第九章 古河千景
封鎖連絡層の奥へ進むほど、名前は重くなった。
白瀬真昼は、最初それを比喩だと思っていた。
名前を呼び合うことが命綱になる場所。
番号ではなく、ひとりずつ名前を確認しながら歩く場所。
だから、名前が重い。
そういう意味だと思っていた。
けれど、それは半分しか合っていなかった。
封鎖連絡層の奥では、名前そのものが身体にのしかかる。
白瀬真昼。
その四文字を心の中で唱えるたび、胸の奥に小さな錘が落ちる。
天沢灯里。
その名前を思い浮かべると、白い傘の冷たさが指先に戻る。
真木彼方。
その名前を呼ぶと、白い病室の蛍光灯が目の裏に刺さる。
古河 千■。
まだ欠けたその名前だけが、奥歯に挟まった小さな石のように、どうしても取れなかった。
通路はさらに狭くなっていた。
右側の壁には、学校の地下らしい白いタイルが残っている。しかし左側は旧地下鉄の保守通路のような剥き出しのコンクリートで、ところどころに水が染み出していた。天井は低く、配管と古いケーブルが入り乱れ、ライトの光を受けるたびに濡れた蛇のように鈍く光る。
足元には、浅い水が流れていた。
ただの水ではないように見えた。
ライトが当たるたび、そこに文字のようなものが浮かぶ。
K-117。
C-04。
A.A.
R-■■。
すぐに崩れて、ただの水紋になる。
真昼は、鞄の中の透明ケースに手を当てた。
銀色のヘアピン。
白い傘の布片。
灯里の残したもの。
それは、この場所へ近づくほど冷たくなっている気がした。
「足元、気をつけろ」
霧生仁が先頭で言った。
ライトを少し下げ、床の水深を確認する。
「ここから水が深くなる。倉科、合ってるか」
倉科悠斗は、壁の古い配管と、床に半分埋まったレールの位置を見比べていた。
「合ってます。旧第三連絡線側の保守通路です。ここから先、図面上では行き止まり。でも実際には、側壁の奥に点検用の空間がある」
「メモ帳があるとしたら?」
「その点検空間か、その手前の排水溝」
悠斗は左脇腹に一瞬だけ手を当てた。
傷が痛むのかもしれない。
真昼が気づくと、彼は顔をしかめた。
「見なくていい」
「まだ何も言ってません」
「言いそうな顔してた」
「痛むなら言ってください」
「痛む」
悠斗は短く言った。
真昼は少し驚いた。
「ちゃんと言った」
「言わないと、霧生さんが病院に戻すって言ったんで」
霧生が振り返らずに言う。
「戻すぞ」
「歩けます」
「なら歩け。ただし先行するな」
「了解」
悠斗の声は不機嫌だったが、素直だった。
名前を失いかけた人間は、無茶をしたくても、もう完全にはひとりで走れない。
それは弱さではない。
戻ってきた証拠なのだと、真昼は思った。
御影レイは、真昼の斜め後ろを歩いている。
さっきから口数が少ない。
ライトの光が彼の横顔を照らすたび、顔色が少しずつ悪くなっているのが分かる。
ここは、古河 千■の記憶に近すぎる。
水音。
作業灯。
反射ベスト。
懐中ライト。
黒い傘。
レイの中で、それらが現実と混ざり始めているのかもしれない。
「御影レイ」
真昼は呼んだ。
レイはすぐに答える。
「白瀬真昼」
「今、どこ」
「封鎖連絡層。旧第三連絡線側保守通路」
「あなたは」
「御影レイ」
「古河さんは」
レイは、一瞬だけ黙った。
真昼の胸が冷えた。
しかし、彼はすぐに答えた。
「僕じゃない」
「うん」
「でも、近い」
「うん」
「まだ、名前が欠けてる」
「取り戻す」
真昼は言った。
レイが、ほんの少しだけ頷いた。
「取り戻す」
黒江透子は、二人のやり取りを黙って聞いていた。
胸元には、真木彼方の録音端末が入っている。
K-117。
透子はそこに何度も手を当てている。
無意識なのか、意識して確認しているのか、真昼には分からなかった。
ただ、その仕草を見るたび、透子もまた名前を確認しているのだと感じた。
自分の名前ではなく、救えなかった少年の名前を。
「点呼」
霧生が言った。
通路の分岐前だった。
右は低い点検口。
左は水の流れが強い通路。
正面は、錆びた格子で塞がれている。
「御影レイ」
「はい」
「白瀬真昼」
「はい」
「黒江透子」
「はい」
「倉科悠斗」
「はい」
「霧生仁」
「はい」
霧生は、自分で返事をしてから嫌そうに顔をしかめた。
「やっぱり自分で自分の名前言うの、慣れねえな」
「でも助かるでしょ」
真昼が言う。
「助かるが気持ち悪い」
悠斗がぼそりと返す。
「それ、私の台詞です」
「借りた」
「使用料取ります」
「旧地下鉄の現場案内で払ってる」
「高い」
レイが横から言う。
「命綱としては安い」
悠斗は一瞬だけ黙った。
それから、少し不機嫌そうに言う。
「高校生にそういうこと言われると、反論しにくい」
「すみません」
「謝るな。余計に反論しにくい」
その小さなやり取りに、通路の緊張が少しだけ緩んだ。
だが、次の瞬間には水音がそれを飲み込む。
ぽたり。
ぽたり。
いや、もう水滴ではない。
奥から流れてくる音だ。
低く、一定で、地下のさらに深い場所へ何かが落ちていくような音。
「こっちです」
悠斗が右の点検口を指した。
「狭いです。屈んで進む。足元に排水溝があります。そこに物が落ちてたら、流されずに引っかかる可能性がある」
「倉科はここまでで待て」
霧生が言った。
悠斗は即座に反論しようとした。
しかし、霧生の目を見て、言葉を止めた。
「……ここから先、構造だけじゃなくて、現場感覚が要ります」
「だから、お前はここで指示しろ。中に入るのは俺と黒江。御影、白瀬は必要なら呼ぶ」
「必要なら、じゃ遅いです」
真昼が言った。
霧生がこちらを見る。
「白瀬」
「メモ帳がそこにあったとして、私か御影くんが近くにいないと反応しないかもしれません」
「危険だ」
「分かってます」
「分かってるって言う奴ほど分かってねえ」
「でも、今回は本当に分かってます」
霧生は、真昼を睨んだ。
真昼は引かなかった。
旧新聞部室でなら、勢いで言い切ったかもしれない。
でも今は違う。
自分が踏み込むことの危うさを知っている。
名前を聞くことが暴力かもしれないと知っている。
それでも、呼ばなければ消える名前があると知っている。
だから、行く。
霧生は舌打ちした。
「御影」
「行きます」
「聞く前に答えるな」
「答えは同じです」
「最悪だ」
「すみません」
「謝るな」
霧生はしばらく考え、短く言った。
「俺が先頭。次に倉科。無理なら下がれ。白瀬、御影、黒江の順。何か見えたら即報告。勝手に触るな。白瀬、お前は特に」
「はい」
「はいが素直すぎて怖い」
「反省が続いてるので」
「そのまま続けろ」
五人は、低い点検口へ入った。
*
点検口の中は、旧地下鉄の匂いが強かった。
油。
錆。
湿ったコンクリート。
古い電線。
そして、人が長い間立ち入っていない場所にだけある、空気の死んだ匂い。
真昼は屈んで進んだ。
天井が低く、時々配管に肩が当たる。
足元の水は冷たい。
靴の底から、じわじわと温度を奪っていく。
レイの呼吸が後ろで乱れる。
いや、後ろではない。
この狭い通路では、距離感が狂う。
声も反響する。
誰がどこにいるのか、少しずつ分かりにくくなる。
「点呼」
霧生が低く言った。
声が通路の奥へ伸び、戻ってくる。
「御影レイ」
「はい」
少し遅い。
「白瀬真昼」
「はい」
「黒江透子」
「はい」
「倉科悠斗」
「はい」
「霧生仁」
「はい」
全員いる。
全員、まだ名前を返せる。
真昼は自分の胸に手を当てた。
白瀬真昼。
天沢灯里ではない。
でも、灯里の白い傘を持っている。
その事実だけは、今の真昼を支えている。
「止まってください」
悠斗が言った。
声が硬い。
霧生がライトを下げる。
足元の排水溝。
鉄の格子が、半分外れていた。
その奥に、何かが引っかかっている。
黒ずんだ小さなもの。
水を吸って膨らんだ、手のひらほどの冊子。
真昼は、息を止めた。
「メモ帳……?」
言葉が自然に漏れた。
悠斗がゆっくり頷く。
「たぶん」
「触るな」
霧生が全員へ言った。
「牧野に回収させたいが、この場所で長時間待つのはきつい。黒江」
「回収手順をこちらで行います」
透子は、小型の証拠袋とピンセットを取り出した。
狭い通路の中で、慎重に姿勢を低くする。
だが、彼女の手が格子に近づく直前、メモ帳がわずかに震えた。
水の流れではない。
ページの間から、黒い滲みが広がる。
真昼の胸が強く痛んだ。
「待って」
彼女は言った。
透子の手が止まる。
「白瀬さん?」
「それ、今、名前が消えようとしてる」
「見えますか」
「分かる」
「どう分かる」
「紙が、名前を吐き出せなくなってる感じ」
「表現が怖いな」
霧生が小さく言う。
真昼はメモ帳を見つめた。
水に濡れ、黒く膨らんだ表紙。
角は崩れ、ゴムバンドは切れている。
だが、その表紙の端に、鉛筆の跡のようなものがある。
古。
そこだけ読めた。
真昼は、鞄から透明ケースを取り出した。
中には、灯里の白い傘の布片と、銀色のヘアピンがある。
「白瀬」
レイが言う。
「触らない」
「なら、何を」
「呼ぶ準備」
真昼はケースを胸に当てた。
白い傘の少女。
名前を聞くことが暴力かもしれないと知っていた人。
でも、聞かなければ消えると知っていた人。
灯里さん。
力を貸して。
そう思った。
声には出さない。
今、呼ぶべきなのは灯里ではない。
このメモ帳の持ち主だ。
「透子さん」
真昼は言った。
「ページ、開けますか」
「可能ですが、崩れる危険があります」
「読めるなら、今しかないかもしれない」
「承知しています」
透子は慎重にメモ帳を引き上げた。
水が滴る。
古い紙の匂いが、一気に強くなる。
濡れた紙が、息をしているように見えた。
透子はそれを防水シートの上に置く。
霧生がライトを固定する。
悠斗は壁に手をつき、顔色を悪くしている。
レイは、メモ帳から目を逸らそうとして、逸らせずにいた。
「御影レイ」
真昼が呼ぶ。
「白瀬真昼」
レイは答える。
「戻ってる?」
「まだ」
「まだ?」
「半分、地下」
「こっち戻って」
「名前を呼んで」
「御影レイ」
「御影レイ」
レイが自分でも繰り返した。
真昼は、頷いた。
「よし」
透子が、ピンセットでメモ帳の表紙を開いた。
最初のページは、ほとんど黒く滲んでいた。
次も。
その次も。
鉛筆の線は水に負け、紙の繊維へ溶けている。
だが、いくつかのページには、同じ文字が残っていた。
古河千景。
真昼の呼吸が止まった。
完全に読めた。
古河千景。
さらに次の行にも。
古河千景。
その下にも。
古河千景。
何度も。
何度も。
古河千景。
古河千景。
古河千景。
ページの端に、焦った筆圧。
同じ名前を、何度も書いている。
自分が自分であることを、紙に縫い止めるように。
水に濡れても、黒く滲んでも、いくつかの文字は残っていた。
千。
景。
最後の一文字。
真昼は、胸の奥で何かが開くのを感じた。
「古河千景」
彼女は、声に出した。
その瞬間、通路全体が震えた。
水面に無数の波紋が走る。
壁の名札が、かすかに揺れる。
C-04と書かれていた古いラベルの端から、黒い滲みが剥がれる。
レイが大きく息を吸った。
そして、地下へ落ちた。
*
古河千景は、名前を書いていた。
寒い。
手が震える。
作業用の手袋は濡れている。
鉛筆が滑る。
メモ帳の紙は湿気を吸って柔らかくなっている。
それでも書く。
古河千景。
古河千景。
古河千景。
名前を書けば戻れる。
名前を書けば、自分の中に入り込んでくる知らない誰かの声を押し返せる。
赤いステージ。
白い病室。
高校の教室。
雨の路地。
知らない女の足首の痛み。
知らない少年の喉の震え。
知らない誰かの手に握られた黒い刃。
全部、違う。
俺じゃない。
俺は古河千景だ。
旧地下鉄関連の外部委託作業員。
正規職員じゃない。
偉くもない。
誰かに覚えられるような人間でもない。
でも、名前はある。
古河千景。
古河千景。
古河千景。
水音。
ぽたり。
ぽたり。
地下なのに、雨の匂いがする。
黒い傘が立っている。
線路の先。
作業灯の黄色い光の外側。
黒い傘。
黒いコート。
黒い手袋。
顔が見えない。
でも、こちらを見ている。
千景は懐中ライトを向ける。
光が届かない。
黒い傘の下だけが、穴のように抜けている。
「誰だ」
声が震えた。
相手は答えない。
ただ、一歩近づく。
地下の水たまりに、黒い傘の縁から水滴が落ちる。
ぽたり。
ここは地下だ。
雨は降らない。
それなのに、傘は濡れている。
千景はメモ帳を握りしめた。
「来るな」
黒い傘の人物が、静かに言う。
「怖がらなくていい」
声は穏やかだった。
穏やかすぎて、怖かった。
「これは終わりではない」
「何の話だよ」
「お前は、私に戻るだけだ」
胃の奥が冷える。
その言葉を、千景は知っている気がした。
夢の中で聞いたことがある。
知らない女が路地で聞いた声。
知らない少年が病室で恐れた気配。
まだ出会っていない誰かが、いつか聞く言葉。
「私はお前だ」
黒い傘の人物は言った。
千景は、息を吸った。
手が震える。
膝も震える。
怖い。
死にたくない。
ここで死んだら、事故として処理される。
外部委託作業員が転落しただけの記事になる。
苗字だけで呼ばれて、名前の最後は誰にも気にされない。
それだけは嫌だった。
メモ帳を開く。
水でふやけたページに、何度も書いた名前がある。
古河千景。
古河千景。
古河千景。
千景はそれを見た。
それだけで、少しだけ息ができた。
「違う」
彼は言った。
声は震えていた。
でも、出た。
「俺は、お前じゃない」
黒い傘の人物が止まる。
千景は、さらに言った。
「俺は古河千景だ」
その名前を口にした瞬間、地下の空気が変わった。
まるで通路の奥で、誰かが息を呑んだようだった。
黒い傘の人物の顔は見えない。
だが、その顔のない場所が、わずかに歪んだ。
「名前は、鎖だ」
相手が言う。
「違う」
「記録は、檻だ」
「違う」
「他人に呼ばれる名など、観測者がつけたタグにすぎない」
「違う!」
千景は叫んだ。
声が地下に反響する。
自分でも驚くほど強い声だった。
「これは俺の名前だ。俺が生きるために書いた名前だ。お前のものじゃない。誰かの番号でもない」
黒い傘の人物が、ゆっくり手を動かす。
黒い手袋。
その中から、刃が抜かれる。
黒い刃。
光を反射しない。
刃というより、細い穴。
見てはいけないと思った。
でも、目が離せない。
その刃を見た瞬間、メモ帳の文字が遠くなる。
古河千――。
違う。
書いてある。
見ろ。
見ろ。
古河千景。
古河千景。
古河千景。
「俺は」
千景は、最後にもう一度言った。
「古河千景だ」
黒い刃が動いた。
次の瞬間、視界が黒く切れた。
痛みは来なかった。
いや、来る前に切られた。
顔も見えない。
刃が刺さる場所も見えない。
音も消える。
黒い線が、記憶の真ん中を切る。
ぷつり。
*
「御影レイ!」
真昼は叫んだ。
レイは、膝をついていた。
狭い保守通路の中で、片手を水につき、肩で息をしている。目は開いているが、ここではない場所を見ている。
メモ帳は、透子の前の防水シートの上にある。
開かれたページには、まだ名前が読める。
古河千景。
古河千景。
古河千景。
真昼は、手を伸ばしかけて止まった。
触ってはいけない。
でも、呼ばなければならない。
黒い滲みが、メモ帳の端からじわじわと広がっている。
名前を見つけられたことに反応している。
消そうとしている。
そう感じた。
「白瀬さん」
透子が言う。
その声にも焦りがある。
「名前を」
真昼は頷いた。
胸の奥に、灯里の声が響く。
名前をなくした人に、名前を聞くのは暴力かもしれない。
でも、聞かなければ、その人は本当に消えてしまう。
真昼は、息を吸った。
「古河千景!」
声が、狭い通路の中に響いた。
水面が大きく揺れる。
壁のラベルが震える。
C-04と書かれた滲んだ紙の下から、別の文字が浮かびかける。
しかし、まだ弱い。
黒い滲みが押し返す。
真昼はもう一度叫ぶ。
「古河千景! あなたはC-04じゃない!」
透子が続いた。
声は静かだった。
けれど、確かな力があった。
「C-04ではありません。古河千景」
霧生も低く言う。
「古河千景」
悠斗が、少し遅れて続ける。
「古河千景」
その声には、地下の人間としての重さがあった。
同じ旧地下鉄で働き、名前を失いかけた者の声。
レイは、まだ戻らない。
真昼は彼の前に膝をついた。
「御影レイ」
反応がない。
「御影レイ、聞いて」
レイの目がわずかに動く。
「あなたは古河千景じゃない」
レイの喉が震える。
「でも、古河千景を見たんでしょ」
彼は、かすかに頷いた。
「だったら、呼んで」
真昼は言った。
「あなたの名前じゃなくて、彼の名前で」
レイは、息を吸った。
苦しそうだった。
自分の中に流れ込んだ記憶と、目の前の現実を分けようとしている。
古河千景の恐怖。
黒い傘。
黒刃。
死の瞬間で切れた黒い記憶。
それを、自分の中で「僕」と呼ばないために。
レイは、震える声で言った。
「古河千景」
水音が止まった。
一瞬だけ。
レイは続けた。
「僕じゃない」
黒い滲みが、メモ帳の端で止まる。
「オメガでもない」
壁のC-04ラベルが、かすかに剥がれる。
「あなたは」
レイは、顔を上げた。
目にはまだ地下の記憶が残っている。
でも、そこに御影レイが戻ってきている。
「あなたは、古河千景だ」
その瞬間、封鎖連絡層が音を立てた。
金属が軋む。
遠くで扉が閉まる。
水面に走っていた波紋が、逆向きに戻る。
壁の名札が、一斉に震えた。
C-04。
その文字が滲む。
消えるのではない。
下から、別の文字が出てくる。
古河 千景。
真昼は、息を呑んだ。
完全に読めた。
古河千景。
壁だけではない。
透子の端末が、小さく警告音を鳴らした。
市警へ持ち込まれていたC-04関連事故記録の複写データ。
黒く欠けていた氏名欄の最後に、一文字が戻っている。
景。
古河 千景。
透子は端末を見つめた。
その目に、驚きと、痛みと、わずかな安堵が混ざっている。
「戻った……」
綾瀬の声が無線越しに聞こえた。
『こちら入口管制。市警側の複写データにも変化。氏名欄、古河千景と読めます。繰り返します。古河千景と読めます』
霧生が短く息を吐いた。
「よし」
その一言は、ほとんど祈りのようだった。
悠斗は、壁の名札を見ていた。
「古河千景」
彼は、もう一度その名前を言った。
「二年前の作業員事故の人か」
透子が頷く。
「はい」
「事故じゃないんですよね」
「おそらく」
「おそらく、じゃなくて」
悠斗は、少しだけ声を荒げた。
「この人、殺されたんですよね。地下で。名前を書きながら」
誰も、すぐには答えられなかった。
レイが、ゆっくり言った。
「黒い傘の人物に」
真昼はメモ帳を見た。
古河千景。
その文字は、まだ揺れている。
でも、消えていない。
完全な真相は戻っていない。
彼が最後に何を見たのか。
黒刃がどこを切ったのか。
遺体がどう処理されたのか。
観測局がどこまで知っていたのか。
オメガが何を得たのか。
まだ分からない。
でも、名前は戻った。
C-04ではなく。
古河千景。
真昼は、そっと涙を拭った。
泣いていることに、今気づいた。
自分の涙だと思う。
灯里の残響かもしれない。
千景の名前が戻ったことへの安堵かもしれない。
どれでもよかった。
「古河千景さん」
真昼は、丁寧に呼んだ。
「見つけました」
声が震えた。
「遅くなって、ごめんなさい」
メモ帳のページが、かすかに揺れた。
風はない。
水の流れでもない。
ただ、古い紙が息を吐いたように見えた。
*
メモ帳は、透子が慎重に回収した。
防水処理された証拠袋に入れられ、さらに小型の保全ケースへ収められる。
霧生はすぐに撤退を判断した。
名前が戻った直後の封鎖連絡層は、安定しているようで、逆に危険だった。
何かが目を覚ましたような気配がある。
壁の名札はまだ揺れている。
水音は止まったり、戻ったりを繰り返している。
奥の通路のさらに先で、黒い傘が一瞬だけ見えた気がした。
真昼はそれを見た。
レイも見た。
たぶん、透子も。
だが、誰も追わなかった。
今、追ってはいけない。
それは全員が分かっていた。
霧生が点呼する。
「御影レイ」
「はい」
「白瀬真昼」
「はい」
「黒江透子」
「はい」
「倉科悠斗」
「はい」
「霧生仁」
「はい」
全員、名前を返せる。
五人は、来た道を戻った。
ただ、戻る道は、来た時と少し違って見えた。
壁のC-04のラベルは、剥がれ落ちていた。
その下に残っていた古い名札には、まだ滲みがある。
それでも、読める。
古河千景。
真昼は、通り過ぎる時にもう一度だけ見た。
名前を取り戻すことは、死者を生き返らせることではない。
千景は戻らない。
彼を殺した黒い傘の人物も、捕まっていない。
黒刃が何をしたのかも、完全には分からない。
でも、彼はもうC-04だけではない。
それだけは、確かだった。
旧校舎地下へ戻る扉の前で、レイが立ち止まった。
真昼はすぐに気づく。
「御影くん?」
「大丈夫」
「禁止ワード」
「大丈夫じゃないけど、戻ってる」
「よし」
レイは、少しだけ苦笑に近い表情を浮かべた。
「古河千景は、僕だった」
真昼は、黙って聞いた。
レイは続ける。
「でも、僕じゃなかった」
「うん」
「彼は、オメガでもなかった」
「うん」
「古河千景だった」
「うん」
真昼は頷いた。
何度でも。
その言葉が、レイの中でちゃんと分かれるまで。
レイは、ゆっくり息を吐いた。
「名前があると、分けられる」
その言葉に、真昼は胸が熱くなった。
「うん」
「番号だと、近すぎる」
「うん」
「C-04だと、僕の中の欠けた誰かになる。でも古河千景なら、彼になる」
真昼は、レイの言葉をノートに書きたいと思った。
でも今は書かなかった。
目で覚える。
耳で覚える。
ここで、レイがそう言ったことを。
「戻ろう」
真昼は言った。
「古河さんの名前、地上へ持って帰らないと」
「うん」
レイは頷いた。
扉を開ける。
旧校舎地下の空気が流れ込む。
封鎖連絡層の湿った重さが、少しだけ遠ざかった。
*
旧図書館棟の地上へ戻った時、雨はまだ降っていた。
放課後の学院は、ほとんど人がいない。
部活動の声も遠い。
旧校舎の入口には、綾瀬直央と御堂圭吾が待機していた。回収物の保全ケースを受け取った牧野佐和が、すぐに鑑識用のケースへ移す。
誰も大声は出さなかった。
けれど、その場にいた全員が分かっていた。
何かが戻った。
小さなものではない。
名前だ。
人ひとりの名前。
透子は、タブレットで事故記録の複写を開いた。
真昼、レイ、霧生、悠斗が覗き込む。
氏名欄。
古河 千景。
完全に読める。
真昼は、思わず指で触れそうになり、止めた。
画面越しでも、触るのが怖かった。
代わりに、声に出す。
「古河千景」
透子も続けた。
「古河千景」
霧生が言う。
「古河千景」
悠斗が少し遅れて言う。
「古河千景」
最後に、レイが言った。
「古河千景」
五人の声が、旧図書館棟の湿った空気に重なった。
誰も拍手はしない。
笑いもしない。
事件は終わっていない。
犯人は捕まっていない。
真木彼方の現在も分からない。
天沢灯里の死の真相もまだ途中だ。
ノクターン書房の青年の名前も分からない。
黒い傘の人物は、今もどこかにいる。
それでも、真昼は思った。
今日は、ひとつ戻った。
古河千景。
もう、C-04だけではない。
透子が、静かに端末を閉じた。
「正式な訂正には、手続きが必要です」
「手続き」
霧生が言う。
「またか」
「必要です。ただし、市警側の記録では、現時点から古河千景として扱います」
真昼は、透子を見た。
透子の声には、いつもの冷静さが戻っている。
でも、目の奥は違った。
彼女もまた、名前が戻る瞬間を見た。
番号ではなく、名前で記録することの意味を。
「観測局は?」
真昼が聞く。
「抵抗するでしょう」
透子は答えた。
「ですが、こちらには物証があります。本人メモ帳。複数記録の同期変化。現場ラベルの変化。御影さんの証言。白瀬さんの反応記録」
「また反応記録」
「必要です」
「便利な言葉」
「便利ではなく、必要です」
真昼は、少しだけ笑った。
透子も、ごくわずかに表情を緩めた。
悠斗は、雨の降る窓の外を見ていた。
「倉科さん」
真昼が呼ぶ。
「何ですか」
「古河さんのこと、知ってました?」
悠斗は少し考えた。
「名前は知らなかった。でも、二年前の事故は聞いてました。外部委託の作業員が旧第三連絡線で死んだって。保守課では、あそこは縁起が悪いって話になってた」
「それだけ?」
「現場なんて、だいたいそうです。誰かが死んでも、しばらくすれば『あの事故』になる。名前じゃなくて、場所とか日付とか、注意事項になる」
悠斗は、自分の胸ポケットに手を当てた。
そこには、彼自身の名前を書いた紙があるはずだった。
「でも、名前が戻ったなら、次からは言えます。古河千景の事故現場って」
「事故じゃないかもしれない」
レイが言う。
悠斗は頷く。
「そうですね。じゃあ、古河千景が殺された場所」
その言い方は、重かった。
だが、曖昧ではなかった。
真昼は、それを胸に刻んだ。
事件は、見出しで終わらせてはいけない。
場所でも、番号でも、事故扱いでもない。
古河千景が殺された。
その事実を、名前で呼ぶ。
「記事にはまだ書けませんね」
真昼がぽつりと言う。
霧生がすぐ反応する。
「当たり前だ」
「分かってます」
「本当に?」
「本当に。これはまだ公開できない。警察の記録も、観測局とのやり取りもある。古河さんの遺族や関係者の確認も必要。私が勝手に書く段階じゃない」
霧生が、少しだけ目を細めた。
「灯里の手帳、効いたな」
「効きました」
真昼は正直に言った。
「名前を残すことが正しいって、それだけで走れなくなりました」
「なら良かったのか悪かったのか分からんな」
「私も分かりません。でも、今はそれでいいです」
レイが横で言う。
「分からないまま記録する」
「黒江さんの受け売り」
「便利だから」
「便利だから」
二人で同じ言葉を言ってしまい、真昼は少しだけ笑った。
雨は、まだ窓を叩いている。
その雨音は、封鎖連絡層の水音より少しだけ優しかった。
真昼はノートを開いた。
新しいページに、今日の日付を書く。
その下に、強い筆圧で名前を書く。
古河千景。
もう、空白はない。
その名前の下に、さらに一文を書いた。
C-04ではない。
それから、少し迷って、もう一文。
彼は、彼だった。
書き終えて、真昼はペンを止めた。
天沢灯里の名前を取り戻した時とは違う。
エミーの名前を記事にした時とも違う。
これは、まだ公に出せない記録。
誰にも読まれないかもしれないノート。
でも、今はそれでいい。
名前は、まずここに戻った。
真昼はノートを閉じた。
その表紙に、雨粒が一滴落ちた。
天井からの水漏れではない。
自分の髪から落ちた雨かもしれない。
あるいは、封鎖連絡層から持ち帰った水かもしれない。
真昼は、それを拭わなかった。
滲まないように、そっと乾くのを待った。
待つことも、記録者の仕事だと、今は少しだけ思えた。




