第四章 C-04
天沢灯里の字は、静かだった。
白瀬真昼は、旧新聞部室の机に広げた整理カードを見つめながら、そんなことを思った。
細く、右上がりで、几帳面。
ただし、機械的ではない。
資料名の端に小さく付けられた丸印や、欄外に残された短い注釈からは、書いた人の迷いが見える。ここで分類していいのか。別の箱へ移すべきか。名前をそのまま書いてよいのか。欠けた名前を、欠けたまま写すべきなのか。
灯里は、迷いながら整理していた。
その迷いが、真昼には痛いほど分かった。
旧新聞部室には、午後の光が斜めに入っている。
窓ガラスは薄く曇り、外では体育の授業の掛け声が遠く聞こえる。新校舎のほうから、チャイムが一拍遅れて響いてきた。
この部屋だけが、少し別の時間にあるようだった。
机の上には、透明ケースに入った古い栞。
天沢灯里。
その名前は、まだ読める。
隣には銀色のヘアピン。
さらに、灯里が残した整理カードの複写が束になっている。
黒江透子が一時的な閲覧を許可したものだった。
条件は多かった。
原本には触らない。
資料の撮影は禁止。
閲覧時はレイ同席。
異常反応が起きたら即時中断。
関連情報を見つけたら市警へ報告。
勝手にノクターン書房へ行かない。
勝手に旧地下鉄へ行かない。
勝手に境界観測局へ問い合わせない。
最後の三つは、真昼を見ながら言われた。
信用がない。
実績があるので、反論はできなかった。
「字、似てる?」
御影レイが聞いた。
彼は机の向かい側で、灯里の整理カードとは別に、旧地下鉄事故の新聞切り抜きを確認している。表情はいつも通り静かだが、目だけは紙面の一行に何度も戻っていた。
古河 千■。
その欠けた名前。
レイは、それを見るたびに少しだけ呼吸が浅くなる。
真昼は灯里のカードから目を上げた。
「誰と?」
「君と、灯里」
「似てない。私の字はもっと急いでる」
「自覚あるんだ」
「あるよ。取材メモなんか、後から自分でも読めない時ある」
「それは記録としてどうなの」
「勢いも記録です」
「便利な言葉」
「便利だから使うの」
真昼は鉛筆を置き、灯里のカードを一枚めくった。
旧新聞部資料整理カード。
資料名:学院新聞縮刷版 第七十六号
分類:失踪・欠席・氏名欠損
備考:卒業名簿との照合必要
整理者:A.A.
次のカード。
資料名:都市交通局関連切抜帳
分類:旧地下鉄・閉鎖区画
備考:名前欠損複数。事故扱い。
整理者:A.A.
その次。
資料名:旧地下鉄作業員事故記事
分類:C-04
備考:古河 千■。正式記録要確認。
整理者:A.A.
真昼の指が止まった。
C-04。
昨日まで、ただの記号だった。
検査室で透子が見せた事故記事にも、観測局の資料にも、その記号は出てきた。
だが今、それが灯里の字で書かれている。
天沢灯里は、この名前を追っていた。
オメガと出会う前からか。
それとも、ノクターン書房の青年と出会ったあとか。
分からない。
けれど、灯里は見つけていた。
古河 千■。
旧地下鉄の事故。
C-04。
「御影くん」
真昼の声に、レイが顔を上げる。
「これ」
カードを見せる。
レイは視線を落とした。
C-04。
その文字を見た瞬間、彼の表情が変わった。
大きな変化ではない。
眉が動く。
唇がわずかに固くなる。
指先が机を掴む。
それだけだった。
けれど真昼には分かった。
何かが開いた。
「見るなって言いたいけど」
真昼は言った。
「もう見た?」
「見た」
「大丈夫?」
「たぶん」
「その返事、禁止」
「大丈夫じゃない」
「よろしい」
「よろしいの?」
「正直なのは大事」
レイは小さく息を吐いた。
灯里のカードから、視線を外そうとする。
しかし、一度引っかかったものは簡単には離れないらしい。
C-04。
その記号は、ただの番号ではない。
人の名前を隠すための番号。
あるいは、名前が消える前に仮留めするための番号。
境界観測局なら後者だと言うかもしれない。
真昼には、どうしても前者に見えた。
「灯里さん、この人を調べてたんだ」
真昼はカードを見つめた。
「旧地下鉄の事故。名前欠損。正式記録要確認。……この備考、ただの資料整理じゃないよね」
「取材メモに近い」
レイが言う。
「うん。灯里さん、ただ分類してたんじゃない。名前が欠けてる人を追ってた」
「君と同じ」
真昼は、少しだけ黙った。
同じ。
その言葉は、まだ慣れない。
天沢灯里は真昼ではない。
でも、同じアニマを持つ記録者系同魂者である可能性が高い。
そう透子は言った。
真昼はそれを受け入れたつもりでいる。
しかし、灯里の字を見れば見るほど、胸の奥で境目が揺れる。
私なら、この欄外にもっと乱暴な矢印を引く。
私なら、「要確認」ではなく「絶対確認」と書く。
私なら、名前が消えかけているなら、その場で誰かに聞きに行く。
違う。
灯里は自分ではない。
けれど、同じものを見ていた。
消えかける名前。
記録の余白。
人が二度目に消える瞬間。
真昼は、次のカードをめくった。
資料名:都市交通局事故報告写し
分類:C-04
備考:観測局記録と照合?
整理者:A.A.
その下に、小さな文字があった。
C-04は名前ではない。
真昼の喉が詰まった。
それは、灯里の怒りだったのかもしれない。
静かな字で、静かな言葉で、それでも確かに怒っている。
C-04は名前ではない。
真昼は、その一文をノートに写した。
自分の字は灯里より荒い。
でも、それでいいと思った。
「黒江さんに連絡する?」
レイが聞いた。
「する。でも、その前に全部確認したい」
「また怒られる」
「報告前の確認です」
「便利な言葉」
「便利だから使う」
真昼はカードの束をめくり続けた。
灯里の整理記録は、単純な年代順ではない。
名前が欠けた資料同士を、別の線でつないでいる。
学院名簿。
旧地下鉄事故。
図書委員会記録。
失踪記事。
境界観測局への照会票。
その中に、何度もC-04が出てくる。
C-04/古河 千■
C-04/旧第三連絡線
C-04/外部委託作業員
C-04/本人メモ帳未回収
C-04/黒色雨傘?
C-04/観測局分類あり?
「本人メモ帳」
真昼はその単語に指を置いた。
「悠斗さんの時と同じだ」
レイは黙った。
倉科悠斗は、自分の名前を何度も書いていた。
黒刃に傷つけられ、名前を失いかけたあとも、作業日報に何度も「倉科悠斗」と書いていた。
古河 千■も、メモ帳を持っていた。
本人メモ帳未回収。
そこに、名前が書かれていたのかもしれない。
何度も。
消えないように。
「御影くん」
真昼はゆっくり聞いた。
「見える?」
レイはしばらく答えなかった。
事故記事ではない。
灯里の整理カード。
そこに書かれたC-04という分類と、古河 千■という欠けた名前。
それを見ているだけで、レイの顔色は悪くなっていた。
「少し」
「無理しないで」
「それ、君に言われる日が来るとは」
「今だけ」
「便利だね」
「便利だから」
真昼が言いかけた時、レイの右手が机の上で止まった。
彼の視線が、カードの一点に固定される。
C-04/本人メモ帳未回収。
その文字。
レイの呼吸が、はっきりと乱れた。
「御影くん?」
返事がない。
レイの目が、旧新聞部室ではない別の場所を見始めている。
真昼はすぐに立ち上がった。
「御影レイ」
名前を呼ぶ。
レイは反応しない。
真昼の胸が冷える。
いつもより深い。
そう直感した。
彼は、もうこちらの部屋にいない。
*
地下。
湿ったコンクリート。
黄色い作業灯。
古いヘルメットの内側にこもる汗の匂い。
反射ベストが肩に重い。
手袋の中で、指が冷えている。
水が落ちる音。
ぽたり。
ぽたり。
旧第三連絡線。
閉鎖区画。
外部委託作業員。
正規職員ではない。
だから、ロッカーも仮のもの。
名札も薄い紙。
出勤記録も別ファイル。
誰かが名前を呼ぶ時も、苗字だけ。
古河。
おい、古河。
そっち、ライト持ってけ。
古河、帰りに報告書出しとけよ。
古河。
古河。
その先を、誰も呼ばない。
呼ばなくても困らない。
仕事では、苗字だけで足りる。
でも、足りない。
夜になると、名前の先が遠くなる。
古河――。
何だ。
俺の名前は。
メモ帳を開く。
小さなポケットサイズのメモ帳。
表紙は黒ではなく、くすんだ灰色。
角が丸まり、油と地下水の匂いがついている。
鉛筆で書く。
古河千――
手が止まる。
違う。
書ける。
書けるはずだ。
もう一度。
古河千――
足音。
水音とは違う。
誰かが、線路の上を歩いてくる。
地下なのに、雨の匂いがする。
黒い傘。
ありえない。
ここは地下だ。
雨は降らない。
なのに、黒い傘の縁から水滴が落ちている。
ぽたり。
ぽたり。
黒いコート。
黒い手袋。
顔が見えない。
でも、こちらを見ている。
怖い。
心臓が、喉のあたりまで上がってくる。
足が動かない。
作業灯を向ける。
光が、傘の下に届かない。
そこだけ、黒い。
声がする。
怖がらなくていい。
これは終わりではない。
違う。
何が終わりじゃない。
俺は仕事で来ただけだ。
点検をして、報告書を書いて、地上に戻って、コンビニで弁当を買って、家に帰る。
それだけだ。
俺は普通に生きている。
普通に、名前を書いて、生きている。
黒い傘の人物が言う。
私はお前だ。
胃の奥が冷える。
違う。
声が震える。
違う。
俺は。
メモ帳を握る。
名前を書け。
書け。
書けば戻れる。
古河千――
黒い刃が見える。
光を反射しない。
刃というより、空間に空いた細い穴。
そこへ目を向けた瞬間、名前の最後が遠くなる。
俺は、お前じゃない。
声が出た。
自分の声だった。
けれど、誰かに重なっていた。
未来の少年。
雨の路地の女。
地下で名前を書いた男。
白い病室の誰か。
全部が、一瞬だけ重なる。
俺は、お前じゃない。
黒い傘の人物が近づく。
黒い刃が動く。
見えない。
次の瞬間が、見えない。
顔も。
刃が刺さる場所も。
声も。
痛みも。
黒い線が、記憶の途中を切る。
ぷつり、と。
*
「御影レイ!」
真昼の声で、レイは息を吸った。
旧新聞部室の空気が一気に肺へ入る。
埃。
古紙。
窓の湿気。
真昼の声。
椅子が倒れていた。
自分が立ち上がっていたのか、崩れかけていたのか分からない。
真昼が両肩を掴んでいる。
顔が近い。
琥珀色の目が揺れている。
「御影くん、ここどこ」
彼女が聞く。
レイは答えようとして、喉がつかえた。
旧地下鉄。
違う。
閉鎖区画。
違う。
今は。
「旧新聞部室」
かすれた声で答える。
「あなたの名前は」
「御影レイ」
「私は?」
「白瀬真昼」
「古河さんは?」
その問いに、胸が痛んだ。
レイは、視線を机の上のカードへ落とす。
古河 千■。
最後の一文字が読めない。
でも、少しだけ音が残っている。
ち。
か。
げ。
いや、分からない。
分からないまま、言葉にするのが怖い。
「まだ、分からない」
レイは答えた。
真昼は頷いた。
「分かった。今はそれでいい」
彼女はレイの肩から手を離した。
しかし、すぐそばに立っている。
レイがまた遠くへ行かないように。
「何が見えた?」
「地下」
「うん」
「外部委託作業員。正規職員じゃない。名前を苗字でしか呼ばれない。メモ帳に名前を書こうとしていた。でも、最後まで書けない」
「黒い傘は?」
「いた」
「黒刃は?」
「見えた」
「死の瞬間は」
レイは、目を閉じた。
黒い線。
切断。
そこで記憶が終わる。
いや、終わっているのではない。
切られている。
「見えない」
真昼が息を止める。
「顔も、刃が刺さった瞬間も、痛みも。そこだけ黒く切れてる」
「ヌル」
「たぶん」
レイは、ゆっくり椅子へ座った。
手が震えている。
自分の手か、古河の手か、まだ少し分からない。
メモ帳を握っていた感覚が残っている。
あのメモ帳があれば。
そう思った。
そこには名前が書かれているかもしれない。
古河 千■。
何度も何度も、自分を保つために。
「レイ」
真昼が、今度は下の名前で呼んだ。
珍しい。
レイは彼女を見る。
「今、戻ってる?」
「戻ってる」
「本当に?」
「たぶん」
「禁止」
「戻ってる」
「よし」
真昼は椅子を起こした。
自分も向かいに座る。
いつものように軽口を挟んだが、顔色は悪い。
怖がっている。
それでも、逃げていない。
「黒江さんに連絡する」
真昼はスマホを取った。
「今のは、報告前の確認じゃ済まない」
「うん」
「珍しく素直」
「今だけ」
「便利」
「便利だから」
通話はすぐにつながった。
透子は短く状況を聞き、途中で一度も遮らなかった。
真昼が灯里の整理カードにC-04があること、古河 千■と関連づけられていること、レイが強い記憶混線を起こしたこと、メモ帳と黒い傘と黒刃を見たことを伝える。
電話の向こうで、透子の沈黙が少し長くなった。
『そのカードの記載を、もう一度読んでください』
「はい。資料名、旧地下鉄作業員事故記事。分類、C-04。備考、古河 千■。正式記録要確認。整理者、A.A.」
『他には』
「C-04は名前ではない、って灯里さんの注釈があります」
また、沈黙。
真昼はスマホを握る手に力を込めた。
「黒江さん?」
『その資料は、動かさないでください。私が行きます』
「C-04って、観測局の分類ですよね」
『はい』
透子は否定しなかった。
『境界観測局の記録にも残っています』
「名前は?」
真昼は聞いた。
『欠けています』
「そっちでも?」
『ええ』
「観測局なら、ちゃんと残してるんじゃないんですか」
『本来は』
「本来は?」
『C-04の記録は、一部が欠落しています』
真昼は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
「黒江さん、それ、前から知ってました?」
透子はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、真昼には十分だった。
『C-04という分類があることは知っていました。ただ、灯里さんがその記録を追っていたことは知りませんでした』
「開示請求できますか」
『今からします』
「拒否されませんか」
『されるでしょう』
「じゃあ」
『拒否理由も記録になります』
その言い方は、いつもの透子だった。
真昼は少しだけ救われ、同時に苛立った。
記録になる。
大事だ。
でも、名前は今、消えかけている。
拒否理由を記録している間にも、古河 千■の最後の一文字は遠ざかるかもしれない。
「待ってます」
真昼は言った。
『一人で動かないでください』
「分かってます」
『本当に?』
「本当に」
『御影さんにも同じことを』
真昼はレイを見た。
「御影くん、黒江さんが一人で動くなって」
「動ける状態じゃない」
「だそうです」
『それはそれで検査対象です』
「黒江さん、そういうところ」
『三十分以内に向かいます』
通話が切れた。
真昼はスマホを置き、机の上のC-04のカードを見た。
C-04は名前ではない。
灯里の細い字。
その静かな怒りが、今の真昼の胸にも移っている。
*
黒江透子が旧新聞部室へ到着するまでの三十分は、普段より長く感じられた。
レイは窓際の椅子に座り、水を飲んでいた。
真昼は、灯里の整理カードを並べ直し、C-04に関連するものだけを選び出す。
やりながら、手が少し震えていることに気づく。
怖い。
古河 千■の記憶を直接見たわけではない。
でも、レイの反応を見た。
レイが戻ってこないかもしれない一瞬を見た。
それが怖かった。
そしてもうひとつ。
灯里が同じ資料を追っていたことが怖かった。
灯里は、この先に進んだ。
そして黒い傘に消された。
なら、真昼も同じ道を歩いているのではないか。
銀色のヘアピン。
白い傘。
天沢灯里。
私は、この名前を残す。
真昼は、自分のノートに書いた。
C-04は名前ではない。
その下に、もう一度。
古河 千■。
最後の一文字は空けた。
無理に埋めない。
推測で書かない。
ただ、欠けている場所があると分かるように。
やがて、廊下から足音が聞こえた。
旧新聞部室の扉が開く。
黒江透子が入ってきた。
その後ろに、綾瀬直央。
さらに少し遅れて、霧生仁も顔を出した。
「またこの部屋か」
霧生は、入ってすぐに埃っぽい空気を吸って顔をしかめた。
「お前ら、ここに住んでんのか」
「住んでません」
真昼が即答する。
「半分住んでるだろ」
「失礼な。仮眠もしてません」
「仮眠以前に飯を食え」
「それは反省してます」
霧生は机の上のカードを見て、表情を切り替えた。
軽口が消える。
「これがC-04か」
透子は手袋をつけ、カードを一枚ずつ確認した。
天沢灯里の字。
A.A.の整理者表記。
C-04の分類。
古河 千■。
正式記録要確認。
C-04は名前ではない。
その一文で、透子の手が止まった。
顔色が変わる。
本当にわずかだったが、真昼は見た。
透子は、これを知っている。
いや、これに傷ついている。
「黒江さん」
「はい」
「C-04って、誰ですか」
「現時点では、旧地下鉄閉鎖区画で死亡した外部委託作業員と考えられます」
「名前は」
「古河 千■」
「最後の一文字は」
「観測局の記録でも欠けています」
「観測局の記録なのに?」
「はい」
綾瀬が小さく眉を寄せた。
「観測局って、こういう名前欠落を記録する側なんですよね」
「本来は」
透子は言った。
その「本来は」が、先ほどの電話と同じだった。
「C-04は、観測局における同魂者反応個体の分類です。レイ系アニマ反応あり。旧地下鉄勤務。名前固定は比較的安定。要経過観察」
レイが顔を上げる。
「名前固定は比較的安定」
「はい」
「でも、死んだ」
透子は答えなかった。
霧生が低く言う。
「見落としか」
「当時の優先順位では、収容対象ではなかった可能性があります」
「便利な言い方だな」
霧生の声に苛立ちが混ざる。
「守るほどじゃないと思って放置したら死んだ、ってことか」
「そうとも言えます」
透子は否定しなかった。
その正直さが、逆に痛かった。
真昼は、机の端を握った。
「資料開示、どうなりました?」
「今、正式に請求しています」
透子はタブレットを操作した。
画面には、境界観測局の照会フォームが開いている。
件名。
C-04関連記録の緊急開示要請。
理由。
現在進行中の名前欠落事案との関連。
黒刃による記憶切断の疑い。
天沢灯里関連資料との照合必要。
未成年協力者に反応あり。
透子は送信ボタンを押した。
部屋の中で、誰も話さなかった。
返事は、驚くほど早かった。
数分もかからなかった。
画面に通知が出る。
透子は内容を開いた。
その瞬間、彼女の表情が凍った。
霧生が覗き込む。
「何て?」
透子は読み上げた。
「C-04関連記録は、観測記録保全上の制限により、現時点での外部開示を認めません」
真昼の中で、何かが切れた。
「保全?」
声が、自分でも驚くほど低く出た。
透子がこちらを見る。
真昼は立ち上がっていた。
「名前が消えかけてる人を、保全って言葉で閉じ込めないでください」
部屋の空気が止まった。
真昼は続ける。
「C-04って何ですか。番号ですよね。観測記録保全って何ですか。名前が消えてる記録を、そのまま箱に入れて鍵かけることですか。外に出したら危ないから、読まない。呼ばない。開かない。そうしてるうちに、最後の一文字まで消えたら、誰が責任取るんですか」
綾瀬が息を呑む。
霧生は黙っていた。
透子も、真昼を止めなかった。
「灯里さんは、書いてました」
真昼はカードを指差した。
「C-04は名前ではないって。あの人は、たぶん分かってたんです。番号で残しても、その人は戻らないって。名前が必要なんです。間違ってもいいから書くって意味じゃない。欠けたままでいいって意味でもない。調べて、確かめて、ちゃんと呼べる形にする必要があるんです」
真昼の声は震えていた。
怒りだけではない。
怖さも、灯里の残響も、自分の感情も混ざっている。
でも、言葉は止まらなかった。
「保全って言うなら、名前を保全してください。番号じゃなくて」
沈黙。
古い旧新聞部室の時計だけが、かちりと音を立てた。
透子は、ゆっくりと頷いた。
「その通りです」
真昼は、少しだけ息を詰めた。
反論されると思っていた。
止められると思っていた。
透子は、そうしなかった。
「観測局の言う保全は、記録の安定を優先します。名前を呼ぶことで欠落が進む危険がある場合、彼らは番号で固定する」
「それで守れるんですか」
「守れるものもあります」
「でも、守れなかった人もいる」
「はい」
透子の声は、静かだった。
「C-04も、その一人かもしれません」
レイが低く言った。
「彼は、オメガに殺された」
全員の視線がレイへ向く。
レイは机の上の事故記録を見ていた。
「見えたのは断片です。でも、黒い傘の人物がいた。黒刃があった。古河さんは言った」
喉が少し詰まる。
真昼は、レイの名前を呼ぼうとして、彼が自分で続けるのを待った。
レイは、静かに言った。
「俺は、お前じゃない」
その言葉が、旧新聞部室の埃っぽい空気に沈んだ。
古い資料の山が、黙ってそれを聞いている。
霧生が短く息を吐いた。
「なら、事故じゃねえな」
「まだ証拠にはなりません」
透子が言う。
「だが、捜査の方向としては十分だろ」
「はい」
「C-04。古河 千■。旧地下鉄外部委託作業員。黒い傘の人物。黒刃。本人メモ帳未回収」
霧生は指を折って数えた。
「やることは?」
透子が答える。
「都市交通局の当時の事故記録を再照会。外部委託会社の名簿確認。現場作業員への聞き込み。メモ帳の所在確認。観測局への追加開示請求。天沢灯里さんの整理記録の全件精査」
「白瀬は?」
霧生が真昼を見る。
「現場に勝手に行かない」
「先に言われた」
「言わせるな」
「でも、灯里さんの記録は私が見たほうが早いです」
「それは黒江の管理下でやれ」
「はい」
「はい、が早くて怖い」
「反省してるので」
「反省が持続しないタイプだろ」
「否定しにくいです」
霧生は疲れたように額を押さえた。
そのやり取りの間にも、真昼の目はC-04のカードから離れなかった。
C-04は名前ではない。
灯里が残したその言葉。
真昼は、自分のノートにもう一度書いた。
C-04は名前ではない。
その下に、欠けた名前を書く。
古河 千■。
最後の一文字は、まだ空白。
でも、空白には意味がある。
ここには、誰かの名前が入る。
番号ではなく。
観測対象ではなく。
事故の被害者でもなく。
一人の人間の名前が。
*
夕方の雨は、強くなっていた。
透子たちが市警へ戻ったあとも、真昼とレイは旧新聞部室に残っていた。
もちろん、許可された範囲で。
霧生には「二十分で出ろ」と言われている。
真昼は「三十分ください」と言い、霧生は「十五分にするぞ」と返した。
最終的に、二十五分になった。
なぜか真昼が少し勝った気分になった。
机の上には、灯里の整理カードの複写。
C-04関連のものだけが、透明ファイルにまとめられている。
レイは窓際に立っていた。
雨粒がガラスを叩く音を聞いているようだった。
「御影くん」
「何」
「まだ地下?」
「少し」
「戻ってきて」
「戻ってる」
「本当に?」
「白瀬真昼」
「それ、私の名前」
「君がいるから戻ってる」
真昼は、言葉に詰まった。
そういうことを、彼は時々何の前触れもなく言う。
真昼が一番反応に困る言い方で。
「……それは、ちゃんと感謝してるやつ?」
「してる」
「じゃあ、受け取る」
「どうぞ」
「軽い」
「重く言うと変でしょ」
「まあ、そうだけど」
真昼は机の上のカードを片付けながら、小さく笑った。
笑ってから、すぐに真面目な顔になる。
「古河さん、怖かっただろうね」
「うん」
「普通に働いてただけなのに」
「たぶん」
「名前、書こうとしてたんだよね」
「メモ帳に」
「未回収ってことは、どこかにあるかもしれない」
「オメガが持っているかもしれない」
「それでも、探す」
「うん」
レイは窓の外を見たまま頷いた。
「でも、今度は僕だけじゃ見えない」
「うん」
「死の瞬間が切れてる。名前も欠けてる。顔も見えない」
「だから、記録から拾う」
「君が?」
「私が」
真昼は、自分で言ってから胸が少し震えるのを感じた。
怖い。
でも、言った。
「灯里さんが追ってた名前なら、私も追う」
「灯里は君じゃない」
「分かってる」
「でも?」
「でも、残したものは受け取る」
レイは、真昼を見た。
真昼はノートを閉じる。
「継ぐとか、運命とか、そういう大げさなことはまだ言えない。正直、同魂者って言われても、まだ実感ない。でも、灯里さんが残したカードに、C-04は名前ではないって書いてあった。その怒りは分かる」
「怒り」
「うん。静かな怒り」
真昼は透明ケースの中の栞を見た。
天沢灯里。
その名前は、今も消えていない。
「私は、たぶん灯里さんより乱暴に怒る」
「知ってる」
「即答」
「見てたから」
「でも、怒る」
「うん」
「名前が消えそうな人を、番号で閉じ込めるのは違う」
「うん」
レイは、事故記録の複写へ視線を落とした。
古河 千■。
「彼は、僕だった」
レイは静かに言った。
真昼は黙って聞いた。
「でも、僕じゃない」
「うん」
「まだ名前を呼べない」
「うん」
「だから、呼べるようにする」
真昼は頷いた。
「する」
窓の外で、雨が強くなる。
旧校舎の廊下の奥から、存在しない水音が聞こえた気がした。
ぽたり。
ぽたり。
旧地下鉄の奥。
割れた懐中ライト。
黒い傘。
名前を書いたメモ帳。
そして、まだ欠けている最後の一文字。
真昼はノートを鞄へしまった。
その一番上のページには、灯里の字とは違う、真昼自身の強い筆圧で書かれている。
C-04は名前ではない。
古河 千■。
最後の空白は、まだ雨に濡れている。
でも、空白のままでは終わらせない。
真昼はそう決めた。




