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第七章 真木彼方の録音

 黒江透子は、録音を再生するべきではないと思っていた。


 少なくとも、そう思おうとしていた。


 市警の資料室は、夜になると音が減る。


 昼間は刑事たちの足音、電話、プリンターの動作音、誰かの怒鳴り声、インスタントコーヒーの湯を沸かす音が絶えない。だが、日付が変わる頃には、紙が擦れる音まで大きく聞こえるようになる。


 蛍光灯の一部は消され、通路の奥だけが白く浮かんでいる。


 透子は、資料室の一番奥にある鍵付きキャビネットの前に立っていた。


 市警のものではない。


 私物でもない。


 厳密に言えば、ここにあってはいけない資料だった。


 境界観測局時代に持ち出したものではない。


 そう言えば嘘になる。


 正式な手続きで複写したものでもない。


 それも嘘になる。


 ただ、完全に盗んだわけでもなかった。


 当時、破棄対象として扱われた複製記録の中から、透子が一つだけ保管した。


 理由は、記録保全のため。


 そう報告書には書ける。


 だが、本当の理由は違う。


 彼の声を、完全に消したくなかった。


 透子は鍵を差し込んだ。


 小さな金属音。


 キャビネットの扉が開く。


 中には、いくつかの封筒と、古い記録媒体が入っている。


 紙の資料。

 写真のコピー。

 劣化したデータカード。

 小型の録音端末。


 その端末は、今の市警で使われているものより少し古い型だった。黒いプラスチックの外装には細かな傷があり、端に貼られた白いラベルは黄ばんでいる。


 ラベルには、手書きで番号が書かれていた。


 K-117。


 その下に、薄く消えかけた鉛筆の跡がある。


 真木彼方。


 透子は、その文字を自分で書いた。


 そして、一度消した。


 鉛筆の跡だけが、まだ残っている。


 何年も前に消したはずの名前が、消した跡として残っている。


 それを見るたび、透子は思う。


 消したのは誰だったのか。


 観測局か。


 記録保全部か。


 それとも、自分か。


 資料室の扉が軽く叩かれた。


「黒江」


 霧生仁の声だった。


「まだ起きてんのか」


「主任こそ」


「仮眠室で寝たら夢見が悪かった」


「いつもでは?」


「言うようになったな」


 霧生は資料室へ入ってきた。


 くたびれたスーツの上着を肩に引っかけ、口にはいつもの飴を入れている。無精髭の伸びた顔は疲れているが、目だけは眠っていない。


 彼は透子の手元を見た。


 K-117の録音端末。


 霧生の表情が少し変わる。


「出すのか」


「まだ迷っています」


「迷ってる顔じゃねえな」


「では、どんな顔ですか」


「出すって決めたのに、まだ自分に言い訳を探してる顔」


 透子は端末を持ったまま、少しだけ沈黙した。


 霧生は壁にもたれた。


「聞かせる相手は、御影と白瀬か」


「はい」


「未成年に聞かせていい代物か」


「よくありません」


「じゃあ、なぜ」


「必要だからです」


「それ、観測局の連中もよく言いそうだな」


 透子の指が止まった。


 霧生はすぐに続けた。


「責めてるわけじゃねえ。確認してる」


「分かっています」


「なら、何が違う」


 透子は端末を見る。


 K-117。


 彼方の声が入っている。


 名前を呼んでほしいと言った声。


 自分がまだ、誰かにとっての先生だった頃の声。


「本人を守るためかどうか」


 透子は言った。


「観測局は、症例を守るという名目で記録を囲い込みました。私は……少なくとも今回は、御影さんと白瀬さんを守るために聞かせます」


「それで傷ついたら?」


「傷つきます」


「断言か」


「はい」


 透子は目を伏せなかった。


「ですが、彼方の記録を伏せたままでは、二人は同じ欠落へ近づくことになります。名前を失うことが、どのように始まり、どこで取り返しがつかなくなるのかを知らないまま」


「それを見せるのが守ることか」


「分かりません」


 霧生は飴を噛んだ。


 小さな音がした。


「分からないでやるなら、まだましだ」


「ましですか」


「正しいと思い込んでやるよりはな」


 透子は、少しだけ息を吐いた。


 正しいと思い込んでいた時期があった。


 境界観測局にいた頃。


 記録すれば救えると思っていた。


 分類すれば扱えると思っていた。


 症状に名前をつければ、人間を守れると思っていた。


 けれど、真木彼方は名前を失った。


 透子は、端末を封筒に入れた。


「明日の午前、検査室で再生します」


「俺も立ち会う」


「必要ありません」


「必要です」


 霧生は、透子の言い方を真似た。


「高校生二人に昔の観測局の録音を聞かせるんだろ。黒江一人に背負わせるには重い」


「主任がいても、過去は変わりません」


「変わらん。だが、今の部屋に大人が一人増える」


「私も大人ですが」


「お前は当事者だ」


 透子は返事をしなかった。


 霧生は資料室を出る前に、扉のところで振り返った。


「黒江」


「はい」


「過去の話をする時は、全部話す必要はない。でも、嘘は混ぜるな」


 その言葉に、透子は小さく頷いた。


「心得ています」


「ならいい」


 扉が閉まる。


 資料室はまた静かになった。


 透子は、K-117の封筒を両手で持った。


 軽い。


 あまりにも軽い。


 少年の名前と、声と、消えた未来が入っているものにしては、軽すぎた。


     *


 翌朝の市警は、雨の匂いがした。


 窓の外では、灰色の雲が低く垂れ込めている。雨はまだ降っていない。けれど、街全体が降る前の重さを抱えていた。


 白瀬真昼は、特異殺人対策室の検査室の前で立ち止まった。


 胸が重い。


 灯里の手帳を読んだ時から、ずっと続いている重さだった。


 名前をなくした人に、名前を聞くのは暴力かもしれない。

 でも、聞かなければ、その人は本当に消えてしまう。


 その一文が、何度も頭の中で繰り返される。


 昨夜の夢も、まだ残っていた。


 ノクターン書房。


 白い傘。


 顔の黒く滲んだ青年。


 泣いているように見えた顔。


 優しい人は、いちばん残酷です。


 真昼は、手帳を持ってきていた。


 自分の取材ノート。


 ページの端には、三つの名前が書かれている。


 天沢灯里。

 古河 千■。

 真木彼方。


 最後の名前は、書くたびに少し胸が痛む。


 けれど、消さなかった。


 隣に立つ御影レイは、いつもより口数が少なかった。


 いつも少ないが、今日はさらに少ない。


 白いシャツの襟元が少し乱れている。


 珍しい。


 真昼はそれに気づいたが、最初は言わなかった。


 言うか迷って、結局言った。


「ネクタイ、曲がってる」


 レイは自分の胸元を見る。


「本当だ」


「珍しい」


「寝不足」


「大丈夫?」


「大丈夫じゃない」


「よろしい」


「大丈夫じゃないと、よろしいなの?」


「正直だから」


「便利な判定」


 真昼は、手を伸ばしてレイのネクタイを直そうとした。


 レイが少しだけ身を引く。


「自分でできる」


「知ってる」


「なら」


「曲がってるの見てると気になる」


「新聞部の職務?」


「友人の職務」


 言ってから、真昼は少し照れた。


 レイも返事に迷ったようだった。


 結局、彼は抵抗せず、少しだけ前を向いた。


 真昼はネクタイを直した。


 指先が布に触れる。


 その瞬間、何かが見えることはなかった。


 ただ、レイの体温が普通にあった。


 普通に、生きている。


 それが少しだけ安心だった。


「できた」


「どうも」


「こういう時は、ありがとう」


「ありがとう」


「よし」


「何で君が満足げなの」


「教育」


「ひどい」


 そんな軽口を交わしてから、二人は検査室へ入った。


 部屋には、すでに透子、霧生、綾瀬がいた。


 机の上には、録音端末が置かれている。


 黒い古い端末。


 ラベルには、K-117。


 真昼は、その番号を見た瞬間、喉の奥が乾くのを感じた。


 K-117。


 藍沢環が資料に出した関連症例。


 透子が顔色を変えた番号。


 そして、灯里の手帳に一度だけ出てきた名前。


 真木彼方。


 透子は立っていた。


 座っていない。


 それだけで、彼女が落ち着いていないことが分かった。


 彼女は二人を見る。


「来てくれてありがとうございます」


「これ」


 真昼は端末を指した。


「真木彼方さんの録音ですか」


 透子は、ゆっくり頷いた。


「はい」


 レイの表情が固くなる。


「聞く必要があるんですね」


「あります。ただし、聞くかどうかは、あなたたちが決めてください」


 真昼は透子を見た。


 いつもの透子なら、「必要です」とだけ言ったかもしれない。


 けれど、今日は違う。


 選ばせている。


 それが逆に、この録音の重さを示していた。


「聞かなかった場合は?」


 真昼が聞く。


「今後、封鎖連絡層、C-04、天沢灯里さんの記録、そして黒刃ヌルに関わる事案へ進む時、重要な背景を知らないままになります」


「聞いた場合は?」


「傷つきます」


 透子は、はっきり言った。


「特に御影さんは、強い記憶混線を起こす可能性があります。白瀬さんも、名前欠落や記録残響へ反応する可能性がある」


「それでも、聞かせるべきだと思ってるんですよね」


 真昼が言うと、透子は少しだけ目を伏せた。


「はい」


「なら、聞きます」


 真昼は答えた。


 早かった。


 自分でも早すぎると思った。


 だが、答えは変わらない。


 真木彼方という名前を、手帳に書いた。


 書いたからには、逃げたくなかった。


 レイも頷く。


「僕も聞きます」


 透子は、二人の返答を聞いても、すぐには再生しなかった。


「これは、境界観測局時代の記録です」


 彼女は言った。


「正規の開示資料ではありません。本来、ここにあるべきものではありません」


「持ち出したんですか」


 真昼が聞く。


「破棄対象の複製記録を、私が保管していました」


「それ、持ち出したって言いません?」


 霧生が横から言う。


「表現の問題です」


「便利な言葉だな」


「自覚しています」


 透子の声は硬かった。


 真昼は、冗談に乗れなかった。


 透子がこうしている時点で、この録音はただの資料ではない。


「真木彼方さんは」


 透子は続けた。


「私が境界観測局にいた頃、担当していた症例です。識別番号はK-117。当時、彼は十五歳。アガルタ学院高等部一年でした」


 十五歳。


 真昼は、小さく息を止めた。


 自分より年下。


 レイより年下。


 名前を失った少年。


「彼は、御影さんに近い症状を示していました」


 透子はレイを見る。


「複数の同魂者記憶の流入。自己名固定の不安定化。一人称の揺らぎ。自分の感情と、他者の記憶の区別がつかなくなる発作」


 レイは何も言わなかった。


 ただ、手を膝の上で握った。


「彼は、何度も自分の名前を確認しました。何度も書きました。何度も、呼んでほしいと言いました」


 透子の声が、ほんの少しだけ揺れた。


「私は、彼を助けようとしました」


 それは、言い訳のようにも、懺悔のようにも聞こえた。


「でも、救えませんでした」


 検査室が静かになる。


 霧生は壁際で腕を組み、何も言わない。


 綾瀬はメモを取っていなかった。


 ペンを握ったまま、透子を見ている。


 透子は端末の再生ボタンへ指を置いた。


「再生します。反応が強くなったら中止します。御影さん、白瀬さん。現在名を一度確認してください」


「御影レイ」


 レイが言う。


「白瀬真昼」


 真昼も言う。


 透子は頷いた。


 ボタンを押す。


 最初に聞こえたのは、古いノイズだった。


 ざ、ざざ。


 遠い雨のような音。


 あるいは、古い地下鉄の換気音のような音。


 やがて、若い声が入った。


『……先生』


 真昼の胸が、ぎゅっと縮んだ。


 少年の声だった。


 細く、遠慮がちで、今にも消えそうな声。


『先生、僕の名前を呼んでください』


 透子の手が、机の端を握った。


 録音の中で、若い透子の声がする。


 今より少し柔らかい声。


 まだ硬さより、必死さのほうが勝っている声。


『大丈夫。あなたは、真木彼方です』


 真昼は、息を止めた。


 真木彼方。


 録音の中で、その名前は確かに聞こえた。


 欠けていない。


 消えていない。


 若い透子が、彼の名前を呼んでいる。


『もう一回、お願いします』


 彼方の声。


『真木彼方』


『もう一回』


『真木彼方』


『……僕は、真木彼方』


 小さく、彼方が繰り返す。


『僕は、真木彼方。僕は、真木彼方。僕は……』


 突然、ノイズが混じる。


 ざざ、ざざざ。


 音声が歪む。


 彼方の声が遠ざかり、複数の声が重なったように聞こえる。


『僕は、私、俺、あたし、違う、違う、これは僕じゃない、でも泣いてる、誰が、誰が死んだの、先生、先生、僕の名前――』


『彼方くん、私を見て。呼吸を合わせて。あなたは真木彼方です』


『本当ですか』


『本当です』


『まだ、僕ですか』


『まだ、あなたです』


『いつまで?』


 若い透子の声が、そこで一瞬止まる。


 真昼は胸が痛くなった。


 この問いに、誰が答えられるのだろう。


 いつまで、自分でいられるのか。


 レイの横顔が白くなっている。


 目は開いているが、焦点が少しずれている。


 真昼は、すぐに彼の手首を見た。


 震えている。


 でも、まだ戻っている。


 録音は続く。


 別の大人の声が入った。


 男とも女ともつかない、平板な声。


『名前を固定すると、接続が深くなる』


 真昼の背筋が冷えた。


 透子の若い声がすぐに反論する。


『彼は名前を失いかけています。固定しなければ、自己境界が崩れます』


『自己境界を固定することで、記憶流入経路も固定される。K-117は貴重な症例だ』


 K-117。


 番号が出た瞬間、真昼の中で怒りが燃え上がった。


 録音の中の彼方は、まだそこにいる。


 先生と呼んでいる。


 名前を呼んでほしいと言っている。


 なのに、別の声は番号で呼ぶ。


『症例ではありません。彼は患者です』


 若い透子の声。


『観測対象だ』


『違います』


『黒江研究員。感情的判断は記録の精度を落とす』


『名前を呼ばなければ、彼は戻れません』


『名前が戻すとは限らない。むしろ、接続点を明確化することで、より深層へ引き込む可能性がある』


『それでも、彼が望んでいます』


『被験者の主観的希望より、観測安定性を優先する』


 真昼は、もう我慢できなかった。


「止めてください」


 透子が再生を止める。


 検査室に静寂が戻った。


 真昼は机に手をついていた。


 自分がいつ立ち上がったのか分からない。


「この子、助けを求めてるじゃないですか」


 声が震えた。


 怒りで。


 怖さで。


 灯里の手帳を読んだあとだからこそ、その声が刺さった。


 名前を聞くのは暴力かもしれない。


 でも、彼方は聞いてほしかった。


 呼んでほしかった。


 先生、僕の名前を呼んでください。


 それは、傷を開いてほしいという願いではない。


 帰る場所がほしいという願いだ。


「分かっています」


 透子は答えた。


 静かだった。


 でも、その静けさの奥に、何年も閉じ込められていた痛みがあった。


「分かっていて、どうして」


 真昼は言った。


 言ってから、自分でも残酷だと思った。


 でも、止められなかった。


「どうして止めなかったんですか。どうして連れて帰らなかったんですか。どうして、この子をK-117って呼ばせたんですか」


 透子は答えなかった。


 いや、答えられなかった。


 その沈黙が、いつもの透子のものではなかった。


 冷静な分析官でも、記録する人でも、元観測局職員でもない。


 ただ、かつて助けられなかった人の沈黙。


 霧生が口を開きかけたが、やめた。


 透子は、長い時間をかけて息を吸った。


「私は、弱かった」


 真昼は黙った。


「当時の私は、観測局の中で発言権を持っていませんでした。彼を担当していた。彼の名前を呼んでいた。彼が夜中に発作を起こした時、手を握って、真木彼方だと繰り返した。けれど、実験計画を止める権限はなかった」


「権限がなかったら、仕方なかったんですか」


 真昼の声は、まだ鋭い。


 透子は、逃げずに受けた。


「仕方なかったとは言いません」


「じゃあ」


「私は止められませんでした」


 その言葉は、とても小さかった。


 真昼の怒りは、まだ消えなかった。


 でも、怒りだけではなくなった。


 透子は、分かっている。


 自分が止められなかったことを。


 何年も前から。


 誰よりも。


「彼方さんは」


 レイが、低い声で聞いた。


 真昼は振り返る。


 レイの顔色はさらに悪くなっていた。


 それでも、彼は録音端末を見ている。


「そのあと、どうなったんですか」


 透子は、一瞬だけ目を閉じた。


「公式記録上は、観測不能状態へ移行」


「その言葉じゃなくて」


 レイの声が震えた。


「死んだんですか」


 透子は答えなかった。


「逃げたんですか」


 沈黙。


「オメガなんですか」


 部屋の温度が、一段下がった気がした。


 透子は、ゆっくり目を開ける。


「分かりません」


「本当に?」


「本当に分かりません」


「黒江さんにも?」


「はい」


 レイは唇を噛んだ。


 それは珍しい表情だった。


 恐怖とも、怒りとも違う。


 自分の未来を見せられたような顔。


 真木彼方は、レイに似た存在だった。


 名前を失いかけ、多元記憶に飲まれ、誰かに自分の名前を呼んでほしかった少年。


 レイは、彼方の声を聞いて、自分の声を聞いているのかもしれない。


 透子は、録音端末へ視線を落とした。


「続きがあります。ここから先は、御影さんに強く反応が出る可能性があります」


「聞きます」


 レイは即答した。


 真昼が止めようとする。


「御影くん」


「聞く」


「でも」


「彼は僕に近い」


 レイは言った。


「でも、僕じゃない。だから、聞く」


 その言葉で、真昼は黙った。


 あの夜にレイがエミーへ辿り着いた答え。


 そして、真昼が灯里へ向かい始めている答え。


 彼方もまた、同じではない。


 でも、近い。


 近いからこそ、見捨てられない。


 透子は再生を再開した。


     *


 ノイズ。


 ざざ、ざ、ざざざ。


 誰かの息。


 複数の足音。


 機械音。


 医療機器のような電子音。


 彼方の声が、遠い。


『先生』


 若い透子の声。


『ここにいます』


『寒いです』


『毛布を増やします』


『名前を……』


『真木彼方』


『もう一回』


『真木彼方』


『もう一回』


『真木彼方』


 真昼は、胸が詰まった。


 何度でも呼んでいる。


 透子は、ちゃんと呼んでいる。


 若い声は疲れている。


 それでも、彼が求めるたびに呼んでいる。


 別の声が入る。


『Null-03の準備は』


 レイの身体が、びくりと震えた。


 透子がすぐに手を伸ばしかける。


 レイは片手を上げ、止める。


 聞く。


 その意思表示だった。


『記憶流入のピークを待つ。外部接続が最大化したタイミングで遮断する』


『危険です。接続の切断は、自己名にも影響します』


『外部記憶を切らなければ、K-117は崩壊する』


『名前を残したまま切断できる保証はありません』


『保証のための実験だ』


 ノイズ。


 激しい呼吸。


 彼方の声が重なる。


『先生、僕、名前、書けない』


『大丈夫。私が呼びます』


『書けないんです。真木、までは、書ける。彼方って、彼方って、遠いですね。変な名前ですね。遠くへ行きそうで』


『行かせません』


『先生』


『はい』


『僕の名前を呼んでください』


『真木彼方』


『もう一回』


『真木彼方』


『もう一回』


『真木彼方』


 そこで、音が割れた。


 真昼の耳に、雨音のようなノイズが流れ込む。


 レイが椅子から立ち上がりかけた。


 目の焦点が合っていない。


「御影くん!」


 真昼が呼ぶ。


 レイは答えない。


 録音が続く。


『Null-03、接触』


 誰かの声。


 その瞬間、レイの視界が変わったのが、真昼にも分かった。


 彼は、ここではない場所を見ている。


     *


 白い病室。


 いや、病室ではない。


 検査室。


 壁が白すぎる。


 窓がない。


 蛍光灯が明るい。


 ベッドの横に金属の台。


 手首に識別バンド。


 名前ではない。


 K-117。


 自分の手だ。


 いや、違う。


 細い腕。


 痩せた少年の腕。


 指先が震えている。


 紙に名前を書こうとしている。


 真木――


 書けない。


 遠い。


 名前が遠い。


 誰かがそばにいる。


 黒江透子。


 今より若い。


 目の下に隈がある。


 白衣を着ている。


 彼女は手を握っている。


 先生。


 そう呼ぶ。


 先生は泣きそうな顔をしている。


 でも、泣かない。


 名前を呼んでくれる。


 真木彼方。


 真木彼方。


 真木彼方。


 その声に、少しだけ戻る。


 でも、別の声がする。


 知らない誰かが死んでいる。


 知らない誰かが泣いている。


 知らない誰かが殺している。


 赤い光。

 地下の水音。

 雨の路地。

 白い傘。

 黒い傘。


 まだ知らない記憶まで、全部が流れ込んでくる。


 痛い。


 名前が裂ける。


 自分の中に、たくさんの人がいる。


 助けて。


 切って。


 でも、切らないで。


 切ったら、僕もなくなる。


 黒い刃。


 光を反射しない。


 刃なのに、医療器具のように置かれている。


 Null-03。


 誰かがそう呼ぶ。


 ヌル。


 名前を切るもの。


 記憶を切るもの。


 自分と自分ではないものを分けるもの。


 いや。


 違う。


 それは、分けるんじゃない。


 消す。


 先生。


 僕の名前を呼んでください。


 声が出ない。


 黒い刃が近づく。


 誰かが泣いている。


 透子か。


 彼方か。


 別の誰かか。


 分からない。


 黒い刃が触れる。


 名前が、白く飛ぶ。


 真木――


 その先が、遠い。


 彼方。


 彼方。


 彼方。


 遠すぎる。


     *


「御影レイ!」


 真昼の声が、レイを引き戻した。


 彼は椅子から半分立ち上がった状態で止まっていた。


 机に手をつき、肩で息をしている。


 額には汗。


 目の奥が、複数の光を反射したように揺れている。


「御影くん、ここどこ」


 真昼が問う。


「市警」


「部屋は」


「検査室」


「私は」


「白瀬真昼」


「あなたは」


「御影レイ」


「真木彼方さんは、あなた?」


 レイは答えに詰まった。


 真昼の心臓が跳ねる。


 透子が立ち上がる。


「御影さん」


 レイは、目を閉じた。


 長い沈黙。


 それから、かすれた声で言う。


「違う」


 真昼は息を吐いた。


「でも、近い」


「うん」


「近すぎる?」


「うん」


 レイは椅子へ座り直した。


 手が震えている。


 真昼は、彼の横へ椅子を寄せた。


 触れていいか迷う。


 レイが、自分から小さく言った。


「手」


 真昼はすぐに理解した。


 彼の右手を握る。


 冷たい。


 検査室の空調のせいではない。


 白い病室の冷たさを、まだ持ち帰っている。


「見えたんですね」


 透子が言った。


 声は、普段より少し低い。


 レイは頷いた。


「白い部屋。識別バンド。K-117。Null-03。黒い刃。あなたがいた」


 透子は、目を伏せた。


「はい」


「彼方さんは、名前を呼んでほしがっていた」


「はい」


「あなたは呼んでいた」


「はい」


「でも、切られた」


 透子の顔が、わずかに歪んだ。


「はい」


「死んだんですか」


 レイがもう一度聞く。


 透子は、答えられない。


 レイは続ける。


「逃げたんですか」


 沈黙。


「オメガなんですか」


 透子は、ようやく言った。


「分かりません」


 真昼は、透子の顔を見た。


 嘘ではない。


 本当に分からないのだ。


 それが、一番怖かった。


 彼方は死んだのかもしれない。


 逃げたのかもしれない。


 オメガになったのかもしれない。


 あるいは、オメガを生んだ欠落なのかもしれない。


 どれも確定しない。


 名前が残っていても、現在が見えない。


「観測不能状態へ移行」


 真昼は、その言葉を呟いた。


 自分で言って、嫌になる。


 人の消失を包むには、あまりにも冷たい言葉。


 透子は言った。


「その言葉で、局は記録を閉じました」


「黒江さんは?」


 真昼が聞く。


「閉じられませんでした」


 短い答え。


 真昼は、それ以上責める言葉を持てなかった。


 怒りは残っている。


 観測局に。


 名前を番号へ押し込めた人たちに。


 貴重な症例だと言った声に。


 実験の保証のために、少年の名前を危険へ晒した人たちに。


 でも、透子はそこにいた。


 名前を呼んでいた。


 止められなかった。


 その事実は、真昼の怒りを単純にはしてくれなかった。


「続きは」


 霧生が言った。


「まだあるのか」


 透子は端末を見た。


「録音としては、あと二十秒ほど」


「聞かせるのか」


 霧生の声には、止める響きがあった。


 透子はレイを見る。


 レイは、真昼の手を握ったまま言った。


「聞きます」


「御影くん」


「ここまで聞いて、最後だけ聞かないのは嫌だ」


「危ない」


「知ってる」


「混線したら」


「名前を呼んで」


 真昼は、言葉を飲み込んだ。


 それは、自分がレイに頼んだことでもあった。


 私が変なことを言い始めたら、名前を呼んで。


 今度はレイが頼んでいる。


 真昼は頷いた。


「分かった」


 透子は、端末を操作した。


「最後の部分はノイズが強く、ほとんど解析できていません。音量を少し上げます」


 再生。


 ざざ。


 ノイズ。


 遠くの警報音のようなもの。


 誰かの叫び。


 聞き取れない。


 白い機械音。


 若い透子の声。


『彼方くん!』


 別の声。


『接続が反転している』


『記録が落ちるぞ』


『K-117の名前欄を固定しろ』


『Null-03を離せ!』


 ノイズ。


 激しい呼吸。


 そして、非常に小さな声。


 最初は、誰も聞き取れなかった。


 透子が巻き戻す。


 もう一度。


 ノイズの奥。


 少年の声のようで、違う声にも聞こえる。


『……僕は、あなたじゃない』


 真昼は、背筋が凍るのを感じた。


 その言葉は、古河 千■の言葉と重なる。


 俺は、お前じゃない。


 オメガの拒絶とも重なる。


 私の記憶を、お前のものにするな。


 そして、レイが何度も辿り着いてきた答えとも重なる。


 彼女は、僕だった。


 でも、僕じゃなかった。


 僕は、あなたじゃない。


 録音は、そこで切れた。


 何の余韻もなく。


 ぷつり、と。


 検査室に戻った静寂は、録音の前よりも重かった。


 真昼は、まだレイの手を握っていた。


 レイは目を閉じている。


 透子は、録音端末を見つめたまま動かない。


 霧生は壁際で低く息を吐いた。


 綾瀬は泣きそうな顔をしていたが、メモを取る手を止めなかった。


「今の」


 真昼は、ようやく声を出した。


「彼方さんですよね」


 誰も答えなかった。


 透子が、ゆっくりと言う。


「音声解析上、断定できません」


「黒江さんの耳では」


 透子は、長く沈黙した。


 それから、答えた。


「彼方くんに聞こえます」


 真昼は、胸を押さえた。


「でも」


「はい」


 透子の声は静かだった。


「別の誰かにも聞こえます」


 レイが目を開けた。


「オメガ」


 その名を口にした瞬間、部屋の空気がわずかに揺れた。


 誰も否定しなかった。


 しかし、誰も肯定しなかった。


 分からない。


 また、それだけが残る。


 真木彼方は死んだのか。


 逃げたのか。


 オメガなのか。


 オメガを生んだ欠落なのか。


 分からない。


 けれど、その最後の声だけは残った。


 僕は、あなたじゃない。


 真昼は、ノートを開いた。


 手が震えている。


 それでも書いた。


 真木彼方。


 その下に、録音の最後の言葉。


 ……僕は、あなたじゃない。


 書いた瞬間、胸が痛んだ。


 灯里の痛みとは違う。


 古河 千■の欠落とも違う。


 レイの混線とも違う。


 これは、名前を呼んでほしかった少年の、最後に残った拒絶だった。


 真昼は、ペンを握りしめた。


「黒江さん」


「はい」


「この録音、聞かせてくれてありがとうございます」


 透子が、少しだけ驚いたように真昼を見る。


 真昼は続けた。


「怒ってます。観測局にも、当時の人たちにも。黒江さんにも少し。でも、聞けてよかったです」


 透子は、すぐには答えなかった。


 やがて、静かに頭を下げた。


「ありがとうございます」


 レイが、真昼の手を少しだけ握り返した。


 冷たさは、まだ残っている。


 でも、さっきより少しだけ戻っている。


「御影レイ」


 真昼は呼んだ。


「白瀬真昼」


 レイが返す。


「真木彼方」


 真昼は、さらに呼んだ。


 その名を口にすると、透子の目がわずかに揺れた。


 けれど、今は止めなかった。


 真昼は続ける。


「まだ、消えてません」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


 透子にか。


 レイにか。


 録音の中の少年にか。


 それとも、どこかで黒い傘を持っている誰かにか。


 検査室の窓の外で、雨が降り始めた。


 細い雨だった。


 その音は、古い録音のノイズに少し似ていた。

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