第七章 真木彼方の録音
黒江透子は、録音を再生するべきではないと思っていた。
少なくとも、そう思おうとしていた。
市警の資料室は、夜になると音が減る。
昼間は刑事たちの足音、電話、プリンターの動作音、誰かの怒鳴り声、インスタントコーヒーの湯を沸かす音が絶えない。だが、日付が変わる頃には、紙が擦れる音まで大きく聞こえるようになる。
蛍光灯の一部は消され、通路の奥だけが白く浮かんでいる。
透子は、資料室の一番奥にある鍵付きキャビネットの前に立っていた。
市警のものではない。
私物でもない。
厳密に言えば、ここにあってはいけない資料だった。
境界観測局時代に持ち出したものではない。
そう言えば嘘になる。
正式な手続きで複写したものでもない。
それも嘘になる。
ただ、完全に盗んだわけでもなかった。
当時、破棄対象として扱われた複製記録の中から、透子が一つだけ保管した。
理由は、記録保全のため。
そう報告書には書ける。
だが、本当の理由は違う。
彼の声を、完全に消したくなかった。
透子は鍵を差し込んだ。
小さな金属音。
キャビネットの扉が開く。
中には、いくつかの封筒と、古い記録媒体が入っている。
紙の資料。
写真のコピー。
劣化したデータカード。
小型の録音端末。
その端末は、今の市警で使われているものより少し古い型だった。黒いプラスチックの外装には細かな傷があり、端に貼られた白いラベルは黄ばんでいる。
ラベルには、手書きで番号が書かれていた。
K-117。
その下に、薄く消えかけた鉛筆の跡がある。
真木彼方。
透子は、その文字を自分で書いた。
そして、一度消した。
鉛筆の跡だけが、まだ残っている。
何年も前に消したはずの名前が、消した跡として残っている。
それを見るたび、透子は思う。
消したのは誰だったのか。
観測局か。
記録保全部か。
それとも、自分か。
資料室の扉が軽く叩かれた。
「黒江」
霧生仁の声だった。
「まだ起きてんのか」
「主任こそ」
「仮眠室で寝たら夢見が悪かった」
「いつもでは?」
「言うようになったな」
霧生は資料室へ入ってきた。
くたびれたスーツの上着を肩に引っかけ、口にはいつもの飴を入れている。無精髭の伸びた顔は疲れているが、目だけは眠っていない。
彼は透子の手元を見た。
K-117の録音端末。
霧生の表情が少し変わる。
「出すのか」
「まだ迷っています」
「迷ってる顔じゃねえな」
「では、どんな顔ですか」
「出すって決めたのに、まだ自分に言い訳を探してる顔」
透子は端末を持ったまま、少しだけ沈黙した。
霧生は壁にもたれた。
「聞かせる相手は、御影と白瀬か」
「はい」
「未成年に聞かせていい代物か」
「よくありません」
「じゃあ、なぜ」
「必要だからです」
「それ、観測局の連中もよく言いそうだな」
透子の指が止まった。
霧生はすぐに続けた。
「責めてるわけじゃねえ。確認してる」
「分かっています」
「なら、何が違う」
透子は端末を見る。
K-117。
彼方の声が入っている。
名前を呼んでほしいと言った声。
自分がまだ、誰かにとっての先生だった頃の声。
「本人を守るためかどうか」
透子は言った。
「観測局は、症例を守るという名目で記録を囲い込みました。私は……少なくとも今回は、御影さんと白瀬さんを守るために聞かせます」
「それで傷ついたら?」
「傷つきます」
「断言か」
「はい」
透子は目を伏せなかった。
「ですが、彼方の記録を伏せたままでは、二人は同じ欠落へ近づくことになります。名前を失うことが、どのように始まり、どこで取り返しがつかなくなるのかを知らないまま」
「それを見せるのが守ることか」
「分かりません」
霧生は飴を噛んだ。
小さな音がした。
「分からないでやるなら、まだましだ」
「ましですか」
「正しいと思い込んでやるよりはな」
透子は、少しだけ息を吐いた。
正しいと思い込んでいた時期があった。
境界観測局にいた頃。
記録すれば救えると思っていた。
分類すれば扱えると思っていた。
症状に名前をつければ、人間を守れると思っていた。
けれど、真木彼方は名前を失った。
透子は、端末を封筒に入れた。
「明日の午前、検査室で再生します」
「俺も立ち会う」
「必要ありません」
「必要です」
霧生は、透子の言い方を真似た。
「高校生二人に昔の観測局の録音を聞かせるんだろ。黒江一人に背負わせるには重い」
「主任がいても、過去は変わりません」
「変わらん。だが、今の部屋に大人が一人増える」
「私も大人ですが」
「お前は当事者だ」
透子は返事をしなかった。
霧生は資料室を出る前に、扉のところで振り返った。
「黒江」
「はい」
「過去の話をする時は、全部話す必要はない。でも、嘘は混ぜるな」
その言葉に、透子は小さく頷いた。
「心得ています」
「ならいい」
扉が閉まる。
資料室はまた静かになった。
透子は、K-117の封筒を両手で持った。
軽い。
あまりにも軽い。
少年の名前と、声と、消えた未来が入っているものにしては、軽すぎた。
*
翌朝の市警は、雨の匂いがした。
窓の外では、灰色の雲が低く垂れ込めている。雨はまだ降っていない。けれど、街全体が降る前の重さを抱えていた。
白瀬真昼は、特異殺人対策室の検査室の前で立ち止まった。
胸が重い。
灯里の手帳を読んだ時から、ずっと続いている重さだった。
名前をなくした人に、名前を聞くのは暴力かもしれない。
でも、聞かなければ、その人は本当に消えてしまう。
その一文が、何度も頭の中で繰り返される。
昨夜の夢も、まだ残っていた。
ノクターン書房。
白い傘。
顔の黒く滲んだ青年。
泣いているように見えた顔。
優しい人は、いちばん残酷です。
真昼は、手帳を持ってきていた。
自分の取材ノート。
ページの端には、三つの名前が書かれている。
天沢灯里。
古河 千■。
真木彼方。
最後の名前は、書くたびに少し胸が痛む。
けれど、消さなかった。
隣に立つ御影レイは、いつもより口数が少なかった。
いつも少ないが、今日はさらに少ない。
白いシャツの襟元が少し乱れている。
珍しい。
真昼はそれに気づいたが、最初は言わなかった。
言うか迷って、結局言った。
「ネクタイ、曲がってる」
レイは自分の胸元を見る。
「本当だ」
「珍しい」
「寝不足」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
「よろしい」
「大丈夫じゃないと、よろしいなの?」
「正直だから」
「便利な判定」
真昼は、手を伸ばしてレイのネクタイを直そうとした。
レイが少しだけ身を引く。
「自分でできる」
「知ってる」
「なら」
「曲がってるの見てると気になる」
「新聞部の職務?」
「友人の職務」
言ってから、真昼は少し照れた。
レイも返事に迷ったようだった。
結局、彼は抵抗せず、少しだけ前を向いた。
真昼はネクタイを直した。
指先が布に触れる。
その瞬間、何かが見えることはなかった。
ただ、レイの体温が普通にあった。
普通に、生きている。
それが少しだけ安心だった。
「できた」
「どうも」
「こういう時は、ありがとう」
「ありがとう」
「よし」
「何で君が満足げなの」
「教育」
「ひどい」
そんな軽口を交わしてから、二人は検査室へ入った。
部屋には、すでに透子、霧生、綾瀬がいた。
机の上には、録音端末が置かれている。
黒い古い端末。
ラベルには、K-117。
真昼は、その番号を見た瞬間、喉の奥が乾くのを感じた。
K-117。
藍沢環が資料に出した関連症例。
透子が顔色を変えた番号。
そして、灯里の手帳に一度だけ出てきた名前。
真木彼方。
透子は立っていた。
座っていない。
それだけで、彼女が落ち着いていないことが分かった。
彼女は二人を見る。
「来てくれてありがとうございます」
「これ」
真昼は端末を指した。
「真木彼方さんの録音ですか」
透子は、ゆっくり頷いた。
「はい」
レイの表情が固くなる。
「聞く必要があるんですね」
「あります。ただし、聞くかどうかは、あなたたちが決めてください」
真昼は透子を見た。
いつもの透子なら、「必要です」とだけ言ったかもしれない。
けれど、今日は違う。
選ばせている。
それが逆に、この録音の重さを示していた。
「聞かなかった場合は?」
真昼が聞く。
「今後、封鎖連絡層、C-04、天沢灯里さんの記録、そして黒刃に関わる事案へ進む時、重要な背景を知らないままになります」
「聞いた場合は?」
「傷つきます」
透子は、はっきり言った。
「特に御影さんは、強い記憶混線を起こす可能性があります。白瀬さんも、名前欠落や記録残響へ反応する可能性がある」
「それでも、聞かせるべきだと思ってるんですよね」
真昼が言うと、透子は少しだけ目を伏せた。
「はい」
「なら、聞きます」
真昼は答えた。
早かった。
自分でも早すぎると思った。
だが、答えは変わらない。
真木彼方という名前を、手帳に書いた。
書いたからには、逃げたくなかった。
レイも頷く。
「僕も聞きます」
透子は、二人の返答を聞いても、すぐには再生しなかった。
「これは、境界観測局時代の記録です」
彼女は言った。
「正規の開示資料ではありません。本来、ここにあるべきものではありません」
「持ち出したんですか」
真昼が聞く。
「破棄対象の複製記録を、私が保管していました」
「それ、持ち出したって言いません?」
霧生が横から言う。
「表現の問題です」
「便利な言葉だな」
「自覚しています」
透子の声は硬かった。
真昼は、冗談に乗れなかった。
透子がこうしている時点で、この録音はただの資料ではない。
「真木彼方さんは」
透子は続けた。
「私が境界観測局にいた頃、担当していた症例です。識別番号はK-117。当時、彼は十五歳。アガルタ学院高等部一年でした」
十五歳。
真昼は、小さく息を止めた。
自分より年下。
レイより年下。
名前を失った少年。
「彼は、御影さんに近い症状を示していました」
透子はレイを見る。
「複数の同魂者記憶の流入。自己名固定の不安定化。一人称の揺らぎ。自分の感情と、他者の記憶の区別がつかなくなる発作」
レイは何も言わなかった。
ただ、手を膝の上で握った。
「彼は、何度も自分の名前を確認しました。何度も書きました。何度も、呼んでほしいと言いました」
透子の声が、ほんの少しだけ揺れた。
「私は、彼を助けようとしました」
それは、言い訳のようにも、懺悔のようにも聞こえた。
「でも、救えませんでした」
検査室が静かになる。
霧生は壁際で腕を組み、何も言わない。
綾瀬はメモを取っていなかった。
ペンを握ったまま、透子を見ている。
透子は端末の再生ボタンへ指を置いた。
「再生します。反応が強くなったら中止します。御影さん、白瀬さん。現在名を一度確認してください」
「御影レイ」
レイが言う。
「白瀬真昼」
真昼も言う。
透子は頷いた。
ボタンを押す。
最初に聞こえたのは、古いノイズだった。
ざ、ざざ。
遠い雨のような音。
あるいは、古い地下鉄の換気音のような音。
やがて、若い声が入った。
『……先生』
真昼の胸が、ぎゅっと縮んだ。
少年の声だった。
細く、遠慮がちで、今にも消えそうな声。
『先生、僕の名前を呼んでください』
透子の手が、机の端を握った。
録音の中で、若い透子の声がする。
今より少し柔らかい声。
まだ硬さより、必死さのほうが勝っている声。
『大丈夫。あなたは、真木彼方です』
真昼は、息を止めた。
真木彼方。
録音の中で、その名前は確かに聞こえた。
欠けていない。
消えていない。
若い透子が、彼の名前を呼んでいる。
『もう一回、お願いします』
彼方の声。
『真木彼方』
『もう一回』
『真木彼方』
『……僕は、真木彼方』
小さく、彼方が繰り返す。
『僕は、真木彼方。僕は、真木彼方。僕は……』
突然、ノイズが混じる。
ざざ、ざざざ。
音声が歪む。
彼方の声が遠ざかり、複数の声が重なったように聞こえる。
『僕は、私、俺、あたし、違う、違う、これは僕じゃない、でも泣いてる、誰が、誰が死んだの、先生、先生、僕の名前――』
『彼方くん、私を見て。呼吸を合わせて。あなたは真木彼方です』
『本当ですか』
『本当です』
『まだ、僕ですか』
『まだ、あなたです』
『いつまで?』
若い透子の声が、そこで一瞬止まる。
真昼は胸が痛くなった。
この問いに、誰が答えられるのだろう。
いつまで、自分でいられるのか。
レイの横顔が白くなっている。
目は開いているが、焦点が少しずれている。
真昼は、すぐに彼の手首を見た。
震えている。
でも、まだ戻っている。
録音は続く。
別の大人の声が入った。
男とも女ともつかない、平板な声。
『名前を固定すると、接続が深くなる』
真昼の背筋が冷えた。
透子の若い声がすぐに反論する。
『彼は名前を失いかけています。固定しなければ、自己境界が崩れます』
『自己境界を固定することで、記憶流入経路も固定される。K-117は貴重な症例だ』
K-117。
番号が出た瞬間、真昼の中で怒りが燃え上がった。
録音の中の彼方は、まだそこにいる。
先生と呼んでいる。
名前を呼んでほしいと言っている。
なのに、別の声は番号で呼ぶ。
『症例ではありません。彼は患者です』
若い透子の声。
『観測対象だ』
『違います』
『黒江研究員。感情的判断は記録の精度を落とす』
『名前を呼ばなければ、彼は戻れません』
『名前が戻すとは限らない。むしろ、接続点を明確化することで、より深層へ引き込む可能性がある』
『それでも、彼が望んでいます』
『被験者の主観的希望より、観測安定性を優先する』
真昼は、もう我慢できなかった。
「止めてください」
透子が再生を止める。
検査室に静寂が戻った。
真昼は机に手をついていた。
自分がいつ立ち上がったのか分からない。
「この子、助けを求めてるじゃないですか」
声が震えた。
怒りで。
怖さで。
灯里の手帳を読んだあとだからこそ、その声が刺さった。
名前を聞くのは暴力かもしれない。
でも、彼方は聞いてほしかった。
呼んでほしかった。
先生、僕の名前を呼んでください。
それは、傷を開いてほしいという願いではない。
帰る場所がほしいという願いだ。
「分かっています」
透子は答えた。
静かだった。
でも、その静けさの奥に、何年も閉じ込められていた痛みがあった。
「分かっていて、どうして」
真昼は言った。
言ってから、自分でも残酷だと思った。
でも、止められなかった。
「どうして止めなかったんですか。どうして連れて帰らなかったんですか。どうして、この子をK-117って呼ばせたんですか」
透子は答えなかった。
いや、答えられなかった。
その沈黙が、いつもの透子のものではなかった。
冷静な分析官でも、記録する人でも、元観測局職員でもない。
ただ、かつて助けられなかった人の沈黙。
霧生が口を開きかけたが、やめた。
透子は、長い時間をかけて息を吸った。
「私は、弱かった」
真昼は黙った。
「当時の私は、観測局の中で発言権を持っていませんでした。彼を担当していた。彼の名前を呼んでいた。彼が夜中に発作を起こした時、手を握って、真木彼方だと繰り返した。けれど、実験計画を止める権限はなかった」
「権限がなかったら、仕方なかったんですか」
真昼の声は、まだ鋭い。
透子は、逃げずに受けた。
「仕方なかったとは言いません」
「じゃあ」
「私は止められませんでした」
その言葉は、とても小さかった。
真昼の怒りは、まだ消えなかった。
でも、怒りだけではなくなった。
透子は、分かっている。
自分が止められなかったことを。
何年も前から。
誰よりも。
「彼方さんは」
レイが、低い声で聞いた。
真昼は振り返る。
レイの顔色はさらに悪くなっていた。
それでも、彼は録音端末を見ている。
「そのあと、どうなったんですか」
透子は、一瞬だけ目を閉じた。
「公式記録上は、観測不能状態へ移行」
「その言葉じゃなくて」
レイの声が震えた。
「死んだんですか」
透子は答えなかった。
「逃げたんですか」
沈黙。
「オメガなんですか」
部屋の温度が、一段下がった気がした。
透子は、ゆっくり目を開ける。
「分かりません」
「本当に?」
「本当に分かりません」
「黒江さんにも?」
「はい」
レイは唇を噛んだ。
それは珍しい表情だった。
恐怖とも、怒りとも違う。
自分の未来を見せられたような顔。
真木彼方は、レイに似た存在だった。
名前を失いかけ、多元記憶に飲まれ、誰かに自分の名前を呼んでほしかった少年。
レイは、彼方の声を聞いて、自分の声を聞いているのかもしれない。
透子は、録音端末へ視線を落とした。
「続きがあります。ここから先は、御影さんに強く反応が出る可能性があります」
「聞きます」
レイは即答した。
真昼が止めようとする。
「御影くん」
「聞く」
「でも」
「彼は僕に近い」
レイは言った。
「でも、僕じゃない。だから、聞く」
その言葉で、真昼は黙った。
あの夜にレイがエミーへ辿り着いた答え。
そして、真昼が灯里へ向かい始めている答え。
彼方もまた、同じではない。
でも、近い。
近いからこそ、見捨てられない。
透子は再生を再開した。
*
ノイズ。
ざざ、ざ、ざざざ。
誰かの息。
複数の足音。
機械音。
医療機器のような電子音。
彼方の声が、遠い。
『先生』
若い透子の声。
『ここにいます』
『寒いです』
『毛布を増やします』
『名前を……』
『真木彼方』
『もう一回』
『真木彼方』
『もう一回』
『真木彼方』
真昼は、胸が詰まった。
何度でも呼んでいる。
透子は、ちゃんと呼んでいる。
若い声は疲れている。
それでも、彼が求めるたびに呼んでいる。
別の声が入る。
『Null-03の準備は』
レイの身体が、びくりと震えた。
透子がすぐに手を伸ばしかける。
レイは片手を上げ、止める。
聞く。
その意思表示だった。
『記憶流入のピークを待つ。外部接続が最大化したタイミングで遮断する』
『危険です。接続の切断は、自己名にも影響します』
『外部記憶を切らなければ、K-117は崩壊する』
『名前を残したまま切断できる保証はありません』
『保証のための実験だ』
ノイズ。
激しい呼吸。
彼方の声が重なる。
『先生、僕、名前、書けない』
『大丈夫。私が呼びます』
『書けないんです。真木、までは、書ける。彼方って、彼方って、遠いですね。変な名前ですね。遠くへ行きそうで』
『行かせません』
『先生』
『はい』
『僕の名前を呼んでください』
『真木彼方』
『もう一回』
『真木彼方』
『もう一回』
『真木彼方』
そこで、音が割れた。
真昼の耳に、雨音のようなノイズが流れ込む。
レイが椅子から立ち上がりかけた。
目の焦点が合っていない。
「御影くん!」
真昼が呼ぶ。
レイは答えない。
録音が続く。
『Null-03、接触』
誰かの声。
その瞬間、レイの視界が変わったのが、真昼にも分かった。
彼は、ここではない場所を見ている。
*
白い病室。
いや、病室ではない。
検査室。
壁が白すぎる。
窓がない。
蛍光灯が明るい。
ベッドの横に金属の台。
手首に識別バンド。
名前ではない。
K-117。
自分の手だ。
いや、違う。
細い腕。
痩せた少年の腕。
指先が震えている。
紙に名前を書こうとしている。
真木――
書けない。
遠い。
名前が遠い。
誰かがそばにいる。
黒江透子。
今より若い。
目の下に隈がある。
白衣を着ている。
彼女は手を握っている。
先生。
そう呼ぶ。
先生は泣きそうな顔をしている。
でも、泣かない。
名前を呼んでくれる。
真木彼方。
真木彼方。
真木彼方。
その声に、少しだけ戻る。
でも、別の声がする。
知らない誰かが死んでいる。
知らない誰かが泣いている。
知らない誰かが殺している。
赤い光。
地下の水音。
雨の路地。
白い傘。
黒い傘。
まだ知らない記憶まで、全部が流れ込んでくる。
痛い。
名前が裂ける。
自分の中に、たくさんの人がいる。
助けて。
切って。
でも、切らないで。
切ったら、僕もなくなる。
黒い刃。
光を反射しない。
刃なのに、医療器具のように置かれている。
Null-03。
誰かがそう呼ぶ。
ヌル。
名前を切るもの。
記憶を切るもの。
自分と自分ではないものを分けるもの。
いや。
違う。
それは、分けるんじゃない。
消す。
先生。
僕の名前を呼んでください。
声が出ない。
黒い刃が近づく。
誰かが泣いている。
透子か。
彼方か。
別の誰かか。
分からない。
黒い刃が触れる。
名前が、白く飛ぶ。
真木――
その先が、遠い。
彼方。
彼方。
彼方。
遠すぎる。
*
「御影レイ!」
真昼の声が、レイを引き戻した。
彼は椅子から半分立ち上がった状態で止まっていた。
机に手をつき、肩で息をしている。
額には汗。
目の奥が、複数の光を反射したように揺れている。
「御影くん、ここどこ」
真昼が問う。
「市警」
「部屋は」
「検査室」
「私は」
「白瀬真昼」
「あなたは」
「御影レイ」
「真木彼方さんは、あなた?」
レイは答えに詰まった。
真昼の心臓が跳ねる。
透子が立ち上がる。
「御影さん」
レイは、目を閉じた。
長い沈黙。
それから、かすれた声で言う。
「違う」
真昼は息を吐いた。
「でも、近い」
「うん」
「近すぎる?」
「うん」
レイは椅子へ座り直した。
手が震えている。
真昼は、彼の横へ椅子を寄せた。
触れていいか迷う。
レイが、自分から小さく言った。
「手」
真昼はすぐに理解した。
彼の右手を握る。
冷たい。
検査室の空調のせいではない。
白い病室の冷たさを、まだ持ち帰っている。
「見えたんですね」
透子が言った。
声は、普段より少し低い。
レイは頷いた。
「白い部屋。識別バンド。K-117。Null-03。黒い刃。あなたがいた」
透子は、目を伏せた。
「はい」
「彼方さんは、名前を呼んでほしがっていた」
「はい」
「あなたは呼んでいた」
「はい」
「でも、切られた」
透子の顔が、わずかに歪んだ。
「はい」
「死んだんですか」
レイがもう一度聞く。
透子は、答えられない。
レイは続ける。
「逃げたんですか」
沈黙。
「オメガなんですか」
透子は、ようやく言った。
「分かりません」
真昼は、透子の顔を見た。
嘘ではない。
本当に分からないのだ。
それが、一番怖かった。
彼方は死んだのかもしれない。
逃げたのかもしれない。
オメガになったのかもしれない。
あるいは、オメガを生んだ欠落なのかもしれない。
どれも確定しない。
名前が残っていても、現在が見えない。
「観測不能状態へ移行」
真昼は、その言葉を呟いた。
自分で言って、嫌になる。
人の消失を包むには、あまりにも冷たい言葉。
透子は言った。
「その言葉で、局は記録を閉じました」
「黒江さんは?」
真昼が聞く。
「閉じられませんでした」
短い答え。
真昼は、それ以上責める言葉を持てなかった。
怒りは残っている。
観測局に。
名前を番号へ押し込めた人たちに。
貴重な症例だと言った声に。
実験の保証のために、少年の名前を危険へ晒した人たちに。
でも、透子はそこにいた。
名前を呼んでいた。
止められなかった。
その事実は、真昼の怒りを単純にはしてくれなかった。
「続きは」
霧生が言った。
「まだあるのか」
透子は端末を見た。
「録音としては、あと二十秒ほど」
「聞かせるのか」
霧生の声には、止める響きがあった。
透子はレイを見る。
レイは、真昼の手を握ったまま言った。
「聞きます」
「御影くん」
「ここまで聞いて、最後だけ聞かないのは嫌だ」
「危ない」
「知ってる」
「混線したら」
「名前を呼んで」
真昼は、言葉を飲み込んだ。
それは、自分がレイに頼んだことでもあった。
私が変なことを言い始めたら、名前を呼んで。
今度はレイが頼んでいる。
真昼は頷いた。
「分かった」
透子は、端末を操作した。
「最後の部分はノイズが強く、ほとんど解析できていません。音量を少し上げます」
再生。
ざざ。
ノイズ。
遠くの警報音のようなもの。
誰かの叫び。
聞き取れない。
白い機械音。
若い透子の声。
『彼方くん!』
別の声。
『接続が反転している』
『記録が落ちるぞ』
『K-117の名前欄を固定しろ』
『Null-03を離せ!』
ノイズ。
激しい呼吸。
そして、非常に小さな声。
最初は、誰も聞き取れなかった。
透子が巻き戻す。
もう一度。
ノイズの奥。
少年の声のようで、違う声にも聞こえる。
『……僕は、あなたじゃない』
真昼は、背筋が凍るのを感じた。
その言葉は、古河 千■の言葉と重なる。
俺は、お前じゃない。
オメガの拒絶とも重なる。
私の記憶を、お前のものにするな。
そして、レイが何度も辿り着いてきた答えとも重なる。
彼女は、僕だった。
でも、僕じゃなかった。
僕は、あなたじゃない。
録音は、そこで切れた。
何の余韻もなく。
ぷつり、と。
検査室に戻った静寂は、録音の前よりも重かった。
真昼は、まだレイの手を握っていた。
レイは目を閉じている。
透子は、録音端末を見つめたまま動かない。
霧生は壁際で低く息を吐いた。
綾瀬は泣きそうな顔をしていたが、メモを取る手を止めなかった。
「今の」
真昼は、ようやく声を出した。
「彼方さんですよね」
誰も答えなかった。
透子が、ゆっくりと言う。
「音声解析上、断定できません」
「黒江さんの耳では」
透子は、長く沈黙した。
それから、答えた。
「彼方くんに聞こえます」
真昼は、胸を押さえた。
「でも」
「はい」
透子の声は静かだった。
「別の誰かにも聞こえます」
レイが目を開けた。
「オメガ」
その名を口にした瞬間、部屋の空気がわずかに揺れた。
誰も否定しなかった。
しかし、誰も肯定しなかった。
分からない。
また、それだけが残る。
真木彼方は死んだのか。
逃げたのか。
オメガなのか。
オメガを生んだ欠落なのか。
分からない。
けれど、その最後の声だけは残った。
僕は、あなたじゃない。
真昼は、ノートを開いた。
手が震えている。
それでも書いた。
真木彼方。
その下に、録音の最後の言葉。
……僕は、あなたじゃない。
書いた瞬間、胸が痛んだ。
灯里の痛みとは違う。
古河 千■の欠落とも違う。
レイの混線とも違う。
これは、名前を呼んでほしかった少年の、最後に残った拒絶だった。
真昼は、ペンを握りしめた。
「黒江さん」
「はい」
「この録音、聞かせてくれてありがとうございます」
透子が、少しだけ驚いたように真昼を見る。
真昼は続けた。
「怒ってます。観測局にも、当時の人たちにも。黒江さんにも少し。でも、聞けてよかったです」
透子は、すぐには答えなかった。
やがて、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
レイが、真昼の手を少しだけ握り返した。
冷たさは、まだ残っている。
でも、さっきより少しだけ戻っている。
「御影レイ」
真昼は呼んだ。
「白瀬真昼」
レイが返す。
「真木彼方」
真昼は、さらに呼んだ。
その名を口にすると、透子の目がわずかに揺れた。
けれど、今は止めなかった。
真昼は続ける。
「まだ、消えてません」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
透子にか。
レイにか。
録音の中の少年にか。
それとも、どこかで黒い傘を持っている誰かにか。
検査室の窓の外で、雨が降り始めた。
細い雨だった。
その音は、古い録音のノイズに少し似ていた。




