序章 白い傘の少女
雨の日には、本の匂いが濃くなる。
天沢灯里は、それを悪いことだと思っていなかった。
湿気を吸った紙は、少しだけ呼吸をしているように感じる。古い新聞は、乾いた日にはただの束なのに、雨の日にはそこに刷られた文字の奥から、当時の空気まで滲み出してくる。誰かが記事を書いた時の焦り。誰かが名前を載せるかどうか迷った沈黙。誰かが切り抜いて、忘れないように封筒へ入れた指先の温度。
灯里は、そういう気配が好きだった。
けれど、好きだからこそ、怖いとも思っていた。
紙は何でも覚えているように見えて、簡単に失う。
雨粒ひとつで、インクは滲む。
人の名前は、たった一文字欠けるだけで、誰のものだったのか分からなくなる。
坂道の途中にある古書喫茶《ノクターン書房》は、雨の日にいちばん静かになる店だった。
午後五時を少し過ぎた頃、灯里は白い折りたたみ傘を閉じた。傘の端から落ちた雨粒が、店先の石畳に小さな輪を作る。彼女は鞄から淡い水色のハンカチを取り出し、傘の骨に残った水滴を丁寧に拭った。
本棚のそばに濡れた傘を置いてはいけない。
紙は濡れると、まず角から傷む。
そのあと背が膨らむ。
糊が弱り、頁が波打ち、やがて文字が滲む。
灯里は一度、図書委員会の後輩にそんな話をして、少し笑われたことがある。
天沢先輩、本に対して過保護すぎます。
そう言われた。
灯里は否定しなかった。
人より本の扱いのほうが上手なのは、たぶん本当だった。
彼女は濡れた前髪を指で整え、右側だけ銀色のヘアピンで留め直した。大きな飾りではない。細く、控えめで、光の角度によってだけ白く見えるヘアピンだった。図書館のカウンターに座っていても邪魔にならないもの。旧新聞部室で埃だらけの箱を開ける時にも、前髪が落ちてこないもの。
それが、彼女の小さなこだわりだった。
扉を開けると、鈴が鳴った。
高すぎず、低すぎず、雨の日のガラス窓に似た音。
店内には、コーヒーと古紙の匂いが満ちていた。
壁一面の本棚。古い郷土史。廃線になった地下鉄の記念誌。学院新聞の製本版。郷土資料の私家版。誰が買うのか分からない古い写真集。絶版になった市史の別冊。演劇のパンフレット。手書きのラベルが貼られた紙箱。
奥の窓際の席では、雨粒がガラスを伝っていた。
灯里は、その席を少しだけ見る。
初めて来た時から、あの席が気になっていた。
外の坂道が見える。
雨の日には、人の傘だけが通り過ぎる。
黒、紺、透明、赤、子供用の黄色。
人の顔は見えない。
傘だけが、まるで名前の代わりみたいに流れていく。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうから、青年が顔を上げた。
黒髪の青年だった。
年齢は、灯里より少し上に見える。二十歳前後か、もう少し上かもしれない。白いシャツに黒いカーディガン。店のエプロンをしている。手元には、古い本の補修道具が並んでいた。
声は穏やかだった。
雨音を邪魔しない声。
大きくも小さくもなく、聞き取りやすいのに、記憶に強く残りすぎない声。
「こんにちは」
灯里は小さく頭を下げた。
「先日お願いしていた資料、見せていただけますか」
「旧地下鉄事故記録と、アガルタ学院の名簿関係ですね」
「はい。あと、できれば学院新聞の欠号分も」
「ご用意してあります」
青年は、当たり前のようにそう言った。
灯里は少し驚いた。
「早いですね」
「雨の日は、探し物が見つかりやすいので」
「そうなんですか?」
「ええ」
青年は微笑んだ。
「晴れの日には棚の奥で眠っているものが、雨の日には少しだけ手前へ出てくることがあります」
「本がですか」
「本も、記録も」
灯里は一瞬、返事に迷った。
冗談なのか、本気なのか分からない。
ただ、この店では、そういう言い方が不思議と似合った。
「では、雨の日に来て正解でした」
「そうですね」
青年はカウンターの奥へ向かった。
歩く時に、床板がほとんど鳴らない。
本棚の間をすり抜ける姿は、店員というより、店そのものが人の形をして動いているみたいだった。
灯里はカウンター脇の閲覧席へ座った。
白い折りたたみ傘は、布製の傘袋に入れて椅子の足元へ置く。鞄からノート、鉛筆、付箋、薄い手袋を取り出す。ボールペンは使わない。古い資料の近くでは、インクの強い筆記具は怖かった。
ノートの表紙には、小さく名前を書いている。
天沢灯里。
何度も書いた名前なのに、時々、知らない文字に見えることがある。
特に最近はそうだった。
古い名簿を見ていると、名前の一部が滲んでいる記事に出会う。
卒業生名簿。
事故記録。
失踪者欄。
旧新聞部の整理カード。
文字の欠け方は、紙の劣化だけでは説明できない。
ほかの部分は読めるのに、人の名前だけが、まるで誰かの指でこすられたように黒く滲む。
それを見るたび、灯里は胸の奥が冷えた。
人は、二度いなくなるのかもしれない。
一度目は、姿が消えた時。
二度目は、名前が読めなくなった時。
青年が資料を運んできた。
最初に置かれたのは、古い学院新聞の製本版だった。布張りの表紙は角が擦り切れ、背の金文字は半分ほど消えている。
次に、旧地下鉄に関する新聞切り抜き。
封筒に分けられていた。
漏水事故。
閉鎖区画。
作業員負傷。
地盤沈下。
転落事故。
名前欠損。
最後のラベルを見て、灯里は手を止めた。
「名前欠損、ですか」
「この店での便宜上の分類です」
青年は椅子の向かいに立ったまま、静かに答えた。
「古い資料には、そういうものがありますから」
「人の名前だけが欠けているもの?」
「ええ」
「多いんですか」
「少なくはありません」
青年の声は淡々としていた。
だが、その言葉は灯里の胸を重くした。
少なくはない。
つまり、灯里が旧新聞部室で見つけたものは偶然ではない。
この街には、名前が欠ける記録がいくつもある。
「どうして欠けるんでしょう」
灯里は聞いた。
「紙の劣化でしょうか」
「そういう場合もあります」
「そうではない場合も?」
青年は微笑んだ。
答えではなく、答えを避けるための微笑みだった。
「天沢さんは、どう思いますか」
灯里は少し驚いた。
「私の名前、覚えていたんですね」
「貸出票に書かれていましたから」
「でも、前に一度しか」
「名前を扱う仕事では、覚えておいたほうがよいこともあります」
「古書店も、名前を扱う仕事ですか」
「本には、たいてい誰かの名前が関わっています」
青年は、製本版の上に白い布手袋を置いた。
「著者、編者、発行者、寄贈者、貸出者、持ち主。時には、行方不明者も」
灯里は、その言葉に一瞬だけ目を伏せた。
「そうですね」
「どうぞ。必要なものがあれば、追加で出します」
「ありがとうございます」
青年はカウンターへ戻ろうとした。
灯里は思わず声をかけた。
「あの」
「はい」
「あなたのお名前を、聞いてもいいですか」
青年の足が止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、灯里には分かった。
店内の雨音が、一拍だけ止まったように感じる。
窓の外では、雨粒が変わらず落ちている。
なのに、空気だけが凍った。
青年は振り返った。
顔には、いつもの微笑みがある。
「必要ですか」
穏やかな声だった。
責めているわけではない。
拒絶しているわけでもない。
ただ、質問を質問で返しただけ。
それなのに、灯里の胸は少し痛んだ。
必要ですか。
名前を聞くことに、必要があるのか。
誰かを呼ぶため。
貸出票へ記録するため。
お礼を言うため。
次に来た時に、同じ人か確かめるため。
理由はいくつもある。
けれど今、灯里が聞きたいと思った理由は、そのどれとも少し違っていた。
この人には、名前がないのではない。
名前を避けている。
そう感じたからだった。
灯里は、鉛筆を握る指に力を込めた。
「すみません。失礼でしたか」
「いいえ」
「ただ、いつも資料を出していただいているのに、私だけ名前を呼ばれていて、少し不公平かなと思って」
「不公平」
青年は、その言葉を舌の上で転がすように繰り返した。
「面白い言い方ですね」
「変でした?」
「いえ」
青年は微笑む。
「名前は、呼ばれると重くなることがあります」
灯里は、少しだけ息を呑んだ。
その言葉は、冗談ではなかった。
「重いんですか」
「時々」
「怖い?」
聞いてから、灯里はしまったと思った。
踏み込みすぎた。
相手が何を隠しているのかも分からないのに。
名乗らない理由には、いろいろある。
過去を隠したい人。
家族の事情がある人。
職場上の立場がある人。
ただ単に、客に名乗る必要がないと思っている人。
名前を怖がっていると決めつけるのは、灯里の思い込みかもしれない。
けれど、青年の表情が消えた。
ほんの一瞬。
微笑みも、穏やかさも、店番としての丁寧な距離も消えて、そこに真っ白な空白だけが現れた。
灯里は、背筋が冷えるのを感じた。
怖がらせた。
そう思った。
「あ、すみません。今のは」
「いいえ」
青年はすぐに元の顔へ戻った。
けれど、戻り方が滑らかすぎた。
雨で濡れた硝子を、内側から拭き取ったように。
灯里は、言葉を探した。
相手の名前を知りたい。
でも、傷つけたくない。
記録したい。
でも、暴きたいわけではない。
彼女は小さく息を吸った。
「名前が怖いなら、今日は呼ばない」
言ってから、自分でも少し驚いた。
そんな言い方をするつもりではなかった。
けれど、それが一番近かった。
今すぐ教えてくれなくていい。
名乗りたくないなら、今日は聞かない。
でも、あなたに名前があることまでは否定しない。
そう言いたかった。
青年は、何も言わなかった。
雨音が店内へ戻る。
窓の外を、黒い傘がひとつ通り過ぎた。
灯里は、青年の顔を見ていられなくなって、慌てて頭を下げた。
「すみません。変なことを言いました」
「変ではありません」
青年の声は、とても静かだった。
灯里は顔を上げる。
青年は微笑んでいた。
ただ、その微笑みはさっきまでと少し違っていた。
優しいようで、遠い。
遠いようで、どこか傷ついている。
「優しい人は、いちばん残酷です」
灯里は、言葉を失った。
その一文は、彼女を責めているようにも、誰か別の人へ向けられているようにも聞こえた。
「私、残酷なことを言いましたか」
「分かりません」
「分からないんですか」
「ええ」
青年は、古い資料の束をそっと整えた。
「残酷かどうかは、言った人ではなく、言われた人の傷の場所で決まるので」
灯里は、返事ができなかった。
青年は一礼し、今度こそカウンターへ戻った。
残された机の上には、旧地下鉄事故記録と、名前が欠けた学院名簿がある。
灯里はしばらく手を動かせなかった。
雨音がする。
コーヒーの香りがする。
古い本のページが、湿気を吸ってわずかに波打っている。
彼女は、自分のノートを開いた。
鉛筆を持つ。
書き始める前に、もう一度だけカウンターの青年を見た。
彼は、何事もなかったように本を補修していた。
名前を聞かれたことなど忘れたように。
けれど、灯里には分かった。
忘れていない。
忘れられる人の反応ではなかった。
灯里はノートの端に小さく書いた。
ノクターン書房の店番の青年。
名前を聞くと、必要ですか、と聞き返す。
名前を呼ばれることを怖がっている可能性。
ただし、断定しない。
断定しない。
その言葉に、灯里は線を引いた。
記録することと、決めつけることは違う。
彼女はそう思っていた。
少なくとも、その時は。
*
旧地下鉄事故記録の束は、思ったより重かった。
灯里は一枚ずつ確認していった。
古い市内紙の切り抜き。
作業員負傷。
漏水点検。
閉鎖区画補修。
案内表示誤認。
立入禁止区域の封鎖強化。
外部委託作業員転落事故。
最後の記事で、灯里の指が止まる。
紙面の下のほうに小さく載った記事だった。
閉鎖された旧地下鉄区画で点検作業中の外部委託作業員が転落し、搬送先で死亡が確認された。都市交通局は安全管理体制を見直すとしている。
短い。
あまりにも短い。
人がひとり死んだのに、記事は数行で終わっている。
問題は、その名前だった。
古河 千■
最後の一文字が読めない。
灯里はルーペを取り出した。
紙の繊維を覗く。
滲み方がおかしい。
古い紙なら、湿気で周囲の文字も崩れるはずだ。だが、役職名も、住所も、都市交通局のコメントも読める。読めないのは、名前の最後だけだった。
灯里はノートに書いた。
古河 千■。
旧地下鉄閉鎖区画。
外部委託作業員。
事故死扱い。
名前の最後だけ欠損。
書きながら、胸が少し苦しくなった。
知らない人だ。
会ったこともない。
けれど、名前が欠けているだけで、その人がもう一度死にかけているように感じた。
次に、学院名簿を開く。
図書委員会の古い名簿。
自分の在学時代より少し前のもの。
手書きの修正、欠席記録、資料整理当番、旧新聞部室の鍵当番。
そこにも名前の欠けた欄があった。
真木 彼■。
灯里は息を止めた。
さっきの事故記事とは違う。
この名前は、何度か別の資料でも見た。
保健室搬送記録。
旧校舎立入記録。
境界観測局への照会票。
ただし、いつも名前の最後が読めない。
それを偶然と呼ぶには、もう無理があった。
灯里はノートへ書き写そうとした。
真木 彼■。
書いた瞬間、鉛筆の芯が折れた。
ぱきり、と小さな音。
灯里はびくっとした。
カウンターの青年が顔を上げる。
「大丈夫ですか」
「あ、はい。鉛筆が折れただけです」
「替えをお持ちしましょうか」
「大丈夫です。あります」
灯里は筆箱から別の鉛筆を取り出した。
指先が少し震えている。
なぜ震えているのか、自分でも分からなかった。
ただ、名前を書く時に、紙の向こうから誰かがこちらを見たような気がした。
名前を書かないで。
いや。
名前を忘れないで。
相反する二つの声が、同時に聞こえた気がした。
灯里は深く息を吸った。
記録する。
決めつけない。
でも、残す。
彼女はノートへ、もう一度書いた。
真木 彼■。
境界観測局関係の可能性。
要調査。
名前の欠損が複数資料で一致。
そこまで書いて、手を止める。
視線を感じた。
カウンターの青年が、こちらを見ていた。
灯里と目が合うと、青年は微笑んだ。
穏やかに。
何も知らないように。
でも、灯里には分かった。
彼は、今の名前に反応した。
真木 彼■。
その欠けた名前に。
「この名前を、知っていますか」
灯里は聞きそうになった。
だが、聞けなかった。
さっき青年の名前を聞いた時の、あの一瞬の空白が蘇る。
名前は傷の場所で変わる。
灯里は、鉛筆を置いた。
今日は聞かない。
まだ。
そう決めた。
*
閉店時間が近づく頃、店内の客は灯里だけになっていた。
雨は弱まらない。
むしろ、夜が近づくにつれて音が深くなっていく。窓の外の坂道は薄暗く、街灯の光が雨粒を細く照らしている。傘を差した人影が時々通るが、顔は見えない。
灯里は資料を返す前に、最後のページを確認した。
学院新聞の小さな記事。
図書委員会による旧新聞部資料整理完了のお知らせ。
そこに、自分の名前が載っていた。
天沢灯里。
小さな文字。
けれど、確かに読める。
灯里は、少しだけ安心した。
自分の名前は、まだ欠けていない。
そう思ってしまったことに、すぐ罪悪感が湧く。
まだ、という言葉を使った時点で、自分もいつか欠ける可能性を想像している。
彼女はノートの最後のページを開いた。
そして、ゆっくり書いた。
天沢灯里。
私は、この名前を残す。
自分で書いた文字を見て、少し照れた。
大げさかもしれない。
誰に見せるわけでもない。
ただの高校卒業生で、図書委員で、資料整理が好きで、名前の欠けた記事が気になってしまうだけの人間が書くには、少し重い言葉かもしれない。
でも、書かずにはいられなかった。
灯里は資料を整え、カウンターへ運んだ。
「ありがとうございました。とても助かりました」
「何か見つかりましたか」
青年が聞く。
灯里は少し迷った。
「見つかったというより、分からないことが増えました」
「調べ物としては、よい状態ですね」
「そうなんですか」
「分からないことが増えるのは、近づいている証拠です」
「近づきたくないものだったら?」
青年は手元の資料を受け取り、束を整えた。
「その場合も、近づいている証拠です」
灯里は苦笑した。
「怖い言い方ですね」
「すみません」
「いえ。たぶん、合っています」
青年は資料を箱へ戻す。
その手つきは丁寧だった。
名前が欠けた人たちの記録を、壊さないように扱っている。
その姿を見ていると、彼が記録を消す側には見えなかった。
けれど、記録を守る側だとも、なぜか言い切れなかった。
「また来てもいいですか」
灯里が聞く。
「もちろん」
「次は、もう少し古い学院名簿を見たいです。あと、旧地下鉄の閉鎖区画図。できれば、都市交通局の報告書の写しも」
「探しておきます」
「ありがとうございます」
灯里は頭を下げた。
傘袋から白い折りたたみ傘を取り出す。
店の扉へ向かう途中、青年が声をかけた。
「天沢さん」
自分の名前を呼ばれて、灯里は振り返った。
「はい」
青年はカウンターの向こうで、少しだけ言葉を探すように黙った。
「名前を残すことは、時々、人を傷つけます」
灯里は、静かに聞いた。
「それでも、残しますか」
その問いは、脅しではなかった。
たぶん、本当に聞いていた。
灯里は白い傘を握ったまま、少し考えた。
「残さないほうが、その人を守れる時もあると思います」
「ええ」
「でも、消されたままにすることが、守ることになるとは思えません」
青年の目が、ほんの少しだけ揺れた。
灯里は続けた。
「私は、名前を暴きたいわけじゃありません。ただ、誰かがその名前で生きていたなら、それをなかったことにはしたくないんです」
「優しいですね」
「また残酷って言いますか」
「言うかもしれません」
青年は微笑んだ。
それは、少しだけ悲しそうな微笑みだった。
「それでも、ありがとうございました」
「何がですか」
「今日は、呼ばないでいてくれて」
灯里は、胸の奥が痛くなった。
この人は、本当に名前が怖いのだ。
名前を呼ばれること。
名前を聞かれること。
名前がそこにあると認められること。
それが、彼にとっては痛みなのだ。
「いつか」
灯里は言った。
「呼んでもいい日が来たら、教えてください」
青年は答えなかった。
ただ、店の鈴が鳴るまで、灯里を見送っていた。
*
外へ出ると、雨は思ったより強かった。
夜の坂道は、街灯の光を吸って黒く光っている。水たまりにはノクターン書房の窓明かりが揺れ、扉が閉まると、その光も少し遠くなった。
灯里は白い傘を開いた。
傘の内側に、雨音が柔らかく響く。
帰り道は慣れている。
坂を下り、古い商店街を抜け、旧地下鉄の換気口がある角を曲がり、学院の裏手へ出る。そこから旧校舎の近くを通れば、図書館分室へ寄ることもできる。
今日は分室へは寄らないつもりだった。
遅くなりすぎる。
それに、ノートを整理したい。
古河 千■。
真木 彼■。
名前を言わない青年。
名前が怖いなら、今日は呼ばない。
優しい人は、いちばん残酷です。
書くべきことが多かった。
灯里は、傘を少し傾けて歩いた。
雨の日の坂道は、音が多い。
傘に当たる雨。
側溝を流れる水。
車のタイヤが水を跳ねる音。
遠くの地下鉄の振動。
どこかの店のシャッターが閉まる音。
その中に、別の音が混じった。
ぽたり。
地下から聞こえるような、水滴の音。
灯里は足を止めた。
目の前の路地に、黒い傘が立っていた。
誰かが差している。
そう見えた。
けれど、顔は見えない。
傘の下に人の気配はある。
黒いコートの裾らしきものも見える。
それなのに、顔のある場所だけが、雨の闇よりさらに黒く滲んでいた。
灯里は、白い傘の柄を握りしめた。
胸が痛む。
名前を聞いてはいけない。
そう思った。
同時に、聞かなければならないとも思った。
黒い傘の人物は、動かない。
路地の奥で、ただこちらを見ている。
灯里は一歩下がった。
白い傘の縁から、雨粒が落ちる。
ぽたり。
黒い傘の縁からも、水が落ちる。
ぽたり。
同じ音。
ノクターン書房の青年の顔が、ふと頭に浮かんだ。
名前を聞かれた時の、あの空白。
優しい人は、いちばん残酷です。
灯里は、声を出そうとした。
誰ですか。
そう言おうとした。
けれど、喉が動かない。
黒い傘の人物が、一歩だけ近づいた。
灯里の手から、白い折りたたみ傘が滑り落ちた。
傘は開いたまま、石畳の水たまりに倒れる。
白い布が雨に打たれ、すぐに泥水を吸った。
灯里はそれを拾おうとして、前髪が崩れたことに気づいた。
銀色のヘアピンが外れている。
いつ外れたのか分からない。
足元の水たまりに、小さな銀色の線が沈んでいた。
灯里は手を伸ばそうとした。
その指先が、雨水に触れる。
冷たい。
水たまりの中で、銀色のヘアピンが街灯を受けて一瞬だけ白く光った。
灯里の鞄から、ノートが半分だけ覗いている。
ページが雨に濡れ始めていた。
開かれた最後のページ。
鉛筆で書いた文字が、まだ滲まずに残っている。
天沢灯里。
私は、この名前を残す。
雨粒が、その文字の端に落ちた。
インクではない。
鉛筆だから、すぐには消えない。
けれど、紙は濡れる。
文字は薄くなる。
誰かが拾わなければ、やがて読めなくなる。
黒い傘が、灯里の視界を覆った。
悲鳴は、雨に吸われたのかもしれない。
あるいは、最初から出なかったのかもしれない。
路地には、白い傘だけが残った。
水たまりの中で、銀色のヘアピンが沈んでいく。
ノートの最後のページに、雨粒がもう一滴落ちた。
天沢灯里。
私は、この名前を残す。
その文字だけが、夜の雨の中で、しばらく消えずに残っていた。




