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第一章 記事のあとに消える名前

 白瀬真昼の記事は、雨が上がった翌日の夜から読まれ始めた。


 最初は、数十件だった。


 深夜零時を過ぎた頃には、百件を越えた。


 朝になった時には、アクセス解析の折れ線グラフが、いつもの《アガルタ観測録》とは別のサイトのような形になっていた。


 旧新聞部室の古いノートパソコンは、朝から何度も短いファンの音を立てている。校舎の隅にあるこの部屋には、今も正式な鍵がない。立てつけの悪い扉、埃の匂い、壁に貼られた古い地図、剥がれかけた事件年表、色褪せた学院新聞、壊れかけのプリンター。窓の外では、雨上がりの校庭に薄い霧が残っていた。


 机の上には、昨夜から置きっぱなしのコンビニのおにぎりがある。


 開封されていない。


 隣には飲みかけのペットボトルの緑茶。


 さらにその横には、真昼のメモ帳が三冊、開かれたまま重なっている。


 ページの端には、何度も同じ名前が書かれていた。


 エミー・グレイス・ハーパー。


 Emmy Grace Harper.


 エミー。


 ひらがなではなく、片仮名でもなく、英字でもなく、時々、ただ星形の記号だけが描かれているページもある。真昼は記事を書きながら、彼女の壊れかけた星形ピアスのことを何度も思い出していた。


 記事のタイトルは、予定どおりだった。


 エミー・グレイス・ハーパーは、ここにいた


 その下に、昼のクラブ《ミラー・ルージュ》の写真がある。


 赤いネオンの消えた看板。

 水たまりに反転する店名。

 古い裏口。

 狭い控え室の鏡。

 赤いヒールの修理痕。

 ダンサーたちの証言。

 舞台を降りる時、最後まで背中を丸めないこと。


 真昼は、殺害の瞬間を書かなかった。


 黒い傘のことも、旧地下鉄のことも、御影レイのことも、黒江透子のことも書かなかった。


 書いたのは、エミーが踊っていたこと。


 右膝を痛めていたこと。


 新人にステップを教えていたこと。


 店を出ようとしていたこと。


 明日から、自分の名前で踊ろうとしていたこと。


 記事は、思ったよりも静かに広がった。


 炎上と呼ぶほどではない。


 けれど、反応は優しくなかった。


 コメント欄は、朝からずっと更新され続けている。


 真昼は椅子に膝を抱えて座り、画面を見つめていた。


 栗色の髪は、いつものようにポニーテールにしているが、結び方が少し雑だった。制服の袖は捲られている。カメラストラップは首から外され、机の端に置かれていた。琥珀色の目だけが、画面の文字を追っている。


 コメントが流れる。


 被害者の私生活を掘るな。


 そっとしておいてやれよ。


 こういう記事、結局アクセス稼ぎだろ。


 名前を書いてくれてありがとう。


 昔、ミラー・ルージュに行ったことがある。金髪のダンサーを覚えている。たぶんこの人だった。


 エミーのステージを見た。笑っていた。ずっと笑っていた。


 外国人ダンサーだからって、雑に扱われていたと思う。


 こういうの、遺族の許可取ってるの?


 事件の詳細が知りたい。犯人は誰?


 殺された人の人生を、勝手に綺麗にまとめるな。


 記事を消さないでください。私も彼女のステージを見ました。


 真昼は、画面をスクロールする指を止めた。


 記事を消さないでください。


 その一文のところで、指が止まった。


 胸が少し痛む。


 書いてよかった、と思う気持ちがある。


 同じくらい、書いてしまった、と思う気持ちもある。


 エミーのことを、ただの被害者にしたくなかった。


 でも、エミーは記事にされたかっただろうか。


 名前を覚えてほしがっていた。


 それは、真昼が聞いた証言の中に確かにあった。


 けれど、だからといって、彼女の膝の痛みや、店を出ようとしていたことや、舞台裏の弱さまで書いてよかったのか。


 名前を残すことと、傷を晒すことは違う。


 母に何度も言われた言葉だった。


 黒江透子にも、似たようなことを言われた。


 名前を残すことと、すべてを晒すことは違います。


 分かっているつもりだった。


 分かっているつもりで、真昼は何度も書き直した。


 それでも、公開してしまったあとでは、自分が正しかったのかどうかは分からない。


 分からないまま、コメントは増える。


 旧新聞部室の扉が、きしんだ。


「生きてる?」


 御影レイが顔を出した。


 真昼は画面から目を離さずに答える。


「生きてる。病院でも確認されたし、御影くんにも何回も点呼されたし」


「点呼じゃない」


「白瀬、白瀬真昼、白瀬真昼さん、って呼び分けるのは点呼じゃなかったら何?」


「生存確認」


「余計に怖い」


 レイは部屋に入ってきた。


 黒に近い紺の制服をきちんと着ている。ネクタイも崩れていない。いつも通り、静かな顔をしている。雨上がりの光の中だと、その表情の少なさが余計に目立った。


 ただ、彼の手にはコンビニの袋があった。


 真昼はそちらを見る。


「差し入れ?」


「母さんから」


「佳乃さん?」


「真昼はどうせ食べてないだろうから持っていけって」


「完全に読まれてる」


 レイは袋を机に置いた。


 中にはサンドイッチと、温かい缶のカフェオレが入っていた。


 真昼はカフェオレを両手で包む。


「ありがたい。あとでお礼言わないと」


「食べてからにしろって言うと思う」


「佳乃さんっぽい」


 真昼はストローを刺し、カフェオレを一口飲んだ。


 甘かった。


 思ったより、身体がそれを欲しがっていた。


 レイは真昼の横ではなく、机の反対側の椅子に座った。画面を見る。真昼が開いているコメント欄ではなく、記事本文のほうだった。


 彼は黙って読み始める。


 真昼は、妙に落ち着かなくなった。


「何回目?」


「何が」


「それ、読むの」


「数えてない」


「御影くん、私の記事のアクセス数に貢献してるよ」


「監視してるだけ」


「読者って言うんだよ」


「監視対象の記事を読む人間は読者じゃない」


「読んでる時点で読者です」


「じゃあ、監視する読者」


「面倒な読者だなあ」


 真昼は少し笑った。


 笑うと、少し楽になる。


 でも、すぐに画面へ視線が戻ってしまう。


 コメント欄に、また新しい投稿がついた。


 死人で記事を書くな。


 真昼の肩がわずかに揺れた。


 レイはそれを見ていた。


「消す?」


 彼が聞いた。


「記事を?」


「コメント欄」


「ああ」


 真昼は少し考えた。


「荒らしは消す。でも、これは消さない」


「傷つくなら消せばいい」


「それを言われるのも、たぶん記事を書いた責任のうちだから」


「責任」


「そう」


 真昼は膝を抱え直した。


「名前を出すなら、その人の人生を背負う覚悟をしろって、父さんに言われたことがある」


「重いね」


「新聞記者だからね」


「君も似てる」


「嫌なところばっかりね」


「良いところも」


「今の間は何」


「考えてた」


「即答して」


「行動力」


「褒めてる?」


「たぶん」


「たぶん禁止」


 レイは返事をしなかった。


 その沈黙が、いつもより少し穏やかだった。


 真昼はサンドイッチの包みを開ける。卵サンド。佳乃の選択なのか、レイの選択なのか分からない。ひと口食べると、急に空腹を思い出した。


 レイは記事を最後まで読み、画面を閉じずにそのまま置いた。


「エミーの名前は消えてない」


 彼は言った。


 真昼は食べる手を止める。


「それを確認してたの?」


「うん」


「記事が消されないか?」


「名前が消されないか」


 その違いに、真昼は少し黙った。


 レイは続ける。


「黒い傘の人物は、名前を残すなと言った。なら、最初に狙うのは記事かもしれない」


「……私も、それは考えた」


「だから確認してる」


「毎時間?」


「もっと」


「怖いよ」


「怖いから見てる」


 真昼はレイを見た。


 彼は、いつも通り無表情に近かった。


 けれど、そこには確かな不安がある。


 エミーの名前が、再び消えること。


 真昼の記事が壊されること。


 真昼自身が、また狙われること。


 レイは、それを「怖い」と言った。


 以前の彼なら、たぶん言わなかった。


 真昼は、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。


 それを悟られたくなくて、わざと軽い声を出す。


「御影くん、読者登録する?」


「しない」


「通知来るよ」


「怖い」


「そこは怖いんだ」


「君の記事更新通知が夜中に鳴るのは怖い」


「確かに」


「自覚はあるんだ」


「あります」


 真昼は笑った。


 その時だった。


 ノートパソコンの画面が、一瞬だけちらついた。


 真昼の笑いが止まる。


 画面全体が白くなったわけではない。


 記事も、コメント欄も残っている。


 ただ、記事の下に貼っていた参考資料の小さなサムネイルが、数秒だけ灰色に滲んだ。


 レイが目を細める。


「今」


「見た」


 真昼はマウスに手を伸ばした。


 記事管理画面ではなく、資料フォルダを開く。


 そこには、エミーの記事を書くために撮影した資料写真が整理されていた。


 ミラー・ルージュ外観。

 控え室。

 赤いヒール。

 ダンスノートの許可済み複写。

 店の古いチラシ。

 夜見坂歓楽街の新聞記事。

 旧新聞部室で見つけた関連資料。

 ノクターン書房で撮影した学院新聞の一部。


 真昼は一枚ずつ開いていく。


 最初は何も変わっていなかった。


 エミー・グレイス・ハーパーの名前も読める。


 記事の題字も、写真の説明文も、ファイル名も残っている。


 けれど、旧新聞部室フォルダを開いたところで、真昼の指が止まった。


 画像のひとつ。


 古い学院新聞の一面を撮影したもの。


 エミーの記事とは直接関係が薄いが、真昼が「雨の少年」「黒い傘」「名前が欠ける事件」の背景を調べるために保存していた資料だった。


 ファイル名は、


 old_newsroom_archive_17.jpg


 真昼は画面を拡大した。


 そこには、小さな囲み記事がある。


 旧新聞部資料整理に関する短い記事。


 図書委員が協力し、過去の学院新聞と未整理資料を再分類したという内容。


 その中に、協力者名があった。


 撮影した時には、たしかこう読めた。


 天沢■■


 完全には読めなかった。


 でも、苗字だけは読めた。


 天沢。


 それが今は、違っていた。


 天■ ■■


 苗字の二文字目まで薄れている。


 真昼は息を止めた。


「……御影くん」


「見えてる」


「これ、前は天沢って読めたよね」


「うん」


「だよね」


 真昼は別の画像を開いた。


 卒業生名簿の一部。


 図書委員会の連絡ノート。


 古い貸出票の複写。


 いずれも、同じだった。


 天沢■■。


 そのはずだった文字が、さらに薄くなっている。


 天■ ■■。


 あるいは、■■ ■■。


 デジタル画像の劣化ではない。


 ピントの問題でもない。


 画像の周囲の文字は読める。


 日付も、見出しも、本文も、ほかの生徒名も変わっていない。


 消えているのは、その名前だけだった。


 真昼の背筋に冷たいものが走る。


「紙のほう」


 彼女は椅子から立ち上がった。


「紙のほう確認する」


「待て」


「待てない」


「落ち着け」


「落ち着いてる」


「落ち着いてない人の返事」


「うるさい」


 真昼は旧新聞部室の奥へ向かった。


 壁際に積まれた段ボール箱。


 その上に、紐で縛られた古い学院新聞の束。


 足元には、彼女が作った分類ラベルが貼られている。


 失踪・行方不明。

 旧地下鉄。

 境界観測局疑い。

 学院新聞部。

 図書委員会。

 名前欠落。


 レイは無言でついてきた。


 真昼は「図書委員会」と書かれた箱を引き出す。埃が舞った。くしゃみが出そうになるのをこらえ、箱を開ける。


 中には、透明なクリアファイルがいくつも入っていた。


 彼女は迷わず一冊を取り出す。


 ファイルの背には、自分の字で書いたラベル。


 旧新聞部資料整理/図書委員協力/天沢■■


 そのラベルを見た瞬間、真昼の喉が詰まった。


 自分の字だ。


 自分で書いたラベルだ。


 昨日までは、確かに読めた。


 少なくとも「天沢」までは。


 今、ラベルの二文字目が薄くなっている。


 インクが消えたのではない。


 紙の表面ごと、文字の意味が抜け落ちているように見える。


 真昼はファイルを開いた。


 古い新聞切り抜き。


 図書委員会の連絡票。


 旧新聞部の資料整理カード。


 学院新聞の縮刷版からコピーしたページ。


 それらをめくっていく。


 名前が薄い。


 どれも。


 同じ場所だけ。


 天沢■■。


 いや、もうそう読めない。


 天■ ■■。


 真昼は、指先が冷えていくのを感じた。


「何で……」


 声が震える。


「何で、今さら」


「君の記事に反応した」


 レイが言った。


「たぶん」


「エミーさんの記事?」


「名前を残したから」


「じゃあ、私が書いたから?」


 真昼は振り返った。


「私が記事にしたから、この人の名前が消え始めたの?」


「因果は分からない」


「でも、関係あるよね」


「あると思う」


「じゃあ、私が余計なことをしたから」


「違う」


 レイの声が、少し強くなった。


 真昼は黙った。


 レイは、真昼を真っ直ぐに見ていた。


「消しているのは君じゃない」


「でも、きっかけは」


「きっかけと犯人は違う」


 その言い方は、黒江透子に少し似ていた。


 真昼は、思わず苦い顔をする。


「御影くん、黒江さんみたい」


「最悪だ」


「でも、ちょっと助かった」


「ならいい」


 真昼は深く息を吸った。


 埃と古紙の匂いが肺に入る。


 落ち着け。


 書いたのは自分。


 消しているのは別の誰か。


 今できることは、残っているうちに確認すること。


 彼女はファイルの中身をもう一度めくった。


 その時、紙と紙の間から、何かが滑り落ちた。


 小さな音。


 ちり、と床に銀色が跳ねた。


 真昼は動きを止めた。


 レイも視線を落とす。


 床に落ちていたのは、銀色のヘアピンだった。


 細い、飾り気のないヘアピン。


 ただ、光の角度で白く見える。


 真昼は、息を呑んだ。


 見覚えがあった。


 あるはずがない。


 見たことはない。


 でも、知っている。


 雨の日に前髪を留めるために使う。


 髪が広がるから。


 資料を読む時に、前髪が邪魔だから。


 白い折りたたみ傘を畳む時、傘の骨に引っかからないように、右側だけ留め直す。


 そんな細かな感覚が、まるで自分の記憶のように胸の奥へ浮かんだ。


「触るな」


 レイが言った。


 真昼の指は、すでに伸びていた。


「白瀬」


「……大丈夫」


「大丈夫じゃない人は、触る前に大丈夫って言う」


「御影くんもよく言う」


「だから分かる」


 真昼は笑おうとした。


 笑えなかった。


 銀色のヘアピンから、目が離せない。


 触らなければいけない。


 なぜか、そう思った。


 これは証拠品かもしれない。


 勝手に触ってはいけない。


 黒江透子なら、そう言う。


 霧生仁なら、黄色いテープは飾りじゃないと怒る。


 分かっている。


 それでも。


 これは、誰かがここへ置いたのではない。


 誰かが残した。


 そんな気がした。


 真昼は、床に膝をついた。


「白瀬」


 レイがもう一度呼ぶ。


 その声は、制止というより確認だった。


 真昼はヘアピンへ指を伸ばす。


 金属は冷たかった。


 触れた瞬間、旧新聞部室の床が消えた。


     *


 雨。


 坂道。


 白い折りたたみ傘。


 古い本の匂い。


 窓際の席。


 コーヒーの湯気。


 木製のカウンター。


 黒いカーディガンの青年。


 丁寧な手つきで、古い新聞の束を置く指。


 名前を聞いてもいいですか。


 必要ですか。


 胸が痛む。


 相手を傷つけた。


 そう思う。


 名前が怖いなら、今日は呼ばない。


 青年の顔から表情が消える。


 雨音が止まる。


 優しい人は、いちばん残酷です。


 白い傘。


 黒い傘。


 水たまりに沈む銀色。


 天沢――


     *


 真昼は息を吸い込んだ。


 旧新聞部室へ戻ってきた瞬間、身体が大きく揺れた。


 倒れそうになる。


 レイが腕を掴んだ。


「白瀬!」


 彼の声が近い。


 真昼は、何度も瞬きをした。


 視界が戻る。


 古い机。

 埃っぽい床。

 開いたファイル。

 レイの顔。

 自分の手の中の銀色のヘアピン。


 心臓が激しく鳴っていた。


 喉の奥が冷たい。


 雨の匂いがする。


 部屋の中なのに。


「今、何を見た」


 レイが聞いた。


 真昼は、すぐには答えられなかった。


 言葉が、自分のものになるまで少し時間が必要だった。


「ノクターン書房」


 ようやく、それだけ言う。


 レイの目が鋭くなる。


「店番の青年?」


「いた」


「名前は」


「分からない」


「黒い傘は」


「見た」


 真昼はヘアピンを握りしめた。


 手が震える。


「白い傘も。古書店。窓際。古い新聞。名前を聞けなかった青年。黒い傘」


「殺されるところは」


「見てない」


「痛みは」


「ない」


「なら、記憶じゃない?」


 レイが自分に問いかけるように言った。


「少なくとも、僕が受け取るものとは違う」


「御影くん、見えなかったの?」


 真昼が聞く。


 レイは、真昼の手元のヘアピンを見た。


「見ようとした」


「うん」


「君に触れた瞬間、何かが開くかと思った」


「開かなかった?」


「開かない」


 レイは眉を寄せた。


「君の中にあるものが、僕には見えない」


 その言葉に、真昼の胸がざわついた。


 レイに見えない。


 エミーの記憶を見た彼に。


 倉科悠斗の痛みを受け取った彼に。


 死者の恐怖も、加害者の手触りも、自分の中に流れ込んでしまう彼に。


 それでも、今の真昼の中に入ったものは見えない。


 では、これは何なのか。


 誰のものなのか。


「これ」


 真昼はヘアピンを見つめた。


「私の記憶じゃない」


 口に出した瞬間、少しだけ震えが収まった。


 そうだ。


 これは私の記憶ではない。


 私は白い傘を持ってノクターン書房へ行っていない。


 私は、あの青年に「名前が怖いなら」なんて言っていない。


 私は、銀色のヘアピンを使ったこともない。


 でも。


「でも、私の中にある」


 真昼は続けた。


「知らないはずなのに、知ってる。行ったことがあるみたいに。言ったことがあるみたいに。傷つけたことがあるみたいに」


 レイは黙って聞いていた。


 真昼は、ヘアピンを机の上に置いた。


 指を離すのに、少し勇気がいった。


 離した瞬間、胸の奥から何かが引き剥がされるような感覚がした。


 それでも、彼女は手を離した。


「この人」


「この人?」


「天沢■■」


 真昼は、薄れている資料を見た。


「たぶん、この人だと思う」


「根拠は」


「ない」


「ないのか」


「でも、ある」


「矛盾してる」


「分かってる」


 真昼は自分でも苦笑した。


「でも、そういう感じ。資料の名前が薄れてるのと、このヘアピンと、さっき見えた白い傘。全部、同じところへ向いてる」


「天沢■■」


 レイが、その欠けた名前を口にした。


 部屋の空気が、わずかに冷えた。


 真昼は思わず肩を抱く。


「今、寒くなった?」


「うん」


「呼んだから?」


「分からない」


「でも、呼ばないと消える」


 真昼は言った。


 ほとんど反射だった。


 言ってから、自分の言葉に少し怖くなる。


 呼ばないと消える。


 誰の言葉だろう。


 自分のものか。


 父の言葉か。


 母の言葉か。


 エミーの記事を書いた時に自分で決めたことか。


 それとも、さっき見えた白い傘の少女のものか。


 レイは机の上のヘアピンを見ていた。


「黒江さんに連絡する」


「待って」


「何」


「怒られる」


「怒られる前提なのか」


「証拠品っぽいものを触った」


「触ったね」


「止めたよね」


「止めた」


「止めきれなかったって言って」


「嘘は混ぜるなって霧生さんに言われてる」


「そこは律儀」


「君が怒られればいい」


「ひどい」


 真昼は少し笑った。


 笑った途端、緊張が戻ってきた。


 黒江透子へ連絡する。


 そうすれば、これはもう真昼だけの問題ではなくなる。


 捜査になる。


 観測になる。


 記録になる。


 それでいい。


 むしろ、そうしなければいけない。


 だが、胸のどこかが、それを拒んでいた。


 このヘアピンは、誰かがそっと残したものだ。


 警察の証拠袋へ入れられるべきものなのか。


 それとも、名前を呼んでくれる人へ届くべきものなのか。


 真昼は、机の上の銀色を見つめた。


「御影くん」


「何」


「もし、私が変なこと言い始めたら、名前呼んで」


「いつも変なこと言ってる」


「そういうのじゃなくて」


「分かってる」


 レイは、いつもより少しだけ柔らかい声で言った。


「白瀬真昼って呼べばいい?」


「うん」


「分かった」


「あと、真昼でもいい」


「それは嫌」


「何で」


「慣れてない」


「慣れて」


「検討する」


「検討じゃなくて」


 真昼が言いかけた時、ノートパソコンが再び小さく鳴った。


 新着コメントの通知。


 真昼は画面へ戻った。


 エミーの記事に、新しいコメントがついている。


 投稿者名は空白。


 本文は、一行だけだった。


 ――次は、彼女の名前が消える。


 真昼の背中が冷えた。


 レイが横から画面を見た。


 彼の表情が、完全に消える。


 感情がないのではない。


 感情が一瞬で奥へ押し込まれた顔だった。


「誰のこと」


 真昼は呟いた。


 答えは、すぐそこにあった。


 机の上には銀色のヘアピン。


 開かれた古い資料。


 さらに薄くなっていく名前。


 天■ ■■。


 レイはスマホを取り出した。


「黒江さんに連絡する」


 今度は、真昼も止めなかった。


 ただ、画面の空白投稿を見つめたまま、ヘアピンへそっと手を伸ばす。


 触れない。


 触れずに、見た。


 自分の記憶ではない。


 でも、自分の中にある。


 白い傘。

 古書店。

 名前を聞けなかった青年。

 黒い傘。


 そして、まだ読めない名前。


 真昼は、胸の奥でその欠けた音を探した。


 天沢――。


 その先は、まだ雨に滲んでいた。

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