第八章 封鎖連絡層
白瀬真昼は、三枚の紙を机の上に並べた。
一枚目は、天沢灯里の手帳から復元されたページの複写。
二枚目は、C-04関連索引情報の印刷。
三枚目は、真木彼方の録音記録を文字起こししたもの。
場所は、アガルタ市警察局、特異殺人対策室の会議室だった。
窓の外では雨が降っている。
薄い雨ではない。街全体を灰色の膜で包むような、静かで重い雨だった。市警の庁舎のガラス窓に水滴が縦に走り、その向こうで信号機の赤と青がぼやけている。
会議室の蛍光灯は白く、机の上の紙だけを妙に浮かび上がらせていた。
天沢灯里の手帳の複写には、ところどころ黒い滲みがある。
それでも、読める言葉があった。
封鎖連絡層?
旧校舎地下から行ける?
白い傘を忘れない。
名前を聞けないまま、また会いに行く。
二枚目の紙。
C-04関連索引情報。
事故現場座標。
旧第三連絡線。
封鎖連絡層付近。
私物メモ帳 一点。
状態:未回収。
推定位置:封鎖連絡層側保守通路。
備考:氏名反復記載の可能性あり。
三枚目。
真木彼方の録音記録。
白い病室。
K-117。
Null-03。
観測室。
記録の一部が欠落。
最後に残った、かすかな声。
……僕は、あなたじゃない。
真昼は、赤いペンで三枚の紙を線で結んだ。
旧校舎地下。
旧地下鉄。
封鎖連絡層。
その中心に、小さく丸をつける。
そこに、三つの名前を書いた。
天沢灯里。
古河 千■。
真木彼方。
最後に、自分で書いてから、少しだけ手が止まった。
古河の名前は、まだ欠けている。
真木彼方の名前は、書くたびに胸が痛む。
天沢灯里の名前は、消えないように書く。
どの名前も、まっすぐに紙へ置けない。
それでも、書いた。
書かなければ、三人はただの資料番号になる。
「つながってる」
真昼は言った。
声は、思ったより静かだった。
「灯里さんの手帳。C-04の事故記録。真木彼方さんの録音。全部、同じ場所に向いてる」
黒江透子は、机の向かい側で腕を組んでいた。
彼女の表情は冷静だったが、目だけは紙から離れていない。
霧生仁は壁際で立っている。今日の彼は、いつもより飴を噛む回数が多い。苛立っている時の癖だと、真昼はもう分かっていた。
綾瀬直央はホワイトボードの前で、真昼の線を写している。
御影レイは、真昼の隣に座っていた。
彼の前には、C-04の事故記事と、真木彼方の録音記録の複写が置かれている。
ただし、レイはそれを直接見続けないようにしていた。
視線を置く時間が長くなると、また地下へ引かれる。
それを本人も理解している。
真昼も理解している。
だから時々、何も言わずに名前を呼ぶ。
「御影レイ」
真昼が短く言う。
レイはすぐに答えた。
「白瀬真昼」
「戻ってる?」
「戻ってる」
「よし」
霧生が顔をしかめた。
「会議中に点呼するな」
「必要なんです」
真昼が返す。
「分かってるから余計に嫌なんだよ」
綾瀬が苦笑した。
「でも、主任、現場に入ったら絶対やりますよね。点呼」
「やる」
「即答」
「嫌でもやる。名前が揺らぐ場所に入るんだろ。だったら点呼だ」
霧生はホワイトボードを睨んだ。
そこには、綾瀬の字でこう書かれている。
封鎖連絡層。
都市交通局の正式図面には存在しない。
境界観測局の索引情報にだけ出てくる。
旧校舎地下、旧地下鉄、観測室関連記録の接続点。
「で、問題はだ」
霧生は腕を組み直した。
「そこへ誰が行くかだ」
「私が行きます」
真昼は即答した。
会議室の全員が、ほぼ同時に彼女を見た。
「何で全員、そんな顔するんですか」
「自覚がないからだ」
霧生が言う。
「白瀬。お前は未成年で、民間人で、すでに一回黒い傘に釣られて旧地下鉄まで行ってる」
「今回は釣られてません。自分で行きます」
「悪化してるだろうが」
「記録者系アニマ反応者として」
「便利な肩書きを覚えるな」
真昼は口を開きかけたが、透子が制した。
「白瀬さんは同行します」
霧生が透子を見た。
「黒江」
「必要です」
「危険だ」
「分かっています」
「分かってて連れていくのか」
「封鎖連絡層は、通常の捜査員だけで入るほうが危険です。灯里さんの手帳、C-04の未回収メモ帳、K-117の観測室記録。これらの接続点を見つけるには、白瀬さんの反応が必要になる可能性が高い」
「反応って言い方、観測局みてえだぞ」
「自覚しています」
透子の声は硬かった。
「それでも、今回は必要です。ただし、管理下で入ります。勝手に先行させません。単独行動もさせません」
「させませんって言われてるよ」
レイが真昼に言った。
「聞こえてる」
「守れる?」
「努力する」
「守れ」
「……守ります」
霧生がため息をついた。
「御影は?」
「僕も行きます」
レイの声は静かだった。
霧生は、今度は彼を睨む。
「お前も未成年だ」
「はい」
「混線する」
「します」
「危ない」
「知っています」
「知ってて行くな」
「古河さんの記憶は、僕が見ます」
レイは、机の上の欠けた名前を見た。
古河 千■。
「でも、名前は見えない。死の瞬間も切れてる。だから、僕だけでは足りない」
真昼は、隣でその言葉を聞いていた。
自分が見えないものを、誰かに託す。
レイはそれを、言葉にできるようになっている。
それは小さな変化ではなかった。
透子が頷く。
「御影さんも同行します。ただし、白瀬さん同様、私の管理下です」
「俺が現場指揮を取る」
霧生が言った。
「異論は?」
「ありません」
透子が答える。
霧生はホワイトボードに向かい、太いペンで名前を書いた。
霧生仁。
黒江透子。
御影レイ。
白瀬真昼。
そこで手を止める。
「あと、道案内が要る」
真昼とレイは、同時に顔を上げた。
「倉科さん?」
「呼びたくねえ」
霧生は露骨に嫌そうに言った。
「だが、旧地下鉄の構造を現場で読める人間が必要だ。都市交通局の図面は当てにならん。観測局の索引は信用ならん。旧第三連絡線から封鎖連絡層側の保守通路へ入るなら、倉科が一番分かる」
「まだ怪我、完全には治ってないですよね」
綾瀬が心配そうに言う。
「治ってねえ。だから先頭には立たせん。現場にも下ろしたくねえ。だが、本人が聞いたら絶対来る」
「聞かせない選択は」
透子が言う。
「あとで知ったら、もっと面倒です」
「分かってる」
霧生は携帯を取り出した。
「俺が呼ぶ。お前らは口を挟むな。特に白瀬」
「私?」
「お前が頼むと、あいつ断りにくいだろ」
「私、そんなに圧あります?」
「ある」
「即答」
「ある」
レイまで言った。
「二人がかりで言わなくても」
真昼は少しだけ頬を膨らませた。
緊張の中で、その軽口がわずかに空気を緩めた。
でも、机の上の紙は緩まない。
封鎖連絡層。
そこへ行く。
灯里が最後に向かったかもしれない場所。
古河 千■のメモ帳が残っているかもしれない場所。
真木彼方が観測不能へ近づいた場所。
その三人の名前が、同じ地下へ落ちている。
真昼は、鞄の中身を確認した。
透明ケースに入れた銀色のヘアピン。
天沢灯里の手帳の箱の底から見つかった、白い折りたたみ傘の布片。
正確には傘そのものではない。
白い布と、細く折れた傘骨の一部。
水を吸って、泥に汚れ、もう傘としては使えない。
それでも、灯里の手帳と同じ箱に残っていた。
透子は証拠品として保全すべきだと言った。
だが、今回に限り、記録残響の反応確認用として、真昼が携行することを許可した。
もちろん、ケース越しに。
真昼は、その白い布片を見ただけで胸が痛くなる。
白い傘。
銀色のヘアピン。
天沢灯里。
私は、この名前を残す。
レイは、ポケットに薄い複写紙を入れていた。
C-04の関連記録。
古河 千■の事故記事。
そして、観測局の索引情報にあった「私物メモ帳」の行だけを抜き出したもの。
実物ではない。
だが、レイにとっては十分に重い。
透子は、真木彼方の録音端末を持つ。
K-117。
再生する予定はない。
それでも、持っていく。
封鎖連絡層が彼方の記録とつながっているなら、端末そのものが反応する可能性がある。
三人の名前を取り戻すための探索。
そう言えば、聞こえはいい。
けれど真昼には、三人の欠落をもう一度開きに行くようにも感じられた。
灯里の手帳に書かれていた一文が、胸の奥で響く。
名前をなくした人に、名前を聞くのは暴力かもしれない。
でも、聞かなければ、その人は本当に消えてしまう。
真昼は、鞄を閉じた。
*
倉科悠斗は、呼ばれてから四十分で市警に来た。
病院からではなく、自宅からだった。
退院はしている。
ただし、現場復帰はまだ許可されていない。
左脇腹の傷は、表面だけ見れば塞がっている。だが、深いところに残った違和感はまだ消えていないらしい。歩く時、時々、ほんのわずかに左側を庇う。
それでも彼は、作業服に近い格好で来た。
反射ベストは手に持っている。
ヘルメットも持っている。
真昼はそれを見て、思わず言った。
「倉科さん、準備よすぎません?」
「呼ばれる気がした」
悠斗は無愛想に答えた。
「それ、同魂者的な予感ですか?」
「市警と地下と黒い傘が絡むと、どうせ俺が呼ばれるってだけだ」
「現実的」
「現場の人間なんで」
霧生が不機嫌そうに言った。
「お前は案内役だ。先頭に立つな。走るな。重いもの持つな。傷が痛んだら言え。隠したら病院へ戻す」
「分かってます」
「本当に?」
「本当に」
「白瀬みたいな返事をするな」
「私を基準にしないでください」
真昼が抗議する。
悠斗は、少しだけ口元を緩めた。
だがすぐに真顔へ戻る。
「封鎖連絡層って言いましたよね」
「ああ」
霧生が答える。
「知ってるのか」
「名前だけは」
悠斗は机に広げられた図面を見た。
都市交通局の旧地下鉄図。
観測局の索引座標。
学院旧校舎の地下構造図。
それらを重ね合わせた暫定図面。
悠斗は、迷わず一点を指した。
「ここ。旧第三連絡線の北側。図面上は行き止まりになってるけど、実際は壁が二重になってる」
「入れるのか」
「通常の保守通路からは無理です。旧校舎地下側の封鎖扉を開けるか、第三連絡線の点検口から入るか」
「どっちが安全だ」
「安全なのは、どっちもないです」
「そういう答えは要らん」
「でも事実です」
悠斗は、指で図面をなぞった。
「旧校舎側は構造が古すぎる。資料保管庫、防空壕、旧図書館書庫、観測局の仮設室が継ぎ足しで使われてる。壁も床も信用できない。地下鉄側は道は読めるけど、水が多い。あと、名前が変になる場所がある」
会議室が静かになった。
「名前が変になる場所?」
綾瀬が聞く。
悠斗は頷いた。
「昔の保守員の間で、そういう話があったんです。点検票に名前を書いたはずなのに、帰ってきたら苗字だけになってるとか。点呼で返事が一人遅れるとか。壁の名札が違う名前に見えるとか」
「都市伝説じゃないんですね」
「現場の人間は、都市伝説でも記録します。事故になるんで」
その言葉に、真昼は反応した。
現場の人間は、都市伝説でも記録する。
それは、悠斗らしい言葉だった。
霧生が言う。
「入口は」
「旧校舎地下から入って、地下鉄側へ抜けるほうがまだいい。戻る道を確保しやすい。第三連絡線側から入ると、水に押される可能性がある」
「旧校舎地下か」
透子の顔が少し硬くなる。
真昼は、それに気づいた。
旧校舎地下。
アガルタ学院の下。
灯里の手帳にあった言葉。
真木彼方の録音に出てくる観測室も、近いかもしれない場所。
「学院の許可は?」
霧生が聞く。
「安積室長経由で取得済みです」
透子が答える。
「早いな」
「早くしました」
「怖い言い方だ」
「必要でしたので」
真昼は、小さく手を上げた。
「私、学院の生徒として同行する扱いですか?」
「違います」
透子が即答する。
「市警協力者として、一時的な管理下に入ります」
「それ、書類上どうなってるんですか」
「見ないほうがいいです」
「怖い」
「私も怖いです」
綾瀬が小さく言った。
霧生が咳払いする。
「冗談はここまでだ。入る前に全員確認する」
彼はホワイトボードへ名前を書き直した。
御影レイ。
白瀬真昼。
黒江透子。
倉科悠斗。
霧生仁。
綾瀬直央。
綾瀬が顔を上げる。
「私も?」
「入口側の記録担当だ。内部には入らん」
「了解です」
「中に入るのは五人。御影、白瀬、黒江、倉科、俺。綾瀬は入口管制。御堂は映像と通信。牧野は回収物の保全待機」
霧生は全員を見た。
「中では、俺が定期的に名前を呼ぶ。返事しろ。馬鹿馬鹿しいと思っても返事しろ。遅れたら止まる。誰かの名前が言えなくなったら撤退だ」
「了解」
透子が答える。
レイも頷く。
真昼も頷いた。
悠斗は、少し嫌そうに顔をしかめた。
「地下で点呼されるの、気持ち悪い」
真昼は、すぐに言った。
「でも助かるでしょ」
悠斗は、しばらく黙った。
それから、視線を逸らして言う。
「まあな」
その短い返事に、妙な重さがあった。
悠斗は、名前を失いかけた人だ。
自分の名前を言えなくなり、呼ばれて戻ってきた人だ。
点呼が気持ち悪いことも、助かることも、彼は知っている。
真昼は、それ以上何も言わなかった。
*
旧校舎地下への入口は、アガルタ学院の旧図書館棟の奥にあった。
放課後の学院は、雨のせいで早く暗くなっていた。
新校舎の廊下では、部活動の声がまだ聞こえる。吹奏楽部の管楽器。体育館から跳ねるボールの音。誰かが友人の名前を呼ぶ声。
それらの日常の音が、旧校舎へ近づくにつれて薄くなる。
旧図書館棟は、いまは資料庫として使われている。普段の生徒は立ち入らない。廊下の窓は木枠で、壁には古い掲示板が残っていた。
雨の匂い。
埃の匂い。
古い紙の匂い。
真昼は、自分の足音が少しだけ灯里の足音に重なるのを感じた。
この廊下を、灯里も歩いたのかもしれない。
旧新聞部室へ。
資料庫へ。
地下へ。
白い傘を持って。
銀色のヘアピンで前髪を留めて。
真昼は鞄の中のケースに手を当てた。
そこには、白い傘の布片と銀色のヘアピンが入っている。
持ってきたからといって、灯里が戻るわけではない。
でも、置いてくることはできなかった。
レイは、真昼の横を歩いている。
彼のポケットには、C-04の複写。
透子は、胸元の内ポケットに録音端末を入れている。
悠斗は、反射ベストを着てヘルメットを被った。まだ現場復帰できないはずなのに、その格好をすると、急に地下の人間に見える。
霧生は懐中ライトと無線を確認し、最後に全員を見た。
「ここから先、ふざけるなよ」
「いつもふざけてません」
真昼が言う。
「自覚がない奴が一番怖い」
「ひどい」
「御影。白瀬が走ったら止めろ」
「分かりました」
「御影くん、即答しないで」
「止める」
「二回言わなくても」
悠斗が小さく笑った。
霧生は古い鉄扉の前に立つ。
そこには、錆びたプレートが貼られていた。
旧資料保管庫地下区画
関係者以外立入禁止
その下に、別の小さなシールが重ねて貼られている。
境界観測局管理番号
B-LINK-03
「B-LINK」
真昼が呟く。
「封鎖連絡層のリンク番号か」
透子が言った。
「観測局の古い管理コードです」
「前に来たことありますか」
真昼が聞く。
透子は、少しだけ間を置いた。
「近くまでは」
「中は?」
「正式には、ありません」
「正式には?」
「白瀬さん」
「はい」
「今は追及しないでください」
「……分かりました」
真昼は口を閉じた。
聞きたい。
けれど、聞くタイミングではない。
灯里の手帳の一文が、また胸の奥で響く。
名前を聞くのは暴力かもしれない。
今は、透子の過去へ無理に踏み込む時ではない。
霧生が鍵を開ける。
鉄扉が重い音を立てた。
内側から冷たい空気が流れ出してくる。
湿った地下の匂い。
水。
錆。
コンクリート。
古い紙。
そして、説明できない、名前のない匂い。
真昼は喉を鳴らした。
「白瀬真昼」
レイが隣で言った。
真昼は、すぐに返す。
「御影レイ」
「戻ってる?」
「まだ入ってもない」
「確認」
「戻ってる」
霧生がライトを点けた。
「点呼」
低い声。
「御影レイ」
「はい」
「白瀬真昼」
「はい」
「黒江透子」
「はい」
「倉科悠斗」
「はい」
「霧生仁」
「はい、俺」
自分で言って、霧生は少し嫌そうな顔をした。
「自分で自分呼ぶの、気持ち悪いな」
悠斗がぼそっと言う。
「地下で点呼されるの、気持ち悪いって言ったでしょう」
真昼が返す。
「でも助かるんだろ」
霧生が言う。
悠斗は、少し黙ってから答えた。
「まあな」
その言葉を合図のように、五人は地下へ降り始めた。
*
旧校舎地下は、学校の地下というより、別の建物の内臓だった。
最初は、古い資料保管庫が並んでいた。
鉄製の棚。
湿気取りの空き容器。
剥がれかけたラベル。
古い行事記録。
卒業アルバムの段ボール。
壊れた机。
そこを抜けると、壁の材質が変わる。
木と漆喰の古い学校施設から、灰色のコンクリートへ。
さらに進むと、防空壕の名残のような粗い壁が現れる。
天井が低くなり、配管がむき出しになる。
足元には水が薄く溜まっていた。
ライトの光が、水面に揺れる。
真昼は、歩くたびに自分の名前を頭の中で確認した。
白瀬真昼。
白瀬真昼。
白瀬真昼。
その隣に、灯里の名前が浮かぶ。
天沢灯里。
混ぜない。
混ぜないように。
別々に置く。
灯里は私だったかもしれない。
でも、私じゃない。
まだ、その言葉を完全には言えない。
けれど、近づいている。
「ここから先、音が変わります」
悠斗が言った。
彼は先頭ではない。
霧生の斜め後ろにいる。
霧生が先頭、悠斗が案内、透子が中央、真昼とレイがその後ろ。
隊列は霧生が決めた。
真昼が少しでも横へ逸れようとすると、レイが視線だけで止める。
便利というか、厄介というか。
「音?」
霧生が聞く。
「反響です。学校の地下なら、足音が壁で返る。でもこの先は、地下鉄の空間に近い。音が横へ抜けます」
「それで分かるのか」
「分かります」
悠斗は短く答えた。
数歩進んだところで、真昼にも分かった。
足音の返り方が変わった。
閉じた地下室から、長い通路へ。
空気の奥に、水音がある。
ぽたり。
ぽたり。
レイの肩がわずかに揺れる。
真昼は、すぐに言った。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
彼は答えた。
声は少し低いが、戻っている。
透子が振り返る。
「反応が?」
「水音」
レイは答えた。
「古河さんの記憶に近い」
「無理はしないでください」
「はい」
霧生がライトを前方へ向ける。
そこには、古い封鎖扉があった。
扉の上部には、学校のものではないプレートが取り付けられている。
B-LINK-03
封鎖連絡層
許可なき通行を禁ず
その下に、さらに古い手書きの紙が貼られていた。
水濡れでほとんど読めない。
だが、一部だけ残っている。
名前を確認してから入ること。
真昼は、胸が冷えた。
「灯里さん、これ見たのかな」
「可能性はあります」
透子が言った。
「この紙、いつからあるんですか」
「分かりません」
悠斗が扉を確認する。
「開けられます。ただ、蝶番が古い。乱暴にやると戻れなくなるかもしれない」
「戻れなくなる扉とか嫌すぎる」
綾瀬の声が無線から入った。
入口側で通信を見ている。
霧生が無線に答えた。
「こっちも嫌だ」
『主任、映像は一部ノイズが入っています。音声はまだ拾えています』
御堂圭吾の声も混じる。
『扉の先、カメラの深度が安定しません。距離計が揺れてます』
「距離計まで怖がってるのか」
『機械は怖がりません。たぶん』
「たぶんを付けるな」
真昼は、そのやり取りに少しだけ息を吐いた。
緊張は消えない。
でも、人の声がある。
名前を呼ぶ声がある。
それだけで、少し戻れる。
霧生が、扉の前で全員を見た。
「入る前に点呼」
誰も文句を言わなかった。
「御影レイ」
「はい」
「白瀬真昼」
「はい」
「黒江透子」
「はい」
「倉科悠斗」
「はい」
「霧生仁」
「はい」
霧生は頷いた。
「よし。入る」
悠斗が慎重に扉を開ける。
金属が軋む。
冷たい空気が流れ出す。
そこから先は、学校の地下でも、地下鉄でもなかった。
壁の右側は、古い学校施設の白いタイル。
左側は、旧地下鉄の灰色のコンクリート。
天井には、観測局のものらしい細い配線が走っている。
床には、錆びた線路のような金属レールが半分だけ埋まっていた。
異なる場所を無理につないだような通路。
封鎖連絡層。
その名の意味が、真昼にも分かった。
ここは、どこかとどこかをつなぐ場所だ。
旧校舎地下。
旧地下鉄。
観測局の観測室。
そして、たぶん、もっと深い場所。
真昼は足を踏み入れた。
その瞬間、胸の中で何かが揺れた。
白い傘。
銀色のヘアピン。
古河 千■のメモ帳。
真木彼方の声。
全部が、遠くから一度にこちらを見たような感覚。
真昼は膝が揺れそうになった。
レイが小さく言う。
「白瀬真昼」
「御影レイ」
真昼はすぐに返した。
戻る。
私は白瀬真昼。
ここにいる。
灯里ではない。
それでも、灯里の名前を持ってきた。
霧生のライトが通路の奥を照らす。
壁に名札が貼られていた。
古い紙の名札。
水で歪み、字が滲んでいる。
いくつかは読めない。
いくつかは番号だけ。
K-117。
C-04。
A.A.
R-■■。
真昼は、思わず足を止めた。
透子も止まる。
レイの呼吸が乱れる。
悠斗が小さく舌打ちした。
「ここ、まずいですね」
「分かるのか」
霧生が聞く。
「名前が、引っかかる」
悠斗は、自分の胸ポケットに手を当てた。
そこには、たぶん名前を書いたメモが入っている。
倉科悠斗。
彼はまだ、それを持っている。
「一回、点呼」
霧生が即座に言った。
「御影レイ」
「はい」
「白瀬真昼」
「はい」
「黒江透子」
「はい」
「倉科悠斗」
悠斗の返事が、ほんの少し遅れた。
「……はい」
真昼の胸が跳ねた。
霧生がライトを彼へ向ける。
「倉科」
「大丈夫です」
「今、遅れた」
「分かってます」
「名前」
悠斗は、深く息を吸った。
「倉科悠斗」
「もう一回」
「倉科悠斗」
「よし」
真昼は、思わず言った。
「助かるでしょ」
悠斗は苦い顔をした。
「助かるから、余計に気持ち悪い」
「分かる」
レイが言った。
悠斗が彼を見る。
レイは淡々としていたが、目だけは少し揺れている。
「名前を呼ばれるのは、戻る。戻るから、呼ばれないと危ないって分かる。それが気持ち悪い」
悠斗はしばらく黙った。
「高校生に言われると腹立つけど、合ってる」
「すみません」
「謝るな。余計腹立つ」
真昼は、少しだけ笑いそうになった。
でも笑わなかった。
この場所では、笑い声すら壁に吸われそうだった。
五人は進む。
通路は、思ったより長かった。
右側には、古い教室のドアのようなものがある。
だが、開けると中は配管室だった。
左側には、地下鉄の点検口がある。
だが、その奥に見えるのは本棚だった。
場所が混ざっている。
記録が混ざっている。
真昼は、何度も自分の名前を確認した。
白瀬真昼。
白瀬真昼。
時々、別の音が重なる。
天沢灯里。
そのたびに、真昼は心の中で言う。
あなたは、天沢灯里。
私は、白瀬真昼。
どちらも消さない。
混ぜない。
「止まってください」
透子が言った。
前方に、古い扉があった。
白い。
病室の扉のような白。
ただし、下半分は錆びていて、鉄の地が見えている。
扉の横に、観測局の古いプレートが貼られていた。
仮設観測室 B-03
真木彼方の録音記録。
白い病室。
識別バンド。
Null-03。
レイが、息を止めた。
透子は、その扉の前で動けなくなった。
霧生が彼女を見る。
「黒江」
「……ここです」
透子の声は、低く掠れていた。
「録音に出てくる観測室。完全に同じかは分かりません。でも、同じ系統の部屋です」
真昼は、扉を見た。
この奥で、真木彼方は名前を呼んでほしいと言ったのかもしれない。
若い透子が、その名前を何度も呼んだのかもしれない。
Null-03が、彼の名前を切ったのかもしれない。
レイの手が震えている。
真昼は、名前を呼んだ。
「御影レイ」
「白瀬真昼」
レイは返した。
少し遅れたが、返した。
透子は、目を閉じた。
そして、自分の胸元に手を当てる。
そこには、真木彼方の録音端末が入っている。
「真木彼方」
透子が、小さく言った。
その名前は、通路の中へ落ちた。
扉の向こうで、何かが応えた気がした。
音ではない。
気配。
真昼の胸が痛む。
灯里の手帳の中で、一度だけ触れられていた名前。
透子が消せなかった名前。
レイが見てしまった白い部屋の少年。
霧生が低く言った。
「入るのか」
透子は、しばらく扉を見ていた。
「今は入りません」
その答えに、真昼は少し驚いた。
「いいんですか」
「目的は、C-04のメモ帳と灯里さんの最終経路の確認です。観測室は、準備なしで開けるべきではありません」
霧生が頷く。
「賛成だ。嫌な扉は、嫌な時に開けるな」
「主任、それ判断基準として合ってます?」
綾瀬の声が無線から聞こえた。
「現場じゃだいたい合ってる」
真昼は、扉を見つめた。
開けたい。
知りたい。
でも、今は開けない。
待つ。
また、待つ。
灯里の手帳が胸に刺さる。
名前を聞くことは暴力かもしれない。
扉を開くことも、同じかもしれない。
真昼は一歩下がった。
「白瀬」
レイが気づく。
「大丈夫。今は開けない」
「珍しい」
「成長してるので」
「すごい」
「それ、まだ馬鹿にしてる?」
「半分は」
「もう半分は?」
「本当に」
真昼は、少しだけ笑った。
その時、悠斗が前方へライトを向けた。
「こっちです」
通路の先に、低い保守通路が続いている。
天井がさらに低くなり、壁には古い配管が這っている。床には水が溜まり、レールのような金属が一本だけ奥へ伸びていた。
「旧地下鉄側の保守通路です。C-04の最終位置に近い」
レイの呼吸がまた浅くなる。
真昼は、彼の袖を軽く掴んだ。
「行ける?」
「行く」
「戻れる?」
「名前を呼んで」
「分かった」
霧生が前方へ歩き出した。
「点呼してからだ」
彼は振り返らずに言う。
「御影レイ」
「はい」
「白瀬真昼」
「はい」
「黒江透子」
「はい」
「倉科悠斗」
「はい」
「霧生仁」
「はい」
真昼は、その点呼を聞きながら、思った。
馬鹿馬鹿しく見えるかもしれない。
でも、この場所では、それが命綱だ。
名前は揺らぐ。
番号は残る。
藍沢環はそう言った。
でも、真昼たちは今、番号ではなく名前で進んでいる。
御影レイ。
白瀬真昼。
黒江透子。
倉科悠斗。
霧生仁。
それぞれの名前を、ひとつずつ呼びながら。
通路の奥で、水音が強くなる。
ぽたり。
ぽたり。
その音の向こうに、何かが待っている。
古河 千■の未回収メモ帳。
天沢灯里の足跡。
真木彼方の観測室。
黒い傘の影。
真昼は、鞄の中の白い傘の布片に手を当てた。
冷たい。
ケース越しなのに、雨の冷たさが伝わる気がする。
胸の奥で、灯里の声がする。
名前が怖いなら、今日は呼ばない。
真昼は、心の中で答えた。
今日は、呼びに行く。
でも、あなたの痛みを忘れずに。
五人は、封鎖連絡層のさらに奥へ進んだ。
壁の名札が、ライトの光の中で揺れる。
C-04。
K-117。
A.A.
R-■■。
そして、まだ読めない空白。
雨の音に似た水音が、名前の代わりのように響いていた。




