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第九章 古河千景

 封鎖連絡層の奥へ進むほど、名前は重くなった。


 白瀬真昼は、最初それを比喩だと思っていた。


 名前を呼び合うことが命綱になる場所。


 番号ではなく、ひとりずつ名前を確認しながら歩く場所。


 だから、名前が重い。


 そういう意味だと思っていた。


 けれど、それは半分しか合っていなかった。


 封鎖連絡層の奥では、名前そのものが身体にのしかかる。


 白瀬真昼。


 その四文字を心の中で唱えるたび、胸の奥に小さな錘が落ちる。


 天沢灯里。


 その名前を思い浮かべると、白い傘の冷たさが指先に戻る。


 真木彼方。


 その名前を呼ぶと、白い病室の蛍光灯が目の裏に刺さる。


 古河 千■。


 まだ欠けたその名前だけが、奥歯に挟まった小さな石のように、どうしても取れなかった。


 通路はさらに狭くなっていた。


 右側の壁には、学校の地下らしい白いタイルが残っている。しかし左側は旧地下鉄の保守通路のような剥き出しのコンクリートで、ところどころに水が染み出していた。天井は低く、配管と古いケーブルが入り乱れ、ライトの光を受けるたびに濡れた蛇のように鈍く光る。


 足元には、浅い水が流れていた。


 ただの水ではないように見えた。


 ライトが当たるたび、そこに文字のようなものが浮かぶ。


 K-117。


 C-04。


 A.A.


 R-■■。


 すぐに崩れて、ただの水紋になる。


 真昼は、鞄の中の透明ケースに手を当てた。


 銀色のヘアピン。


 白い傘の布片。


 灯里の残したもの。


 それは、この場所へ近づくほど冷たくなっている気がした。


「足元、気をつけろ」


 霧生仁が先頭で言った。


 ライトを少し下げ、床の水深を確認する。


「ここから水が深くなる。倉科、合ってるか」


 倉科悠斗は、壁の古い配管と、床に半分埋まったレールの位置を見比べていた。


「合ってます。旧第三連絡線側の保守通路です。ここから先、図面上では行き止まり。でも実際には、側壁の奥に点検用の空間がある」


「メモ帳があるとしたら?」


「その点検空間か、その手前の排水溝」


 悠斗は左脇腹に一瞬だけ手を当てた。


 傷が痛むのかもしれない。


 真昼が気づくと、彼は顔をしかめた。


「見なくていい」


「まだ何も言ってません」


「言いそうな顔してた」


「痛むなら言ってください」


「痛む」


 悠斗は短く言った。


 真昼は少し驚いた。


「ちゃんと言った」


「言わないと、霧生さんが病院に戻すって言ったんで」


 霧生が振り返らずに言う。


「戻すぞ」


「歩けます」


「なら歩け。ただし先行するな」


「了解」


 悠斗の声は不機嫌だったが、素直だった。


 名前を失いかけた人間は、無茶をしたくても、もう完全にはひとりで走れない。


 それは弱さではない。


 戻ってきた証拠なのだと、真昼は思った。


 御影レイは、真昼の斜め後ろを歩いている。


 さっきから口数が少ない。


 ライトの光が彼の横顔を照らすたび、顔色が少しずつ悪くなっているのが分かる。


 ここは、古河 千■の記憶に近すぎる。


 水音。


 作業灯。


 反射ベスト。


 懐中ライト。


 黒い傘。


 レイの中で、それらが現実と混ざり始めているのかもしれない。


「御影レイ」


 真昼は呼んだ。


 レイはすぐに答える。


「白瀬真昼」


「今、どこ」


「封鎖連絡層。旧第三連絡線側保守通路」


「あなたは」


「御影レイ」


「古河さんは」


 レイは、一瞬だけ黙った。


 真昼の胸が冷えた。


 しかし、彼はすぐに答えた。


「僕じゃない」


「うん」


「でも、近い」


「うん」


「まだ、名前が欠けてる」


「取り戻す」


 真昼は言った。


 レイが、ほんの少しだけ頷いた。


「取り戻す」


 黒江透子は、二人のやり取りを黙って聞いていた。


 胸元には、真木彼方の録音端末が入っている。


 K-117。


 透子はそこに何度も手を当てている。


 無意識なのか、意識して確認しているのか、真昼には分からなかった。


 ただ、その仕草を見るたび、透子もまた名前を確認しているのだと感じた。


 自分の名前ではなく、救えなかった少年の名前を。


「点呼」


 霧生が言った。


 通路の分岐前だった。


 右は低い点検口。


 左は水の流れが強い通路。


 正面は、錆びた格子で塞がれている。


「御影レイ」


「はい」


「白瀬真昼」


「はい」


「黒江透子」


「はい」


「倉科悠斗」


「はい」


「霧生仁」


「はい」


 霧生は、自分で返事をしてから嫌そうに顔をしかめた。


「やっぱり自分で自分の名前言うの、慣れねえな」


「でも助かるでしょ」


 真昼が言う。


「助かるが気持ち悪い」


 悠斗がぼそりと返す。


「それ、私の台詞です」


「借りた」


「使用料取ります」


「旧地下鉄の現場案内で払ってる」


「高い」


 レイが横から言う。


「命綱としては安い」


 悠斗は一瞬だけ黙った。


 それから、少し不機嫌そうに言う。


「高校生にそういうこと言われると、反論しにくい」


「すみません」


「謝るな。余計に反論しにくい」


 その小さなやり取りに、通路の緊張が少しだけ緩んだ。


 だが、次の瞬間には水音がそれを飲み込む。


 ぽたり。


 ぽたり。


 いや、もう水滴ではない。


 奥から流れてくる音だ。


 低く、一定で、地下のさらに深い場所へ何かが落ちていくような音。


「こっちです」


 悠斗が右の点検口を指した。


「狭いです。屈んで進む。足元に排水溝があります。そこに物が落ちてたら、流されずに引っかかる可能性がある」


「倉科はここまでで待て」


 霧生が言った。


 悠斗は即座に反論しようとした。


 しかし、霧生の目を見て、言葉を止めた。


「……ここから先、構造だけじゃなくて、現場感覚が要ります」


「だから、お前はここで指示しろ。中に入るのは俺と黒江。御影、白瀬は必要なら呼ぶ」


「必要なら、じゃ遅いです」


 真昼が言った。


 霧生がこちらを見る。


「白瀬」


「メモ帳がそこにあったとして、私か御影くんが近くにいないと反応しないかもしれません」


「危険だ」


「分かってます」


「分かってるって言う奴ほど分かってねえ」


「でも、今回は本当に分かってます」


 霧生は、真昼を睨んだ。


 真昼は引かなかった。


 旧新聞部室でなら、勢いで言い切ったかもしれない。


 でも今は違う。


 自分が踏み込むことの危うさを知っている。


 名前を聞くことが暴力かもしれないと知っている。


 それでも、呼ばなければ消える名前があると知っている。


 だから、行く。


 霧生は舌打ちした。


「御影」


「行きます」


「聞く前に答えるな」


「答えは同じです」


「最悪だ」


「すみません」


「謝るな」


 霧生はしばらく考え、短く言った。


「俺が先頭。次に倉科。無理なら下がれ。白瀬、御影、黒江の順。何か見えたら即報告。勝手に触るな。白瀬、お前は特に」


「はい」


「はいが素直すぎて怖い」


「反省が続いてるので」


「そのまま続けろ」


 五人は、低い点検口へ入った。


     *


 点検口の中は、旧地下鉄の匂いが強かった。


 油。

 錆。

 湿ったコンクリート。

 古い電線。

 そして、人が長い間立ち入っていない場所にだけある、空気の死んだ匂い。


 真昼は屈んで進んだ。


 天井が低く、時々配管に肩が当たる。


 足元の水は冷たい。


 靴の底から、じわじわと温度を奪っていく。


 レイの呼吸が後ろで乱れる。


 いや、後ろではない。


 この狭い通路では、距離感が狂う。


 声も反響する。


 誰がどこにいるのか、少しずつ分かりにくくなる。


「点呼」


 霧生が低く言った。


 声が通路の奥へ伸び、戻ってくる。


「御影レイ」


「はい」


 少し遅い。


「白瀬真昼」


「はい」


「黒江透子」


「はい」


「倉科悠斗」


「はい」


「霧生仁」


「はい」


 全員いる。


 全員、まだ名前を返せる。


 真昼は自分の胸に手を当てた。


 白瀬真昼。


 天沢灯里ではない。


 でも、灯里の白い傘を持っている。


 その事実だけは、今の真昼を支えている。


「止まってください」


 悠斗が言った。


 声が硬い。


 霧生がライトを下げる。


 足元の排水溝。


 鉄の格子が、半分外れていた。


 その奥に、何かが引っかかっている。


 黒ずんだ小さなもの。


 水を吸って膨らんだ、手のひらほどの冊子。


 真昼は、息を止めた。


「メモ帳……?」


 言葉が自然に漏れた。


 悠斗がゆっくり頷く。


「たぶん」


「触るな」


 霧生が全員へ言った。


「牧野に回収させたいが、この場所で長時間待つのはきつい。黒江」


「回収手順をこちらで行います」


 透子は、小型の証拠袋とピンセットを取り出した。


 狭い通路の中で、慎重に姿勢を低くする。


 だが、彼女の手が格子に近づく直前、メモ帳がわずかに震えた。


 水の流れではない。


 ページの間から、黒い滲みが広がる。


 真昼の胸が強く痛んだ。


「待って」


 彼女は言った。


 透子の手が止まる。


「白瀬さん?」


「それ、今、名前が消えようとしてる」


「見えますか」


「分かる」


「どう分かる」


「紙が、名前を吐き出せなくなってる感じ」


「表現が怖いな」


 霧生が小さく言う。


 真昼はメモ帳を見つめた。


 水に濡れ、黒く膨らんだ表紙。


 角は崩れ、ゴムバンドは切れている。


 だが、その表紙の端に、鉛筆の跡のようなものがある。


 古。


 そこだけ読めた。


 真昼は、鞄から透明ケースを取り出した。


 中には、灯里の白い傘の布片と、銀色のヘアピンがある。


「白瀬」


 レイが言う。


「触らない」


「なら、何を」


「呼ぶ準備」


 真昼はケースを胸に当てた。


 白い傘の少女。


 名前を聞くことが暴力かもしれないと知っていた人。


 でも、聞かなければ消えると知っていた人。


 灯里さん。


 力を貸して。


 そう思った。


 声には出さない。


 今、呼ぶべきなのは灯里ではない。


 このメモ帳の持ち主だ。


「透子さん」


 真昼は言った。


「ページ、開けますか」


「可能ですが、崩れる危険があります」


「読めるなら、今しかないかもしれない」


「承知しています」


 透子は慎重にメモ帳を引き上げた。


 水が滴る。


 古い紙の匂いが、一気に強くなる。


 濡れた紙が、息をしているように見えた。


 透子はそれを防水シートの上に置く。


 霧生がライトを固定する。


 悠斗は壁に手をつき、顔色を悪くしている。


 レイは、メモ帳から目を逸らそうとして、逸らせずにいた。


「御影レイ」


 真昼が呼ぶ。


「白瀬真昼」


 レイは答える。


「戻ってる?」


「まだ」


「まだ?」


「半分、地下」


「こっち戻って」


「名前を呼んで」


「御影レイ」


「御影レイ」


 レイが自分でも繰り返した。


 真昼は、頷いた。


「よし」


 透子が、ピンセットでメモ帳の表紙を開いた。


 最初のページは、ほとんど黒く滲んでいた。


 次も。


 その次も。


 鉛筆の線は水に負け、紙の繊維へ溶けている。


 だが、いくつかのページには、同じ文字が残っていた。


 古河千景。


 真昼の呼吸が止まった。


 完全に読めた。


 古河千景。


 さらに次の行にも。


 古河千景。


 その下にも。


 古河千景。


 何度も。


 何度も。


 古河千景。

 古河千景。

 古河千景。


 ページの端に、焦った筆圧。


 同じ名前を、何度も書いている。


 自分が自分であることを、紙に縫い止めるように。


 水に濡れても、黒く滲んでも、いくつかの文字は残っていた。


 千。


 景。


 最後の一文字。


 真昼は、胸の奥で何かが開くのを感じた。


「古河千景」


 彼女は、声に出した。


 その瞬間、通路全体が震えた。


 水面に無数の波紋が走る。


 壁の名札が、かすかに揺れる。


 C-04と書かれていた古いラベルの端から、黒い滲みが剥がれる。


 レイが大きく息を吸った。


 そして、地下へ落ちた。


     *


 古河千景は、名前を書いていた。


 寒い。


 手が震える。


 作業用の手袋は濡れている。


 鉛筆が滑る。


 メモ帳の紙は湿気を吸って柔らかくなっている。


 それでも書く。


 古河千景。


 古河千景。


 古河千景。


 名前を書けば戻れる。


 名前を書けば、自分の中に入り込んでくる知らない誰かの声を押し返せる。


 赤いステージ。

 白い病室。

 高校の教室。

 雨の路地。

 知らない女の足首の痛み。

 知らない少年の喉の震え。

 知らない誰かの手に握られた黒い刃。


 全部、違う。


 俺じゃない。


 俺は古河千景だ。


 旧地下鉄関連の外部委託作業員。


 正規職員じゃない。


 偉くもない。


 誰かに覚えられるような人間でもない。


 でも、名前はある。


 古河千景。


 古河千景。


 古河千景。


 水音。


 ぽたり。


 ぽたり。


 地下なのに、雨の匂いがする。


 黒い傘が立っている。


 線路の先。


 作業灯の黄色い光の外側。


 黒い傘。


 黒いコート。


 黒い手袋。


 顔が見えない。


 でも、こちらを見ている。


 千景は懐中ライトを向ける。


 光が届かない。


 黒い傘の下だけが、穴のように抜けている。


「誰だ」


 声が震えた。


 相手は答えない。


 ただ、一歩近づく。


 地下の水たまりに、黒い傘の縁から水滴が落ちる。


 ぽたり。


 ここは地下だ。


 雨は降らない。


 それなのに、傘は濡れている。


 千景はメモ帳を握りしめた。


「来るな」


 黒い傘の人物が、静かに言う。


「怖がらなくていい」


 声は穏やかだった。


 穏やかすぎて、怖かった。


「これは終わりではない」


「何の話だよ」


「お前は、私に戻るだけだ」


 胃の奥が冷える。


 その言葉を、千景は知っている気がした。


 夢の中で聞いたことがある。


 知らない女が路地で聞いた声。


 知らない少年が病室で恐れた気配。


 まだ出会っていない誰かが、いつか聞く言葉。


「私はお前だ」


 黒い傘の人物は言った。


 千景は、息を吸った。


 手が震える。


 膝も震える。


 怖い。


 死にたくない。


 ここで死んだら、事故として処理される。


 外部委託作業員が転落しただけの記事になる。


 苗字だけで呼ばれて、名前の最後は誰にも気にされない。


 それだけは嫌だった。


 メモ帳を開く。


 水でふやけたページに、何度も書いた名前がある。


 古河千景。


 古河千景。


 古河千景。


 千景はそれを見た。


 それだけで、少しだけ息ができた。


「違う」


 彼は言った。


 声は震えていた。


 でも、出た。


「俺は、お前じゃない」


 黒い傘の人物が止まる。


 千景は、さらに言った。


「俺は古河千景だ」


 その名前を口にした瞬間、地下の空気が変わった。


 まるで通路の奥で、誰かが息を呑んだようだった。


 黒い傘の人物の顔は見えない。


 だが、その顔のない場所が、わずかに歪んだ。


「名前は、鎖だ」


 相手が言う。


「違う」


「記録は、檻だ」


「違う」


「他人に呼ばれる名など、観測者がつけたタグにすぎない」


「違う!」


 千景は叫んだ。


 声が地下に反響する。


 自分でも驚くほど強い声だった。


「これは俺の名前だ。俺が生きるために書いた名前だ。お前のものじゃない。誰かの番号でもない」


 黒い傘の人物が、ゆっくり手を動かす。


 黒い手袋。


 その中から、刃が抜かれる。


 黒い刃。


 光を反射しない。


 刃というより、細い穴。


 見てはいけないと思った。


 でも、目が離せない。


 その刃を見た瞬間、メモ帳の文字が遠くなる。


 古河千――。


 違う。


 書いてある。


 見ろ。


 見ろ。


 古河千景。


 古河千景。


 古河千景。


「俺は」


 千景は、最後にもう一度言った。


「古河千景だ」


 黒い刃が動いた。


 次の瞬間、視界が黒く切れた。


 痛みは来なかった。


 いや、来る前に切られた。


 顔も見えない。


 刃が刺さる場所も見えない。


 音も消える。


 黒い線が、記憶の真ん中を切る。


 ぷつり。


     *


「御影レイ!」


 真昼は叫んだ。


 レイは、膝をついていた。


 狭い保守通路の中で、片手を水につき、肩で息をしている。目は開いているが、ここではない場所を見ている。


 メモ帳は、透子の前の防水シートの上にある。


 開かれたページには、まだ名前が読める。


 古河千景。


 古河千景。


 古河千景。


 真昼は、手を伸ばしかけて止まった。


 触ってはいけない。


 でも、呼ばなければならない。


 黒い滲みが、メモ帳の端からじわじわと広がっている。


 名前を見つけられたことに反応している。


 消そうとしている。


 そう感じた。


「白瀬さん」


 透子が言う。


 その声にも焦りがある。


「名前を」


 真昼は頷いた。


 胸の奥に、灯里の声が響く。


 名前をなくした人に、名前を聞くのは暴力かもしれない。


 でも、聞かなければ、その人は本当に消えてしまう。


 真昼は、息を吸った。


「古河千景!」


 声が、狭い通路の中に響いた。


 水面が大きく揺れる。


 壁のラベルが震える。


 C-04と書かれた滲んだ紙の下から、別の文字が浮かびかける。


 しかし、まだ弱い。


 黒い滲みが押し返す。


 真昼はもう一度叫ぶ。


「古河千景! あなたはC-04じゃない!」


 透子が続いた。


 声は静かだった。


 けれど、確かな力があった。


「C-04ではありません。古河千景」


 霧生も低く言う。


「古河千景」


 悠斗が、少し遅れて続ける。


「古河千景」


 その声には、地下の人間としての重さがあった。


 同じ旧地下鉄で働き、名前を失いかけた者の声。


 レイは、まだ戻らない。


 真昼は彼の前に膝をついた。


「御影レイ」


 反応がない。


「御影レイ、聞いて」


 レイの目がわずかに動く。


「あなたは古河千景じゃない」


 レイの喉が震える。


「でも、古河千景を見たんでしょ」


 彼は、かすかに頷いた。


「だったら、呼んで」


 真昼は言った。


「あなたの名前じゃなくて、彼の名前で」


 レイは、息を吸った。


 苦しそうだった。


 自分の中に流れ込んだ記憶と、目の前の現実を分けようとしている。


 古河千景の恐怖。


 黒い傘。


 黒刃ヌル


 死の瞬間で切れた黒い記憶。


 それを、自分の中で「僕」と呼ばないために。


 レイは、震える声で言った。


「古河千景」


 水音が止まった。


 一瞬だけ。


 レイは続けた。


「僕じゃない」


 黒い滲みが、メモ帳の端で止まる。


「オメガでもない」


 壁のC-04ラベルが、かすかに剥がれる。


「あなたは」


 レイは、顔を上げた。


 目にはまだ地下の記憶が残っている。


 でも、そこに御影レイが戻ってきている。


「あなたは、古河千景だ」


 その瞬間、封鎖連絡層が音を立てた。


 金属が軋む。


 遠くで扉が閉まる。


 水面に走っていた波紋が、逆向きに戻る。


 壁の名札が、一斉に震えた。


 C-04。


 その文字が滲む。


 消えるのではない。


 下から、別の文字が出てくる。


 古河 千景。


 真昼は、息を呑んだ。


 完全に読めた。


 古河千景。


 壁だけではない。


 透子の端末が、小さく警告音を鳴らした。


 市警へ持ち込まれていたC-04関連事故記録の複写データ。


 黒く欠けていた氏名欄の最後に、一文字が戻っている。


 景。


 古河 千景。


 透子は端末を見つめた。


 その目に、驚きと、痛みと、わずかな安堵が混ざっている。


「戻った……」


 綾瀬の声が無線越しに聞こえた。


『こちら入口管制。市警側の複写データにも変化。氏名欄、古河千景と読めます。繰り返します。古河千景と読めます』


 霧生が短く息を吐いた。


「よし」


 その一言は、ほとんど祈りのようだった。


 悠斗は、壁の名札を見ていた。


「古河千景」


 彼は、もう一度その名前を言った。


「二年前の作業員事故の人か」


 透子が頷く。


「はい」


「事故じゃないんですよね」


「おそらく」


「おそらく、じゃなくて」


 悠斗は、少しだけ声を荒げた。


「この人、殺されたんですよね。地下で。名前を書きながら」


 誰も、すぐには答えられなかった。


 レイが、ゆっくり言った。


「黒い傘の人物に」


 真昼はメモ帳を見た。


 古河千景。


 その文字は、まだ揺れている。


 でも、消えていない。


 完全な真相は戻っていない。


 彼が最後に何を見たのか。


 黒刃がどこを切ったのか。


 遺体がどう処理されたのか。


 観測局がどこまで知っていたのか。


 オメガが何を得たのか。


 まだ分からない。


 でも、名前は戻った。


 C-04ではなく。


 古河千景。


 真昼は、そっと涙を拭った。


 泣いていることに、今気づいた。


 自分の涙だと思う。


 灯里の残響かもしれない。


 千景の名前が戻ったことへの安堵かもしれない。


 どれでもよかった。


「古河千景さん」


 真昼は、丁寧に呼んだ。


「見つけました」


 声が震えた。


「遅くなって、ごめんなさい」


 メモ帳のページが、かすかに揺れた。


 風はない。


 水の流れでもない。


 ただ、古い紙が息を吐いたように見えた。


     *


 メモ帳は、透子が慎重に回収した。


 防水処理された証拠袋に入れられ、さらに小型の保全ケースへ収められる。


 霧生はすぐに撤退を判断した。


 名前が戻った直後の封鎖連絡層は、安定しているようで、逆に危険だった。


 何かが目を覚ましたような気配がある。


 壁の名札はまだ揺れている。


 水音は止まったり、戻ったりを繰り返している。


 奥の通路のさらに先で、黒い傘が一瞬だけ見えた気がした。


 真昼はそれを見た。


 レイも見た。


 たぶん、透子も。


 だが、誰も追わなかった。


 今、追ってはいけない。


 それは全員が分かっていた。


 霧生が点呼する。


「御影レイ」


「はい」


「白瀬真昼」


「はい」


「黒江透子」


「はい」


「倉科悠斗」


「はい」


「霧生仁」


「はい」


 全員、名前を返せる。


 五人は、来た道を戻った。


 ただ、戻る道は、来た時と少し違って見えた。


 壁のC-04のラベルは、剥がれ落ちていた。


 その下に残っていた古い名札には、まだ滲みがある。


 それでも、読める。


 古河千景。


 真昼は、通り過ぎる時にもう一度だけ見た。


 名前を取り戻すことは、死者を生き返らせることではない。


 千景は戻らない。


 彼を殺した黒い傘の人物も、捕まっていない。


 黒刃ヌルが何をしたのかも、完全には分からない。


 でも、彼はもうC-04だけではない。


 それだけは、確かだった。


 旧校舎地下へ戻る扉の前で、レイが立ち止まった。


 真昼はすぐに気づく。


「御影くん?」


「大丈夫」


「禁止ワード」


「大丈夫じゃないけど、戻ってる」


「よし」


 レイは、少しだけ苦笑に近い表情を浮かべた。


「古河千景は、僕だった」


 真昼は、黙って聞いた。


 レイは続ける。


「でも、僕じゃなかった」


「うん」


「彼は、オメガでもなかった」


「うん」


「古河千景だった」


「うん」


 真昼は頷いた。


 何度でも。


 その言葉が、レイの中でちゃんと分かれるまで。


 レイは、ゆっくり息を吐いた。


「名前があると、分けられる」


 その言葉に、真昼は胸が熱くなった。


「うん」


「番号だと、近すぎる」


「うん」


「C-04だと、僕の中の欠けた誰かになる。でも古河千景なら、彼になる」


 真昼は、レイの言葉をノートに書きたいと思った。


 でも今は書かなかった。


 目で覚える。


 耳で覚える。


 ここで、レイがそう言ったことを。


「戻ろう」


 真昼は言った。


「古河さんの名前、地上へ持って帰らないと」


「うん」


 レイは頷いた。


 扉を開ける。


 旧校舎地下の空気が流れ込む。


 封鎖連絡層の湿った重さが、少しだけ遠ざかった。


     *


 旧図書館棟の地上へ戻った時、雨はまだ降っていた。


 放課後の学院は、ほとんど人がいない。


 部活動の声も遠い。


 旧校舎の入口には、綾瀬直央と御堂圭吾が待機していた。回収物の保全ケースを受け取った牧野佐和が、すぐに鑑識用のケースへ移す。


 誰も大声は出さなかった。


 けれど、その場にいた全員が分かっていた。


 何かが戻った。


 小さなものではない。


 名前だ。


 人ひとりの名前。


 透子は、タブレットで事故記録の複写を開いた。


 真昼、レイ、霧生、悠斗が覗き込む。


 氏名欄。


 古河 千景。


 完全に読める。


 真昼は、思わず指で触れそうになり、止めた。


 画面越しでも、触るのが怖かった。


 代わりに、声に出す。


「古河千景」


 透子も続けた。


「古河千景」


 霧生が言う。


「古河千景」


 悠斗が少し遅れて言う。


「古河千景」


 最後に、レイが言った。


「古河千景」


 五人の声が、旧図書館棟の湿った空気に重なった。


 誰も拍手はしない。


 笑いもしない。


 事件は終わっていない。


 犯人は捕まっていない。


 真木彼方の現在も分からない。


 天沢灯里の死の真相もまだ途中だ。


 ノクターン書房の青年の名前も分からない。


 黒い傘の人物は、今もどこかにいる。


 それでも、真昼は思った。


 今日は、ひとつ戻った。


 古河千景。


 もう、C-04だけではない。


 透子が、静かに端末を閉じた。


「正式な訂正には、手続きが必要です」


「手続き」


 霧生が言う。


「またか」


「必要です。ただし、市警側の記録では、現時点から古河千景として扱います」


 真昼は、透子を見た。


 透子の声には、いつもの冷静さが戻っている。


 でも、目の奥は違った。


 彼女もまた、名前が戻る瞬間を見た。


 番号ではなく、名前で記録することの意味を。


「観測局は?」


 真昼が聞く。


「抵抗するでしょう」


 透子は答えた。


「ですが、こちらには物証があります。本人メモ帳。複数記録の同期変化。現場ラベルの変化。御影さんの証言。白瀬さんの反応記録」


「また反応記録」


「必要です」


「便利な言葉」


「便利ではなく、必要です」


 真昼は、少しだけ笑った。


 透子も、ごくわずかに表情を緩めた。


 悠斗は、雨の降る窓の外を見ていた。


「倉科さん」


 真昼が呼ぶ。


「何ですか」


「古河さんのこと、知ってました?」


 悠斗は少し考えた。


「名前は知らなかった。でも、二年前の事故は聞いてました。外部委託の作業員が旧第三連絡線で死んだって。保守課では、あそこは縁起が悪いって話になってた」


「それだけ?」


「現場なんて、だいたいそうです。誰かが死んでも、しばらくすれば『あの事故』になる。名前じゃなくて、場所とか日付とか、注意事項になる」


 悠斗は、自分の胸ポケットに手を当てた。


 そこには、彼自身の名前を書いた紙があるはずだった。


「でも、名前が戻ったなら、次からは言えます。古河千景の事故現場って」


「事故じゃないかもしれない」


 レイが言う。


 悠斗は頷く。


「そうですね。じゃあ、古河千景が殺された場所」


 その言い方は、重かった。


 だが、曖昧ではなかった。


 真昼は、それを胸に刻んだ。


 事件は、見出しで終わらせてはいけない。


 場所でも、番号でも、事故扱いでもない。


 古河千景が殺された。


 その事実を、名前で呼ぶ。


「記事にはまだ書けませんね」


 真昼がぽつりと言う。


 霧生がすぐ反応する。


「当たり前だ」


「分かってます」


「本当に?」


「本当に。これはまだ公開できない。警察の記録も、観測局とのやり取りもある。古河さんの遺族や関係者の確認も必要。私が勝手に書く段階じゃない」


 霧生が、少しだけ目を細めた。


「灯里の手帳、効いたな」


「効きました」


 真昼は正直に言った。


「名前を残すことが正しいって、それだけで走れなくなりました」


「なら良かったのか悪かったのか分からんな」


「私も分かりません。でも、今はそれでいいです」


 レイが横で言う。


「分からないまま記録する」


「黒江さんの受け売り」


「便利だから」


「便利だから」


 二人で同じ言葉を言ってしまい、真昼は少しだけ笑った。


 雨は、まだ窓を叩いている。


 その雨音は、封鎖連絡層の水音より少しだけ優しかった。


 真昼はノートを開いた。


 新しいページに、今日の日付を書く。


 その下に、強い筆圧で名前を書く。


 古河千景。


 もう、空白はない。


 その名前の下に、さらに一文を書いた。


 C-04ではない。


 それから、少し迷って、もう一文。


 彼は、彼だった。


 書き終えて、真昼はペンを止めた。


 天沢灯里の名前を取り戻した時とは違う。


 エミーの名前を記事にした時とも違う。


 これは、まだ公に出せない記録。


 誰にも読まれないかもしれないノート。


 でも、今はそれでいい。


 名前は、まずここに戻った。


 真昼はノートを閉じた。


 その表紙に、雨粒が一滴落ちた。


 天井からの水漏れではない。


 自分の髪から落ちた雨かもしれない。


 あるいは、封鎖連絡層から持ち帰った水かもしれない。


 真昼は、それを拭わなかった。


 滲まないように、そっと乾くのを待った。


 待つことも、記録者の仕事だと、今は少しだけ思えた。

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