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第二章 天沢■■

 旧新聞部室の窓は、雨が降っていない日でも曇っている。


 古い木枠の隙間に湿気が溜まり、ガラスの端には白い水垢が残っている。外では昼休み明けの校庭に生徒たちの声が散っていたが、この部屋まで届く頃には、遠い駅のアナウンスみたいにぼやけていた。


 白瀬真昼は、机の上に置いた銀色のヘアピンを見つめていた。


 触れたのは一度だけ。


 それなのに、指先にはまだ金属の冷たさが残っている。


 白い折りたたみ傘。

 雨の日の坂道。

 古書店の窓際。

 コーヒーの湯気。

 名前を聞けなかった青年。


 その断片は、夢のようで、夢ではなかった。


 真昼自身の記憶ではない。


 でも、自分の中にある。


 それが一番気持ち悪かった。


 知らないはずのものを、懐かしいと思ってしまう。


 行ったことのある場所みたいに、ノクターン書房の床板の軋み方を思い出せる。


 見たことのない青年の横顔が、雨音と一緒に胸に残っている。


 真昼は机に額をつけそうになって、寸前で踏みとどまった。


「寝るなら保健室」


 御影レイが言った。


 彼は机の向かい側で、古い資料を広げている。窓から入る薄い光が、彼の灰青色の目に淡く反射していた。何を考えているのか分かりにくい顔はいつも通りだが、指先は資料の端を何度も揃えている。


 彼なりに落ち着かないのだと、真昼には分かった。


「寝てない」


「額が机に落ちる三秒前だった」


「観察が細かい」


「君が分かりやすい」


「それは嫌だな」


 真昼は顔を上げた。


 机の上には、旧新聞部室で見つかった資料が並んでいる。


 図書委員会の古い連絡票。

 旧新聞部資料整理の報告記事。

 ノクターン書房の貸出票の複写らしき紙。

 名前の二文字目から先が薄れたラベル。

 そして、銀色のヘアピン。


 真昼は、ラベルの文字をもう一度読もうとした。


 天■ ■■。


 目を凝らせば凝らすほど、文字は遠ざかる。


 昨日までは、少なくとも天沢と読めたはずだった。


 今はもう、二文字目すら確信できない。


「これ、今日中に読めなくなるかも」


 真昼が言うと、レイは小さく頷いた。


「消え方が速い」


「私の記事のせいかな」


「それは違うって言った」


「でも、引き金にはなった」


「引き金を引いたのは君じゃない」


「そういう言い方、黒江さんに似てきたよ」


「本当に最悪だ」


 レイは少しだけ顔をしかめた。


 真昼は、それを見てようやく少し笑えた。


 黒江透子へは、すでに連絡してある。


 銀色のヘアピンは証拠品として扱うべきだと、透子は当然のように言った。ただし、今すぐ特殺室へ持ってくるなとも言った。


 理由は、ヘアピンが真昼の記憶残響を誘発している可能性があるから。


 無理に移動させる前に、現場での記録を取る必要がある。


 そして、もうひとつ。


 透子は、短く言った。


 ノクターン書房へ行くなら、単独では行かないこと。


 霧生仁なら、行くなと言っただろう。


 透子は言わなかった。


 言っても真昼が聞かないと分かっているからだ。


 代わりに条件をつけた。


 御影レイを同行させること。

 会話は録音すること。

 資料には素手で触れないこと。

 店番の青年に名前を尋ねる時は、相手の反応を観察すること。

 危険を感じたら即時撤退すること。


 真昼は全部聞きながら、最後だけ曖昧に返事をした。


 透子は通話の向こうで沈黙したあと、こう言った。


『白瀬さん。撤退する勇気がない取材者は、記録者ではなく遭難者です』


 その言葉は、地味に刺さった。


「ねえ、御影くん」


「何」


「私、遭難者に見える?」


「見える」


「即答」


「危険な場所に自分から入って、出口を確認しないタイプ」


「ひどい」


「正確」


「もっとひどい」


 真昼は頬を膨らませた。


 しかし否定はできなかった。


 自覚はある。


 だからこそ、今日だけは準備をしている。


 ボイスレコーダー。

 手袋。

 証拠用の小袋。

 予備バッテリー。

 黒江から送られてきた簡易記録フォーマット。

 そして、銀色のヘアピンを入れた透明ケース。


 ケース越しでも、ヘアピンは薄く光っている。


 誰かの名前を呼ぶ前の、細い息のように。


「行こう」


 真昼は立ち上がった。


 レイも資料を閉じる。


「確認するけど」


「何」


「ノクターン書房で勝手に閉架書庫へ入らない」


「はい」


「資料に素手で触らない」


「はい」


「店番の青年に殴りかからない」


「私、そんなに武闘派じゃない」


「口で殴りかかる」


「それは否定しにくい」


「危険を感じたら出る」


 真昼は一瞬だけ返事が遅れた。


 レイがそれを見逃さない。


「白瀬」


「分かってる」


「本当に?」


「本当に」


「たぶんじゃなくて?」


「本当に。……でも」


「でも?」


「名前が消えそうだったら、少しだけ粘る」


「それを撤退できないって言う」


「記録者としての粘りです」


「遭難者の言い訳」


「うるさい」


 真昼はケースを鞄に入れた。


 古い木の扉を開けると、廊下の向こうから生徒たちの声が流れ込んできた。


 日常の音。


 出席番号で呼ばれる声。

 教師の足音。

 誰かの笑い声。

 プリントが配られる紙の音。


 名前が当たり前にある場所。


 その当たり前の中で、天沢■■という名前だけが、今も少しずつ薄れている。


 真昼は、胸の奥で欠けた音を探した。


 天沢――。


 まだ、続きは分からない。


     *


 ノクターン書房は、雨のない日にも雨の匂いがした。


 アガルタ学院から坂を下った先、古い商店街と住宅街の境目にある。黒に近い深緑の扉。曇ったガラス窓。軒下に吊るされた小さな看板。金色の文字で、Nocturne Books と書かれている。


 店の前の石畳は乾いていた。


 それなのに、真昼には水たまりがあるように見えた。


 白い傘が倒れている。


 銀色のヘアピンが沈んでいる。


 そんな幻が、視界の端で一瞬だけ揺れる。


 彼女は足を止めた。


 レイが横で気づく。


「見えた?」


「少し」


「何」


「白い傘」


「黒い傘は」


「今は見えない」


「なら入る」


「黒い傘が見えたら?」


「出る」


「本当に?」


「たぶん」


「私のこと言えないじゃん」


 真昼が言うと、レイは目を逸らした。


 扉を開ける。


 鈴が鳴った。


 高すぎず、低すぎず、雨の日のガラス窓に似た音。


 その音を聞いた瞬間、真昼の胸がきゅっと縮んだ。


 知っている。


 この音を、知っている。


 初めて来た時も聞いた。


 いや、初めてではない。


 誰かが、ここで何度も聞いた。


 白い傘を畳み、銀色のヘアピンを直し、古い資料の匂いに少しだけ安心しながら。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの奥から、店番の青年が顔を上げた。


 白いシャツ。

 黒いカーディガン。

 店のエプロン。

 整っているのに、印象が少し曖昧な顔。


 彼は、いつも通り静かだった。


 真昼は、その「いつも通り」が怖かった。


 旧地下鉄の閉鎖ホームで黒い傘の人物と対峙したあとでも。


 真昼の記事に匿名メッセージが届いたあとでも。


 旧新聞部室で名前が消え始めたあとでも。


 彼は、ただの古書店の店番としてそこにいる。


「白瀬さん。御影くん」


 青年は二人の名前を呼んだ。


 レイの目がわずかに細くなる。


 真昼も気づいた。


 彼は、こちらの名前を覚えている。


 しかし、自分の名前は言わない。


「こんにちは」


 真昼は、できるだけ普通に挨拶した。


「今日は、資料を探しに来ました」


「いつものように、旧地下鉄関係ですか」


「それもあります。でも、今日は別のものです」


 真昼は鞄から透明ケースを取り出した。


 カウンターに置く。


 中に入った銀色のヘアピンが、店内の柔らかい光を受けて白く光った。


 青年の表情が、一瞬だけ止まった。


 本当に一瞬だった。


 けれど、その一瞬で十分だった。


 レイもそれを見ていた。


 青年は、すぐにいつもの顔へ戻る。


「それは、どこで?」


 声は穏やかだった。


 だが、少しだけ低かった。


 真昼は答えた。


「旧新聞部室にありました」


 青年は、ヘアピンを見つめたまま、ほんのわずかに目を伏せた。


 触れようとはしない。


 ケース越しでも、近づきすぎない。


 まるで、それがただの物ではないと知っているようだった。


「そうですか」


 それだけ。


 真昼は待った。


 彼が何か言うかもしれないと思った。


 しかし青年は、それ以上聞かなかった。


 どの資料に挟まっていたのか。

 誰が見つけたのか。

 なぜ持ってきたのか。


 普通なら聞くはずのことを、何も聞かなかった。


 代わりに、彼は静かにカウンターの奥へ向かった。


「少しお待ちください」


 そう言って、奥の閉架書庫へ入っていく。


 黒いカーテンの向こうへ姿が消えた。


 真昼は小さく息を吐いた。


「今、反応したよね」


「した」


 レイは即答した。


「知ってるよね」


「たぶん」


「たぶんじゃなくて」


「証拠がない」


「御影くん、すぐ黒江さんになる」


「嫌な進化だ」


 真昼は小声で言い、カウンターの上のケースへ視線を戻した。


 銀色のヘアピン。


 この店に、かつて同じものをつけた少女が来ていた。


 白い傘を持って。


 名前を聞けなかった青年の前に座って。


 そのことを、店番の青年は知っている。


 知っていて、今も何も言わない。


 閉架書庫の奥から、紙箱を動かす音がした。


 古い木棚が軋む。


 レイは、店内をゆっくり見回していた。


「どうしたの」


 真昼が聞く。


「静かすぎる」


「お店が?」


「彼の周り」


 レイはカウンター奥の黒いカーテンを見る。


「普通、同魂者や記憶欠落に近づくと、何かしら混ざる。音、匂い、痛み、視界の端。少なくとも違和感がある」


「ここでは?」


「何もない」


「安全ってこと?」


「違う」


 レイの声が低くなる。


「何もないのが、異常」


 真昼は唇を結んだ。


 店内では、古い時計が秒針を刻んでいる。


 コーヒーの香り。


 古紙の匂い。


 窓の外を通る車の音。


 普通の古書店。


 でも、真昼の胸の奥では、白い傘が濡れている。


 青年が戻ってきた。


 手には、薄い茶色の封筒と、小さな紙箱を持っている。


「こちらを」


 カウンターに封筒を置く。


 封筒には手書きの文字がある。


 旧貸出票控え/学院新聞資料/A.A.


 真昼は手袋をつけた。


 青年は、それを見てかすかに頷く。


 彼女が封筒を開くと、中には古い貸出票が数枚入っていた。


 ノクターン書房のものではない。


 アガルタ学院図書館の古い貸出票に、ノクターン書房の管理票が重ねられている。


 資料名。


 旧地下鉄閉鎖区画事故記録。

 学院新聞縮刷版。

 失踪者関連記事切抜帳。

 図書委員会整理記録。


 貸出者欄。


 天沢 灯■


 真昼の指が止まった。


 読める。


 ここまで読める。


 天沢。


 灯。


 その次だけが、滲んでいる。


 天沢 灯■。


 真昼は紙へ顔を近づけた。


 ルーペを取り出し、最後の一文字を追う。


 灯の次。


 里か。

 莉か。

 理か。

 璃か。


 滲みは、ただのインクの劣化ではない。


 文字の輪郭そのものが、そこに留まることを拒んでいる。


「あと一文字……」


 真昼は呟いた。


 胸が痛い。


 焦りで息が浅くなる。


 今読めなければ、もう読めなくなる気がした。


 指先に汗が滲む。


 レイが横から言う。


「無理に見すぎるな」


「でも」


「文字が読めない時は、資料を増やす」


「……黒江さんっぽい」


「もう否定するの疲れた」


 レイは青年を見た。


 視線が鋭くなる。


「あなたは、天沢灯里を知っているんですか」


 最後の一文字を、レイは言った。


 灯里。


 真昼は、息を呑んだ。


 その読み方は、まだ資料から確定していない。


 けれど、レイは言った。


 なぜか。


 彼も何かを感じたのか。


 それとも、欠けた名前の周囲に漂う音を、直感で拾ったのか。


 青年は、少しだけ目を伏せた。


「名前が欠けた方について、断定して語るのは難しい」


 穏やかな返事だった。


 丁寧で、理屈としては正しい。


 だが、真昼は胸の奥がざらついた。


 レイの声も硬くなる。


「知っているかどうかを聞いています」


「記録に残っている方であれば」


「そういう答えが聞きたいんじゃない」


「では、どのような答えを?」


「あなたが彼女を知っていたのか」


 店内の空気が、少しだけ重くなった。


 古い時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。


 青年はレイを見た。


 その目は、さっきまでより少し暗かった。


「御影くん」


 声は柔らかい。


「知っていた、と言うことは簡単です。ですが、名前が欠けている人を、知っていたと断定することは、その人を別の形で固定してしまう危険があります」


「固定?」


「記録は、残すだけではありません。閉じ込めることもあります」


 真昼は、その言葉に反応した。


 灯里の残響が、胸の奥で小さく揺れる。


 名前を残すことは、時々、人を傷つけます。


 記憶の中の青年が、そう言っていた気がする。


 レイは引かなかった。


「あなたは答えを避けている」


「避けています」


 青年はあっさり認めた。


 真昼とレイは、同時に黙った。


 青年は続ける。


「名前が欠けた方の話は、慎重であるべきです」


「慎重にしているうちに消えたら?」


 真昼が口を挟んだ。


 青年が彼女を見る。


「消えたら、どうするんですか」


 真昼は貸出票を指した。


「この人の名前、もう消えかけてる。旧新聞部室の資料からも消えてる。私の記事に、次は彼女の名前が消えるってコメントが来た。慎重に待っている間に消されたら、誰が責任を取るんですか」


 言ってから、少しだけ胸が痛んだ。


 灯里なら、こんなふうに詰めなかったかもしれない。


 相手の沈黙を待ったかもしれない。


 名前が怖いなら、今日は呼ばない。


 そう言えたかもしれない。


 でも、真昼は言えなかった。


 目の前で名前が消えかけている。


 それを見ながら、相手の準備ができるまで待つことが、どうしてもできない。


 青年は、真昼を見つめていた。


 責める目ではない。


 ただ、遠くを見るような目だった。


「あなたは」


 彼は静かに言った。


「彼女よりまっすぐ聞くのですね」


 真昼の呼吸が止まった。


 レイの目が鋭くなる。


「彼女」


 真昼は繰り返した。


「彼女って、誰ですか」


 青年は答えない。


 真昼は一歩前へ出た。


「天沢灯里さん?」


 店内の空気が、確かに揺れた。


 窓の外を車が通った音が、遠くへ引き伸ばされる。


 古い時計の秒針が一拍だけ遅れたように聞こえた。


 青年の表情は変わらなかった。


 だが、変わらなさすぎた。


 それが答えだった。


「あなたは、その人に名前を聞かれたんですか」


 真昼は聞いた。


 青年は、すぐには答えなかった。


 カウンターの上の銀色のヘアピンを見た。


 それから、貸出票を見る。


 天沢 灯■。


 最後に、真昼を見る。


「名前を聞かれたことはあります」


「答えたんですか」


「いいえ」


「どうして」


「必要がなかったので」


「本当に?」


「そう思いたかった」


 その声が、初めて少しだけ揺れた。


 真昼は言葉を失った。


 青年は、すぐにいつもの声へ戻る。


「白瀬さん。閉架書庫に、関連する整理カードがもう少しあります。見ますか」


「見ます」


 真昼は即答した。


 レイが横で小さく息を吐く。


「危険を感じたら出る約束」


「感じてる?」


「少し」


「じゃあ、少しだけ見る」


「それが危ない」


「分かってる。でも、ここまで来て見ない選択はない」


 レイは数秒沈黙した。


 そして、青年へ視線を戻す。


「僕も行きます」


「もちろんです」


 青年は黒いカーテンの奥へ向かった。


     *


 閉架書庫は、店の奥にあった。


 表の売り場よりも空気が冷たい。


 天井は低く、壁一面に古い本棚と紙箱が詰まっている。棚には手書きのラベルが並んでいた。


 学院新聞。

 旧地下鉄。

 失踪者。

 郷土資料。

 観測局関連疑い。

 氏名欠損。

 未分類。


 真昼は最後の二つのラベルを見て、胸がざわついた。


「こんな分類、普通の古書店にある?」


 彼女が小声で聞くと、レイは答えた。


「普通じゃない」


「だよね」


「でも、今さら」


「確かに」


 青年は棚の前で足を止め、古い紙箱を引き出した。


「このあたりです」


 箱の蓋を開けると、中には整理カードが縦に並んでいた。


 図書館の古いカード目録に似ている。


 資料名。

 日付。

 貸出者。

 保管場所。

 備考欄。


 青年は数枚を選び、閲覧台へ置いた。


「手袋のままでお願いします」


「はい」


 真昼はカードを一枚ずつ確認した。


 旧新聞部資料整理カード。

 A.A.

 図書委員会補助。

 白い傘。

 銀色ヘアピン。

 旧地下鉄事故記録閲覧。

 名前欠損記事の再分類。


 どれも断片だった。


 まるで誰かが、名前を直接書かずに輪郭だけを残そうとしたみたいだった。


 真昼はカードを見ながら、次第に息が苦しくなるのを感じた。


 この文字を、誰かが書いた。


 細い鉛筆の跡。


 丁寧で、少し右上がりの字。


 真昼の字とは違う。


 でも、手首の角度を知っている気がする。


 鉛筆を持つ時の力加減を知っている気がする。


 資料を汚さないように、息を止める癖を知っている気がする。


「白瀬」


 レイが低く呼んだ。


「大丈夫」


「まだ何も言ってない」


「言われる前に言った」


「それが大丈夫じゃない」


 真昼は苦笑しようとして、できなかった。


 閉架書庫の奥が気になる。


 本棚と本棚の隙間。


 そこに、小さな木箱が置かれている。


 さっきから、視界の端に引っかかっていた。


 呼ばれているような気がする。


 いや、呼ばれてはいない。


 名前を呼ばれているわけではない。


 でも、探してほしいと言われている気がする。


「奥、見てもいいですか」


 真昼が聞く。


 青年は、少しだけ間を置いた。


「足元に気をつけてください」


 止めない。


 そのことが、逆に不気味だった。


 レイが先に動こうとした。


 真昼が制する。


「私が見る」


「危ない」


「でも、これはたぶん、私のほう」


「君のほう?」


「御影くんには見えないもの」


 レイは黙った。


 その沈黙は、悔しさを含んでいた。


 自分には見えない。


 それを認めるのは、彼にとって簡単ではないはずだった。


 でも、彼は引いた。


「手を伸ばす前に言え」


「はい」


 真昼は棚の隙間へ進んだ。


 足元の床板が小さく軋む。


 奥の木箱には、古い栞や貸出票、未整理の紙片が入っていた。ほとんどは色褪せ、端が丸まっている。


 その中に、一枚だけ、少し厚い紙の栞があった。


 生成り色。


 角が少し折れている。


 表には、鉛筆で小さな文字が書かれていた。


 真昼は手を伸ばす前に、約束通り言った。


「栞がある」


「触るな」


 レイが即座に言う。


「見るだけ」


 真昼は手袋のまま、栞をそっと摘んだ。


 古い紙は軽かった。


 でも、触れた瞬間、胸の奥が重くなる。


 栞の文字を読む。


 天沢灯里


 完全な名前だった。


 滲んでいない。


 欠けていない。


 天沢灯里。


 あまさわ、あかり。


 読みが、頭の中に自然に浮かぶ。


 誰かがそう呼んだわけではない。


 でも、分かった。


 その名前を見た瞬間、真昼の視界が揺れた。


 閉架書庫の冷たい空気が遠ざかる。


 レイの声も、青年の気配も、棚の匂いも、すべて水の向こうへ沈む。


     *


 雨の日のノクターン書房。


 白い折りたたみ傘を畳む。


 傘の骨に残った水滴を、淡い水色のハンカチで拭う。


 本棚のそばに濡れた傘を置いてはいけない。


 紙は濡れると、角から傷む。


 右側の前髪を、銀色のヘアピンで留め直す。


 カウンターの青年が顔を上げる。


 いらっしゃいませ。


 柔らかい声。


 雨音を邪魔しない声。


 お願いしていた資料を見せていただけますか。


 旧地下鉄事故記録と、名前が欠けた学院名簿ですね。


 彼は、もう覚えている。


 天沢さん。


 自分の名前を呼ばれた時、少し嬉しい。


 でも、同時に気づく。


 彼は私の名前を呼ぶ。


 なのに、私は彼の名前を知らない。


 お名前を聞いてもいいですか。


 必要ですか。


 その返事が、胸を刺す。


 必要だから聞いたわけではない。


 呼びたかった。


 ありがとうと言う時に。


 また来ますと言う時に。


 あなたはここにいますね、と確認する時に。


 でも、彼の顔から表情が消える。


 怖がらせた。


 名前を聞くことが、この人には刃になる。


 だから、言う。


 名前が怖いなら、今日は呼ばない。


 青年は、何も言わない。


 雨音だけがする。


 やがて彼は微笑む。


 優しい人は、いちばん残酷です。


 胸が痛む。


 責められたからではない。


 たぶん、その言葉が本当だから。


 優しさで、相手の傷に触れてしまった。


 呼ばないことで、逆に彼の名前がないことを示してしまった。


 私は、どうすればよかったのだろう。


     *


 真昼は、閉架書庫の床に膝をついていた。


 いつの間にか涙が落ちていた。


 頬が濡れている。


 泣こうと思ったわけではない。


 悲しいと理解するより先に、涙だけが出ていた。


 レイがすぐ隣にいる。


 彼の手が、真昼の肩を支えていた。


「白瀬真昼」


 彼が名前を呼んだ。


 いつもの白瀬ではない。


 真昼でもない。


 白瀬真昼。


 その全部を呼ばれて、真昼は息を吸った。


「……戻った」


「今のは?」


「灯里さん」


 名前を口にした瞬間、胸がまた痛んだ。


 でも、今度は痛みだけではなかった。


 そこに輪郭がある。


 天沢灯里。


 白い傘の少女。


 銀色のヘアピンの少女。


 旧新聞部室の資料整理をしていた人。


 ノクターン書房で、青年の名前を聞けなかった人。


 真昼は、栞を見つめた。


「天沢灯里」


 もう一度、言う。


 名前は消えなかった。


 栞の上の文字も、まだ読める。


 真昼の涙が、手袋の上に落ちた。


「これ、私の感情じゃない」


 彼女は言った。


「でも、確かに胸が痛い」


 レイは黙って聞いている。


「その人、優しかった。たぶん、私よりずっと。相手が傷つくなら、聞かないでいられる人だった。でも、聞かなかったことも痛かった。呼ばなかったことも、ずっと残ってた」


 真昼は、カウンターのほうに立つ青年を見た。


 彼は、閉架書庫の入口で静かにこちらを見ていた。


 表情は穏やかだった。


 けれど、その目だけが、少し遠かった。


「あなたは」


 真昼は声を整えようとした。


 うまくいかなかった。


 それでも聞いた。


「灯里さんを、覚えているんですね」


 青年は答えなかった。


 沈黙。


 それが、また答えに近かった。


 レイが立ち上がる。


「あなたは、天沢灯里が殺されたことも知っているんですか」


 青年は、ゆっくりと視線をレイへ移した。


「御影くん」


 声は静かだった。


「記録が欠けた死について、断定して語ることはできません」


「またそれですか」


 レイの声が低くなる。


「便利な言葉ですね」


「ええ」


 青年は否定しなかった。


「便利な言葉は、時々、人を守ります」


「誰を」


「語る人を」


「被害者ではなく?」


「語る人が壊れれば、被害者の名前を残す人もいなくなります」


 レイは黙った。


 真昼は、栞を握る手に力を込めた。


 青年の言葉は、逃げているようにも聞こえる。


 でも、完全な嘘には聞こえない。


 名前を残すことは、残す側にも傷を残す。


 真昼は、もうそれを知ってしまった。


「あなたの名前は」


 真昼は言いかけた。


 レイが横でわずかに息を呑む。


 青年の表情が、また静かに消える。


 栞の中の灯里の声が、胸の奥で響く。


 名前が怖いなら、今日は呼ばない。


 真昼は、言葉を止めた。


 聞きたい。


 聞かなければと思う。


 でも今、この場で無理に聞けば、灯里の痛みを踏みつけるような気がした。


 真昼は、ゆっくり言い直した。


「今日は、聞きません」


 青年の目が、わずかに揺れた。


「でも、忘れません」


 真昼は続ける。


「あなたに名前があることも。灯里さんが、あなたの名前を聞けなかったことも。あなたが、灯里さんを知っていることも」


 青年は、しばらく何も言わなかった。


 やがて、静かに頭を下げる。


「それは、残酷ですね」


「そうかもしれません」


 真昼は、涙を拭わないまま答えた。


「でも、消すよりはましです」


 青年は、微笑んだ。


 それは、嬉しそうでも、悲しそうでもなかった。


 ただ、雨の日に濡れた本を閉じる時のような表情だった。


     *


 ノクターン書房を出る頃、外には細い雨が降り始めていた。


 天気予報にはなかった雨。


 坂道の石畳が、少しずつ黒く濡れていく。


 真昼は透明な傘を開いた。


 白い傘ではない。


 銀色のヘアピンも、自分の髪にはついていない。


 それでも、店を出る時、胸の奥で誰かが振り返ったような気がした。


 レイは隣で傘を差さずにいた。


「傘」


 真昼が言う。


「持ってない」


「何で」


「朝は晴れてた」


「アガルタでその油断は駄目でしょ」


「君に言われたくない」


「入る?」


「狭い」


「拒否が早い」


「濡れて帰る」


「佳乃さんに怒られるよ」


 レイは数秒考えた。


 それから、真昼の傘に入った。


 肩が少しぶつかる。


 真昼は、少しだけ笑った。


「珍しい」


「母さんに怒られるほうが面倒」


「そこ?」


「そこ」


 二人は坂道を下り始めた。


 ノクターン書房の窓明かりが背後に遠ざかる。


 真昼は鞄の中の栞を意識していた。


 証拠品として、あとで透子へ渡すことになる。


 でも、その前に、名前を見つけた。


 天沢灯里。


 胸の中で、その音が静かに灯っている。


 真昼は呟いた。


「天沢灯里」


 雨音の中で、名前は消えなかった。


 レイが横で言う。


「完全に読めた」


「うん」


「でも、まだ分からないことだらけ」


「うん」


「彼女が君の何なのかも」


「うん」


「店番の青年が何者なのかも」


「うん」


「黒い傘の人物と同じなのかも」


「うん」


「うんしか言わない」


「今、考えることが多い」


「珍しく静かだ」


「失礼」


 真昼は傘の柄を握り直した。


「でも、ひとつだけ分かった」


「何」


「灯里さんは、私じゃない」


 レイは、少しだけこちらを見る。


 真昼は雨の坂道を見ながら続けた。


「でも、私の中にいる。変な言い方だけど、いる。記憶じゃなくて、感情の跡みたいに」


「灯里は私だった。でも、私じゃなかった」


 レイが言う。


 真昼は、彼を見た。


「それ、私が言うやつじゃない?」


「たぶん、まだ早い」


「先に言わないで」


「仮説」


「ずるい」


 真昼は少しだけ笑った。


 笑ったあと、すぐに目元が熱くなる。


 自分の涙なのか、灯里の涙なのか、まだ分からない。


 でも、どちらでもいい気がした。


 涙が出るなら、そこには誰かがいた。


 誰かの名前がある。


「御影くん」


「何」


「私、灯里さんの記事を書くと思う」


「今すぐ?」


「まだ書けない」


「珍しい」


「うるさい」


 真昼は傘の内側で、小さく息を吐いた。


「エミーさんの時とは違う。今度は、私の中に入ってくる。灯里さんの優しさとか、迷いとか、痛みとか。だから、余計に怖い。私が書くと、灯里さんじゃなくて私の記事になりそうで」


「なら、調べるしかない」


「うん」


「君が言ってた。記憶してるのと、知ってるのは違う」


 真昼は、一瞬だけ黙った。


 自分がかつてレイに言った言葉だった。


 それを今、返されている。


「……御影くん、たまにすごく嫌なタイミングで成長するよね」


「褒めてる?」


「褒めてないけど、助かってる」


「難しい」


「人間は難しいの」


「それも君がよく言う」


「便利だから」


 二人は雨の中を歩く。


 坂道の下では、街の灯りが水たまりに揺れている。


 真昼は、もう一度だけ鞄に手を当てた。


 栞の硬さは、布越しには分からない。


 けれど、そこにあると分かる。


 天沢灯里。


 その名前は、もう完全に読めた。


 でも、名前を読んだからといって、その人を知ったことにはならない。


 知るためには、また資料を開かなければならない。


 旧新聞部室へ戻らなければならない。


 ノクターン書房にも、また来なければならない。


 店番の青年にも、いつかもう一度聞かなければならない。


 あなたの名前は、と。


 その時、自分は灯里のように待てるのか。


 それとも、真昼として踏み込むのか。


 答えはまだない。


 雨が傘を叩く。


 白い傘ではない。


 でも、雨音だけは同じだった。


 真昼は、その音の中で灯里の声を聞いた気がした。


 名前が怖いなら、今日は呼ばない。


 優しい声。


 少し迷った声。


 そして、もうひとつ。


 まだはっきり聞き取れない、最後の言葉。


 私の名前は――。


 真昼は、その先を知っている。


 天沢灯里。


 雨の中で、その名前を胸の内側にもう一度書いた。


 消えないように。


 自分の名前とは別の場所に。


 彼女の名前として。

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