなら、鍵の問題じゃない」


「開けたら閉じ込められるとかあるか」


「あります」


「即答するな」


「聞かれたので」


 悠斗は少しだけ苦い顔をした。


「ただ、今は中から空気が出てます。入るなら、開いている間に」


「十五分」


 霧生が全員に言う。


「それ以上は粘らない。白瀬、特に」


「分かってます」


「本当に?」


「本当に」


「御影、見張れ」


「はい」


「御影くん、信用されすぎじゃない?」


「君の実績」


「反省してます」


「それも最近よく聞く」


 真昼は口を尖らせたが、それ以上は言わなかった。


 扉が開く。


 冷たい空気が流れてきた。


 水の匂いではない。


 紙の匂いだった。


 濡れて、乾いて、また濡れて、長い時間をかけて変質した紙の匂い。


 中は小さな部屋だった。


 学校の資料室と、地下鉄の保守倉庫と、観測局の記録保管庫が混ざったような場所。


 壁には古いファイル棚。


 床には水たまり。


 天井には裸電球のような灯りが一つ。


 だが、その灯りは電気で点いているのではないようだった。


 白く、弱く、雨の日の窓明かりに似た光。


 真昼は、足を踏み入れた瞬間に分かった。


 ここに灯里がいた。


 いや、来た。


 最後に。


 白い傘を持って。


 銀色のヘアピンで前髪を留めて。


 手帳を胸に抱いて。


「白瀬」


 レイが低く呼ぶ。


「分かってる」


「今、引かれてる」


「うん」


「白瀬真昼」


「御影レイ」


 返した。


 まだ返せる。


 私は白瀬真昼。


 ここにいる。


 天沢灯里ではない。


 そう言い聞かせながら、真昼は部屋の奥を見た。


 中央に、古い机があった。


 机の上には、紙片が一枚だけ置かれている。


 濡れていない。


 周囲の棚や床が湿っているのに、その紙だけは乾いている。


 淡い生成り色。


 手帳から切り取られたページのように見えた。


 透子が慎重に近づく。


「触らないでください」


 真昼は頷いた。


 触れたい。


 でも、触れない。


 透子が保護シートを取り出し、紙片の周囲を確認する。


 文字がある。


 灯里の字だ。


 真昼は、遠くからでも分かった。


 細く、右上がりで、迷いながらも残そうとする字。


 透子がライトを当てた。


「読めます」


 彼女の声が、少しだけ震えた。


「読み上げます」


 部屋の中に、雨音はなかった。


 その代わり、遠くで水が落ちる音だけがする。


 透子は、ゆっくり読んだ。


「私は、あの人の名前を知らない」


 真昼の胸が痛んだ。


 ノクターン書房の青年。


 名前を言わない青年。


 灯里が傷つけたくなくて、呼べなかった人。


「でも、名前がない人ではない」


 レイの肩がわずかに動く。


 透子は続ける。


「いつか、誰かが呼べるように、ここに記録する」


 真昼は、息を止めた。


 その一文は、灯里そのものだった。


 無理に聞かなかった。


 けれど、名前がない人として扱わなかった。


 呼べないままでも、いつか誰かが呼べるように、記録だけを残そうとした。


 優しい。


 慎重。


 痛い。


 そして、あまりにも孤独だ。


 透子は、最後の行を読んだ。


「天沢灯里」


 その署名は、部屋の空気を変えた。


 白い光が揺れる。


 壁のA.A.というラベルが、ゆっくり滲み、下から文字が出てくる。


 天沢灯里。


 真昼は、目を閉じそうになった。


 閉じてはいけない。


 そう思った。


 でも、もう遅かった。


 灯里の記憶が、胸の内側から溢れ出した。


     *


 白い傘を畳む。


 雨粒を水色のハンカチで拭う。


 紙を濡らしてはいけない。


 前髪を銀色のヘアピンで留め直す。


 ノクターン書房の鈴が鳴る。


 いらっしゃいませ。


 店番の青年が顔を上げる。


 名前を知らない人。


 でも、名前がない人ではない人。


 彼は、私を呼ぶ。


 天沢さん。


 胸が痛む。


 嬉しい。


 苦しい。


 私は彼を呼べない。


 お名前を聞いてもいいですか。


 必要ですか。


 必要じゃない。


 でも、呼びたい。


 呼びたいから、知りたい。


 でも、彼は怖がっている。


 名前を聞かれることを。


 呼ばれることを。


 記録されることを。


 だから私は言う。


 名前が怖いなら、今日は呼ばない。


 彼の顔から表情が消える。


 傷つけた。


 呼ばないと言ったのに、傷つけた。


 優しさは、時々、相手の傷の場所を正確に探してしまう。


 優しい人は、いちばん残酷です。


 彼はそう言った。


 その通りだと思った。


 でも、私はそれでも記録する。


 あの人に名前があることを。


 名前を言えない人ではあっても、名前がない人ではないことを。


 いつか、誰かが呼べるように。


 私は、手帳に書く。


 天沢灯里。


 私は、この名前を残す。


 旧新聞部室。


 床下の箱。


 濡れた手帳。


 C-04。


 古河千景。


 真木彼方。


 封鎖連絡層。


 記録室。


 白い傘。


 黒い傘。


 黒い傘が、路地に立っている。


 逃げなければ。


 でも、手帳を残さなければ。


 名前を残さなければ。


 私は天沢灯里。


 アガルタ学院卒業生。


 図書委員。


 旧新聞部資料整理補助。


 名前が欠ける記事を集めていた。


 名前を言わない青年に会った。


 彼の名前を聞けなかった。


 聞かないことが優しさだと思った。


 でも、消えることも怖かった。


 私は天沢灯里。


 私は――


     *


「白瀬真昼」


 声がした。


 遠い。


 雨の向こうから聞こえる。


「白瀬真昼」


 また呼ばれる。


 その名前は、自分の名前のはずなのに、一瞬だけ誰のものか分からなかった。


 白瀬真昼。


 誰だろう。


 私は天沢灯里。


 白い傘を持っている。


 銀色のヘアピンをつけている。


 ノクターン書房で青年と話した。


 黒い傘に――


「白瀬真昼!」


 今度は強かった。


 肩を掴まれる。


 真昼は息を吸った。


 肺に、封鎖連絡層の冷たい空気が入る。


 目の前に、御影レイがいた。


 灰青色の目。


 濡れた黒髪。


 いつもより焦った顔。


 彼が、自分の肩を掴んでいる。


「白瀬真昼」


 レイはもう一度呼んだ。


 真昼は、震える息を吐いた。


「……御影レイ」


 声が出た。


 自分の声だった。


 灯里の声ではない。


 白瀬真昼の声。


「戻った?」


 レイが聞く。


 真昼は、すぐには答えられなかった。


 胸の中に、まだ白い傘がある。


 銀色のヘアピンの重さがある。


 ノクターン書房の鈴の音がある。


 青年の表情が消える瞬間がある。


 黒い傘の気配がある。


 でも、目の前にいるのはレイだ。


 ここは記録室。


 自分は白瀬真昼。


 真昼は、ゆっくり頷いた。


「戻った」


「名前」


「白瀬真昼」


「年齢」


「十七歳」


「所属」


「アガルタ学院高等部二年三組。新聞部。《アガルタ観測録》管理人」


「灯里は」


 レイは、そこで一瞬だけ迷った。


 真昼は、自分で続けた。


「天沢灯里」


 胸が痛む。


 でも、言える。


「灯里は、私じゃない」


 言った瞬間、目に涙が浮かんだ。


 自分でも理由が分からない。


 いや、分かっている。


 その言葉は、灯里を突き放すものではない。


 灯里を灯里として認める言葉だった。


 レイは黙って聞いている。


 真昼は、息を整えながら言った。


「灯里は私だった」


 それは、完全な事実ではない。


 でも、感覚としては本当だった。


 灯里の痛みが自分の中にある。


 灯里の迷いが胸に残っている。


 灯里の白い傘を、真昼は知っている。


 灯里が青年の名前を聞けなかった瞬間を、真昼は覚えている。


 だから、言う。


「でも、私じゃなかった」


 声が震えた。


「天沢灯里は、天沢灯里だった」


 その瞬間、記録室の壁に貼られていたA.A.のラベルが、完全に変わった。


 天沢灯里。


 もう、欠けていない。


 真昼は、涙をこぼした。


 レイが小さく息を吐く。


 それは安堵の息だった。


「言えたね」


 彼が言った。


 真昼は、涙を拭いながら少し笑った。


「それ、私の台詞だったのに」


「先に言った」


「ずるい」


「たぶん」


「たぶんじゃなくて、ずるい」


 真昼の声はまだ震えていた。


 でも、少し笑えた。


 その笑いで、自分が戻ってきたことが分かった。


 白瀬真昼として。


 天沢灯里の名前を抱えたまま。


 でも、天沢灯里ではなく。


 透子が、慎重に机の上のページを保全シートへ移した。


「白瀬さん。記録できますか」


 真昼は頷いた。


「できます」


「無理は」


「してます。でも、できます」


 霧生が顔をしかめる。


「その返事、よくねえな」


「でも正直です」


「正直ならいいってもんじゃない」


「今は、嘘を混ぜないほうがいいので」


 霧生は何か言い返そうとして、やめた。


 代わりに、短く言う。


「二分だ」


「五分ください」


「三分」


「四分」


「三分半」


「刻みますね」


「刻ませるな」


 真昼は、少しだけ笑った。


 それから、ノートを開いた。


 手が震えている。


 それでもペンを持つ。


 ページの一番上に、名前を書く。


 天沢灯里。


 その下に、一行ずつ書いていく。


 アガルタ学院卒業生。


 図書委員。


 旧新聞部資料整理補助。


 名前が欠ける記事を集めていた。


 C-04の名前を追っていた。


 ノクターン書房の店番の青年に会っていた。


 名前を聞けなかった。


 でも、名前がない人ではないと知っていた。


 名前を奪われる前に、名前を残そうとした少女。


 最後の一文を書いた時、真昼の手が止まった。


 少女。


 灯里は、もう少女ではない時間を生きられなかった。


 卒業して、資料を整理して、誰かの名前を残そうとして、黒い傘に消された。


 その人生を、真昼の中へ吸収してはいけない。


 彼女は真昼の前世でも、真昼の材料でも、真昼の物語を強くするための伏線でもない。


 天沢灯里。


 ただ、それだけで十分な名前。


 真昼は、もう一度書いた。


 天沢灯里。


 そして、声に出した。


「天沢灯里」


 記録室の空気が、静かに震えた。


 その声に応えるように、机の上の紙片の端が、ほんの少しだけ持ち上がる。


 風はない。


 でも、紙が呼吸したように見えた。


 透子が小さく言う。


「記録が安定しました」


 霧生が肩の力を抜く。


「なら撤収だ」


「もう少し」


 真昼が言いかけると、霧生が即座に睨む。


「三分半は終わりだ」


「厳密」


「厳密にしないとお前は残る」


「反省しています」


「今だけだろ」


「今は本当に」


「はいはい」


 霧生は扉のほうを照らした。


「点呼して出る」


 記録室の中で、名前が呼ばれる。


「御影レイ」


「はい」


「白瀬真昼」


「はい」


「黒江透子」


「はい」


「倉科悠斗」


「はい」


「霧生仁」


「はい」


 そして、真昼は、誰に指示されたわけでもなく、もう一つ名前を呼んだ。


「天沢灯里」


 誰も返事をしなかった。


 当然だ。


 彼女はここにいない。


 でも、記録室の白い光が、一度だけ静かに揺れた。


 それで十分だった。


     *


 記録室を出ると、封鎖連絡層の空気が少し軽くなっていた。


 いや、軽くなったというより、区別がついたのかもしれない。


 C-04は古河千景になった。


 A.A.は天沢灯里になった。


 K-117はまだ、真木彼方として完全には戻っていない。


 R-■■もまだ分からない。


 オメガの名前もない。


 それでも、全部が同じ黒い塊ではなくなった。


 名前があるものと、まだないもの。


 戻ったものと、まだ届かないもの。


 その差が見えるようになった。


 真昼は、レイと並んで歩いた。


 通路の水面に、自分の顔が映る。


 一瞬だけ、そこに別の顔が重なった気がした。


 銀色のヘアピンをつけた少女。


 白い傘を持った少女。


 真昼は、立ち止まらなかった。


 ただ、心の中で言った。


 天沢灯里。


 あなたは、私じゃない。


 でも、あなたの名前は記録する。


「白瀬」


 レイが横で言った。


「何」


「大丈夫?」


「大丈夫じゃない」


「正直」


「でも、戻ってる」


「白瀬真昼?」


「白瀬真昼」


「灯里は?」


「天沢灯里」


「よし」


 レイがそう言うと、真昼は少しだけ笑った。


「御影くん、最近よしって言うの上手くなったね」


「君が言うから」


「成長した」


「教育?」


「相互教育」


「難しい」


「人間は難しいの」


「便利だね」


「便利だから」


 二人のやり取りを聞いていた悠斗が、後ろからぼそっと言った。


「地下でそういう会話できるの、逆にすごいな」


「緊張緩和です」


 真昼が返す。


「無駄口とも言う」


 霧生が言う。


「でも助かるでしょ」


「助かるから腹立つ」


「主任も言い方が倉科さんに似てきましたね」


「勘弁してください」


 悠斗が本気で嫌そうな顔をした。


 それを見て、透子がほんの少しだけ笑った。


 その笑みはすぐに消えたが、真昼は見逃さなかった。


 封鎖連絡層の出口が見える。


 旧校舎地下の扉。


 地上へ戻る道。


 その手前で、透子が一度だけ振り返った。


 記録室の扉は、もう見えない。


 さっきまであった通路は、壁の陰に沈み、入口の輪郭も曖昧になっている。


「閉じています」


 透子が言った。


「もう入れない?」


 真昼が聞く。


「今は」


「便利な言葉」


「必要な言葉です」


 透子は静かに言った。


 真昼は頷いた。


 今は閉じた。


 でも、記録は持ち帰った。


 天沢灯里の欠落ページ。


 彼女の最後の記録。


 その署名。


 天沢灯里。


 それがあれば、今日は十分だ。


     *


 地上に戻ると、雨は弱くなっていた。


 旧図書館棟の窓から見える空は、まだ灰色だったが、雲の向こうに薄い光がある。


 綾瀬が安堵した顔で迎え、御堂が映像記録の保存を確認し、牧野が回収された紙片の保全手順を進める。


 全員が慌ただしく動いていた。


 その中で、真昼だけが少し遅れていた。


 身体が重い。


 灯里の記憶に飲まれかけた余韻が、まだ残っている。


 白い傘を持っていた気がする。


 銀色のヘアピンをつけていた気がする。


 ノクターン書房で、青年に名前を聞いた気がする。


 黒い傘を見た気がする。


 でも、それは真昼の人生ではない。


 真昼は、自分のノートを開いた。


 さっき記録室で書いたページを見る。


 天沢灯里。


 アガルタ学院卒業生。


 図書委員。


 旧新聞部資料整理補助。


 名前を奪われる前に、名前を残そうとした少女。


 真昼は、その下にもう一行書いた。


 彼女は、私ではない。


 その文字を見て、胸がまた痛くなった。


 でも、その痛みは、さっきよりも少し澄んでいた。


 灯里を失う痛みではない。


 灯里を灯里として認める痛み。


 真昼はペンを置いた。


 レイが隣に来る。


「書けた?」


「うん」


「見ても?」


「まだ駄目」


「何で」


「恥ずかしいから」


「記事にする人が?」


「ノートは別」


「そう」


 レイは、それ以上覗こうとしなかった。


 真昼は少しだけ安心した。


 踏み込まれないことが、こんなにありがたい時もある。


 灯里は、たぶんそれを知っていた。


 だから、青年の名前を無理に聞かなかった。


 でも、記録だけは残した。


 いつか、誰かが呼べるように。


 真昼は、窓の外の雨上がりを見た。


「御影くん」


「何」


「私、灯里さんの記事を書く」


「うん」


「でも、すぐには書かない」


「珍しい」


「うるさい」


「ごめん」


「今回は、ちゃんと調べる。灯里さんが何を守ろうとして、何を聞けなくて、何を残したのか。私の言葉で勝手に急いでまとめない」


「うん」


「でも、書く」


「うん」


「天沢灯里の名前で」


 レイは、静かに頷いた。


「それがいいと思う」


 真昼は、ノートを閉じた。


 その表紙に、指を置く。


 白瀬真昼のノート。


 でも、その中には天沢灯里の名前がある。


 古河千景の名前もある。


 真木彼方の名前もある。


 名前は、混ざらない。


 混ぜない。


 それぞれの場所に置く。


 それが、今の真昼にできる記録だった。


 旧図書館棟の外で、雨が止んだ。


 水たまりに、白い光が落ちる。


 一瞬だけ、そこに白い傘の影が映った気がした。


 真昼は、もう追いかけなかった。


 ただ、心の中でその名前を呼んだ。


 天沢灯里。


 返事はない。


 でも、その名前はもう、消えなかった。

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