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第三章 記録者系アニマ

 特異殺人対策室の検査室は、病院よりも警察署に近い匂いがした。


 消毒液の清潔さはある。


 けれど、そこに紙の匂いと、古い機材の熱と、どこか乾いた金属の匂いが混ざっている。壁は白い。床は薄い灰色。天井の蛍光灯は少し明るすぎる。部屋の中央には長机が置かれ、その上に透明なアクリルケースが三つ並んでいた。


 一つ目のケースには、生成り色の古い栞。


 鉛筆で書かれた名前。


 天沢灯里。


 二つ目のケースには、銀色のヘアピン。


 細く、飾り気がなく、光の角度によってだけ白く見える。


 三つ目のケースには、古い新聞切り抜きの複写。


 旧地下鉄閉鎖区画で起きた作業員転落事故の記事。


 そこに書かれた名前は、やはり欠けていた。


 古河 千■。


 最後の一文字だけが、黒い水を垂らしたように読めない。


 白瀬真昼は、椅子に座ったまま、その三つのケースをじっと見ていた。


 普段なら、すぐに手を伸ばしている。


 メモ帳を開き、カメラを構え、角度を変え、文字を読もうとする。


 けれど、今日は手を膝の上に置いていた。


 指先が少し冷たい。


 自分で気づいている。


 怖いのだ。


 栞を見つけた時、胸の奥へ流れ込んできた感情。


 雨の日のノクターン書房。


 白い傘。


 銀色のヘアピン。


 名前を聞けなかった青年。


 そして、あの声。


 名前が怖いなら、今日は呼ばない。


 それは真昼の記憶ではない。


 それなのに、思い出すたび、胸の奥が痛む。


 自分が誰かを傷つけたみたいに。


 自分が誰かに傷つけられたみたいに。


 そのどちらでもないはずなのに。


「緊張していますか」


 黒江透子が、机の向こうで尋ねた。


 黒いロングコートは椅子の背にかけられている。今日は白いシャツに細い黒のパンツ姿だった。髪はきちんとまとめられ、手元には記録用のタブレットと紙のチェックシートが置かれている。


 医師にも、警察官にも、研究者にも見える。


 そして、そのどれでもあるように見える。


「緊張してないって言ったら、嘘になります」


 真昼は答えた。


「正直で助かります」


「逃げたくはないです」


「それも正直で助かります。ただし、途中で中止したくなったら、すぐに言ってください」


「言ったら止めてくれるんですか」


「止めます」


「観測局なら?」


「止めない可能性があります」


 透子は、淡々と答えた。


 真昼は一瞬だけ黙った。


 境界観測局。


 その名前は、もう遠い噂ではなくなっている。


 御影レイを「保護」しようとした組織。


 名前より番号を優先する組織。


 真木彼方という名前の奥に、白い病室と識別バンドを隠している組織。


 そして今、真昼の異変にも関わってくるかもしれない組織。


「本当に、市警の管理下でやるんですよね」


 真昼が確認すると、透子は頷いた。


「はい。境界観測局には渡しません」


「渡すって言い方、ちょっと物っぽいです」


「訂正します。白瀬さんの検査情報を、観測局へ提供しません。本人同意なしに、身体・記憶・反応記録を外部機関へ渡しません」


「それなら、まあ」


「ただし、生命に関わる緊急事態が発生した場合は別です」


「そういう現実的な但し書き、嫌いじゃないけど嫌です」


「よく分かります」


 透子はチェックシートに視線を落とす。


 その横には、御影レイが座っていた。


 彼はいつも通り静かだった。


 けれど、完全に落ち着いているわけではない。


 右手の指が、椅子の肘掛けを軽く叩いている。


 一定のリズムではない。


 思考が乱れている時の癖だと、真昼は最近分かってきた。


「御影くんも検査対象?」


 真昼が聞くと、レイは答えた。


「比較対象」


「物っぽい」


「僕もそう思う」


「でも座ってる」


「逃げると霧生さんが捕獲するらしい」


「網?」


「腕力」


「見たい」


「僕は見たくない」


 真昼が少し笑うと、検査室の空気がわずかに緩んだ。


 部屋の隅には、綾瀬直央が立っている。


 記録係としての立会いだ。


 若い刑事は、今日も真面目な顔でメモ帳を持っていたが、真昼とレイのやり取りに少しだけ困ったような笑みを浮かべていた。


「白瀬さん」


 透子が言った。


「始めます。まず、現在の確認です。ご自分の名前を言ってください」


「白瀬真昼」


「年齢」


「十七歳」


「所属」


「私立アガルタ学院高等部二年三組。新聞部所属。個人取材サイト《アガルタ観測録》管理人」


「現在地」


「アガルタ市警察局、特異殺人対策室の検査室」


「隣にいる人物は」


「御影レイ」


「彼はあなたですか」


 真昼は一瞬だけ目を瞬いた。


 レイも、ほんのわずかに透子を見た。


 その質問は、冗談ではなかった。


 真昼は、きちんと答えた。


「違います」


「あなたは、彼の同魂者ですか」


「分かりません」


 少し前なら、そこで言葉に詰まったかもしれない。


 今は違う。


 分からないものは分からない。


 ただし、前よりも少しだけ、答えに近づいている気がする。


 透子は頷いた。


「次に、天沢灯里という名前を聞いて、何が起きますか」


 真昼の胸が、小さく痛んだ。


 白い傘。


 ノクターン書房。


 青年の横顔。


「胸が痛くなります」


「痛みの種類は」


「自分が怒られた時とか、悲しい時の痛みじゃないです。もっと……誰かに触ってしまった感じ」


「身体感覚は」


「少し冷える。指先。あと、右側の前髪が気になる」


「前髪?」


「ヘアピンで留め直したくなる」


 言ってから、真昼は自分で少し顔をしかめた。


「変ですよね」


「変ですが、有用な情報です」


「黒江さん、そういう返し上手いですね」


「褒めていますか」


「半分くらい」


「では半分だけ受け取ります」


 透子は淡々と記録する。


 その様子を見て、真昼は少しだけ安心した。


 異常なことを言っている自覚はある。


 でも、透子は笑わない。


 否定もしない。


 信じるとも言わない。


 ただ記録する。


 それが、今はありがたかった。


「では、検査物に触れてもらいます」


 透子はアクリルケースの一つを開いた。


 中から、古い栞をピンセットで取り出す。


 透明な保護シートに挟まれたまま、真昼の前へ置いた。


 天沢灯里。


 鉛筆の文字は、今も読める。


 消えていない。


 真昼は、それだけで少し息を吐いた。


「素手では触れないでください。手袋の上から、保護シート越しに触れてください。反応が強くなったら、すぐ手を離すこと」


「はい」


「御影さん。白瀬さんの肩を支える位置にいてください。ただし、直接触れるのは私が指示してから」


「分かりました」


「白瀬さん。準備は」


「できてます」


「本当に?」


「たぶん」


 透子の目が少し細くなる。


 真昼は慌てて言い直した。


「できています」


「では、どうぞ」


 真昼は右手を伸ばした。


 手袋越しに、保護シートの端へ触れる。


 冷たい。


 紙そのものではない。


 プラスチックの感触だ。


 それなのに、次の瞬間、胸の奥に雨音が落ちた。


 ぽたり。


 窓際の席。


 ノクターン書房。


 青年が資料を置く。


 天沢さん。


 自分の名前を呼ばれる。


 少し嬉しい。


 けれど、同じくらい申し訳ない。


 私はあなたの名前を知らない。


 あなたは私を呼べるのに。


 私はあなたを呼べない。


 お名前を聞いてもいいですか。


 必要ですか。


 胸が痛む。


 名前を聞くことは、必要だからするものではない。


 呼びたいから聞くのだ。


 でも、彼は怖がっている。


 名前が怖いなら、今日は呼ばない。


 優しい人は、いちばん残酷です。


 真昼の目から、涙が一筋落ちた。


 けれど、今度は倒れなかった。


 椅子の背を掴み、呼吸を整える。


「白瀬さん」


 透子の声が聞こえる。


「見えているものを、言語化してください」


「雨の日のノクターン書房」


 真昼は答えた。


 声は震えていた。


 でも、出た。


「白い傘。水色のハンカチ。銀色のヘアピン。青年が、資料を出してくれる。旧地下鉄事故記録。学院名簿。名前が欠けてる。古河、千……その先は読めない。真木、彼……そこも欠けてる」


 透子のペンが、一瞬だけ止まった。


 真木。


 その名前に反応したのだと、真昼にも分かった。


 だが、透子は何も言わない。


 記録を続ける。


「感情は」


「焦り。怖さ。でも、誰かを怖がらせたくない。名前を聞きたい。でも、傷つけたくない。待ったほうがいい。聞かないほうがいい。でも、聞かなかったら消えるかもしれない」


 真昼は、息を吸う。


「この感情、私のものじゃありません」


「離してください」


 透子が言った。


 真昼は栞から手を離した。


 雨音が遠ざかる。


 検査室へ戻る。


 白い壁。

 蛍光灯。

 透子。

 レイ。

 綾瀬。


 真昼は、自分の頬に触れた。


 濡れている。


「泣いてる」


「泣いています」


 透子が答える。


「自覚は?」


「後から来ました」


「痛みは残っていますか」


「胸に少し」


「自分の感情との区別は」


「できます。でも、完全には分けられません」


「分けようとしすぎないでください。無理に切り離そうとすると、反応が強くなる可能性があります」


「そんなことまで分かるんですか」


「経験上の推測です」


「観測局の?」


 透子は、一瞬だけ黙った。


「はい」


 短い返事だった。


 真昼はそれ以上聞かなかった。


 聞きたいことはある。


 真木彼方。

 K-117。

 先生、僕の名前を呼んでください。


 けれど今は、灯里の残響だけで胸がいっぱいだった。


「次に、御影さん」


 透子が言った。


「同じ栞へ触れてください」


 レイは頷き、手袋をつけた。


 保護シート越しに、栞へ指を触れる。


 真昼は思わず身を乗り出す。


 レイの表情は変わらなかった。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 何も起きない。


 少なくとも、真昼に分かるほどの反応はなかった。


「何か見えますか」


 透子が聞く。


「ほとんど何も」


「ほとんど?」


「紙の匂い。古い鉛筆の感触。誰かが名前を書いたという情報はある。でも、記憶ではない」


「白い傘は」


「見えません」


「ノクターン書房の青年は」


「見えません」


「感情は」


「薄い」


「どの程度」


「本の奥に挟まった栞を見つけた時の、少しの違和感くらい」


 真昼は、妙な気持ちになった。


 安心した。


 レイと同じではない。


 自分がレイと同じように、誰かの死や痛みを直接受け取る存在ではないかもしれない。


 それに安心した。


 同時に、少しだけ傷ついた。


 なぜ傷つくのか分からない。


 レイと同じでいたかったわけではない。


 同魂者かもしれないと思われて、怒ったのは自分だ。


 自分は御影くんじゃない。


 そう言ったのも自分だ。


 それなのに、違うと示された瞬間、彼と別の場所に立っていることを突きつけられた気がした。


 レイは栞から手を離した。


 彼も、少し複雑な顔をしていた。


「白瀬さんは」


 透子が記録しながら言った。


「御影さんと同じ系統ではありません」


 部屋の中が静かになる。


 蛍光灯の音だけが薄く鳴っている。


 真昼は、思ったよりゆっくり頷いた。


「……そうですか」


「安心しましたか」


「少し」


「傷つきましたか」


 真昼は透子を見た。


「そこまで聞きます?」


「重要です」


「少し」


 真昼は正直に言った。


「自分で言ってて変ですけど。安心したのに、少し寂しいです」


 レイがこちらを見る。


 真昼は視線を逸らした。


「御影くんと同じになりたかったわけじゃないよ」


「分かってる」


「でも、違うって言われると、今度は何なのってなる」


「分かる」


「分かるの?」


「たぶん」


「たぶん?」


「僕は、ずっと同じだと思っていたものが違うと知る側だったから」


 真昼は言葉を失った。


 エミー。


 倉科悠斗。


 古河千■。


 同じ魂。


 同じ根。


 でも、同じ人間ではない。


 レイはその痛みを、すでに通っている。


 真昼は今、別の形で同じ入口に立っているのかもしれない。


 透子が言った。


「現時点での仮説を説明します」


 彼女は机の上に、三つのケースを並べ直した。


 栞。


 銀色のヘアピン。


 旧地下鉄事故記録。


「御影さんは、同じアニマを持つ人間の記憶を内側に観測します。死の瞬間、強い恐怖、名前欠落、黒刃ヌルの接触などで、反応が強くなる」


 レイは黙って聞いている。


「白瀬さんは、今のところ、それとは違います。あなたは記憶を内側に観測しているのではなく、記録の欠落に反応している」


 真昼は眉を寄せた。


「記録の欠落」


「名前が消える資料。欠けた名簿。残された栞。本人の署名。記録に触れた時、そこに残っている感情や、消えかけた名前の輪郭を拾っている可能性があります」


「私、記憶を見てるんじゃないんですか」


「完全な記憶ではありません。少なくとも、御影さんのように視界や身体感覚が直接接続される反応とは違う。白瀬さんの場合、物や記録に残った感情、迷い、意志の残響が流れ込んでいるように見えます」


「残響」


 真昼は繰り返した。


 その言葉は、少しだけしっくりきた。


 灯里の人生がそのまま流れ込むのではない。


 雨の日のノクターン書房で、彼女が抱いた迷いの響きだけが、古い栞やヘアピンに残っている。


 真昼はそれを拾っている。


 だから、泣いた。


 自分の感情ではないのに。


 確かに胸が痛かった。


「つまり、私は何なんですか」


 真昼は聞いた。


 透子は、少しだけ言葉を選んだ。


「仮称ですが」


「はい」


「記録者系アニマ」


 その言葉は、思ったより静かに落ちた。


 派手な響きではない。


 でも、真昼の胸の奥で、何かが反応した。


 記録者。


 自分がずっとやってきたこと。


 父が拾った声。


 母が残した資料。


 自分が書いてきた記事。


 偶然ではなかったのか。


 それとも、偶然と呼ぶには根が深すぎたのか。


「記録者系……」


「白瀬さんは、天沢灯里さんと同じ系統のアニマを持っている可能性が高い」


「同じ系統」


「端的に言えば」


 透子は、真昼を見た。


「あなたは、天沢灯里さんの同魂者である可能性が高い」


 真昼は言葉を失った。


 同魂者。


 その言葉は、レイのものだと思っていた。


 エミーのもの。

 悠斗のもの。

 古河千■のもの。

 オメガのもの。

 同じ魂を持つ人たちのもの。


 自分は、その外側にいると思っていた。


 記録する側だと思っていた。


 名前を呼ぶ側だと思っていた。


 でも。


 私も、誰かの同魂者。


「私も」


 真昼は、ようやく声を出した。


「誰かの同魂者……」


 声が小さかった。


 自分でも驚くほど。


 レイが、隣で静かに言った。


「でも、灯里は君じゃない」


 真昼は、彼を見た。


 その言葉は、かつて自分がレイに言った言葉に似ていた。


 私は、御影くんじゃない。


 同じ魂かもしれないとしても、私は白瀬真昼だ。


 あの時、レイはどんな気持ちで聞いていたのだろう。


 今、少し分かった。


 正しい。


 たぶん、とても正しい。


 でも、正しい言葉は、いつもすぐに胸へ馴染むわけではない。


「頭では分かる」


 真昼は言った。


「灯里さんは私じゃない。私は白瀬真昼。アガルタ学院二年三組。新聞部。《アガルタ観測録》の管理人。卵サンドよりツナサンド派。雨の日の取材は嫌いじゃないけど、靴が濡れるのは嫌い」


「後半は必要?」


 レイが聞く。


「必要。私を確認してるの」


「なら続けて」


「今は無理」


 真昼は笑おうとしたが、うまくいかなかった。


「でも、胸が痛い。私のものじゃないのに、私の中にある。灯里さんの迷いも、優しさも、後悔みたいなものも。私の感情じゃないって分かるのに、分けられない」


 レイは、少しだけ目を伏せた。


 それから言った。


「それが、たぶん僕の日常」


 真昼は息を止めた。


 あまりにも静かな言葉だった。


 責める響きはない。


 同情を求めてもいない。


 ただ、事実としてそこに置かれた言葉。


 それが、たぶん僕の日常。


 エミーの死。

 悠斗の痛み。

 古河千■の欠落。

 知らない誰かの恐怖。

 殺した手の感触。

 殺された喉の熱さ。


 レイは、それを何度も受け取ってきた。


 そして、それを自分と他者に分けることができず、ずっと疲れていた。


 真昼は今、ほんの一欠片だけ、それを知った。


 ほんの一欠片。


 それだけで、こんなに胸が痛い。


 なら、レイは。


「御影くん」


「何」


「今まで、よく普通の顔してたね」


「普通の顔に見えてた?」


「死人みたいな顔ではあった」


「じゃあ普通じゃない」


「そうだけど」


 真昼は言葉を探した。


「もっと、言ってよかったんじゃない」


「何を」


「痛いとか、怖いとか、気持ち悪いとか」


「言ったら、何か変わった?」


「少なくとも、私が卵サンド持っていった」


「ツナサンド派なのに?」


「人のためなら譲る」


「大げさだね」


「大げさじゃない」


 真昼は、真面目に言った。


「御影くんが言わないから、分からなかった。分かろうとしたつもりだったけど、全然分かってなかった」


「僕も、君のことは分からない」


「うん」


「灯里のことも、見えない」


「うん」


「たぶん、これからは君が見えるものを、僕は見えない」


「うん」


「だから、言って」


 レイは真昼を見た。


「黙るな」


 真昼は、少しだけ驚いた。


 それは、レイが自分に言われてきたことにも似ていた。


 勝手に抱え込まないで。


 勝手にいなくならないで。


 名前を呼んで。


 今度は、それをレイが言っている。


「御影くんもね」


 真昼は言った。


「そっちも、言って」


「努力する」


「そこは、言うって言って」


「言う」


「よし」


 透子が、軽く咳払いをした。


「検査を続けても?」


 真昼は少し顔が熱くなるのを感じた。


「どうぞ」


「よい相互確認でした」


「記録しないでください」


「必要な範囲で記録します」


「黒江さん、本当にそういうところ」


「職務です」


 綾瀬が部屋の隅で、メモ帳に視線を落としながら少しだけ笑いをこらえていた。


 透子は、三つ目のケースへ手を伸ばす。


 旧地下鉄事故記録。


 古河 千■。


 真昼の胸には、灯里の残響とは違う重さが生まれた。


「次は、御影さんの反応確認です」


 透子が言った。


「白瀬さんは触れません。まず御影さんだけ」


 レイは頷いた。


 新聞切り抜きの複写は、栞よりも薄い紙だった。


 旧地下鉄閉鎖区画で作業員が転落し、死亡したという短い記事。


 名前は欠けている。


 古河 千■。


 レイが手袋をつけ、保護シート越しにその記事へ触れた。


 次の瞬間、彼の呼吸が乱れた。


 真昼は思わず椅子から立ち上がりかける。


 透子が片手で制した。


「待って」


 レイの目の焦点がずれる。


 瞳孔がわずかに開く。


 手が、何かを掴むように震えた。


「御影さん。見えているものを言語化してください」


 透子の声が鋭くなる。


 レイは、低く息を吸った。


「地下」


 声が掠れていた。


「旧地下鉄。作業灯。黄色い光。水の音。ヘルメット。反射ベスト。懐中ライト。割れてる。手が冷たい。手袋が濡れてる」


「名前は」


「古河」


「続きは」


「見えない」


「自分の名前を言えますか」


「御影レイ」


「あなたは古河さんですか」


「違う」


 レイの声が少し震えた。


「でも、近い。近すぎる。地下の匂いがする。黒い傘がいる」


 真昼の背筋が冷えた。


 レイは、記事から手を離そうとしない。


 透子が近づく。


「離してください」


「待って」


「御影さん」


「聞こえる」


「何が」


「俺は」


 レイの喉が詰まる。


 次の瞬間、彼の口から別の声のような言葉が漏れた。


「俺は、お前じゃない」


 検査室の空気が凍った。


 真昼は、心臓を掴まれたような感覚になった。


 その言葉は、旧地下鉄の奥から聞こえた声。


 悠斗が生き残った時にも重なった声。


 古河 千■。


 まだ最後の一文字が読めない人。


 透子が強く言った。


「離してください」


 レイの指が、ようやくシートから離れた。


 彼の身体がぐらりと傾く。


 真昼は反射的に立ち上がった。


 透子より先に、レイの肩を支える。


「御影くん!」


 レイは数秒、何も見えていない目をしていた。


 それから、ゆっくり焦点が戻る。


「白瀬」


「うん。白瀬真昼」


「……検査室?」


「そう。市警の検査室」


「古河さんは」


「今はいない」


「名前が」


「まだ欠けてる」


 レイは小さく息を吐いた。


 額に汗が浮いている。


 真昼は、自分がさっき栞に触れた時のことを思い出した。


 胸が痛かった。


 涙が出た。


 でも、レイの反応はそれよりずっと深い。


 身体ごと地下へ引きずられていた。


 真昼は、レイの肩から手を離せなかった。


「御影さん」


 透子が声をかける。


「現在名を」


「御影レイ」


「年齢」


「十七歳」


「現在地」


「アガルタ市警察局、特異殺人対策室の検査室」


「隣にいる人物は」


「白瀬真昼」


「彼女はあなたですか」


「違う」


「古河さんはあなたですか」


 レイは、ほんの少しだけ黙った。


 そして答えた。


「違う。でも、僕に近い」


「反応を記録します」


 透子の声は冷静だった。


 だが、顔色は少し悪かった。


 古河 千■。


 C-04。


 観測局の記録にあるはずの名前。


 透子は、それを知っている。


 少なくとも、何かを知っている。


 真昼はそれに気づいたが、今は追及しなかった。


 レイの肩が、まだ震えていたからだ。


「白瀬さん」


 透子が言った。


「分かりますか」


「何がですか」


「反応の違いです」


 真昼は、栞と事故記録を見比べた。


 天沢灯里の栞。


 古河 千■の事故記事。


 自分は栞に触れ、灯里の感情を受け取った。


 レイはほとんど何も起きなかった。


 逆に、レイは事故記録に触れ、地下の記憶に引きずられた。


 真昼には、それは見えない。


 ただ、欠けた名前への焦りだけがある。


「違います」


 真昼は言った。


「全然、違う」


「ええ」


 透子は頷いた。


「御影さんは、レイ系アニマの記憶を見る。白瀬さんは、記録者系アニマの記録残響に反応する。天沢灯里さんは、白瀬さんと同じ系統。古河さんは、御影さんと同じ系統」


「じゃあ」


 真昼は事故記録を見る。


「この古河さんの名前を取り戻すには、御影くんだけじゃ足りない?」


「おそらく」


 透子は言った。


「御影さんは死の記憶に近づけます。ただし、黒刃ヌルによる切断が深い場合、名前や顔、死の瞬間が欠ける。白瀬さんは、欠けた記録の側から名前の輪郭を追える可能性があります」


「私が」


「はい」


「でも、私には古河さんの記憶は見えない」


「見えなくていいのです」


 透子の声が少しだけ柔らかくなった。


「あなたは、見えない記憶を記録から拾う人です」


 真昼は、言葉を失った。


 見えない記憶を、記録から拾う。


 それは、自分がやってきたことと同じだった。


 事件現場へ行き、証言を聞き、古い記事を探し、名前を残す。


 ただ、それが今は、もっと深いところへつながっている。


 自分の内側にある灯里の残響と。


 消えかけた古河という名前と。


 名前を呼んでほしかった真木彼方という少年と。


 そして、名前を呼ばれることを恐れている青年と。


「私、どうすればいいんですか」


 真昼は聞いた。


 透子はすぐには答えなかった。


「今は、急いで結論を出さないこと」


「それが一番苦手です」


「知っています」


「ひどい」


「次に、触れた物と感情を分けて記録すること。何を見たか。何を感じたか。それが自分の感情か、灯里さんの残響か、判断できないなら判断できないと書くこと」


「分からないものを、分からないまま記録する」


「はい」


「黒江さん、それ好きですね」


「必要ですから」


 真昼は、少しだけ息を吐いた。


 必要。


 また、その言葉だ。


 必要ですか。


 ノクターン書房の青年の声が、胸の奥で重なる。


 名前を聞くことに、必要はあるのか。


 記録することに、必要はあるのか。


 誰かの痛みを掘り起こすことに、必要はあるのか。


 まだ答えはない。


 でも、消えかけている名前はある。


 それだけは、確かだった。


     *


 検査が終わる頃には、夕方になっていた。


 市警の窓の外では、雨が降り始めている。


 細い雨だった。


 アガルタではよくある、空全体が静かに湿っていくような雨。


 検査室の机の上には、栞、ヘアピン、事故記録が再びケースへ戻されている。


 真昼は、透明ケース越しに天沢灯里の名前を見た。


 まだ読める。


 それだけで、少し安心する。


 レイは隣で水を飲んでいた。


 いつもより顔色が悪い。


「御影くん」


「何」


「大丈夫?」


「大丈夫じゃない」


 真昼は少し驚いた。


「珍しい」


「言えって言ったのは君」


「言った」


「だから、大丈夫じゃない」


「じゃあ、どうする?」


「少し座る」


「うん」


 レイは椅子に深く座り直した。


 真昼も隣に座る。


 透子は綾瀬と検査記録の確認をしている。二人の声は低く、こちらまでは内容がはっきり届かない。


 真昼は、レイの横顔を見た。


 いつも静かで、分かりにくい横顔。


 でも今は、その静けさの奥に疲労が見える。


「それが、たぶん僕の日常」


 さっきの言葉が、まだ胸に残っている。


「御影くん」


「何」


「私、たぶん少しだけ分かった」


「何を」


「全部は無理。全然無理。でも、少しだけ」


 真昼は、自分の胸に手を当てた。


「自分のものじゃない感情が中にあるの、気持ち悪いね」


「うん」


「でも、捨てられない」


「うん」


「捨てたら、その人を捨てるみたいになる」


「うん」


「抱えてると、自分がどこまで自分なのか分からなくなる」


「うん」


 レイは、ただ短く返事をした。


 その短さが、今は優しかった。


 真昼は天井を見上げた。


「灯里さんは私じゃない。分かってる。でも、私の中にある痛みは本物で。あの人の優しさも、迷いも、なかったことにできない」


「できないね」


「御影くんは、ずっとそうだったんだね」


「ずっとかは分からない」


「いつから?」


「覚えている限り」


「それ、答えになってない」


「僕もそう思う」


 真昼は、小さく笑った。


 でも、笑いながら少し泣きそうになった。


 レイの孤独は、これまで物語みたいに聞こえていたのかもしれない。


 同魂者。

 多元人格。

 アルファ。

 死の記憶。


 言葉が大きすぎて、その中にある日々の気持ち悪さや、朝起きた時の違和感や、食事の味が遠くなる瞬間や、誰かの痛みを自分のもののように感じる疲労まで、想像できていなかった。


 今、少しだけ分かった。


 少しだけ。


 だからこそ、全部分かった気にはなれなかった。


「御影くん」


「何」


「私は灯里さんじゃない」


「うん」


「でも、灯里さんを知らないままにはしない」


「うん」


「古河さんの名前も、欠けたままにはしない」


「危ないよ」


「知ってる」


「怖いよ」


「知ってる」


「遭難するよ」


「そこは止めて」


「じゃあ、迷ったら呼ぶ」


「私を?」


「白瀬真昼」


 その名前を呼ばれた瞬間、真昼は少しだけ背筋を伸ばした。


 自分の名前。


 灯里ではない。


 レイでもない。


 白瀬真昼。


「じゃあ、私も呼ぶ」


「僕を?」


「御影レイ」


 レイは一瞬だけ目を伏せた。


 その反応は小さかった。


 でも、真昼には分かった。


 彼も、自分の名前を呼ばれることで戻ってきている。


 母の声だけでなく。


 今は、真昼の声でも。


「御影レイ」


 真昼はもう一度呼んだ。


「しつこい」


「生存確認」


「点呼じゃないの」


「生存確認」


「便利だね」


「便利だから使う」


 レイは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 それを見て、真昼もようやく息を吐けた。


 検査室の机の上では、三つのケースが静かに並んでいる。


 天沢灯里。


 銀色のヘアピン。


 古河 千■。


 レイが見えるもの。


 真昼が拾えるもの。


 透子が記録するもの。


 それぞれが違う。


 違うから、足りない部分を補えるのかもしれない。


 真昼は、そう思った。


 ただし、同時に分かっていた。


 名前を拾うということは、その人の痛みの近くへ行くことでもある。


 灯里の優しさは、痛かった。


 古河の欠落は、まだ黒く濡れている。


 真木彼方の名前は、透子の沈黙の奥にある。


 そして、ノクターン書房の青年は、まだ自分の名前を言わない。


 雨は、窓を細く叩いていた。


 その音の中で、真昼は胸の内側に二つの名前を書いた。


 白瀬真昼。


 天沢灯里。


 混ぜないように。


 どちらも消さないように。


 別々の名前として。

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