第六章 灯里の手帳
旧新聞部室の床は、雨の日に少しだけ沈む。
白瀬真昼は、そのことに以前から気づいていた。
新校舎の床とは違う。旧校舎の木の床は、歩く場所によって軋み方が変わる。窓際は乾いた音がする。入口近くは鈍い。壁際の本棚の前は、古い紙と埃の重みを抱え込んだような低い音がする。
そして、部屋の中央から少し外れた場所。
真昼がいつもノートパソコンを置いている机の下だけ、雨の日になると、ほんの少し音が違う。
こん、と軽い。
その下に空洞があるような音。
真昼は何度か気になっていた。
ただ、そのたびに別の事件や記事や取材が入り、床板のことは後回しになった。旧新聞部室には、後回しにしたまま残っているものが多すぎる。
段ボール箱。
未整理の切り抜き。
壊れたプリンター。
誰が貼ったのか分からない古い路線図。
真昼が書きかけて途中で放置した記事案。
過去の新聞部員が残した赤ペンのメモ。
天沢灯里の整理カード。
C-04。
古河 千■。
封鎖連絡層。
後回しにしたものは、消えない。
ただ、待っている。
誰かがもう一度、そこを開く日まで。
「本当に開けるの?」
御影レイが言った。
彼は部屋の入口側に立ち、腕を組んで真昼を見ている。表情はいつも通り薄いが、声には明確に警戒があった。
雨が降っていた。
朝から細く降り続けている雨だ。
旧校舎の窓は白く曇り、外の木々は輪郭を失っている。旧新聞部室の中には湿った紙の匂いが濃く満ちていた。
真昼は机を壁際へずらし、床板を見下ろしていた。
手には、小さなマイナスドライバー。
もちろん、本来は床板を外すための道具ではない。
レイはそこを見て、眉を寄せた。
「道具が雑」
「旧新聞部室に工具箱なんてないんだもん」
「倉科さんを呼ぶべき」
「倉科さんを床板剥がしに呼んだら怒られるよ」
「霧生さんにも怒られる」
「黒江さんにも怒られる」
「分かっててやるの」
「黒江さんには連絡した」
真昼はスマホを掲げた。
「『床下に空洞らしきものを確認。開けてもいいですか』って」
「返事は?」
「『開けないでください。私が行きます』」
「開けるな」
「そのあと『ただし、床下から水音や異臭がある場合は離れてください』って」
「だから開けるな」
「でも、何かありそう」
「その感覚で何回危ない目に遭った?」
「数えないことにしてる」
「数えろ」
レイの返しが早い。
真昼は少しだけ笑った。
笑えるようになったのは、たぶんレイがそこにいるからだ。
一人なら、もっと焦っている。
灯里の記録が消える前に、C-04の名前がさらに欠ける前に、封鎖連絡層の手がかりが失われる前に、とにかく何かを開けなければと急いでいたかもしれない。
けれど、今は隣にレイがいる。
自分の名前を呼んでくれる人。
そして、自分とは違う痛みを持ちながら、同じ方向を見ようとしている人。
真昼は、床板に指を当てた。
湿っている。
部屋のほかの床板より、少しだけ冷たい。
「ここ」
彼女は言った。
「この下、たぶん何かある」
「灯里の残響?」
「分からない。でも、近い感じがする」
「触って見える?」
「まだ触ってない」
「触るな」
「床に?」
「床にも」
「そこまで?」
「君の場合、床からでも何か見る可能性がある」
「否定できない」
真昼はドライバーをいったん置いた。
手袋をつける。
透子に言われている。
資料に触る時は、まず手袋。
感情が先に走る前に、手順を挟むこと。
それだけで、少し戻れる。
自分が白瀬真昼である場所へ。
彼女は床板の縁に手を当てた。
冷たい。
雨の冷たさとは違う。
地下の冷たさに近い。
一瞬だけ、白い傘の縁から落ちる雨粒が見えた。
銀色のヘアピン。
古い本の匂い。
ノクターン書房のカウンター。
名前を言わない青年。
真昼は息を吸い、手を離した。
「大丈夫?」
レイが聞く。
「少し見えた。でも、引っ張られてない」
「本当に?」
「本当に」
「なら、黒江さんを待つ」
「待つの苦手」
「知ってる」
「でも、待つ」
真昼はドライバーを机の上に置いた。
するとレイが少しだけ目を丸くした。
「何その顔」
「意外だった」
「私だって成長する」
「すごい」
「すごいって言われると、逆に馬鹿にされてる気がする」
「半分くらい」
「半分は?」
「本当にすごい」
真昼は、どう返せばいいか少し迷った。
結局、ふいっと顔を逸らした。
「……そういうの、急に言わない」
「何が」
「褒めるの」
「難しい」
「人間は難しいの」
「それ、便利だね」
「便利だから使う」
そんなやり取りをしているうちに、廊下の向こうから足音が聞こえた。
黒江透子の足音は、迷わない。
古い廊下を歩いていても、床板に無駄な音を立てない。後ろには綾瀬直央、さらに少し遅れて霧生仁が続いていた。
霧生は部屋に入るなり、真昼の手元を見て言った。
「ドライバー持ってねえだろうな」
「持ってません」
「机の上にあるな」
「置きました」
「持ってたんじゃねえか」
「過去形です」
「屁理屈を捜査に使うな」
真昼は少しだけ肩をすくめる。
透子は床を確認した。
手袋をつけ、床板の隙間へライトを当てる。
「確かに、下に空間があります」
「開けるんですか」
綾瀬が聞く。
「開けます。ただし、記録を取りながら。白瀬さんは一歩下がってください」
「私が見つけたのに」
「だからこそです」
「納得しにくい」
「納得しなくても従ってください」
「はい」
真昼は素直に下がった。
霧生がまた意外そうな顔をする。
「何ですか」
「いや、成長したなと思って」
「みんな今日、私を何だと思ってるんですか」
「危険物」
「ひどい」
「要保護危険物」
「余計ひどい」
透子は、そんなやり取りを聞き流しながら、工具を取り出した。
さすがに市警はマイナスドライバーでは床を開けない。
薄い金属のヘラ、ライト、証拠採取用の袋、小型カメラ。
手順がある。
記録がある。
勝手に開けるのとは違う。
真昼は少しだけ悔しく、少しだけ安心した。
床板が外れる。
木が軋む音。
湿った埃の匂い。
下には、浅い空間があった。
戦時中の避難施設や配線用の空間というほど大きくはない。床下の隠し場所。旧新聞部室に何かを隠すなら、ちょうどよい深さ。
ライトが差し込む。
そこに、小さな金属箱があった。
錆びている。
四角い缶。
菓子箱か、古いフィルムケースのようなもの。
上には、油紙が巻かれていた。
しかし、油紙の端は破れ、水を吸って黒く変色している。
霧生が低く言った。
「水が入ってるな」
「雨水?」
綾瀬が聞く。
「たぶん。ただ、旧校舎の構造上、この位置へ直接雨水が入る経路は限られます」
透子は慎重に金属箱を取り出した。
机の上に防水シートを敷き、その上へ置く。
真昼は、数歩離れた場所から見ていた。
胸が痛い。
栞の時とは違う。
もっと鈍い。
長い時間、水に浸かっていたものの痛み。
文字が消えるのを、自分では止められないまま待っていたような痛み。
透子が箱を開ける。
中には、濡れた紙束があった。
小さな手帳。
表紙は紺色だったのかもしれない。
今は黒ずみ、角が崩れている。
ゴムバンドは伸びきり、金具は錆びている。
表紙の右下に、かすれた白い文字が見えた。
A.A.
真昼は、息を止めた。
「灯里さんの……」
声が掠れる。
透子は頷いた。
「可能性が高いです。ただし、まだ断定しません」
「断定しない」
真昼は小さく繰り返した。
灯里なら、そう書いただろう。
断定しない。
でも、残す。
「状態が悪いですね」
綾瀬が言った。
透子は手帳を開かず、まず写真を撮った。
外側。
箱の中。
油紙。
表紙。
水濡れの範囲。
手順はゆっくりだった。
真昼は焦りそうになったが、黙って見ていた。
濡れた手帳は、急に開けば壊れる。
紙は濡れると角から傷む。
そんな言葉が、胸の奥で浮かんだ。
自分の知識ではない。
灯里の感覚だ。
真昼は、無意識に自分の前髪へ触れそうになり、手を止めた。
銀色のヘアピンは、ここにはない。
でも、灯里はここにいる。
透子は、薄いピンセットで最初のページを少しだけ開いた。
紙がくっついている。
慎重に。
少しずつ。
ページが開く。
文字は、ところどころ滲んでいた。
それでも、読める部分がある。
天沢灯里。
図書委員会。
旧新聞部資料整理。
名前欠損記事。
真昼は唇を噛んだ。
胸の奥が熱くなる。
灯里の字だ。
整理カードと同じ字。
ただ、手帳の字は少し崩れている。
整理カードよりも感情が出ていた。
迷いながら書かれた文字。
急いで残された文字。
誰にも見せるつもりがなかったかもしれない文字。
「読める範囲だけ、こちらで読み上げます」
透子が言った。
「白瀬さん、反応が強くなったらすぐに言ってください」
「はい」
「御影さんも」
「はい」
透子は、一ページ目の文字を追った。
「四月十二日。旧新聞部資料室の整理。図書委員会から二名派遣。新聞部はもうほとんど活動していない。部屋は埃っぽい。でも、資料は思ったより残っている。古い紙は、人が思っているより強い。捨てられなければ、待てる」
真昼は目を伏せた。
古い紙は、待てる。
その言葉が、灯里らしかった。
透子は次の読める行へ進む。
「四月二十七日。名前が欠けている記事を見つけた。最初は劣化だと思った。でも、本文は読める。日付も読める。名前だけが欠けている。気のせいで済ませたい。済ませたいけれど、もう三件目」
綾瀬が小さく息を呑んだ。
霧生は黙って聞いている。
レイは机の端を見ていた。
真昼は、何も言えなかった。
灯里は、最初から特別な確信を持っていたわけではない。
気のせいで済ませたかった。
それでも、済ませられなかった。
真昼は、自分と似ていると思った。
同時に、自分よりずっと慎重だとも思った。
真昼なら、三件目の前に記事案を作っているかもしれない。
灯里は、まだ手帳の中で迷っている。
透子はページを進めた。
濡れて読めない箇所が続く。
黒く滲んだ行。
紙が破れている箇所。
鉛筆の文字がほとんど消えたページ。
その中に、いくつかの言葉が残っていた。
C-04。
旧地下鉄。
外部委託作業員。
古河 千■。
名前の最後だけが、複数資料で欠けている。
本人メモ帳の噂。
観測局分類?
天沢灯里は、C-04に強く反応していた。
真昼はそれを理解した。
灯里は、ただ資料としてC-04を拾ったのではない。
彼女も胸が痛かったのだ。
名前が欠けている人を見て、放っておけなかった。
もしかすると、灯里もC-04の資料に触れた時、何かの残響を受け取ったのかもしれない。
記録者系アニマ。
欠けた名前に反応する者。
透子が次のページを開いた。
そこには、ノクターン書房の名前があった。
「五月十六日。ノクターン書房へ。旧地下鉄事故記録の切抜帳あり。店番の青年が資料を出してくれた。名乗らない。名札もない。領収書にも署名なし。店の人に聞いても、彼の名前を誰も自然に言わない。おかしい」
真昼の胸が大きく痛んだ。
店番の青年。
あの静かな人。
灯里は、気づいていた。
「続けます」
透子の声が、少し硬くなる。
「五月十七日。彼に名前を聞こうと思った。でも、聞けなかった。名前を聞かれることを怖がっているように見えた。名前がない人ではない。名前を失いかけている人。もしくは、名前を隠している人。どちらかは分からない。断定しない」
真昼は、目を閉じた。
断定しない。
また、その言葉。
灯里は、何度も自分に言い聞かせている。
相手を分かった気にならないために。
名前を聞きたい自分を抑えるために。
「五月十九日」
透子は続ける。
「名前をなくした人に、名前を聞くのは暴力かもしれない。でも、聞かなければ、その人は本当に消えてしまう」
部屋の中が静まり返った。
真昼は、その一文を聞いた瞬間、胸の奥をまっすぐ刺されたように感じた。
灯里の言葉。
灯里の迷い。
それは、真昼がずっと目を逸らしていた問いだった。
名前を聞くことは正しい。
そう思っていた。
名前を残すことは救いだ。
そう信じてきた。
でも、灯里は違った。
名前を聞くことが暴力かもしれないと、ちゃんと考えていた。
それでも、聞かなければ消えてしまうとも知っていた。
真昼は、手を握った。
指先が冷たい。
何も言えない。
言ったら、自分の取材や記事や問いかけの全部が、急に乱暴なものに見えてしまいそうだった。
霧生が小さく息を吐いた。
「……高校生の手帳に書く文章じゃねえな」
綾瀬が静かに言った。
「でも、すごく分かります」
「綾瀬もか」
「聞き込みって、時々そうです。聞かなきゃいけない。でも、聞くことで相手が泣くこともある。事件のためですって言っても、その人の傷を開いてることには変わらなくて」
霧生は、しばらく黙った。
「まあな」
短い返事だった。
透子は、次のページへ進もうとした。
だが、真昼が手を上げた。
「少し、待ってください」
自分でも驚くほど、声が小さかった。
透子はすぐに手を止める。
「中断しますか」
「いえ。ただ、今の一文、もう一回見てもいいですか」
「触れない範囲で」
「はい」
真昼は机へ近づいた。
手帳のページを覗き込む。
濡れて波打った紙。
鉛筆の文字。
ところどころ滲みながら、それでも残った一文。
名前をなくした人に、名前を聞くのは暴力かもしれない。
でも、聞かなければ、その人は本当に消えてしまう。
真昼は、その文字を目でなぞった。
胸が痛い。
灯里の痛みか。
自分の痛みか。
分からない。
ただ、確かに痛い。
「私」
真昼は言った。
「今まで、相手の名前を聞くことを、正しいことだと思ってました」
誰も口を挟まなかった。
「事件になった人。忘れられそうな人。番号にされそうな人。ニュースの見出しにされそうな人。そういう人には名前が必要だって。だから聞く。だから書く。そう思ってました」
彼女は、机の上の手帳を見たまま続ける。
「でも、聞かれたくない人もいるんですよね」
ノクターン書房の青年。
名前を聞かれた瞬間、表情を失った人。
必要ですか。
そう聞き返した人。
真昼は、あの時も踏み込もうとした。
あなたの名前は、と。
灯里の残響がなければ、もっと強く聞いていたかもしれない。
記録のために。
名前を残すために。
でも、それは本当に相手のためだったのか。
それとも、自分が「名前を残したい」だけだったのか。
真昼の胸が苦しくなる。
「私、相手の傷に踏み込みすぎてるのかもしれない」
口に出した瞬間、怖くなった。
自分の取材の土台が揺れる。
《アガルタ観測録》に書いた記事。
エミーのこと。
倉科悠斗のこと。
古河 千■を追うこと。
天沢灯里を記録しようとしていること。
全部、誰かの傷に近づく行為だ。
透子が静かに言った。
「踏み込まずに記録することはできません」
真昼は顔を上げた。
透子は、手帳から目を離さずに続ける。
「問題は、踏み込むこと自体ではありません。踏み込む時、自分が何をしているかを自覚しているかです」
「自覚」
「白瀬さんはこれまで、名前を残すことを正しいこととして走ってきました。正しさは力になります。ただし、正しさを疑わなくなると、刃になります」
その言葉は、静かに重かった。
真昼はすぐには答えられなかった。
レイが、ぽつりと言った。
「黒刃じゃなくても、切れる」
全員が彼を見る。
レイは少しだけ目を伏せた。
「言葉でも、記録でも」
真昼は、その言葉を胸に受けた。
レイがそう言うと、重かった。
彼は、エミーの人生を「僕」と呼んでしまった痛みを知っている。
他人の名前を自分のものにしてしまう怖さを知っている。
そのレイが、言葉でも切れると言う。
真昼は、頷いた。
「うん」
透子は、真昼が落ち着くのを待ってから、手帳の続きを読む。
次に残っていたページには、さらに断片的な文字が並んでいた。
六月三日。
C-04。
旧地下鉄事故記事の記載が、また薄くなっている。
古河 千■。
最後の一文字がどうしても読めない。
ノクターン書房の切抜帳でも同じ。
市立図書館分室の縮刷版でも同じ。
同じ欠け方。
偶然ではない。
六月五日。
店番の青年。
C-04の記事を見せた時、少しだけ顔色が変わった。
彼は知っている。
でも、言わない。
名前を言わない人は、他人の名前にも慎重になるのかもしれない。
六月九日。
真木彼方。
この名前を、どこかで見た。
学院名簿?
保健室記録?
旧新聞部の箱?
思い出せない。
書いておく。
消えないように。
真昼の呼吸が止まった。
真木彼方。
その名前が、手帳にある。
たった一度だけ。
だが、確かにある。
透子の顔色が変わった。
霧生がそれを見て、目を細める。
レイも、静かに手を握った。
「黒江さん」
真昼は、そっと呼んだ。
「灯里さん、彼方さんの名前を知ってたんですか」
「可能性はあります」
透子の声は硬かった。
「天沢灯里さんが旧新聞部資料を整理していたなら、学院関係の古い記録に触れた可能性があります。真木彼方は、学院の生徒でしたから」
「じゃあ、灯里さんと彼方さんは会っていた?」
「断定できません」
「でも、同じ学校にいて、同じ記録に触れていたかもしれない」
「はい」
真昼は手帳を見た。
灯里の字で書かれた真木彼方。
その名前は、手帳の中でまだ消えていない。
ただし、周囲の紙は黒く滲んでいる。
まるで、その名前だけを残すために、ほかの文字が犠牲になったように見えた。
透子は、しばらくそのページを見つめていた。
真昼は、透子に聞きたかった。
真木彼方とは誰ですか。
あなたにとって、何ですか。
なぜ、その名前を聞くと、そんな顔をするんですか。
でも、聞けなかった。
灯里の手帳を読んだあとでは、簡単に聞けなかった。
名前をなくした人に、名前を聞くのは暴力かもしれない。
その一文が、真昼の喉に手をかけている。
「……今は、聞きません」
真昼は言った。
透子がこちらを見る。
「真木彼方さんのこと」
真昼は続けた。
「聞きたいです。でも、今は聞きません」
透子は、少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
その返事が、胸に痛かった。
聞かないことが、礼を言われることなのか。
真昼には、まだ分からなかった。
手帳の残りは、さらに損傷がひどかった。
読める部分は少ない。
けれど、いくつかの断片は残っていた。
封鎖連絡層?
旧校舎地下から行ける?
白い傘を忘れない。
名前を聞けないまま、また会いに行く。
彼は、私を天沢さんと呼ぶ。
私は、彼を呼べない。
それが苦しい。
けれど、呼べないからこそ、まだ会えるのかもしれない。
この文章を読んだ時、真昼は何も言えなかった。
灯里は、青年を責めていない。
むしろ、自分が呼ばないことで彼のそばにいられるなら、それでいいとさえ思っている。
慎重すぎる。
優しすぎる。
そして、たぶん危うすぎる。
真昼なら、耐えられない。
でも、灯里は耐えていた。
相手の沈黙を尊重しながら、相手が消えないように記録しようとしていた。
その矛盾を、一人で抱えていた。
真昼は、やっと少し分かった。
灯里は、弱かったのではない。
踏み込まなかったのは、怖かったからだけではない。
相手を傷つける怖さを、知っていたからだ。
真昼は、自分のノートを開いた。
そこに、灯里の一文を書き写す。
名前をなくした人に、名前を聞くのは暴力かもしれない。
でも、聞かなければ、その人は本当に消えてしまう。
書きながら、手が震えた。
文字が、いつもの真昼の字より少しだけ小さくなった。
*
手帳は、市警で保全されることになった。
その場で無理に開くのは危険だと、透子が判断した。
乾燥処理、スキャン、文字復元。
時間がかかる。
真昼は待つことになった。
また、待つ。
苦手なことばかり増える。
霧生は、旧新聞部室を出る前に真昼へ言った。
「待つのも仕事だ」
「記者の?」
「生き残る奴の」
真昼は返事に詰まった。
霧生はいつものように軽口で誤魔化さず、真面目な目をしていた。
「灯里って子は、たぶん待ちすぎた。お前は待たなすぎる。どっちが正しいかは知らん。でも、死んだら記事は書けん」
「……はい」
「そこで素直だと逆に怖いな」
「どう返せば満足なんですか」
「勝手に現場行くな」
「そこに戻る」
「そこから動くな」
霧生はそう言って、透子たちと部屋を出ていった。
真昼とレイだけが、少し残された。
床板は仮に戻され、そこには黄色いテープが貼られている。
旧新聞部室の真ん中に、ぽっかりと違う場所ができたように見えた。
真昼は、そのテープを見つめていた。
「灯里さん」
ぽつりと名前を呼ぶ。
レイが横に立つ。
「消えないね」
「うん」
「手帳、残ってた」
「うん」
「でも、濡れてた」
「うん」
「もっと早く見つけてたら、読めたかもしれない」
「それは分からない」
「分からないけど、思っちゃう」
「うん」
レイは否定しなかった。
それが、ありがたかった。
真昼は、窓の外を見た。
雨はまだ降っている。
白い傘の幻は、今は見えない。
でも、胸の奥には残っている。
「私、怖くなった」
「黒い傘が?」
「それも。でも、今は自分が」
レイが、少しだけこちらを見る。
「自分?」
「取材してる時の自分。相手の話を聞きたいって思う自分。名前を書きたいって思う自分。今までは、それがいいことだと思ってた。でも、それって相手の傷を開けてるのかもしれない」
「開けてると思う」
レイはあっさり言った。
真昼は目を丸くする。
「そこ、慰めない?」
「嘘は混ぜるなって霧生さんが」
「便利に使うな」
「でも、開けなければ膿んだままの傷もある」
レイは続けた。
「僕は、誰にも聞かれないほうが楽だと思ってた。今でも、そう思う時がある。でも、誰も聞かなければ、エミーの名前は僕の中で僕のままだった」
真昼は黙った。
「君が聞いたから、僕はエミーをエミーとして呼べた」
「でも、傷つけたかもしれない」
「つけた」
「断言」
「たぶん、つけた。でも、助かったところもある」
レイの声は静かだった。
真昼は、それを聞きながら、灯里の一文を思い出した。
暴力かもしれない。
でも、聞かなければ消えてしまう。
正解ではない。
答えでもない。
ただ、矛盾だ。
記録者は、その矛盾の上に立つしかない。
「御影くん」
「何」
「私が踏み込みすぎたら止めて」
「止めても聞く?」
「聞かないかもしれない」
「知ってる」
「でも、止めて」
「分かった」
「御影くんが抱え込みすぎたら、私も止める」
「止めても聞かないかもしれない」
「知ってる」
「でも、止める?」
「止める」
レイは、少しだけ頷いた。
「分かった」
真昼は、床の黄色いテープをもう一度見た。
ここに灯里の手帳があった。
何年も。
濡れて、滲んで、読めなくなりながら。
それでも、いくつかの言葉は残った。
天沢灯里。
C-04。
ノクターン書房の青年。
真木彼方。
名前をなくした人に、名前を聞くのは暴力かもしれない。
でも、聞かなければ、その人は本当に消えてしまう。
真昼は、その一文を胸の奥へしまった。
答えとしてではなく。
問いとして。
*
その夜、真昼は夢を見た。
雨の日のノクターン書房。
窓際の席に、天沢灯里が座っている。
白い折りたたみ傘は、椅子の足元に丁寧に畳まれていた。淡い水色のハンカチで水滴を拭いた跡がある。右側の前髪は、銀色のヘアピンで留められている。
灯里は、古い資料を開いていた。
旧地下鉄事故記録。
学院名簿。
名前が欠けた記事。
カウンターの向こうには、店番の青年がいる。
白いシャツ。
黒いカーディガン。
静かな手つき。
彼は、灯里の前に資料を置く。
天沢さん。
そう呼ぶ。
灯里は顔を上げる。
少し嬉しそうで、少し苦しそうな顔。
真昼は夢の中で、それを見ていた。
自分は灯里ではない。
それでも、灯里の胸の痛みが分かる。
呼ばれることは嬉しい。
でも、呼び返せないことが苦しい。
灯里は青年を見つめる。
「お名前を聞いてもいいですか」
青年は微笑む。
「必要ですか」
その瞬間、店内の雨音が止まる。
灯里の指が、資料の端を掴む。
怖がらせた。
そう思う。
真昼にも、その感情が流れてくる。
灯里は、ゆっくり息を吸う。
「名前が怖いなら、今日は呼ばない」
青年の顔から、表情が消える。
そして、真昼は気づく。
青年は泣いている。
いや、涙は見えない。
目元も、頬も、表情も、黒く滲んでいる。
顔が見えない。
けれど、泣いていることだけは分かる。
黒く滲んだ顔の奥から、声がする。
呼ばないでください。
助けてください。
どちらにも聞こえる。
灯里は手を伸ばしかける。
触れない。
触れてはいけないと思う。
でも、放っておけない。
青年の背後に、黒い傘が開く。
店の中なのに。
雨は降っていないのに。
傘の縁から水が落ちる。
ぽたり。
灯里の白い傘も、足元で濡れていく。
真昼は叫ぼうとした。
灯里さん。
逃げて。
でも、声が出ない。
夢の中で、灯里は振り返らない。
ただ、手帳を開く。
そこに、自分の名前を書く。
天沢灯里。
私は、この名前を残す。
黒い雨粒が、その文字の上に落ちる。
それでも、鉛筆の線はすぐには消えない。
青年の顔は、黒く滲んだまま。
泣いているように見える。
笑っているようにも見える。
そして、雨音の奥で、誰かが囁いた。
優しい人は、いちばん残酷です。
*
真昼は、朝方に目を覚ました。
自分の部屋だった。
机の上にはノートパソコン、取材メモ、充電中のボイスレコーダー、母が置いていったマグカップ。カーテンの隙間から、薄い朝の光が入っている。
雨は上がっていた。
けれど、胸の奥にはまだ雨音が残っている。
真昼はベッドの上で身体を起こした。
頬に触れる。
濡れていた。
また泣いていた。
自分の涙か、灯里の涙か、分からない。
でも、今度はその区別を急がなかった。
机の上のノートを開く。
寝起きの手で、少し震えた字を書く。
灯里さんは、私じゃない。
でも、私の中に問いを残した。
名前を聞くことは、暴力かもしれない。
それでも、消える名前を前にして、私は黙っていられるのか。
真昼は、そこでペンを止めた。
答えはまだ出ない。
けれど、問いは残った。
それでいい。
今は、問いを消さないことから始める。
彼女は、ページの端にもう一度名前を書いた。
天沢灯里。
その下に、まだ欠けた名前を書く。
古河 千■。
そして、少し迷ってから、さらに小さく書いた。
真木彼方。
書いた瞬間、胸が痛んだ。
でも、消さなかった。
真昼はペンを置き、朝の窓を見た。
雨上がりの街が、薄い光の中で濡れている。
どこかの坂道で、白い傘の少女がまだ歩いているような気がした。




