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第五章 境界観測局・記録保全部

 境界観測局からの返答は、拒否文だけでは終わらなかった。


 翌日の朝、アガルタ市警察局へ一通の正式通知が届いた。


 差出人は、境界観測局アガルタ支局。


 部署名は、記録保全部。


 内容は簡潔だった。


 C-04関連記録の外部開示は認められない。


 ただし、現在進行中の名前欠落事案、および記録者系アニマ反応者の安全確保を目的として、記録保全部の担当官を市警へ派遣する。


 その担当官の名は、


 藍沢環。


 白瀬真昼は、その名前を見た瞬間、まず思った。


 名前はちゃんと書いてあるんだ。


 それが少し意外で、少し腹立たしかった。


 境界観測局は、必要な時には職員の名前を出す。


 だが、C-04の名前は出さない。


 古河 千■。


 最後の一文字はまだ欠けている。


 灯里の整理カードに残っていた静かな怒りが、真昼の胸の奥でもう一度灯る。


 C-04は名前ではない。


 その言葉は、昨夜から頭を離れなかった。


     *


 会議室は、特異殺人対策室の隣にあった。


 普段は捜査会議や関係者聴取に使う小さな部屋で、壁にはホワイトボード、窓際には古い空気清浄機、中央には長方形のテーブルが置かれている。今日だけは、机の上に透明なケースが三つ並んでいた。


 天沢灯里の栞。


 銀色のヘアピン。


 C-04関連の整理カード複写。


 真昼は、レイと並んで席についていた。


 隣に御影レイがいることは、もう当たり前になりつつあった。


 ただし、当たり前になったからこそ、ときどき怖くなる。


 レイは自分ではない。


 灯里も自分ではない。


 でも、どちらも今、自分の近くにいる。


 名前と記憶と記録が、机の上で静かに絡まっている。


 黒江透子は、向かい側に座っていた。


 黒いロングコートは椅子の背に掛け、手元にはタブレットと紙の資料。いつも通り落ち着いて見えるが、指先の動きが少し硬い。


 霧生仁は、壁際で腕を組んで立っていた。


 今日もくたびれたスーツと古いコート姿。口の中には禁煙用の飴が入っている。黙っているだけで、機嫌が悪いことが分かる。


 綾瀬直央は記録係として端に座り、すでにペンを構えていた。


「観測局の人って、時間ぴったりに来るんですか」


 真昼が小声で言うと、レイが答えた。


「遅れたら記録に残るからじゃない」


「遅刻も観測対象?」


「ありえる」


「やだなあ、遅刻に症例番号ついたら」


「君は常習例になりそう」


「御影くん、最近ちょっと遠慮がない」


「観測結果」


「記録しないでください」


 そのやり取りを聞いていた霧生が、顔だけ向けた。


「お前ら、これから観測局の人間とやり合うって分かってるか」


「やり合う前提ですか」


 真昼が聞く。


「白瀬がいる時点でな」


「どういう意味ですか」


「そのままの意味だ」


「ひどい」


「否定する材料が少ない」


 真昼は言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。


 廊下の向こうから、足音が聞こえた。


 硬い靴底の、規則正しい音。


 遅れも早まりもしない。


 時間ぴったりだった。


 会議室の扉がノックされる。


「どうぞ」


 透子が言った。


 扉が開く。


 入ってきたのは、三十代後半ほどの女性だった。


 髪は低い位置でまとめられている。黒ではなく、少し灰色がかった落ち着いたスーツ。派手な装飾はない。首から下げた身分証には、境界観測局の紋章と、名前が印字されていた。


 藍沢環。


 読みは、あいざわ・たまき。


 表情は穏やかだった。


 だが、柔らかい人ではない。


 図書館司書のような静けさと、法務担当者のような隙のなさが同居している。


 彼女は、部屋にいる全員を一度見た。


 透子。

 霧生。

 綾瀬。

 レイ。

 真昼。


 その視線は、物を見るようではなかった。


 少なくとも、真昼にはそう感じた。


 ただし、人を見る時の温度とも少し違う。


 書架に置かれた貴重資料を確認するような目。


 傷つけないように扱うが、必要なら番号を振る。


 そういう目だった。


「境界観測局アガルタ支局、記録保全部の藍沢環です」


 彼女は丁寧に頭を下げた。


「本日は、C-04関連記録に関する照会、および現行事案の記録保全について、説明に参りました」


 霧生が低く言った。


「開示しに来たわけじゃないんだな」


「現時点では、全面開示はできません」


「じゃあ、何しに来た」


「開示できない理由を説明し、代替可能な情報提供の範囲を協議するためです」


「役所っぽい」


「観測局は行政機関ではありません」


「なお悪い」


 藍沢は怒らなかった。


 わずかに眉を動かしただけで、透子へ視線を移す。


「黒江透子さん。お久しぶりです」


「お久しぶりです、藍沢さん」


 二人の声は礼儀正しい。


 しかし、空気は少し冷たくなった。


 真昼はそれに気づいた。


 知り合いだ。


 ただの顔見知りではない。


 透子が境界観測局にいた頃の知人。


 もしかすると、真木彼方の記録にも関わっている人かもしれない。


 真昼は、その名前を頭の中で呼びかけて、すぐに止めた。


 まだ、軽々しく呼ぶ段階ではない。


 透子が席を示す。


「どうぞ」


「失礼します」


 藍沢は椅子に座った。


 座る動作も静かだった。


 彼女は鞄から薄い資料ファイルを取り出した。


 黒い表紙。


 表には識別番号だけが書かれている。


 C-04。


 名前はない。


 真昼は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 まだ何も始まっていない。


 それでも、もう腹が立つ。


 透子は、真昼を一瞬だけ見た。


 落ち着いて。


 そう言われた気がした。


 真昼は膝の上で拳を握った。


 落ち着く。


 少なくとも、最初の三分は。


「まず確認します」


 透子が言った。


「境界観測局は、C-04の名前を把握していますか」


 藍沢はすぐに答えなかった。


 ファイルを開く。


 中にある紙面は、真昼の位置からは見えない。


「把握していた記録はあります」


「現在は」


「現在、その名前は安定していません」


 真昼の眉が動いた。


 安定していない。


 人の名前に使う言葉ではない。


 だが、藍沢の声には悪意がなかった。


 むしろ、慎重に正確であろうとしている。


 それが余計に苦しい。


「C-04は、旧地下鉄閉鎖区画で死亡した外部委託作業員で間違いありませんか」


 透子が続ける。


「その可能性が高いと記録されています」


「可能性?」


 霧生が言った。


「死亡記録があるのに可能性なのか」


「死亡した人物とC-04として観測されていた対象の同一性が、現在の記録上では完全に固定できません」


「何言ってるか分からん」


 霧生は真顔で言った。


 綾瀬が小さく頷いている。


 藍沢は説明の語調を変えなかった。


「通常の戸籍、雇用記録、死亡診断記録、都市交通局の事故報告、観測局の観測記録。その全てが完全に一致していれば、同一人物と断定できます。しかしC-04に関しては、氏名欄、顔写真、現場記録の一部に欠落があります」


「欠けてるから分からないってことか」


「はい」


「じゃあ、欠ける前の記録を出せ」


「欠ける前の記録を読み上げることが、さらなる欠落を誘発する可能性があります」


 部屋の空気が、少しだけ重くなる。


 藍沢は、ファイルから一枚の紙を取り出した。


 それを机の中央へ置く。


 ただし、名前の欄は黒いマスキングで隠されていた。


 項目だけが読める。


 識別番号:C-04

 分類:同魂者反応個体

 アニマ系統:R系

 生活状況:社会生活維持

 勤務先:旧地下鉄関連外部委託

 名前固定:比較的安定

 措置:経過観察

 追記:観測中断/対象死亡推定/資料欠落


 真昼は、その「名前固定:比較的安定」という行で目が止まった。


 安定していた。


 名前を保てていた。


 なのに死んだ。


 観測局は見ていた。


 でも救えなかった。


「R系って何ですか」


 真昼が聞いた。


 藍沢が彼女を見る。


「内部分類です」


「御影くんたちの系統?」


「詳細は開示できません」


「便利ですね、開示できませんって」


 真昼の声に棘が混じる。


 藍沢は静かに受け止めた。


「便利だから使っているわけではありません。危険だから制限しています」


「危険なのは名前ですか、記録ですか、それとも私たちですか」


「すべてです」


 即答だった。


 真昼は言葉に詰まる。


 藍沢は続けた。


「名前は揺らぎます。識別番号は揺らぎません」


 その言葉は、きれいに整っていた。


 整いすぎていた。


「観測対象の名前は、本人の自己認識、周囲の呼称、記録媒体、戸籍、音声、記憶、そしてアニマ接続の状態によって変動します。名前欠落事案では、呼称を固定しようとするほど、逆に欠落が進行する例もあります」


 真昼は、机の上の灯里の栞を見た。


 天沢灯里。


 そこには名前がある。


 鉛筆の文字。


 消えかけても、残っている名前。


「識別番号は、人間性を削ります」


 藍沢は言った。


 その言葉に、真昼は顔を上げた。


 藍沢は、真昼を見ていた。


「そのことは承知しています」


 部屋が静かになる。


 藍沢の声は、先ほどまでと変わらない。


 それでも、そこには少しだけ別の温度があった。


「番号で呼ばれることが、対象者に苦痛を与えることも知っています。職員が番号に慣れすぎ、人名を後回しにする危険も知っています。記録上の保全が、生活上の保護にならない例があることも知っています」


「なら」


 真昼は思わず身を乗り出した。


「なら、どうして番号なんですか」


「名前が消えるからです」


 藍沢は答えた。


「名前が揺らぎ、欠け、発音する者によって変質し、記録媒体から消える場合でも、識別番号だけは残ることがあります。私たちは、その最後の杭を打つために番号を使っています」


 最後の杭。


 真昼は、その言葉で少しだけ息を止めた。


 藍沢は、悪人ではない。


 それが分かってしまった。


 彼女は本気で記録を守ろうとしている。


 名前を軽んじているのではない。


 名前が壊れる現場を、何度も見てきたのだ。


 だから、壊れにくい番号へ逃がした。


 それが正しいのかは、別として。


「名前が消えたあとでも、番号が残っていれば、再照合できる可能性があります」


 藍沢は続ける。


「名前も顔も声も思い出せない対象でも、識別番号が残っていれば、症例の連続性を追える。記録が完全に散逸するのを防げる。番号は墓標ではありません。索引です」


「でも」


 真昼は言った。


「索引だけ残って、本の中身が消えたら?」


 藍沢は答えなかった。


 真昼は続ける。


「C-04って見ても、その人が誰か分かりません。何を食べて、どこで働いて、誰に名前を呼ばれて、何を怖がっていたのか分からない。番号だけ残っても、その人が生きていたことには届かない」


「届かせるために、記録保全部があります」


「でも、今、名前を出してくれない」


「出せません」


「どうして」


「名前を読み上げることで、記録欠落が進行する危険があるからです」


「それ、本当に?」


「はい」


 藍沢は初めて、少しだけ声を強くした。


「白瀬さん。名前は力を持ちます。あなたが信じている以上に。正しい名を呼ぶことは、対象をこちら側へ引き戻すことがあります。しかし、不安定な名を無理に呼べば、記録層に残った輪郭が裂けることもあります」


 真昼は、何も言えなかった。


「C-04の氏名記録は、現在極めて不安定です。音声化した場合、記録媒体上の残存文字がさらに欠落する可能性がある。観測局の判断は、氏名の非開示です」


「それって」


 真昼の声は震えた。


 怒りか、悔しさか、怖さか、自分でも分からない。


「その人の名前を守ってるんじゃなくて、名前が壊れるところを見たくないだけじゃないんですか」


 藍沢の表情が、ほんの少しだけ変わった。


 痛いところに触れた。


 真昼はそう感じた。


 しかし藍沢は怒らなかった。


「その側面はあります」


 静かな返事だった。


「私たちは、壊れる記録を何度も見ています。名前を呼んだ瞬間、紙面から文字が消える。録音から音が抜ける。写真の顔が黒くなる。担当者が対象者の顔を忘れる。その場にいた人間全員が、同じ人の記憶を失う。そういう事例があります」


 透子の指が、机の上で止まった。


 真昼は、それに気づいた。


 K-117。


 真木彼方。


 きっと、その話が関係している。


 藍沢はファイルの別紙を取り出した。


「開示可能な範囲で、関連する識別番号を提示します」


 紙が机に置かれる。


 黒塗りが多い。


 しかし、三つの番号だけは読めた。


 K-117

 C-04

 R-■■


 真昼の背筋に冷たいものが走った。


 K-117。


 透子が一瞬だけ目を伏せる。


 レイも、その番号を見て息を止めた。


 R-■■。


 読めない。


 レイのRか。

 別の誰かか。

 それとも、御影レイに関係する古い記録か。


 分からない。


 分からないことだらけの紙。


 それでも、そこに並んだ三つの番号は、重かった。


「これは何ですか」


 真昼が聞いた。


「関連症例です」


「名前は」


「開示できません」


「また」


「はい」


 藍沢は逃げなかった。


 逃げないまま、拒否する。


 それが余計に厄介だった。


「K-117は」


 レイが、静かに言った。


 透子の肩がわずかに動く。


 藍沢はレイを見る。


「御影レイさん。あなたには現時点で開示できません」


「真木彼方ですか」


 部屋の空気が凍った。


 透子がレイを見る。


 藍沢の表情から、温度が消える。


 真昼は、自分の心臓の音が聞こえた。


 レイは、続けなかった。


 ただ、その名前を置いた。


 真木彼方。


 名前を呼んでほしかった少年。


 公式には、観測不能状態へ移行。


 藍沢は、しばらく黙っていた。


「その名前を、どこで」


「聞いたわけじゃない」


 レイは答えた。


「見たような気がしただけです」


「なら、現時点では記録に残さないことを推奨します」


「どうして」


「対象名が不安定だからです」


「名前を呼ばないほうがいいと?」


「少なくとも、公的記録上では」


 透子が、低く言った。


「藍沢さん」


 藍沢は透子へ視線を向ける。


「K-117について、この場でこれ以上話すつもりはありません」


「承知しています」


「承知したうえで、紙に並べたのですね」


「関連を示す必要がありました」


「真木彼方の名前を出さずに」


「はい」


 透子の目が冷えた。


 真昼は、透子がここまで露骨に感情を出すのをあまり見たことがなかった。


 藍沢は、透子の怒りを受け止めている。


 彼女もまた、何かを背負っているように見えた。


「黒江さん」


 藍沢は言った。


「私は、K-117の記録を消したいわけではありません」


「では、なぜ名前を削ったのですか」


「削ったのではありません。残すために、番号へ退避させました」


「本人は、名前を呼んでほしがっていました」


 その言葉は、静かだった。


 だが、会議室の空気を切った。


 真昼は、透子の横顔を見た。


 透子はまっすぐ藍沢を見ている。


 藍沢は、少しだけ目を伏せた。


「知っています」


「知っていて、番号へ?」


「はい」


「それで救えましたか」


 藍沢は、答えなかった。


 沈黙。


 それが答えだった。


 真昼の胸が、ぎゅっと痛んだ。


 観測局の人間は、全員が冷たいわけではない。


 藍沢は、たぶん真剣に記録を守ってきた。


 それでも、救えなかった名前がある。


 名前を呼べないまま、番号だけになった誰かがいる。


 その痛みを見てもなお、藍沢は番号を捨てていない。


 なぜなら、番号すらなければ、完全に消えていたかもしれないから。


 真昼は、少しだけ理解してしまった。


 理解したからこそ、納得できなかった。


「藍沢さん」


 真昼は言った。


「名前は揺らぎますって、さっき言いましたよね」


「はい」


「なら、揺らぐから、呼ぶんです」


 藍沢は、真昼を見る。


 真昼は続けた。


「呼び方が変わることもある。あだ名で呼ぶ人もいる。苗字だけの人もいる。下の名前で呼ぶ人もいる。本人が嫌な呼ばれ方もある。間違えることもある。傷つけることもある。だから難しい。でも、揺らぐからこそ、その都度呼び直すんじゃないですか」


「呼び方が変われば、記録は不安定になります」


 藍沢の返答は冷静だった。


「同一対象に複数の呼称が紐づく場合、名前欠落現象は逆に進行することがあります。誰のことを指しているのかが揺らげば、記録層上の参照点が分散するからです」


「でも、人間ってそういうものです」


 真昼は言った。


「父さんは私を真昼って呼びます。母さんも真昼。御影くんは白瀬って呼ぶ。たまに白瀬真昼って全部呼ぶ。黒江さんは白瀬さん。霧生さんはだいたい白瀬。記事の読者は《アガルタ観測録》の人って呼ぶかもしれない。でも、それ全部私です」


「現時点では、白瀬さんの自己名固定が安定しているからです」


「安定してなかったら?」


「危険です」


「それでも、私は番号だけで呼ばれたくありません」


 藍沢は、黙った。


「番号が必要な時があるのは、少し分かりました」


 真昼は続ける。


「本当に少しだけです。でも、分かります。名前が消えるなら、何かを残したい。索引だけでも残したい。その気持ちは、たぶん間違ってない。でも」


 彼女は、机の上の紙を指した。


 K-117。

 C-04。

 R-■■。


「それだけ残っても、墓標にもならない」


 藍沢の表情が揺れた。


 真昼は言った。


「名前を言えない記録なんて、墓標にもならない」


 会議室に沈黙が落ちた。


 霧生が飴を噛む音すらしなかった。


 綾瀬は、ペンを止めていた。


 レイは、真昼を見ていた。


 透子もまた、何も言わなかった。


 藍沢環は、真昼の言葉を静かに受け止めていた。


 怒りはない。


 反論もすぐにはない。


 ただ、長い時間をかけて積み重なった記録の重さを背負った人の沈黙だった。


「あなたは」


 やがて藍沢が口を開いた。


「天沢灯里さんに似ていますね」


 真昼の胸が、強く痛んだ。


「私は、灯里さんじゃありません」


「ええ」


 藍沢は頷いた。


「そこは違います」


「なら、どういう意味ですか」


「名前が消えることを、怖がっている」


「怖がらない人がいるんですか」


「います」


 藍沢の声は静かだった。


「名前が消えるなら、そのまま消えたほうがいいと言う人もいます。呼ばないでほしいと望む人もいます。自分の人生を記録されたくない人もいます」


 真昼は、ノクターン書房の青年を思い出した。


 必要ですか。


 名前が怖いなら、今日は呼ばない。


 優しい人は、いちばん残酷です。


「だから、名前を呼ぶことが常に救いとは限りません」


 藍沢は言った。


「私は、そのことも記録しています」


 真昼は、拳を握った。


 それは、痛い言葉だった。


 自分がいちばん見ないようにしていたところを突かれた気がした。


 名前を呼ぶことは正しい。


 記録することは救いだ。


 そう言い切れたら楽だった。


 でも、灯里の残響はそれを許さない。


 名前を聞くことは、相手の傷を開くことでもある。


 だから灯里は、今日は呼ばないと言った。


 真昼は、まだその優しさに追いつけない。


「それでも」


 真昼は言った。


 声は少し小さくなった。


 でも、消えなかった。


「それでも、消されそうな名前を見たら、私は呼びたいです」


「それが相手を傷つけても?」


「……傷つけない方法を探します」


「見つからなければ?」


 真昼は答えられなかった。


 藍沢は、それ以上追い詰めなかった。


「それを考え続けることが、記録者の責任です」


 その言葉に、真昼は息を呑んだ。


 藍沢は、彼女を見ている。


「白瀬真昼さん。あなたは、記録者系アニマ反応を示している。天沢灯里さんの残響に反応している。その事実は、観測局としても無視できません」


「収容するんですか」


 レイが言った。


 声が低かった。


 藍沢は首を横に振った。


「現時点では、推奨しません」


「現時点では」


「はい」


「便利な言葉」


「便利ではありません。限定条件です」


 レイの表情は硬い。


 藍沢は続ける。


「白瀬さんの反応は、危険であると同時に、記録欠落事案への接近手段でもあります。彼女を隔離すれば、天沢灯里さんの記録残響、およびC-04関連情報を追える可能性が低下します」


「利用する気ですか」


 レイの声に怒りが混じる。


「そう見えるでしょう」


 藍沢は否定しなかった。


「ただし、観測局単独で管理するより、市警および黒江さんの管理下に置くほうが、現時点では安全だと判断します」


「意外ですね」


 透子が言った。


「観測局なら、保護と称して連れていきたがると思いました」


「記録保全部は、収容部ではありません」


 藍沢は静かに答えた。


「私たちの仕事は、記録を残すことです。対象者を増やすことではありません」


 その言葉は、本心に聞こえた。


 少なくとも、真昼にはそう聞こえた。


 藍沢環は、敵ではない。


 味方とも言い切れない。


 彼女は、名前より番号を信用する人だ。


 でも、番号だけを愛しているわけではない。


 名前が壊れるところを見すぎた結果、番号に逃げた人。


 そう見えた。


「C-04について」


 透子が言った。


「名前の非開示は理解しました。ただし、関連情報の一部提供は必要です。本人メモ帳、事故現場、天沢灯里さんの記録との接点。これらは、現在の事案に直結しています」


 藍沢は少し考えた。


「名前を含まない範囲で、索引情報を提供します」


「具体的には」


「C-04関連の事故現場座標。外部委託会社名の一部。回収不能物品リスト。観測局による最終接触日。ただし、氏名、顔写真、音声記録は非開示です」


「本人メモ帳は」


「回収不能物品に含まれています」


 真昼の目が鋭くなる。


「存在はしたんですね」


 藍沢は真昼を見る。


「記録上は」


「どこに?」


「旧地下鉄閉鎖区画内。最終位置は、旧第三連絡線から封鎖連絡層へ向かう保守通路付近」


 透子の顔色が変わった。


 霧生も反応する。


「封鎖連絡層?」


 真昼が聞く。


 その単語は、初めて聞くのに、胸の奥がざわついた。


 旧校舎の下。

 旧地下鉄の奥。

 名前が揺らぐ場所。

 灯里が追っていたかもしれない場所。


 藍沢は言った。


「その名称は、正式な都市交通局図面には存在しません」


「じゃあ、観測局の呼び方ですか」


「はい」


「そこに、古河さんのメモ帳があるかもしれない」


「記録上は、回収されていません」


「灯里さんも、そこを調べていた?」


 藍沢は答えない。


 沈黙。


 また、答えに近い沈黙だった。


 透子が代わりに言う。


「天沢灯里さんの整理記録を精査する必要があります」


「旧新聞部室」


 真昼が呟いた。


「まだ、床下とか資料箱とか、見てないところがある」


「勝手に探すなよ」


 霧生が即座に言った。


「思っただけです」


「お前の思っただけは、次の日には現場検証になる」


「信頼がない」


「実績がある」


 藍沢が、静かに真昼を見ていた。


「白瀬さん」


「はい」


「天沢灯里さんの記録を追うなら、覚えておいてください」


「何をですか」


「彼女は、名前を残そうとして消えました」


 真昼の胸が痛む。


「あなたが同じ道を進めば、同じ危険に近づきます」


「脅しですか」


「記録上の事実です」


 真昼は、少しだけ目を伏せた。


 白い傘。

 銀色のヘアピン。

 雨の路地。

 黒い傘。


 灯里は、消えた。


 それでも、栞に名前を残した。


 天沢灯里。


 私は、この名前を残す。


「なら」


 真昼は顔を上げた。


「私は、灯里さんの名前を消さないようにします」


 藍沢は、少しだけ目を細めた。


「強いですね」


「怖いです」


 真昼は正直に言った。


「でも、怖いからやめると、あの人の名前が消える気がします」


「恐怖は、判断を誤らせます」


「無感情も誤らせます」


 藍沢は、少しだけ黙った。


 それから、初めてほんのわずかに笑った。


「そうですね」


 その笑みは、意外なほど人間らしかった。


     *


 藍沢環は、必要最低限の資料を置いて帰った。


 正確には、置いていくことを許可された範囲の資料を、市警の管理端末に転送した。


 紙ではなく、暗号化されたファイル。


 そこには、名前がない。


 C-04関連索引情報。


 事故現場座標。

 旧第三連絡線。

 封鎖連絡層付近。

 回収不能物品リスト。


 その中に、確かにあった。


 私物メモ帳 一点

 状態:未回収

 推定位置:封鎖連絡層側保守通路

 備考:氏名反復記載の可能性あり


 真昼は、その一行を何度も読んだ。


 氏名反復記載の可能性あり。


 つまり、古河 千■は、自分の名前をメモ帳に書いていた。


 消えないように。


 自分が自分であるために。


 倉科悠斗と同じように。


 いや、倉科悠斗より前に。


 レイが、画面の横から言った。


「これを探せば、名前が分かるかもしれない」


「うん」


「でも、場所が悪い」


「封鎖連絡層」


「観測局の名前がついてる場所は、だいたい悪い」


「雑な偏見」


「経験上」


 透子は画面を見ながら言った。


「この情報は、あくまで索引です。実地確認には手続きが必要です」


「手続き」


 霧生がため息をつく。


「都市交通局、学院、観測局、市警。四か所の許可か?」


「旧校舎地下が絡む場合、学院の許可も必要です」


「増えた」


「それから、封鎖連絡層に入るには旧地下鉄保守課の案内が必要です」


「倉科を呼ぶなよ。まだ本調子じゃない」


「呼ばないとは言っていません」


「黒江」


「判断は慎重にします」


「慎重って言葉、お前ら全員使い方が怪しいんだよ」


 真昼は、二人のやり取りを聞きながら、机の上の栞を見た。


 天沢灯里。


 灯里は、この道をどこまで進んだのだろう。


 封鎖連絡層を知っていたのか。


 C-04のメモ帳を探そうとしたのか。


 それとも、ノクターン書房の青年の名前を追って、別の入口から同じ場所へ近づいたのか。


 まだ分からない。


 でも、道は見え始めている。


 旧新聞部室。

 ノクターン書房。

 C-04。

 封鎖連絡層。

 古河 千■のメモ帳。

 天沢灯里の残した記録。


 そして、黒い傘。


 藍沢は帰り際に、真昼へ一枚の小さなカードを渡した。


 境界観測局の連絡先ではなかった。


 記録保全部の資料照会窓口でもない。


 ただの白いカード。


 そこに、手書きで一文が書かれていた。


 名前を呼ぶ前に、その人が何を守りたかったのかを確認してください。


 藍沢環の字は、端正だった。


 灯里の字とは違う。


 真昼の字とも違う。


 真昼は、そのカードをノートに挟んだ。


 納得はしていない。


 でも、捨てられなかった。


「白瀬」


 レイが呼んだ。


「何」


「怒ってる?」


「怒ってる」


「藍沢さんに?」


「観測局にも。番号にも。名前が消える現象にも。あと、ちょっと自分にも」


「自分?」


「藍沢さんの言ってること、少し分かっちゃったから」


 真昼は、窓の外を見た。


 雨が降っていた。


 アガルタの雨は、今日も街の輪郭を少しだけ曖昧にしている。


「番号でしか残せない時があるかもしれない。名前を呼ぶことが、誰かを傷つけることもあるかもしれない。それを分かっちゃった。でも、分かっても納得できない」


「両方でいいんじゃない」


 レイが言った。


「両方?」


「分かることと、納得することは違う」


「それ、私が前に言った?」


「似たようなことを」


「また返された」


「便利だから」


 真昼は、少しだけ笑った。


 それから、机の上の資料を見た。


 K-117。

 C-04。

 R-■■。


 番号は残る。


 名前は揺らぐ。


 でも、番号だけでは足りない。


 だから、呼ぶ。


 揺らいでも。


 傷つけるかもしれなくても。


 呼び方を間違えるかもしれなくても。


 相手が望んでいないかもしれないなら、その怖さも抱えて。


 真昼はノートを開いた。


 新しいページの一番上に、強い筆圧で書く。


 C-04は名前ではない。


 その下に、ゆっくり書く。


 古河 千■。


 最後の一文字は、まだ空白。


 空白のまま、そこに残す。


 いつか埋めるために。


 その隣に、もうひとつの名前を書く。


 天沢灯里。


 この名前は、消さない。


 真昼は、そう決めた。

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